君主論

Il Principe

作者: ニッコロ・マキャヴェッリ

出版年: 1532年

訳者: gpt-4.1

概要: 本書はルネサンス期イタリアに生きた政治思想家ニッコロ・マキアヴェッリの生涯と思想を詳細に描く伝記的研究である。フィレンツェ共和国の官吏、外交官として多くの宮廷を訪れた彼の経験が、後の政治理論にどのように反映されたかを背景に、彼の青年期から官吏時代、投獄・追放後の文筆活動に至るまでの軌跡を辿る。特に『……

公開日: 2025-05-29

プリンス(君主論)

ニッコロ・マキャヴェッリ著

W. K. マリオットによる英訳


ニッコロ・マキャヴェッリは1469年5月3日にフィレンツェに生まれる。1494年から1512年まで、さまざまなヨーロッパの宮廷への外交使節を含むフィレンツェの公職に就く。1512年にフィレンツェで投獄され、その後追放されてサン・カッシャーノへ戻る。1527年6月22日、フィレンツェで死去。

序文

ニッコロ・マキャヴェッリは1469年5月3日、フィレンツェに生まれた。彼は、ある程度の名声を持っていた弁護士ベルナルド・ディ・ニッコロ・マキャヴェッリとその妻バルトロメア・ディ・ステファノ・ネッリの次男であった。両親ともに古くからのフィレンツェ貴族の家系であった。

彼の生涯は自然と三つの時期に分けられ、それぞれがフィレンツェ史において独特で重要な時代を成している。彼の青年時代は、ロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)の指導のもと、イタリアの大国としてのフィレンツェの繁栄と重なっていた。1494年、フィレンツェでメディチ家が失脚し、その年にマキャヴェッリは公職に就いた。彼の官僚時代、フィレンツェは共和国体制下で自由であったが、それも1512年にメディチ家が復帰したことで終わり、マキャヴェッリも職を失った。1512年から1527年まで再びメディチ家がフィレンツェを支配したが、この間はマキャヴェッリの文学活動が最も活発で影響力も増した時期である。しかし、彼はメディチ家が追放されてからわずか数週間後の1527年6月22日、58歳で亡くなった。結局、再び公職に返り咲くことはなかった。

青年期 1~25歳 1469-1494

マキャヴェッリの青年期について記録は少ないが、当時のフィレンツェの様子はよく知られており、彼のような市民がどのような環境で青春を過ごしたかは想像に難くない。フィレンツェは、熱烈で厳格なサヴォナローラに導かれる一派と、華美を愛するロレンツォに導かれる一派、二つの対照的な生き方が存在する都市と評されてきた。サヴォナローラのマキャヴェッリへの影響はわずかだったと思われる。というのも、サヴォナローラは一時はフィレンツェの運命を大きく左右したが、マキャヴェッリにとっては『君主論』で「武器を持たぬ予言者」として揶揄の対象とされるほどであった。一方、ロレンツォ存命中のメディチ家の華やかな支配体制はマキャヴェッリに強い印象を与えたようで、彼はたびたび著作の中でこの時代を振り返り、『君主論』もまさにロレンツォの孫に献呈している。

マキャヴェッリは『フィレンツェ史』の中で、自身が若き日々を過ごした青年たちの姿を描いている。「彼らは先祖たちよりも自由な服装や生活を好み、他のさまざまな享楽にふけって時間と金を浪費し、怠惰、賭博、女遊びに明け暮れていた。彼らの最大の関心は着飾ることと機知や鋭さで会話をすることであり、最も巧妙に他人を傷つける者が一番賢いと見なされたのだ」と記す。息子グイドへの手紙では、若者が学問に励むべき理由を語り、自身の若い頃もそうしていたことをほのめかしている。「君の手紙を受け取り、大変うれしかった。特に健康が回復したと聞き、これ以上の喜びはない。もし神が命を与えてくださるなら、そして君が努力すれば、私は君を立派な人間に育て上げたいと思っている」と書き、さらに新たな後援者についてこう続ける。「これは君にとって良い方向に進むだろう。ただし、勉強することが必要だ。もう病気という言い訳はできないのだから、書物や音楽の勉強に励みなさい。私のわずかな才能ですら、どれほど人々に尊敬されているかを見てごらん。だから、息子よ、私を喜ばせ、君自身の成功と名誉のために、正しく学びなさい。自分で自分を助けるなら他人も君を助けてくれるだろう。」

公職時代 25~43歳 1494-1512

マキャヴェッリの第二の人生は、1494年のメディチ家追放から1512年の復帰まで続いた自由なフィレンツェ共和国の奉仕に捧げられた。公職に4年間就いた後、彼は「自由と平和の十人委員会」の第二書記官兼秘書に任命された。この時期のマキャヴェッリの人生については、共和国の政令や記録、書簡、そして彼自身の著作が残されているため、詳細をたどることができる。当時の政治家や軍人とのやりとりをいくつか挙げるだけでも、彼の活動の幅広さと、『君主論』に現れる経験と登場人物の源泉が明らかとなる。

最初の重要な任務は1499年、君主論でも言及されるフォルリの貴婦人カテリーナ・スフォルツァへの使節であった。彼女の行動と運命から、要塞に頼るよりも民衆の信頼を得る方が遥かに重要である、という教訓を得た。この原則はマキャヴェッリの思想において非常に重要であり、繰り返し主張されている。

1500年には、フランス王ルイ12世のもとへ赴き、ピサ戦争継続のための条件を交渉した。この王こそが、イタリアでの政策運営において君主論が要約する五つの国政上の致命的な過ちを犯し、結果としてイタリアから追放された人物である。また彼は、アレクサンデル6世教皇への支援の条件として自身の結婚の解消を求めた。これについてマキャヴェッリは、君主が約束を守るべきだと主張する者に対し、君主の信義について書いた部分を参照すべきだとしている。

マキャヴェッリの公的生活は、教皇アレクサンデル6世とその息子チェーザレ・ボルジア(ヴァレンティーノ公)の野望に大きく関わった。これらの人物は君主論でも大きな位置を占めている。マキャヴェッリは躊躇なく公国を奪取した簒奪者の参考例として公爵の行動を引き合いに出し、チェーザレ・ボルジアのやり方ほど優れた教訓はないとまで評価している。そのため、チェーザレは『君主論』の「英雄」と評する批評家もいる。しかし実際には、チェーザレは他人の運に乗じて台頭し、それとともに没落した男として描かれている。あらゆる事態に備えたはずなのに、肝心の事態には備えず、すべての才能を駆使しながらも困難を乗り切れず、失意のうちに「これは自分のせいではなく、異常かつ予測不可能な運命のせいだ」と嘆いた。

1503年のピウス3世の死後、マキャヴェッリはローマへ赴き、後継教皇選出を傍観した。ここで彼は、チェーザレ・ボルジアがコンクラーベの選出をジュリオ・デッレ・ローヴェレ(ユリウス2世)に委ねてしまい、結果として自分を最も恐れる枢機卿を選ばせてしまった場面に立ち会った。この選挙についてマキャヴェッリは、「新たな恩恵が偉大な人物に過去の怨恨を忘れさせると考える者は、自分を欺いている」とし、ユリウス2世はチェーザレを滅ぼさずにはいなかったとする。

1506年には、ユリウス2世がボローニャ攻略の事業に着手した際、マキャヴェッリは彼のもとに派遣された。この事業が他の多くの冒険と同じく成功したのは、主に彼の激しい性格によるものであった。マキャヴェッリはユリウス2世に関して、運命と女性の類似点について述べ、両者を手に入れ、維持するのは慎重な人物よりも大胆な人物であると結論づけている。

1507年当時、イタリアの諸国はフランス・スペイン・ドイツの勢力下にあり、その影響はいまなお続いているが、ここではマキャヴェッリの人格に関わる出来事と三人の重要人物に限って言及する。彼はフランス王ルイ12世ともたびたび会見し、すでに述べたとおりその人物評を下している。アラゴン王フェルディナンドについては、宗教の仮面をかぶって偉業を為し遂げたが、実際には慈悲も信義も人道も誠実さも持たず、もしそうした動機に左右されていれば滅びていただろうと描いている。神聖ローマ皇帝マクシミリアンは当時最も興味深い人物の一人で、多くの者にその性格を描かれたが、1507‐8年に駐在使節となったマキャヴェッリは、彼を「秘密主義で意志薄弱、人間的な協力を度外視し、自分の意志の履行を徹底しない」として、数々の失敗の原因を明らかにしている。

マキャヴェッリの官僚生活の残りの年月は、1508年に教皇とともに三大国が締結した「カンブレー同盟」に起因する多くの事件で占められた。これはヴェネツィア共和国を撃滅するための同盟であり、ヴァイラの戦いでヴェネツィアは一日にして800年かけて得たものを失った。こうした事件の中、フィレンツェ共和国はフランスとの友好政策ゆえに複雑な立場に置かれた。1511年、ユリウス2世が最終的にフランスに対抗する神聖同盟を結成し、スイスの援助でフランスをイタリアから駆逐すると、フィレンツェは教皇の意のままに支配され、メディチ家の復帰を含む諸条件を飲まざるを得なかった。1512年9月1日にメディチ家がフィレンツェに帰還し、共和国が崩壊したことで、マキャヴェッリとその同志たちは職を追われ、公的生涯に終止符が打たれた。彼はその後、再び公職に復帰することなく亡くなった。

文学活動と晩年 43~58歳 1512-1527

メディチ家復帰後、マキャヴェッリは新たなフィレンツェの支配者のもとでわずかな期間、公職にとどまる望みを抱いていたが、1512年11月7日の政令で解任された。ほどなくして、メディチ家への反乱未遂に関与した容疑で投獄され、拷問を受けた。その後、新たなメディチ家出身の教皇レオ10世の取り計らいで釈放され、フィレンツェ近郊のサン・カッシャーノの小さな領地に隠棲し、文学に専念した。1513年12月13日付でフランチェスコ・ヴェットーリに宛てた手紙には、この時期の生活が詳細に描写されており、『君主論』執筆の動機や方法が明らかになっている。家族や隣人との日課を述べた後、彼はこう記す。「夕方になると家に戻り書斎へ行く。入り口で埃と泥にまみれた農民服を脱ぎ、上品な宮廷の衣をまとい、ふさわしい格好になった私は、古の偉人たちの宮廷に入り込み、彼らに暖かく迎えられ、自分だけの糧に養われる。彼らと遠慮なく語り合い、行動の理由を尋ねると、寛大にも答えてくれる。四時間もの間疲れも感じず、あらゆる悩みを忘れ、貧困も私を怯ませず、死も恐ろしくない。私は完全に偉大な人々に包まれている。そしてダンテが『知識とは、よく記憶された学びから生まれるものであり、そうでなければ無益である』と言うゆえ、」

私は彼らとの対話で得たものを記録し、『君主論』という小著を著した。
そこでは、できる限り自分の思索を注ぎ込み、君主制とは何か、どんな種類があるか、どうやって獲得できるか、どうやって維持されるか、なぜ失われるのかを論じている。もし私の思いつきがこれまで君を喜ばせてきたならば、この本も君を失望させないはずだ。特に新しい君主には役立つだろうと思い、偉大なるジュリアーノへ献呈する。フィリッポ・カザヴェッキオも読んでくれており、内容や私との議論について話してくれるだろう。それでも私は今なお本書の充実と推敲を続けている。」

この「小著」は、今日知られる形に至るまで多くの紆余曲折を経た。執筆中はさまざまな精神的影響が及び、題名も献呈先も変更され、最終的には理由は不明だがロレンツォ・デ・メディチに献呈された。カザヴェッキオとともに献本か直接手渡しかを議論したものの、ロレンツォが本書を実際に受け取ったか、読んだかは証拠がなく、彼からマキャヴェッリにいかなる職も与えられなかった。マキャヴェッリ存命中に盗用されはしたものの、『君主論』が彼自身によって出版されることはなく、その本文も依然として議論の余地がある。

マキャヴェッリはヴェットーリへの手紙をこう締めくくる。「このささやかな著作を読めば、私が過去15年、国家運営の研究に寝る間も惜しまず励んだことが分かるだろう。他人の犠牲で経験を積んだ者に仕えることを、人は常に望むべきだ。また、私の忠誠心には誰も疑いをもたぬはずだ。私は常に信義を守ってきたため、今さら破る術を学ぶことなどできない。誠実で正直であった者は、その性質を変えることはできないからだ。そして、私の貧困こそが誠実さの証である。」

『君主論』に取り組んでいた最中、彼は『リウィウスの最初の十巻についての論考』の執筆を開始した。これは『君主論』と合わせて読むべき著作である。これ以外にもいくつかの小品に取り組み、1518年にはジェノヴァのフィレンツェ商人の事務をみるという小さな委任を受けた。1519年、メディチ家政権下のフィレンツェで市民にいくつかの政治的譲歩がなされ、大評議会の復活を目指す新憲法の作成にマキャヴェッリも諮問されたが、結局発布には至らなかった。

1520年には、再びフィレンツェ商人の依頼でルッカとの問題解決にあたり、またフィレンツェの文学サークルにも再登場して歓迎された。同年、彼は『戦術論』を執筆した。また枢機卿メディチの要請で『フィレンツェ史』の執筆を託され、これに1525年まで取り組んだ。彼が再び人気を集めたことで、メディチ家は彼にこの仕事を与えたのかもしれない。古い記録によれば、「職を失った優れた政治家は巨大な鯨のようなもので、遊び道具の樽でも与えなければ船を転覆させる」とある。

『フィレンツェ史』完成後、彼はそれをもってローマへ赴き、後援者となったジュリアーノ・デ・メディチ、すなわち教皇クレメンス7世に献呈したのは注目に値する。1513年、マキャヴェッリがフィレンツェ再奪還直後のメディチ家のために『君主論』を書いたように、1525年にも家門の没落間近の当主に『フィレンツェ史』を捧げたのである。同年のパヴィアの戦いでイタリアにおけるフランス支配は崩壊し、フランソワ1世は最大のライバル、カール5世の捕虜となった。これに続いてローマ略奪が起こり、その報に接したフィレンツェの民衆派はメディチ家の支配を打破し、一家を再び追放した。

この時、マキャヴェッリはフィレンツェを離れていたが、急ぎ帰郷し、かつての「自由と平和の十人委員会」書記官の職を得ようとした。しかし、帰郷後すぐに病に倒れ、1527年6月22日、フィレンツェでこの世を去った。

人物と著作

マキャヴェッリの遺骨がどこにあるかは定かでないが、現代のフィレンツェは彼をサンタ・クローチェ聖堂に最も著名な市民たちと並んで盛大な記念碑で讃えている。他国がその著作に何を見出したとしても、イタリアはそこに自国統一の理念とルネサンスの萌芽を認めてきたのである。彼の名にまとわりつく世界的で悪名高い意味合いに抗っても無意味だが、この悪評を支える苛烈な解釈は当時には知られておらず、近年の研究により、より妥当な評価が可能になっている。「邪悪な魔術師」としてのイメージも、こうした研究によって消えつつある。

マキャヴェッリは、確かに優れた観察力、鋭敏さ、勤勉さを備え、見聞きするものすべてを活用し、卓越した文才で引退後もそれらを記録に残した。しかし、彼自身も同時代人も、彼を「成功した政治家兼作家」という稀有なタイプとしては描いていない。彼は、幾度かカテリーナ・スフォルツァに欺かれ、ルイ12世に無視され、チェーザレ・ボルジアに威圧され、多くの使節も成果は乏しかった。フィレンツェの要塞化も失敗し、編成した軍隊さえ臆病さで周囲を驚かせた。自分自身のこととなると臆病で日和見的となり、恩義あるソデリーニの側に立つ勇気もなかった。メディチ家との関係も疑念を招き、ジュリアーノも彼の真の才能を見抜き、政治ではなく『フィレンツェ史』執筆を命じたようである。彼の人物像で弱みや失敗が見られないのは、唯一文学面でのみである。

四世紀近くの時を経ても『君主論』はなお論争的かつ魅力的である。その理由は、王権と被治者という永遠の問題に触れているからである。その倫理観は同時代のものであり、ヨーロッパ諸政府が道徳ではなく実力に依拠する限り、けっして時代遅れとはいえない。その歴史的逸話や人物も、政府や行動理論の例証としてマキャヴェッリの手で生き生きと描かれている。

国家運営の格言を脇に置くとしても、『君主論』にはあらゆる場面で実証できる真理が点在している。現代でも人々は単純さや欲望の犠牲となり、アレクサンデル6世の時代と変わりはない。宗教の仮面はいまだにフェルディナンド・アラゴンのような悪徳を覆い隠している。人は物事を現実のまま見ることをせず、望むように見てしまい、そのために破滅する。政治に完全に安全な方策はなく、慎重さとは最も危険の少ない道を選ぶことにある。さらに高い次元では、マキャヴェッリは犯罪によって帝国は得られても、名誉は得られないと繰り返す。必要な戦争は正しい戦争であり、祖国が他に頼るすべがないとき、その武器は正当化される。

「政府は生きた道徳的な力へと高められ、社会の根本原理への正しい認識を人民に与える存在であるべきだ」と叫ぶのは、マキャヴェッリよりはるか後世の言葉である。この「高邁な論議」に『君主論』は多くを貢献してはいない。マキャヴェッリはいつも、人や政府をあるがままにしか語ろうとせず、その巧みな筆致と洞察によって著作は永続的価値を持つ。しかし、単なる芸術的・歴史的価値を超えて『君主論』が持つ最大の意義は、いまなお国々や為政者が他国や隣人との関係において指針とする原理を扱っているという、動かし難い真実にある。

『君主論』の翻訳にあたって、私は何よりも原文に忠実であることを重視し、現代的な語法や表現に合わせた流暢な意訳ではなく、厳密な逐語訳を心がけた。マキャヴェッリは安易な言葉遊びをしない作家であり、執筆の状況も一語一句を吟味せざるを得なかった。彼のテーマは高遠で、中身は重厚、文体は高貴で平易かつ真摯である。Quis eo fuit unquam in partiundis rebus, in definiendis, in explanandis pressior?(物事を分割し、定義し、説明する点で、これほど緻密な者がいただろうか?)『君主論』には、一語一語、さらには語順にまですべて理由があると言えるだろう。シェイクスピア時代のイギリス人にとって、本書の翻訳は比較的簡単だったかもしれない。というのも、当時の英語の文体はイタリア語の気風に近かったからである。しかし現代英語ではそうはいかない。たとえば、「ローマ元老院がギリシアの弱小諸国に対して取った政策」を示すintrattenereという単語を、エリザベス時代の英訳者は「entertain」と訳し、当時の読者は「ローマはアイトリア人とアカイア人をentertainした」といえば意味が通じた。しかし今日ではこの表現は時代遅れで曖昧、むしろ意味不明である。そのため「ローマはアイトリア人と良好な関係を保った」などと、四語をもって一語の意味を訳さねばならない。私は原文の簡潔さを保ちつつ、意味の完全な忠実性と両立するよう努めた。もし文体に時折厳しさやぎこちなさが残ろうとも、読者が著者の意図に熱心に迫ろうとする限り、その困難な道のりも許していただければ幸いである。

以下はマキャヴェッリの主な著作一覧である。

主要著作:『ピサの情勢についての論考』(1499年)、『反乱したヴァルディキアーナの民衆の扱い方について』(1502年)、『ヴァレンティノ公がヴィテッロッツォ・ヴィテッリ、オリヴェロット・ダ・フェルモらを殺害した手法について』(1502年)、『資金確保についての論考』(1502年)、『最初の十年詩篇』(三行詩、1506年)、『ドイツ事情の肖像』(1508-12年)、『第二の十年詩篇』(1509年)、『フランス事情の肖像』(1510年)、『リウィウスの最初の十巻についての論考』(全3巻、1512-17年)、『君主論』(1513年)、『アンドリア』(テレンティウスの喜劇翻訳、1513年?)、『マンドラゴラ』(五幕の散文喜劇、序詩つき、1513年)、『言語について』(対話篇、1514年)、『クリツィア』(散文喜劇、1515年?)、『ベルファゴール悪魔大公』(小説、1515年)、『金のロバ』(三行詩、1517年)、『戦術論』(1519-20年)、『フィレンツェ国家再建についての論考』(1520年)、『ルッカ市事情の要約』(1520年)、『カストルッチョ・カストラカーニの生涯』(1520年)、『フィレンツェ史』(全8巻、1521-25年)、『歴史断片』(1525年)。

詩作品:ソネット、カンツォーネ、八行詩、カーニバル歌など。

主要版:アルド版(ヴェネツィア、1546年)、デッラ・テルティナ版(1550年)、カンビアージ版(フィレンツェ、全6巻、1782-85年)、クラッシキ版(ミラノ、全10巻、1813年)、シルヴェストリ版(全9巻、1820-22年)、パッセリーニ・ファンファーニ・ミラネージ(三名、全6巻のみ刊行、1873-77年)。

小品集:F. L. ポリドーリ編(1852年)、E. アルヴィージ編『親書』(1883年、2版、1版は抄録)、G. カネストリーニ編『真作集』(1857年)、F. ヴェットーリ宛の書簡(A. リドルフィ『君主論の目的についての考察』参照)、D. フェッラーラ『ニッコロ・マキャヴェッリの私的書簡』(1929年)。

献辞

偉大なるロレンツォ・ディ・ピエロ・デ・メディチ殿へ

君主のご機嫌を得ようとする者は、しばしば自分が最も貴重と考えるものや、君主が最も喜ぶと思われる品々を携えて参上する習わしがある。そのため、馬、武具、金襴、宝石、そのほか君主の威厳にふさわしい品々を献上する光景はよく見かける。

私もまた、あなたのご威光に対し、私の誠意の証しとなる何かを捧げたいと考えたが、自分の持ち物の中で、偉人たちの行動に関する知識ほど大切で価値あるものはなかった。それは現代の実務経験と古代研究の不断の学びによって得たものであり、長い間熟考と精査を重ねてきた。その成果を、この小著としてあなたにお送りする次第である。

この著作があなたの審美眼にかなわぬものであろうとも、私はあなたの寛容なお心に大いなる期待を寄せている。なぜなら、私が多くの年月と苦労、危険を経て学んだすべてを、最も短時間でご理解いただく機会以上に優れた贈り物は私にはでき得ないからである。本書は、華美な言葉や美辞麗句、外面的な飾り気など、他の多くの人々が自身の著作を装飾するものは一切用いていない。私は、名誉が与えられなくとも、内容の真実と主題の重厚さによって受け入れられることを望んだのである。

また、低い身分の者が君主の事柄を論じ判断することを僭越と見る考えには与しない。なぜなら、風景画を描く者が山や高みを観察するには平地に身を置き、平野を観察するには高台に上るように、人々の本質を理解するには君主の立場にあり、君主の本質を理解するには民衆の立場にあることが必要だからである。

どうか、あなたには私のこの小さな贈り物が、私が込めた思いのままに受け取っていただきたい。もしあなたが注意深く本書を読み、よく考えてくだされば、私があなたに偉大さを得てほしいとどれほど強く願っているかを知ることができるでしょう。もしあなたがその偉大さの高みから、ときおりこの下界を顧みてくださるなら、私がいかに不当に、長きにわたり運命の悪意に苦しんでいるかもご覧になるでしょう。

君主論

第一章 君主国の種類とその獲得法

人間を支配してきた、また支配しているすべての国家と政権は、共和国か君主国のいずれかである。

君主国には、長く同じ家系が支配してきた世襲君主国と、新たに獲得された新君主国がある。

新君主国は、ミラノがフランチェスコ・スフォルツァのもとでそうであったように完全に新しく創設される場合もあれば、ナポリ王国がスペイン王国に併合されたように、すでに世襲君主国の一部として加えられる場合もある。

このようにして獲得された領土は、もともと君主のもとで暮らすことに慣れていたか、自由を重んじていたかで異なり、また君主自身の武力によるか、他者の力によるか、あるいは幸運や能力によって獲得されるかによって分かれる。

第二章 世襲君主国について

共和国に関する議論は他所で詳しく述べたので、ここでは割愛し、君主国にのみ焦点を当てる。そして前述の順序に従い、こうした君主国の統治と維持方法を論じる。

まず言うべきは、世襲君主国、すなわち長く同じ家系に馴染んだ国を維持する方が、新たに獲得した国よりも困難が少ないということである。なぜなら、祖先の慣習を逸脱せず、事態に応じて賢明に対処しさえすれば、並みの能力の君主でも自らの地位を維持できるからだ。よほど異常で圧倒的な力で奪われない限り、地位を失うことはない。もし奪われたとしても、簒奪者に不運が訪れれば、再び取り戻すことができる。

イタリアの例でいえば、フェッラーラ公は1484年のヴェネツィア攻撃や1510年のユリウス教皇の攻撃にも耐え抜いているが、それは長年にわたって領土を支配していたからである。世襲君主は民衆を害する必要性も理由も少ないため、より愛されやすく、よほどの悪徳がない限り、自然と臣民の好意を得やすい。統治の長さと歴史の古さによって変革を促す記憶や動機も薄れ、変革の後には必ず次の変革の機運が残る、という悪循環も避けやすい。

第三章 混合君主国について

しかし、新たな君主国の統治には困難が伴う。特に、それが完全な新領土ではなく、いくつかの領土を合わせて成る複合国家の場合、最大の困難は新君主国特有の問題に由来する。人々は、より良くなることを期待して進んで新たな支配者を受け入れるが、この期待が武装蜂起へとつながる。しかし、実際は期待に反し、状況は悪化する。これは、従属した新領土の民に対し、新たな支配者が兵を駐屯させたり、さまざまな苦難を強いる必要が生じるという、普遍的かつ自然な事情による。

こうして領土を獲得する過程で傷つけた人々が敵となり、支配権獲得に協力した者たちも期待通りの報いを得られないために不満を抱き、強く出ることもできず、宙ぶらりんとなる。いかに軍事的に強大であっても、地方を支配するには常に現地民の好意が欠かせない。

このため、フランス王ルイ12世は容易くミラノを占領したが、同様にたやすく失った。最初に追い出すには、ロドヴィーコ自身の軍勢だけで十分だった。門を開いた者たちが、自らの利益への期待が裏切られ、新しい支配者からの悪政に耐えかねたためである。だが、一度反乱した領土を再び手に入れた場合、それを再度失うのは容易ではない。なぜなら、君主は反乱を理由に罪人を罰し、容疑者を排除し、最も脆い場所を強化する機会を得るためである。つまり、最初にフランスがミラノを失った時は、ロドヴィーコ公が国境で反乱を起こすだけで十分だったが、再び失うには世界中を敵に回し、軍隊を完全にイタリアから追い出される必要があった。これは、前述した原因による。

とはいえ、ミラノはフランスから最初も二度目も奪われた。その理由の一般的な説明はすでに述べたので、次に第二の理由――フランス王がその領土を維持する上でどんな手立てを持っていたか、また同様の状況にある者がどうすればフランス王よりも安定して支配できたか――を述べる。

獲得した領土が、獲得者のもともとの国と同じ言語・文化圏にある場合、それを保持するのは比較的容易である。特に、もともと自治の経験がなければ、先代君主の家族を滅ぼすだけで統治は安定する。なぜなら、風習や条件が同じであれば両者はすぐに融和するからだ。ブルターニュ、ブルゴーニュ、ガスコーニュ、ノルマンディーがフランスと長く一体であったように、言語に違いがあっても風習さえ似ていれば問題なく同化する。併合した君主がすべきことは、前君主の家族を絶やすこと、そして法律や税制を変更しないことであり、そうすれば短期間で新旧領土は一体化する。

だが、言語や風習、法律の異なる領土を獲得した場合は困難が増し、幸運と大きな精力が必要となる。最大かつ最も効果的な策は、獲得した君主自らがその地に住むことだ。これは、ギリシアを支配したトルコ人の実例のように、支配の安定と長期化をもたらす。他のどんな手を打っても、現地に定住しなければ維持は難しかったであろう。なぜなら、現地にいれば問題の芽をすぐ発見し、迅速に対処できるが、遠隔地では事態が大きくなってからしか知らされず、もはや手遅れとなるからである。加えて、官僚による搾取も防げ、臣民も君主に直接訴えることで満足しやすくなる。良い民であろうとする者は君主を愛し、そうでない者は恐れる理由ができる。外部から攻める者も最大限の注意を要し、君主が現地に住んでいる限り、その地を奪うのは極めて困難となる。

もう一つの有効策は、要所に植民地を建設することである。これはその国の「鍵」とも言える場所であり、他の選択肢として多くの兵を駐屯させる方法もあるが、植民地の方が遥かに有益だ。君主は植民地にほとんど費用をかけずに維持でき、土地や家屋を分け与えられることでごく一部の住民を敵に回すのみで、その相手も貧しく分散しているため復讐の力はない。大多数の住民は無傷で済むため静穏を保ち、自分まで同様の目に遭わぬよう注意する。結論として、植民地は費用がかからず、忠実で、害も少なく、傷つけられた者も力がなく復讐できない。ここで重要なのは、人間には「手ぬるい仕打ち」をされると報復しうるが、徹底的な打撃には復讐できないという点である。ゆえに、害を加えるなら、報復の心配がないほど徹底して行うべきだ。

一方、植民地の代わりに軍隊を駐留させる場合は費用がかさみ、国の収入をすべて兵に費やすことになり、結果として獲得した領土は損失に転じる。しかも多くの住民を逆恨みさせる。駐屯軍の移動によって住民すべてが苦難を知り、全員が敵となる。彼らは自国で打ち負かされたとしても依然として害を及ぼしうる敵である。こうした理由から、軍隊の駐屯は植民地に比べて無益である。

再び、上記で述べた点と異なる国を支配する君主は、自らが弱小な隣国の首長かつ守護者となり、より強大な隣国を弱体化させ、さらに自分と同等の力を持つ外国勢力が偶然にもその地に足場を築くことがないよう細心の注意を払うべきである。なぜなら、そのような者は、常に野心や恐れから不満を抱く者たちによって呼び入れられるからであり、それはすでに見てきた通りである。ローマ人がギリシャに招き入れられたのは、アイトリア人によるものであったし、他のすべての国々でも、ローマ人は住民によって中に引き入れられた。事態の常として、強大な外国勢力が一度国内に入り込めば、統治者に対する憎しみから、すべての従属国はその側につく傾向にある。そのため、これら従属国を自勢力に引き入れるために特別な労力を要することはなく、すぐにその地を獲得した側に結集するのである。君主が注意すべきは、これら従属国が過度な力と権威を持たぬよう管理することであり、そうすれば、自らの軍勢と彼らの好意をもって、より強力な勢力を容易に抑え、その国の完全な支配者であることができる。これを適切に行えない者は、やがて獲得したものをすぐに失い、維持している間も絶え間ない困難と問題に見舞われることになる。

ローマ人は、併合した国々でこの方策を厳格に守った。彼らは植民地を送り、小国とは友好関係を維持しながらも、その力を増大させず、大国を抑え、強力な外国勢力に権勢を持たせることはなかった。ギリシャを例に挙げれば十分であろう。彼らはアカイア人とアイトリア人と友好を持ったが、その力を増すことは許さず、マケドニア王国を屈服させ、アンティオコスを追放した。しかし、アカイア人やアイトリア人の功績によって彼らに勢力拡大を許すことはなく、フィリッポスの説得によっても、まず彼を屈服させるまではローマ人は友好関係を築かなかった。また、アンティオコスの権勢も、彼がその国に何らかの支配権を保持することを認めはしなかった。なぜなら、ローマ人はこれらの場合において、賢明な君主がなすべきこと、すなわち現在の問題だけでなく将来の問題にも備えることを実践したからである。将来の問題は全力で事前に備えるべきであり、それらが予見できれば解決も容易であるが、もし近づくまで放置すれば、もはや治療のタイミングを逸し、不治の病となる。これは医師が熱病について語るのと同様で、発病初期は治療は容易だが発見が難しく、時を経ると発見は容易だが治療は困難となる、と言う。政治においても同様で、災厄を予見し(これは賢者のみに許された洞察である)、早期に対処すれば速やかに解決できるが、予見できずに成長させてしまうと、誰の目にも明らかになったときには、もはや手の施しようがない。したがって、ローマ人は災厄を予見し、即座に対処した。彼らは戦争回避のためにそれが本格化するまで待つことはなく、むしろ戦争そのものは避けられないが、他者の利益となるように先延ばしするだけだと知っていた。さらに、彼らはフィリッポスやアンティオコスとはギリシャで戦おうとし、イタリアで戦うことを避けた。両者とも回避できたかもしれないが、彼らはそれを望まなかった。現代の賢人が口にする「時の利益を享受しよう」という考えよりも、むしろ自らの勇気と賢慮の利益を重んじた。時間はすべてを押し流し、善も悪もそのうちに運んでくるものである。

さて、フランスはこれらの方策を実行したかどうか考えてみよう。ここではルイ王(シャルルではなく)について述べるが、それは彼がイタリアを最も長く支配したため、その行動がより観察しやすいからである。そして、彼が多様な要素から成る国家を保持するために為すべきことと逆のことをしてきたことがわかるだろう。

ルイ王がイタリアに呼び入れられたのは、ヴェネツィア人の野心によるものであり、彼らは彼の介入によってロンバルディアの半分を得ようと望んでいた。王のとった方策を非難するつもりはない。というのも、イタリアに足場を築こうとし、友人がひとりもいなかった(むしろシャルルの行いによってすべての扉が閉ざされていた)以上、得られる友好を受け入れざるを得なかったからである。そして、もし他の点で過ちを犯さなければ、彼の目論見はすぐにでも成功していただろう。しかし、ロンバルディアを手に入れた王は、シャルルが失った権勢を取り戻した。ジェノヴァは降伏し、フィレンツェ人は友好を申し出、マントヴァ侯、フェラーラ公、ベントヴォーリ家、フォルリの女領主、ファエンツァ、ペーザロ、リミニ、カメリーノ、ピオンビーノ、ルッカ、ピサ、シエナの領主たち――皆が彼の友となることを求めてきた。この時、ヴェネツィア人は自らの軽率さを痛感したことだろう。彼らはロンバルディアの二つの都市を得るために、王をしてイタリアの三分の二を支配せしめてしまったのである。

ここで、王が上記の方策を守ってすべての友好国を安全に保護していれば、いかに容易にイタリアでその地位を保持できたか考えてみるがよい。彼の友は数多くいたが、いずれも弱小かつ臆病であり、ある者は教会を、ある者はヴェネツィア人を恐れていた。ゆえに常に王に頼らざるを得ず、彼らの協力を得て容易に強大な勢力に対抗し、自らの安全を確保できたであろう。だが、王はミラノに到着するや否や、ロマーニャをアレクサンデル教皇に与えることで逆のことをした。この行動によって自分の力を弱め、味方や自らに服従した者たちを失い、教会に大きな世俗的権力を与えたことで教会の権威を高めてしまったことに気づかなかった。そしてこの重大な過ちを犯したことで、アレクサンデルの野心を抑え、トスカーナの支配を防ぐために自らイタリアに赴かざるを得なくなった。

しかも、教会を強大にし、味方を失っただけでは飽き足らず、ナポリ王国を欲しがるあまり、それをスペイン王と分割した。イタリアの主審者であったにもかかわらず、支配の同盟者を持つ形となり、その地の野心家や自国の不満分子に拠り所を与えることになった。自分の年金受給者を王として国に残すこともできたのに、それを追い出し、逆に自らを追い出す力を持つ者を据えてしまったのである。

「獲得したい」という欲求は、確かにごく自然かつ普遍的なものであり、人は常にそれができるときにはそうするものだ。それは賞賛されるべきことで、非難されることではない。しかし、できないのに何としてもそうしようとすれば、それは愚かで非難される。したがって、フランスが自国の軍だけでナポリを攻めることができたならば、そうすべきだったし、できなかったのであれば、分割などすべきではなかった。ロンバルディアにおけるヴェネツィア人との分割は、イタリアに足場を得るという必要性によって正当化できたが、ナポリについてはその必要性もなく、非難されるべきことであった。

こうしてルイ王は五つの誤りを犯した――小国を滅ぼし、イタリアの一大勢力を強化し、外国勢力を招き入れ、現地に根付かず、植民地を送らなかった。これに加えて、もし彼が生きていたならば、ヴェネツィア人の領土を奪ったことで六つ目の誤りが致命的となっただろう。なぜなら、もし教会を強大にせず、スペインをイタリアに招き入れなかったのであれば、ヴェネツィア人を屈服させることはきわめて合理的かつ必要であった。しかし、それらの措置を先に講じた以上、彼らの滅亡を認めるべきではなかった。彼らは強大であったため、ロンバルディアへの他者の野心を常に阻止してくれたはずだからであり、ヴェネツィア人自身も自らが主となろうとしない限りロンバルディアの支配には応じなかったであろうし、他の者たちもロンバルディアをフランスから奪ってヴェネツィアに与えることは望まなかったし、両者に敵対する勇気もなかったからである。

「ルイ王は戦争を避けるためにロマーニャをアレクサンデルに、王国をスペインに譲った」と言う者がいるならば、私は前述の理由により、戦争回避のために過ちを犯してはならないと答える。戦争は避けられるものではなく、他者の利益となる形で先延ばしされるだけだからである。また、王が教皇との約束――自分の結婚を解消し、ルーアンに枢機卿帽を与える見返りに協力した――を挙げる者があれば、その点については後に君主の信義について述べる箇所で論じることにする。

かくしてルイ王は、征服国家を保持したいと考える者が守るべき諸条件を何一つ守らなかったがゆえにロンバルディアを失ったのである。これは奇跡でもなんでもなく、むしろ極めて道理にかなった自然の成り行きである。この点について、私はナントでルーアン枢機卿と語ったことがある。当時「ヴァレンティーノ」と呼ばれていたチェーザレ・ボルジア(アレクサンデル教皇の息子)がロマーニャを占領していた時、ルーアン枢機卿が「イタリア人は戦争を知らぬ」と私に言ったが、私は「フランス人は国政を知らぬ」と返した。もしフランス人が国政をわきまえていたならば、教会の権勢がそれほどに増すのを許さなかったはずである。実際、イタリアにおける教会やスペインの隆盛はフランスのせいであり、フランスの没落もまた彼らのせいである。ここから導き出せる普遍的な法則は、他者を強大にした者は自滅する、というものであり、その優越は才覚か武力によってもたらされたものであっても、力を与えられた側は必ずそれを警戒するのである。

第四章 アレクサンダー大王が征服したダレイオスの王国が、アレクサンダーの死後、その後継者に対して反乱を起こさなかった理由

人が新たに獲得した国を保持することの困難さを考えると、アレクサンダー大王がわずか数年でアジアの支配者となり、その国をほとんど統治し終える前に亡くなったにもかかわらず(そのため全帝国が反乱を起こしても不思議ではないように思えるが)、実際には彼の後継者たちが自らの野心以外の困難をほとんど経験せずに支配を維持できたことに、驚く者もいるかもしれない。

この問いに答えるならば、歴史に記録されている君主国は、主に二つの統治形態に分けられる。一つは、君主が家臣団を持ち、彼らを自らの恩顧と許可で国の行政にあたらせる形。もう一つは、君主と貴族(バロン)から成り、その貴族は血統による地位を持ち、君主の恩顧ではなく先祖代々の権威を持っている形である。こうした貴族は自らの領地と被治民を持ち、彼らは自然な敬愛をもって貴族を主と認めている。前者のような国では、君主が唯一絶対の存在であり、他に上位者はいない。そのため、誰か他の者に従うとしても、それは単なる役人としてであり特別な情愛は持たれない。

この二つの統治形態の現代の例は、トルコとフランス王である。トルコの君主制は完全に一人の支配者により統治され、他のすべては彼の家臣である。彼は王国をサンジャクという行政区に分け、各地に行政官を送り、気ままに交代させることができる。一方、フランス王は、古い貴族集団に囲まれており、彼らは自らの領地の被治民から愛されている。貴族たちは特権を持ち、王はそれを奪うことはできないし、行えば大きな危険を伴う。したがって、両者を比較してみれば、トルコの王国を奪取することはきわめて困難だが、一度征服してしまえばその維持は容易である。その理由は、トルコの王国では、王国の諸侯が外部の者を呼び入れることもできず、内部で反乱の助力を得ることもできないからである。全員が王の奴隷であり、腐敗させることも困難で、たとえ腐敗させても人心を動かすことはできないからだ。したがって、トルコを攻める者は、内部の反乱を頼みにせず、自らの軍事力で征服しなければならない。しかし一度トルコが戦場で打ち破られ、軍勢を再生できないほどになれば、あとは君主の家族だけが脅威となるが、それを滅ぼせば他に恐れる者はいなくなる。征服前に頼れなかった内部勢力を、征服後に恐れる必要もないのである。

これに対して、フランスのような王国では、ある貴族を味方につけることで容易に侵入できる。常に不満分子や変革を望む者がいるからである。彼らは内部から侵略者の道を開き、勝利を容易にする。しかしその後、国を保持しようとすると、味方した者と抑圧した者の双方から無数の困難に直面する。君主の家族を滅ぼしても、残った貴族たちが新たな反乱の首領となり、完全に満足させることも滅ぼすこともできないので、時が来ればその国を失うことになる。

ダレイオスの王国の支配体制を考えてみれば、それはトルコに似ていたことがわかる。よってアレクサンダーがまず戦場でダレイオスを打倒し、その地を奪うことだけが必要だった。ダレイオスが死ねば国家はアレクサンダーのものとなり、上述の理由により、その支配は安定した。もし後継者たちが団結していれば、彼らも安泰にそれを享受できただろう。結局、王国内で起こった騒乱は彼ら自身が引き起こしたものでしかなかった。

これに対し、フランスのような体制の国を安定して支配することは不可能である。そのため、スペインやフランス、ギリシャのローマ時代には、複数の諸侯が存在することで、しばしば反乱が起こった。これらの記憶が人々の中に残る限り、ローマ人はその地を不安定にしか支配できなかった。しかし、帝国の力と長きにわたる支配のもとで、そうした記憶が薄れると、ローマ人はようやく安定した支配者となった。その後内戦となっても、各自が自らの権威に応じて地元勢力を味方につけることができ、もはや先の支配者の家族を除いて、ローマ人以外は認められなかったのである。

これらを思い出せば、アレクサンダーがアジア帝国をいとも容易に支配したことや、ピュロスら多くの征服者が獲得地の維持に苦労したことに驚くことはないだろう。それは征服者の能力の多寡によるのではなく、被支配国の体制の違いによるのである。

第五章 併合前に自国の法で自治していた都市や国の統治方法について

上述のように獲得した国家が、自国の法に従い自由に暮らしていた場合、それを保持したい者には三つの方法がある。一つは滅ぼしてしまうこと。次に、君主自らが現地に住むこと。三つ目は、現地の法を維持させつつ貢納を課し、自分に忠実な寡頭政を設けて味方にすることだ。なぜなら、このような政府は君主によって作られたものなので、君主の加護なしには存続できないことを知っており、君主を支えるために最大限努力するからである。したがって、自由を愛した都市を保持したいのであれば、その市民自身が統治する方法によるのが最も容易である。

スパルタ人とローマ人がその例である。スパルタ人はアテネとテーベを寡頭政で治めたが、結局それらを失った。ローマ人はカプア、カルタゴ、ヌマンティアを維持するために都市を徹底的に破壊し、手放すことはなかった。ギリシャについては、スパルタ人と同じく自由を認め法を存続させる形を取ったが、うまく保持できず、多くの都市を破壊せざるを得なかった。実際、都市を保持する安全な方法は、その都市を破壊すること以外にない。自由を愛する都市を支配した君主がそれを破壊しないなら、いずれ反乱によって自ら滅ぼされることを覚悟すべきである。その都市は「自由」という合言葉と古き特権を結集点として決して忘れることなく、どんな時もそれを取り戻そうとする。どれほど恩恵を与えようとも、時がいくら経とうとも、その都市は決してその名と特権を忘れず、分裂や離散がなければ、どんな機会にもすぐに団結する。フィレンツェ人に百年以上服従していたピサが反旗を翻したのはその好例である。

一方、君主の支配に慣れていた国や都市で、その家系が断たれた場合、彼らは君主に従うことに慣れている一方で、もはや自分たちから新たな君主を立てることもできず、どう統治してよいかもわからない。だからこそ、武装蜂起も遅く、君主は容易に従わせて安全を保つことができる。しかし、共和国の場合は活力と復讐心が強く、古き自由の記憶を決して忘れぬため、最も安全なのはそれを破壊するか、そこに住むことである。

第六章 自らの軍と能力によって獲得した新国家について

これから新たに獲得した国家について語るにあたり、私が君主や国家の最高の例を挙げることに驚く者がいるかもしれない。なぜなら、人は常に他人の踏みならした道を歩み、偉大な者の行いを模倣しようとするものの、必ずしもその道を忠実にたどれず、その偉大さに到達できるわけではない。しかし賢明な者は常に偉人の道をたどり、最高の者を模倣すべきだ。たとえ完全に到達できなくとも、その気配を帯びることはできる。これは熟練の弓矢使いが、遠すぎる的に矢を届かせようとする際、弓の限界を知りつつ、高めに狙いをつけて結果的に的に当てるようなものだ。

さて、まったく新しい国家に新たな君主が現れた場合、それを維持する難しさは、その者の能力次第で大きく左右される。私的な地位から君主となるには、能力か運が前提となるが、どちらかに頼った分だけ困難は和らぐ。だが、最も強固な地位を築けるのは、運に頼らなかった者である。さらに、他国を持たず現地に住まざるを得ない場合は、統治も容易になる。

自らの能力によって君主となった者について述べるなら、モーセ、キュロス、ロムルス、テーセウスなどが最も優れた例である。モーセについては神の意志の執行者であるゆえ議論の余地はないが、それでも神と語るに値すると認められた点で称賛されるべきである。キュロスや他の王国の創設者についても、その行いや統治はモーセに劣らない。彼らの行動や人生を吟味すれば、運に頼ったのは「機会」だけであり、その機会を活かせる能力があってこそ国を高めたのである。機会がなければ才能も発揮されず、才能がなければ機会も無意味だったろう。

モーセは、イスラエルの民がエジプトで奴隷として抑圧されていたからこそ、彼を指導者として受け入れた。ロムルスはアルバで生きることなく、生まれてすぐ捨てられたからこそローマの王、建国者となった。キュロスはペルシャ人がメディアの支配に不満を持ち、メディア人が長い平和で軟弱になっていたからこそ成功した。テーセウスも、アテナイ人が四散していたからこそ、その才能を発揮できたのである。こうした機会が彼らを幸運にし、優れた能力がその機会を認識し、祖国を有名にしたのである。

このように武勇によって君主となった者は獲得にこそ苦労するが、一度手に入れれば維持は容易である。獲得の困難は、統治のために新たな制度や方法を導入せねばならないことにある。他人の目には新しい事業の導入ほど難しく、危険で、不確実なものはない。改革者は、旧体制で恩恵を受けてきた者すべてを敵に回し、新体制で得をするかもしれない者からは生ぬるい支持しか得られないからだ。この冷淡さは、敵への恐れや、まだ新しいものを信じない人間の性質に由来する。よって、敵が攻撃する機会を得れば全力で襲いかかり、味方は消極的なので、君主もろとも危機に瀕する。

この問題を徹底的に論じるには、改革者が自分自身の力に頼れるか、他人の助けに頼るかを考察すべきだ。祈りや懇願に頼らねばならない者は、常に失敗し、何も成しえない。だが、自分の力に頼れ、武力を行使できる者は、まれにしか危険には陥らない。ゆえに、武力ある預言者は成功し、武力なき預言者は滅んできた。さらに、人心は移ろいやすく、説得は容易だが、その信念を固定させるのは困難だ。したがって、信じなくなった時には武力で信じさせる措置が必要である。

もし、モーセ、キュロス、テーセウス、ロムルスが武装していなければ、その法を長く保てなかっただろう。現代ではサヴォナローラ修道士が新秩序を作ったが、大衆が彼を信じなくなった時、武力もなく、信じる者を堅持させる術も、懐疑的な者を改心させる術もなかったため、すぐに滅んでしまった。このように、こうした者たちが事業を成し遂げるには多くの困難があるが、能力があればそれを乗り越える。困難を克服し、成功を妬む者たちを排除した後は、尊敬を集め、強く、安泰で、幸福となる。

これら偉大な例に加え、多少規模は劣るが類似した例として、シラクサのヒエロンを挙げておきたい。彼は私的な身分からシラクサの君主に上り詰めたが、それも運より機会によるものである。シラクサ人が圧政に苦しみ、彼を指導者に選び、その後君主に推戴した。彼は私的な市民であった時から優れた能力を持ち、ヒエロンについて書いた作者は「王国以外には王に不足なし」と言ったほどである。彼は旧兵を廃して新兵を組織し、古い同盟を捨て新たな同盟を結び、自前の兵と同盟者を持つことで、いかなる事業も成し遂げられた。こうして獲得には苦労したが、維持にはほとんど苦労しなかった。

第七章 他人の武力や運によって獲得した新国家について

運だけによって私的な地位から君主となった者は、上昇は容易だが維持は困難である。地位に上がる際は一気に昇りつめるが、頂点に立つと数々の困難が待ち受ける。こうした者は、金銭や好意によって国家を与えられる。ギリシャのイオニアやヘレスポントの都市で、ダレイオスによって国主に任命された者や、兵士を買収することで市民から皇帝になった者がそうである。彼らは、自分を持ち上げた者の好意や運気という、きわめて移ろいやすいものの上に立っている。知識も経験も不足し、偉大な才能と能力がなければ、民間人として生きてきた者がどうして統治を知っていようか。さらに、忠実な軍隊も持たないので、その地位を保つことはできない。

このように、不意に得た国家は、すべての自然物が急速に生まれ育つのと同じく、基盤や調和が固まらないうちに最初の嵐で崩れ去ってしまう。もし、突然君主となった者が、得た時点ですぐに地位を固めるべきと理解し、他者が君主となる前に築いた基礎を自ら築くことができれば、その限りではない。

能力か運によって君主となる二つの道について、近年の例を二つ挙げよう。それはフランチェスコ・スフォルツァとチェーザレ・ボルジアである。フランチェスコは正攻法と卓越した能力によって、私的な身分からミラノ公となり、苦労して得た地位を、さほど苦労せずに維持した。反対に、チェーザレ・ボルジア(通称ヴァレンティーノ)は、父の権勢が盛んな時に地位を得たが、その衰退とともに失ってしまった。それは、賢明な者ならすべきあらゆる手を打ったにもかかわらず、他人の武力と運によって与えられた地位の根をしっかり下ろせなかったためである。

なぜなら、前述の通り、基礎をあらかじめ築かずに君主となった者は、後からその基礎を作ることは可能でも、建築家にも建物にも苦労が伴う。ゆえに公爵(チェーザレ)が講じた全ての方策を振り返れば、彼が将来の権勢のために確かな基盤を築いたことが明らかであり、私は、他に新たな君主に与えるべき指針が思いつかないので、その行動を詳しく述べるのを無駄とは思わない。もしその策が無駄に終わったのなら、それは本人の責任ではなく、運命の非情さによるものである。

アレクサンデル六世は息子である公爵を強大にしようとしたが、直面した困難は数多くあった。まず、教会領以外の土地で彼を主とする方法がなかった。そして、教会を奪おうとすれば、ミラノ公やヴェネツィア人が黙っていないことも分かっていた。更に、イタリアの有力諸勢力――とりわけオルシーニ家、コロンナ家およびその一党――は教皇の増長を警戒しており、彼らの武力を頼るのは危険であった。それゆえ、彼らの勢力図を崩し、対立を煽って自らの支配範囲を確保しなければならなかった。幸いにも、ヴェネツィア人は他の理由でフランスのイタリア再侵入を望んでいた。教皇はこれを阻むどころか、ルイ王の前婚を解消することで、より容易にそれを実現させた。こうして王はヴェネツィア人の助力と教皇の同意を得てイタリアへ進出した。王がミラノに到達すると、教皇は王の軍勢を得てロマーニャ攻略に乗り出し、その威光のもとで征服した。公爵はロマーニャを手に入れ、コロンナ家を打ち破ったが、更なる進軍を図る上で二つの障害があった。一つは、自軍が忠実でなかったこと、もう一つはフランスの好意に頼らざるを得なかったこと、すなわち、オルシーニ家の軍勢が自分を裏切り、せっかくの勝ち取った領地まで奪われるのでは、と恐れたこと、また王まで同じことをするのではという懸念だった。ファエンツァ攻略後、ボローニャ攻撃にオルシーニ家が不本意ながら加わったことでその真意を知り、ウルビーノ攻略後、トスカーナ攻撃に王が待ったをかけてきたことで、もはや他人の武力や運に頼ることはやめようと決意した。

まず最初に、公爵はローマのオルシーニ家とコロンナ家の勢力を弱めることに努めた。両家の紳士を自らの家臣とし、高給を与え、地位や指揮権を与えて数か月で派閥への忠誠心を一掃し、自らへの帰属心に変えさせた。その後、コロンナ家の勢力を分断したうえで、オルシーニ家を打倒する機会をうかがった。その機会はすぐに訪れ、巧みに利用された。オルシーニ家は、公爵および教会の増長こそ自分たちの没落を意味することにようやく気づき、ペルージャでマジョーネ会議を開いた。これがウルビーノの反乱やロマーニャの騒乱につながったが、公爵はフランスの助けを得てすべてを乗り切った。権威を回復した後は、フランスや他の外部勢力に頼らぬよう、巧妙な手段を講じた。パオロ殿の仲介を利用し、金や衣服、馬などを贈ってオルシーニ家と和解し、その単純さを逆手にとってシニガリアで彼らを罠にかけ、首領らを処刑し、その一党を味方につけた。こうしてロマーニャとウルビーノ公国を手中にし、民衆も繁栄を実感しはじめ、すべてを味方につけることができた。この点は特筆すべきであり、他者も模範とすべきなので、省略せずに述べておく。

公爵がロマーニャを占領したとき、現地は弱小な支配者が民を搾取し、混乱と暴力が蔓延していた。秩序回復には有能な統治者が必要だと考え、ラミーロ・ドルコという冷徹迅速な男を任命し、全権を与えた。彼は短期間で見事に治安と統一を回復させた。その後、公爵はこれほどの権限を一人に与えるのは危険と考え、全都市参加の裁判所を設けた。さらに、過去の苛烈さから自分自身への恨みを晴らすため、また民衆の支持を得るため、「もし過酷があったなら、それは自分ではなく家臣の性格に起因する」と見せかける策を講じた。そこでラミーロを逮捕し、ある朝チェゼーナの広場で斬首させ、血塗られた刀とともにその屍を晒した。この野蛮な光景によって、民衆は直ちに満足し、かつ畏怖した。

さて、話を元に戻そう。公爵は自前の軍を整え、近隣の敵勢力も大きく削いだことで即時の危険からはかなり安全になった。その上で次に考慮すべきはフランスだった。国王は自らの過失にようやく気づき、公爵を支援しなくなるのが明らかだった。そこで公爵は新たな同盟先を模索し、ナポリ王国をめぐるフランス軍とスペイン軍(ガエタを包囲していたスペイン軍)との戦争にも巧みに関与した。アレクサンデルが生きていれば、この策は成功したに違いない。

ここまでは現状への対応である。将来に向けては、教会に新たな後継者が現れた際、その者が友好的でなかった場合、アレクサンデルが与えたものの没収を防ぐにはどうすべきかを考え、四つの方策を立てた。第一に、没収した領主の家族を根絶やしにし、教皇に口実を与えないこと。第二に、ローマの紳士を味方につけて、新教皇をも牽制できるようにすること。第三に、枢機卿団を味方につけること。第四に、教皇死去までに十分な権勢を築き、独力で危機に耐えられるようにすること。アレクサンデル死去時点で三つまでは既に成し遂げていた。すなわち、できる限り多くの前領主を抹殺し、ローマの紳士を味方につけ、枢機卿団でも最大勢力となっていた。新たな領土獲得については、トスカーナを目指していた。既にペルージャとピオンビーノを持ち、ピサも保護下にあった。もはやフランスに配慮する必要もなく(フランスはスペインにナポリを奪われイタリアから追い出されたため、両国とも公爵の支持を欲した)、ピサ攻略に取りかかった。それに続き、ルッカやシエナもフィレンツェへの憎しみや恐怖からすぐに降伏し、アレクサンデルが死んだ年、公爵がこのまま発展していれば、フィレンツェには打つ手がなかっただろう。公爵は他人の運や武力に頼ることなく、自身の力と能力のみによって立つことができるほど権威と実力を得ていたのである。

だが、アレクサンデル六世は剣を抜いてからわずか五年で亡くなり、公爵には統一されたロマーニャだけが残り、他の地は未だ不安定な中、二つの強大な敵軍に挟まれ、さらに自らも重病に陥った。それでも、公爵は驚くべき胆力と能力を持ち、人心掌握にも長け、短期間で築いた基礎は確かなものだった。もし敵軍が背後になく、自らが健康であったなら、全てを凌駕したであろう。その証拠に、ロマーニャは一ヶ月以上も彼の帰還を待ち、ローマでもかろうじて生きているだけの状態でも安全を保つことができた。バリオーニ家、ヴィテッリ家、オルシーニ家がローマに来ても、彼に対して何もできなかった。もし自分が望む人物を教皇に据えることができなかったとしても、少なくとも望まぬ者の即位は阻めただろう。実際、アレクサンデルの死の直前、彼自身が「すべての事態を想定し、備えを講じていたが、自分もまた死の瀬戸際にあるとは予想していなかった」と私に語ったほどである。

公爵のすべての行動を振り返ると、私は彼を責める手立てが分からず、むしろ先にも述べたように、他人の運や武力によって統治の地位に昇る者すべての模範として公爵を推奨すべきだと思うのである。なぜなら、彼は高い志と遠大な目標を持っていたがゆえに、他のやり方で行動を律することなどできなかったからであり、アレクサンデルの寿命の短さと自身の病が彼の計画を挫折させた唯一の原因であったからだ。したがって、新たな君主国において自らの身を守り、友を引き寄せ、力であれ奸計であれ敵を打ち負かし、民衆に愛され恐れられ、兵士には従われ敬われ、害しうる権力者や理由を持つ者を一掃し、古き秩序を新しきものへと変え、厳しさと寛大さ、気前の良さと寛容さを併せ持ち、不忠な兵士を排除して新たな軍を作り、王や諸侯と友情を保ちつつも彼らには熱心な援助を求め、軽率に敵対されぬよう注意を払う必要がある者にとって、この男の行いほど生き生きとした例はほかにないだろう。

ただ一つ非難できるのは、ユリウス2世の選出に関してであり、これは彼が誤った選択をしたからである。というのも、既述の通り自分の意にかなう教皇を選べないのであれば、ほかの誰も教皇に選ばせないよう妨害することができたはずであり、彼が害を与えたことのある枢機卿や、もし彼らが教皇になれば自分を恐れる理由のある枢機卿が選出されることには、決して同意すべきではなかったからである。人は恐れや憎しみにより他人に害をなすものである。彼が害を与えた中には、サン・ピエトロ・アド・ヴィンクラ、コロンナ、サン・ジョルジョ、アスカニオらがいた。そのほかの者たちも、教皇となれば彼を恐れざるを得なかった。ただし、ルーアンとスペイン人は例外であった。後者は血縁や義務から、前者は権勢、すなわちフランス王国との関係からである。したがって、何よりも公爵はスペイン人を教皇にすべきだったし、それが叶わないならルーアンを承認すべきであり、サン・ピエトロ・アド・ヴィンクラを認めるべきではなかった。「新たな恩恵によって大人物が古い恨みを忘れる」と信じる者は欺かれる。よって公爵は選択を誤り、それが彼の最終的な破滅の原因となったのである。

第八章 邪悪な手段によって君主国を得た者について

君主が私的な立場から身を起こして地位を得る方法は二つあるが、そのどちらも完全に運や才能によるものとは言えない。だが私は、たとえ共和政の章でより詳細に論じることができたとしても、これらについて沈黙すべきでないと考える。その方法とは、邪悪かつ不正な手段によって君主位に登る場合、あるいは市民の支持によって私的な人物が祖国の君主となる場合である。まず前者について、古代と現代それぞれ一例ずつ挙げ、これ以上深く踏み込まずとも、必要に迫られた者には十分な教訓となるだろう。

シチリア人アガトクレスは、低く卑しい身分からシラクサの王となった。この男は陶工の息子であり、人生のどんな変転の中でも常に悪名高い生き方をしてきた。それにもかかわらず、彼は精神的にも肉体的にも並外れた能力を持っており、軍事職に専念することでその階級を一つ一つ登り、ついにはシラクサの執政官となった。その地位についた後、みずからの力で、他人の恩義を受けずに、暴力によって君主となることを決意し、シチリアで戦っていたカルタゴ人アミルカルと共謀した。ある朝、アガトクレスはシラクサの民と元老院を集め、共和国の重要事項を議論するふりをして、合図を送ると兵士たちが元老院議員と最も裕福な市民を皆殺しにした。その後、アガトクレスは一度の内乱もなく、都市の支配権を掌握した。カルタゴ人に二度敗れ、包囲されさえしたが、彼は都市を守り抜いただけでなく、一部の兵を守備に残し、他の兵を率いてアフリカを攻撃し、短期間でシラクサの包囲を解いた。追い詰められたカルタゴ人はアガトクレスと和議を結び、シチリアを彼に譲り、アフリカの領有に甘んじるしかなかった。

この男の行為と才覚を考えれば、それが運によるものだと考える理由はほとんどない。なぜなら、上述のように彼は誰の引き立ても受けず、一歩一歩軍事的な階級を登りつめ、幾多の苦難と危険の末にその地位に立ち、それをさらに多くの危険を冒して維持したからである。しかし、市民を殺し、友人を欺き、信義も慈悲も宗教心も持たないことは、才能とは呼べない。このような手段は帝国を得ることはできても、名声を得ることはできない。それでもアガトクレスの危地への果敢な突入と脱出、困難を耐え忍び克服した心の偉大さを考えれば、彼が傑出した武将に劣る理由は見当たらない。だが、その野蛮な残虐さと非人道的な悪事の数々ゆえに、最も優れた人物と称えることはできない。彼の業績は幸運でも才能でも説明できないものである。

我々の時代、アレクサンデル6世の治世下においては、フェルモのオリヴェロットが幼少で孤児となり、母方の叔父ジョヴァンニ・フォリアーニのもとで育てられた。青年期にはパオロ・ヴィテッリの配下で軍務に就き、彼のもとで訓練を積み、軍事の分野で高い地位につくことを期待されていた。パオロの死後は兄弟のヴィテッロッツォの下で戦い、間もなく知恵と強靭な心身を兼ね備えて軍中で頭角を現した。しかし、他人に仕えるだけではつまらないと考え、祖国の隷属を自由よりも重視する一部市民とヴィテッレスキ一族の助けを得て、フェルモの奪取を企てた。そこで、長年故郷を離れていたので叔父ジョヴァンニに訪問と帰郷の意思を伝え、自分の財産にも目をやりたいと申し出た。そして、これまで名誉以外何も得ていないが、無駄な時間を過ごしていないことを市民に示すため百騎の友人や従者を伴い、盛大に迎えてほしいと依頼した。これは彼自身だけでなく、自分を育ててくれたジョヴァンニの名誉にもなると説いた。

ジョヴァンニは甥への礼を尽くし、フェルモ市民にも盛大に出迎えさせ、自宅に住まわせた。数日を過ごし、邪悪な計画の準備を整えたオリヴェロットは、ジョヴァンニやフェルモの有力者を招き盛大な宴を催した。食事や余興が終わると、オリヴェロットは巧妙に話題を切り出し、アレクサンデル教皇やその子チェーザレの偉大さや彼らの事業について語り始めた。これに対しジョヴァンニらが応じたが、オリヴェロットは「こういった話はもっと私的な場所で語り合うべきだ」と立ち上がり、別室へ移動した。ジョヴァンニらも後を追って入室すると、隠れていた兵士が現れ、ジョヴァンニや他の有力者を皆殺しにした。この殺害の後、オリヴェロットは馬に乗り町中を巡り、役所に市長を閉じ込めて市民を威嚇し、自らを君主とする政権を樹立した。敵対する者は皆殺しにし、新たな法令や軍事組織により力を固めた。その結果、君主となって一年の間、フェルモ市内での支配は揺るがず、周辺にも恐れられる存在となった。もし彼がチェーザレ・ボルジアの謀略に嵌められなければ、アガトクレス同様に打倒するのは困難だっただろう。だが前述の通り、オルシーニ家やヴィテッリ家とともにシニガリアで捕えられた。こうして父殺しを犯して一年後、彼は自らの悪事の共犯であったヴィテッロッツォと共に絞殺された。

多くの者が疑問に思うだろう。アガトクレスのような男が、数えきれないほどの裏切りや残虐行為をしながらも、どうして祖国で長く安泰に暮らし、外敵から身を守り、同胞の陰謀にも遭わなかったのか。他方で、他の多くの者は残虐行為によって、平時ですら支配を維持できず、ましてや戦時など到底不可能だったのである。その違いは、残虐行為が適切に用いられたか否かによると私は考える。もし悪事について善く語ることが許されるなら、適切な残虐行為とは、自身の安全保障のために一度の打撃で必要な限り行い、その後は臣民の利益となる場合でなければそれ以上繰り返さないことである。不適切な残虐行為は、最初は少なくとも、時の経過とともにむしろ増加し続けるものだ。前者を実践した者は、神または人の助力によって支配をある程度和らげることができる。アガトクレスがその例だ。後者を選ぶ者が自らを維持するのは不可能である。

したがって、国家を奪取する者は、どんな損害や害が必要かを念入りに見極め、それらを一挙に行い、日常的に繰り返さないようにすべきである。そうすれば人々を動揺させず、施しによって彼らを引き寄せることができる。これに反する者は、臆病さや悪しき助言によって常に刃物を手にしているような状態に陥り、臣民を信じることも、臣民が彼を慕うこともない。なぜなら、傷つけられることは一度に受けるべきで、そうすれば苦しみが少なく、恨みも最小限に抑えられる。恩恵は少しずつ与え、長く味わわせるべきなのである。

また何よりも、君主は良くも悪くも予期せぬ出来事があっても方針を変えないよう、人々の間に身を置くべきである。なぜなら、困難な時に初めて厳しい手段を講じようとしても手遅れであり、穏やかな手段も強制されたものとみなされ恩義に感じてもらえないからだ。

第九章 市民的君主国について

次に、邪悪や耐えがたい暴力によらず、同胞の支持によって有力な市民が君主となる場合について述べよう。これは市民的君主国と呼ばれ、到達するのに必ずしも天才や運が必要ではなく、むしろ幸運な機知が求められる。このような君主国は、民衆の支持か貴族の支持か、いずれかによって得られる。なぜなら、すべての都市にはこの二つの階層が存在し、民衆は貴族に支配され抑圧されたくないと望み、貴族は民衆を支配し抑圧したがるからである。この二つの欲求の対立から、都市には君主政、自律政、無政府状態のいずれかが生じる。

君主国は、貴族または民衆、いずれかがその機会を得たときに生まれる。貴族は自分たちが民衆に対抗できないと見て、自分たちの中から一人を推挙し、彼を君主に仕立て上げ、その庇護のもとで野心を遂げようとする。民衆もまた、貴族に立ち向かえないと見れば、自分たちの中から一人を推し立て君主とし、その権威で自分たちを守らせようとする。貴族の助力で君主となる者は、自分と同等とみなす者が周囲に多く、彼らを思いのままに従わせることができず、統治も困難である。他方、民衆の支持で君主となった者は、孤高の存在となり、誰もが従う用意がある。

さらに、貴族は公正に扱い他人に害を与えず満足させることは困難だが、民衆は満足させられる。なぜなら、民衆の欲求は抑圧されないことだけであり、貴族は抑圧したがるからである。加えて、敵対する民衆には数が多すぎて君主は安全を確保できないが、貴族には数が少ないので対応できる。民衆に敵対された場合、最悪でも見捨てられるだけだが、貴族に敵対されると見捨てられることに加え、反逆を恐れなければならない。なぜなら彼らはより先見の明と狡猾さがあり、勝ち馬に乗るために常に行動するからである。また、君主は常に同じ民衆とともに生きなければならないが、同じ貴族である必要はなく、日々入れ替え権威の与奪も自在である。

この点をさらに明確にするために、貴族は主に二種類に分けられる。すなわち、君主の運命に自らを完全に結びつける者と、そうでない者である。前者で貪欲でなければ、敬愛し大切にすべきである。後者は、臆病や生来の気弱さで結びつかない場合は、有能な助言者として利用し、順調な時は名誉を与え、逆境の時は恐れる必要はない。しかし、野心のために自らを結びつけない者は、自分のことしか考えていない証拠なので、君主は警戒し、露骨な敵と同等に恐れるべきである。なぜなら逆境の時には必ず君主を滅ぼす助けとなるからだ。

よって民衆の支持で君主となる者は、民衆の好意を維持すべきであり、それは抑圧しない限り容易である。逆に貴族の支持で民衆に逆らって君主となった者は、まず民衆の支持を得る努力をすべきであり、彼らを保護することでそれは簡単に実現できる。なぜなら、悪を予期していた者が善を受けると、恩義を強く感じ、民衆は君主をより熱心に支持するようになるからである。君主は様々な方法で民衆の愛情を得られるが、その方法は状況によって異なるため、ここでは詳述しない。しかし、繰り返すが、民衆の支持なくしては君主は逆境を乗り切れない。

スパルタの君主ナビスは、ギリシア全土と勝利したローマ軍の攻撃に耐え、祖国と政権を守り抜いた。彼がこの困難を克服できたのは、敵対的な少数者に対応するだけで済んだからであり、もし民衆に敵対されていたなら、それだけでは不十分であった。この点について「民衆の上に築かれたものは泥の上に築かれる」との古い諺を持ち出す者がいるかもしれないが、それは、私人が民衆の支持に頼り、敵や役人に抑圧されている時に民衆が助けてくれると信じる場合に当てはまる。実際、ローマのグラックス兄弟やフィレンツェのジョルジョ・スカリのように、しばしば期待外れに終わった。しかし、上述のように自らの地位を確立し、指導力と勇気、逆境に屈しない心を持ち、不断の努力で民衆に希望を持たせる統治者なら、民衆の裏切りに遭うことはなく、堅固な基盤を築いていることが証明されるだろう。

このような君主国が危険にさらされるのは、市民的な統治から絶対的な統治へと移行する時である。君主が自ら統治するか、または官僚を通じて統治するかで、その支配の強弱は変わる。後者の場合、支配は市民の善意に全てがかかっており、特に混乱の時代には政権を転覆させられやすい。また、暴動のさなかには絶対的な権力を発揮する機会がなく、官僚に命じられるのに慣れた市民や臣民は君主に従おうとしない。混乱の時代には信頼できる人材が不足するのである。平時には皆が国家の恩恵を必要とし、君主に同調し、死ぬ覚悟を口にするが、嵐が来れば実際にはごく僅かしか頼りにならない。しかもこの実験は一度しか行えず、危険は一層大きい。したがって、賢明な君主は常にあらゆる状況下で市民が国家と自分を必要とするように政策を講じるべきであり、そうすれば忠誠は保たれる。

第十章 すべての君主国の強さを測る方法について

これらの君主国の性質を論じるにあたり、もう一点考慮すべきことがある。それは、君主が必要に応じて自力で持ちこたえられるか、それとも常に他者の助けを必要とするかである。この点を明確にするため、私は、十分な兵力や財力をもって、いかなる敵にも立ち向かえる軍を編成できる者を、自力で持ちこたえられる者とする。逆に、敵と野外で対峙できず、城壁の内に籠って守るほかない者は常に他者の助けを必要とする。前者については既に述べたが、必要なら再度言及する。後者については、都市の備蓄や要塞を強化し、決して田野の防衛を目指してはならないと助言するしかない。そして都市を堅固にし、臣民の管理を上述のように、また繰り返し述べる通りに行っていれば、誰も安易に攻撃しようとはしない。なぜなら困難が予見される事業には誰も踏み出したがらず、堅固な要塞と民衆の恨みを買わぬ君主を攻めることは容易ではないと分かるからだ。

ドイツの都市は全く独立しており、周囲にわずかな領土しか持たず、皇帝にも都合の良い時しか従わない。そのうえ、周囲にどんな強国が現れても恐れない。なぜなら、都市が堅固に要塞化されており、誰もが攻囲に手間取ると考えているからだ。適切な堀や城壁があり、十分な大砲が備えられ、公の備蓄には一年分の食料・燃料が蓄えられている。さらに市民を落ち着かせ、国家に損失を与えずに済むよう、常に市内の労働に従事させ、それが都市の生命線である。軍事訓練も重視され、さまざまな法令でこれを支えている。

ゆえに、強固な都市を持ち、憎まれていない君主は攻撃されることはなく、万一攻撃されても、攻撃者は恥をかいて退くことになる。さらに、現世の事情は絶えず変転するので、一年中軍勢を維持することはほぼ不可能である。もし「市民が郊外に財産を持ち、それが焼かれれば不満が高まり、包囲が長引けば君主を見限る」と言う者がいれば、これに対し、力強く勇敢な君主なら、時に「この悪は長く続かない」と希望を与え、時に敵の残虐さを恐れさせ、また度を越して大胆な市民を巧みに遠ざけることで、これらの困難を克服できると答える。

また、敵は到着後すぐに郊外を焼き払うだろうが、それは市民の士気がまだ高く防衛の意志が旺盛な時である。したがって、君主はためらうべきではない。時間がたてば士気も冷め、損害はすでに現実となり、もはや取り返しがつかない。だからこそ、市民は君主のために家を焼かれ財産を失った今こそ、感謝の念からむしろ君主に団結しやすい。人は受けた恩義と同様、与えた恩義にも縛られるものである。したがって、すべてをよく考えれば、賢明な君主が市民の心を初めから終わりまで一貫して支えることは難しくないと言える。

第十一章 教会的君主国について

最後に、教会的君主国について述べる。これらは獲得するまでにさまざまな困難があるが、手にしてしまえば才覚や運に頼らずとも維持できる。なぜなら、それらは古来の宗教的規律によって支えられており、その力は絶大で、どんな君主であっても国を保てるからである。これらの君主だけが、領土を持ちながら自ら守る必要がなく、臣民を持ちながら統治もせず、しかも支配されずとも国は奪われず、統治されずとも臣民は去りたがらず、離反する意思も力も持たない。このような君主国こそ安全で幸福である。しかし、それらは人知の及ばぬ力によって支えられているので、これ以上論じるのは僭越で軽率な行為となるゆえ、これ以上は触れない。

それでも、なぜ教会が世俗的権力をこのようにまで高め得たのか、すなわち、アレクサンデル以前はイタリアの有力者(名ばかりの者だけでなく、小さな諸侯や貴族も含めて)が教会の世俗的権力を軽視していたにもかかわらず、今ではフランス王ですらそれを恐れ、教会が彼をイタリアから追い出し、ヴェネツィアを滅ぼすほどになったのかについては、明白と思えるが、多少は回想しておきたい。

フランス王シャルルがイタリアに進出する以前、この国は教皇、ヴェネツィア、ナポリ王、ミラノ公、フィレンツェ人によって分割されていた。彼らの最大の懸念は、外国勢力が武力でイタリアに入ること、また互いに領土を奪い合うことだった。中でも教皇とヴェネツィアが最も警戒された。ヴェネツィアを抑えるには他の諸侯の結束が必要であり、教皇を抑えるにはローマの貴族(オルシーニ家とコロンナ家の二派)を利用した。彼らは常に武装し、教皇の目の前で騒乱の口実とし、教皇権を弱体化させていた。時に勇敢な教皇(シクストゥスなど)が現れても、運も知恵もこれらの悩みから解放してくれなかった。また、教皇の平均寿命は十年ほどであり、その間に一方の派閥を抑え込むのは難しい。仮にコロンナ家をほぼ滅ぼしても、次にはオルシーニ家が台頭し、彼らの敵を支え、オルシーニ家を滅ぼす余裕もなかった。このため、教皇の世俗的権力はイタリアで軽んじられていたのである。

その後アレクサンデル6世が現れ、歴代教皇の中でも、金と武力をもっていかにして権力を握れるかを示した。彼はヴァレンティーノ公(チェーザレ・ボルジア)とフランス王の手を借りて、上記のような大事業を成し遂げた。彼の本意は教会でなく公爵を強化することだったが、結果的に教会の発展に寄与し、死後は公爵の業績がすべて教会に受け継がれたのである。

次に教皇ユリウスが現れ、教会はロマーニャ全土を掌握し、ローマの貴族も無力化し、アレクサンデルにより派閥も一掃され、かつてない収入獲得の道も開かれていた。ユリウスはこれらを継承し、さらに発展させ、ボローニャの獲得、ヴェネツィアの打倒、フランスの追放を目指した。いずれも成功し、その手腕により教会を強化したのは、私的な人物ではなく教会そのものだった。オルシーニ家やコロンナ家の派閥も抑え込み、彼らに自派の枢機卿を持たせなかった。枢機卿が派閥を煽動し、貴族がこれに応じることで、教会に混乱が生じていたからである。こうして教皇レオ十世は強大な教会権力を継承し、もし前任者たちが武力で教会を強めたなら、彼は善良さと多くの美徳によって、さらに偉大で尊敬されるものにするであろうと期待される。

第十二章 兵種の種類と傭兵について

ここまで冒頭で述べた各種君主国の特徴について詳細に論じ、善悪や興亡の要因、獲得と維持の方法をある程度示してきた。次に、各君主国に伴う攻撃と防衛の手段について一般的に論じる。

既に述べたように、君主がしっかりとした基盤を持つことがいかに重要かは明らかであり、さもなくば必然的に滅びることになる。すべての国家の根本は、古いものであれ新しいものであれ、良法と良兵である。そして、武力がしっかりしてこそ、良法も成立する。従って、ここでは法律の議論は脇におき、武力について述べる。

君主が国を守るために用いる軍隊は、自軍、傭兵、援軍、混成軍のいずれかである。傭兵や援軍は役に立たず危険であり、これらを頼みにして国家を保とうとするなら、決して安定も安全も得られない。なぜなら傭兵は、まとまりがなく野心的で規律に乏しく、不忠実で、味方の前では勇敢を装い、敵の前では臆病で、神への畏れもなく人への忠義もない。攻撃されるまで滅亡は先延ばしになるが、平時には傭兵に食い物にされ、戦時には敵に食い物にされるだけだ。彼らはわずかな報酬以外に動機も忠義もなく、それで命を懸けるわけがない。戦争がなければあなたの軍となるが、いざ戦となれば逃げ出すか敵前逃亡するだろう。このことは証明するまでもない。イタリアが長年傭兵頼みだったことが国土の荒廃の原因であり、かつてはそれなりに見せかけの勇ましさがあったものの、外国勢力が来れば本性をさらけ出した。こうしてフランス王シャルルは、さながらチョークで線を引くだけでイタリアを占領できたのである。我々の罪が原因であったと言う者がいたが、それはここで述べたような君主の罪であり、その罰を受けたのも君主自身であった。

私はさらに、これらの兵種の不幸な性質を示そう。傭兵隊長が有能であれば、あなたは彼らを信用できない。なぜなら、彼らは常に自身の出世を画策し、雇い主をも押さえつけて支配しようとするからだ。もし隊長が無能なら、いつものように敗北して国家を滅ぼす。

「武装した者なら誰でも同じことをするのではないか」と反論する者がいれば、私はこう答えよう。国家にとって武力が必要なら、君主は自ら軍を率いるべきであり、共和国は市民を指揮官に据え、結果が不芳なら更迭し、有能なら法で縛って暴走させないようにすべきである。経験からしても、君主や共和国が自軍で大きな成功を収めた一方、傭兵は害ばかりもたらした。自軍で武装した共和国が一市民の独裁に陥るのは、外兵で武装した場合より難しい。ローマやスパルタは自国兵で長く自由と独立を保ったし、スイスも完全に武装し、完全に自由である。

古代の傭兵の例としては、カルタゴ人がローマとの第一次戦争後、自国民を隊長としながらも傭兵に圧迫されたことが挙げられる。エパミノンダスの死後、テーバイ人がマケドニア王ピリッポを軍司令官に迎えたが、彼は勝利するとテーバイの自由を奪った。

ミラノ公フィリッポの死後、ミラノ人はフランチェスコ・スフォルツァを雇ってヴェネツィアと戦わせた。しかし彼はカラヴァッジョの戦いで敵を打ち破ると、手のひらを返してミラノを圧迫した。彼の父スフォルツァも、ナポリ女王ジョヴァンナに雇われながら彼女を見捨て、彼女はアラゴン王に頼らざるを得なかった。ヴェネツィアやフィレンツェが領土を拡大できたのは運が良かっただけで、有能な隊長が成功していなかったか、常に対抗馬がいたか、他所に野心を向けていたからだ。実例として、フィレンツェ人が雇った名将ジョヴァンニ・アクートは、勝てなかったので忠誠を証明できなかったが、もし勝利していたらフィレンツェ人は彼の意のままになっただろう。スフォルツァは常にブラッチェスキと対立していたので牽制し合い、フランチェスコはロンバルディアに、ブラッチョは教会とナポリ王国に野心を向けていた。近年の例では、フィレンツェ人が民間出身の名将パオロ・ヴィテッリを雇い、彼がピサを落としていたら、彼を敵に回せば抗しきれず、味方につけても従わざるを得なかったはずだ。ヴェネツィアは初め自軍で果敢に戦いながら、陸上作戦を始めてからイタリアの悪習に従い傭兵を使い、大失敗を犯した。カルミニョーラの時代、彼が優れた隊長でありながら消極的な戦いぶりに疑念を抱かれ、結局彼を殺すほかなかった。その後のバルトロメオ・ダ・ベルガモ、ロベルト・ダ・サン・セヴェリーノ、ピティリアーノ伯らの下では利益どころか大損害を被り、ヴァイラの戦いで八百年かけて積み上げた領土を一夜で失った。傭兵による征服は遅々として進まず、損失は一瞬で訪れる。

さて、ここでイタリアの話に移ろう。長年傭兵に支配されたイタリアについて、彼らの興隆と変遷を見れば、対策もより明確になる。皇帝の権威が衰え、教皇が世俗権力を増し、イタリアが小国に分裂したのは、多くの都市が皇帝に支援された貴族による圧政に抵抗し、教会が世俗支配力拡大のため市民を支持した結果である。こうしてイタリアは教会と共和国の手に分かれたが、いずれも軍事に不慣れで、外国人を雇い入れるようになった。

この傭兵制度に名を与えたのはロマーニャ人アルベリーゴ・ダ・コニオである。彼のもとからブラッチョとスフォルツァが輩出し、彼らはイタリアの覇者となった。その後の隊長たちはみなイタリアの軍を率い、最終的にイタリアはシャルルに蹂躙され、ルイに略奪され、フェルディナンドに荒らされ、スイス人に侮辱された。彼らが行ったのはまず歩兵の価値を貶め、自分たちの権威を高めることだった。歩兵無しでは多くの兵を維持できず、騎兵だけで名声を保った。二万の軍で歩兵は二千にも満たなかった。また、戦闘や危険を避けるため、戦闘で殺さず捕虜も無償で解放し、夜襲や冬季作戦も行わず、陣営に堀や柵も設けなかった。こうした規律は疲労と危険を回避するためであり、イタリアを奴隷と侮辱の谷に導いた。

第十三章 援軍・混成軍・自軍について

もう一つの役に立たない兵種、援軍とは、君主が他国の軍を呼び寄せて助力と防衛を求める場合であり、これは最近では教皇ユリウスが行った。彼はフェラーラ遠征で傭兵の無力さを知り、スペイン王フェルディナンドと契約し援軍を頼んだ。これらの軍がいかに有能であろうと、呼び寄せた者には必ず不利益である。負ければ滅亡し、勝てば彼らの虜となるからだ。

そして古代の歴史が数多くの例に満ちているとしても、私はこの近年の例――教皇ユリウス2世の件――だけは省略せずに述べておきたい。その危険性は誰の目にも明らかだからである。彼はフェラーラを得ようとするあまり、完全に外国勢力の手に身を委ねた。しかし、幸運にも第三の出来事が起きたおかげで、その無謀な選択の報いを受けずに済んだ。すなわち、ラヴェンナで彼の援軍が敗走した後、スイス人たちが蜂起して、予想外にも彼や他の者たちの思いに反して勝者を追い出した。その結果、敵が逃亡したため彼は敵の捕虜にもならず、また、他の兵によって勝利を収めたので援軍の捕虜にもならなかったのである。

フィレンツェ人たちはまったく自前の軍を持たなかったため、ピサを攻めるべく一万人のフランス兵を送り込んだが、それにより過去最悪の危機に直面することとなった。

コンスタンティノープルの皇帝は隣国に対抗するため一万人のトルコ人をギリシャに送り込んだが、戦争が終わっても彼らは去ろうとしなかった。これがギリシャが異教徒の隷属状態に陥る始まりであった。

したがって、征服の意思がない者だけがこのような他国の兵を使うべきである。傭兵よりもはるかに危険だからだ。なぜなら、彼らの場合、破滅はすでに用意されているからである。彼らは一体となり、他者にのみ忠誠を誓う。しかし傭兵の場合、勝利したとしても、あなたに害を及ぼすにはさらに時が必要であり、より良い機会を要する。彼らは一つの共同体ではなく、あなた自身が雇い、給料を払うのだから、あなたが任命した第三者が直ちに十分な権威を持つこともできない。要するに、傭兵の最大の危険は臆病さであり、援軍の場合は勇敢さである。賢明な君主は常にこれらの兵を避け、自軍を頼みとしてきた。そして、他国の兵で勝つよりも、自軍で敗れることを選ぶ傾向にあった。他人の武力で得た勝利を真の勝利とはみなさなかったのである。

私はチェーザレ・ボルジアとその行動を引き合いに出すことをためらわない。この公爵は援軍としてフランス兵のみを率いてロマーニャに入り、イーモラとフォルリを占領した。しかし、その戦力が信頼できないと判断すると、傭兵に切り替え、危険が少ないと見てオルシーニ家とヴィテッリ家の兵を雇った。ところが、彼らと接してみると、彼らが疑わしく、忠実でなく、危険だと分かったので、彼らを滅ぼし、自らの兵に切り替えた。これらの兵力の違いは、公爵がフランス兵を持っていたとき、オルシーニ家やヴィテッリ家の兵を持っていたとき、そして自軍に頼ったときの彼の評価の違いを考えれば容易に分かる。自軍の忠誠を常に頼りにでき、その評価は常に高まっていった。彼が自軍を完全に掌握したと皆に認識されたときほど、彼の評価が高かったことはなかった。

私は当初、イタリアの、また近年の例以外は挙げるつもりはなかったが、先に名を挙げたシラクサのヒエロンの例も省略したくない。かつて述べた通り、彼はシラクサ人により軍の長に任命されたが、イタリアのコンドッティエーリのような傭兵軍が全く役に立たないことをすぐに悟った。彼はそれを保持することも、解雇することもできないと判断し、ついにその全員を皆殺しにした。そしてその後、他国の兵を用いずに自軍だけで戦争を行ったのである。

また、この話題に関して旧約聖書の一例も思い起こしておきたい。ダビデはサウル王に申し出て、ペリシテ人の勇者ゴリアテと戦うと言ったが、王は勇気づけるため自らの武具を授けた。ダビデはそれを身につけるとすぐに「自分には役立たない」と言い、武具を拒否して投石紐とナイフだけで敵に立ち向かうことを望んだ。結論として、他人の武器は背から落ちるか、重荷になるか、あるいは自分を縛ってしまうのである。

ルイ十一世の父、シャルル七世は、幸運と勇気によってイングランドからフランスを解放した後、自国の兵によって武装する必要性を認識し、王国に騎兵と歩兵の条例を制定した。だが、その息子ルイ十一世は歩兵を廃止し、スイス兵の雇用を始めた。この過ちは他の過ちとともに、今や見ての通りフランス王国の危険の源となっている。というのも、スイス兵の評価を高める一方で、自国軍の価値を完全に損ない、歩兵部隊を壊滅させてしまったからだ。騎兵も他国に従属する形となり、スイス兵とともに戦うことに慣れすぎて、今では彼らなしで勝利することができないように見える。こうしてフランス軍は傭兵と自国兵の混成となり、どちらか単独よりは良いものの、それでも自軍には及ばないことが分かる。この例は、もしシャルルの条例が拡大され、維持されていたなら、フランス王国は征服されえない存在だったであろうことを示している。

しかし、人間の知恵は乏しく、最初はいかにも良さそうに見える事柄に取りかかる際、その中に潜む毒には気づけない。これは先述した慢性熱病の例と同じである。ゆえに、君主たる者が、災厄が実際に現れるまでそれを認識できないのであれば、本当に賢明とは言えない。そして、この洞察を得られる者はごくわずかだ。もしローマ帝国の最初の没落を調べれば、その始まりはゴート人の雇用からだったことが分かる。そこから帝国の活力は衰え始め、それを高めた勇気はすべて他の者に移ってしまった。

よって結論として、いかなる君主国も自軍を持たない限り安全ではなく、むしろ完全に幸運に依存する存在となる。逆境の際に自国を守る勇気がないからである。賢者たちの意見や判断も一貫しており、自らの力に基づかない名声や権力ほど不確かで不安定なものはない。自軍とは、臣民、市民、家臣などから成る兵力のことであり、それ以外はすべて傭兵か援軍である。自軍の準備方法は、私が示した規則をよく考えてもらえば容易に分かるはずだし、アレクサンダー大王の父フィリッポスや、多くの共和国や君主がいかにして武装し組織したかを考察すればよい。私自身も、これらの規則に全面的に従うつもりである。

第十四章 君主と軍事の技術について

君主が目指すべきこと、また学ぶべき唯一の対象は、戦争とその規則・規律だけであるべきだ。なぜなら、それこそが支配者に特有の唯一の技術であり、その力は生まれながらの君主を支えるだけでなく、しばしば一私人を君主の地位にまで押し上げることすらあるからである。逆に、君主が安逸を求め、軍事を疎かにすれば、国を失うことになる。その第一の原因は、この技術を怠ることであり、国家を手に入れる力は戦術の習得にかかっている。フランチェスコ・スフォルツァは武勇によって一私人からミラノ公となったが、彼の息子たちは武の苦労と困難を避けたため、公爵から私人へと転落した。武装していないことがもたらす他の弊害に加え、侮蔑されることこそ、君主が最も警戒すべき不名誉の一つである。これは後述する。なぜなら、武装者と非武装者の間に釣り合いはなく、武装者が自発的に非武装者に従おうとするのは不合理であるし、非武装者が武装した家来に囲まれて安全を感じられるはずもないからだ。一方には軽蔑が、他方には疑念が生じ、両者がうまく協働することは不可能である。したがって、軍事の技術を理解しない君主は、すでに述べた他の不運に加え、兵からも尊敬されず、頼りにもできない。ゆえに、君主は常に軍事のことを思考から外してはならず、戦時よりもむしろ平時こそ、その訓練に励むべきである。その方法は二つ、すなわち行動と学習である。

行動面では、まず第一に、兵をよく組織し、訓練し続けること、また絶えず狩猟に励むことで、己の身を鍛え、地形の性質を知り、山がどのように連なり、谷がどのように開け、平地がどう広がり、川や沼地がどうなっているかを把握し、これらすべてに最大限注意を払うことだ。これらの知識は二重に役立つ。まず自国の防衛能力が高まる。次に、こうした地形の観察を通じて、将来学ぶ必要のある未知の土地についても容易に理解できるようになる。なぜなら、たとえばトスカーナにある丘や谷、平野、川、沼地は他国のものとある程度似ているため、一つの国の景観を知っていれば他国の理解も容易だからだ。この技能を欠く君主は、優れた将軍に必要な本質を欠いている。なぜなら、それによって敵を奇襲し、適切な宿営地を選び、軍隊を指揮し、戦列を組み、町を有利に包囲する術を学ぶからである。

アカイア人の君主フィロポイメンは、作家たちが彼を称賛する多くの理由の中で、平時にも常に軍事の規則を念頭に置いていたことで高く評価されている。彼は友人たちと田舎にいる際も、「もし敵があの丘に現れ、我々がここに大軍を率いていたら、どちらに優位があるか? どのように隊列を維持しつつ進軍すべきか? 退却する場合はどう追撃すべきか?」などと議論しながら進んだ。軍隊に起こりうるあらゆる場合を想定して意見を交換し、自らの見解も理由を挙げて説明した。このような議論を続けることで、戦争時に予期しない事態が起きても、対処できないということがなかったのである。

知性を鍛えるには、君主は歴史を読み、著名な人物たちの戦場での行動を研究し、勝因や敗因を分析して、敗北を避け、勝利を模倣するよう努めるべきである。とりわけ、ある偉人が前任者を模範とし、その偉業を常に心に刻んでいたように振る舞うことが重要だ。アレクサンダー大王がアキレウス、カエサルがアレクサンダー、スキピオがキュロスを手本としたように。そしてクセノフォンの『キュロスの教育』を読めば、スキピオの生涯にもその模倣の栄光が見出せる。賢明な君主はこのような規範を守り、平時に怠惰でいることなく、逆境に備えて自らの資源を増やしておくべきである。運命が変転した際にも、彼が備えを整えていることが重要なのだ。

第十五章 人とくに君主が称賛され、非難される事柄について

次に、君主が臣下や友人に対してどのような行動規範を持つべきかを考察したい。この点について多くの書物が書かれていることは承知しているので、再び論じることは僭越だと思われるかもしれない。ましてや私は、他人とは異なる手法で論じようとしている。しかし、私の意図は、これを理解しようとする者の役に立つものを書くことなので、現実の真実を追う方が、空想を追うよりも適切だと考える。なぜなら、多くの者が現実に存在したことのない共和国や君主国を描いてきたが、「現実に人間がどう生きているか」と「どう生きるべきか」の隔たりがあまりに大きいため、現実を無視して理想を追う者は、自滅を招くことが多い。なぜなら、すべてを徳で貫こうとする者は、邪悪が溢れる現実の中で破滅に直面するからだ。

したがって、自らの地位を保ちたい君主は、悪事の仕方も知っておく必要があり、必要に応じてそれを使い分けるべきである。よって、想像上の君主像を脇に置き、現実的なものを論じると、すべての人、特に高位にある君主は、何らかの徳や悪徳によって称賛または非難される対象となる。たとえば、ある者は寛大だとされ、別の者はケチだとされる(我々の言葉では、欲深い者は他人の物を奪う者であり、ケチな者は自分の財産の使用を極端に控える者を指す)。他にも、気前がよい、強欲、残酷、慈悲深い、不実、誠実、柔弱、勇敢、親しみやすい、傲慢、好色、貞潔、率直、狡猾、剛直、寛容、厳格、軽薄、信心深い、不信仰など、さまざまな評価がある。誰もが、君主がこれら善とされる資質をすべて備えていれば最も称賛されると認めるだろう。しかし、すべてを持ち、守ることは人間の条件上不可能であるため、失政につながる悪徳は避ける知恵を持ち、それ以外のものは、国を失う原因とならない限り、必要なら受け入れる柔軟さも必要である。そしてまた、国家維持に不可欠な悪徳で非難されることを恐れる必要はない。なぜなら、善と見えるものを実直に守れば身を滅ぼすことがあり、一方で悪と見えるものを実践すれば安全と繁栄をもたらすこともあるからだ。

第十六章 寛大さと吝嗇について

さて、先に挙げた資質のうち最初の「寛大さ」から始める。寛大であると評されるのは望ましいことだ。しかし、評判を得られない形で寛大さを発揮すれば、かえって自分を傷つける。なぜなら、誠実に、そして本来あるべき方法で寛大さを行使しても、世間に知られず、逆に吝嗇と非難されることを避けられないからだ。ゆえに、寛大であるという名声を得たい者は壮大な行為を忌避できず、その結果、君主は全財産を消費し尽くし、名声を維持しようとすれば国民に重税を課し、あらゆる手段で金を集めることになる。これはすぐに民衆の憎悪を招き、貧しくなれば誰からも軽く見られる。こうして寛大さによって多くを怒らせ、少数にしか報いず、最初の困難にさらされると、たちまち危険に陥る。自らもそのことを認識して後戻りしようとすれば、今度は吝嗇と非難されることになる。

したがって、寛大さを発揮して名声を得ることが、費用を伴わずにできないのであれば、賢明な君主は吝嗇という評判を恐れるべきではない。なぜなら、時間が経てばむしろ寛大な者よりも重んじられるようになるからだ。節約によって財源が枯渇せず、いかなる攻撃にも備えられ、民衆に負担をかけずにさまざまな事業に取り組めるからである。その結果、多数の人々から奪わずに済むため、ほとんどの者からは寛大であると見なされ、ごく少数の者にしか与えないことで吝嗇と見られるだけで済む。

我々の時代に偉業を成し遂げたのは、皆吝嗇とされた者ばかりであり、他は失敗した。教皇ユリウス2世も、寛大さの評判によって教皇位に就いたが、その後、フランス王と戦う際はこれを維持しようとしなかった。そして、戦争のために特別な税を課すことなく、長年の倹約で得た貯蓄で戦費を賄った。現在のスペイン王も、寛大な評判を得ていたなら、これほど多くの事業に挑み、成功することはできなかっただろう。したがって、君主は臣民から略奪せず、自衛でき、貧しくならず、卑屈にもならず、強欲にもならない限り、「吝嗇」という評判を小さな問題だと考えるべきである。それは統治に役立つ悪徳の一つなのだから。

「カエサルは寛大さによって帝国を手に入れたし、他にも寛大によって高位に上った者はいる」と異論を唱える者がいるかもしれない。だが、君主はすでに君主である場合と、これからなる場合とがある。すでに君主であるなら寛大さは危険であり、これから目指す者には必要不可欠である。カエサルもローマで頭角を現そうとしたが、もしその後長く生き、支出を抑えなかったなら、その政権を破綻させていただろう。また、「多くの君主が寛大な評判によって軍を率い、偉業を成し遂げた」との反論には、君主が支出するのは自分の財産か臣民の財産、または他人の財産のいずれかだと答える。自分や臣民の財産なら倹約すべきだが、他人の財産の場合は寛大さを惜しむ必要はない。敵地に進軍し、略奪や搾取で軍隊を支える君主には、寛大さが不可欠だからだ。キュロス、カエサル、アレクサンダーのように、他人の財産を惜しみなく使えば名声を損なうことはなく、むしろ高められる。自分の財産を浪費することだけが災いを招くのである。

寛大さほど速く消耗するものはない。実行するそばから、その力が失われ、ついには貧困か軽蔑、あるいは貧困を避けるために強欲となり憎悪を買うかのいずれかになる。君主は、何よりも軽蔑や憎悪を避けるべきであり、寛大さはその両方に繋がりやすい。ゆえに、非難はされても憎まれない吝嗇の評判を選ぶ方が、寛大さを追い求めるあまり強欲という憎悪を伴う悪名を得るよりも賢明なのである。

第十七章 残酷さと慈悲について、愛されるより恐れられる方が良いか

次に他の資質について述べるが、君主は誰しも慈悲深いと見なされることを望むべきであり、残酷だとは思われるべきでない。しかし慈悲を誤用しないことも大切である。チェーザレ・ボルジアは残酷と評されたが、その残酷さこそがロマーニャを平定し、統一し、平和と忠誠を取り戻す結果となった。この点を正しく考えれば、彼はむしろ、残酷の評判を避けるあまりピストイアの荒廃を許したフィレンツェ人よりも慈悲深かったと分かる。ゆえに君主は、臣民の団結と忠誠を保てる限り、残酷という非難を気にするべきではない。なぜなら、いくつかの見せしめの処刑を行うことで、多くの人を損なうことなく、無秩序を放置して殺人や略奪が蔓延する事態を防げるからだ。無秩序は民衆全体を害するが、君主の行う処刑は個人を傷つけるだけである。

そして新しい君主には、どうしても残酷という非難を避けられないことがある。新たな支配地には多くの危険が伴うからだ。この点、ウェルギリウスはディドの口を借りて「統治の困難さと王国の新しさが私にこのような厳しさを強いている」と述べている。

とはいえ、軽率に信じたり行動したりせず、自ら恐れを見せず、節度と賢明さ、そして人間味をもって行動すべきである。あまりにも信じすぎると無防備になり、疑いすぎると耐え難い支配者となる。

ここで「愛される方が良いか、恐れられる方が良いか」という疑問が生じる。両方であることが望ましいが、一人の人間が両立させるのは困難なので、どちらかを選ばなければならない場合は、愛されるより恐れられる方がはるかに安全である。なぜなら人間は一般に、恩知らずで移り気、不誠実で臆病で貪欲であり、君主が成功している限りは、血や財産、命や子供すら惜しまぬと口では言うが、いざ危機が迫るとたちまち背を向ける。こうした者たちの約束だけに頼り、他の備えを怠ると必ず滅亡する。金銭で買える友情は、偉大さや高貴さで得たものではないため、決して確かなものではなく、いざという時には頼りにならない。人は、愛される相手を裏切ることにためらいがなく、恐れられる相手には罰への恐怖から裏切りを控えるからだ。

とはいえ、君主は恐怖を与える際にも憎悪を招かない方法を心がけるべきだ。臣民や家臣の財産や女性には手を出さない限り、恐れられても問題はない。誰かの命を奪う必要がある場合は、正当な理由と明白な必要があるときに限るべきだが、何よりも他人の財産には絶対に手をつけてはならない。なぜなら、人は父の死よりも財産の喪失を早くは忘れられないからだ。財産を奪う口実はいくらでも見つかるが、命を奪う理由はそう簡単には見つからないし、すぐに消えてしまう。しかし、君主が軍隊とともにあるとき、多数の兵を支配するなら、残酷だという評判を無視することも必要となる。なぜなら、残酷さなしには軍の統率も任務遂行も不可能だからである。

ハンニバルの驚くべき業績の一つに、多民族からなる大軍を率いて異国で戦いながら、軍内でも君主に対しても反乱が一切起きなかったことが挙げられる。これは彼の並外れた残酷さと、それに劣らぬ勇猛さによるものだった。残酷さなしに、他の美徳だけではこの効果は得られなかったであろう。近視眼的な作家は、ある側面から彼の功績を称賛し、また別の側面からは主因である残酷さを非難する。しかし、彼の他の美徳だけでは事足りなかったことは、スキピオの例で分かる。スキピオはあらゆる時代を通じて最も優れた人物の一人だが、スペインでは軍が反乱を起こした。その理由は、彼の寛容さが軍規に緩みをもたらしたからである。ファビウス・マクシムスは元老院でスキピオをローマ軍の腐敗者と呼んで非難した。ロクリ人はスキピオの部下に略奪されたが、彼はその仕打ちを処罰せず、これも彼の温厚な性格によるものだった。元老院でも「他人の過ちを正すより、自分が間違えないことの方が得意な者もいる」と擁護の言葉があった。この性格が続いていたなら、やがてスキピオの名声も損なわれていただろうが、彼は元老院の統制下にあったため、こうした欠点も隠され、逆に彼の栄光に寄与した。

以上より、愛されるか恐れられるかの問題については、愛は相手の意志によるが、恐れは君主の意志にあるので、賢い君主は自分の意志でコントロールできる恐れの方に基盤を置き、憎悪だけは避けるよう努力すべきである。

第十八章 君主が約束を守るべきかどうか

君主が約束を守り、誠実に生きることがいかに称賛されるかは誰もが認めるところである。しかし、私たちの経験では、偉業を成した君主ほど約束を軽視し、狡猾さで他者の知恵を出し抜き、最後には言葉を信じる者たちを打ち負かしてきた。争いには二つの方法があり、一つは法律によるもの、もう一つは武力によるものだ。前者は人間的な方法、後者は獣的な方法とされる。しかし法律だけではしばしば不十分であり、武力を用いる必要が生じる。ゆえに、君主は人と獣の両面を使い分ける術を学ばねばならない。古代の作家たちが、アキレウスや他の君主たちがケンタウロスのキロンに育てられたと記したのも、すなわち「人間性と獣性の両面を備えた教師による教育」という寓意であり、君主にはこの二面性が不可欠であることを示しているのである。

自覚的に獣性を採用せざるを得ない場合、君主は狐と獅子の二面性を選ぶべきだ。なぜなら、獅子は罠にかかりやすく、狐は狼に抗しきれないからだ。したがって、狐のように罠を見抜き、獅子のように狼を威嚇することが必要である。獅子のみを頼みにする者は、事の本質を理解していない。よって、賢明な支配者は、約束を守ることで自らが不利益をこうむり、約束した理由も消滅してしまった場合には、必ずしも信義を守る必要はない。人間が全員善良ならこの教えは成り立たないが、現実には悪人が多く、あなたに対して信義を守らないのだから、君主も他人に対してそれを守る義務はないのである。こうした不履行には正当な口実などいくらでも見つかる。現代でも、数多くの条約や協定が君主たちの不誠実によって反故にされた例がある。狐のような狡猾さを巧みに使える者ほど、成功してきたのだ。

ただし、この性質をうまく隠し、大いなる偽装者・演技者でなければならない。人間は単純で目先の利益に左右されやすいから、騙そうとすれば必ず騙される者が現れる。近年の例として、アレクサンデル六世は他人を欺くことしかせず、またそれ以外考えたこともなかったが、彼は常にその策略を成功させた。なぜなら、虚言と偽証にかけて彼ほど巧みな者はいなかったし、誓いも破って平然としていたが、いつも思い通りに事を運んだからである。

したがって、君主は先に述べた美徳をすべて備えている必要はないが、それらを持っているように見せかけることは非常に重要である。あえて言えば、常に真実を守ることは有害であり、見せかけだけで十分有益なのである。慈悲深く、誠実で、人道的で、宗教的で、公正であるように見せかけ、場合によっては真の徳を持ち、しかし必要に応じてその反対にも転じられるよう、心を鍛えておかなければならない。

特に新しい君主であれば、人が称賛するすべての徳を厳格に守ることはできない。しばしば国家維持のため、信義や友情、人道、宗教に背く行為を強いられるからである。ゆえに、時と運命の変転に応じて自在に態度を切り替える柔軟さを持ちつつ、可能な限り善から逸脱しないよう心がけ、しかしやむを得なければ即座に反対に転じることができるべきだ。

このため、君主は、先述した五つの美徳――慈悲、誠実、人道、公正、宗教心――に満ちた言葉を常に口にし、それによって世間にそう見せるべきである。とりわけ、宗教心を持つように見せることが重要である。人は手よりも目で判断する傾向があるからだ。誰もが君主の外見を見るが、実際を知る者はごくわずかであり、その少数派も、大多数の意見に逆らうことはできない。なぜなら、彼らには国家権力という後ろ盾があるからだ。すべての人間に、特に君主の行為については、その結果で評価されるものであり、異論を挟むのは愚かだ。

このため、君主が国家を征服し、維持することができれば、その手段はいずれも正当とされ、皆に称賛される。大衆は結果や見かけだけを重視し、それ以外を考えない。世界には大衆しかいない。少数派の評価など、多数派の主張が揺るがない限り意味を持たないのである。

現代のある君主(名は挙げぬが)は、外面では平和と誠実さを説いているが、実際には最もそれに反しており、そのためにこそ王国と名声をしばしば維持しているのである。

第十九章 軽蔑・憎悪を避けるべきであること

これまで述べた資質のうち、主要なものについては説明した。他のものについても、まとめて簡潔に述べたい。君主は、自らが憎まれたり、軽蔑されたりする要因を避けることに最大限努めるべきである。これさえ達成できれば、他の非難を恐れる必要はない。

君主が最も憎まれるのは、強欲であること、臣民の財産や女性を侵害することである。これらは絶対に避けるべきだ。財産も名誉も侵さなければ、大多数の民衆は満足し、君主は少数の野心家だけと戦えばよい。そのような少数派は、多くの手段で容易に抑え込むことができる。

また、軽蔑されるのは、気まぐれ、軽薄、女々しさ、卑屈、優柔不断と見なされたときである。君主はこれらを岩のように避け、偉大さ、勇気、厳格さ、毅然とした態度を見せるべきだ。臣下や民との私的接触では、判断が不変であることを示し、誰も君主を出し抜こうとは思わない、あるいは欺けないという評判を維持すべきである。

このような印象を持たれる君主は高く評価され、そのような者は容易に陰謀を仕掛けられることはない。優れた人物であり、民衆から尊敬されている場合、陰謀は成立しにくいからである。ゆえに君主は、二つの脅威――内部の臣民、外部の勢力――に備える必要がある。後者は十分な武装と信頼できる同盟によって防げる。外部が安定していれば内部もおおむね安定し、外部が乱れても、準備を怠らず、絶望さえしなければ、あらゆる攻撃に耐えうる。これはスパルタのナビスがそうであったように。

内政については、外部が乱れる時、民衆が密かに陰謀を企てることを恐れねばならない。しかし、この危険も、憎悪や軽蔑を避け、民衆を満足させることで十分防げる。これが最も重要な対策である。民衆の支持ほど、陰謀に対する効果的な防御策はない。なぜなら、陰謀者は君主を排除することで民衆の支持が得られると考えているが、逆に民衆の怒りを買うと分かれば、誰も危険を冒そうとしないからだ。陰謀は単独では不可能で、必ず不満分子を仲間に引き入れる必要があるが、心を開いた時点で相手に密告の材料を与えてしまう。密告すれば確実な利益が得られ、成功の保証も不確かで危険が多い。ゆえに、陰謀者がそのまま友人でいられるのは極めて稀であり、よほどの敵意がない限り密告の道を選ぶ。

要するに、陰謀者には恐怖や疑心、処罰への恐れしかなく、君主には国家の威厳、法、友人や体制の保護がある。これに加えて民衆の支持があれば、陰謀を企てる者など現れるはずがない。陰謀者は計画実行前だけでなく、実行後も追及される恐れがある。なぜなら、その時点で民衆を敵に回すことになるからだ。逃げ道はない。

この点に関しては数限りない例が挙げられるが、ここでは我々の父祖の時代に起きた一つの例のみを挙げておく。ボローニャの君主であったアニバーレ・ベントヴォーリ(現アニバーレの祖父)は、カンネスキ家による陰謀で暗殺されたが、彼の一族で生き残ったのは幼いジョヴァンニただ一人だった。殺害直後、民衆は蜂起してすべてのカンネスキ家の者を殺した。当時のベントヴォーリ家がボローニャでどれほどの民衆の支持を得ていたかを示す出来事である。一族が途絶えたと思われた時、フィレンツェに鍛冶屋の子とされていたベントヴォーリ家の一人がいると知るや、ボローニャの人々は彼を迎えて統治を委ね、やがてジョヴァンニが成長して政権を継承するまで、彼が国を治めたのである。

以上の理由から、君主は民衆の支持さえあれば陰謀など気にする必要はない。だが、憎悪を買い、敵意を持たれるなら、何もかも恐れるべきだ。よく統治された国や賢明な君主は、貴族を絶望させず、民衆を満足させることに最善を尽くしてきた。これは君主が目指すべき最も重要な目標の一つである。

現代に最もよく統治された国家の一つはフランスであり、多くの優れた制度を持ち、その上に王と王国の自由と安全が成り立っている。その第一は議会とその権威である。王国の創始者は、貴族の野心と大胆さを抑えるために口枷が必要であると考え、また民衆の恐れに基づく貴族への憎悪を知っていた。だが、王が一方で民衆を保護していると非難され、他方で貴族を擁護していると非難されるのを避けるため、両者の間に仲裁者を立てた。それにより、王自身は貴族を抑えたり、庶民を優遇したりしても非難されずに済むようになった。これ以上の、より賢明な制度、王と国家の安全の源はないだろう。ここからもう一つ重要な教訓が得られる。君主は非難の対象となる事柄は他人に任せ、恩恵を与えることだけは自らの手で行うべきである。また、君主は貴族を重んじつつ、民衆の憎悪を買わないようにすべきである。

おそらく、ローマ皇帝たちの生涯と死を調べたことのある人の中には、私の見解とは反する例が多くあるように思われるかもしれない。なぜなら、彼らの中には高潔に生き、偉大な精神の持ち主であった者たちもいるが、それでもなお、帝位を失い、あるいは臣下たちの陰謀によって殺害された者もいるからである。そこで、これらの異論に答えるために、私は数人の皇帝たちの性格を振り返り、彼らの没落の原因は私が述べたものと異なるものではなかったことを示したい。同時に、当時の出来事を研究する者にとって注目すべき事項のみを考察の対象とする。

私にとっては、マルクス・アウレリウス哲人帝からマクシミヌスに至るまでの皇帝たちを取り上げれば十分であるように思われる。すなわち、マルクスとその子コモドゥス、ペルティナクス、ユリアヌス、セウェルスとその子アントニヌス・カラカラ、マクリヌス、ヘリオガバルス、アレクサンデル、そしてマクシミヌスである。

まず注目すべきは、他の君主国では貴族の野心と民衆の傲慢さとのみ戦えばよかったのに対し、ローマ皇帝は兵士たちの残忍さと貪欲さに耐えるという第三の困難を抱えていたことである。これは多くの皇帝を没落させたほどの難題であった。なぜなら、兵士と民衆の双方を満足させるのは非常に困難だからである。民衆は平和を愛し、そのため野心のない皇帝を好むが、一方で兵士たちは戦争好きで、大胆で残酷、かつ強欲な皇帝を愛する。そして彼らは、そうした性質を民衆に対して行使することを喜び、それによって自分たちの報酬が増え、欲望と残虐さを発散できるからである。このため、出生や育ちによって強い権威を持たない皇帝は常に倒されてきた。特に新たに皇帝位に就いた者たちは、この相反する二つの気風に対処する難しさを認識し、主に兵士たちを満足させる傾向があり、民衆を傷つけることにはあまり注意を払わなかった。この道を選ぶのはやむを得ないことである。なぜなら、君主は必ず誰かに憎まれるものであり、まずすべての者から憎まれるのを避けるべきだが、それができない場合には、最も強力な者からの憎悪だけは何としても避けるべきだからである。したがって、特別な支持を必要とした未熟な皇帝たちは、民衆よりも兵士たちを優先した。その結果は、皇帝が兵士たちを如何に支配できるかによって有利にも不利にもなった。

このような理由から、マルクス、ペルティナクス、アレクサンデルは皆、慎ましい生活を送り、正義を愛し、残虐を嫌悪し、人道的かつ寛大な人物であったが、彼らはマルクスを除いて皆悲惨な最期を遂げた。マルクスだけは、世襲によって皇帝位を継いだため、兵士にも民衆にも借りがなく、多くの徳を備えていたため常に両者を秩序立てて従わせ、生涯を通して憎まれることも侮られることもなかったのである。

一方、ペルティナクスは兵士たちの意に反して皇帝に擁立された。兵士たちはコモドゥスの下で放蕩な生活に慣れており、ペルティナクスが求めた誠実な生活を耐えられなかった。そのため彼らの憎しみを買い、さらに老齢を軽蔑されたことで、政権の初めにして早々に倒された。ここで注目すべきは、善行によっても悪行によっても憎しみは生まれるということである。ゆえに、前述したように、君主が国家を維持したいのであれば、しばしば悪を行わざるを得ない。なぜなら、自分の地位を維持するために必要と考えている集団(それが民衆でも兵士でも貴族でも)が堕落している場合には、その気分を受け入れ、彼らを満足させなければならず、このとき善行はかえって害となるからである。

次にアレクサンデルについて述べよう。彼は非常な善人であり、他の賛辞とともに、14年間の在位中に裁判なしに誰一人処刑しなかったことが賞賛されている。しかし、彼は軟弱者と見られ、母親に支配されているような男と評されたため、侮られ、軍は彼に反旗を翻し、彼を暗殺した。

コモドゥス、セウェルス、アントニヌス・カラカラ、マクシミヌスといった、これとは正反対の性格を持つ皇帝たちを見てみよう。彼らは皆、残酷で強欲であり、兵士たちを満足させるために民衆に対してどんな悪事もいとわなかった。そして、セウェルスを除くすべてが悲惨な最期を遂げた。ただし、セウェルスには非常な勇気があったため、兵士たちを味方につけて民衆を抑圧しながらも成功して治めることができた。彼の勇気は兵士と民衆の双方から大いに尊敬されるものであり、民衆は驚愕と畏怖の念を抱き、兵士たちは敬意と満足をもって彼に仕えた。新たに皇帝位についた人物として、この男の行為は偉大であり、君主が「狐」と「獅子」の性質を模倣する必要があると先に述べたが、彼はそれを巧みに演じ分けたことを簡単に示したい。

ユリアヌス帝の怠惰を知っていたセウェルスは、自分が指揮していたスラヴォニアの軍隊に、プラエトリアニ(近衛兵)に殺されたペルティナクスの仇を討つためローマに行くべきだと説得した。この口実のもと、あたかも皇帝位を狙っていないかのように軍を動かし、出発したことさえ知られる前にイタリアに到達した。ローマに到着すると、元老院は恐怖のあまり彼を皇帝に選び、ユリアヌスを殺害した。その後、帝国の支配権を得ようとしたセウェルスには二つの難題が残っていた。一つはアジアにおいてアジア軍の長であるニゲルが自ら皇帝に即位したこと、もう一つは西方のアルビヌスも皇帝位を狙っていたことである。両者を敵に回すのは危険と判断したセウェルスは、まずニゲルを攻撃しアルビヌスを欺くことにした。アルビヌスには、元老院から皇帝に選ばれたので、その地位を分かち合いたいと書き送り、「カエサル」の称号を送り、さらに元老院がアルビヌスを共同統治者にしたと伝えた。アルビヌスはこれを真に受けた。しかし、セウェルスはニゲルを破り東方を平定した後、ローマに戻り、アルビヌスが恩義を顧みず自分を殺そうと企てたと元老院に訴え、その恩知らずを罰する必要があると主張した。その後フランスにいたアルビヌスを討ち、その地位と命を奪った。こうしてこの男の行動を詳細に検証する者は、彼をもっとも勇敢な獅子であり、かつもっとも狡猾な狐であったと認めるだろう。彼は誰からも恐れられ、尊敬され、軍から憎まれることもなかった。新参者でありながら帝国をこれほどまでに維持できたのは、彼の卓越した名声が、暴力により民衆から抱かれたであろう憎悪から常に彼を守ったからである。

だが、その息子アントニヌスはきわめて優秀な人物であり、多くの美徳を持っていたため民衆から賞賛され、兵士からも受け入れられていた。彼は戦争好きで、困難に耐え、あらゆる贅沢を軽蔑し、これが軍隊から愛された理由であった。しかし、その残忍さと残虐さは極めて甚だしく、数えきれないほどの個人的な殺人の後、ローマ市民の多数とアレクサンドリアの全住民を虐殺した。そのため全世界から憎まれ、周囲の者たちにも恐れられるほどだったので、ついには軍中で百人隊長によって殺害された。ここで注目すべきは、このような覚悟を持った決意の殺人は、どんな君主でも避けることができないという点である。命を惜しまない者がいれば、必ず実行されうるからである。しかしこの種の死を君主が恐れる必要は少ない。なぜなら非常に稀であるからである。ただし、国家運営に携わる部下や周囲の者に対して重大な害を加えないよう注意しなければならない。アントニヌスはこの配慮を怠り、その百人隊長の兄を侮蔑的に殺し、しかもその隊長本人を近衛隊に留め、日々脅し続けていた。これは結果的に愚かな行為であり、皇帝の破滅を招いた。

次にコモドゥスについて述べよう。彼はマルクスの子であるため、帝位を守るのは非常に容易であったはずであった。父の足跡を辿れば、民衆も兵士も満足させられたはずだった。しかし彼は生来残忍で粗野であり、兵士たちを歓楽に誘い、堕落させて彼らを味方につけるとともに、民衆からは略奪を働いた。一方で自身の威厳を保たず、たびたび劇場に降りて剣闘士と競い合ったり、皇帝の威信にまったくふさわしくない卑しい行為に及んだ。そのため兵士には軽蔑され、片方からは憎まれ、もう一方からは侮られ、謀略により殺された。

最後にマクシミヌスの性格について述べる。彼は非常に戦闘的な人物であり、先に述べたアレクサンデルの軟弱さにうんざりした軍隊によってアレクサンデルが殺され、マクシミヌスが皇帝に推挙された。しかし彼は長くその地位を保てなかった。なぜなら、彼がトラキアで羊飼いをしていたことを皆が知っており、これは大きな恥辱と見なされ軽蔑されていたからである。さらに即位後、ローマに赴いて帝位を掌握するのを遅らせたため、侮られた。また、ローマや帝国内各地で官吏を通じて多くの残虐行為を働いたため、世界中が彼の卑しい出自に憤り、野蛮さに恐れを抱いた。最初にアフリカで反乱が起こり、続いて元老院と全ローマ市民、イタリア全土が彼に反旗を翻し、さらに自軍も加わった。彼の軍隊はアクイレイアを包囲し、攻略に手間取ると、彼の残虐さにうんざりし、反対勢力の多さに恐れが薄れ、ついに彼を殺害した。

ヘリオガバルス、マクリヌス、ユリアヌスについては、全く軽蔑される存在であり、すぐに歴史から消し去られたのでここでは論じないこととしよう。以上から結論として、現代の君主たちは、兵士たちを過度に満足させる難しさははるかに少なくなっている。というのも、彼らをある程度甘やかす必要はあっても、それはすぐに達成できることであり、現代の君主が持つ軍隊は、ローマ帝国時代のように属州の統治や行政のベテランではない。かつては兵士を満足させることが民衆よりもはるかに重要だったが、今ではトルコ人とスルタンを除き、すべての君主にとって民衆を満足させることの方が兵士を満足させるよりも重要である。なぜなら、民衆の力の方が強大だからである。

ここでトルコ人だけは例外とする。彼は常に一万二千人の歩兵と一万五千人の騎兵を周囲に置き、王国の安全と強さが彼らに依拠しているため、民衆のことはさておき、彼らを味方につける必要がある。スルタンの王国も同様であり、完全に兵士たちの手中にあるので、やはり民衆のことは考えず、彼らを味方につけねばならない。しかし、スルタンの国家は他のどの君主国とも異なることに注意すべきである。なぜなら、それはキリスト教の法王庁のようなものであり、世襲国家とも新規の君主国とも言えないからだ。かつての君主の子が王位を継ぐのではなく、権威ある者によってその地位に選ばれ、子はただの貴族にとどまるという古くからの慣習がある。このため、それは新しい君主国とは言えず、また古い国家の憲法が新しい君主を世襲君主のように受け入れるよう設計されているので、新しい君主国にありがちな困難も生じないのである。

さて本論に戻るが、このことをよく考察すれば、上記の皇帝たちには憎悪か侮蔑のいずれかが致命的であったことが認められるであろう。また、彼らの中で、ある者は一つの道を、ある者は別の道を採ったが、それぞれの道でうまくいったのは一人のみであり、他は皆不幸な結末を迎えたことが分かる。なぜなら、ペルティナクスやアレクサンデルのような新たな君主が、世襲君主であったマルクスを模倣するのは無意味で危険だったであろうし、同様にカラカラ、コモドゥス、マクシミヌスがセウェルスを模倣したら、彼らにその足跡を辿るだけの勇気がなかったため、完全に破滅していただろうからである。ゆえに、新たな君主はマルクスの行動を模倣することはできないし、またセウェルスのすべてを模倣する必要もない。ただし、国家の基礎を築くためにはセウェルスから必要な部分を、既に安定した国家を維持するためにはマルクスの適切で名誉ある部分を取り入れるべきなのである。

第二十章 君主がよく頼る要塞などは有利か不利か

  1. ある君主たちは、国家を安全に保つために、臣民を武装解除した。他の者は、配下の町を党派争いで分裂させておいたり、自らに敵意を抱く者を育てたり、政権初期に信用できない者を取り込もうとしたりした。要塞を築く者もあれば、逆にそれを破壊した者もいる。これらすべてについては、判断を下すにはその国の細部を知らねば最終的な結論は出せないが、できる限り一般的に論じたい。

  2. 新たな君主が臣民を武装解除した例はかつてない。むしろ、非武装のままであれば必ず彼らを武装させてきた。なぜなら武装させれば、その武器は自分のものとなり、かつて不信だった者は忠実となり、元から忠実だった者はそのまま保たれ、臣民全体が自分の支持者となるからである。すべての臣民を武装させることはできないが、武装させた者に報酬を与えれば、他の者たちはより自由に扱える。このような差別的待遇も彼らが十分に理解しているので、恩恵を受けた者はより忠実となり、恩恵にあずかれなかった者も「危険や奉仕の多い者が報酬も多いのは当然」と納得するので、恨みは起きにくい。一方、武装解除すれば、臆病・または忠誠心の欠如ゆえに不信を抱いていることを露骨に示すので、どちらにしても敵意を買う。そして、自分自身は非武装のままではいられないので、傭兵を頼ることになり、これはすでに述べた通り危険である。傭兵が優秀でも、強敵や不信な臣民には対応しきれない。したがって、新たな君主が新しい領土を得た際には、必ず武器を分配してきた。歴史はこの例に満ちている。ただし、従来の領土に新しい州を加えた場合には、その地の男性は武装解除しなければならず、ただし征服時に協力した者だけは例外とし、その者たちも時の経過とともに軟弱化させておくべきである。最終的には、領土内の武装した者は皆、自分の旧領に住む自分の兵士だけになるようにせねばならない。

  3. 先人や賢者とされる者たちは、「ピストイア(Pistoia)を党争で、ピサ(Pisa)を要塞で支配せよ」と言い、支配下のいくつかの町に争いを温存して統治しやすくしていた。これはイタリアが均衡していた時代にはよかったかもしれないが、現代では通用しないと私は考える。党争が有利に働くことはなく、むしろ敵が現れた時、分裂した都市はあっという間に滅びる。なぜなら弱い方が外敵と手を組み、強い方だけでは抵抗できないからである。ヴェネツィア人もこれを狙い、支配下の都市でグエルフ党とギベリン党を助長したが、流血には至らない程度に争いを温存し、住民が団結して反乱できないようにしていた。しかし、ヴァイラの戦い後、政情が変わると、すぐに一方が蜂起し国家を奪ってしまった。したがって、こうした方法は君主の弱さの証である。強い君主国では党争は決して許されない。党争によって臣民を支配しやすくする方法は平時には有効でも、戦争が始まれば全くの誤りである。

  4. 君主は、困難や障害を克服することによって偉大になる。特に新しい君主を偉大にしようとする運命は、名声を得る必要のあるその者のために、敵を生み出し、陰謀を企てさせ、彼がそれらを克服する機会を与えることで、あたかも敵が用意した梯子を登らせるがごとく高みに押し上げようとする。そのため多くの人は、賢明な君主は機会さえあれば、巧妙に自分への敵意を育て、それを打ち砕くことで一層の名声を得るべきだと考えている。

  5. 特に新たな君主は、支配初期に不信だった者の方が、初めから信頼していた者たちよりも忠実で役立つ場合が多い。シエナの君主パンドルフォ・ペトルッチは、むしろかつて不審だった者たちを重用して国を治めていた。ただし、このことは一概には言えず、個々の事情によって異なる。ただし、支配初期に敵対していた者が、自立のために助けを必要とするタイプであれば、簡単に味方に引き入れられ、その後はかつて抱かれた悪印象を打ち消すために忠実に尽くすようになる。従って、あまりに安心して仕える者よりも、その方が君主にとっては役立つことが多い。さらに、密かな協力によって新しい国を手に入れた君主には、なぜ自分を支持したのかを十分に吟味するよう警告したい。もしそれが単なる前政権への不満であり、個人的な親愛によるものではない場合、彼らを味方につなぎ止めるのは困難であり、満足させるのは不可能である。古今の事例をよく考えれば、前政権に満足していて自分には敵対的だった者の方が、前政権に不満を持ち自分を支持した者よりも、むしろ容易に味方にできることが分かるだろう。

  6. 君主が国家をより強固に保つため、反乱を企てる者たちを抑制し、初攻を逃れる避難所として要塞を築いてきた慣習については、私はこれを賞賛する。実際、現代でもチェッタ・ディ・カステッロで二つの要塞を壊して支配を維持したニッコロ・ヴィテッリや、チェーザレ・ボルジアに追われた後自国に復帰したウルビーノ公グイド・ウバルドは、全ての要塞を破壊しておいた方がむしろ失う危険が少ないと考えたし、ボローニャに復帰したベンティヴォーリ家も同様の結論に至った。したがって、要塞が有益かどうかは状況次第であり、一面で役立っても他面で害を及ぼすこともある。この問題は次のように考えることができる。民衆よりも外国勢力を恐れる君主は要塞を築くべきであり、逆に民衆の方が脅威であれば、要塞は必要ない。フランチェスコ・スフォルツァが築いたミラノ城は、スフォルツァ家にとって災いの元となった。ゆえに最良の要塞とは「民衆から憎まれないこと」である。いくら要塞を持っていても、民衆が憎めばそれは君主を救わず、常に外国勢力が民衆の味方につくからである。現代で要塞が君主を助けた例は、フォルリ伯爵夫人が夫を殺された際、要塞の助けで民衆の攻撃をしのぎ、ミラノから援軍を待って国を回復できたときくらいである。しかしやがてチェーザレ・ボルジアに攻められ、民衆が敵として外国勢力と結託したときは、要塞はまったく役立たなかった。したがって、彼女の場合も、要塞を持つより民衆から憎まれないようにする方が安全であった。以上を踏まえれば、要塞を築く者も築かない者も賞賛し得るが、要塞に頼り、民衆の憎悪を顧みない者は非難すべきである。

第二十一章 君主が名声を得るためのふるまい方

君主を何よりも称賛される存在にするのは、大事業を遂行し模範となるような行動を示すことである。現代のスペイン王フェルディナンド・アラゴンは、ほとんど新たな君主といってよい。なぜなら、彼は名声と栄光によって無名の王からキリスト教世界で最も著名な王へと登りつめたからだ。その行動を見れば、いずれも偉大で、いくつかは驚くべきものである。治世初期にグラナダを攻撃し、これがその支配の礎となった。彼は当初、静かに戦争を起こし、カスティーリャの貴族たちを戦争に気を取らせて新しい動きを察知させず、その間に彼らを支配下に置いた。教会と民衆の資金で軍を維持し、その長い戦争によって後の軍事的熟練の基礎を築いた。さらに常に宗教を口実に掲げて一層の事業を行い、敬虔な残酷さをもってムーア人を王国から追放し、清めることに専念した。これはこれ以上ないほど賞賛すべき、また稀有な例である。同じく宗教の名のもとアフリカに進出し、イタリアにも出兵し、ついにはフランスに攻撃を仕掛けた。このように彼の事績と企図はいずれも壮大で、常に民衆の心を期待と驚嘆に引きつけ、その成り行きに夢中にさせてきた。そして、一つの行為が次の行為へと連続して生まれるため、人々は彼に反対する機会を持てなかった。

また、国内で異例の処置をとることも、君主の名声に大いに役立つ。例えばミラノのベルナボー卿は、誰かが極めて珍しい善行や悪事を行ったときは、必ず目立つ方法で褒美や罰を与え、皆の話題にさせていた。君主は、いかなる時も偉大で注目すべき人物と思われるよう心掛けるべきである。

また、君主は、真の友か徹底した敵か、どちらかであると見られることも重要である。つまり、いかなる留保もなく、一方の側に味方することが、どちらつかずでいるより常に有利である。なぜなら、強大な隣国同士が争う場合、どちらが勝っても自国の立場は微妙になるが、明確にどちらかに味方し積極的に戦うことで、敗者からも勝者からも軽んじられずにすむからである。中立を望むのは、敵対する側だけであり、味方は武器を取って参陣するよう求める。多くの場合、優柔不断な君主は目前の危険を避けようとして中立を選び、結局は滅ぼされる。しかし、堂々と一方に味方すれば、その側が勝った場合、たとえ勝者の権勢が強大であっても恩義を感じ友情が生まれるし、人は恩知らずとなることを恥じるものだ。敗れた場合も、味方としてかばわれ、再起を目指して支援されるだろう。

二つ目のケースとして、どちらが勝っても自国に危害が及ばない場合は、ますますどちらかに味方する方が賢明である。なぜなら、友軍の助けで一方を倒せば、その勝者は自国の意のままとなるからだ。ただし、自分より強い国と同盟して他国を攻撃するのは、やむを得ない場合を除き避けるべきである。なぜなら、勝利すればその強国の支配下に置かれるからだ。ヴェネツィアがフランスと組んでミラノ公を攻撃したのは、破滅の元となった。だが、どうしても避けられない場合、たとえば教皇とスペインがロンバルディアを攻めてきた時のフィレンツェのような状況では、いずれか一方に味方すべきである。

いかなる政府も絶対に安全な道を選ぶことはできない。むしろ、どのように選んでも必ず何かしらの問題に直面するものだ。現実問題として、一つの困難を避けようとすると別の困難に巻き込まれる。賢明さとは、問題の性質を見極め、害の少ない方を選ぶことである。

君主はまた、人材の保護者であることを示し、あらゆる分野の優秀な者を称賛すべきである。同時に、市民が商業や農業など、各自の業に平穏に励むことを奨励し、土地の改良や交易の拡大を恐れず行わせるべきである。そのような者には報奨を与え、都市や国家を名誉あるものにしようとする者を高く評価すべきだ。

さらに、祭りや見世物を適切な時期に催して民衆を楽しませるべきである。また、すべての都市はギルドや組合に分かれているので、これらの団体も重視し、時には自ら交わり、礼儀正しく寛大であることを示すべきである。ただし、決して皇帝としての威厳は損なわないようにしなければならない。

第二十二章 君主の側近について

側近の選び方は君主にとってきわめて重要で、その良し悪しは君主の見識次第である。君主の知性や評価は、まず彼の周囲にいる人物を見て判断される。優秀で忠実な側近がいれば、君主も有能とみなされる。逆にそうでなければ、最初の過ちである側近選びの誤りからして、良い評価は得られない。

シエナの君主パンドルフォ・ペトルッチの側近アントニオ・ダ・ヴェナフロを知る者は、パンドルフォの賢さを讃えずにはいられなかった。なぜなら、知性には三段階あり、自分自身で理解できる者、他者の理解を評価できる者、そしてどちらもできない者がいる。第一は最上、第二は良い、第三は役立たない。よって、パンドルフォが最上でなかったにせよ、善悪の判断ができたのであれば、優れた側近を見抜き、賞賛もでき、また悪い点は是正できる。したがって、側近は君主を欺こうとは思わず、誠実に仕えるようになる。

君主が側近の真価を見抜くには、一つ確実な基準がある。それは、側近が君主の利益より自分の利益を優先し、常に自己の利益を図っている場合、決して良い側近にはならず、信用もできないということだ。他人の国家を託される者は、常に君主のことだけを考えなければならない。

逆に、君主が側近を誠実に保つためには、名誉を与え、財産を豊かにし、親切にし、栄誉と責務を分かち合う必要がある。しかし同時に、彼が君主なしでは立ち行かないことを自覚させるべきである。名誉が多くなりすぎて欲が出たり、財産が増えすぎてさらなる富を欲したり、責任の重さに怯えさせるようにすることで、適切なバランスを保つことができる。このように双方が互いを信頼すれば、良好な関係となるが、そうでなければ最後はどちらかが不幸な結末を迎えることになる。

第二十三章 おべっか使いを避ける方法

この話題の重要な一枝を見逃したくない。それは、おべっか使いたちから身を守る難しさについてである。宮廷はおべっか使いであふれている。人は皆、自分のこととなると自惚れが強く、事実認識も甘いので、この病から逃れるのは困難だ。もしこれに対抗しようとすれば、逆に軽蔑される危険すらある。ただ一つの方法は、「真実を述べても君主は怒らない」という態度を示すことだが、誰もが自由に忠言できるようになると、君主としての威厳が損なわれる。

したがって、賢明な君主は、国内の賢者を選び、彼らにのみ自分が問うた事柄についてのみ自由に進言する権利を与えるべきである。そして、あらゆることについて彼らに質問し、意見をよく聞いたうえで、自ら結論を下すべきである。また、個別にも集団にも接する際、率直な発言をすればするほど評価されるのだと理解させるべきである。それ以外の者の声には耳を貸さず、自分が一度決めたことは断固として実行すべきである。さもなければ、おべっか使いに操られたり、意見に振り回されて軽蔑されることになる。

この点で、現代の例を挙げたい。現皇帝マクシミリアンの側近である修道士ルカは、皇帝について「誰にも相談せず、何一つ自分の思い通りにできない」と語った。これは皇帝が上記とは正反対のやり方をしていたためだ。彼は秘密主義で、誰にも計画を明かさず、意見も聞かない。だが、いざ実行に移せば周囲に知られ、すぐに妨害される。すると優柔不断な彼はすぐ計画を変えてしまう。結果として、今日やったことを明日は覆し、誰にも意図が分からず、誰もその決断を信じない。

ゆえに、君主は必ず自分から求めて助言を受けるべきであり、他人が勝手に進言するのはむしろ抑制すべきである。ただし、常に自発的に問う姿勢を持ち、また聞いたことには忍耐強く耳を傾けるべきである。そして、どのような理由であれ、自分に真実を告げなかった者がいれば、厳しく叱責すべきである。

「賢さがあるように見える君主は、実は周囲の優秀な助言者のおかげにすぎない」と考える者もいる。しかしそれは間違いだ。なぜなら、君主自身に賢明さがなければ、良い助言を受け入れることは決してできないからだ。唯一の例外は、自分の全権を一人の極めて賢明な人物に丸投げした場合だけであるが、それも長続きしない。なぜなら、そのような人物はやがて国を奪ってしまうからだ。

君主に経験があっても、多くの人から助言を受けていれば、決して統一的な意見は得られず、まとめる術も持たない。助言者たちは皆自分の利益を考え、君主はそれを見抜けないからだ。人は強制されない限り忠実ではない。したがって、「良い助言が出るのは、君主の賢明さのおかげであり、君主の賢明さが助言のおかげで生まれるのではない」と結論できる。

第二十四章 なぜイタリアの君主たちは領土を失ったのか

これまでの提言を注意深く守れば、新たな君主は、長年君主であった者以上に国家に定着し、安全を得られるようになる。なぜなら、新参の君主は古参の君主よりも厳しく観察され、その力量が認められれば、古い血筋よりもはるかに強固に人々を結びつけるからである。人々は過去よりも現在に惹かれるものであり、現状が良ければそれを享受し、これ以上は望まない。また、他の点で失望させなければ、君主を最大限守ろうとする。したがって、新たな君主が国家を築き、優れた法律・軍備・同盟・模範を備えたならば、それは二重の栄光となる。逆に、生まれながらの君主が知恵のなさで国を失うことは、二重の不名誉となる。

そして、現代のイタリアで国家を失った王、たとえばナポリ王やミラノ公などを見れば、まず第一に軍備の面で共通の欠陥があり(これはすでに詳述した)、さらに、どちらか一方の欠陥――すなわち民衆を敵に回した、あるいは民衆を味方につけていたが貴族を押さえきれなかった――があることが分かる。これらの欠陥がなければ、自国軍を維持できる国家が滅ぶことはない。

アレクサンダー大王の父ではなく、ティトゥス・クィンティウスに敗れたマケドニアのフィリッポスも、ローマやギリシャの強大さに比べて領土は小さかったが、戦争に長けており、民衆を惹きつけ貴族を押さえることを心得ていたので、長年にわたり敵と戦い続けることができた。最終的にいくつかの都市の支配権は失ったものの、王国自体は守り抜いたのである。

したがって、私たちの君主たちが、長年にわたり自らの領地を保持してきたにもかかわらず、それを失ったことを運命のせいにするのではなく、むしろ自らの怠慢を責めるべきである。なぜなら、平穏な時期に変化が訪れることなど考えもしなかったからであり(嵐に備えて平時に備えをしないのは人間の一般的な欠点である)、いざ悪い時代が訪れると逃亡を考え、防衛しようとは思わず、征服者たちの傲慢さに人々が嫌気をさして自分たちを呼び戻してくれることに期待してしまうからである。他の手段がすべて尽きた場合には、このような策も良いかもしれないが、それ以外の方策をすべて怠っておいてそれに頼るのは大変愚かなことである。自分を回復してくれる誰かを後で見つけるつもりで転落することなど、誰も望むべきではない。というのも、そうした回復は実際には滅多に起こらず、仮に起こったとしても、それによって安全が保証されることはないからだ。なぜなら、自らの力によらない救済は無意味であり、信頼できて確実かつ永続的なのは、自分自身や自らの勇気に基づく策だけだからである。

第二十五章 人間の営みにおいて運命が及ぼす影響と、その対処法について

世界の事柄は運命と神によって支配されており、人間の知恵では導くことができず、誰もそれを助けることすらできないと考える人が昔から多く、今もなお多いことを私は承知している。ゆえに、彼らは我々に、事業においてさほど苦労しなくてもよく、すべてを偶然に任せるべきだと信じさせようとする。この考え方は、近年目の当たりにした、また今も日々見られる、あらゆる人間の予想を超えた大きな変動によって、我々の時代においてますます信じられるようになっている。私自身もこれについて考えるとき、しばしば彼らの意見に多少傾くことがある。しかしながら、我々の自由意志を完全に消してしまわぬように、私は次のように考える。すなわち、運命は我々の行動の半分の支配者であるが、残りの半分、あるいはそれよりやや少ない部分については、我々自身が導く余地が残されている、ということである。

私は運命を、氾濫して平野にあふれ出し、木々や建物を押し流し、土壌をさまざまな場所へ運び去る激しい河川に例える。その勢いには誰も抗えず、すべてがその暴力の前に屈する。しかし、そうした本性を持っているからといって、天候が穏やかになったとき、人々が堤防や障壁を築き、次に水が増えたときには運河を通すことで、その暴威を制御・軽減する備えをしないでよいということにはならない。同様に、運命も、備えがなされていない場所、勇気をもって抗う準備がない場所でこそ、その力を発揮するのであり、そこに力を注ぐのだ。

イタリアを考えてみれば、まさにこうした変動の舞台であり、その原因を提供してきた国であることがわかるだろう。イタリアは障壁も防御もなく無防備な国である。もしドイツやスペイン、フランスのように適切な勇気でもって防衛されていたならば、これほどまでの侵略も生じなかったであろうし、そもそも侵略自体が起こらなかったはずだ。これで一般的な運命への抵抗については十分述べたとしよう。

より個別の話に絞ると、今日幸せだった君主が明日には滅びることがあり、それはその性格や態度に変化がないにもかかわらずである。これは、すでに詳しく述べた理由、すなわち、運命のみに頼る君主は、その運命が変わったときに滅びるという理由によるものだと私は考える。また、時勢にかなった行動を取る者は成功し、そうでない者は成功しないと私は信じる。人間は誰しも、栄光や富という最終目的に至るために、さまざまな手段を用いているのが見てとれる。ある者は慎重さで、ある者は迅速さで、ある者は力で、ある者は巧みさで、またある者は忍耐で、ある者はその逆で成功を収めている。また、二人の慎重な人間のうち一人は目的を達成し、一人は失敗することもあるし、異なる方法をとる二人がどちらも同じく成功することもある。これらはすべて、時勢に自らのやり方が合っていたかどうか、それだけに起因している。すなわち、異なるやり方をして同じ結果に至ることもあれば、同じやり方をしても成功する者としない者がいるのはこのためである。

地位の変動もこのことに由来する。慎重さや忍耐をもって自らを律してきた者が、時勢や状況がそれに適合していれば成功し、運が開ける。しかし、時勢や状況が変わった時に行動を変えなければ破滅する。しかし、人は自分の性分から外れることができず、また長年同じやり方で成功してきたという自負から、それを捨てるのが正しいとは信じられない。そのため、慎重な人物が冒険すべき時にそれができず、破滅するのである。しかし、もし時勢に合わせて行動を変えていたなら、運命も変わらなかっただろう。

教皇ユリウス2世は、すべての事業において衝動的に行動したが、不思議なことに、時勢と状況がそのような行動に非常によく合致したため、常に成功を収めた。彼の最初のボローニャ遠征、ジョヴァンニ・ベンティヴォーリがまだ生きていた時のことであるが、ヴェネツィアもスペイン王も賛同しておらず、フランス王とはまだ協議中であった。それにもかかわらず、彼は例の大胆さと精力でもって自ら進軍し、この動きがスペインとヴェネツィアをためらわせ、ヴェネツィアは恐怖から、スペインはナポリ王国奪還の望みから動けなくなった。一方フランス王も、この動きを見てヴェネツィアを屈服させたかったことから、教皇の友好を得るために拒否できなかった。こうして、ユリウスはその衝動的な行動で、他のどの教皇にもできなかったことを成し遂げたのである。もしローマで計画を整え、すべてが準備できるまで他の教皇たちのように出発を待っていたなら、決して成功しなかっただろう。なぜならフランス王はあらゆる口実を設け、他の勢力も無数の懸念を持ち出していただろうからだ。

彼のその他の行動もすべて同様で成功を収めたが、短命であったため、逆の事態を経験することはなかった。しかし、もし慎重さが求められる状況に直面していたなら、彼は本性に従い衝動を変えなかっただろうから、破滅したであろう。

結論として、運命が移ろいやすく、人間の性格が変わらないものである以上、この二つが合致している間は人は成功し、食い違えば失敗する。私としては、慎重であるより冒険的である方がよいと考える。なぜなら運命は女であり、従わせたいなら叩き、乱暴に扱う必要があるからだ。そして、運命は冒険的な者によってより支配される傾向がある。運命は常に女性のように若者を愛する。なぜなら彼らは慎重さに欠け、より激しく、大胆に運命を征服しようとするからだ。

第二十六章 イタリアを異民族から解放せよという勧告

これまでの議論を慎重に考察し、果たして現在の時代が新たな君主にふさわしいか、また、賢明で徳ある人物が新たな秩序を打ち立て、この国の人々の利益と自身の名誉をもたらす機会があるかどうかを自問したところ、新たな君主に追い風が吹いている条件がいくつも重なり、これまでにこれほど適した時代を知らないと感じている。

そして、前述したように、イスラエルの民が捕囚となったのはモーセの才能を明らかにするためであり、ペルシア人がメディア人の支配を受けたのはキュロスの偉大さを示すため、アテネ人が散り散りになったのはテセウスの能力を際立たせるためだったなら、今やイタリア人の精神の徳を示すためには、現在のような極限状態に陥ることが必要だったのだ。すなわち、ヘブライ人以上に隷属し、ペルシア人以上に圧迫され、アテネ人以上に四散し、頭も秩序もなく、打ちのめされ、奪われ、分断され、蹂躙され、あらゆる荒廃を耐え抜いてきた。

近年、ごく一部の者によって、神が我々を救済するために遣わしたのではと思わせるような希望の火花が見られたが、結局その者は頂点に達したところで運命に見放された。そのため、イタリアは命を失ったかのような状態で、傷を癒し、ロンバルディアの荒廃と略奪を終わらせ、王国やトスカーナの詐欺と重税を終わらせ、長らく膿んできた傷口を清めてくれる者を待ち望んでいる。彼女はこれらの不正や野蛮な横暴から解放してくれる人物を神に懇願しており、その旗印が掲げられさえすれば、進んで従う覚悟ができているのだ。

そして現在、彼女が最大の希望を託せるのは、神と教会に愛され、今やその頂点にあるあなたの輝かしい家門をおいて他にない。この家門こそが救済の先頭に立てるであろう。そして、私が名を挙げた諸人物の行動や生涯を思い出してもらえれば、困難は大きくないとわかるはずだ。彼らは偉大で素晴らしいが、やはり人間であり、現時点が彼らの時代より多くの好機をもたらしているわけではない。その事業も、これより正当でも容易でもなかったし、神が彼らにより一層味方したわけでもない。

この戦いには大いなる正義がある。なぜなら、必要な戦いは正義であり、他に望みがなければ武器も正当化されるからだ。志も極めて高く、意思が強ければ困難は決して大きくはない。あなたが私が呼びかけてきた人物たちに倣いさえすればよい。さらに、神の道がいかに比類なく明らかにされたかを見よ。海は分かれ、雲が導き、岩は水を湧き出させ、マナが降るなど、すべてがあなたの偉業に寄与してきた。あとはあなた自身が成し遂げねばならない。神はすべてをなすことを望んではいない。そうすれば我々の自由意志や、我々が負うべき栄光までも奪ってしまうからだ。

これまでイタリアの名だたる人物が、あなたの家門に期待された大業を果たせなかったのも不思議ではない。また、イタリアでこれほど多くの変動や戦争があったにもかかわらず、常に軍事力が枯渇しているように見えたのは、古い体制がよくなかったからであり、誰も新しい道を見出せなかったからである。新しい法律や制度を制定することほど、新たに台頭した人物を高く称えるものはない。こうしたものがしっかりとした根拠と威厳をもって打ち立てられれば、彼は尊敬と畏敬を集めるだろう。そしてイタリアには、あらゆる形でこうした改革を導入する機会が不足しているわけではない。

手足には大いなる勇気があるが、頭にはそれが欠けている。決闘や一騎打ちでは、イタリア人は腕力、器用さ、機転において他国の人々よりはるかに優れていることがよくわかる。しかし軍隊となるとまったく比較にならない。その理由は指導者の非力による。なぜなら、有能な者は従順でなく、誰もが自分こそが知っていると思い込み、他人より際立った勇気や運の持ち主がこれまで現れていなかったからだ。ゆえに、過去二十年間、純粋にイタリア人だけの軍が戦うたび、常に芳しい戦績を残せなかった。ターロの戦いが最初の証拠であり、次いでアレッサンドリア、カプア、ジェノヴァ、ヴァイラ、ボローニャ、メストリなどが続く。

したがって、あなたの輝かしい家門が祖国を救った偉人たちに倣うのであれば、まず何よりも自軍を整えることが、すべての事業の真の基盤である。なぜなら、それよりも忠実で、確実で、優れた兵は存在しないからだ。個々では優れていても、君主自らが指揮し、敬意を払われ、彼の財で養われていれば、さらに優秀になるだろう。ゆえに、外国人に対してイタリアの勇気で身を守るためにも、そうした軍備を備えることが必要である。

スイス兵やスペイン兵の歩兵が非常に強いと考えられているが、両者にはいずれも欠点があり、そのため第三の軍制を工夫すれば彼らを打ち破ることも期待できる。スペイン兵は騎兵に弱く、スイス兵は白兵戦で歩兵と対峙すると怯む。この結果、スペイン兵はフランス騎兵に抗しきれず、スイス兵はスペイン歩兵に敗れるのである。そして、後者については完全な証明はないが、ラヴェンナの戦いである程度証拠が見られた。スペイン歩兵がスイス式戦法のドイツ軍と対峙したとき、素早い身のこなしと盾のおかげで槍の下に潜り込んで安全な位置を確保し、攻撃できたが、ドイツ兵は無力で、もし騎兵が突入してこなければ全滅していたはずだ。したがって、両者の欠点を踏まえ、騎兵にも歩兵にも弱点のない新たな軍制を創案することは可能であり、これはまったく新しい軍備体系を作る必要はなく、既存のものを応用すればよい。こうした工夫こそが新たな君主に名声と権力をもたらす。

ゆえに、この機会を逃すべきではない。ついにイタリアがその解放者を見るべき時なのだ。外国の侵略に苦しんできた諸州が、どれほどの愛と復讐心、揺るぎない信念、忠誠、涙でもってこの解放者を迎えることか、言葉では言い尽くせない。どの門が閉ざされるだろうか、どの者が服従を拒むだろうか、どんな嫉妬が妨げるだろうか、どのイタリア人が敬意を払わないだろうか。我々すべて、この野蛮な支配にうんざりしている。ゆえに、あなたの輝かしい家門がこの使命を、正義の事業にふさわしい勇気と希望をもって担い、その旗のもとで我らの祖国が高貴なものとなり、その庇護のもとでペトラルカの言葉が実現されることを願う。

Virtu contro al Furore
Prendera l’arme, e fia il combatter corto:
Che l’antico valore
Negli italici cuor non e ancor morto.

徳は猛威に抗い戦いを挑まん
戦いはまたたく間に決着がつくであろう
古きローマの勇気は
いまだイタリア人の心に生きている

バレンティーノ公によるヴィテッロッツォ・ヴィテッリ、オリヴェロット・ダ・フェルモ、シニョール・パオロ、グラヴィーナ・オルシーニ公の殺害手口の記録

ニッコロ・マキャヴェッリ著

バレンティーノ公(チェーザレ・ボルジア)は、ロンバルディアから戻ったところであった。そこでは、アレッツォやヴァル・ディ・キアーナの他の町の反乱について、フィレンツェ人が彼に向けた中傷に関してフランス王に釈明していた。彼はイーモラに到着したが、そこから軍を率いてボローニャの暴君ジョヴァンニ・ベンティヴォーリと対峙する作戦に乗り出すつもりだった。彼はこの都市を自らの支配下に置き、ロマーニャ公国の中心としようと考えていた。

この動きをヴィテッリ家やオルシーニ家とその一党が知るところとなると、公があまりにも強大となり、ボローニャを手に入れた後、イタリア全土の覇権を目指して自分たちを滅ぼそうとするのではと恐れた。そこで、ペルージャのマジオーネに会合が招集され、枢機卿パオロ、グラヴィーナ・オルシーニ公、ヴィテッロッツォ・ヴィテッリ、オリヴェロット・ダ・フェルモ、ペルージャの暴君ジャンパオロ・バリオーニ、さらにシエナ公パンドルフォ・ペトルッチから派遣されたアントニオ・ダ・ヴェナフロらが集まった。ここで公の力と勇気、そして彼の野望を抑える必要について議論され、ベンティヴォーリ家を見捨てず、フィレンツェと連携するよう努めることが決定された。彼らは各地に使節を送り、ある者には援助を、ある者には共闘の呼びかけを行った。この会合のことはたちまちイタリア中に知れ渡り、公に不満を持っていたウルビーノの民衆らも蜂起の希望を抱くようになった。

こうして人々の心が動揺する中、ウルビーノでは公のために守られていたサン・レオの要塞を奪取しようという動きが持ち上がった。城主が岩山を補強し、材木を運び込ませていたため、陰謀者たちはそれを見計らい、材木が橋の上にあるとき、城内の者が橋を引き上げられない隙を突いて橋に飛び乗り、そのまま要塞に突入した。この奪取によって全土が反乱を起こし、旧公爵が呼び戻された。これは要塞の奪取以上に、マジオーネの同盟会議による支援が期待できたためであった。

ウルビーノの反乱を知った者たちは、機を逃さず手勢を集め、公の手に残る町があればすぐに奪おうとした。そして再びフィレンツェに使者を送り、この機に乗じて共通の火種を排除すべきだと説いた。危険が減ったのだから、次の機会まで待つべきではないと主張したのである。

だが、フィレンツェ人は、ヴィテッリ家やオルシーニ家への様々な理由からの反感から、同盟を結ばないばかりか、書記官ニッコロ・マキャヴェッリを公のもとに派遣し、敵に対抗するための避難所と援助を申し出た。公はイーモラで大いに恐れていた。というのも、誰の予想にも反して、彼の兵士たちはすぐさま敵に寝返り、武装解除され、戦争が目の前に迫っていたからだ。しかし、フィレンツェ人の申し出によって勇気を取り戻し、残されたわずかな兵で戦う前に時を稼ぎ、和解交渉と援軍の獲得を図ることを決意した。援軍はフランス王に兵を要請したほか、傭兵などを雇い騎兵に仕立てた。すべてに金銭を与えた。

それでも敵は公に迫り、フォッソンブローネに進軍し、公の兵と遭遇し、オルシーニ家とヴィテッリ家の助けを得てこれを撃破した。これを受けて、公は直ちに和解の申し出で事態を収められないかと考えた。彼は卓越した詐術家であり、反乱者たちには「自分は君主の称号さえあれば満足であり、他の者には領地を委ねるつもりだ」と思わせるあらゆる手段を使った。

この画策は見事に成功し、パオロ・オルシーニが交渉役として送り込まれ、敵軍は進軍を停止した。しかし、公は準備を怠らず、騎兵と歩兵の確保につとめ、これらの動きが相手に悟られぬよう部隊を小分けにしてロマーニャ各地に配置した。その間、フランスから五百騎の槍騎兵も到着した。公は堂々と敵を討てる戦力を得つつあったが、あえて戦争ではなく、奸計で敵を出し抜く方が安全で有利だと考え、和解交渉の手を緩めなかった。

こうして和解が成立し、以前の協定を再確認したうえ、四千ドゥカートを即座に支払い、ベンティヴォーリ家への不利益を避けることや、ジョヴァンニとの同盟、さらに本人の意志に反してまで自分に謁見させないと約束した。一方、相手側は、公から奪ったウルビーノ公国や他の地域を返還し、あらゆる遠征に協力し、許しなく戦争や同盟をしないと誓った。

この和解が成立すると、ウバルド・グイド(ウルビーノ公)はヴェネツィアに再び逃亡したが、城砦はすべて破壊してから出発した。というのも、民衆に信頼を置いており、自分で守れない城砦が敵の手に渡れば味方への牽制となると考えたからだ。公は和解成立後、自軍をロマーニャに分散配置し、十一月末にフランス騎兵とともにイーモラを発った。そこからチェゼーナに向かい、ヴィテッリ家・オルシーニ家の使者と交渉したが、成果はなかった。そこでオリヴェロット・ダ・フェルモが、公がトスカーナ遠征を望むなら準備ができていると申し出たが、公はそれを望まず、そうなるとシニガリア包囲を提案した。公はトスカーナとは戦わず、シニガリア攻撃は歓迎すると答えた。

間もなく町は降伏したが、要塞の城主は本人以外へは渡せないと拒んだため、公が来るよう強く求められた。これは招かれての来訪であり、疑念を抱かせない好機であった。さらに警戒心を解かせるため、ロンバルディアのフランス騎兵は百名のみを残し、他はすべて去らせた。公は十二月中旬にチェゼーナを出てファーノに向かい、巧妙にヴィテッリ家・オルシーニ家にシニガリアで待機するよう説得した。協調しないなら和解の誠意が疑われるという論理で、彼は仲間の武力と知恵を大事にする人間だと強調した。しかしヴィテッロッツォは頑なで、兄の死から「君主を怒らせて後で信頼してはいけない」と警戒していたが、賄賂や約束で公に取り込まれたパオロ・オルシーニに説得されて同意した。

公は十二月三十日にファーノを発つ前に、最も信頼する八人の側近に計画を打ち明けた。その中にはドン・ミケーレや後に枢機卿となるモンシニョール・デウナもいた。ヴィテッロッツォ、パオロ・オルシーニ、グラヴィーナ公、オリヴェロットが到着した際、側近たちは二人一組で一人ずつ担当し、彼らをシニガリアまで同行させ、決して離さず、公の宿舎に到着したら捕縛するよう命じた。

また、公はすべての騎兵・歩兵、計二千騎・一万の兵をファーノから五マイル離れたメタウロ河畔に夜明け前に集結させるよう命じた。こうして大晦日に公はメタウロに到着し、騎兵約二百名を先行させ、自らは歩兵や残りの騎兵と進軍した。

ファーノとシニガリアはアドリア海沿いに位置し、十五マイル離れている。シニガリアに向かうには右手に山並み、時に海と接し、町からは山の麓まで矢を放つほどの距離、海からは一マイルの位置にある。町の反対側には川が流れ、ファーノ方面の城壁を洗う。シニガリアに向かう者はしばらく山沿いの道を進み、川に突き当たる。左手の川沿いに矢程進むと橋があり、城門の斜め前に出る。門の前には家が並び、小広場を形成し、川岸がその一辺となる。

ヴィテッリ家とオルシーニ家は公を迎えるため、配下をシニガリアから六マイル離れた村落に分散させ、公の兵のための場所を空けた。シニガリアにはオリヴェロットのみが残り、千名の歩兵と百五十の騎兵を率いて郊外に駐屯した。このようにしてバレンティーノ公はシニガリアに向かい、騎兵の先頭は橋を渡らず、半分は川側、半分は山側に並び、中ほどに歩兵が通って町に入った。

ヴィテッロッツォ、パオロ、グラヴィーナ公はわずかな騎兵を伴い騾馬で公に向かった。ヴィテッロッツォは武装せず緑裏地のマントを羽織り、死を予感してか憔悴しきっていた。その知恵とかつての運を思えば異様である。シニガリアへ向かうため部下と別れる際も、最後の別れのように家と家運を託し、「家の運命ではなく祖先の徳を思え」と甥たちに諭した。この三名は公に謁見し、丁重に迎えられ、担当の側近たちに囲まれた。

だが、公がオリヴェロットがいないのに気付き(彼は河畔の広場で部下の整列を見ていた)、オリヴェロット担当のドン・ミケーレに合図し、逃げぬよう手を打たせた。ドン・ミケーレはオリヴェロットに近づき、「部下をすぐ宿舎に入れないと公の兵が占領してしまう」と説得し、オリヴェロットはそれに従って部下を下げ、自身は公のもとへ赴いた。公は彼を招き入れ、彼もまた他の三人と合流した。

こうして一行はシニガリアに入り、公の宿舎で馬を降り、奥の部屋に案内され、そこで囚われの身となった。公はただちにオリヴェロットとオルシーニ家・ヴィテッリ家の兵の武装解除を命じた。オリヴェロットの兵は近くにいたためすぐに制圧されたが、他の兵は遠くにいた上、主の破滅を予感して備えを固め、結束して敵兵を退けた。そのため、オルシーニ家・ヴィテッリ家の兵は脱出に成功した。

公の兵はオリヴェロット兵の略奪に満足せず、シニガリアの町自体を略奪し始めたが、公が何人か処刑して鎮圧しなければ、町全体が略奪されていたであろう。夜になり騒ぎが収まると、公はヴィテッロッツォとオリヴェロットの処刑を準備した。彼らを部屋に連れ込み、絞殺させた。両者とも、これまでの人生からすればふさわしくない態度であった。ヴィテッロッツォは教皇に罪の赦しを請うことを願い、オリヴェロットは卑屈になり、すべての咎をヴィテッロッツォに押し付けた。パオロとグラヴィーナ公は、教皇がローマでオルシーニ枢機卿、フィレンツェ大司教、ジャコポ・ダ・サンタ・クローチェを捕らえたという知らせが入るまで生かされ、1502年1月18日、ピエーヴェ城で同様に絞殺された。

カストルッチョ・カストラカーニ・ダ・ルッカの生涯

ニッコロ・マキャヴェッリ著

親愛なるザノービ・ボンデルモンティとルイージ・アラマンニに捧ぐ

カストルッチョ・カストラカーニ(1284-1328)

親愛なるザノービとルイージよ、よく考察した者にとっては、古今の偉業を成し遂げ、その時代の誰よりも優れた人々の多くが、卑しい出自や不遇な運命に生まれている、あるいは人生の初めに大きな災難に見舞われていることは驚くべきことである。彼らは野獣のなすがままに捨てられたり、あまりに卑しい出自のため、自らがユピテルや他の神の子であると偽って名乗ったりしたこともある。こうした人物について挙げていけばきりがないし、誰もがよく知るところなので、ここでは省略する。だが、こうした偉人たちの低い出自は、幸運が「彼らの成功は知恵によるものではなく、自分(運命)の賜物である」と世間に示したいがためではないかと私は思う。なぜなら、彼らの歩みに知恵が関与し得ない段階から運命は力を発揮し始め、成功のすべてが運命のものであることを示しているからだ。ルッカのカストルッチョ・カストラカーニも、彼の生きた時代と生まれた都市を考えれば偉業を成した人物であったが、多くの他の偉人と同じく、出生には幸運も名誉もなかった。本書の中でこれが明らかになるだろう。彼の記憶を呼び起こすべきだと考えたのは、彼に人の手本たるにふさわしい勇気と運命のしるしが見られたからである。また、あなた方が誰よりも高貴な行為を愛することを知っているので、彼の行動に注目してほしい。

カストラカーニ家は、かつてはルッカの名門であったが、私が語る時代には運命のめぐり合わせで多少没落していた。この家にアントニオという息子が生まれ、彼はルッカのサン・ミケーレ教会の聖職者となり、メッセル・アントニオと呼ばれていた。彼にはひとりの妹がいたが、ボナッコルソ・チェナーミに嫁いだものの、夫を亡くし、再婚せず兄と暮らすことにした。アントニオの家の裏にはブドウ畑があり、周囲はすべて庭園なので誰でも容易に立ち入ることができた。ある朝、日の出後まもなく、アントニオの妹ディアノーラは、いつものように昼食の香草を摘みにブドウ畑に入った。すると、ブドウの葉の間でかすかな物音と赤子の泣き声のようなものがした。不思議に思い、恐れながらも哀れに思い、近寄ってみると、葉に包まれた赤ん坊の顔と手が見え、母親を求めて泣いているようだった。彼女はその子を抱き上げ、家に運び、洗って清潔な布でくるみ、アントニオが帰宅したときに見せた。話を聞き、赤子を見たアントニオも妹と同じく驚きと哀れみの思いに駆られた。二人は相談の末、彼が聖職者であり、妹も子がいないので、自分たちでこの子を育てることに決めた。乳母を雇い、わが子同然に愛情を注いだ。洗礼を施し、父親の名からカストルッチョと名付けた。年月がたつにつれ、カストルッチョは容姿も美しく、きわめて聡明さを見せ、アントニオの教えを並外れた理解力で身につけていった。アントニオは彼を聖職者にしようと思い、やがて自分の聖職禄を継がせようと考えて、すべての教育をそのために施した。しかし、アントニオはカストルッチョの気質が聖職者にまったく向かないことに気付いた。十四歳になる頃には、彼はアントニオとディアノーラの言いつけにも従わず、怖れもせず、宗教書を読むのをやめ、武器で遊び、その使い方を学ぶことに夢中になり、走ることや跳ぶこと、仲間と格闘することに何よりも熱中するようになった。どんな競技でも、勇気と体力において並ぶ者がいなかった。読書をするときも、戦争や英雄の武勇伝の本しか興味を示さなかった。アントニオはこれを見て苦悩し、悲しんだ。

ルッカの町にはグイニーギ家の紳士メッセル・フランチェスコがいた。彼は武人であり、財力・体力・勇気いずれもルッカ随一であった。ミラノ公ヴィスコンティのもとで幾度も戦い、ルッカではギベリン派の指導者として重用されていた。この紳士は毎朝毎夕、サン・ミケーレ広場のポデスタ館(町一番の広場)のバルコニー下に仲間と集まるのが常だった。そこで、カストルッチョが他の少年たちと遊ぶ様子を幾度も見かけた。カストルッチョが他の子供たちをはるかに凌ぎ、まるで王者のごとく統率し、みなが彼を慕い従うのを見て、フランチェスコは誰なのか知りたくてたまらなくなった。カストルッチョの養育の事情を知ると、ますます彼を身近におきたくなった。ある日彼を呼び寄せ、「紳士の家で馬や武器を学ぶのと、聖職者の家でミサや教会の務めだけを学ぶのと、どちらがよいか」と尋ねた。カストルッチョは武器や馬の話に顔を輝かせたが、控えめに黙っていた。しかしフランチェスコに促されて、「もし先生が許してくれるなら、聖職者の勉強をやめて武人の修行に移りたい」と答えた。この返事にフランチェスコは大喜びし、カストルッチョの気質を見抜いたアントニオも、これ以上は引き止められぬと悟って同意した。

こうしてカストルッチョは聖職者アントニオ卿の家から兵士フランチェスコ・グイニーギ卿の家へと移ったが、驚くべきことに、ほんの短期間で、真の紳士にふさわしいあらゆる美徳や立ち居振る舞いを示すようになった。まず第一に、彼は優れた騎手となり、最も荒々しい馬でも難なく乗りこなすことができた。また、馬上槍試合や武芸大会でも、若者でありながら抜きん出て人々の注目を集め、あらゆる力と技巧を要する鍛錬にも秀でていた。しかし、これらの才能に一層の魅力を添えていたのは、その素晴らしい謙虚さであり、誰に対しても言動で不快感を与えることがなかった点である。彼は大人物には敬意を払い、同輩には謙虚で、目下の者には丁寧に接した。こうした資質により、彼はグイニーギ家のみならずルッカの人々全体から愛されるようになった。

カストルッチョが十八歳になったころ、パヴィアからギベリン派がグエルフ派に追放され、フランチェスコ卿がヴィスコンティ家の命でギベリン派支援に派遣された。その際、カストルッチョも彼の軍勢を率いる役として同行した。この遠征でカストルッチョは十分にその慎重さと勇気を発揮し、他のどの将軍よりも名声を高め、その名はパヴィアのみならずロンバルディア全域に知られることとなった。

カストルッチョはルッカに帰還し、出発時よりはるかに高い評価を得ていたが、さらなる友人を得るためにあらゆる手段を尽くし、そのためになる術を一つも怠らなかった。この頃、フランチェスコ卿が亡くなり、十三歳の息子パオロを残し、カストルッチョをその後見人および財産管理人に任じた。死の前にフランチェスコはカストルッチョを呼び寄せ、パオロに対して自分がカストルッチョに示してきたような善意をもって接し、父に返せなかった恩義を息子に返してほしいと頼んだ。フランチェスコの死後、カストルッチョはパオロの後見人・統治者となり、その力と地位は飛躍的に増大したが、ルッカではこれまでの一様な好意に代わって、彼に対するある種の嫉妬が生まれた。多くの者が、彼が専制を志しているのではないかと疑ったのである。その中でも筆頭はグエルフ派の首領ジョルジョ・デリ・オピツィであった。この男は、フランチェスコ卿の死後、自分こそがルッカの主導者になると期待したが、カストルッチョが既に示していた大きな才覚、そして統治者の地位に就いていることで、その機会を奪われたと感じた。そこで彼は、カストルッチョの名声を失墜させるための種を撒き始めた。カストルッチョは最初こそこれを嘲笑していたが、やがてオピツィ卿がナポリ王ルベルトの代理人に取り入って自分を失脚させ、ルッカから追放することがありうると危惧するようになった。

この時代、ピサの領主はアレッツォ出身のウッゴッチオーネ・デッラ・ファッジオーラであり、当初は彼らの隊長として選出されたが、後に主君の地位についた。パリにはルッカから追放されたギベリン派の亡命者が何人か住んでおり、カストルッチョはウッゴッチオーネの助力で彼らを帰還させるべく連絡を取っていた。また、オピツィ家の権力に我慢ならないルッカの友人たちも計画に引き入れた。計画を定めると、カストルッチョは慎重にオネスティ家の塔を要塞化し、補給物資や軍需品を蓄えて、必要とあらば数日間籠城できるように備えた。ウッゴッチオーネが山地とピサの間の平野を多くの兵で占拠した夜、合図がなされ、彼は誰にも気付かれずにサン・ピエロの門に接近して、落とし格子に火を放った。カストルッチョは市内で大騒ぎを起こし、市民を武装させ、門を内側からこじ開けた。ウッゴッチオーネは兵を率いて町に流れ込み、ジョルジョ卿とその家族、そして多くの友人や支持者を殺害した。統治者は追放され、ウッゴッチオーネの意向に従って政体が改革されたが、これは都市にとって損失であった。なぜなら、この時に百家族以上が追放されたからである。逃亡者の一部はフィレンツェへ、一部はピストイアへ向かったが、ピストイアはグエルフ派の本拠地であったため、ウッゴッチオーネおよびルッカ人にとって最大の敵となった。

フィレンツェ人および他のグエルフ派の人々は、ギベリン派がトスカーナで勢力を持ちすぎていると感じ、追放されたグエルフ派をルッカに戻すことを決定した。彼らはヴァル・ディ・ニエヴォレに大軍を集結させ、モンテカティーニを占拠し、そこからモンテカルロへ進軍して、ルッカへの自由な通路を確保しようとした。これに対しウッゴッチオーネはピサおよびルッカの軍を集め、ロンバルディアから呼び寄せたドイツ人騎兵も加えて、フィレンツェ軍の陣営に向けて進軍した。敵の登場にフィレンツェ軍はモンテカルロから撤退し、モンテカティーニとペーシャの間に布陣した。ウッゴッチオーネはモンテカルロ近くに拠点を置き、敵まで約二マイルの距離に陣を敷き、両軍の騎兵による小競り合いが日常的に起こるようになった。ウッゴッチオーネの病気のため、ピサ軍とルッカ軍は戦闘を遅らせていた。ウッゴッチオーネは症状が悪化すると治療のためモンテカルロへ向かい、軍の指揮をカストルッチョに任せた。この指揮交代がグエルフ派の滅亡を招いた。彼らは敵軍が隊長を失ったことで無力になったと過信し始めた。カストルッチョはこの様子を見てわざと数日間何もしないで油断を誘い、また恐れているふりをして、陣営の物資も使用させなかった。一方、グエルフ派はこうした臆病の証拠を見るほどにますます増長し、毎日カストルッチョ軍の前に戦闘隊形で出てきて挑発した。やがて敵が十分に増長したと見て、その戦法を見極めると、カストルッチョは戦闘を決断した。まず兵たちに勝利の確信を与える激励の言葉を贈った。

カストルッチョは敵が最精鋭を中央の戦列に配し、信頼の置けぬ兵を両翼に配しているのに気付くと、それと正反対に、最も勇敢な兵士を両翼に、あまり信頼できない者たちを中央に置いた。この布陣で自軍を進め、迅速に敵軍の視野に入った。敵も例によって高慢に彼を挑発しに現れた。すると彼は中央部隊にはゆっくり進軍させ、両翼を素早く前進させた。こうして両軍が接触したとき、両翼だけが戦闘となり、中央の部隊同士は大きく間隔が空いていたため戦闘に参加できなかった。この工夫により、カストルッチョ軍の精鋭が敵軍の劣勢部隊と対峙し、敵の精鋭は不活発のままとなった。そのため、フィレンツェ軍は正面の相手と戦うことも自軍の両翼を援護することも叶わず、カストルッチョは大した苦労もなく両翼で敵を撃破し、中央部隊も攻撃を受けると勇気を示す間もなく潰走した。敗北は決定的で、損害も甚大であり、トスカーナのグエルフ側の騎士や将校、多くの王族を含む一万以上が戦死した。その中にはルベルト王の弟ピエロ、甥のカルロ、タラント公フィリッポもいた。カストルッチョ側の損害は三百人余りで、その中には若気の至りで初戦で戦死したウッゴッチオーネの息子フランチェスコも含まれていた。

この勝利によってカストルッチョの名声は大いに高まり、ウッゴッチオーネはかえって彼に嫉妬と疑念を抱くようになった。ウッゴッチオーネには、この勝利が自身の権力を増すどころかむしろ減じたように思えたので、機会を待ってその感情を行動に移すことにした。その機会はルッカの有力者ピエル・アニョロ・ミケリの死によって訪れた。ミケリの殺害犯がカストルッチョの家に逃げ込んだのである。隊長の部下が犯人逮捕に来た時、カストルッチョがこれを追い払って犯人を逃がした。この事件がピサにいたウッゴッチオーネの耳に届くと、カストルッチョを罰する好機だと見なした。彼はルッカの統治者である息子ネーリを呼び寄せ、宴席でカストルッチョを捕らえて殺すよう命じた。カストルッチョは何の悪意も疑わずに友好的にネーリのもとを訪れ、夕食をともにした後、投獄された。しかしネーリは、処刑すれば民衆の怒りを買うと恐れて殺さず、父の意向を仰ぐために生かしておいた。ウッゴッチオーネは息子の躊躇と臆病を罵り、四百騎を連れ自らピサからルッカへ向かったが、湯治場に着く前にピサで反乱が起き、代理人が殺され、ガッド・デッラ・ゲラルデスカ伯が領主に立てられた。ルッカに到着する前にピサの出来事を知ったウッゴッチオーネは、引き返せばルッカ人もピサの例にならうと考え、進軍を続けた。しかしルッカの人々もピサの報を聞くと、この機会にカストルッチョ釈放を要求し始め、ついには武装して暴動を起こし、ウッゴッチオーネに解放を迫った。彼はさらに大きな事態を恐れ、カストルッチョを釈放した。カストルッチョは友人たちを集め、民衆の助けを借りてウッゴッチオーネを攻撃。彼は逃走するしかなく、ロンバルディアのスカレ家へと逃れ、そこで貧困のうちに没した。

こうしてカストルッチョは囚人から一転してルッカのほぼ君主となり、友人や民衆に慎重に接したことで、一年間軍の総司令官に任命された。これを得たカストルッチョは、戦功を立てるべく、ウッゴッチオーネの離反後に反乱した数多くの町の奪回を計画し、ピサ人と同盟してセレッツァーナへ進軍した。攻略のため現地にゾレッツァネッロと呼ばれる要塞を築き、二か月で町を陥落させた。この包囲戦での名声により、続いてマッサ、カッラーラ、ラヴェンツァを短期間で制圧し、ルニジャーナ全域を掌握した。ロンバルディアからルニジャーナへの通路を封じるため、ポントレーモリを包囲し、同地の領主アナスタージョ・パラヴィチーニ卿からこれを奪った。この勝利の後ルッカに凱旋し、全市民から歓迎された。カストルッチョは、これ以上君主位獲得を先延ばしにするのは賢明でないと判断し、パッツィーノ・デル・ポッジョ、プッチネッロ・ダル・ポルティコ、フランチェスコ・ボッカンサッキ、チェッコ・グイニーギらを買収し、ルッカの領主に就任した。そしてその後、民衆によって正式かつ慎重に君主に選出された。この時、ローマ王バイエルンのフリードリヒが帝冠授与のためイタリアに来ており、カストルッチョは彼と友好を結ぼうと五百騎を率いて出迎えた。ルッカの副官にはパオロ・グイニーギを任命していたが、彼は父の思い出ゆえに市民から高く評価されていた。カストルッチョはフリードリヒから大いに敬意をもって迎えられ、多くの特権を授与され、トスカーナの皇帝代理に任じられた。この時ピサ人はガッド・デッラ・ゲラルデスカの復讐を恐れ、フリードリヒに援助を求めた。フリードリヒはカストルッチョをピサの領主に任命し、ピサ人はグエルフ派、特にフィレンツェ人を恐れ、彼を自らの領主として受け入れざるを得なかった。

フリードリヒはイタリア統治のためローマに総督を置いた後ドイツに帰国した。皇帝派の道を歩むトスカーナとロンバルディアのギベリン派は、助言と支援を求めカストルッチョのもとに集い、もし彼の力で旧国を奪回できればその国の統治権を約束した。その中には、フィレンツェ出身のマッテオ・グイーディ、ナルド・スコラーリ、ラーポ・ウベルティ、ジェロッツォ・ナルディ、ピエロ・ボナッコルシら亡命ギベリン派がいた。カストルッチョは、彼らや自らの軍勢の助けを得てトスカーナ全土の支配者となる密かな野望を持っていた。そのためミラノ公マッテオ・ヴィスコンティと同盟を結び、都市と農村の軍勢を編成した。ルッカには五つの門があったので、領内を五分割し、それぞれに武装させ、隊長と旗手のもとで兵を編成した。こうして迅速に二万の兵を動員できる体制を築いた。さらにピサからの援軍も呼べる状態であった。こうして兵力と同盟関係を固めている最中、マッテオ・ヴィスコンティが、フィレンツェ軍とルベルト王の助けでギベリン派を追い出したピアチェンツァのグエルフ派に攻撃された。マッテオは、フィレンツェ人を自国に急きょ引き返させるため、カストルッチョにフィレンツェ領内侵攻を求めた。カストルッチョはヴァルダルノに侵入し、フチェッキオとサン・ミニアートを占拠、現地に大きな損害を与えた。このためフィレンツェ軍は呼び戻され、トスカーナに到着するやカストルッチョもやむを得ずルッカに帰還した。

ルッカ市内にはポッジョ家という強大な一族があり、彼らはカストルッチョを台頭させ、さらに君主位まで押し上げる力を持っていた。しかし彼らは自分たちの貢献に見合う報酬を受けていないと感じ、他の一族を扇動してカストルッチョを追放しようと企てた。ある朝その機会を得ると武装して、カストルッチョが治安維持のために残していた副官を殺し、市民を蜂起させようとした。だが穏健な老人ステファノ・ディ・ポッジョが反乱に加担せず、権威をもってこれを抑え、カストルッチョへの嘆願の仲介を申し出た。こうして反乱は始めた時と同じく浅慮に鎮まった。カストルッチョはこの報せを聞くと、すぐさまパオロ・グイニーギを軍の指揮官に任命し、騎兵隊を率いて帰郷した。反乱は予想に反して既に鎮圧されていたが、彼は市内に兵を分散配置した。ステファノはカストルッチョに大いに恩義があると考え、自己弁護など必要ないと思いつつも、一族の若気や旧交、カストルッチョが負っている恩義に免じて一族を赦してほしいと願い出た。カストルッチョはこれに快く応じ、反乱終息の知らせは反乱勃発の報よりも自分にとって嬉しいことだと述べてステファノを安心させ、一族を連れてくるよう促し、寛大さを示す機会を神に感謝した。しかし、ステファノと一族が出頭すると、即座に投獄・処刑された。その間にフィレンツェ人はサン・ミニアートを奪還し、このためカストルッチョも自身の地位が安泰でないと見て和平の必要を感じた。フィレンツェ人に休戦を申し入れたところ、彼らも戦費や疲弊から快く受け入れ、両軍が現状維持で合意した二年間の休戦条約を締結した。これで手が空いたカストルッチョはルッカ内部の問題に取りかかり、今後再び危険な目に遭わぬよう、さまざまな口実や理由をつけて、君主位を狙いうる野心家を一人残らず処断し、領地と財産を奪い、手元にいた者は命も奪った。経験上誰一人信用できないと語った上でのことである。さらなる安全のため、彼は追放し殺した一族の塔の石材でルッカに要塞を築いた。

カストルッチョはフィレンツェと講和し、ルッカの支配を固めつつも、あからさまな戦争を避けつつ、他地域での影響力拡大の機会を逃さなかった。もしピストイアを手に入れればフィレンツェへの足がかりができると考え、山間部の住民と親交を結ぶなどして両派の信頼を勝ち取った。ピストイアは伝統的にビアンキ派とネーリ派に分かれており、それぞれの首領はバスティアーノ・ディ・ポッセンテとジャコポ・ダ・ジャであった。両者はカストルッチョと密かに連絡を取り合い、互いに相手を追い出そうと画策していたが、何度も脅し合った末についに衝突した。ジャコポはフィレンツェ門、バスティアーノはルッカ門側に立てこもった。両者ともフィレンツェ人よりカストルッチョを頼りにしていた。カストルッチョの方が闘争心が強く、より支援してくれると信じていたからである。彼らはそれぞれに援助を求めた。カストルッチョは両者に約束を与え、バスティアーノには自ら出向くと伝え、ジャコポにはパオロ・グイニーギを派遣すると伝えた。約束の時刻に、カストルッチョは自らピサ経由でパオロを送り、夜半に両者は市外で合流し、友人として迎え入れられた。合図とともに、両指導者をそれぞれ相手の手で殺害させ、その支持派も捕縛あるいは殺害した。こうして抵抗なくピストイアはカストルッチョの手に落ち、統治者を宮殿から追い出し、民衆に従順を強い、多くの約束と旧債免除を宣言した。農村部の人々も新しい君主を一目見ようと集まり、その大いなる武勇に希望を抱いてすぐに収まった。

このころ、ローマでは教皇がアヴィニョンにいるため生活費が高騰し、大きな騒乱が起きていた。ドイツ人総督エンリーコは、日々の殺人や騒乱を抑えられず、強く非難されていた。エンリーコは、ローマ人がナポリ王ルベルトを呼び戻してドイツ人を追放し教皇を戻すのではと大いに案じていた。身近で頼れる友はカストルッチョしかおらず、援助を求めるとともに、本人もローマに来るよう要請した。カストルッチョは、皇帝のためにこの奉仕を惜しむべきでないと考えた。なぜなら、もし皇帝がローマを失えば、自らの安全も脅かされると信じたからである。ルッカの指揮官にパオロ・グイニーギを残し、六百騎を率いてローマへ向かった。エンリーコは最大限の敬意で迎え、間もなくカストルッチョの存在により皇帝の威信が高まり、流血や暴力なしで秩序が回復した。これは主にカストルッチョがピサ近郊から大量の穀物を船で送り、混乱の原因を除いたからである。ローマの有力者の一部を処罰し、他を諭すことで、エンリーコへの自発的な服従が得られた。カストルッチョは多くの栄誉を与えられ、ローマ元老院議員の称号を得た。この権威は盛大な儀式で与えられ、彼は「私は神の望む者なり」と刺繍された金襴のトーガをまとい、背には「神の望むことこそ成されるべし」と記されていた。

この間、フィレンツェ人は休戦中にカストルッチョがピストイアを奪ったことに激怒し、彼の不在中に都市を反乱に導く方法を模索した。フィレンツェには亡命ピストイア人のバルド・チェッキとジャコポ・バルディーニという勇敢な人物がおり、彼らは仲間と連絡を取り合い、フィレンツェ人の助けを得て夜中に市内に忍び込み、カストルッチョの役人や支持者を追放または殺害し、都市の自由を回復させた。この報を受けたカストルッチョは激怒し、エンリーコに告げて急ぎピストイアへと向かった。フィレンツェ人は彼の迅速な行動を予想し、ヴァル・ディ・ニエヴォレで軍勢を集めて彼の進路を遮ろうとした。フィレンツェはグエルフ党のすべての支持者を結集し、ピストイア領内に進軍した。一方、カストルッチョも軍勢を率いてモンテカルロに到着し、フィレンツェ軍の位置を知ると、ピストイア平原で会戦せず、ペーシャ平原でも待機せず、できる限り大胆にもセッラヴァッレ峠で敵を攻撃することを決意した。そこでなら自軍の少数も有利に働き、敵の大軍を前にしても士気が崩れる心配がないと考えたからである。

セッラヴァッレはペーシャとピストイアの間の丘の上にある城で、ヴァル・ディ・ニエヴォレを塞いでいる。その頂上付近は特に狭く、二十人並びで防げるほどであった。城主はドイツ人マンフレッドで、カストルッチョがピストイアの領主になる以前から中立を守れば支配を認められていた。城の堅固さもあって、彼はその立場を保ってきた。カストルッチョはこの城の重要性に気付き、内部の協力者と連携して、前夜に四百人の兵を城内に入れ、城主を殺害させた。

すべての準備を整えたカストルッチョは、フィレンツェ軍をヴァル・ディ・ニエヴォレへ誘い込むべく、モンテカルロから動かなかった。こうしてフィレンツェ軍は急ぎセッラヴァッレの麓に宿営し、翌朝峠を越える手はずを整えた。その間にカストルッチョは夜のうちに城を奪取し、軍をモンテカルロから密かに進軍させてセッラヴァッレの麓に到着。こうして両軍は同時に丘を登り始めた。カストルッチョは歩兵を本道、四百騎の騎兵を左手の小道から城へ進めた。フィレンツェ軍も四百騎の騎兵を先行させ、まさか敵軍が丘を抑えているとは思わず、城の奪取も知らなかった。そのためフィレンツェ騎兵はカストルッチョ軍の歩兵と至近距離で遭遇し、顔を覆う暇もないほどだった。不意を突かれた彼らは激しい攻撃を受け、かろうじて持ちこたえる者もいたが、ほとんどが突破できなかった。

戦闘の騒ぎがフィレンツェ軍本陣に伝わると混乱が広がり、騎兵と歩兵が入り乱れ、隊長らも通路の狭さから部隊を動かせず、誰も何をすべきか、何ができるのか分からない状態になった。騎兵たちは不利な地形でわずかに抵抗するも、結局散り散りにされて多くが討たれ、撤退も前方は敵、両脇は山、後方は味方で不可能だった。カストルッチョは自軍が決定的打撃を与えきれないのを見ると、千人の歩兵を城経由で回して、城にいる四百騎と合流させ、敵の側面を急襲させた。これが猛烈で、フィレンツェ軍は耐えきれずに潰走した。後衛部隊はピストイアへ逃げ、平野に散って各自の安全のみを図った。敗北は徹底的で多くの血が流れ、多くの隊長が捕らえられた。その中にはバンディーニ・デイ・ロッシ、フランチェスコ・ブルネッレスキ、ジョヴァンニ・デッラ・トーザといったフィレンツェの貴族や、グエルフ派を助けるためナポリ王ルベルトが送った多くのトスカーナ人・ナポリ人が含まれていた。ピストイアの住民は敗報に接し、グエルフ派の友人を追放してカストルッチョに降伏した。彼はこれに満足せず、プラートやアルノ両岸の平野の城を占拠し、さらに軍勢を率いてペレートラ平野に進駐し、フィレンツェから二マイルの地点に長期滞陣した。ここで戦利品配分や宴、競馬や男女の駆け足競技などを催し、フィレンツェ人敗北を記念するメダルも鋳造した。フィレンツェ市内の一部市民を買収して夜のうちに門を開かせようとも企んだが、陰謀は発覚し、関与者のトンマーゾ・ルパッチやランベルトゥッチョ・フレスコバルディらは斬首された。この敗戦にフィレンツェ人は大いに不安と絶望を抱き、自由を保てないと悟ってナポリ王ルベルトに都市支配権を提供する使者を送った。ルベルト王はグエルフ派の存続が自らにとって極めて重要であることを知っていたのでこれを受け入れ、フィレンツェ人から毎年二十万フローリンの貢納を受け取ることとし、息子カルロを四千騎と共にフィレンツェへ派遣した。

ほどなくして、ピサでベネデット・ランフランキを中心とする陰謀が発覚し、カストルッチョはフィレンツェ近郊から軍を引き上げてピサに向かわざるを得なかった。ランフランキは故郷をルッカ人の支配下に置かれるのを忍べず、要塞を奪ってカストルッチョ派を殺害し守備隊を追放する計画を立てていた。しかし陰謀は人が少なすぎれば秘密は保てるが、実行には人数不足で、賛同者を集める過程で裏切りが生じ、カストルッチョに密告された。この裏切りは、ピサで亡命生活を送っていたフィレンツェ人ボニファーチョ・チェルキとジョヴァンニ・グイーディに対して厳しく非難されるべきである。カストルッチョはベネデットを捕らえて殺し、他の多くの有力市民も斬首し、一族も追放した。ピサとピストイアが共に反感を抱いていると判断したカストルッチョは、地位の安定に力を注いだが、その間にフィレンツェ人は軍勢を再編し、ナポリ王の息子カルロの到着を待った。カルロが到着すると彼らはすぐに行動を開始し、三万を超える歩兵と一万の騎兵を集め、イタリア中のグエルフ派の力を結集した。ピストイアとピサのどちらを先に攻めるか協議し、最近の陰謀もありピサを先に攻める方が成功の可能性が高く、利益が大きいと判断した。ピサ陥落ののちはピストイアも降伏するとみたからである。

1328年5月初旬、フィレンツェ軍は出陣し、ラストラ、シーニャ、モンテルーポ、エンポリを素早く占拠し、そこからサン・ミニアートへ進軍した。カストルッチョはこの巨大な敵軍の到来を知っても全く動じず、今こそ運命がトスカーナ支配を自分にもたらす時だと信じていた。なぜなら、ピサやセッラヴァッレでの敵よりも、今回の敵がより善戦しうるとも、より勝利の見込みがあるとも思えなかったからである。彼は二万の歩兵と四千騎の騎兵を集め、フチェッキオへ進軍し、パオロ・グイニーギには五千の歩兵を与えてピサへ派遣した。フチェッキオはアルノ川とグッシャーナ川に挟まれた小高い地形で、ピサ地方随一の要害である。敵は軍を分散しない限り補給を妨害できず、ルッカやピサからの接近も困難、またカストルッチョの軍勢と戦うにも不利な立場に置かれる。一方では自軍の二部隊に挟まれる形になり、また一方ではアルノ川を渡る危険を冒さなければならない。この後者の行動を敵に取らせるため、カストルッチョは河畔から自軍を後退させ、守備隊をフチェッキオの城壁下に配置し、敵との間に広大な空地を設けた。

フィレンツェ軍はサン・ミニアートを占領した後、ピサを攻撃すべきか、カストルッチョ軍を攻撃すべきかを決定するために軍議を開いた。そして両方の選択肢の困難さを慎重に検討した結果、後者を選ぶことに決めた。当時、アルノ川の水位は低く、歩兵の肩、騎兵の鞍に達するほどであったが、渡河は可能であった。1328年6月10日の朝、フィレンツェ軍は騎兵部隊と一万の歩兵に前進を命じて戦闘を開始した。カストルッチョは既に行動計画を決めており、適切な対応を心得ていたので、すかさず五千の歩兵と三千の騎兵でフィレンツェ軍を攻撃し、彼らが川から出る前に突撃を仕掛けた。同時に軽装歩兵千人ずつをアルノ川の上流と下流の両岸に派遣した。フィレンツェ軍の歩兵は武具と水流のために大いに妨げられ、川岸を登ることができなかった。一方、騎兵が最初に川を渡ったことで川床が乱され、泥が深くなり、多くの馬が騎手もろとも転倒したり、泥に深くはまり込んで動けなくなるものも続出した。フィレンツェ軍の指揮官たちは自軍の苦境を見て、部隊を撤退させ、川上へ移動させ、川床がより安定しており岸への上陸に適した場所を探そうとした。

しかし彼らが岸に達したとき、既にカストルッチョが派遣していた部隊が待ち構えており、盾と投槍で武装した軽装歩兵が大声で叫びながら騎兵めがけて槍を投げつけた。馬たちは騒音と負傷に怯え、前進を拒み、大混乱となって互いに踏みつけ合った。カストルッチョ軍と、なんとか川を渡りきった敵軍との戦いは激烈を極め、両軍とも絶望的なまでの奮戦を見せ、誰も退こうとしなかった。カストルッチョ軍は敵を川へ押し戻そうとし、フィレンツェ軍は陸地に足場を得て、続く兵が上陸できるよう必死に立ち向かった。その激しい戦闘の中、指揮官たちは兵士を鼓舞し続けた。カストルッチョは「相手は以前セルラヴァッレで打ち破った敵だ」と叫び、フィレンツェ軍は「大軍が少数に屈するとは何事か」と互いを奮い立たせた。

ついにカストルッチョは戦闘が長引き、双方が疲弊し、死傷者も多数に及んでいるのを見て、新たな歩兵部隊を投入し、戦っている部隊の後方に配置した。そして、前線の兵に後退するふりをして隊列を開かせ、一部を右に、一部を左に退かせた。こうしてできた隙間にフィレンツェ軍が素早く入り込み、戦場の一角を確保した。しかし、疲れ切ったこの兵士たちは、カストルッチョの予備部隊と接近戦となると耐えきれず、直ちに川へと退却せざるを得なかった。

両軍の騎兵はまだ決定的な優劣をつけていなかった。カストルッチョは騎兵戦力で劣ることを知っていたので、指揮官たちに防御に徹するよう命じており、歩兵を撃退した後で騎兵に決定的な打撃を与えられると考えていた。その予想通り、フィレンツェ軍が川を越えて後退するのを見て、残りの歩兵に敵騎兵への攻撃を命じた。歩兵たちは槍と投槍で攻撃し、自軍の騎兵もこれに加わって猛烈に敵を襲い、たちまち撃退した。

フィレンツェ軍の指揮官たちは、騎兵の渡河の困難を見て、歩兵をさらに下流から渡らせ、カストルッチョ軍の側面を攻撃しようとした。しかし、そこでも岸は急で、既にカストルッチョ軍が布陣しており、この作戦も全く無意味だった。このようにしてフィレンツェ軍は各所で完膚なきまでに敗れ、逃げ延びたのは三分の一に満たなかった。カストルッチョはまたしても大いなる名誉を手にした。多くの指揮官が捕虜となり、王ルベルトの息子カルロ、ミケランニョロ・ファルコーニ、タッデオ・デッリ・アルビッツィらフィレンツェ側の監督官はエンポリへ逃亡した。戦利品も多かったが、虐殺はそれ以上で、かくも激烈な戦いであれば当然のことであった。フィレンツェ軍は二万二百三十一人の戦死者を出し、カストルッチョ側の損害は千五百七十人であった。

しかし、運命はカストルッチョの栄光を妬んだかのように、まさに彼の命を保つべき時に彼の命を奪い、長年かけて築き上げてきたすべての計画を無に帰してしまった。カストルッチョはその日一日中戦場の最前線に立ち、疲労困憊し熱がこもった状態でありながら、勝利から帰還する兵たちをフチェッキオの門で出迎え、みずから感謝の言葉を述べた。また、敵が反撃に出る可能性に備えて警戒も怠らず、「優れた将軍は最初に馬に跨り、最後に降りるべきだ」との信念を貫いていた。この時、アルノ川の岸辺で昼にしばしば起こる不健康な風に晒され、これがもとで寒気を覚えたが、彼はいつものことと気にも留めなかった。しかしそれが死の原因となった。翌夜、高熱に襲われ、急激に悪化したため医師たちももはや助からぬと悟った。カストルッチョはパオロ・グイニージを呼び寄せ、次のように語った。

「もし、これほどまでに順調に進み栄光へと導いてくれた運命が、まさにその只中で私を断ち切ろうとは思わなかったなら、私はここまで苦労せず、たとえ小さな国を残すことになろうとも、少なくとも敵や危険を減らして、お前に引き継がせただろう。そして、私はルッカとピサの統治だけで満足し、ピストイアを征服することもなく、フィレンツェをこれほどまでに傷つけもしなかっただろう。むしろ両者を友とし、短命でももっと穏やかに暮らし、お前により小さいながらも確実で安定した国を残したはずだ。しかし、運命は人の世の決定権を握ることを望み、私にそれを最初から見抜く判断力も、それを克服する時間も与えなかった。お前も聞いたことがあろうし、私も隠したことはない。私はまだ少年のとき、父君の家に入り、立身出世の野心とは無縁でありながら、父君に育てられ、実の子のように愛されたことを。そしてその庇護のもと、勇敢さと機略を学び、その成果をお前も目の当たりにしてきた。父君が亡くなるとき、彼はお前と家督を私に託し、私はその愛情でお前を育て、その心配りで財産を増やしてきた。父君が残したものだけでなく、私の幸運と才覚で得たものすべてをお前が手にできるよう、私は結婚せず、わが子への愛が父君の子への恩義の妨げにならぬよう努めてきた。こうして私は満足できるほど大きな国をお前に残すが、不安定で危ういままで残すことを深く憂いている。お前はルッカの支配に苦しむことになり、民は決して満足はしないだろう。ピサの人々も気質が変わりやすく信用できず、時に服従することはあってもルッカ人の下に仕えることを屈辱と感じるだろう。ピストイアもまたお前に対して不忠で、党派争いに蝕まれ、最近の仕打ちから一族に憤怒している。隣国フィレンツェには千に及ぶほどの被害を与えたが、滅ぼしきることはできず、私の死をトスカーナ全土の獲得以上に喜ぶだろう。皇帝やミラノの諸侯も頼りにはならない。彼らは遠く、動きは遅く、援軍もなかなか届かない。ゆえにお前が頼れるのは、自身の能力と、私の勇名、そしてこの勝利で得た名声だけだ。これらを賢明に用いれば、フィレンツェと和解することができるだろう。彼らもこの大敗に苦しんでいるゆえ、話に耳を傾けるはずだ。私は彼らとの戦争が力と栄光に資すると考えて敵視したが、お前には彼らとの友好こそが利益と安全をもたらす理由がある。この世においては、人は己を知り、自分の力と資質の限界を知ることが何よりも大切だ。戦で才覚がない者は、平和の術で国を治めることを学ばねばならない。私の忠告に従い、私が命を賭して得たものを享受する術を学ぶことだ。私が語ったことを信じることができれば、お前は必ずや成功するだろう。そして、お前は私からこの国を受け継ぐだけでなく、その守り方まで授かったことで、より一層私に感謝すべきである。」

その後、ピサ・ピストイア・ルッカの諸市民でカストルッチョと共に戦った者たちが彼のもとを訪れた。カストルッチョはパオロを彼らに託し、後継者として忠誠を誓わせた後、息を引き取った。彼は知る者すべてに幸福な記憶を残し、その時代のどの君主よりも深く敬愛された。葬儀は盛大に執り行われ、ルッカのサン・フランチェスコに葬られた。運命はカストルッチョほどパオロ・グイニージには味方しなかった。彼にはカストルッチョの能力がなかったからである。カストルッチョの死後間もなく、パオロはピサを失い、続いてピストイアも失い、ルッカすら辛うじて維持する有様であった。ルッカはパオロの曾孫の時代までグイニージ家の支配下にあった。

ここまでの記述からも、カストルッチョが同時代のみならず、古の偉人たちと比べても卓越した才能の持ち主であったことが分かる。彼は並外れて長身で均整が取れ、風格もあり、誰に対しても親しみやすく接したので、彼と話した者で不快な思いをした者はほとんどいなかった。髪は赤みがかっており、耳の上で短く切っていた。雨の日も雪の日も決して帽子をかぶらなかった。友には快活で、敵には恐るべき存在であった。臣民には公正であり、不誠実な者には偽りで報い、征服したい者には策略も辞さなかった。なぜなら彼は「栄光をもたらすのは勝利であり、方法ではない」と常々語っていたからである。危険に立ち向かう勇気においても、窮地から抜け出す慎重さにおいても、彼に勝る者はいなかった。彼は「人はすべてに挑戦し、何も恐れるべきではない。神は強者を愛する。なぜなら弱者は常に強者によって罰せられるものだから」と語っていた。また非常に辛辣でありながら礼儀正しい応答をすることで有名だった。そして自分がそのような物言いを他人に許容されなくても怒らず、他人が自分に同じようなことをしても寛容であった。たとえば、彼が一羽のヤマウズラに金貨を与えたことで友人から咎められたとき、カストルッチョは「お前なら一銭しか払わないだろう」と言い、友人が「その通りだ」と答えると、「私には金貨の方がずっと価値が低いのだ」と返した。身近なへつらい者に唾を吐きかけて軽蔑を示したとき、その者は「漁師が小魚を取るために海水まみれになるのと同じで、私は鯨を捕るために唾まみれになっているのです」と言ったが、カストルッチョはこれを快く聞き、むしろ褒美を与えた。司祭から「贅沢な生活は罪深い」と咎められたとき、「それが悪徳なら、あなた方も聖人の祝宴で同じように慎ましくすべきだ」と答えた。通りを歩いていた際、いかがわしい家から出てきて顔を赤らめた青年に「出てくるときに恥ずかしがるのではなく、入るときに恥じるべきだ」と言った。友人から難解な結び目をほどくよう渡されると「そんなに苦労して結んだものをほどく気はない」と言った。自称哲学者には「お前は、より多くの餌をくれる人を追いかける犬のようだ」と言い、相手は「むしろ私たちは、最も必要とされる家に行く医者のようなものだ」と返した。ピサからリヴォルノへの船旅で嵐に遭い、恐怖を咎められた時は「それも道理だ。人は自分の魂の価値だけ恐れるものだ」と答えた。人から「人望を得るにはどうすべきか」と問われて「宴会の席では、木の椅子の上にさらに木の椅子を重ねぬよう気をつけよ」と答えた。多くの本を読んだと自慢する者に「覚えていることを自慢する方が賢い」と返した。酒に強いと豪語する者には「牛も同じだ」と答えた。親しい女性との関係を咎められた際には「私がだまされたのではなく、私が彼女を手に入れた」と言い、美食を咎められたときには「お前は私ほど金を使わないだろう?」と言い、「その通り」と返されると「ならば、お前は私の食いしん坊ぶりよりもケチだ」と続けた。

ルッカの富豪タッデオ・ベルナルディに招かれて、絹張りで床も美しい花模様の部屋に通された際、唾を床に吐きかけて主人が驚くと「どこに吐けば、より気を悪くさせないか分からなかったのだ」と返した。カエサルがどのように死んだかと問われ「神の思し召しなら、私も彼のように死にたい」と答えた。ある夜、貴族の屋敷で婦人たちと踊り、友人から「身分にそぐわない」と咎められると「昼に賢者とされる者は、夜に馬鹿とは見なされまい」と言った。恩恵を請う者が、聞いてもらえぬと地面に膝をついて懇願し、カストルッチョに厳しく咎められた際、「殿が耳を足に付けているからです」と言って訴えが通り、願い以上の恩恵を得た。カストルッチョは「地獄への道は下り坂で目隠しをして進むから容易いものだ」とも語っていた。冗長な言葉で頼みごとをする者には「次は別の者に頼ませよ」と言い、長広舌の後に「長々と話して疲れさせたかもしれません」と言われると「全く疲れなかった、なぜなら一言も聞いていなかったからだ」と返した。幼少のころ美少年で後に立派な男になった者については「危険な男だ。幼い時は妻を奪い、今は夫から妻を奪う」と評した。嫉妬深い男が笑うのを見て「自分の成功で笑うのか、他人の不幸で笑うのか」と問うた。フランチェスコ・グイニージの庇護下にあったとき、友人に「鼻に一発くれてやったら何をくれる?」と問われ「兜だ」と答えた。ルッカで自分を権力の座に押し上げた市民を処刑し、古い友を殺したのは間違いだと非難されたとき、「人は勘違いをするものだ。私は新たな敵を殺しただけだ」と返した。結婚を考えてやめた男を称賛し「船出をすると言ってやめた男のようだ」と語った。また「陶器やガラスの器を買うときは必ず叩いて確かめるのに、妻を選ぶときは見た目だけでよいと思うのが不思議だ」とも言った。自分の埋葬法を問われると「顔を下にして埋めてくれ、私が死ねばこの国はひっくり返るから」と答えた。修道士になって魂を救おうと思ったことはあるかと問われて「ない。ラゼローネ修道士が天国に行き、ウゴッチョーネ・デッラ・ファッジュオーラが地獄に落ちるのは奇妙だからだ」と言った。健康を保つためにいつ食事すべきかと問われ「金持ちは空腹の時に、貧乏人は食べられるときに」と答えた。家臣が家族に紐を締めてもらっているのを見て「神が食事も食べさせてくれるように」と言った。自宅に「神よ、この家を悪人から守り給え」とラテン語で書かれているのを見て「持ち主は絶対に中に入るな」と言った。大きな扉の小さな家を見て「この家は扉から飛び出しそうだ」と評した。ナポリ王の使節と追放貴族の財産について争った際、「その王は悪人か善人か」と問うて「善人だ」と答えられると「なぜ善人を恐れると考えるのか」と返している。

彼の機知と深い意味を持つ語録は他にも数多くあるが、ここで挙げた話だけでも彼の高い資質の証明として十分だと思う。カストルッチョは四十四年の生涯を送り、あらゆる面で君主であった。そして多くの幸運の証を身近に置く一方で、不運の記念もそばに置いていた。牢獄で繋がれた手錠は、今も彼の居城の塔に掲げられ、逆境の日々を永遠に証している。生前の彼は、アレクサンドロス大王の父フィリッポスやローマのスキピオにも劣らなかったし、彼らと同じ年齢で世を去った。もし彼がルッカではなく、マケドニアやローマに生まれていたなら、両者をも凌ぐ人物となっていただろう。

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