W.K.マリオットによる英訳
ニコロ・マキャヴェッリ。1469年5月3日、フィレンツェに生まれる。1494年から1512年までフィレンツェで公職に就き、各国の宮廷への外交使節を含む任務を担った。1512年、フィレンツェで投獄。のち追放され、サン・カシャーノへ戻る。1527年6月22日、フィレンツェにて死去。
序文
ニコロ・マキャヴェッリは1469年5月3日、フィレンツェに生まれた。父は名の知られた法律家ベルナルド・ディ・ニコロ・マキャヴェッリ、母はその妻バルトロメーア・ディ・ステーファノ・ネッリ。両親はいずれも古くからのフィレンツェ貴族の系統に連なっていた。
マキャヴェッリの生涯は、自然に三つの時期に分かれる。奇妙なことに、その各期はそれぞれ、フィレンツェ史における明確で重要な一時代とも重なっている。彼の青春は、ロレンツォ・デ・メディチ――イル・マニフィコ(豪華王)の指導のもと、フィレンツェがイタリアの強国として栄華を誇った時期と同時代である。1494年にフィレンツェでメディチ家が没落し、その年にマキャヴェッリは公務に就いた。官吏としての彼の時代、フィレンツェは共和国政体のもとで自由を保っていたが、それは1512年にメディチ家が権力へ復帰するまで続き、その復帰とともにマキャヴェッリは職を失う。メディチ家は1512年から1527年まで再びフィレンツェを支配し、やがて再度追放される。これがマキャヴェッリの文学活動と影響力の増大の時期である。だが彼は、メディチ家追放からわずか数週間後の1527年6月22日、五十八歳で死去し、ついに官職へ返り咲くことはなかった。
青年期――年齢. 1-25――1469-94
マキャヴェッリの青年期についての記録は少ない。だが当時のフィレンツェの姿はよく知られているため、この代表的市民の初期の環境は容易に思い描ける。フィレンツェは、相反する二つの「生の潮流」を抱えた都市として描写されてきた。ひとつは熱烈で峻厳なサヴォナローラに導かれる潮、もうひとつは華麗さを愛するロレンツォに導かれる潮である。サヴォナローラが若きマキャヴェッリに与えた影響は小さかったに違いない。サヴォナローラは一時フィレンツェの運命を左右するほどの大権をふるったが、マキャヴェッリにとってはせいぜい『君主論』での嘲弄の材料になったにすぎず、そこで「武装なき予言者」の末路の悪さを示す例として引かれている。これに対し、ロレンツォの生前におけるメディチ支配の豪奢は、マキャヴェッリに強い印象を刻んだようで、彼は著作の中でたびたびそれへ回帰している。そして『君主論』を献じた相手も、ロレンツォの孫にほかならない。
マキャヴェッリは『フィレンツェ史』で、自らの青春が過ぎた若者たちの姿を描き出している。彼はこう書く。「彼らは衣服や暮らしぶりにおいて祖先より自由であり、そのうえ過度な享楽により多くを費やした。怠惰と賭博と女に時間と金を溶かし、第一の目的は身なりよく見えること、機知と鋭さで語ることだった。しかも他人をいちばん巧みに傷つけられる者が、最も賢いと見なされた」。息子グイドに宛てた手紙では、若さが学問の機会を生かすべき理由が語られ、彼自身の若き日々もまた学びに捧げられていたことが推し量れる。彼は書く。「お前の手紙を受け取って、これ以上ないほど嬉しかった。とりわけ、お前がすっかり健康を取り戻したと知らせてくれたことが嬉しい。それ以上の朗報はない。神が、お前にも私にも生を与えてくださるなら、お前が自分の務めを果たす気さえあるなら、私はお前を立派な男にしてみせたい」。そして新たな後援者について触れ、こう続ける。「これはお前にとって良い話になるだろう。だが学ばねばならない。今はもう病気を言い訳にはできないのだから、学問と音楽の勉強に力を尽くせ。私に与えられる名誉を見れば分かる。わずかな腕前でも、これほどの敬意を受けるのだ。だから息子よ、私を喜ばせ、自分に成功と名誉を呼び込みたければ、正しくあれ、そして学べ。自分を助ける者は、他人も助けてくれる」。
官職時代――年齢. 25-43――1494-1512
マキャヴェッリの生涯の第二期は、自由なフィレンツェ共和国への奉仕に費やされた。前述のとおり、この共和国は1494年のメディチ家追放から1512年の復帰まで栄えた。彼は公職の一つで四年勤めたのち、第二書記局(自由と平和の十人委員会)の書記長・書記に任命される。ここから先、マキャヴェッリの事績を語る足場は堅い。この時期、彼は共和国の政務で主導的役割を果たし、彼を導くものとして、政令・記録・公文書が残り、さらに本人の著作もある。同時代の政治家や軍人との交渉のうち、いくつかを概略するだけでも、彼の活動の輪郭が見え、『君主論』を彩る経験と人物像がどこから汲み取られたかが分かる。
彼の最初の使命は1499年、『君主論』に「フォルリの我が貴婦人」として登場するカテリーナ・スフォルツァのもとへ赴くことであった。彼は彼女の振る舞いと運命から、「要塞に頼るより人民の信頼を得るほうがはるかに良い」という教訓を引き出している。これはマキャヴェッリにおいてきわめて目立つ原理であり、君主にとって死活の重要事として、さまざまな形で強調される。
1500年、彼はフランスへ派遣され、ピサに対する戦争継続の条件をルイ十二世から取りつける任を負った。この王こそが、イタリアでの政務運営において『君主論』で要約された国家術の五つの致命的誤りを犯し、その結果追い払われた人物である。またこの王は、教皇アレクサンデル六世への支援の条件として自らの離婚を成立させたが、これがマキャヴェッリに、君主の約束は守るべきだと主張する者へ向けて、君主の信義について自分が書いたことを参照させるきっかけを与えた。
マキャヴェッリの公的生活の多くは、教皇アレクサンデル六世とその子チェーザレ・ボルジア(ヴァレンティーノ公)の野心から生じる事件に占められた。これらの人物は『君主論』の大きな部分を埋め尽くす。マキャヴェッリは、奪い取った国家を保持したい簒奪者のために、公の行為を引き合いに出すことをためらわない。むしろチェーザレの行動の型に勝る教訓など見いだせない、と言わんばかりであり、そのため一部の批評家はチェーザレを『君主論』の「英雄」とさえ称する。だが『君主論』において公は、実のところ「他人の運でのし上がり、他人の運とともに落ちる男」の典型として挙げられている。慎重な人間なら当然取るであろう手段は尽くすが、自分を救う手段だけは取らない。あらゆる偶発に備えるが、実際に起こるただ一つには備えない。そして能力のすべてが彼を救い得なくなったとき、「自分の責ではない、異常で予見不能な致命的偶然だ」と叫ぶのである。
1503年、ピウス三世の死去に際し、マキャヴェッリは後継教皇の選挙を監視するためローマへ派遣された。そこで彼は、チェーザレ・ボルジアが策にかかり、枢機卿会議の選択がジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ(ユリウス二世)へ傾くのを許してしまうのを目撃する。ジュリアーノは、公が最も恐れるべき理由を持つ枢機卿の一人だった。マキャヴェッリはこの選出を論評し、「新たな恩恵が偉人に古い傷を忘れさせると思う者は、自分を欺く」と述べる。ユリウスはチェーザレを滅ぼすまで休まなかった。
1506年、ユリウス二世がボローニャ攻略に着手した際、マキャヴェッリはその教皇のもとへ派遣された。教皇は、多くの冒険と同様、その成功を主として激しい性格によって勝ち取った。マキャヴェッリが「運命(フォルトゥーナ)と女の似姿」を語り、慎重な男ではなく大胆な男こそが両者を勝ち取り、つなぎとめるのだと結論するのは、教皇ユリウスを念頭に置いてのことである。
1507年には、イタリア諸国の浮沈はフランス、スペイン、ドイツに握られ、その結果は今日まで続いている。ここでそのすべてを追うことはできない。われわれが関心を寄せるのは、それらの出来事と三人の大立者が、マキャヴェッリの人格にどう触れているか、その限りである。彼はフランス王ルイ十二世と何度か会い、その人物評はすでに述べたとおりである。マキャヴェッリはアラゴン王フェルディナンドを、宗教の衣をまとって大事業を成し遂げた男として描いた。しかし実際には、慈悲も信義も人間性も誠実さもなく、もしそうした動機に影響されていたなら破滅していたであろう男だという。皇帝マクシミリアンもまた、この時代でもっとも興味深い人物の一人で、さまざまな手で性格が描かれてきた。だが1507-8年にその宮廷へ使節として赴いたマキャヴェッリは、彼の多くの失敗の秘密を、こう暴く――秘密主義で、性格の力に欠け、人間の働き(計画を実現するために不可欠な人的手段)を軽んじ、みずからの望みの履行を決して強く迫らない男だ、と。
官職時代の残る年月は、1508年に前述の三大勢力と教皇のあいだで結ばれ、ヴェネツィア共和国を粉砕する目的を持ったカンブレー同盟に由来する事件で満たされた。その目的はヴァイラの戦いで達せられ、ヴェネツィアは一日で、八百年かけて得たものをすべて失った。フィレンツェはこの一連の出来事の中で難しい役割を演じねばならなかった。事態は、教皇とフランスの間に勃発した確執によってさらに複雑化した。というのも、フランスとの友好こそが共和国の政策全体を規定していたからである。1511年、ユリウス二世がついにフランスに対する神聖同盟を結成し、スイスの助力でフランス軍をイタリアから駆逐すると、フィレンツェは教皇のなすがままとなり、その条件に服さねばならなかった。条件の一つがメディチ家の復帰である。1512年9月1日、メディチ家がフィレンツェへ戻り、共和国が崩壊すると、それはマキャヴェッリと友人たちの解任の合図となった。こうして彼の公的経歴は終わった。前に見たとおり、彼は官職を取り戻すことなく死ぬのである。
文学と死――年齢. 43-58――1512-27
メディチ家復帰後、マキャヴェッリは数週間のあいだ、新たな支配者の下でも職を保てるという空しい希望を抱いたが、1512年11月7日付の政令で解任された。その後まもなく、メディチ家に対する未遂の陰謀への関与を疑われ、投獄され、拷問による訊問(自白強要)にかけられた。新たにメディチ家から出た教皇レオ十世が釈放を取り計らい、彼はフィレンツェ近郊サン・カシャーノの小さな所領へ退き、文学に身を捧げた。1513年12月13日付でフランチェスコ・ヴェットーリに宛てた手紙に、彼は当時の生活のきわめて興味深い描写を残している。それは『君主論』執筆の方法と動機を明らかにするものだ。家族や近隣との日々の雑事を述べたのち、彼はこう書く。「夕方になると私は家へ戻り、書斎へ行く。入口で、埃と泥にまみれた農夫の服を脱ぎ捨て、高貴な宮廷服に着替える。そうしてふさわしく装い直すと、古の人々の古い宮廷へ入っていく。そこでは彼らが愛情深く迎え入れ、私だけの糧で私を養ってくれる。私はためらわず彼らに語りかけ、行為の理由を問い、彼らは寛厚にも答えてくれる。四時間のあいだ私は疲れを知らず、あらゆる苦しみを忘れ、貧しさも私をくじかず、死も私を脅かさない。私はすっかりその偉人たちに取り憑かれてしまうのだ」。そしてダンテの句――
知は、よく保たれた学びから来る、
さもなくば実りはない、
――を引いて、こう続ける。``` 私は彼らとの対話から得たものを書き留め、『君主国について』という小著をまとめた。 そこで私はこの主題について、できるかぎり自分を注ぎ込んで考察し、 君主国とは何か、いかなる種類があるか、いかに獲得され、いかに保持され、 なぜ失われるのかを論じている。 もし私の思いつきがかつてあなたの気に入ったことがあるなら、 これはあなたの気に入らぬはずがない。 そして君主、とりわけ新しい君主にとっては歓迎されるべきものだ。 ゆえに私はこれを、その高貴なるジュリアーノ閣下に献ずる。 フィリッポ・カザヴェッキオはそれを見た。 そこに何が書いてあるか、また私が彼と交わした談話についても、 彼があなたに語れるだろう。 それでも私は、なおそれを充実させ、磨き上げている最中だ。
この「小さな本」は、現代に伝わる形に落ち着くまでに多くの曲折を経た。執筆中にはさまざまな精神的影響が働き、題名も献呈相手も変更された。そして理由は不明だが、最終的にはロレンツォ・デ・メディチに献呈された。カザヴェッキオと、献呈者へ送るべきか、直接持参すべきかを議論したにもかかわらず、ロレンツォがこの書を受け取った、あるいは読んだという証拠はない。少なくともロレンツォがマキャヴェッリに何らかの職を与えたことは一度もない。生前に盗用はされたが、『君主論』はマキャヴェッリ自身によって出版されることはなく、その本文はいまなお異同が争われている。
マキャヴェッリはヴェットーリ宛書簡をこう結ぶ。「そしてこの小さなもの[自著]について言えば、これを読めば、私は国家術の研究に十五年を捧げるあいだ、眠りも怠惰もなかったことが分かるだろう。人はつねに、他人の犠牲の上に経験を刈り取った者に奉仕されることを望むべきだ。そして私の忠誠を疑う者はいない。私は常に信義を守ってきたのだから、今さらそれを破る術など学べない。私のように忠実で正直であった者は、自分の性質を変えられないのだ。そして私の貧しさこそ、私の廉直さの証人である」。
マキャヴェッリは『君主論』を手放す前に、『ティトゥス・リウィウス論』の執筆を開始した。これは『君主論』と並行して読まれるべきである。これらと数々の小品が彼を1518年まで占め、その年、彼はジェノヴァでフィレンツェ商人たちの案件を取り仕切る小さな委任を引き受けた。1519年、フィレンツェのメディチ政権は市民にいくばくかの政治的譲歩を与え、マキャヴェッリも他の者とともに、大評議会を復活させる新憲法について諮問された。だが何らかの口実で公布されなかった。
1520年、フィレンツェ商人たちは再びマキャヴェッリを頼り、ルッカとの紛争解決を委ねた。しかしこの年は、彼がフィレンツェの文学社交界へ再入場した年として特筆される。彼は大いに求められ、また『戦術論』を世に出した。さらに同年、メディチ枢機卿の意向により『フィレンツェ史』執筆の委嘱を受け、この仕事は1525年まで彼を占めた。世評の回復がメディチ家にこの任を与える決断を促したのかもしれない。古い著述家の言葉を借りれば、「仕事のない有能な政治家は巨大な鯨のようなもので、弄ぶための空樽を与えられなければ船を転覆させようとする」のだという。
『フィレンツェ史』が完成すると、マキャヴェッリはそれをローマへ持参し、献呈者ジュリアーノ・デ・メディチに捧げた。ジュリアーノはその間に教皇となり、クレメンス七世を名乗っていた。注目すべきは、1513年にマキャヴェッリがフィレンツェで権力を取り戻したばかりのメディチ家のために『君主論』を書いたのと同じように、1525年には、いまや破滅が迫る一族の長へ『フィレンツェ史』を献じたことである。その年、パヴィアの戦いがイタリアにおけるフランス支配を打ち砕き、フランソワ一世は宿敵カール五世の捕虜となった。続いてローマ劫略の報が届くと、フィレンツェの民衆派はメディチ家の軛を投げ捨て、彼らは再び追放された。
このときマキャヴェッリはフィレンツェを離れていたが、急いで帰還し、自由と平和の十人委員会の書記職を取り戻そうと望んだ。だが不運にも、帰着後まもなく病に倒れ、1527年6月22日、フィレンツェで死去した。
## 人物と著作
マキャヴェッリの遺骨がどこに眠るかは誰にも分からない。だが現代のフィレンツェは、サンタ・クローチェ教会に、最も名高い子らの傍ら、彼のための堂々たる慰霊碑(空墓)を建立することを決議した。ほかの国々が彼の著作に何を見いだしたにせよ、イタリアがそこに見いだしたのは、統一の理念であり、ヨーロッパ諸国の中での再生の萌芽であった、という認識の表明である。彼の名が世界的に邪悪な意味を帯びたことを嘆いても詮ないが、その不吉な評判が示唆するほど苛烈な教義の解釈は、少なくとも当時には存在しなかったこと、そして近年の研究が彼をより理にかなって解釈することを可能にしたことは指摘できる。そうした探究のおかげで、長らく人々の目に憑いて離れなかった「不浄な降霊術師」という姿は、ようやく薄れはじめた。
マキャヴェッリが観察力・鋭敏さ・勤勉さに秀でた人物であったことは疑いない。目の前を過ぎるものを賞玩する眼で見逃さず、政務から強制的に遠ざけられた隠棲の中で、その比類ない文学的才能をもってそれらを作品へ転化した。しかし彼は、同時代人が描くところでも、稀有な結合――成功した政治家にして作家――の典型ではない。彼の使節や政治任務は、総じて言えば中程度の成功にとどまったようだ。カテリーナ・スフォルツァには出し抜かれ、ルイ十二世には黙殺され、チェーザレ・ボルジアには威圧された。いくつかの使節は成果がほとんどなく、フィレンツェの防備強化の試みは失敗し、彼が組織した兵は臆病さで人々を驚かせた。私事の運びにおいて彼は小心で時勢に迎合しがちであり、恩義の大きいソデリーニの傍らに立つことさえ、身の破滅を恐れてできなかった。メディチ家との関係も疑念を招き、ジュリアーノは彼の真の強みを見抜き、国家に用いるのではなく『フィレンツェ史』執筆を命じたように見える。そして弱さも失敗も見当たらないのは、彼の性格のうち文学的側面――ただそこだけである。
ほぼ四世紀の光が『君主論』に注がれてきたにもかかわらず、その問題は今なお議論の余地があり、興味を失わない。なぜならそれは、支配される者と支配する者のあいだに永遠に横たわる問題だからである。その倫理はマキャヴェッリの同時代人のそれでありながら、ヨーロッパの諸政府が道徳的力ではなく物質的力に依拠するかぎり、時代遅れとは言い切れない。歴史上の事件や人物も、統治と行動に関する彼の理論を照らすために彼がどう用いているかによって、いっそう興味深いものになる。
なお今日でも、いくつかのヨーロッパや東方の政治家に行動原理を与えている国家の格言はひとまず措くとしても、『君主論』には、どこを切っても実証可能な真実が散りばめられている。人間は今も、アレクサンデル六世の時代と同じく、単純さと貪欲さに騙される。宗教の外衣は今も、マキャヴェッリがフェルディナンドの人物像で暴いた悪徳を覆い隠す。人は物事を「あるがまま」に見ず、「そうあってほしい姿」で見て――破滅する。政治に絶対安全な道などない。慎慮とは、最も危険の少ない道を選び取ることにある。さらに次元を上げれば、マキャヴェッリは、犯罪が帝国を勝ち取ることはあっても栄光を勝ち取ることはない、と繰り返す。必要な戦争は正しい戦争であり、他に術がなく戦うしかないとき、国家の武器は神聖化されるのだ、と。
統治が、生きた道徳的力へ高められ、社会の根本原理を正しく認識させる力で民衆を鼓舞すべきだという主張は、マキャヴェッリよりはるか後の時代の叫びであり、この「高い議論」に『君主論』が寄与するところは小さい。マキャヴェッリは、人間も政府も「見いだしたとおり」にしか書こうとせず、そのうえで抜群の技量と洞察をもって書くがゆえに、その著作は永続的価値を持つ。しかし『君主論』に、単なる芸術的・歴史的関心を超える重みを与えるものは、国家と支配者が相互に、そして隣国と結ぶ関係をいまなお導く大原理を扱っているという、否定しようのない真実である。
『君主論』を翻訳するにあたり、私の目標は、どんな犠牲を払ってでも原典に忠実で正確な逐語訳を達成することだった。現代的な文体観に合わせた流麗な意訳よりも、である。マキャヴェッリは安易な言葉弄びの人ではなかった。彼が書いた条件は、語一つ一つを秤にかけることを強いた。主題は高く、内容は重く、文体は気高いほどに平明で、真摯である。*Quis eo fuit unquam in partiundis rebus, in definiendis, in explanandis pressior?<em>(事柄を分け、定義し、解明するにあたって、彼ほど簡潔で切り詰めた者がかつてあっただろうか。)『君主論』においては、言ってみれば、語の一つ一つのみならず、その語の位置にさえ理由がある。シェイクスピア時代の英国人にとって、この種の論考を訳すことはある意味で比較的容易だった。当時の英語の才は、今日よりイタリア語に近かったからである。だが現代の英国人にはそう簡単ではない。例を一つ挙げよう。マキャヴェッリが、ローマ元老院がギリシャの弱小諸国に採った政策を示すために用いた </em>intrattenere* は、エリザベス朝の人なら「entertain」と正しく訳し、同時代の読者は「ローマはアイートーリア人とアカイヤ人を、彼らの力を増さぬままに“遇した”」と言われて何を意味するか理解しただろう。だが今日では、この表現は古風で曖昧、下手をすれば無意味にすら見える。われわれは「ローマはアイートーリア人と友好関係を維持した」等と言わざるをえず、一語で済む仕事を四語でしているわけだ。私は、意味への絶対的忠実さと両立する範囲で、イタリア語の歯切れよい簡潔さを守ろうと努めた。結果として時に文章が粗くなるなら、読者が作者の意図へ急ぐあまり、そこへ至る道の荒れを見過ごしてくれることを願うしかない。
以下はマキャヴェッリ著作一覧である。
主要著作。『ピサ問題についての論考』1499年。『反乱したヴァル・ディ・キアーナの民衆を扱う方法について』1502年。『ヴァレンティーノ公がヴィテッロッツォ・ヴィテッリ、フェルモのオリヴェロット等を殺害した方法について』1502年。『資金調達についての論考』1502年。『第一デチェンナーレ』(三行韻詩)1506年。『ドイツ事情素描』1508-12年。『第二デチェンナーレ』1509年。『フランス事情素描』1510年。『ティトゥス・リウィウス論』全三巻、1512-17年。『君主論』1513年。『アンドリア』(テレンティウスからの翻訳喜劇)1513年(?)。『マンドラゴラ』(五幕の散文喜劇。韻文の序幕つき)1513年。『言語について』(対話篇)1514年。『クリツィア』(散文喜劇)1515年(?)。『大悪魔ベルファゴール』(物語)1515年。『黄金のロバ』(三行韻詩)1517年。『戦術論』1519-20年。『フィレンツェ国家を改革するための論考』1520年。『ルッカ市の事績要約』1520年。『ルッカのカストルッチョ・カストラカーニ伝』1520年。『フィレンツェ史』全八巻、1521-5年。『歴史断片』1525年。
その他の詩作にはソネット、カンツォーネ、オッターヴァ、謝肉祭歌(Canti carnascialeschi)がある。
版。アルド版(ヴェネツィア、1546年)。デッラ・テルティーナ版(1550年)。カンビアージ版(フィレンツェ、全六巻、1782-5年)。デイ・クラッシチ版(ミラノ、全十巻、1813年)。シルヴェストリ版(全九巻、1820-2年)。パッセリーニ/ファンファーニ/ミラネージ版(全六巻のみ刊行、1873-7年)。
小著作。F.L.ポリドーリ編、1852年。『書簡集』E.アルヴィージ編、1883年、二種(うち一種は削除あり)。真作とされる著作群、G.カネストリーニ編、1857年。ヴェットーリ宛書簡についてはA.リドルフィ『『君主論』におけるN.マキャヴェッリの目的についての考察』等を参照。D.フェラーラ『ニコロ・マキャヴェッリ私信集』1929年。
## 献辞
高貴なるロレンツォ・ディ・ピエーロ・デ・メディチ閣下へ
君主の寵愛を得ようとする者は、ふつう、最も貴いと自分が思うもの、あるいは君主が最も喜ぶと自分が見るものを携えて御前に参じる。ゆえにしばしば、馬、武具、金襴、宝石、その他それに類する装飾が、君主の偉大さにふさわしい献上品として差し出されるのを見るのである。
そこで、閣下への私の献身を示す何らかの証を携え、私もまた閣下の御前に進み出たいと願った。だが私の持ち物の中に、長きにわたる現代政務での経験と、古代への不断の研究から得た「偉人の行為に関する知識」よりも、私が愛し、価値を置くものは見いだせなかった。私はそれを、長く丹念に熟考したのち、このたび小巻に取りまとめ、閣下へお届けする。
この書が閣下の庇護に値しないと私自身思わぬではない。しかし閣下のご寛仁に大いに頼み、この贈り物が受け入れられることを願う。というのも、私がこれ以上の贈り物をすることはできないからだ。すなわち、これほど多くの年と、これほど多くの苦難と危険を通じて私が学んだすべてを、最短の時で理解できる機会を、閣下へ差し出すのである。私はこの書を、誇大で華麗な言葉で飾り立てず、丸く整った長い句で詰め込まず、外面的な魅惑や装飾も一切付さなかった。多くの者が自作を飾るために用いるようなものは、何ひとつである。私は、この書が何の名誉も与えられないか、さもなくば、事実の真実と主題の重さが、この書を受け入れられるものにするか、そのどちらかであってほしいと望んだのだ。
また、身分の低い卑しい者が君主の事柄を論じ、裁断するのは僭越だと考える人々の意見にも、私は与しない。風景画を描く者が、山や高所の性質を眺めるために平地の低い場所に身を置き、平地の性質を眺めるために高山に身を置くように、民衆の性質を理解するには君主であることが必要であり、君主の性質を理解するには民衆であることが必要だからである。
さあ閣下、この小さな贈り物を、私が送るその心のままに受け取っていただきたい。もし閣下がこれを丹念に読み、熟慮されるなら、運命と閣下の資質が約束するあの偉大さへ到達していただきたいという、私の切なる願いを知っていただけるだろう。そして閣下が偉大さの頂から時折この低地へ目を向けられるなら、私がいかに不当に、長く苛烈な運命の悪意に苦しめられているかをご覧になるはずだ。
## 君主論
## 第一章 君主国の種類はいくつあるか、またそれはいかなる手段で獲得されるか
人間を支配してきた、また支配しているあらゆる国家、あらゆる権力は、共和政体であるか、君主国であるか、そのいずれかであったし、いまもそうである。
君主国には世襲のものがある。それは、ある家が長くその地に根を張ってきた国家である。あるいは新しい君主国もある。
新しい君主国には、フランチェスコ・スフォルツァにとってのミラノのように、まったく新しく生じたものもあれば、獲得した君主の世襲国家に付け加えられた一部、いわば肢体としてのものもある。スペイン王国に対するナポリ王国がそれであった。
このようにして獲得された領土は、君主のもとで暮らすことに慣れた国であるか、自由に生きることに慣れた国であるか、いずれかである。そして獲得の手段も、君主自身の軍によるか、他者の軍によるか、あるいは運(フォルトゥーナ)によるか、能力(ヴィルトゥー)によるか、そのいずれかである。
## 第二章 世襲君主国について
共和政体についての議論はここではすべて省く。別の場所で十分に詳しく書いたからである。ここでは君主国だけを論じる。前に示した順序に従い、君主国がいかに統治され、いかに保持されるべきかを語ろう。
まず言っておく。世襲国家、しかも君主の家に長く慣れた国家を保持するのは、新しい国家を保持するより困難が少ない。平均的な力量の君主なら、祖先の慣習を踏み越えず、状況の推移に慎重に対処するだけで、国家に踏みとどまれる。よほど異常で過大な力によって奪われない限りは。たとえ奪われたとしても、簒奪者に何か不運が生じるたびに、君主はその国を取り戻す。
イタリアには例がある。フェッラーラ公は、もし領国に長く根を下ろしていなかったなら、’84年のヴェネツィアの攻撃にも、’10年の教皇ユリウスの攻撃にも耐えられなかっただろう。世襲の君主は、臣民の心を損ねる理由も必要も少ない。ゆえにより愛されることになる。そして異常な悪徳によって憎まれでもしない限り、臣民が自然と好意を抱くと考えるのは理にかなう。統治の古さと長さの中で、変化へ向かわせる記憶も動機も失われていく。というのも、一つの変化はつねに次の変化のための「歯の欠け」を残すからである。
## 第三章 混合君主国について
だが困難は新しい君主国において生じる。第一に、それがまったく新しい国家ではなく、全体として見れば複合国家と呼びうる国家の一部、いわば肢体である場合、変動は主として、新しい君主国すべてに内在する一つの困難から起こる。すなわち人は、自分がより良くなることを望んで、進んで支配者を替える。その希望が、支配している者に武器を向けさせる。だがそこで人は欺かれる。経験によって、悪からさらに悪へ移ったことを知るからである。これはまた、別の自然で共通の必然にも従う。それは、新たな君主が、服従した者たちに、自軍の兵を負担させ、無数の他の苦難を新しい獲得地に課すことによって、必ず重荷となるということである。
こうして、君主国を奪い取ることで傷つけた者すべてが敵となる。しかも、君主をそこへ据えた友人たちを、期待どおりには満足させられず、つなぎとめられない。けれどもその友人たちに対して強い手も打てない。恩義に縛られているからである。いかに武力が強大でも、一つの州へ入るには、いつでも現地の好意が必要となる。
この理由によって、フランス王ルイ十二世はミラノを素早く占領し、同じ速さで失った。最初に彼を追い出すのに必要だったのはロドヴィーコの自軍だけだった。門を開いた者たちが、将来の利益への期待を裏切られ、新君主の虐待に耐えられなくなったからである。確かに、反抗的な州を二度目に獲得した後は、そう軽々とは失われない。君主は反乱の機会を、犯人の処罰、疑わしい者の一掃、弱点の強化にためらいなく用いるからである。こうして、最初にフランスがミラノを失うにはロドヴィーコ公が国境で蜂起を起こすだけで足りたが、二度目に失わせるには、全世界が彼に敵対し、その軍が敗北しイタリアから駆逐される必要があった。これは前述の原因から起こった。
それでもミラノは、フランスから一度目も二度目も奪い返された。一度目の一般的理由は論じた。残るのは二度目の理由を挙げ、ルイがどんな手段を持っていたか、また同じ状況にある者なら、フランス王より確実に獲得地を保持するためにどんな手段を持ちえたかを見ることである。
さて言う。獲得されて古い国家に付け加えられる領土は、同じ国土・同じ言語のものか、そうでないか、いずれかである。同じであるなら保持は容易で、とりわけ自治に慣れていないならなおさらだ。確実に保持するには、そこを治めていた君主の家を滅ぼすだけで足りる。両者は他の点では古い条件を保ち、慣習も似ていれば、静かに共存するからである。ブルターニュ、ブルゴーニュ、ガスコーニュ、ノルマンディーが長くフランスに結びついてきた例を見ればよい。言語に多少の違いはあっても、慣習は似ていて、人々は容易に折り合って暮らせる。併合した者がそれを保ちたいなら、二点だけ心に留めればよい。前の領主の家系を断つこと、そして法と税を変えないこと。そうすれば短時日のうちに、旧来の君主国と完全に一体となる。
だが、言語・慣習・法の異なる国で国家を獲得した場合、困難が生じる。保持には幸運と大きな精力が要り、最大で最も確実な助けの一つは、獲得者自身がそこへ赴き居住することである。そうすれば地位はより確かで長続きする。ギリシャにおけるトルコの例がそうで、あの国を保持するために他のあらゆる手段を講じたとしても、そこへ住みつかなかったなら、保持できなかっただろう。現地にいれば混乱は芽吹いた瞬間に見え、すぐに手当てできる。遠くにいれば、大事になってから聞こえてくるだけで、もはや手当てできない。さらに国は役人によって略奪されず、臣民は迅速に君主へ訴える道があるため満足する。ゆえに、善良でありたい者は君主をより愛する理由を持ち、そうでありたくない者はより恐れる理由を持つ。外部からその国を攻めようとする者は最大の慎重を要する。君主がそこに住むかぎり、奪い取ることはこの上なく難しい。
もう一つ、しかもより良い手段は、国家の鍵となる地点を一、二か所選んで植民(コロニー)を送ることである。そうしないなら、そこに多数の騎兵と歩兵を置かねばならない。植民にはほとんど費用がかからない。わずかな費用、あるいは無費用で送り出して維持できる。怒らせるのは、新住民に与えるために土地や家屋を奪われる少数の市民だけである。そして怒らされた者たちは貧しく散り散りにされ、決して君主を害することができない。他方、害されていない人々は容易におとなしくさせられ、同時に、略奪された者のような目に遭うことを恐れて過ちを避ける。結論として言えば、植民は費用がかからず、より忠実で、害が少ない。そして害された者たちは、述べたとおり貧しく散らされるため害しえない。この点について付言するなら、人は手厚く遇するか、さもなくば叩き潰すべきである。軽い傷なら復讐されるが、重い傷なら復讐できない。ゆえに人に加える害は、復讐を恐れずに済む種類のものでなければならない。
植民の代わりに駐屯軍を置いて維持するなら、費用ははるかに増える。守備隊に国家の歳入すべてを食いつぶされ、獲得が損失へ変わる。しかも不満を抱く者が増える。国家全体が害されるからだ。守備隊があちらこちらへ移動することで、誰もが苦役を知り、誰もが敵になる。しかもその敵は、彼らの土地では打ち負かされていても、それでも害を与える力を持つ。ゆえにあらゆる理由から、この種の守備は、植民が有用であるのとは逆に無用である。
また、上に述べた諸点で異なる国を保持する君主は、弱小の隣国の首長であり守護者であるように振る舞い、強国を弱め、同程度に強い外国勢力が偶然にも足場を得ぬよう注意せねばならない。なぜなら、そうした外国勢力は、野心過多か恐怖によって不満を抱く者によって必ず引き入れられるからである。すでに見たとおり、ローマ人がギリシャへ入ったのはアイートーリア人によってであり、他のどの国でも、ローマ人が足場を得たのは住民が招き入れたからである。常の成り行きとして、強力な外国人が国に入るや否や、属国はすべて、その支配権力への憎しみに動かされて、外国人に引き寄せられる。したがって属国を味方につけるために君主が骨を折る必要はない。彼らは君主が獲得した国家へ素早く結集する。君主はただ、彼らが過剰な力と権威を握らぬよう注意すればよい。そうすれば自軍と彼らの好意によって、より強い者を容易に抑え、国内で完全な主人としてとどまれる。この仕事を適切に運ばない者は、獲得したものをすぐ失うだろう。保持している間も終わりのない困難と苦悩に苛まれる。
ローマ人は併合した国々でこれらの手段を厳密に守った。植民を送り、弱小勢力とは友好関係を維持しつつその力を増さず、強大な勢力は抑え込み、強い外国勢力が権威を得るのを許さなかった。ギリシャはその例として十分である。ローマはアカイヤ人とアイートーリア人を友好のうちに置き、マケドニア王国を屈服させ、アンティオコスを追い払った。だがアカイヤ人とアイートーリア人の功績も、勢力拡大を許されることには決して結びつかなかった。フィリッポスの説得も、まず彼を屈服させることなくローマ人を友とさせることはできず、アンティオコスの影響力も、彼がその地にいかなる支配権を保つことへの同意を引き出せなかった。ローマ人はここで、賢明な君主が必ずなすべきことをしたのである。すなわち目先の困難だけでなく未来の困難も見据え、あらゆる精力で備えることだ。予見されれば、手当ては容易である。だが近づくまで待てば、病は不治となり、薬は時機を失う。医師が肺結核性の熱について言うのと同じことが国家の事柄にも起こる。病は初め、治すのは容易だが見つけにくい。だが時が経ち、初めに見つけも治療もしなければ、見つけるのは容易になっても治すのは難しい。国家の事柄も同様で、(賢者にのみ見える)芽のうちに悪を見抜けば、すぐに正せる。だが予見されず育つに任され、誰の目にも明らかになるまで大きくなれば、もはや救済はない。ゆえにローマ人は、困難を予見するとただちに対処し、戦争を避けるためであっても、問題を頂点まで膨れ上がらせることを許さなかった。戦争は避けられず、ただ他者の利益のために先延ばしされるだけだと知っていたからである。さらに彼らは、ギリシャでフィリッポスやアンティオコスと戦うことを望んだ。イタリアで戦わずに済ませるためだ。二つの戦争はいずれも避けることもできたが、それを望まなかった。彼らはまた、現代の賢者が口癖のように言う――「時の利を楽しもう」――という言葉を好まず、むしろ自らの勇気と慎慮の利を楽しんだ。時は万物を押し流し、善も悪も、悪も善も、ともに運んでくるからである。
だがフランスへ目を向け、彼女が述べたことのいずれかを行ったかを問おう。ここではシャルルではなくルイについて語る。彼のほうがイタリアを長く保持したため、その行動は観察に適しているからだ。そうすれば、異質な要素から成る国家を保つためにすべきことの正反対を、彼が行ったことが分かる。
ルイ王をイタリアへ招き入れたのはヴェネツィアの野心であった。彼らはルイの介入によってロンバルディアの半分を得たいと望んだ。私は王の取った道を責めはしない。イタリアに足場を得たいのに、そこに友がいない。シャルルの行為のためにすべての門が閉ざされていたのだから、得られる友情を受け入れるほかない。もし他の点で過ちを犯さなかったなら、彼はたちまち目的を達しただろう。だが王はロンバルディアを獲得すると、シャルルが失った権威を即座に取り戻した。ジェノヴァは屈し、フィレンツェ人は友となり、マントヴァ侯、フェッラーラ公、ベンティヴォーリ家、フォルリの我が貴婦人、ファエンツァ、ペーザロ、リミニ、カメリーノ、ピオンビーノの諸領主、ルッカ人、ピサ人、シエナ人――皆が競って友となろうとした。そのときヴェネツィアは、自分たちの軽率を思い知ったはずだ。ロンバルディアの二都市を得るために、王をイタリアの三分の二の主人にしてしまったのだから。
いま、王が上に述べた規則を守り、友を安全に保護していたなら、いかに少ない困難でイタリアに地歩を維持できたかを考えてみよ。友は多かったが、いずれも弱く臆病で、ある者は教会を恐れ、ある者はヴェネツィアを恐れていた。ゆえに彼らは常に王に縋らざるをえず、その力を通じて王は残る強国に対しても容易に身を固められたはずである。ところが王はミラノに入るや、教皇アレクサンデルがロマーニャを占領するのを助けるという、正反対のことをした。彼はこの行為によって自分を弱めていることに気づかなかった。すなわち、自らの懐へ飛び込んできた友と支持者を奪い、他方で教会を強大化していたのである。霊的権威に大きな世俗権力を付け足し、いっそうの威勢を与えたのだ。この第一の過ちを犯したため、王はさらに過ちを重ねざるをえなくなった。アレクサンデルの野心に終止符を打ち、彼がトスカーナの主人となるのを防ぐために、王自身がイタリアへ来ねばならなくなったのである。
教会を増長させ、友を失わせただけでは足りぬかのように、王はナポリ王国を望んでスペイン王と分割した。イタリアの第一の裁定者であったところへ、同輩を迎え入れたのである。これでその地の野心家や、彼自身の不満分子が身を寄せる先を得た。そして王は、自らの年金受給者を王として残すこともできたのに、それを追い出して、今度は逆にルイ王自身を追い出し得る者を据えた。
獲得への欲望は、実に自然で一般的である。人は可能なら常にそれを行い、そのことでは非難されず賞賛される。だが不可能なのに、どんな手段を用いてもやろうとするなら、それは愚かであり非難に値する。ゆえに、もしフランスが自軍の力でナポリを攻撃できたなら、そうすべきだった。できないなら、分割すべきではなかった。ヴェネツィアとのロンバルディア分割は、それによってイタリアへの足場を得たという弁解によって正当化されうるが、こちらの分割は非難に値する。その必要性という弁解がないからである。
したがってルイは五つの誤りを犯した。弱小勢力を滅ぼし、イタリアの強国の一つの力を増し、外国勢力を招き入れ、その国に住みつかず、植民を送らなかった。この五つの誤りは、彼が生きていたとしても、六つ目の誤り――ヴェネツィアから領土を奪ったこと――を犯さなければ、彼を害するには足りなかっただろう。なぜなら、教会を増長させず、スペインをイタリアへ招き入れもしなかったなら、ヴェネツィアを屈服させるのは十分に理にかなっており、必要でもあった。しかしそれらの手を先に打った以上、ヴェネツィアの破滅に同意すべきではなかった。彼らが強大であれば、ロンバルディアへの他者の企図を常に遠ざけたはずだからだ。ヴェネツィアは自分たちがその地の主人になるのでなければ、決してそれに同意しなかっただろうし、他者もフランスからロンバルディアを奪ってヴェネツィアに与えることを望まず、両者に敵対するほどの胆力もなかったはずである。
もし誰かが、「ルイ王は戦争を避けるためにロマーニャをアレクサンデルに譲り、王国をスペインに譲った」と言うなら、私は上の理由で答える。戦争を避けるために失策を犯してはならない。戦争は避けられず、ただ自分に不利になるよう先延ばしされるだけだからである。また別の者が、王が教皇へ、結婚解消とルーアンの司教帽(枢機卿位)と引き換えにその事業を助けると誓った、と主張するなら、私は君主の信義と、それがいかに守られるべきかについて後に書くことでもって答える。
こうしてルイ王は、国を保持しようとする者が守ってきた諸条件のいずれも踏まず、ロンバルディアを失った。このことには奇跡などなく、理にかなった、きわめて自然な成り行きがあるだけだ。この問題について私はナントでルーアン枢機卿と話した。ヴァレンティーノ、すなわち教皇アレクサンデルの子チェーザレ・ボルジアがロマーニャを占領していたころである。枢機卿が私に「イタリア人は戦争が分からない」と言ったとき、私は「フランス人は国家術が分からない」と答えた。もし分かっているなら、教会をあれほど大きくさせはしなかっただろう、という意味である。実際、イタリアにおける教会とスペインの偉大さはフランスによって生じ、フランスの破滅はそこへ帰されるのを見てきた。ここから、決して、あるいはめったに外れない一般規則が引き出される。すなわち、他者を強大にする原因となった者は滅びる、ということだ。なぜなら、その優越は、狡知によってか、力によってか、いずれかで生み出されるが、どちらも、力を与えられた者には疑念の種となるからである。
## 第四章 アレクサンドロスが征服したダレイオスの王国が、アレクサンドロスの死後、その後継者たちに反乱しなかったのはなぜか
新たに獲得した国家を維持するのに、人々がどれほど苦労してきたかを思えば、ある者は不思議に思うかもしれぬ。すなわち、アレクサンドロス大王はわずか数年でアジアの主人となったのに、国がようやく落ち着きかけたところで死んだ(それゆえ帝国全体が反乱しても不思議ではないように見える)。それにもかかわらず後継者たちは権力を保ち、互いの野心が生んだ内部の争い以外には、格別の困難に遭わなかったのはなぜか、と。
わたしの答えはこうだ。記録に残る君主国は、大きく二つの仕方で統治されている。ひとつは、君主が家臣団を従え、君主の恩寵と許可によって彼らが大臣として王国の統治を助ける形。もうひとつは、君主と貴族たちによって治められる形で、貴族は君主の恩恵ではなく、古い血統によってその地位を保つ。かような貴族はそれぞれ領国と固有の臣民を持ち、臣民は彼らを主君として認め、自然な愛着を寄せる。君主と家臣によって治められる国では、国中どこにも君主より上位と認められる者がいないため、君主は格別に重んじられる。別の者に従うとしても、それは大臣や役人に対する服従であって、特別な愛情を向ける対象ではない。
この二つの統治形態の現代の例が、トルコとフランス王である。トルコの君主国は一人の主君がすべてを支配し、他はみな家臣である。王国をサンジャクに分け、そこへ異なる行政官を送り込み、気に入るままに交代させ、入れ替える。これに対してフランス王は、古来の諸侯の只中に位置している。諸侯は自分の臣民に承認され、愛されており、固有の特権を持ち、王といえども危険を冒さずにそれを奪うことはできぬ。ゆえに両国を考え合わせれば、トルコの国を奪うには大きな困難があるが、いったん征服してしまえば保持はきわめて容易であると分かる。トルコ王国を奪うのが難しい理由は、簒奪者が王国の諸侯に招き入れられることがなく、また主君の周りにいる者たちの反乱によって計画が助けられる望みもないからだ。前に述べたとおり、大臣たちは皆が奴隷同然の隷属者で、買収はきわめて難しい。仮に買収できたところで、彼らは民衆を引き連れて動かす力を持たないゆえ、得られる利も少ない。したがってトルコを攻める者は、敵が結束していることを覚悟し、他者の反乱よりも自らの力に頼らねばならぬ。しかし、いったんトルコを征服し、戦場で打ち破って軍を再建できぬほどにしてしまえば、恐れるべきはこの君主の家系のみとなる。そしてそれを根絶やしにしてしまえば、民衆から信望を持つ者は他にいないのだから、恐れるものは消える。勝利以前に彼らに頼らなかったのなら、勝利後に彼らを恐れる理由もない。
反対にフランスのような統治の国では、王国内のいずれかの貴族を味方に引き入れれば、容易に入り込める。不満分子や変化を望む者は常に見つかるからだ。こうした者たちは、前述の理由により国への道を開き、勝利をたやすくする。しかし勝利後、それを保持しようとすれば、助けた者からも、打ち伏せた者からも、無限の困難に見舞われる。君主の家系を根絶やしにしただけでは足りない。残った諸侯が新たな運動の頭目となり、満足させることも根絶やしにすることもできぬ以上、機会が訪れればその国は失われる。
さて、ダレイオスの政体がどのようなものだったかを考えれば、それはトルコ王国に似ていたと分かる。ゆえにアレクサンドロスは、まず戦場でダレイオスを打ち倒し、そののち国土を奪うだけでよかった。その勝利の後、ダレイオスが殺されると、前述の理由により国家はアレクサンドロスにとって安泰なものとなった。もし後継者たちが一致団結していたなら、彼らは平穏に、容易にそれを享受できたはずだ。王国内に騒乱が起きたとしても、それは彼ら自身が引き起こしたものに限られたのだから。
しかしフランスのように組み立てられた国家を、かくも泰然と保持することは不可能である。スペイン、フランス、ギリシャにおいてローマに頻繁な反乱が起こったのは、これらの国々に多数の小君主国が存在したためであり、その記憶が残るかぎり、ローマの支配は常に不安定であった。だが帝国の力と長い持続によって記憶は薄れ、ローマは確かな所有者となった。その後、彼らが内戦を始めると、各人はそこで自らが握った権威に応じて国土の一部を自分の側へ引き寄せることができた。かつての支配者の家が根絶やしにされると、ローマ以外に認められる者はいなくなった。
これらを覚えておけば、アレクサンドロスがアジア帝国を容易に保持したことにも、またピュロスや他の多くが獲得地の保持に苦労したことにも、誰も驚かぬだろう。これは征服者の才の多少によるのではなく、支配される側の国家の構造が一様でないことに由来する。
## 第五章 併合前に自国の法で生きていた都市や君主国をいかに統治するか
前に述べたように獲得した国家が、かねて自国の法のもと自由に暮らしてきた場合、それを保持したい者にとって道は三つある。第一に破壊すること。第二に君主自らがそこへ住むこと。第三に、その国に自国の法のまま生きることを許し、貢納を取り立て、内部に寡頭政(少数支配)を据えてこちらに友好的でいさせることだ。君主によって作られたこの政体は、君主の好意と利益なしには立ちゆかぬと知っているから、あらゆる力で君主を支える。ゆえに自由に慣れた都市を保持しようとする者は、他のどんな手段よりも、その市民自身の力を用いる方がたやすい。
例として、スパルタとローマがある。スパルタはアテネとテーベを、寡頭政を置いて支配したが、結局失った。ローマはカプア、カルタゴ、ヌマンティアを保持するためにそれらを解体し、失わなかった。ローマはスパルタのようにギリシャを保持しようとし、自由を与え法を許したが、成功しなかった。そこで多くの都市を解体せざるを得なかった。実際、破壊以外に安全な保持の方法はないのである。自由に慣れた都市の主人となって、それを破壊しない者は、逆に都市に破壊される覚悟をせねばならぬ。反乱の合言葉は常に「自由」と「古い特権」であり、時の経過も恩恵も、それを忘れさせはしない。いかなる備えをしても、彼らはその名と特権を忘れない。分裂し離散させない限り、機会があれば即座にそれへ結集する。フィレンツェ共和国に百年も隷属させられた後でなお、ピサが立ち上がったように。
だが都市や国が、もともと君主の支配に慣れ、その家系が根絶された場合は違う。一方では服従に慣れ、他方では旧君主がいないため、彼らは自分たちの中から新たな君主を立てることに同意できず、また自己統治のやり方も知らぬ。そのため武器を取るのにきわめて鈍く、君主ははるかに容易に彼らを味方につけ、確保できる。だが共和国には生命力があり、憎悪も深く、復讐心も強い。ゆえにかつての自由の記憶を眠らせてはくれない。だから最も安全なのは、破壊するか、君主自らが住むことだ。
## 第六章 自らの武力と力量によって獲得する新しい君主国について
わたしがこれから述べるように、まったく新しい君主国について語る際、君主と国家の最高の例を引くことに驚いてはならぬ。人はほとんど常に他人の踏み固めた道を歩き、模倣によって行いを追うが、他人の道を完全に守り抜くことも、模倣する者と同じ力に到達することもできない。賢者は常に偉大な人々の踏み固めた道を行き、至高の者を模範とすべきである。そうすれば能力が及ばずとも、少なくともその香りは移る。巧みな弓手が、狙う的が遠すぎると見え、弓の力の限界も知っているとき、的そのものではなく、はるか上を狙うように振る舞えばよい。矢をそこまで届かせるためではなく、高い狙いによって、望む的を射抜くために。
ゆえにわたしはこう言う。まったく新しい君主国、すなわち新たな君主が立つ国では、それを保持する難易は、獲得した者の力量の多少に応じて変わる。さて、私人から君主へと上がるという事実は、力量か幸運か、いずれかを前提とする。ならばこの二つのどちらかが、多くの困難をいくらかは和らげるのは明らかだ。とはいえ、幸運への依存が少ない者ほど基盤は強固である。さらに、君主が他に領国を持たず、みずからそこに住むことを余儀なくされるとき、事は一層容易になる。
だが幸運ではなく自らの力量によって君主に上りつめた者たちに話を移そう。最も優れた例はモーセ、キュロス、ロムルス、テーセウス、そして同類の者たちである。モーセについては、神の意志の執行者にすぎなかったゆえ論じぬとしても、神と語るにふさわしい者とされた恩寵だけでも称賛に値する。だがキュロスその他、王国を獲得し建てた者たちを見れば、誰もが称賛に値する。彼らの個々の行為と処し方を検討すれば、モーセのものに劣らぬと分かる。モーセにはあれほどの師がいたとしてもだ。そして彼らの行動と生涯を調べれば、幸運に負うものは機会にすぎない。機会が彼らに素材を与え、彼らはそれを最良と思う形に鋳造した。機会がなければ精神の力は発揮されず、力がなければ機会はむなしく過ぎたろう。
したがって、モーセにとっては、イスラエルの民がエジプトで奴隷として虐げられ、束縛から救われるために彼に従う気持ちになっていることが必要だった。ロムルスにとっては、アルバにとどまらず、生まれてすぐ捨てられることが必要だった。そうでなければローマ王にも祖国の創建者にもなれなかった。キュロスにとっては、ペルシア人がメディアの支配に不満を抱き、メディア人が長い平和で軟弱かつ女々しくなっていることが必要だった。テーセウスが力量を示すには、アテネ人が離散している必要があった。かくして機会が彼らを「幸運」にし、その卓越した力量が機会を見抜かせ、祖国を高め名声あるものへと変えたのである。
これらのように、武勇の道によって君主となる者は、獲得には苦労するが、保持は容易である。獲得の困難の一部は、統治と安全の確立のため、彼らが新たな規則や制度を導入せねばならぬことに由来する。そして覚えておくべきは、新しい秩序を導入する先頭に立つほど、着手しにくく、運営に危険が伴い、成功が不確かなものはないということだ。改革者には、旧制度のもとでうまくやってきた者すべてが敵となり、新制度のもとでうまくやれるはずの者は、ぬるい擁護者にしかならない。この冷淡さは、法律を味方につけた反対者への恐れと、人間が長い経験を経るまで新しいものを信じにくいという不信とから生じる。ゆえに敵が攻撃の機会を得れば党派のように激しく襲い、味方はぬるく守るだけなので、君主は彼らとともに危険にさらされる。
したがって、この問題を徹底して論じたいなら、改革者が自分自身に依拠できるか、それとも他者に依存せねばならぬかを調べる必要がある。すなわち、事業を完成させるのに、祈願で足りるのか、それとも力を用い得るのか。前者は常に失敗し、何事も成し遂げない。だが自分に頼り、力を用い得るなら、危険にさらされることは稀である。ここから、武装した預言者は皆勝利し、無武装の預言者は滅びた、ということになる。加えて、民衆の気質は移ろいやすい。説得するのは容易だが、その説得に留め置くのは難しい。ゆえに、彼らがもはや信じなくなったとき、力によって信じさせることが可能になるよう手を打たねばならぬ。
もしモーセ、キュロス、テーセウス、ロムルスが無武装であったなら、彼らは長く制度を守らせることはできなかっただろう。現代でも、ジローラモ・サヴォナローラがそうだった。群衆が彼を信じなくなった途端、新秩序とともに滅び、信じる者を踏みとどまらせる手段も、信じぬ者を信じさせる手段も持たなかった。ゆえにこの種の者は事業完成に大いなる困難を伴う。危険はすべて登り坂にあり、力量によってそれを克服する。克服し、成功をねたんだ者たちを根絶すると、尊敬され、以後は強く、安全で、名誉と幸福を保つ。
これらの大例に、より小さな例を一つ加えたい。とはいえ類似点があり、同類すべてに対するわたしの例としては十分だ。それはシラクサのヒエロンである。彼は私人からシラクサの君主となったが、幸運に負うものは機会だけだった。シラクサ人は圧迫されていたため、彼を将軍に選び、その後、君主として報いた。彼の能力は私民の身であっても著しく、彼について書く者が「王国さえあれば王だった」と言うほどであった。彼は旧軍を廃し、新軍を編制し、旧同盟を捨て、新同盟を結んだ。自前の兵と同盟を得たので、その基礎の上にいかなる建築も可能だった。獲得には多くの労苦を耐えたが、保持にはほとんど苦労しなかったのである。
## 第七章 他者の武力または幸運によって獲得する新しい君主国について
純粋に幸運だけで私民から君主となる者は、上るのに苦労は少ないが、頂にとどまる苦労は多い。上る道には困難がない。飛ぶように上がるからだ。だが頂に達すると困難が山積する。金によって、あるいは与える者の好意によって、国家を与えられる者がそうである。ダレイオスがイオニアやヘレスポントスの諸都市において、彼の安全と栄光のために君主を立てたことや、兵の買収によって市民から皇帝になった者たちも同様だ。彼らは自分を引き上げた者の好意と幸運という、最も不安定で頼りない二つのものの上に立つだけである。しかも職務に必要な知識を欠く。よほどの力量と徳がない限り、常に私的な身分で生きてきた者が命令の仕方を知っているはずもない。さらに、忠実で友好的に保てる自前の軍を持たぬため、地位を保てない。
自然界でもそうだが、急に生まれ急に育つものは、基礎や連関を十分に固める暇がないので、最初の嵐で倒れる。前述のとおり、突然君主となった者が、ただちに備えを整え、幸運が膝に放り込んだものを保持せねばならぬことを理解するほどの才を持つ場合を除いては。ほかの者が君主になる「前」に築いた基礎を、彼らは君主になった「後」に築かねばならぬ。
力量による君主への上昇と、幸運による上昇、この二つの方法について、記憶に新しい例を二つ挙げたい。フランチェスコ・スフォルツァとチェーザレ・ボルジアである。フランチェスコは正しい手段と大いなる力量によって私民からミラノ公となり、千の不安の中で得たものをわずかな苦労で保った。他方、チェーザレ・ボルジア、民衆からヴァレンティーノ公と呼ばれた者は、父の隆盛のもとで領国を得たが、父の没落とともにそれを失った。賢明で有能な人間がなすべきことをすべて尽くし、他者の武力と幸運が与えた領国に根を下ろそうとしたにもかかわらず、である。
なぜなら前述のとおり、最初に基礎を築けなかった者は、いかに有能でも後から築くことはできるが、建築家にも建物にも危険と苦労を伴うからだ。ゆえに公の歩みを一つひとつ検討すれば、将来の権力のために堅固な基礎を据えたことが分かる。このことを論じるのは無益ではない。新しい君主に与えるべきこれ以上の教訓を、わたしは彼の行為の実例より他に知らぬからだ。もし彼の手立てが無効に終わったとしても、それは彼の落ち度ではなく、幸運の異常で極端な悪意のせいだった。
アレクサンデル六世は息子たる公を大きくしようとして、当面と将来の困難を多く抱えていた。第一に、教会領以外の国家を彼に与える道が見えなかった。教会を奪おうとすれば、ミラノ公とヴェネツィア人が同意しないのは承知していた。ファエンツァとリミニはすでにヴェネツィアの保護下にあったからだ。さらに、イタリアの武力、とりわけ教皇の肥大を恐れて助力しそうにない武力が、オルシーニ家、コロンナ家とその一党の手にあることも見ていた。ゆえにこの情勢を覆し、列強を争わせて、彼らの領国の一部を安全に手に入れる必要があった。それは容易だった。ヴェネツィア人が別の理由でフランスを再びイタリアへ呼び戻す気になっているのを見いだしたからである。教皇はそれに反対しないどころか、ルイ王の前婚を解消することで、むしろ事を容易にした。こうして王はヴェネツィアの助力とアレクサンデルの同意を得てイタリアへ入った。王がミラノに入るや、教皇はロマーニャ攻略のために王から兵を得た。王の名声ゆえにロマーニャは屈した。公はロマーニャを得てコロンナ党を打ち、そこを保持しさらに前進しようとしたが、二つのことに妨げられた。第一に、配下の兵が忠実に見えなかったこと。第二に、フランスの好意が確かでなかったこと。つまり、公が用いていたオルシーニ党の兵が彼に踏みとどまらず、さらなる獲得を妨げるばかりか、彼の得たものを自分たちで奪うかもしれず、王も同じことをしかねない、と恐れたのである。オルシーニについては、ファエンツァを取ってボローニャを攻めた後、彼らが極めて不承不承に攻撃へ向かったことで警告を得た。王については、公がウルビーノ公国を取ってトスカーナに攻め込んだとき、王がその企てをやめさせたことで腹を読んだ。そこで公は、もはや他人の武力と運に頼らぬと決めた。
第一に、公はローマでオルシーニ党とコロンナ党を弱体化させた。両派に属する紳士たちを皆こちらへ引き入れて自分の紳士とし、厚い俸給を与え、地位に応じて官職と指揮権を授けた。数か月で派閥への愛着は壊れ、すべてが公へと向いた。その後、公はオルシーニを打ち砕く機会を待った。コロンナ家の支持者を散らしたからである。機会はすぐに来て、彼はそれを巧みに用いた。オルシーニはついに、公と教会の勢力拡大が自分たちの破滅だと悟り、ペルージャ近郊のマジョーネで会合を開いた。そこからウルビーノの反乱とロマーニャの騒乱が生じ、公は無数の危険にさらされたが、フランスの助けでそれを克服した。権威を回復した公は、フランスや外部の武力に頼って再び危険にさらすまいとして、策謀に訴えた。心中を隠すのがあまりに巧みだったため、シニョール・パオロ(公は金、衣服、馬などあらゆる配慮で彼を取り込んだ)を仲介に、オルシーニ党は和解した。そしてその単純さゆえに、シニガリアで公の権力圏へ入り込んだ。首領たちを根絶し、党派の者を味方へ転じさせ、公は権力の十分に良い基礎を据えた。ロマーニャ全域とウルビーノ公国を握り、民衆も繁栄を味わい始めたため、彼らもまた公へ傾いた。この点は注目に値し、他者の模範ともなるので、わたしは省かぬ。
公がロマーニャを占領したとき、そこは弱い支配者たちに治められていた。彼らは統治するより臣民を略奪し、結束より分裂の理由を与えた。国は盗賊、争い、あらゆる暴力で満ちていた。そこで公は平和と権威への服従を取り戻すため、良い総督を置く必要があると考えた。こうして迅速で残忍な男、メッセル・ラミーロ・ドルコを抜擢し、全権を与えた。彼は短期間で大いなる成功をもって平和と統一を回復した。だが公は、かかる過大な権力を与え続けるのは得策ではないと考えた。民衆の憎悪を招くと疑わなかったからである。そこで公は、卓越した長官のもとに裁判所を設け、各都市に代弁者を置いた。さらに、公は過去の苛烈さが自分への憎しみを生んでいることを知っていたので、民衆の心を晴らし完全に味方につけるため、もし残酷が行われたとしても、それは自分から出たのではなく、大臣の生来の苛酷さから出たのだと示そうとした。この口実のもと、公はラミーロを捕らえ、ある朝、チェゼーナの広場で斬首し、傍らに切り株と血塗られた刃物を残した。この野蛮な光景は、民衆を同時に満足させ、震え上がらせた。
だが話の出発点へ戻ろう。わたしが言うのはこうだ。公は今や十分に強くなり、独自のやり方で武装して当面の危険から一部守られ、さらに近隣で害しうる勢力を大方打ち砕いた以上、征服を進めるなら次はフランスを考えねばならなかった。王が遅ればせながら誤りに気づいても、公を支持しないだろうと知っていたからである。そこで公は新たな同盟を求め、フランスがナポリ王国へ向け、ガエータを包囲するスペイン人に対して行った遠征では、フランスと距離を取りつつ機会をうかがった。彼の意図はスペインに対して身を固めることにあり、アレクサンデルが生きていれば、彼はそれをすぐに成し遂げていただろう。
これが当面の情勢に対する彼の行動である。だが将来については、第一に新しい教皇が自分に敵対し、アレクサンデルが与えたものを奪おうとすることを恐れた。そこで四つの策を決めた。第一に、奪った領主たちの家系を根絶し、教皇が介入する口実を断つ。第二に、ローマの紳士たちを皆こちらへ引き入れ、彼らの助けで教皇を抑える。第三に、枢機卿会議をできる限り自分の側へ傾ける。第四に、教皇が死ぬ前に十分な力を獲得し、最初の衝撃を自力で耐えられるようにする。この四つのうち、アレクサンデルの死までに公は三つを成し遂げていた。奪われた領主のうち手にかけられる者はできる限り殺し、逃れた者は少なかった。ローマの紳士たちを取り込み、枢機卿会議でも最大の党派を持っていた。新たな獲得についてはトスカーナを狙っていた。すでにペルージャとピオンビーノを持ち、ピサは公の保護下にあった。そしてもはやフランスに気を配る必要もなかった(フランスはスペインによってナポリ王国から追い出され、両者とも公の好意を買わねばならなくなっていたからだ)。そこで公はピサへ飛びかかった。その後、ルッカとシエナは、フィレンツェ人への憎しみと恐れから、たちまち屈した。公がアレクサンデルの死んだ年のように繁栄を続けていれば、フィレンツェ共和国には手立てがなかっただろう。彼はすでに力と名声を獲得し、もはや他者の運や武力ではなく、自らの力と力量だけで立てたからである。
だがアレクサンデルは剣を抜かせてから五年で死んだ。公に残されたのは、ロマーニャの領国だけが固まり、他は宙ぶらりん、しかも二つの最強の敵軍に挟まれ、自身は死にかけの病身という状況だった。それでも公には大胆さと力量があり、人の取り込み方、見限り方を熟知し、短期間で据えた基礎は堅固だったので、もし背後に軍が迫っていなければ、あるいは健康であったなら、すべての困難を克服したはずだ。実際、彼の基礎が良かったことは、ロマーニャが一か月以上も彼の帰還を待ったことから分かる。ローマでも半死半生でありながら安全だった。バリオーニ、ヴィテッリ、オルシーニがローマへ来ても、彼に対して何もできなかった。望む教皇を選べずとも、少なくとも望まぬ者の選出は阻めたはずだ。だがアレクサンデルの死のときに健康であったなら、彼にとってすべては違った。ユリウス二世が選ばれた日、公はわたしにこう言った。「父の死に際して起こりうることはすべて考え、すべての対策を用意していた。ただ一つ、父が死ぬときに自分が死にかけているとは、思いもしなかった」と。
公の行為をすべて思い起こしても、わたしは彼を責める理由を見いだせない。むしろ前に言ったとおり、他者の幸運や武力によって統治者に押し上げられた者にとって、彼を模範として差し出すべきに思える。高い精神と遠大な目的を持つ彼が、別のやり方で身を処せたはずもない。アレクサンデルの命の短さと公自身の病が、計画を挫いたのだ。ゆえに新しい君主国で身を固め、友を得、力または欺きで敵を克服し、民衆に愛され畏れられ、兵に従われ敬われ、害しうる者や害する理由を持つ者を根絶し、旧来の秩序を新たにし、厳しくも情け深く、豪胆で寛大であり、不忠の兵を壊して新軍を作り、王や君主と友情を保ち、彼らが熱意をもって助け、慎重に害するように仕向けたいと考える者は、この男の行為以上に生き生きとした手本を見いだせぬ。
ただ一つ責めるべきは、ユリウス二世の選出に同意した点である。選択を誤ったからだ。前述のとおり、自分の望む教皇を選べなかったとしても、他の者の選出を妨げることはできた。自分が傷つけた枢機卿、あるいは教皇となれば自分を恐れる理由を持つ枢機卿の選出には、決して同意すべきではなかった。人が害するのは恐れか憎しみからである。彼が傷つけた者には、サン・ピエトロ・アド・ヴィンクラ、コロンナ、サン・ジョルジョ、アスカーニオらがいた。他の者たちも、教皇になれば公を恐れねばならなかった(ルーアンとスペイン人を除く。後者は縁と恩義ゆえ、前者は影響力ゆえであり、フランス王国が前者と関係を持っていた)。したがって何よりも、公はスペイン人を教皇に立てるべきであり、それができぬならサン・ピエトロ・アド・ヴィンクラではなくルーアンに同意すべきだった。新たな恩恵が大人物に古い傷を忘れさせると信じる者は誤る。ゆえに公の誤りはこの選択にあり、それが最終的な破滅の原因となった。
## 第八章 邪悪によって君主国を得た者について
君主が私民から立身する道は二つあり、どちらも幸運や才能だけに帰することはできぬ。これについて沈黙してはならぬと、わたしは思う。共和国について論じる際には、より詳しく扱えるだろうが。すなわち、邪悪で不正な手段によって君主位に上りつめる場合、または同胞市民の好意によって私民が自国の君主となる場合である。第一の方法については、古代と現代の二例を挙げれば足りるだろう。これ以上立ち入らずとも、やむを得ずその道を歩む者には十分である。
シチリアのアガトクレスは、私民からのみならず、卑しく下賤な境遇からシラクサ王となった。陶工の子として生まれ、運命の変転の中でも常に悪名高い生を送った。それでも精神と肉体の能力を伴っていたため、軍事の道に身を投じ、昇進を重ねてシラクサの法務官となった。その地位を得ると、君主になろう、他者への恩義なしに、自分に同意で与えられたものを力ずくで奪って保持しよう、と熟考して決めた。そしてこの企てのため、シチリアで軍を率いて戦っていたカルタゴ人アミルカルと内通した。ある朝、共和国の事柄を議論するかのように民会と元老院を招集し、合図とともに兵が元老院議員と富裕層を皆殺しにした。これらが死ぬと、彼は市民的混乱もなくシラクサの君主権を奪い保持した。その後、カルタゴ人に二度敗走させられ、ついには包囲されたが、都市を守ったばかりか、一部の兵を守備に残し、残りでアフリカを攻めて短期間に包囲を解いた。カルタゴ人は窮地に追い込まれ、アガトクレスと講和せざるを得ず、シチリアを彼に譲り、アフリカの所領に甘んじた。
ゆえにこの男の行為と才覚を考えれば、幸運に帰せられるものはほとんどない。前述のとおり、誰かの好意ではなく、軍事の階梯を一段一段、千の苦労と危険の末に上り、得た後は多くの危険を伴う大胆さで保持したからだ。だが同胞市民を殺し、友を欺き、信義も慈悲も宗教心もなく生きることを「才能」と呼ぶことはできぬ。そのような方法は帝国を得ることはできても、栄光を得ることはできない。とはいえ危険へ踏み込み、またそこから抜け出すアガトクレスの勇気、艱難に耐え克服する精神の大きさを考えれば、彼が名だたる将帥に劣ると断ずる理由もない。だが無限の悪と結びついた野蛮な残酷さと非人間性が、最も優れた人々の中に彼を讃えさせない。彼の成し遂げたことは、幸運にも才能にも帰せられぬ。
現代では、アレクサンデル六世の統治期、フェルモのオリヴェロット・ダ・フェルモがいる。幼くして孤児となり、母方の叔父ジョヴァンニ・フォリアーニに育てられ、若いころパオロ・ヴィテッリのもとへ従軍に出された。軍務の規律で鍛えられ、高い地位に達するためである。パオロの死後は兄のヴィテロッツォのもとで戦い、機知と強健な身心に恵まれ、短期間でその道の第一人者となった。だが他人に仕えるのは卑小だと思われ、フェルモの市民の一部(自由よりも隷属を好む者たち)とヴィテッリ一族の助けでフェルモを奪う決意をした。そこで叔父ジョヴァンニに書簡を送り、長年家を離れていたので叔父と故郷を訪ね、いくらかでも遺産を見ておきたい、名誉以外を得るために働いたわけではないが、市民に無為に時を過ごしていないと示すため、名誉ある形で帰りたい、ゆえに友人と家人の百騎を伴う、フェルモ市民が名誉ある歓迎をするよう取り計らってほしい、と頼んだ。そうすれば自分の名誉のみならず、育ての親である叔父の名誉にもなる、と。
ジョヴァンニは甥への礼を怠らず、フェルモ市民に丁重に迎えさせ、自宅に宿らせた。数日を過ごし、邪悪な企てに必要な手はずを整えると、オリヴェロットは盛大な宴を催し、ジョヴァンニとフェルモの首領たちを招いた。料理と宴会につきものの余興が済むと、オリヴェロットは巧みに重々しい話を切り出し、教皇アレクサンデルと息子チェーザレの偉大さや事業を論じた。ジョヴァンニらが応じると、彼はすぐ立ち上がり、こうした話はもっと私的な場所で論ずべきだと言って別室へ移った。ジョヴァンニらも後を追った。座るや否や、兵が隠れ場所から現れ、ジョヴァンニらを斬り殺した。殺害の後、オリヴェロットは騎馬で町を駆け回り、宮殿で首席行政官を包囲したため、民衆は恐怖から彼に従い、彼を君主とする政体を作ることを強いられた。彼は害しうる不満分子をすべて殺し、新たな民政・軍政の制度で身を固めた。その君主位にあった一年の間、彼はフェルモ市内で安泰だっただけでなく、近隣すべてにとって恐るべき存在となった。もし前述のとおり、シニガリアでチェーザレ・ボルジアに、オルシーニとヴィテッリとともに欺かれて捕らえられなかったなら、その滅ぼし方はアガトクレス同様に難しかっただろう。ところが父殺しを行ってから一年後、彼はヴィテロッツォとともに絞め殺された。ヴィテロッツォは、勇気と邪悪さにおける彼の指導者であった。
ある者は、アガトクレスや同類の者が、無数の裏切りと残虐の後でも長く国に安泰に住み、外敵から身を守り、市民に陰謀を起こされなかったのはなぜか、と不思議に思うかもしれぬ。多くの者は残虐によって、平時でさえ国家を保持できず、まして戦時の不確実な時期にはなおさらだからだ。わたしはこう考える。苛烈さの用い方が拙いか、正しいかに由来する。正しく用いられた苛烈さ(悪について「良く」と言えるならだが)とは、一撃で行われ、安全のために必要で、その後は続けず、臣民の利益へと転じうるものをいう。誤った用い方とは、当初は少なくとも、時とともに減るどころか増えてゆくものだ。前者のやり方を行う者は、神または人の助けで、支配をいくらか和らげることができる。アガトクレスがそうであった。後者に従う者は、自己を保つことは不可能である。
ゆえに注意すべきは、国家を奪う者は、加える必要のある傷をすべてよく吟味し、それらを一度にまとめて行うべきだということだ。日々繰り返さずに済むようにし、人心を揺さぶらねば、人々を安心させ、恩恵によって味方へ引き寄せられる。これと逆を行う者は、臆病か悪い助言のため、常に手に刃を握り続けねばならず、臣民を頼れない。臣民もまた、絶えず繰り返される害悪のため、彼に心を寄せない。害は一度に行うべきである。味わう回数が少なければ、恨みも薄い。恩恵は少しずつ与えるべきである。味わいが長く残るからだ。
何より君主は、良いことが起ころうと悪いことが起ころうと、不意の事情で態度を変えぬように、民衆の中で暮らすべきである。なぜなら困難な時期にそれが必要になっても、苛烈な手段には遅すぎ、温和な手段も役に立たぬからだ。強いられて出たものと見なされ、誰もそれに恩義を感じない。
## 第九章 市民的君主国について
さて別の点へ移ろう。すなわち、ある有力市民が、邪悪さや耐えがたい暴力ではなく、同胞市民の支持によって自国の君主となる場合である。これは市民的君主国と呼べよう。これを得るのに必要なのは天才や幸運ではなく、むしろ幸いな機略である。わたしが言うには、この君主国は民衆の支持によって得られるか、貴族の支持によって得られるか、そのいずれかである。というのも、あらゆる都市にはこの二党があり、民衆は貴族に支配され抑圧されることを望まず、貴族は民衆を支配し抑圧することを望む。この相反する欲求から、都市には三つの結果のいずれかが生じる。君主制、自主管理(自由政)、無政府である。
君主制は、民衆または貴族のいずれかによって作られる。機会を得た側がそうするのだ。貴族は民衆に対抗できないと見ると、自分たちの一人の評判を持ち上げ、その者を君主にする。そうすればその影のもとで野心を満たせるからだ。民衆もまた貴族に抵抗できないと見ると、自分たちの一人の評判を持ち上げ、君主にして、その権威で守られようとする。貴族の助けで主権を得た者は、民衆の助けで得た者より保持が難しい。周囲に自分を同等と考える者が多く、そのため好きなように統御も処理もできないからである。だが民衆の支持で主権に達した者は孤立し、周囲に彼へ従う用意のない者は、いないか、いても少ない。
加えて、公正に振る舞い他者を害さずに貴族を満足させることはできないが、民衆は満足させられる。民衆の目的は貴族より正しいからだ。貴族は抑圧を望み、民衆は抑圧されないことだけを望む。さらに、君主は敵対的な民衆に対しては身を固められない。数が多すぎるからだ。だが貴族に対しては固められる。彼らは少数だからである。君主が敵対的な民衆から受けうる最悪は、見捨てられることだ。だが敵対的な貴族については、見捨てられるだけでなく、彼らが蜂起することを恐れねばならぬ。貴族は見通しが利き狡猾で、この種の事態では常に早めに身を救う手を打ち、勝つと見込む者から恩恵を得ようとする。さらに君主は常に同じ民衆と暮らさねばならぬが、同じ貴族と暮らす必要はない。日々彼らを作り替え、地位を与えたり奪ったりできるからだ。
この点をさらに明確にするため、わたしはこう言う。貴族は主に二つの見方で観察すべきである。すなわち、彼らが自分の進退をあなたの運命に完全に結びつけるか、結びつけないか。結びつけ、かつ貪欲でない者は尊び愛すべきだ。結びつけない者には二通りある。臆病や生来の勇気の欠如からそうする者で、この場合、とくに良い助言のできる者を利用すべきである。繁栄の時には彼らを栄誉あるものとし、逆境では恐れる必要がない。だが野心のために結びつくのを避ける者は、自分のことをあなた以上に考えている印であり、君主は彼らを公然の敵のように警戒し、恐れるべきだ。逆境では常に君主を滅ぼす側に回るからである。
ゆえに民衆の支持によって君主となった者は、民衆を友好的に保たねばならぬ。民衆は抑圧されないことだけを求めるので、これは容易だ。だが民衆に逆らい、貴族の支持によって君主となった者は、何よりまず民衆を味方につけねばならぬ。民衆を保護下に置けば容易にできる。人は、害が来ると予期していた相手から益を受けると、恩人への結びつきはより強くなる。こうして民衆は、もし自分たちの支持でその者が君主になっていた場合よりも、いっそう献身的になる。君主はさまざまな方法で民衆の愛情を得られるが、状況により異なり定則は立てられぬので省く。ただし繰り返すが、君主は民衆を友好的に保つ必要がある。そうでなければ逆境で安全はない。
スパルタの君主ナビスは、ギリシャ全土と勝利したローマ軍の攻撃に耐え、祖国と統治を守った。この危険を越えるため彼に必要だったのは、少数に対して身を固めることだけだった。だが民衆が敵対していたなら、それでは足りなかっただろう。「民衆の上に建てる者は泥の上に建てる」という陳腐な諺でこの主張を退けてはならぬ。これは私人がそこに基礎を置き、敵や役人に抑えつけられたとき民衆が解放してくれると思い込む場合には真である。ローマのグラックス兄弟やフィレンツェのメッセル・ジョルジョ・スカーリの例のように、しばしば欺かれる。だが、すでに身を立て、命令でき、勇気があり、逆境にもひるまず、他の資質も欠かさず、決断と活力で全人民を励ます君主であれば、民衆に欺かれることはない。基礎が良く据えられていたことが示される。
これらの君主国が危険に陥るのは、市民的秩序から専制的秩序へ移行するときである。そうした君主は自ら統治するか、行政官を通じて統治するかのいずれかだ。後者の場合、統治は弱く不安定になる。行政官に引き上げられた市民の好意のみに依存し、とくに騒乱時には、陰謀または露骨な反抗によって政権を容易に覆しうるからだ。君主も騒乱の中では専制権力を振るう機会を得られない。市民や臣民は行政官から命令を受けることに慣れているため、この混乱の中で君主に従う気分にならない。疑わしい時期には、信頼できる人材が常に不足する。静かな時期に見える忠誠に、この種の君主は頼れない。平時には市民が国家を必要とし、皆が君主に同調する。皆が約束し、死が遠いときには皆が君主のために死にたいと言う。だが騒乱時、国家が市民を必要とする時には、見いだせる者は少ない。この試みは一度しかできぬゆえ、危険はいよいよ大きい。ゆえに賢い君主は、いかなる種類の状況でも市民が国家と君主を必要とするような道を採るべきである。そうすれば常に忠実である。
## 第十章 すべての君主国の力をいかに測るべきか
これらの君主国の性格を検討するにあたり、もう一つ考えるべき点がある。すなわち、君主が必要な場合に自力で持ちこたえられるほどの力を持つか、それとも常に他者の助けを必要とするかである。これを明確にするため、わたしはこう言う。人員または資金が豊富で、攻め来る者と野戦で戦える十分な軍を起こせる者を、自力で持ちこたえられる者と見なす。敵に対して野に出て姿を示せず、城壁の陰に隠れて防戦するほかない者を、常に他者を必要とする者と見なす。前者はすでに論じたが、再び現れるならまた語ろう。後者について言えるのは、そうした君主に都市の備蓄と要塞化を勧め、決して田野を防衛しようとしないことだけだ。そして都市をよく要塞化し、前述した(今後も繰り返す)方法で臣民の諸事を処理する者は、大いなる注意なしには攻撃されない。困難が見える企てを人は嫌い、よく要塞化された都市、しかも民衆に憎まれていない君主を攻めるのは容易でないと分かるからだ。
ドイツの諸都市は完全に自由で、周囲に持つ領土はわずかであり、都合のよいときにだけ皇帝に従う。そして皇帝であれ隣接するいかなる勢力であれ恐れない。どの都市も、堀と城壁が整い、大砲も十分で、公の倉庫には一年分の食糧・飲料・火器用の備えが常にあるので、強襲で落とすのは手間がかかり難しいと誰もが思うほどに要塞化されているからだ。さらに、民衆を静め国家に損失を与えぬため、市の生命であり力である労働(それによって民衆が養われる)を共同体に与え続ける手段を常に持つ。軍事訓練を重んじ、それを支える多くの法令も備えている。
ゆえに、堅固な都市を持ち、しかも自らを憎悪の的にしていない君主は、攻撃されない。たとえ誰かが攻めかかったとしても、相手は恥をかいて追い払われるだけである。さらに、この世の出来事はあまりに移ろいやすく、軍勢を丸一年、野営のまま維持して、他から妨害を受けずに済ませることなど、ほとんど不可能に近い。
ここで、こう反論する者がいるかもしれない。「民が都市の外に財産を持ち、それが焼かれるのを目の当たりにすれば、彼らは黙って耐えはしない。長い包囲と利害が重なって、やがて君主のことなど忘れてしまう」と。これに対して私が答えるのは、力があり勇気ある君主は、そうした困難をすべて乗り越える、ということである。ある時は「禍いは長引かない」という希望を臣民に与え、またある時は敵の残虐さへの恐怖を植えつけ、さらに、自分には大胆すぎると見える臣民からは巧みに身を守るのだ。
加えて、敵は到着するや否や、民の気勢がまだ熱く、防衛の意欲が満ちているその時分に、当然のように国土を焼き払い、荒らし回るだろう。だからこそ君主は、ためらうべきではない。時間が経てば気持ちは冷め、損害はすでに起き、害悪は現実となり、もはや手当てのしようがなくなる。そうなれば、人々はかえって君主と結束しやすくなる。家は焼かれ、持ち物は防衛のために破壊されたのだから、今度は君主の方が「彼らに借りがある」ように見えるからだ。人間は、受けた恩と同じくらい、自分が施した恩によっても縛られる。ゆえに万事をよく考えれば、賢明な君主が、最初から最後まで市民の心を揺るがぬものとして保つのは難しくない。君主が支え、守るという務めを怠らない限りにおいて。
## 第十一章 教会国家について
さて残るのは、教会国家について語ることだけである。これについては、困難はすべて獲得以前にある。というのも、それは能力か幸運によって得られるのに、いずれもなしで保持できるからだ。宗教という古来の制度が支えており、その力は絶大で、その性質ゆえに、君主がどのように振る舞い、どのように生きようとも、国家は保持される。これらの君主だけは、国家を持ちながら防衛せず、臣民を持ちながら統治しない。しかも国家は無防備でも奪われず、臣民は統治されなくても気にしない。彼らには離反しようという望みも、その力もない。かくして、こうした国家だけが安全で幸福である。だが人間の精神の届かぬ力によって支えられている以上、私はこれ以上語らない。神によって高められ保たれているものを論じるのは、思い上がりで軽率な人間のすることだからである。
とはいえ、もし誰かがこう問うなら――「アレクサンデル以前から、イタリアの有力者たちは(有力者と呼ばれた者だけでなく、最小の男爵・領主に至るまで)世俗権力を大して重んじなかったのに、いまや教会はどうしてこれほど世俗権力において大きくなり、フランス王を震え上がらせ、イタリアから追い出し、ヴェネツィア人すら滅ぼすことができたのか」――このことは明白ではあるが、記憶を少し呼び戻しておくのは無駄ではないと思う。
フランス王シャルルがイタリアへ入る以前、この地は教皇、ヴェネツィア人、ナポリ王、ミラノ公、そしてフィレンツェ人の支配下にあった。これらの有力者には二つの大きな心配があった。一つは、武力をもって外国人がイタリアへ入ってこないこと。もう一つは、互いが領土を奪い合って勢力を拡大しないこと。とりわけ警戒すべき相手は、教皇とヴェネツィア人であった。ヴェネツィア人を抑えるには他の全員の結束が必要だった。ちょうどフェラーラ防衛がそうであったように。教皇を抑え込むためにはローマの男爵たちが利用された。男爵たちはオルシーニ派とコロンナ派の二党に割れており、常に騒乱の口実を持っていた。しかも教皇の目の前で武装して踏みとどまり、教皇庁を弱く無力にしていた。
時にシクストゥスのような勇敢な教皇が現れても、運も知恵も、こうした煩いを取り払うことはできなかった。教皇の在位が短いことも弱さの原因である。教皇の平均在位は十年ほどだが、その十年でさえ、党派の一つを弱めるのが精一杯である。そして仮にある教皇がコロンナ派をほとんど滅ぼしたとしても、次の教皇はオルシーニ派の敵として現れ、コロンナ派の残党を支え、しかしオルシーニ派を滅ぼすだけの時間は持てない。これが、イタリアで教皇の世俗権力が軽んじられてきた理由であった。
その後に現れたのがアレクサンデル六世である。歴代教皇の中でも、金と武力をもって教皇がいかに勝ち得るかを示したのは、この人物が最たるものだった。ヴァレンティーノ公(ドゥーカ・ヴァレンティーノ)を道具として、そしてフランス軍の入国を契機として、私は先に公の行動を通じて論じた事柄のすべてを実現させたのである。彼の意図は教会を大きくすることではなく、公を大きくすることにあったとはいえ、彼のしたことは教会の偉大さに寄与した。なぜなら彼の死と公の没落の後、教会がその労苦のすべてを相続したからである。
次に教皇ユリウスが現れた。彼が見出した教会は強かった。ロマーニャをすべて領有し、ローマの男爵たちは無力化され、アレクサンデルの懲罰によって党派は一掃されていた。さらに、アレクサンデル以前には見られなかったやり方で金を蓄える道も開けていた。ユリウスはそれらを踏襲するだけでなく、さらに推し進めた。彼はボローニャの獲得、ヴェネツィア人の破滅、フランス人をイタリアから駆逐することを意図し、これらの企てはいずれも成功した。しかも彼が私利私欲ではなく教会を強めるためにすべてを行ったという点で、その功績はいよいよ大きい。彼はオルシーニ派とコロンナ派も、当初の状態のまま範囲内に抑えた。彼らには騒ぎを起こしたい気配もあったが、ユリウスは二つを確固として保持した。一つは教会の威大であり、それで彼らを脅した。もう一つは、彼らに自派の枢機卿を持たせなかったことである。枢機卿こそが彼らの騒乱の種だからだ。党派が枢機卿を得れば、長くはおとなしくしていない。枢機卿がローマ内外で党派心を煽り、男爵たちは支えざるを得ず、その結果、高位聖職者の野心が男爵たちの間に騒擾と混乱を生むのである。
このような理由から、教皇レオ陛下は最も強大な教皇権を受け継いだ。もし他の者たちが武力で教会を大きくしたのなら、彼は善良さと無限の徳によって、いっそう大きく、いっそう崇敬されるものにするだろうと期待される。
## 第十二章 軍隊の種類――傭兵について
当初私が論じると述べた諸侯国の性質を個別に語り、その善悪の原因をいくぶん考察し、多くの者がそれらを獲得し保持しようとした方法を示した。ここで私は、各国に共通する攻防の手段を、一般的に論じねばならない。
先に見たとおり、君主にとって土台をしっかり築くことは不可欠である。さもなくば必然的に破滅する。新旧を問わず、混合国家を含むあらゆる国家の主要な土台は、良法と良兵である。そして国家がよく武装されていなければ良い法は成り立たないのだから、よく武装されているところには良い法がある、という結論になる。私は法についての議論は措き、武器すなわち軍について語る。
君主が国家を守る軍隊は、①自国のもの、または②傭兵、③援軍、④混成軍のいずれかである。傭兵と援軍は無用で危険である。これらの軍に国家を依拠する者は、堅固にも安全にも立てない。彼らは不和で、野心的で、規律なく、不忠である。味方の前では勇ましく、敵の前では臆病。神を恐れず、人に誠実でない。破滅が遅れるのは、攻撃が遅れている間だけである。平時には彼らに略奪され、戦時には敵に略奪される。要するに、彼らが陣に留まる理由は、わずかな給金以外にない。その程度では、あなたのために喜んで死のうとはしない。戦争が起きない間は、あなたの兵士でいることも厭わないが、いざ戦となれば逃げ去り、敵前から走り去る。これを証明するのは容易である。イタリアの没落は、長年にわたり傭兵に全希望を託してきたこと以外に原因がないからだ。彼らはかつては見栄えがし、互いの間では勇敢そうに見えた。だが外国人が来ると、正体をさらした。こうしてフランス王シャルルは、白墨を手にイタリアを奪うことを許されたのだ。これを「われらの罪のせいだ」と言った者は真実を語った。ただし、その者が思った罪ではなく、私が述べた罪である。そしてそれが君主たちの罪であった以上、罰を受けたのもまた君主たちである。
さらに、これらの軍の不幸を示そう。傭兵隊長は有能か無能か、いずれかである。有能なら信用できない。彼らは常に自らの偉大さを望むからだ。主人であるあなたを圧迫するか、あなたの意に反して他者を圧迫するか、どちらかである。無能なら、いつものとおり滅びるだけである。
「武装した者は傭兵であれ何であれ同じように振る舞う」と主張する者がいれば、私はこう答える。武力に頼らねばならないとき、それが君主であれ共和国であれ、君主は自ら出陣して隊長の務めを果たすべきである。共和国は市民を送り、うまくいかぬ者は召還し、 достой(値)ある者は、法によって縛って指揮権を手放せぬようにすべきである。経験は、君主と共和国が自力で最大の発展を遂げ、傭兵は損害しかもたらさないことを示してきた。外人の武力をもって武装した共和国を、その市民の一人が支配下に置くより、自国の武力で武装した共和国を市民の一人が支配下に置くほうが難しい。ローマとスパルタは長い年月、自国の武装で自由を保った。スイス人は完全に武装し、完全に自由である。
古代の傭兵の例としてはカルタゴがある。ローマとの第一次戦争の後、カルタゴ人は、隊長を自国民から出していたにもかかわらず、傭兵に圧迫された。エパミノンダスの死後、テーベ人はマケドニア王フィリッポスを自軍の隊長に据え、勝利ののち彼は彼らの自由を奪った。
ミラノ公フィリッポが死ぬと、ミラノ人はヴェネツィア人に対抗するためフランチェスコ・スフォルツァを雇った。スフォルツァはカラヴァッジョで敵を破ると、今度はヴェネツィア人と結び、主人であるミラノ人を押し潰した。彼の父スフォルツァはナポリ王妃ジョヴァンナに雇われていたが、彼女を見捨てて無防備にし、王妃は王国を救うためアラゴン王の腕にすがるしかなくなった。
「ヴェネツィア人やフィレンツェ人は、かつてこの軍で領土を広げたのに、隊長は君主にならず、彼らを守ったではないか」と言う者がいれば、私はこう答える。この件でフィレンツェ人は偶然に恵まれただけである。恐れるべき有能な隊長たちが、ある者は勝利できず、ある者は対抗者に阻まれ、またある者は別の方向に野心を向けたからだ。勝てなかった者の一人がジョヴァンニ・アクートであり、勝てなかった以上、その忠誠は証明できない。だが彼が勝っていたなら、フィレンツェ人は彼の思いのままだったろう、という点は誰も否定しない。スフォルツァには常にブラッチョ派(ブラッチェスキ)が敵対しており、互いに監視し合った。フランチェスコは野心をロンバルディアへ向け、ブラッチョは教会とナポリ王国へ向けた。
では、少し前に起きたことを見よう。フィレンツェ人は隊長にパーゴロ・ヴィテッリを任じた。きわめて慎重な人物で、私的身分から最大の名声へ上り詰めた男である。もしこの男がピサを取っていたら、フィレンツェ人が彼と手を切れなくなったのは明らかである。敵方に回られたら抵抗手段はなく、味方に留めるなら従うしかないからだ。
ヴェネツィア人も、その事績を考えれば、自国の人間を戦に送っていた間は、安全に、そして栄光をもって行動していたことがわかる。武装した貴族と平民がともに勇敢に戦ったのである。これは彼らが陸上の事業に手を出す前の話だ。だが陸戦を始めると、その徳を捨て、イタリアの悪習に従った。そして陸上拡張の初期は、領土がまだ少なく名声が大きかったため、隊長をそれほど恐れずに済んだ。だがカルミニョーラの時代のように拡張が進むと、この誤りを味わうことになる。彼を最も勇敢な男として見出し(彼の指揮でミラノ公を破った)、他方で彼が戦に熱心でないことを知ったため、このままでは勝てなくなると恐れた。だが彼を解任することもできず、かといって手放すこともできない。再び獲得したものを失わぬため、身を守るために、ついには彼を殺害せざるを得なかった。
その後も彼らは、バルトロメオ・ダ・ベルガモ、ロベルト・ダ・サン・セヴェリーノ、ピティリアーノ伯らを隊長に据えたが、彼らの下では利得ではなく損失を恐れるべきだった。実際、ヴァイラ(ヴァイラの戦い)では一戦で、八百年かけて苦労して得たものを失った。こうした軍から得られる征服は遅く、引き延ばされ、わずかなものに過ぎないが、損失は突然で、しかも巨大だからである。
これらの例でイタリアに辿り着いた以上、長年傭兵によって統治されてきたこの国のことを、もう少し真剣に論じたい。彼らの興亡を見れば、対抗する備えもできるだろう。
理解しておくべきは、近年イタリアでは皇帝権威が否定され、教皇がより大きな世俗権力を得、国家がより多くに分割された、ということだ。その理由は、多くの大都市が、かつて皇帝に庇護されつつ自分たちを圧迫していた貴族に対して武器を取ったこと、そして教会が世俗権力で権威を得るため市民側を支持したことにある。ほかの多くの都市では、市民が君主になった。こうしてイタリアは部分的に教会と共和国の手に落ちた。教会は司祭から成り、共和国は武器に不慣れな市民から成っていたので、両者は外国人を雇い始めた。
この兵種に名声を与えた最初の者は、ロマーニャ人アルベリーゴ・ダ・コーニオである。この人物の学派から、ブラッチョやスフォルツァらが出て、彼らの時代にはイタリアの裁定者となった。以後、今日までイタリアの軍事を動かしてきた隊長たちが続いた。そして彼らの武勇の結末は何だったか――イタリアはシャルルに踏みにじられ、ルイに奪われ、フェルディナンドに荒らされ、スイス人に侮辱された。
彼らを導いた原理は、まず歩兵の信用を落とし、自分たちの価値を上げることだった。給金で生き、領土を持たず、多くの兵を養えなかったからである。少数の歩兵では権威が立たない。そこで騎兵を用い、ほどほどの数で維持され、尊ばれるようにした。その結果、二万人の軍に歩兵が二千人もいない、という有様にまで至った。さらに、彼らは自分たちと兵の疲労と危険を減らすためのあらゆる手練手管を用いた。戦闘では殺さず、捕虜を取り、身代金なしで解放する。夜襲をせず、守備兵も夜に陣を襲わない。陣を柵や堀で囲わず、冬季に作戦を行わない。これらはすべて軍法で許され、私が言ったとおり疲労と危険を避けるために考案された。こうして彼らはイタリアを奴隷と軽蔑の境遇に追い込んだのである。
## 第十三章 援軍・混成軍・自国軍について
援軍とは、もう一つの無用な軍であり、君主が他者の軍勢を呼び入れて援助と防衛をさせる場合に用いられる。近年の教皇ユリウスがそうした。フェラーラ遠征で傭兵が役に立たぬことを思い知らされ、援軍に頼り、スペイン王フェルディナンドと兵と武器の援助を取り決めたのである。これらの軍はそれ自体としては有用で良いかもしれないが、呼び入れた側にとっては常に不利である。負ければ破滅し、勝てば捕虜になるからだ。
古い歴史に例が満ちていようとも、私はこの最近のユリウス二世の例を外したくない。その危険は見れば明らかだからである。フェラーラを得たいがために、彼は外国人の手に身を委ね切った。だが幸運が第三の出来事をもたらし、彼は軽率な選択の果実を受けずに済んだ。援軍がラヴェンナで敗走し、さらにスイス人が蜂起して征服者たちを(彼自身にも他人にも予想外に)追い払ったため、結果として彼は敵の捕虜にもならず――敵は逃げた――援軍の捕虜にもならなかった。援軍とは別の武力によって勝ったからである。
フィレンツェ人は武力をまったく欠き、ピサ攻略のためフランス兵一万人を送った。その結果、苦難の時期の中でも最も危険な目に遭った。
コンスタンティノープル皇帝は、近隣に対抗するためトルコ兵一万人をギリシャへ送った。戦が終わっても彼らは帰ろうとせず、これがギリシャが異教徒の隷属に入る始まりとなった。
ゆえに、征服する気がない者ほど、この軍を用いるべきだ。傭兵よりなお危険である。援軍では破滅が「出来上がって」いる。彼らは一つにまとまり、他者に服従している。傭兵の場合、勝ったあとあなたを害するには時間と機会が要る。彼らは同一共同体ではなく、あなたが雇い、あなたが給金を払う。そしてあなたが頭に据えた第三者も、一挙にあなたを害せるほどの権威を持ちにくい。
結論として、傭兵では臆病さが最も危険であり、援軍では勇敢さが最も危険である。だから賢明な君主は常にこれらの軍を避け、自国軍に転じてきた。そして他人の武器で勝つくらいなら、自分の武器で負けることを選んだ。他人の武器で得た勝利を、真の勝利とは見なさなかったのである。
私はチェーザレ・ボルジアとその行動を引くのをためらわない。この公は援軍をもってロマーニャへ入り、フランス兵だけを連れてイーモラとフォルリを取った。だが後に、その兵が信用ならぬと思うと、傭兵へ転じ、危険が小さいと見てオルシーニ家とヴィテッリ家を雇った。ところが扱ってみると彼らは疑わしく、不忠で危険だったので、彼は彼らを滅ぼし、自国兵に戻した。これらの軍の差は、公の評判の差を見れば容易にわかる。フランス兵を持っていた時、オルシーニとヴィテッリを持っていた時、そして自分の兵に依った時――忠誠を常に当てにでき、しかも増していく兵に依った時――彼が最も高く評価されたのは、誰もが彼が自軍の完全な主人だと見た時であった。
私はイタリアの近例を越えるつもりはなかったが、先に名を挙げた者の一人、シュラクサイのヒエロンを外すのは忍びない。この人物はシュラクサイ人から軍の長に据えられ、すぐに、イタリアのコンデッティエーリのように編成された傭兵が無用だと悟った。だが彼らを保持もできず、解散もできないと見て、彼は彼らを皆殺しにし、以後は他国兵ではなく自国兵で戦争をした。
旧約聖書にも、この論点にふさわしい例がある。ダヴィデがペリシテ人の勇士ゴリアテと戦うため、サウルに名乗り出た時、サウルは勇気づけようとして自分の武具を着せた。だがダヴィデは背に負うや否やそれを退け、「これは使えない。私は投石紐と小刀で敵に向かう」と言った。結局、他人の武器は、背から落ちるか、重荷となるか、身を縛るか、そのいずれかである。
ルイ十一世王の父シャルル七世は、幸運と勇気によってフランスをイングランドから解放すると、自国軍で武装する必要を悟り、王国において騎士と歩兵に関する制度を定めた。だがその子ルイ王は歩兵を廃し、スイス兵を雇い始めた。この誤りは他の誤りを呼び、いま見られるとおり王国の危険の源となっている。スイス兵の名声を上げることで、自国軍の価値を完全に落としたからである。歩兵を根絶し、騎士たちも他者に従属させた。スイス兵と並んで戦うことに慣れ切ってしまい、もはや彼らなしに勝てないように見えるからだ。こうしてフランス人はスイス人に対抗できず、スイス人なしでは他者にも勝ち切れない。フランスの軍は混成となった。半分は傭兵、半分は国民軍である。この二つを合わせた軍は、傭兵だけや援軍だけよりははるかに良いが、自国軍には遠く及ばない。この例が示すのは、シャルルの制度が拡充され維持されていれば、フランス王国は征服不可能だったろう、ということだ。
しかし人間の知恵は乏しく、初めに見栄えのすることに手を出すと、その中に潜む毒を見抜けない。私が先に消耗熱(慢性熱病)について言ったとおりである。ゆえに、統治者が悪を悪として「降りかかってから」しか認識できないなら、その人物は真に賢いとは言えない。この洞察を持つ者は少ない。そしてローマ帝国の最初の災厄を調べれば、その始まりはゴート族の雇い入れに他ならないことがわかる。その時からローマ帝国の活力は衰え、帝国を高めた武勇は他者へ移ってしまった。
よって結論する。自国軍なしに安全な諸侯国はない。むしろ完全に幸運に依存し、逆境で守ってくれる武勇を持たない。そして賢者の意見と判断として、自己の力に基づかぬ名声や権力ほど不確かで不安定なものはない。自国軍とは、臣民、市民、隷属民から成る軍である。それ以外は傭兵か援軍である。自国軍を整える道は、私の示した規則を省察し、大王アレクサンデルの父フィリッポスや、多くの共和国・君主がどのように武装し組織したかを考えれば容易に見つかる。私はその規則に全面的に委ねる。
## 第十四章 君主が戦術論について心得るべきこと
君主は、戦争とその規則と規律以外に、目的も思考も持つべきではない。また学ぶべき対象として他のものを選ぶべきでもない。これこそ統治者に固有の唯一の術であり、その力は、生まれながらの君主を支えるだけでなく、しばしば私人をその地位へ押し上げる。逆に、君主が武器より安逸を考えれば、国家を失うのが見られる。失う第一の原因はこの術を怠ること、獲得できる原因はこの術を修めることにある。フランチェスコ・スフォルツァは軍事の力で私人からミラノ公になったが、その子らは武器の苦労を避けたため、公から私人へ落ちた。武装しないことがもたらす悪の一つは軽蔑されることだ。君主はこの恥辱を避けねばならない(後に示す)。武装した者と無武装の者の間に釣り合いはない。武装した者が無武装の者に進んで従うのも不合理であり、無武装の者が武装した召使いの中で安全でいることも不可能である。一方には侮りが生まれ、他方には疑いが生まれるから、うまく協働できない。
だから戦術論を理解しない君主は、先に挙げた不幸に加え、兵から尊敬されず、兵を頼りにもできない。ゆえに君主は戦争という主題を決して心から外してはならず、平時こそ戦時以上に訓練に励むべきである。それには二つの方法がある。行動によるものと、学習によるものである。
行動について言えば、何より部下をよく組織し訓練し、絶えず狩猟に従事すべきである。そこで身体を苦難に慣らし、地形の性質を学ぶ。山の起伏、谷の開け方、平野の広がり、川と沼沢の性質――これらを理解するために最大の注意を払うのだ。この知識は二つの仕方で有用である。第一に、自国を知り、防衛により適切に当たれる。次に、ある土地の観察と知識を手がかりに、今後学ぶ必要のある別の土地も容易に理解できる。たとえばトスカーナの丘陵・谷・平野・河川・沼沢は、他国のそれらと一定の類似を持つから、一国の地勢を知れば、他国の理解にも容易に至れる。これを欠く君主は、隊長が備えるべき肝心要を欠いている。敵を奇襲し、宿営地を選び、軍を導き、戦列を整え、都市を有利に包囲する術を、この技能が教えるからだ。
アカイヤ人の将フィロポイメンは、著述家たちが与えた数々の賛辞の中でも、平時に戦争の規則以外を心に置かなかった点を称えられている。友人たちと田舎にいると、しばしば立ち止まり、こう議論した。「敵があの丘にいて、われわれがこの場所で軍を持っていたら、優位はどちらか。隊列を保ってどう進むのが最善か。退くなら、どう追撃されるべきか」。そして歩きながら、軍に降りかかり得るあらゆる可能性を示し、友人の意見を聞き、自分の意見を述べ、理由で確かめた。こうした継続的な議論によって、戦時に予期せぬ事態が起きても、対処できないことがないようにしたのである。
知性の訓練としては、君主は歴史を読み、そこに偉人の行動を学び、戦における振る舞いを見、勝敗の原因を吟味して敗北を避け勝利を模倣すべきである。とりわけ、ある卓越した人物が、先に称賛され名高かった者を模範として、その業績と行いを常に心に留めたようにすることだ。アレクサンデル大王がアキレウスを、カエサルがアレクサンデルを、スキピオがキュロスを模倣したと伝えられる。クセノポンが書いたキュロスの生涯を読む者なら、その後スキピオの生涯において、その模倣がいかに彼の栄光となったかを認めるだろう。貞節、温和、仁愛、寛大において、スキピオはクセノポンが書いたキュロスの事績に合致している。
賢明な君主はこのような規則を守り、平時に決して怠けず、勤勉によって資源を増して、逆境に備えるべきである。そうすれば運命が襲いかかる時にも、君主はその打撃に抗する準備が整っている。
## 第十五章 人々――とりわけ君主――が賞賛され、あるいは非難される事柄について
ここからは、君主が臣民と友人に対してどのような行動規範を持つべきかを見る。私はこの点について多くの者が書いてきたことを知っているから、改めて言及すれば私は思い上がりと見なされるかもしれない。とりわけ、私の論じ方は他者の方法から外れるのだから。しかし私の意図は、理解する者にとって有用なものを書くことにある。ゆえに、想像上の真実ではなく事実の真実に従う方が適切だと思う。多くの者が、実際には知られも見られもしなかった共和国や諸侯国を描き出した。だが人がどう生きるかと、どう生きるべきかはあまりに隔たっているため、「なされていること」を捨て「なされるべきこと」だけを追う者は、保全より先に破滅を招く。善がこれほど少ない世の中で、徳の告白どおりに完全に振る舞おうとする者は、すぐに自分を滅ぼすものに出会うからである。
したがって、自国を保持したい君主には、「悪をなす」術を知ることが必要であり、必要に応じてそれを用いたり用いなかったりしなければならない。ゆえに君主についての想像を脇に置き、現実にある事柄を論じるなら、こう言える。人は誰もが語られるとき、とりわけ高位にある君主は、ある性質によって賞賛か非難かを受ける。ある者は寛大とされ、ある者は吝嗇(トスカーナ語の用法では、強欲な者は「略奪で所有しようとする者」であり、吝嗇とは「自分のものの使用を過度に控える者」を指す)。ある者は気前がよく、ある者は強奪的。ある者は残酷、ある者は慈悲深い。ある者は不誠実、ある者は誠実。ある者は女々しく臆病、ある者は大胆で勇敢。ある者は愛想がよく、ある者は傲慢。ある者は好色、ある者は貞潔。ある者は率直、ある者は狡猾。ある者は冷酷、ある者は温厚。ある者は重々しい、ある者は軽薄。ある者は信心深く、ある者は不信心――等々である。
そして、君主が上に挙げた「良い」と見なされる性質をすべて備えるのが最も賞賛に値することは、誰もが認めるだろう。だが人間の条件がそれを許さない以上、それらを完全に持ち、完全に守ることはできない。そこで君主には、国家を失わせるような悪徳の非難を避ける術を知るだけの慎重さが必要である。また可能であれば、国家を失わせない悪徳からも身を守るべきである。しかしそれが不可能なら、ためらい少なくそれに身を委ねてもよい。さらに、国家を救うには欠かせない悪徳については、その非難を受けることを気に病む必要はない。万事を慎重に考えれば、徳に見える何かを守り抜けば破滅し、悪徳に見える別の何かを守り抜けば、安全と繁栄がもたらされることがわかるからである。
## 第十六章 寛大と吝嗇について
さて、先に挙げた性質の第一から始めよう。寛大と評判になるのは良いことだと言える。だが、その評判を得られないやり方で行う寛大さは、むしろ害となる。正しく誠実に行っても、それが知られないなら、反対の非難(吝嗇)を免れない。ゆえに、人々の間で寛大という名を保ちたい者は、壮麗さのいかなる属性も避けられない。そうすると、寛大さに傾く君主は、そうした行為に自らの財産をすべて費やし、ついには寛大の名を保つために、臣民に過重の負担をかけ、課税し、金を得るためにできることは何でもせざるを得なくなる。これはすぐに臣民の憎悪を招き、貧しくなれば誰からも軽んじられる。こうして寛大で多くを怒らせ、少数しか報いられないまま、最初の困難で傷つき、最初の危険で脅かされる。そのことに気づいて引き返そうとすれば、今度は即座に吝嗇の非難へ転落する。
ゆえに君主は、寛大という徳を、人々に認められる形で行うことが自分の犠牲なしには不可能である以上、賢明であれば吝嗇の評判を恐れるべきではない。時が経てば、寛大よりもむしろ重んじられるようになる。倹約によって歳入が足り、あらゆる攻撃に備えて自衛でき、人民に負担をかけずに事業に乗り出せるからである。こうして、取らない相手――数え切れぬほどの相手――には寛大であり、与えない相手――少数の相手――には吝嗇である、ということになる。
我らの時代に大事をなした者で、吝嗇と見なされた者以外を見ない。他は失敗した。教皇ユリウス二世は、寛大の評判に助けられて教皇位に就いたが、フランス王と戦争をした後は、その評判を維持しようとは努めなかった。しかも臣民に特別税を課さずに幾度も戦争を行った。長年の倹約によって追加費用を賄ったからである。現在のスペイン王も、寛大と見なされていたなら、これほど多くの事業を企て、征服することはできなかっただろう。ゆえに君主は、臣民を略奪せず、自衛でき、貧しく卑小にならず、強奪者にならざるを得ない立場に追い込まれない限り、吝嗇の評判など大したことではないと考えるべきである。それは統治を可能にする悪徳の一つだからである。
「カエサルは寛大さで帝国を得た。寛大であること、そう見なされることで最高位に達した者が多い」と言われるなら、私はこう答える。あなたが現に君主であるか、君主になろうとしているかで話は違う。前者では寛大は危険であり、後者では寛大と見なされることが大いに必要である。カエサルはローマで卓越することを望んだ者の一人だった。だがもし卓越した後も生き延び、支出を改めなかったなら、その支配を自ら破壊していただろう。
また「軍を率いて大事をなし、大いに寛大と見なされた君主も多い」と反論する者には、こう答える。君主が費やすのは、①自分のもの、②臣民のもの、③他人のもの、のいずれかである。①の場合、節約すべきである。②の場合も同様である。③の場合――略奪、掠奪、強要によって他人のものを扱い、それで軍を養う君主には、寛大さが必要である。そうでなければ兵はついて来ない。あなたのものでも臣民のものでもないものは、キュロス、カエサル、アレクサンデルがそうであったように、気前よく与えられる。他人のものを浪費しても評判は損なわれず、むしろ増す。害になるのは、自分のものを浪費することだけである。
そして寛大さほど急速に浪費するものはない。行うそばから行う力を失い、貧しく軽蔑されるか、貧困を避けようとして強奪者となり憎まれる。君主が何より警戒すべきは軽蔑と憎悪であり、寛大さはその両方へ導く。ゆえに、憎悪を伴わず非難だけを招く吝嗇の評判を持つ方が賢明であり、寛大の評判を求めるあまり強奪の名――非難に憎悪を伴う名――を負うことを強いられるより良い。
## 第十七章 残酷と慈悲――愛されるのと恐れられるのと、どちらがよいか
次に挙げた性質について言えば、君主は誰しも慈悲深く、残酷ではないと見られたいと望むべきである。とはいえ、この慈悲を誤用しないよう注意せねばならない。チェーザレ・ボルジアは残酷と見なされた。だが彼の残酷さはロマーニャを和解させ、統一し、平和と忠誠を回復した。これを正しく考えれば、残酷と見なされることを避けるためにピストイアが破壊されるのを許したフィレンツェの民衆より、彼の方がはるかに慈悲深かったことになる。ゆえに君主は、臣民を結束させ忠誠を保つ限り、残酷の非難を気にするべきではない。少数の例を示す方が、過度の慈悲によって無秩序を放置し、そこから殺人や強盗が生じるのを許す者より慈悲深い。無秩序は民全体を傷つけるが、君主の処刑は個人だけを傷つけるからだ。
そして新しい君主は、とりわけ新しい国家が危険で満ちているがゆえに、残酷の汚名を避けるのが不可能である。ゆえにウェルギリウスはディドの口を借り、新しい支配のために非情にならざるを得ないことをこう弁護させている。
「事の苛烈さと、王国の新しさが、
このようなことを企て、広く国境を守らせる。」```
それでも君主は、信じるにも行うにも慎重であり、みずから恐れを示してはならない。
しかし、節度をもって、慎重さと人間味を携えて進むべきだ。
過度の自信は不注意を生み、過度の不信は耐えがたさを生むからである。
ここで問いが生じる。愛されるのと恐れられるのと、どちらがよいのか。答えはこうである。両方であることが望ましい。だが一人の人間に両方を併せ持たせるのは難しいので、どちらかを捨てねばならぬなら、愛されるより恐れられる方がはるかに安全である。
一般に人間について断言できるのは、彼らは恩知らずで、気まぐれで、偽り者で、臆病で、強欲だ、ということだ。あなたが成功している間は完全にあなたのものとなる。必要が遠い間は、血も財産も命も子も差し出す(先に述べたとおり)――だが必要が近づくと背を向ける。彼らの約束だけに頼り、他の備えを怠った君主は滅びる。金で買った友情は、確かに得られるかもしれないが確保はされず、いざという時に頼れない。人は愛する者を傷つけるより、恐れる者を傷つける方がためらう。愛は、義理という絆で保たれるが、その絆は人間の卑しさゆえ、利得の機会があればいつでも断ち切られる。だが恐怖は、決して外れない処罰への畏れによってあなたを守る。
それでも君主は、愛を得られぬとしても憎悪は避けるように恐れさせねばならない。恐れられていても憎まれていなければ十分に耐えられる。そしてそれは常に、君主が市民と臣民の財産と女に手を出さない限り保たれる。誰かの命に対処せねばならない時は、正当な根拠と明白な理由に基づいて行うべきだが、とりわけ他人の財産には手を触れてはならない。人は父の死より家産の喪失を早く忘れないからである。しかも財産を奪う口実は尽きない。一度略奪で生き始めた者は、他人のものを奪う口実を常に見つける。だが命を奪う理由は見つけにくく、すぐに失効する。
しかし君主が軍とともにあり、多数の兵を支配する場合には、残酷の評判を顧みないことが絶対に必要である。それなしには、軍を統一し、任務へ向かわせることは決してできない。
ハンニバルの驚くべき業績の一つとして数えられるのは、異民族の寄せ集めからなる巨大な軍を率い、異国で戦っていながら、不運の時も幸運の時も、彼らの間にも君主に対しても、いかなる不和も生じなかったことである。これは彼の非情な残酷さ以外の何ものでもない。その残酷さが、限りない勇猛さと相まって、兵の目に彼を畏敬すべき恐るべき存在にした。残酷さなしでは、他の徳だけではこの効果を生めなかった。近視眼的な著述家は、一方では彼の事績を称え、他方ではその主要因を責める。だが他の徳だけでは足りないことは、スキピオの例で証明できる。彼は人の記憶の及ぶ限りでも最も卓越した人物の一人だが、それでも彼の軍はスペインで反乱した。原因は彼の過大な寛容さに他ならず、軍紀にふさわしくない放縦を兵に与えたのである。このため彼は元老院でファビウス・マクシムスに非難され、ローマ軍を腐らせた者と呼ばれた。ロクリ人がスキピオの副官に荒らされても、スキピオは復讐せず、副官の傲慢も罰しなかった。すべて彼の温厚な性格ゆえである。元老院で彼を弁護しようとした者は、「自ら誤らぬことには長けても、他者の誤りを正すことのできぬ人間が多い」と言った。この性質が指揮官として続いていたなら、時を経てスキピオの名声と栄光を損なっただろう。だが元老院の監督下にあったため、この有害な性質は隠れただけでなく、かえって彼の栄光に寄与した。
愛されるべきか恐れられるべきかという問いに戻れば、結論はこうである。人は自分の意志で愛し、君主の意志によって恐れるのだから、賢明な君主は、他人の手中ではなく自分の手中にあるものに基礎を置くべきである。努めるべきは、先に述べたとおり憎悪を避けることだけだ。
第十八章 君主はいかに信義を守るべきか
君主が信義を守り、誠実に生き、狡猾に生きないことが賞賛に値するのは誰もが認める。とはいえ経験は、偉業を成した君主たちは信義を大して重んじず、狡智によって人の知性を絡め取り、ついには言葉に頼った者を打ち負かしてきた、ということを示している。争いには二つのやり方がある。一つは法によるもの、もう一つは力によるもの。第一は人間にふさわしく、第二は獣にふさわしい。しかし第一がしばしば不十分である以上、第二に訴える必要がある。ゆえに君主は、獣と人間の両方を使いこなす術を理解せねばならない。古代の著述家たちは、アキレウスや多くの古代の君主がケンタウロスのキロンに養育され、その規律で育てられたと描くことで、これを寓意的に教えた。教師が半獣半人であるとは、君主も二つの性質を使いこなす必要があり、片方だけでは長続きしない、という意味にほかならない。
ゆえに君主は、獣の性質を選ばねばならぬとき、狐と獅子を選ぶべきである。獅子は罠から身を守れず、狐は狼から身を守れない。だから罠を見抜くには狐であり、狼を威圧するには獅子でなければならない。獅子だけに頼る者は、自分のしていることがわかっていない。
賢明な君主は、信義を守ることが自分に不利に働き、誓約の原因がもはや存在しないなら、信義を守ることはできないし、守るべきでもない。もし人間が完全に善であるなら、この戒めは成立しない。だが人は悪で、あなたに対して信義を守らないのだから、あなたも彼らに対して守る義務はない。しかも君主には、この不履行を正当化するもっともらしい理由が常にある。現代の無数の例で、君主の不信によってどれほど多くの条約と約束が無効になったかを示せる。そして狐の使い方を最もよく知った者が最も成功している。
ただし、この性質をうまく隠すこと、そして大いなる偽装者・大いなる偽り手であることが必要である。人間は単純で、目の前の必要に縛られやすいので、欺こうとする者は常に、欺かれることを許す者を見つける。
最近の一例を黙って通り過ぎるわけにはいかない。アレクサンデル六世は人を欺くこと以外をせず、他のことをしようと考えたこともなく、常に餌食を見つけた。これほど断言に力があり、これほど大きな誓いで物事を断言しながら、それを守らぬ者は他にいなかった。にもかかわらず、彼の欺きは常に望みどおりに成功した。人間のこの側面をよく理解していたからである。
ゆえに君主が、私が列挙したすべての善い性質を実際に備える必要はない。だが、それを備えているように見せることは絶対に必要である。さらに敢えて言うなら、実際に備え、常にそれを守ることは有害であり、備えているように見せることは有益である。慈悲深く、誠実で、人間味があり、信心深く、正しく見えること。さらには実際にそうであること。しかし心は、その必要が生じたなら、そうでないこともでき、また反対へ転じる術を知っていなければならない。
理解すべきは、君主、とりわけ新君主は、人が称賛するあらゆることを守れない、ということである。国家を維持するために、しばしば信義・友情・人間味・宗教に反して行動せざるを得ないからだ。したがって君主は、風と運命の変転が強いるままに心を転じられる用意を持たねばならない。しかし先に述べたとおり、避けられるなら善から離れず、だが強いられるなら、そうする術を知るべきである。
このため君主は、口から出る言葉の中に、前に挙げた五つの性質――慈悲深く、誠実で、人間味があり、正直で、そして敬虔であること――に満ちていないものが、決して紛れ込まぬよう注意すべきだ。見聞きする者の目には、君主がどこまでも慈悲深く、信義に厚く、情け深く、廉直で、宗教心あふれる人物に映るようにしなければならない。とりわけ「敬虔さ」ほど、“備えているように見せる”うえで欠かせぬ徳はない。というのも、人はたいてい手よりも目で判断するからだ。見ることは誰にでもできるが、触れ合える者はごく少ない。誰もが君主の「見かけ」を見るが、君主の「本当」を知る者はわずかであり、そのわずかな者も、多数の意見に逆らう勇気はない――多数派には国家の威厳が盾となっているのだから。人間の行為は、まして君主の行為は、軽々しく挑むのは賢明ではないゆえ、結局は結果で裁かれる。
ゆえに君主は、国家を征服し、保持したという評価さえ得られるなら、その手段は常に正当と見なされ、万人から称賛されるだろう。大衆はいつでも、物事の「見え方」と「結末」に心を奪われる。しかもこの世では大衆こそが常であり、少数者が居場所を得るのは、多数者が拠り所を失ったときだけである。
当代のある君主――名指しするのは憚られるが――その者は、平和と信義以外の何ものも説かぬ。しかし本人はその二つに最も敵対しており、もし本当にそれを守っていたなら、幾度となく名声も王国も失っていたはずだ。
CHAPTER XIX. 人に侮られ、憎まれることを避けるべきこと
さて、先に触れた諸性質については重要なものを述べた。他の点は、ひとまとめにして簡潔に言っておきたい。君主は、前にも一部述べたとおり、いかにして憎悪や侮蔑を招くことを避けるかを考えねばならない。これにしばしば成功するなら、君主は自分の役目を果たしたことになり、他の非難によって危険に陥ることはない。
何より君主への憎しみを招くのは、言ったとおり貪欲であること、そして臣民の財産と女を踏みにじることだ。この二つからは必ず手を引かねばならない。財産も名誉も傷つけられないかぎり、多数の人間は満足して暮らす。君主が相手にする必要があるのは、少数の野心家だけであり、それらは多くの手段で容易に抑えられる。
君主が侮られるのは、移り気で、軽薄で、女々しく、卑小で、臆病で、優柔不断だと見なされるときである。君主はこれらを岩礁のように避けねばならない。行動においては偉大さ、勇気、重々しさ、剛毅を示し、私的に臣民と接する際にも、判断が取り消されないことを示すべきだ。そして、誰も君主を欺けるとも、丸め込めるとも思わぬほどの評判を保たねばならない。
そのような印象を与える君主は大いに敬われる。敬われる君主は、陰謀を企てられにくい。優れた人物であり、民に尊崇されていることが広く知られているかぎり、攻撃するのは容易ではないからだ。ゆえに君主には二つの恐れがある。内からは臣民に関して、外からは外部勢力に関して。外からの恐れは、よく武装し、良き同盟者を持つことで防がれる。武装が整えば良き友も得られ、外が静かであるうちは内も常に静かである――すでに陰謀で乱されていないかぎり。仮に外が騒がしくなっても、準備を整え、前述のように生きてきたなら、絶望さえしなければ、あらゆる攻撃に耐えられる。私が言ったスパルタのナビスのように。
しかし臣民については、外が乱れたとき、密かな陰謀が唯一の恐れである。これは、民に憎まれず侮られず、民を満足させておくことで、君主は容易に身を守れる――これは前に詳しく述べたとおり、最も必要なことだ。陰謀に対する最も有効な薬の一つは、人民から憎まれず侮られないことだ。君主に対して陰謀する者は、君主を排除することで民を喜ばせられると見込んでいる。だが、陰謀者が見込めるのが民を怒らせることだけなら、そんな企てに踏み出す勇気は持てない。陰謀者に立ちはだかる困難は無限だからだ。経験が示すように、陰謀は多いが成功は少ない。なぜなら陰謀者は単独では動けず、仲間を得るにしても不満分子と信じた者からしか選べない。しかも不満分子に胸の内を明かした瞬間、相手を満足させる材料を与えてしまう。密告すれば利益が確実に得られるからだ。こちらに協力して得られるものは不確実で危険に満ちるのに、密告の利得は確実――となれば、よほど稀有な友人か、君主に対して徹底して頑迷な敵ででもないかぎり、陰謀者に忠実であり続けることはない。
要するに、陰謀者の側にあるのは恐怖、嫉妬、処罰の見通し――心を凍らせるものばかりだ。対して君主の側には、君主政の威厳、法律、友人と国家の保護がある。これに民衆の好意まで加われば、軽率にも陰謀を企てる者などあり得ない。一般に陰謀者は実行前に恐れるが、この場合は罪の後も恐れねばならない。民衆を敵に回すのだから、逃げ道など望めない。
例は尽きないが、ここでは我らの父祖の記憶に残る一例で足りる。ボローニャで君主であったメッセル・アンニバーレ・ベンティヴォーリ(現アンニバーレの祖父)は、陰謀を企てたカンネスキ家に殺害された。このとき一族で生き残ったのは幼いメッセル・ジョヴァンニだけだった。暗殺の直後、民衆は蜂起し、カンネスキ家を皆殺しにした。これは当時、ボローニャでベンティヴォーリ家が享受していた民衆の好意から生じたもので、その好意はあまりにも強かったため、アンニバーレの死後、国家を統治できる者が当地に残っていなかったにもかかわらず、ボローニャの人々は、フィレンツェにベンティヴォーリ家の者が一人いるという情報を得るや、そこへ使者を送り、その人物を迎えて市政を任せた。その人物は、それまで鍛冶屋の息子と見なされていた者だった。そして彼が統治し、やがてメッセル・ジョヴァンニが成長して政権を担うまで続いた。
ゆえに私は、民衆が君主を尊敬しているかぎり、陰謀など取るに足らぬと考える。だが民衆が敵対し、憎しみを抱いているなら、君主はあらゆるもの、あらゆる人を恐れねばならない。秩序ある国家と賢明な君主は、貴族を絶望に追い込まぬこと、そして民衆を満足させて穏やかに保つことに、万全の注意を払ってきた。これは君主にとって最重要の目的の一つである。
当代で最も秩序よく統治されている王国の一つはフランスである。そこには国王の自由と安全を支える多くの優れた制度がある。第一は議会とその権威だ。王国の創設者は、貴族の野心と大胆さを知り、その口に轡(くつわ)をかませねば抑えられぬと考えた。他方、民衆が貴族に抱く憎しみ――恐怖に根ざした憎しみ――を知り、民衆を守りたいとも思った。しかしそれを国王自身の特別な役目にはしたくなかった。そこで、貴族からは「民衆をえこひいきした」と責められ、民衆からは「貴族をえこひいきした」と責められるであろう非難を取り除くために、仲裁者を据えた。大者を抑え、小者を助けながらも、国王に非難が及ばぬ者である。これ以上に良く、慎重で、国王と王国の安全を増す取り決めはない。ここからもう一つ重要な結論が引ける。すなわち君主は、非難を招く仕事は他者に任せ、恩恵を与える仕事は自分の手に握るべきだ。さらに私は、君主は貴族を厚遇すべきだが、民衆に憎まれるほどにはしてはならない、と考える。
ローマ皇帝の生涯と死を調べた者の中には、多くの皇帝が私の意見と反対の例に見えると思う者もいるだろう。高潔に生き、大いなる魂の資質を示しながら、帝国を失うか、臣下の陰謀で殺された皇帝がいるからだ。そこで私はこの反論に答えるため、いく人かの皇帝の性格を呼び起こし、彼らの破滅の原因が、私の述べてきた原因と異ならぬことを示したい。同時に、当時の事情を学ぶ者にとって注目に値する点だけを提示する。
哲人マルクスからマクシミヌスまで、帝位を継いだ皇帝たちを挙げれば十分であろう。マルクスとその子コンモドゥス、ペルティナクス、ユリアヌス、セウェルスとその子アントニヌス・カラカラ、マクリヌス、ヘリオガバルス、アレクサンデル、そしてマクシミヌスである。
まず注意すべきは、他の君主国では貴族の野心と民衆の横暴だけを相手にすればよいのに対し、ローマ皇帝には第三の困難、すなわち兵士の残虐さと強欲に耐えねばならなかった点だ。これは困難に取り囲まれた問題で、多くの者の破滅の原因となった。兵士と民衆の双方を満足させるのは難しい。民衆は平和を愛し、ゆえに野心のない君主を愛した。一方、兵士は勇敢で残酷で貪欲な戦争好きの君主を愛し、その資質が民衆に向けられることを厭わなかった。そうすれば給金は倍になり、自分たちの欲と残虐を存分に晴らせるからだ。ここから、出生や育ちのゆえに大いなる権威を持たぬ皇帝は常に倒されたことが生じる。とりわけ新参の君主の多くは、相反する二つの気質の難しさを悟り、民衆を害することなど意に介さず、兵士を満足させる方へ傾いた。
だがそれも必要だった。君主は誰かに憎まれることを避けられない以上、第一に「万人に憎まれる」事態を避けねばならず、それができぬなら、最も力ある者の憎しみを避けるべく最大限努力すべきだからだ。ゆえに未熟ゆえ特別な後ろ盾を必要とした皇帝は、民衆より兵士に寄り添いがちだった。その結果が利になったか害になったかは、君主が兵士に対して権威を保てたかどうかによる。
この事情ゆえに、マルクス、ペルティナクス、アレクサンデルは、いずれも質素な生活の人で、正義を愛し、残虐を憎み、人間味があり温厚であったにもかかわらず、マルクスを除いて悲惨な最期を遂げた。マルクスだけは栄誉のうちに生き、栄誉のうちに死んだ。世襲の資格によって帝位に就き、兵士にも民衆にも負い目がなかったからである。さらに尊敬を集める多くの徳を備え、生涯、両者をそれぞれの位置に保ち、憎まれも侮られもしなかった。
しかしペルティナクスは兵士の望みに反して皇帝に立てられた。コンモドゥスの下で放埓に暮らすことに慣れていた兵士は、ペルティナクスが課そうとした清廉な生活に耐えられない。こうして憎しみの原因を作り、老齢ゆえの侮りも加わって、治世の初めに倒された。ここで注意すべきは、憎しみは悪行だけでなく善行によっても招かれるということだ。ゆえに先に言ったとおり、国家を保とうとする君主は、しばしば悪を行わざるをえない。自分を支えるために必要だと思う集団――民衆であれ兵士であれ貴族であれ――が腐敗しているなら、その機嫌に従い、満足させねばならず、そのとき善行はかえって害になる。
アレクサンデルに移ろう。彼はきわめて善良な人物で、十四年間帝国を治めて一人として裁かずに殺した者がいなかった、とまで称えられている。にもかかわらず女々しいと見なされ、母に操られる男と見なされて侮られ、軍は陰謀を企て、彼を殺した。
逆に、コンモドゥス、セウェルス、アントニヌス・カラカラ、マクシミヌスの性格を見れば、残酷で貪欲な男たちである。兵士を満足させるため、民衆に対するあらゆる不義をためらわなかった。そしてセウェルスを除き、皆、悪い最期を迎えた。だがセウェルスには、兵士を味方につけたまま、民衆を圧迫しつつも、統治に成功するほどの勇力があった。その武勇は兵士と民衆の目にあまりに鮮烈で、民衆は驚きと畏怖のうちに押さえ込まれ、兵士は敬意と満足を抱いた。新しい君主であったこの男の行為は偉大であったから、私は簡潔に示したい。彼が、先に述べた「狐と獅子」を巧みに装う術を知っていたことを。
皇帝ユリアヌスの怠惰を知ると、スラヴォニアで自分が率いる軍に対して、親衛隊に殺されたペルティナクスの仇を討つためローマへ行くべきだと説き伏せた。こうして帝位を望む素振りを見せぬまま軍をローマへ動かし、出発が知れる前にイタリアへ到達した。ローマに着くと、元老院は恐怖から彼を皇帝に選び、ユリアヌスを殺した。
この後セウェルスが全帝国を掌握しようとすると、二つの困難が残った。一つはアジアで、アジア軍の首領ニゲルが皇帝を称していたこと。もう一つは西方で、同じく帝位を狙うアルビヌスがいたこと。両方に敵対を宣言するのは危険と考え、ニゲルを攻撃し、アルビヌスを欺くことにした。アルビヌスには、元老院により皇帝に選ばれた以上、その栄誉を分かち合う意思があると書き送り、「カエサル」の称号を与えた。さらに元老院がアルビヌスを共同統治者にしたとも伝えた。アルビヌスはこれを真実として受け入れた。だがセウェルスがニゲルを破って殺し、東方を片づけてからローマに帰ると、アルビヌスが恩を理解せず、裏切って自分を殺そうとした、と元老院に訴え、この不恩に対し罰せざるをえないと言った。そしてフランスでアルビヌスを討ち、その支配と命を奪った。ゆえにこの男の行為をよく吟味する者は、彼がこの上なく勇猛な獅子であり、この上なく狡猾な狐であったことを知るだろう。万人に恐れられ敬われ、軍から憎まれなかったことも見て取れる。新参者が帝国をこれほど保てたのは不思議ではない。最高の名声が常に盾となり、民衆がその暴虐のゆえに抱きかねない憎悪から守ったからだ。
だがその子アントニヌスは、きわめて傑出した人物で、民衆の目に立派に映り、兵士にも受け入れられる優れた資質を備えていた。戦好きで、疲労に最も耐え、贅沢な食や快楽を蔑んだため、軍に愛された。だが凶暴さと残虐はあまりに大きく、前代未聞で、無数の単独殺人ののち、ローマの民を多数殺し、さらにアレクサンドリアの人々をことごとく殺した。全世界から憎まれ、周囲の者からも恐れられ、その恐れは極みに達して、軍中で百人隊長に殺された。ここで注意すべきは、この種の死――覚悟を決めた絶望的勇気によって意図的に与えられる死――は、君主には避けがたいということだ。死を恐れぬ者は誰でも、それをやってのけられる。しかし稀なことなので、君主は過度に恐れる必要はない。ただし、用いる者、周囲に置く者に重大な害を加えぬよう気をつけることだ。アントニヌスはそれを怠った。百人隊長の兄弟を侮辱的に殺し、その百人隊長本人も日々脅しながら護衛隊に留めた。これは無謀であり、皇帝の破滅となった。
次にコンモドゥスである。彼はマルクスの子として帝国を受け継いだのだから、統治を保つのは容易であったはずだ。父の足跡に従えば民衆も兵士も満足しただろう。しかし生来残酷で獣じみていたため、兵士を楽しませ堕落させ、民衆に対して貪欲をほしいままにした。他方、威厳を保てず、しばしば劇場に降りて剣闘士と競い合い、皇帝の威厳に似つかわしくない卑しい行いを重ねたため、兵士からも軽蔑され、片方から憎まれ、もう片方から侮られ、陰謀で殺された。
マクシミヌスについても述べねばならない。彼は非常に戦争向きの男であり、先に述べたアレクサンデルの女々しさに辟易していた軍がアレクサンデルを殺し、マクシミヌスを皇帝に選んだ。だが彼の帝位は長く続かなかった。憎まれ、侮られた理由が二つあった。第一に、トラキアで羊飼いをしていたことが皆に知られ、重大な恥辱だと見なされ、軽蔑を招いたこと。第二に、帝位に就いたのち、ローマへ赴いて皇帝の座を占めることを先延ばしにしたこと。さらにローマや帝国内の各地で、総督たちを通じて多くの残虐を行い、極度の凶暴さの評判を得たため、世界は彼の卑しい出自に怒り、野蛮さに恐れた。まずアフリカが反乱し、ついで元老院とローマの全市民、さらに全イタリアが陰謀に加わった。これに自軍も加わる。アクイレイアを包囲しながら攻略に苦しみ、残虐さにうんざりし、反対者が多いと知って恐れも薄れ、ついに彼を殺した。
ヘリオガバルス、マクリヌス、ユリアヌスについては論じるまでもない。あまりに卑小で、すぐに消し去られたからだ。ここで話を結ぶなら、当代の君主にとって、兵士を法外に満足させねばならぬ困難は、はるかに軽い。ある程度の譲歩は必要でも、それはすぐに済む。ローマ帝国の軍のように、属州統治や行政に熟達した老練な軍隊を抱える君主は、今やほとんどいない。当時は民衆より兵士を満足させる必要が大きかったが、今は、トルコとスルタンを除くすべての君主にとって、兵士より民衆を満足させることのほうが必要である。民衆のほうが強いからだ。
例外として挙げたトルコは、常に一万二千の歩兵と一万五千の騎兵を周囲に置き、王国の安全と力はそこにかかっている。ゆえに民衆への配慮は脇に置いてでも、彼らを味方に保たねばならない。スルタンの王国も同様で、国家が全面的に兵士の手中にあるため、やはり民衆は顧みず彼らを味方にせねばならない。ただし、スルタンの国家は他の君主国すべてと異なる点がある。それはキリスト教の教皇政に似ており、世襲の君主国とも、新設の君主国とも言えない。旧君主の息子が相続人ではなく、権威ある者たちによって選ばれた者がその地位に就き、息子たちは貴族として残るにすぎないからだ。これは古来の慣習で、新しい君主国とは呼べない。新設君主国に伴う困難がないからである。君主は新しくとも、国家の制度は古く、世襲の主を迎えるかのように新君主を受け入れるよう形作られている。
さて論に戻れば、これを考察する者は、先に挙げた皇帝たちにとって、憎悪か侮蔑のいずれかが致命傷であったことを認めるだろう。また、多くが一方の道を取り、多くが他方の道を取ったのに、幸福な結末を得たのは各道でただ一人で、他は不幸に終わった理由も理解できるはずだ。というのも、新参君主であったペルティナクスとアレクサンデルが、君主国の相続人であったマルクスを真似るのは無益で危険だったし、同様にカラカラ、コンモドゥス、マクシミヌスが、セウェルスを真似るのは、彼らにそれほどの武勇がない以上、完全な破滅だったからだ。ゆえに新参君主はマルクスの行為を真似ることはできず、またセウェルスの行為に従う必要もない。ただしセウェルスからは国家を建てるために必要な部分を取り、マルクスからは、すでに安定し堅固になった国家を保つのにふさわしい部分、かつ栄光となる部分を取るべきである。
CHAPTER XX. 城塞その他、君主がしばしば頼る諸手段は有利か有害か
ある君主は国家を確実に保持するため臣民の武装を解いた。別の君主は属する都市を党派争いで分断した。ある者は自分に対する敵意を煽った。ある者は治世の初めに疑っていた者を取り込むことに力を注いだ。城塞を築く者もいれば、破壊し取り壊す者もいる。これらすべてについて、判断を要する当該国家の個別事情を持たずに最終的な結論を下すことはできないが、事柄の許すかぎり包括的に述べよう。
臣民の武装を解いた新参君主などいない。むしろ武装していない臣民を見出すと、必ず武装させた。武装させれば、その武器は君主のものとなり、不信の対象だった者は忠実となり、忠実だった者はなお忠実に保たれ、臣民は君主の支持者となる。すべての臣民を武装させることはできなくとも、武装させた者に恩恵を与えれば、他の者はより自由に扱える。処遇の差を彼らは理解しており、より危険と奉仕を負う者がより大きな報いを受けるのは必要だと考えて、君主を許す。しかし武装を解けば、君主はただちに彼らの心を害する。臆病か不忠のゆえに不信を示したことになるからだ。どちらの推測も君主への憎しみを生む。そして君主は無武装ではいられない以上、傭兵に頼ることになるが、その性格はすでに述べたとおりである。たとえ傭兵が優秀でも、強敵と不信の臣民の双方から君主を守るには足りない。ゆえに私が言ったとおり、新参君主は新しい君主国では常に武器を配った。歴史は例に満ちている。
しかし君主が旧領に新しい国家を属州として付け加えた場合は、その国家の人々の武装を解く必要がある。ただし征服に際して味方した者は例外であり、これも時と機会によって軟弱にし、女々しくさせるべきだ。そして国家の武装者はすべて、旧領で君主の近くに住んでいた君主自身の兵となるよう、事を運ばねばならない。
先人、賢明とされた者たちは「ピストイアは党派で押さえ、ピサは城塞で押さえよ」と言うのが常だった。この考えから、従属都市のいくつかで争いを育て、より容易に支配しようとした。イタリアの勢力均衡がある程度保たれていた時代には、それでよかったのかもしれない。しかし今日の教訓としては受け入れられないと私は考える。党派が役立つことは決してない。むしろ敵が来たとき、分裂した都市はすぐ失われる。弱い党派は外部勢力に必ず助力し、他方は抵抗できないからだ。ヴェネツィア人も(おそらく同じ理由で)従属都市でゲルフ(教皇派)とギベリン(皇帝派)の党争を助長した。流血は許さなかったが、争いを煽って市民を分裂させ、結束して反抗できぬようにしたのである。だが、後にそれは思うような結果を生まなかった。ヴァイラでの敗走ののち、一方の党派がたちまち勇気を得て国家を奪ったからだ。ゆえにこの手の方法は、君主の弱さを示す。力ある君主国では、党派など決して許されない。平時において臣民を扱いやすくする手段に見えても、戦争となれば誤った政策であることが露呈する。
君主が偉大になるのは、直面する困難や障害を克服するときである。ゆえに運命は、とりわけ新参君主を偉大にしたいと望むとき、世襲君主より名声を稼ぐ必要の大きい新参君主に対して敵を生み、策動を起こさせる。君主がそれを打ち破る機会を得て、敵が差し出した梯子で高みに登るためである。だから賢明な君主は機会があれば、巧みに自分への敵意をいくらか育て、これを粉砕して名声をより高めるべきだ、と考える者が多い。
君主、とりわけ新参君主は、治世の初めに信頼していた者より、むしろ疑っていた者の中に、より大きな忠誠と助力を見いだすことがある。シエナの君主パンドルフォ・ペトルッチは、他の者よりも、疑っていた者たちによって国家を統治した。この問題は個々で差が大きく、一般論は語れない。ただ一つ言えるのは、公国の始まりに敵対していた者でも、自分を支えるために助けを必要とするような種類の人間なら、きわめて容易に取り込めるということだ。そして彼らは、君主が抱いた悪印象を行為で取り消す必要を痛感しているため、強く君主に結びつき、忠実に奉仕する。こうして君主は、過度の安堵のうちに奉仕し、国事を疎かにしがちな者から得る利益よりも、彼らから多くを引き出す。さらに、この問題が求めるので、新国家を密かな恩恵で手に入れた君主に警告しておかねばならない。味方した者たちが味方した理由をよく考えよ。もしそれが君主への自然な愛情ではなく、旧政府への不満だけであったなら、彼らを友に保つのは大きな苦労と困難を伴う。満足させることが不可能だからである。古今の事例をよく検討すれば、前政権の下で満足していたがゆえに今は敵となっている者を味方にするほうが、前政権に不満であったがゆえに好意を示し奪取を促した者を味方にするより容易であると分かる。
君主が国家をより確実に保持するため、城塞を築くのは慣習であった。反抗を企てる者への轡(くつわ)となり、最初の攻撃からの避難所となるからだ。私は、かつて用いられてきたという点ではこの制度を評価する。しかし当代では、メッセル・ニコロ・ヴィテッリがチッタ・ディ・カステッロで二つの城塞を取り壊し、その国を保った例がある。ウルビーノ公グイド・ウバルドは、チェーザレ・ボルジアに追われたのち領国に戻ると、属州の城塞を根こそぎ破壊し、城塞がないほうが失いにくいと考えた。ベンティヴォーリ家がボローニャに戻ったときも同じ判断をした。つまり城塞は、状況次第で有用にも無用にもなる。一方で利益があっても、他方で害が出る。この問題は次のように論じられる。外国よりも民衆のほうが恐ろしい君主は城塞を築くべきだ。民衆よりも外国のほうが恐ろしい君主は、城塞を放置すべきである。フランチェスコ・スフォルツァが築いたミラノの城は、国家のどんな混乱よりも、スフォルツァ家に多くの厄介をもたらし、今後ももたらすだろう。
ゆえに最良の城塞とは――民衆に憎まれないこと、これに尽きる。たとえ城塞を握っていても、民衆が憎んでいるなら君主は救われない。武器を取った民衆を助ける外国勢力が、必ず現れるからだ。当代でも、こうした城塞が君主の役に立った例はほとんどない。例外は、夫ジローラモ伯が殺されたときのフォルリの伯爵夫人で、城塞によって民衆の攻撃に耐え、ミラノからの援軍を待って国家を回復できた。当時の情勢では外国勢力が民衆を助けられなかったからである。だが後にチェーザレ・ボルジアが攻め、民衆という敵が外国と結んだとき、城塞は彼女の助けにならなかった。したがってその時も、それ以前も、城塞を持つより民衆に憎まれぬほうが安全だった。以上を踏まえれば、私は城塞を築く者も築かぬ者も称賛する。ただし城塞を頼みに、民衆に憎まれることを軽んじる者は責める。
CHAPTER XXI. 名声を得るため君主はいかに振る舞うべきか
君主をこれほど尊敬させるものはない。大事業を成し遂げ、見事な手本を示すことだ。当代ではアラゴンのフェルディナンド、すなわち現在のスペイン王がいる。彼は名声と栄光によって、取るに足らぬ王からキリスト教世界の第一の王へと上り詰めたゆえ、ほとんど新参君主と呼んでもよい。その行いを考えれば、すべてが大事業であり、いくつかは並外れている。治世の初めにグラナダを攻撃したが、この事業が領国の基礎となった。彼は当初これを静かに行い、妨害の恐れを抱かなかった。カスティーリャの諸侯の心を戦争に縛りつけ、革新を予期させなかったからである。こうして諸侯は、彼がそれによって自分たちに対する力と権威を獲得していくのに気づかなかった。彼は教会と民衆の金で軍を支え、長い戦争で、後に彼を際立たせた軍事能力の基礎を築いた。さらに、宗教を口実により大きな企てに乗り出し、敬虔な残酷さをもってムーア人を追放し、王国を浄化することに没頭した。これほど見事で稀有な例はない。同じ外套の下でアフリカを攻め、イタリアへ下り、ついにはフランスを攻撃した。こうして彼の事業と企図は常に大きく、民の心を宙づりにして驚嘆させ、結末に目を奪い続けさせた。彼の行為は一つが次を生み、人々に対抗策を練る時間を与えなかったのである。
また国内の問題でも、君主が異例の手本を示すことは大いに助けとなる。たとえばメッセル・ベルナボ・ダ・ミラノにまつわる話のように、民間人が異様に目立つこと――善であれ悪であれ――をしたとき、賞するか罰するかについて、人々の口の端に上るような方法を取った。君主は何より、あらゆる行動で「偉大で並外れた人物」という評判を獲得するよう努めねばならない。
また君主は、真の友となるか、徹底した敵となるか――つまり留保なく一方に与し他方に противする――とき、尊敬される。この道は中立より常に有利である。なぜなら、強大な隣国二つが戦うとき、片方が勝てば恐れるべきか否かにかかわらず、いずれにせよ、旗幟を鮮明にして真っ向から戦うほうが得だからだ。第一の場合、立場を明かさなければ、君主は常に勝者の餌食となり、敗者はそれを快く見る。そして君主には弁解も盾も避難所もない。勝者は試練の時に助けなかった曖昧な友を求めず、敗者も、剣を携えて自発的に運命を共にしなかった者を匿わない。
アンティオコスは、ローマ人を追い払うためアイートーリア人に招かれてギリシャへ入った。彼はローマの友であったアカイヤ人に使者を送り、中立を勧めた。他方ローマは武器を取れと迫った。この問題はアカイヤ人の評議会で議論され、アンティオコスの使節は中立を主張した。これにローマの使節が答えた。「貴国が我らの戦争に関わらぬほうが国家のために良い、という主張ほど誤ったものはない。関わらなければ、恩顧も配慮もなく、勝者の報酬として差し出されるだけだ。」ゆえに、君主の友でない者は中立を要求し、君主の友である者は武器を取って明確にせよと懇願する。優柔不断な君主は目先の危険を避けて中立の道を選びがちで、たいてい破滅する。
だが君主が勇敢に一方に与した場合、同盟相手が勝てば、勝者が強大で君主を意のままにできるとしても、勝者は君主に借りがあり、友誼の絆が結ばれる。人はどれほど厚顔でも、恩知らずの記念碑となるほどに君主を踏みにじることはない。勝利はどれほど完全でも、勝者は一定の配慮、とくに正義への配慮を示さねばならないからだ。もし同盟相手が負けても、彼が力のある限り匿われ、助けられる。そして再び上向きうる運命の仲間となる。
第二の場合、戦う者たちがどちらが勝つか気に病む必要のない性格であるなら、なおさら同盟するのが賢明だ。というのも、あなたは一方を滅ぼすのを他方の助けで成し遂げることになるが、もし他方が賢ければ滅びを避け得たはずである。そしてあなたの助けで勝った以上、勝者はあなたの意のままとなる。ここで注意すべきは、君主は必要に迫られない限り、自分より強い者と他者攻撃の同盟を結んではならない、ということだ。勝たれればあなたは相手の意のままだからである。君主はできる限り、誰かの裁量に委ねられる立場を避けねばならない。ヴェネツィア人はミラノ公に противしてフランスと組んだが、この同盟は彼らの破滅を招いた。本来避けられたのである。しかし避けられぬ場合もある。教皇とスペインがロンバルディアを攻めるため軍を送ったときのフィレンツェのように。そのときは前述の理由から、君主は一方に与すべきだ。
いかなる政府も、完全に安全な道を選べるなどと思ってはならない。むしろ非常に危うい道を選ばねばならぬと覚悟すべきだ。常の事柄では、一つの厄介を避けようとすれば別の厄介に飛び込むのが常だからである。だが慎重さとは、厄介の性質を見分け、より小さい悪を選び取ることにある。
君主はまた、才能の庇護者として振る舞い、あらゆる技芸に長じた者を顕彰すべきだ。同時に、市民が商業、農業、その他すべての生業に、平穏に励めるよう奨励せねばならない。資産を増やせば奪われるという恐れで土地改良をためらう者、課税を恐れて交易を開くのをためらう者が出ぬようにするのだ。むしろ君主は、そうしたことを望む者、いかなる形であれ都市や国家の名誉となることを企てる者に、賞を与えるべきである。
さらに君主は、年の適切な季節に、祝祭や見世物で民衆を楽しませねばならない。すべての都市はギルドや社団に分かれているのだから、君主はそれらを重んじ、ときに交わり、礼節と寛大さの模範を示すべきだ。とはいえ常に身分の威厳を保たねばならない。これにおいては決して一歩も譲ってはならない。
CHAPTER XXII. 君主の書記官(側近)について
君主にとって家臣の選択はきわめて重要であり、家臣が善いか悪いかは君主の見識次第である。君主の評判、とりわけ知性について最初に下される判断は、周囲にいる人間を見て決まる。周りが有能で忠実なら、君主も賢明だと見なされる。能力を見抜き、忠誠を保たせる術を知っているからだ。逆なら、君主への評価は良くならない。第一の過ちは彼らを選んだことにあるからだ。
シエナの君主パンドルフォ・ペトルッチの家臣、メッセル・アントニオ・ダ・ヴェナフロを知る者なら誰でも、パンドルフォを非常に利口な男だと思っただろう。ヴェナフロを家臣に持っていたからである。知性には三種ある。自力で理解するもの、他者の理解を理解できるもの、自力でも他者の示しでも理解できぬもの。第一が最上、第二が良、第三は無用である。ゆえに、パンドルフォが第一等でなくとも第二等であったことは必然である。なぜなら、人は言われたこと・なされたことの善悪を見分ける判断力さえあれば、自分に創意がなくとも、家臣の善悪を見抜き、善を誉め、悪を正すことができる。家臣は君主を欺けると望めず、正直に保たれる。
君主が家臣の良し悪しを測る試金石が一つある。決して外れない。それは、家臣が君主の利益より自分の利益を優先し、あらゆることで内心、自分の利を探っているのを見たときだ。そのような男は決して良い家臣にならず、信頼もできない。他人の国家を手にする者は、決して自分のことを考えず、常に君主のことだけを考えねばならず、君主に関わらぬ事柄には目を向けてはならない。
反対に、家臣を正直に保つため、君主は家臣を思いやり、名誉を与え、富ませ、恩を施し、栄誉と重荷を分かち合うべきだ。同時に、家臣は一人では立てないのだと悟らせねばならない。多くの名誉がさらなる名誉欲を生まず、多くの富がさらなる富欲を生まず、多くの重荷が変転を恐れさせるようにするのである。こうして君主と家臣が互いに整えば、互いに信頼できる。そうでなければ、結末は常に双方の破滅である。
CHAPTER XXIII. へつらい者をいかに避けるべきか
この問題の重要な一枝を省くわけにはいかない。君主が注意深く見識をもたぬかぎり、守りがたい危険がそこにある。へつらい者である。宮廷はへつらい者で満ちている。人は自分の事柄にうぬぼれ、ある意味で自分に騙されているため、この疫病から救われるのは難しい。しかも自衛しようとすると、侮られる危険に陥る。へつらい者から身を守る他の方法はない。すなわち「真実を言っても不快ではない」と人々に理解させることだ。だが、誰もが真実を言えるようになると、君主への敬意は薄れる。
ゆえに賢明な君主は第三の道を取るべきだ。国の賢者を選び、君主が問うた事柄についてのみ、そしてそれ以外については一切、真実を語る自由を与える。君主はあらゆることを彼らに問い、意見を聞き、その後で自分の結論を作るべきだ。個別にも集団としても、顧問たちに対しては「率直に語るほど重んじられる」と分からせるように扱うべきである。その外の者の言葉には耳を貸さず、決めたことを遂行し、決断に堅くあれ。これに反する者は、へつらい者に倒されるか、意見が揺れ動いてしばしば決め直すうちに侮られる。
当代の例を挙げたい。現皇帝マクシミリアンの実務家フラ・ルカは、陛下についてこう言った。「陛下は誰にも相談しない。それでいて何一つ思いどおりにならない。」これは前述と逆のやり方をしたためだ。皇帝は秘密主義で、企てを誰にも伝えず、意見も受け取らない。だが実行に移すと企ては露見し、周囲の者たちにたちまち妨害される。皇帝は柔軟すぎて、それに流される。こうして、ある日にしたことを次の日には取り消す。誰も皇帝が何を望み何を企図しているのか分からず、誰も皇帝の決断を当てにできない。
ゆえに君主は常に助言を求めるべきだが、それは自分が望むときに限り、他人が望むときではない。むしろ求められていない助言を差し出すことを万人が控えるよう、抑制すべきだ。とはいえ、君主は恒常的な質問者であるべきであり、問うたことについては忍耐強く耳を傾けねばならない。また、誰かが何らかの理由から真実を語らなかったと知ったなら、君主はその怒りを感じさせねばならない。
君主が賢明に見えるのは、本人の能力ではなく周囲の良い顧問のおかげだ、と考える者もいるだろう。しかしそれは誤りである。決して外れぬ公理があるからだ。すなわち「君主自身が賢明でなければ、良い助言は得られない」。例外があるとすれば、君主が偶然きわめて慎重な一人の人物に国事を全面的に委ねた場合だ。その場合、確かに良く統治されることもあるが、長くは続かない。そうした統治者はほどなく君主から国家を奪うからである。
また、未熟ではない君主が複数から助言を取ろうとしても、助言は一致せず、君主はそれを統合できない。それぞれの顧問が自分の利益を考えるからであり、君主には制御する術も見抜く術もない。人は拘束によって正直にさせられないかぎり、常に君主に不誠実となるからである。ゆえに、良い助言がどこから来ようとも、それは君主の賢明さから生まれるのであって、君主の賢明さが良い助言から生まれるのではない、と結論せねばならない。
CHAPTER XXIV. なぜイタリアの君主たちは国家を失ったのか
前に述べた助言を注意深く守れば、新参君主は確立した君主に見え、長く座していたかのように直ちに安全で安定した存在となる。新参君主の行為は世襲君主より厳しく観察され、有能だと見えれば、より多くの人を引き寄せ、古い血筋よりもはるかに強く結びつけるからだ。人は過去より現在に惹かれる。現在が良ければそれを享受し、それ以上を求めない。君主が他の点で裏切らぬかぎり、人々は最大限に君主を守る。こうして新しい君主国を確立し、良い法律、良い武器、良い同盟、そして良い手本で飾り、強めたなら、それは二重の栄光となる。逆に、君主として生まれながら愚かさのために国家を失えば、二重の恥辱となる。
当代のイタリアで国家を失った君主たち――ナポリ王、ミラノ公、その他――を見れば、第一に武器に関する共通の欠陥があり、その原因はすでに詳述したとおりである。次に、ある者は民衆を敵に回しており、民衆を味方に持っていた者も、貴族を確保する術を知らなかった。これらの欠陥がなければ、野戦軍を保持できるだけの力を持つ国家は失われない。
マケドニア王フィリッポス――アレクサンドロス大王の父ではなく、ティトゥス・クィンクティウスに敗れた方――は、彼を攻めたローマとギリシャの巨大さに比べれば領土は大きくなかった。だが戦争向きで、民衆を引きつけ貴族を確保する術を知っていたため、数年にわたり敵との戦争を支えた。最終的にいくつかの都市の支配を失ったとしても、王国は保持した。
ゆえに、長年の支配ののち君主国を失った我らの君主たちは、運命を責めてはならない。責めるべきは自らの怠惰である。平時には変化が起こり得るなど思いもせず(嵐に備えず凪に安住するのは人間の共通の欠陥だ)、悪い時代が来てからは、防衛ではなく逃亡を考え、征服者の横暴に嫌気した民衆が自分たちを呼び戻すことを期待した。この策も、他が尽きたなら良い場合はある。しかし、ほかの手立てをすべて怠ってそれに賭けるのは最悪である。後で誰かが回復してくれると信じて、わざわざ倒れたい者などいない。しかもそれは起きないことも多く、起きたとしても安全ではない。自分に依らぬ救済は無力だからだ。頼りになるのは、自分自身と自分の武勇に依る救済だけである。それだけが確実で、堅牢で、長続きする。
CHAPTER XXV. 人事において運命がなし得ること、そしてそれにどう抗うべきか
世に、世界のことが運と神とによってかくも支配されている以上、人間の知恵ではそれを導くことなどできず、何ひとつ助けることすらかなわない――そう信じ、今なお信じている者がどれほど多いか、わたしはよく知っている。だから彼らは、事にあたって骨を折る必要などなく、成り行きに任せて運に采配させればよいのだ、と言って聞かせたがる。この考えが近年いっそう幅を利かせたのは、人の思量など超えた大変動が、日々目に見えるかたちで起こり、そして今も起こり続けているからである。わたし自身、ときにこれを思い巡らせると、多少はその説に心が傾くこともある。とはいえ、われらの自由意志を消し去らぬためにも、わたしはこう考える。運命とは、われらの行いの半分を裁く審判者である。だが残る半分、あるいは半分より少しだけ少ない分は、なおわれらの手に委ねられているのだ、と。
わたしは運命を、暴れ狂う川にたとえる。ひとたび増水すれば平野にあふれ、木も家も押し流し、土をここからあちらへと運び去る。すべては逃げ惑い、すべてはその暴威に屈し、いかなる手立てもってしても抗えない。しかし川がそういう性質だからといって、天候が回復したとき、人が堤や防壁を築いて備えることまで無意味になるわけではない。次に水かさが増したとしても、水が水路へ逃げるようにし、勢いが野放図にも危険にもならぬようにするためである。運命もまた同じで、武勇が備えられておらず、抗う支度のないところでこそ、その力を見せつける。そして防壁も堤もなく、自らを拘束する仕掛けがないと知っている場所へ、力を向ける。
そして、この変転の座であり、かつそれに火をつけたイタリアを考えてみれば、障壁も防備もない、丸裸の国であることがわかるはずだ。もしドイツやスペインやフランスのように、ふさわしい武勇で守られていたなら、この侵入はこれほど大きな変化をもたらさなかったか、そもそも起こり得なかっただろう。運命に抗うという一般論としては、これで十分である。
だが、より具体に絞って言えば、君主は今日まで幸福であったのに、明日には破滅することがある。しかも気質も性格も、何ひとつ変わっていないのに、である。これは第一に、すでに詳しく論じた原因、すなわち運に全幅の信頼を置く君主は、運が変われば滅ぶ、という点から生じる。さらに言えば、時勢の気分に合わせて行動を整える者は成功し、時勢と合わぬ行いをする者は成功しない。人が目指す終点――名誉と富――へ至る道はさまざまである。慎重に行く者、性急に突き進む者。力で押す者、技巧で抜ける者。忍耐で勝つ者、その反対で勝つ者。そして各々、異なるやり方で目標に到達する。慎重な者同士でも、一人は目的を遂げ、もう一人は失敗する。同じく、互いに異なる振る舞いをしながら、ともに成功する二人もいる。一方は慎重で、他方は猪突である。これらはただ一つ――そのやり方が時勢の気分にかなっているか否か――以外の何ものでもない。すなわち、異なるやり方の二人が同じ結果を生み、同じやり方の二人のうち一人は目的を達し、もう一人は達しない、ということである。
境遇の変転もまたここから生まれる。慎重と忍耐で身を律してきた者にとって、時勢と事態がその統治に都合よく収束すれば、成功し運も開ける。だが時勢と事態が変われば、方針を変えられぬかぎり破滅する。しかも人は、変化に身を合わせるほど用心深くあることが稀である。第一に、性が傾ける行いから離れられない。第二に、いつも同じやり方で栄えてきた者は、それを捨てるのがよいとはどうしても納得できない。ゆえに慎重な人間は、冒険へ転ずべき時に転じ方がわからず、そこで破滅する。もし時勢に合わせて身の処し方を変えていれば、運も変わらなかったものを。
教皇ユリウス二世は、あらゆる事において猪突であり、その時勢と状況が彼のやり方にこれ以上なく合致していたため、つねに成功を収めた。最初の事業、ボローニャへの攻勢を考えてみよ。メッセル・ジョヴァンニ・ベンティヴォーリがまだ生きていた頃の話である。ヴェネツィアはこれに賛同せず、スペイン王も賛同しなかった。さらにフランス王とも、なおこの事業を協議中であった。それでも教皇は、いつもの大胆さと気迫のまま、自ら遠征に踏み出した。この一挙がスペインとヴェネツィアを逡巡させ、手も足も出ぬまま立ちすくませた。ヴェネツィアは恐れから、スペインはナポリ王国奪還の欲から、動けなくなったのである。他方で教皇は、フランス王を引きずり込んだ。教皇の動きを見たフランス王は、ヴェネツィアを屈服させるため教皇を味方につけたいと望み、拒むことができなかったからだ。かくしてユリウスは、ただの人間の知恵だけでは、ほかのいかなる教皇にもできぬことを、猪突の一手で成し遂げた。もし彼が、ほかの教皇がするように、ローマで万事を整え、すべて確定するまで待って出発しようとしたなら、決して成功しなかっただろう。フランス王は千の口実を並べ、他の者たちは千の恐れを煽ったに違いないからである。
ほかの行いは省く。どれも同じ調子で、どれも成功した。彼の生が短かったため、逆の結末を味わわずに済んだのだ。もし状況が、慎重に進めることを彼に求めたなら、破滅が待っていただろう。なぜなら彼は、天性の傾きが命じる道から決して逸れなかったからである。
ゆえに結論する。運命は変転し、人間は自分のやり方に固着する。両者が一致しているあいだは成功し、齟齬が生じれば不成功となる。わたしとしては、慎重であるより冒険的であるほうがよいと考える。運命は女であり、屈服させたいなら打ち据え、手荒に扱う必要があるからだ。そして運命が征服されるのは、冷静に事を運ぶ者よりも、むしろ猪突の者であることが見て取れる。女らしく、いつも若い男の恋人である。若い男は慎重さに欠け、激しく、豪胆に命じるからである。
第二十六章 蛮族からイタリアを解放するよう勧告する
以上の論考を熟考しながら、わたしは自問した。現代は新たな君主にとって吉兆の時代だろうか。賢明で徳ある者が新秩序を導入し、自身の名誉となり、この国の民の利益となる機会は、いま存在するだろうか。考え合わせてみるに、新君主に味方する要素があまりにも多く、これほど好機に満ちた時代を、わたしは知らない。
もし、かつて言ったように、モーセの力量を明らかにするためにはイスラエルの民が捕囚であることが必要であり、キュロスの偉大な魂を世に示すためにはペルシア人がメディア人に虐げられていることが必要であり、テーセウスの器量を際立たせるためにはアテネ人が離散していることが必要であったのなら、いま、イタリアの精神の徳を示すためには、イタリアが現状のような窮極へと追い込まれていることが必要だったのである。ヘブライ人よりも奴隷とされ、ペルシア人よりも圧迫され、アテネ人よりも散り散りにされ、頭なく、秩序なく、打たれ、奪われ、裂かれ、蹂躙され、あらゆる荒廃に耐え抜かねばならなかったのだ。
近頃、ある者が火花のようなものを見せ、神がわれらの救済のために定めた器ではないかと思わせたことがあった。だが栄光の頂で、運命が彼を退けたことが後に明らかになった。こうして生気を失ったままのイタリアは、まだ見ぬ「癒し手」を待っている。ロンバルディアの荒らしと略奪を止め、王国とトスカーナへの詐取と重税を終わらせ、長く膿み続けた腫れ物を洗い清める者を。神に向かって、これらの不正と蛮族の横暴から救い出す者を遣わしてくれと嘆願している姿が見える。また、誰かが旗を掲げさえすれば、その旗に従う用意があることも見て取れる。
そして今、これ以上の希望を託せる者がどこにいるというのか。神と、そして教会(いまやその首座である)に愛顧され、武勇と運に恵まれた、あなたの高貴なる家をおいて他にない。この救済の先頭に立ちうるのも、まさにそこなのだ。わたしが名を挙げた人々の行いや生涯を思い起こしさえすれば、これは難事ではない。彼らはたしかに偉大で驚くべき人々だったが、結局は人である。そして彼らが得た機会は、いま目の前にある機会より大きかったわけではない。彼らの事業がこれより正しく、これより容易だったわけでもない。神が彼らにより親しく、あなたにそうでないということもない。
われらには大いなる正義がある。必要なる戦いは正義であり、武器は、他に望みがないとき聖別される。ここには最大の意欲がある。意欲が大であるところ、あなたがわたしの示した人々に倣いさえすれば、困難が大であるはずがない。それに加えて、神の道が、例のないほど驚異的に示されてもいる。海は分かたれ、雲が導き、岩は水を噴き、マンナが雨となった。あらゆるものが、あなたの偉大さに寄与している。残るは、あなたが成すべきことだ。神はすべてを成し、われらの自由意志と、われらに属する栄光の取り分を奪い去ろうとはしない。
また、先に名を挙げたイタリア人たちが、あなたの高貴なる家に期待されるすべてを成し遂げられなかったとしても、驚くにはあたらない。イタリアで幾たびも政変が起こり、幾たびも戦役が重ねられてきたのに、軍事の徳が尽き果てたかのように見え続けたのは、旧来の秩序が悪く、しかも新たな秩序を見いだす術を、われらの誰も知らなかったからである。新しく台頭した者が、新しい法と新しい制度を打ち立てることほど、その人を栄えさせるものはない。それらがよく基礎づけられ、威厳を備えるなら、畏敬と讃嘆を呼ぶ。そしてイタリアには、あらゆる形でそれを実行する機会が欠けてはいない。
ここでは四肢に武勇がありながら、頭にそれがない。決闘や白兵戦をよく見れば、イタリア人は力でも敏捷でも機略でも勝る。だが軍隊となると比較にならない。これはすべて、指揮官の不十分さから生じる。能力ある者は従われず、各々が自分はわかっていると思い込む。武勇か運か、そのいずれかで他を圧して抜きん出て、皆がその者に譲るほどの人物が、これまで現れなかったからだ。ゆえに長い間、そして過去二十年の多くの戦いにおいて、純粋にイタリア人だけの軍が立ったときは、いつもみじめな戦いぶりを晒した。その証人は、まずターロ、次いでアレッサンドリア、カプア、ジェノヴァ、ヴァイラ、ボローニャ、メストリである。
ゆえに、あなたの高貴なる家が、祖国を贖ったあの傑出した人々にならおうと望むなら、何よりもまず、あらゆる事業の真の土台として、自前の軍を備えねばならない。これ以上に忠実で、これ以上に真実で、これ以上に優れた兵はない。個々に見ても良兵だが、君主が指揮し、栄誉を与え、費用を負担して養うなら、集まってなおさら良くなる。よってそのような武力を整え、イタリアの武勇で外国人に対抗しうるようにする必要がある。
スイスとスペインの歩兵はいずれも恐るべきものと見なされるが、双方には欠陥があり、第三の方式がそれに対抗するどころか、むしろ打ち破ることさえ期待できる。スペイン兵は騎兵に耐えられず、スイス兵は接近戦で歩兵に遭遇すると恐れる。ゆえに、これまでにも見られ、また再び見られるであろうように、スペイン兵はフランスの騎兵に抗し得ず、スイス兵はスペインの歩兵に打ち倒される。後者について完全な証明は示せないにせよ、ラヴェンナの戦いで、スペイン歩兵がドイツの大隊(スイスと同じ戦法に従う)に相対したとき、一定の証拠は見えた。スペイン兵は身軽さと盾の助けで、ドイツ兵の長槍の下へ潜り込み、危険圏から外れて攻撃できた一方、ドイツ兵はなすすべがなかった。もし騎兵が突入しなかったなら、彼らは全滅していただろう。したがって、両者の欠陥を知れば、騎兵に耐え、歩兵を恐れぬ新しい歩兵を工夫することが可能である。これは武装の新秩序を一から作るというより、旧来のものに変化を与えることにすぎない。そしてこうした改良こそが、新君主に名声と力を授ける。
ゆえにこの機会を取り逃がしてはならない。イタリアがついに解放者の出現を見るために。外国の鞭にこれほど苦しめられた諸地方で、彼がどれほどの愛をもって迎えられるか。どれほど復讐に渇き、どれほど頑迷な信義を抱き、どれほど献身し、どれほど涙するか――言い尽くせぬ。どの扉が彼に閉ざされようか。誰が服従を拒もうか。どんな嫉妬が彼の道を阻もうか。どのイタリア人が彼への敬意を拒もうか。この蛮族の支配は、われらすべてにとって悪臭を放つ。ゆえに、あらゆる正しい事業が帯びる勇気と希望をもって、あなたの高貴なる家がこの責務を引き受けよ。そうすればその旗の下で祖国は高められ、その庇護の下で、ペトラルカの言葉が真実となるだろう。
Virtu contro al Furore
Prendera l’arme, e fia il combatter corto:
Che l’antico valore
Negli italici cuor non e ancor morto.
Virtue against fury shall advance the fight,
And it i’ th’ combat soon shall put to flight:
For the old Roman valour is not dead,
Nor in th’ Italians’ brests extinguished.
Edward Dacre, 1640.
ヴィテロッツォ・ヴィテッリ、フェルモのオリヴェロット、シニョール・パゴロ、グラヴィーナのオルシーニ公を殺害するにあたり、ヴァレンティーノ公が採った方法の記述
ニッコロ・マキアヴェッリ著
ヴァレンティーノ公はロンバルディアから戻っていた。アレッツォの反乱とヴァル・ディ・キアーナの他の町々の件で、フィレンツェ人が公に浴びせた讒言について、フランス王の前で釈明するためである。公はイーモラに到着し、そこから軍を率いて、ボローニャの僭主ジョヴァンニ・ベンティヴォーリへの戦役に入るつもりだった。ボローニャを支配下に置き、ロマーニャ公国の首府とする意図があったからである。
これがヴィテッリ家とオルシーニ家、そしてその一党の耳に入ると、公が強大になりすぎると見えた。ボローニャを手にした後、公がイタリアで覇者となるため彼らを滅ぼしにかかるのではないか、と恐れられた。そこでペルージャ領内のマジョーネで会合が招集され、枢機卿、パゴロ、グラヴィーナのオルシーニ公、ヴィテロッツォ・ヴィテッリ、フェルモのオリヴェロット、ペルージャの僭主ジャンパゴロ・バリオーニ、そしてシエナ公パンドルフォ・ペトルッチが派遣したメッセル・アントニオ・ダ・ヴェナフロが集まった。そこで公の力と胆力、そして野望を抑えねば他の者たちも破滅の危険に晒されることが論じられた。彼らはベンティヴォーリを見捨てず、フィレンツェ人を抱き込むよう努めることを決め、一方には援助を、他方には激励を約して、共通の敵に対して結束するよう使者を各地に走らせた。この会合の報はたちまちイタリア全土に広まり、公の支配に不満を抱く者たち――ウルビーノの民もその中にいた――は政変を起こす望みを得た。
こうして人心が揺らぐうち、ウルビーノのある者たちは、公のために守られていたサン・レオの要塞を奪取することを決め、次のやり方で成功した。城代が岩山の防備を固め、木材を運び上げさせていたので、謀議者たちはこれを見張り、橋の上に梁が載って内側から引き上げられぬ瞬間を捉え、橋へ躍り上がり、そこから要塞へ飛び込んだ。要塞が奪われると、国全体が反旗を翻し、旧公を呼び戻した。この動きは要塞奪取そのものよりも、むしろマジョーネの会合への期待――彼らから援助が得られるという期待――に励まされたところが大きい。
ウルビーノの反乱を聞いた者たちは、この機会を逃すまいと考え、すぐ兵を集めて、なお公の手に残る町があれば奪えるようにし、再びフィレンツェへ使者を送り、共通の火種を滅ぼすために結びつくよう共和国に請うた。危険は減っており、次の好機を待つべきではない、と示したのである。
だがフィレンツェ人は、さまざまな理由からヴィテッリとオルシーニを憎み、同盟どころか、書記官ニッコロ・マキアヴェッリを派遣して、公に対し、敵に抗するための避難所と援助を申し出た。公はイーモラで恐怖に満ちていた。予想に反して兵が一斉に敵へ寝返り、武装を失い、戦が門前に迫っていたからである。しかしフィレンツェの申し出で勇気を取り戻すと、残兵の少なさでいきなり決戦するより、ひとまず時間を稼ぎ、和解を交渉し、援軍を得るほうがよいと決した。援助は二つの道で手にした。フランス王に兵を求めること、そして常備の兵や他の者を雇い入れて、一種の騎兵に仕立てること。いずれにも金を与えた。
それでも敵は近づき、フォッソンブローネへ迫った。そこで彼らは公の兵の一部に遭遇し、オルシーニとヴィテッリの助けを得てこれを打ち破った。これを受け、公はただちに、和解の申し出でこの難局を閉じられないか試みると決した。最上級の偽装者であった公は、反乱者たちにこう思い込ませるため、あらゆる策を尽くした。すなわち、何かを獲得した者は皆それを保持してよい、自分には君主の称号さえあれば足り、実権は他者が持ってもよい、というのである。
この策はよく当たり、彼らはシニョール・パゴロを公のもとへ送り、和解交渉に当たらせ、軍を停止させた。しかし公は準備を止めず、騎兵と歩兵を整えることに万全を期した。しかも準備が相手に悟られぬよう、兵を小隊に分けてロマーニャ各地に散らした。その間にフランスの槍騎兵五百も到着した。公は公然戦で敵に復讐できるほどの力を得たが、計略で出し抜くほうが安全で利益が大きいと考え、和解の作業を止めなかった。
そのため公は、旧来の協定を再確認する形で講和を結び、ただちに四千ダカットを与え、ベンティヴォーリを害さぬと約し、ジョヴァンニと同盟を結んだ。さらに、彼らが望まぬかぎり、直接公の面前に出ることを強いないとした。これに対し彼らは、奪取したウルビーノ公国その他の地を返還し、公のすべての遠征に従軍し、公の許しなく誰とも戦わず、誰とも同盟しないと約した。
和解が成立すると、ウルビーノ公グイド・ウバルドは再びヴェネツィアへ逃れた。その前に自領の要塞をすべて破壊していた。民衆を信頼し、防ぎきれない要塞が敵の手に落ち、それによって味方が牽制されることを望まなかったからである。だがヴァレンティーノ公は協定を終えると、兵をロマーニャに散らしたまま、十一月末、フランスの常備騎士を伴ってイーモラへ向かった。そこからチェゼーナへ行き、しばらく滞在して、ウルビーノ公国に兵を集結させていたヴィテッリとオルシーニの使節と、今後どの企てに参加すべきかを交渉したが、何も決まらなかった。そこでフェルモのオリヴェロットが派遣され、「トスカーナへ遠征するなら準備はできている。望まぬならシニガリアを包囲する」と提案した。公は「トスカーナと戦ってフィレンツェと敵対する気はないが、シニガリアへ進むのは大いに望む」と答えた。
ほどなく町は降伏したが、要塞は屈しなかった。城代が「公本人にしか引き渡さない」と言って譲らなかったためである。そこで彼らは公に来るよう促した。彼らに招かれて行くのであり、自ら進んで行くのではないから疑念を招かぬ――公には好機に見えた。さらに彼らを安心させるため、ロンバルディアにいたフランスの常備騎士を、義弟カンダル氏の指揮する槍騎兵百を除き、すべて帰還させた。公は十二月中旬にチェゼーナを発ち、ファーノへ向かい、最大限の狡猾さと機知でヴィテッリとオルシーニを説き伏せ、シニガリアで待つよう迫った。従わねば和解の誠実さと永続性に疑いが生じること、また自分は友の武力と助言を用いたい男であることを説いたのである。だがヴィテロッツォは頑固だった。兄の死が、君主を怒らせた後にその君主を信じてはならぬと警告していたからである。それでも、公が贈与と約束で買収したパゴロ・オルシーニに説得され、待つことに同意した。
公はファーノ出発(1502年12月30日)の前、最も信頼する配下八名――ドン・ミケーレと、後に枢機卿となるモンシニョール・デウナもその中にいた――に計画を告げた。そして、ヴィテロッツォ、パゴロ・オルシーニ、グラヴィーナ公、オリヴェロットが到着次第、配下が二人組になって彼らを一人ずつ引き受け、各組に定められた者を任せ、シニガリアへ至るまで歓待しつつ監視し、公の宿営に着くまで決して離さず、そこで拘束せよと命じた。
さらに公は、騎兵二千以上、歩兵一万の全軍を、ファーノから五マイル(約8キロメートル)離れたメタウロ川に夜明けまでに集結させ、そこで待機させた。こうして十二月最終日、公はメタウロ川で軍と合流し、約二百騎の先行騎兵隊を前へ出してから、残る常備騎士を伴い歩兵を進ませた。
ファーノとシニガリアは、アドリア海沿岸にあるラ・マルカの二都市で、互いに十五マイル(約24キロメートル)離れている。シニガリアへ向かう者は右手に山を見、山裾はところどころ海に触れる。シニガリアは山麓から弓の射程より少し遠く、海岸からは約1マイル(約1.6キロメートル)離れている。町の反対側には小川が流れ、街道に面し、ファーノ側へ向いた城壁の一部を洗っている。ゆえにシニガリアへ近づく者は、しばらく山沿いの道を行き、町の脇を流れる川に出る。そこから川岸を左へ弓の射程ほど進むと橋があり、それを渡れば、シニガリアへの門のほぼ正面に至る。ただし一直線ではなく斜めである。その門の前には家々が固まり、広場があり、その一辺を川岸が形作っている。
ヴィテッリとオルシーニは、公を待って面前で礼を尽くすよう命じられていたため、公の兵を収容する場所を空けるべく、シニガリアから六マイル(約10キロメートル)ほど離れた複数の城へ自軍を散らした。シニガリアにはオリヴェロットと、その隊――歩兵千、騎兵百五十――のみを残し、前述の郊外に宿営させた。万端が整うとヴァレンティーノ公はシニガリアへ向かった。騎兵の先頭が橋に達すると、彼らは渡らず、橋を開いて、一部は川のほうへ、他は陸地のほうへ回り込み、中央に道を残した。そこを歩兵が止まらずに町へ入った。
ヴィテロッツォ、パゴロ、グラヴィーナ公は、ラバに乗り、わずかな騎兵を伴って公のもとへ向かった。ヴィテロッツォは無武装で、緑の裏地のマントをまとい、死を予感しているかのように沈痛であった。彼の器量と、かつての幸運を思えば、これは人を驚かせるほどである。シニガリアで公に会うため出発する前、部下と別れる際の様子も、最後の別れであるかのようだったと言われる。彼は家とその運命を隊長たちに託し、甥たちには「家の運ではなく、父祖の徳を心に留めよ」と諭したという。この三人は公の前に出て恭しく挨拶し、公は好意をもって迎えた。彼らはただちに監視役に指名された者たちの間に置かれた。
しかし公は、シニガリアに隊を率いて残っていたオリヴェロットの姿が見えないことに気づいた。オリヴェロットは川の近く、自分の宿舎前の広場で兵を整列させ、訓練していたのである。公は視線でドン・ミケーレに合図した。オリヴェロットの処置を委ねていた人物である。逃がすな、という合図である。そこでドン・ミケーレは駆け寄り、兵を宿舎外に出したままにするのはよくない、公の兵に場所を取られる、と告げ、ただちに兵を宿舎に戻し、本人は公に会いに来るよう勧めた。オリヴェロットはこの助言に従い、公の前へ出た。公は彼を見ると呼びかけ、オリヴェロットは敬礼して、他の三人に加わった。
こうして一行はシニガリアへ入り、公の宿舎で下馬し、公とともに密室へ入った。公はそこで彼らを捕らえ、次いで馬に乗ると、オリヴェロットの兵とオルシーニの兵の武装解除を命じた。オリヴェロットの兵は近くにいたので素早く片づいたが、オルシーニとヴィテッリの兵は遠くにおり、主人の破滅を予感していたため備える時間があった。オルシーニ家とヴィテッリ家の武勇と規律を思い、彼らは団結して土地の敵対勢力に抗し、逃げ延びた。
だが公の兵は、オリヴェロットの兵を略奪しただけでは飽き足らず、シニガリアの略奪を始めた。公が数名を殺して暴挙を抑えなければ、町は徹底的に掠め取られていただろう。夜となり騒乱が鎮まると、公はヴィテロッツォとオリヴェロットを殺す支度をした。二人を部屋へ連れて行き、絞殺させた。どちらも、これまでの生き様にふさわしい言葉を吐かなかった。ヴィテロッツォは教皇に罪の赦しを乞えるよう願い、オリヴェロットは卑屈に身を縮め、公に対する加害の責任はすべてヴィテロッツォにあるとした。パゴロとグラヴィーナ公オルシーニは、公がローマから「教皇がオルシーノ枢機卿、フィレンツェ大司教、メッセル・ヤコポ・ダ・サンタ・クローチェを捕らえた」との報を得るまで生かされ、その後、1502年1月18日、ピエーヴェの城で同様に絞殺された。
ルッカのカストルッチョ・カストラカーニ伝
ニッコロ・マキアヴェッリ著
そして友人ザノビ・ブオンデルモンティ、ルイジ・アラマンニへ送る
カストルッチョ・カストラカーニ 1284-1328
親愛なるザノビ、ルイジよ。事を考えた者にとって驚くべきことに、世で大事を成し、同時代の他者すべてに卓越した人間の多く――いや大多数――は、卑しくも不明な出自から生まれ出ている。あるいはまた、運命から目に余るほどの不条理な仕打ちを受けている。獣の慈悲に晒されるよう捨てられた者もいれば、親の身分があまりに卑しいため、恥から自らをユピテルや他の神の子だと称した者もいる。誰がそうであったかを挙げるのは冗長である。万人の知るところであり、そうした話は読む者にとってさほど教訓的でもあるまいから、省く。わたしは、この「偉人の卑しい始まり」が起こるのは、運命が世に示したいからだと信じる。彼らは知恵によってではなく、運命によって多くを得たのだ、と。というのも運命は、知恵が本当に何もできぬ地点から手を動かし始める。ゆえに成功はすべて彼女に帰せられねばならぬ。ルッカのカストルッチョ・カストラカーニもまた、その種の人物の一人である。生きた時代と、生まれた都市に照らせば、彼は大事を成した。だが多くの者と同様、生まれにおいては運も名声もなかった。この物語の進行がそれを示すだろう。わたしが彼の記憶を呼び起こしたいと思ったのは、彼の内に武勇と運命の徴が見え、それが人々にとって大いなる模範となるに足るからである。また、あなたがたはわたしの知る誰よりも高貴な行いを愛するゆえ、彼の事績に注意を向けてもらうべきだとも思ったのだ。
カストラカーニ家は、かつてはルッカの貴族家に数えられたが、わたしが語る頃には、この世でしばしばあるように、家運がいくぶん傾いていた。その家から一人の子、アントニオが生まれ、ルッカのサン・ミケーレ修道会の司祭となったため、メッセル・アントニオの称号で敬われた。彼にはただ一人の妹があり、ブオナッコルソ・チェナミに嫁いでいたが、夫が死んで未亡人となると、再婚を望まず兄と暮らすことにした。メッセル・アントニオの住まいの裏には葡萄畑があり、周囲を庭が囲んでいたので、誰でも容易に入り込める場所だった。
ある朝、日の出の少し後、メッセル・アントニオの妹、マドンナ・ディアノーラは、いつものように夕餉の香味草を摘みに葡萄畑へ入った。すると葡萄の葉の間でかすかな物音がし、そちらへ目を向けると、乳児の泣き声に似たものが聞こえた。彼女は近寄り、葉に包まれて横たわる赤子の手と顔を見つけた。母を求めるように泣いている。驚き、怯えつつも、憐れみに胸を突かれた彼女は赤子を抱き上げ、家へ運び、慣例どおり湯で洗い、清潔な麻布を着せ、兄が戻ると見せた。事情を聞き子を見たメッセル・アントニオも、妹に劣らず驚き、同じほどの憐れみを覚えた。二人はどうすべきか相談し、彼が司祭で、彼女が子のない身であることから、ついに育てると決めた。乳母を雇い、我が子のように愛して育てた。洗礼を施し、自分たちの父の名にちなみ、カストルッチョと名づけた。
年月が過ぎるとカストルッチョはたいそう美しく育ち、機知と分別の兆しを見せ、メッセル・アントニオが授ける教えを年齢以上の速さで身につけた。メッセル・アントニオは彼を司祭にし、やがて聖堂参事会員の地位や諸々の聖職禄を与えるつもりで、その目的のために教育した。だがアントニオは、カストルッチョの気質が聖職にまるで向かぬことを見抜いた。十四歳になるや、カストルッチョはメッセル・アントニオとマドンナ・ディアノーラの小言に耳を貸さなくなり、もはや恐れもしなくなった。教会書を読むのをやめ、武具で遊ぶことへ向かい、その用法を学ぶのを何よりの歓びとした。走り、跳び、ほかの少年と組み合う。あらゆる鍛錬で、胆力と体力において仲間を大きく凌ぎ、もし本に触れるとしても、戦と英雄の偉業を語るものしか好まなかった。メッセル・アントニオはそれを見て、苛立ちと悲嘆に暮れた。
ルッカの町には、グイニージ家の紳士メッセル・フランチェスコがいた。職は武であり、富も体力も武勇も、ルッカの誰にも勝っていた。しばしばミラノのヴィスコンティ家の指揮下で戦い、ギベリン(皇帝派)として、ルッカではその党の重んじられる首領であった。この紳士はルッカに住み、朝夕しばしば、サン・ミケーレ広場――ルッカで最も美しい広場――の上手にあるポデスタ(政務長官)のバルコニー下に人を集めるのが常だった。彼はそこで、先に述べた遊びに街の子らと興じるカストルッチョを幾度も見ていた。カストルッチョが他の少年より抜きん出ており、王者のように彼らを統率し、少年たちが彼を愛し従うのを見て、メッセル・フランチェスコは彼が何者か知りたくてたまらなくなった。カストルッチョの養育の事情を聞くと、いっそう手元に置きたいと望んだ。そこである日呼び出し、こう尋ねた。馬に乗り武具を扱うことを学べる紳士の家に住むのと、ミサや教会勤めしか学べぬ司祭の家に住むのと、どちらがよいか。馬と武具の話を聞いたとき、カストルッチョが大いに喜んだのは、黙って控えめに頬を赤らめていても明らかだった。メッセル・フランチェスコに促されて口を開くと、「ご主人がよろしければ、司祭の勉学を捨て、兵の学びに移ることほど望むものはない」と答えた。この返答にメッセル・フランチェスコは喜び、ほどなくメッセル・アントニオの同意を取りつけた。少年の性を知り、これ以上引き留められぬと恐れたアントニオは、譲らざるを得なかったのである。
こうしてカストルッチョは司祭メッセル・アントニオの家から、兵士メッセル・フランチェスコ・グイニージの家へ移った。驚くべきことに、間もなく彼は、真の紳士にふさわしい徳と身のこなしを余すところなく示した。まず優れた騎手となり、最も荒ぶる軍馬をも難なく御し、まだ若年ながら槍試合やトーナメントでは誰よりも目立ち、力と敏捷のあらゆる鍛錬で卓越した。だがそれらの魅力をさらに増したのは、他者に言葉でも行いでも不快を与えぬ、快い謙虚さであった。大人には恭しく、同輩には慎み深く、目下には礼を失わない。この資質により、彼はグイニージ家のみならず、ルッカ全体に愛された。
十八歳に達した頃、ゲルフ(教皇派)がパヴィアからギベリンを追放し、メッセル・フランチェスコはヴィスコンティ家から、ギベリンを援助するため派遣された。カストルッチョも彼とともに出陣し、その軍勢を預かった。この遠征でカストルッチョは思慮と勇気を存分に示し、どの隊長よりも大きな名声を得た。その名と誉れはパヴィアにとどまらず、ロンバルディア全土に知れ渡った。
ルッカへ帰ったカストルッチョは、出発時よりはるかに高い評価を得ていたが、友を増やすために自分の力の及ぶ限りあらゆる手段を用い、その目的に必要な術を一つとして怠らなかった。ちょうどこの頃、メッセル・フランチェスコが死に、十三歳の子パゴロを残し、カストルッチョを後見人とし、遺産管理者に指名した。死に際してフランチェスコはカストルッチョを呼び、「自分がカストルッチョに示してきた好意を、パゴロにも示してほしい。父に返しきれなかった恩を、子に返してほしい」と頼んだ。フランチェスコの死後、カストルッチョはパゴロの後見人兼統治者となり、権勢と地位は激増した。だがそれは、かつての万人の好意に代わって、ルッカに一定の嫉妬を生んだ。多くの者が、彼に僭主の意図があると疑ったからである。中でも中心人物は、ゲルフ党首のジョルジョ・デリ・オピーツィであった。彼はメッセル・フランチェスコの死後、ルッカ第一の人物になれると望んでいたが、すでに大きな才を示し、統治者の地位を得たカストルッチョによって、その機会が奪われたと思った。そこでカストルッチョの名声を奪うための種を蒔き始めたのである。カストルッチョは当初これを嘲笑したが、やがて不安になった。メッセル・ジョルジョがナポリ王ルベルトの代理を動かし、自分を不興に陥れてルッカから追放させることができるのではないか、と考えたからである。
そのころピサの主は、アレッツォ出身のファッジョーラ家のウグッチョーネであった。最初は彼らの隊長に選ばれ、のちに主となった人物である。パリには、ルッカから追放されたギベリンたちが住んでおり、カストルッチョはウグッチョーネの助けを借りて彼らを復帰させようと、連絡を取っていた。またオピーツィの権勢に耐えかねるルッカの友人たちも計画に引き入れた。方針が定まると、カストルッチョは慎重にオネスティ家の塔を補強し、籠城に備えて食糧と軍需品を満たした。必要なら数日耐えられるようにするためである。
ウグッチョーネと取り決めた夜が来た。彼は多くの兵を率い、山とピサのあいだの平野を占拠していた。合図が上がると、ウグッチョーネは見つからぬままサン・ピエロ門へ近づき、落とし格子に火を放った。カストルッチョは市内で大騒ぎを起こし、人々を武装させ、自分の側から門をこじ開けた。ウグッチョーネは兵を率いて入城し、町を駆け抜け、メッセル・ジョルジョとその一族、さらに多くの友党を殺した。総督は追放され、政体はウグッチョーネの意に沿って改められたが、それは都市にとって害であった。このとき百を超える家が追放されたからである。逃れた者の一部はフィレンツェへ、一部はピストイアへ向かった。そこはゲルフ党の拠点であり、そのためウグッチョーネとルッカ人に対し最も敵意を燃やすことになった。
こうしてフィレンツェ人、ならびに他のゲルフ党の者たちには、ギベリンがトスカーナであまりに大きな力を吸い込んでいるように見えたため、追放されたゲルフをルッカへ復帰させることを決めた。彼らはニエーヴォレ谷に大軍を集め、モンテカティーニを占領した。そこからモンテカルロへ進軍し、ルッカへの自由な通行を確保しようとした。これに対しウグッチョーネはピサ兵とルッカ兵を集め、ロンバルディアから引き出した多数のドイツ騎兵も加えて、フィレンツェ軍の宿営に向けて進んだ。敵の出現にフィレンツェ軍はモンテカルロから退き、モンテカティーニとペーシャの間に布陣した。ウグッチョーネはモンテカルロ近く、敵から約二マイル(約3キロメートル)ほどの地点に陣取った。双方の騎兵による小競り合いが日々起こった。
ウグッチョーネの病のため、ピサ兵とルッカ兵は決戦を延ばした。病が悪化するとウグッチョーネは療養のためモンテカルロへ行き、軍の指揮をカストルッチョに委ねた。この交代がゲルフ党の破滅を招いた。敵軍は隊長を失って頭も失ったと考え、増長したのである。カストルッチョはそれを見抜き、数日を空費してその思い込みを育てた。恐れの兆しを見せ、陣中の軍需品をいっさい用いさせなかった。ゲルフ党は恐れの徴を見れば見るほど傲慢になり、毎日、カストルッチョ軍の前で戦闘隊形を取った。やがて敵が十分に大胆になり、その戦法を見切ったと判断すると、決戦を決意した。まず兵に短い激励を与え、命令に従いさえすれば勝利は確実だと説いた。
カストルッチョは、敵が精鋭を中央に集め、頼りない兵を両翼に置いているのに気づいていた。そこで逆を行った。最も勇猛な兵を両翼へ置き、信頼の薄い者を中央へ寄せた。この陣立てで隊列を進め、ほどなく敵軍が見えた。敵はいつものように傲慢にも挑発しに出ていた。カストルッチョは中央隊にゆっくり進めと命じ、両翼を速く前へ出した。こうして接触したとき交戦したのは両翼だけで、中央同士は長い間隔で隔てられ、互いに届かず戦外に置かれた。これにより、カストルッチョの勇猛な部分が敵の弱い部分に当たり、敵の精鋭は遊兵となった。結果としてフィレンツェ軍は正面の相手と戦えず、また自軍の両翼を助けることもできなかった。大きな困難もなく、カストルッチョは両翼で敵を潰走させ、中央も、攻撃に晒されると見るや、武勇を示す間もなく逃げ出した。敗北は徹底し、死者は甚だ多かった。戦死者は一万を超え、トスカーナのゲルフ党の高官や騎士も多数倒れた。援軍として来ていた諸侯も多く、その中にはナポリ王ルベルトの弟ピエーロ、甥カルロ、タラント領主フィリッポらがいた。カストルッチョ側の損害は三百に満たず、その中にウグッチョーネの子フランチェスコがいた。若さに任せて軽率に突撃し、初撃で討たれたのである。
この勝利によりカストルッチョの名声は飛躍的に高まり、ウグッチョーネは彼に対して嫉妬と疑念を抱いた。この勝利はウグッチョーネの権勢を増すどころか、むしろ減じたように見えたからである。そう考えたウグッチョーネは、機会を待っていただけだった。その機会は、ルッカで名望と才覚を備えたピエール・アニョロ・ミケーリが殺され、その犯人が逃げ込んでカストルッチョの家に匿われたとき訪れた。隊長の下役たちが犯人を捕らえに来ると、カストルッチョは彼らを追い払って逃がした。この事件がピサにいたウグッチョーネの耳に入ると、カストルッチョを罰する好機と見えた。彼はルッカ総督である子ネーリを呼び、宴席でカストルッチョを捕らえて殺せと命じた。悪意を疑わぬカストルッチョは親しげに総督を訪れ、夕食のもてなしを受けたのち投獄された。しかしネーリは、殺せば民衆が怒るのを恐れ、父の意向をさらに聞くため生かしておいた。ウグッチョーネは子の躊躇と臆病を罵り、ただちに騎兵四百を率いてピサからルッカへ向かい、自分の手で決着をつけようとした。だが温泉に着く前に、ピサ人が反乱を起こし、彼の代理を殺し、ガッド・デッラ・ゲラルデスカ伯を主に据えた。
ウグッチョーネはルッカに到着する前にピサの出来事を聞いたが、引き返すのは賢明でないと思った。ピサの例に倣ってルッカ人も門を閉ざすおそれがあるからである。しかしルッカ人はピサの一件を聞き、この機会に乗じて、ウグッチョーネがすでに入城していたにもかかわらず、カストルッチョの釈放を要求した。最初は私的な集まりで語られ、次いで広場や街路で公然と語られ、ついには騒擾となり、武装してウグッチョーネのもとへ押しかけ、釈放を求めた。ウグッチョーネはさらなる事態を恐れ、獄から解放した。そこでカストルッチョは友を集め、民衆の助けを得てウグッチョーネを攻撃した。逃走以外に術がないと見たウグッチョーネは、友とともにロンバルディアへ逃れ、スカラ家の主のもとへ行き、貧窮のうちに死んだ。
しかしカストルッチョは、囚人の身からほとんど君主同然の存在へと変わり、ルッカで友人にも民衆にもきわめて慎み深くふるまったため、彼らは彼を一年任期の軍の隊長に任命した。これを得ると、戦で名を上げたいという望みから、ウグッチョーネが去ったのち反旗を翻した多くの町を奪回する計画を立て、条約を結んでいたピサ人の助力を得てセレッツァーナへ進軍した。この地を落とすため、彼は対面する位置に砦を築いた。今日ゼレッツァネッロと呼ばれるそれである。二か月のうちにカストルッチョは町を手に入れた。この包囲戦で得た名声を梃子に、彼はマッサ、カッラーラ、ラヴェンツァを立て続けに掌握し、ほどなくルニジャーナ全域を席巻した。ロンバルディアからルニジャーナへ通じる峠道を塞ぐため、彼はポントレーモリを包囲し、その領主メッセル・アナスタージオ・パラヴィチーニの手から奪い取った。この勝利ののち彼はルッカへ戻り、全市民の歓呼で迎えられた。
そして今やカストルッチョは、これ以上君主たることを先延ばしにするのは軽率だと見なし、パッツィーノ・デル・ポッジョ、プッチネッロ・ダル・ポルティコ、フランチェスコ・ボッカンサッキ、チェッコ・グイニージの助けを借りてルッカの領主に自らを据えた。彼らは皆、彼が買収していた者たちである。やがて民衆の手で、儀式を尽くし、熟慮の上で、彼は君主として選ばれた。
このころ、ローマ人の王(ローマ王)であるバイエルンのフリードリヒが皇帝冠を受けるためイタリアへ来た。カストルッチョは友誼を結ぶべく、五百騎の騎兵を率いて彼を出迎えた。カストルッチョがルッカに代官として残していたのはパゴロ・グイニージで、父の記憶を民衆が愛していたため、たいへん評判が高かった。カストルッチョはフリードリヒに最大の厚遇で迎えられ、数々の特権を授けられ、さらにトスカーナにおける皇帝代理に任ぜられた。
同じころピサ人は、ピサから追放したガッド・デッラ・ゲラルデスカを恐れており、助けを求めてフリードリヒにすがった。フリードリヒはカストルッチョをピサの領主に立て、ピサ人はゲルフ(教皇派)とりわけフィレンツェ人を恐れて、彼を領主として受け入れざるを得なかった。
フリードリヒはローマに総督を置いてイタリアの事務を監督させると、ドイツへ帰った。皇帝の旗印に従うトスカーナおよびロンバルディアのギベリン(皇帝派)たちは、助言と援助を求めて皆カストルッチョのもとへ集まり、彼の力で祖国を回復できるなら、自分たちの国の統治権を彼に与えると約した。亡命者の中にはマッテオ・グイーディ、ナルド・スコラーリ、ラポ・ウベルティ、ジェロッツォ・ナルディ、ピエーロ・ボナッコルシら、いずれもフィレンツェの亡命ギベリンがいた。
カストルッチョは、これらの男たちと自軍の力を用いてトスカーナ全土の主となる密かな意図を抱いていた。さらに政務での重みを増すため、ミラノの君主メッセル・マッテオ・ヴィスコンティと同盟を結び、彼のために市と周辺郡の兵力を編成した。ルッカに五つの門があることから、彼は自領の郡部を五つに分け、武装を整え、隊長と旗手の下に人々を登録した。こうして彼は、ピサから呼び寄せられる援軍を除いても、二万の兵を即座に野に出せる体制を作り上げた。
この軍勢と同盟者を周囲に固めていたところへ、メッセル・マッテオ・ヴィスコンティがピアチェンツァのゲルフ勢に攻撃される事件が起きた。彼らはフィレンツェ軍とルベルト王の助力でギベリンを追放していたのである。メッセル・マッテオはカストルッチョに、フィレンツェ人の領内へ侵攻してくれと頼んだ。内地が攻められれば、彼らは身を守るためロンバルディアの軍を引き上げざるを得ないからだ。カストルッチョはヴァルダルノへ攻め込み、フチェッキオとサン・ミニアートを奪い、国土に甚大な損害を与えた。そこでフィレンツェ人は軍を呼び戻したが、その軍がようやくトスカーナに到達したころ、カストルッチョは別の事情に迫られ、ルッカへ戻らざるを得なくなった。
ルッカの町にはポッジョ家が住んでいた。その力は強大で、カストルッチョを持ち上げるのみならず、君主の位へ押し上げることさえできたほどである。だが彼らは、自分たちの功績に見合う褒賞を得ていないと考え、ほかの家々をそそのかして反乱を起こし、カストルッチョをルッカから追放しようとした。ある朝、好機を得ると彼らは武装して、治安維持のためカストルッチョが残しておいた副官に襲いかかり、殺害した。民衆を煽って蜂起させようとしたが、反乱に加わっていなかった穏健な老人ステファノ・ディ・ポッジョが割って入り、その権威で彼らに武器を捨てさせた。そしてカストルッチョとの仲介役となり、望みをかなえるよう取り計らうと申し出た。そこで彼らは、武器を取った時と同じくらい浅はかに、武器を捨てた。
ルッカで起こったことを聞いたカストルッチョは、ただちにパゴロ・グイニージに軍の指揮を委ね、自らは騎兵隊を率いて帰途についた。予想に反し反乱はすでに終息していたが、それでも彼は市内の要所に兵を配置した。ステファノは、カストルッチョは自分に大いに恩義があるはずだと見て、彼を訪ねた。そして自分のために弁明する必要はないと考えていたので一言もそれを述べず、家族の若さ、かつての友情、そしてカストルッチョが自分たちの家に負っている恩を理由に、ほかの一族を赦してくれるよう頼んだ。カストルッチョは穏やかに答え、安心するようにと告げた。そして、騒擾が起こったと聞いて不安を覚えたことよりも、今それが収まっているのを知ったことのほうがはるかに嬉しい、と言明した。さらにステファノに一族を連れて来るよう促し、寛大さと慈悲を示す機会を神が与えてくれたことに感謝するとまで言った。ステファノとカストルッチョの言葉を信じた彼らは投降したが、ステファノとともにただちに投獄され、処刑された。
そのころフィレンツェ人はサン・ミニアートを奪回していた。そこでカストルッチョは、ルッカで自分の足元が十分に安定しておらず、長く離れるのは危ういと見て、和平が得策だと判断した。彼は休戦を提案してフィレンツェ人に近づいた。彼らも戦に倦み、費用を減らしたがっていたので、すぐにこれを受け入れた。両者は二年の条約を結び、それぞれが得た征服地を保持することに合意した。
この厄介ごとから解放されると、カストルッチョはルッカの内政に目を向け、二度と先ほどのような危機に晒されぬよう、さまざまな口実と理由を設けて、まずは野心ゆえに公位を望み得る者たちを一人残らず消し去った。土地と財産を奪い、手の内にある者については命さえ奪った。彼は経験から、誰ひとり信頼できないと知ったのだ、と言い立てた。さらに安全のため、彼はルッカに要塞を築いたが、その石材には、殺した者や国外へ追い払った者の塔の石が用いられた。
フィレンツェと和し、ルッカでの地盤を固める一方、カストルッチョは露骨な戦争に踏み込まぬ範囲で、他所での威勢を増す機会を一つとして逃さなかった。ピストイアを手に入れられれば、フィレンツェへ片足を踏み入れたも同然――それこそが彼の大望である。そこで彼はさまざまな手を尽くして山地の人々と友誼を結び、ピストイアでは両派が彼に秘密を打ち明けるよう事を運んだ。ピストイアは昔から白党(ビアンキ)と黒党(ネーリ)に分裂していた。白党の頭領はバスティアーノ・ディ・ポッセンテ、黒党はヤーコポ・ダ・ジャである。両者はそれぞれカストルッチョと密かに通じ、相手を市外へ追い出したいと願っていた。脅し合いの果てに、ついに刃傷沙汰となった。ヤーコポはフィレンツェ門を、バスティアーノはルッカ側の門を固めた。両者ともフィレンツェ人よりカストルッチョを頼み、彼のほうがはるかに迅速で戦う気があると信じたため、そろって援軍を求めた。
カストルッチョは双方に約束を与え、バスティアーノには自分が直々に赴くと言い、ヤーコポには弟子のパゴロ・グイニージを遣わすと言った。約束の日、彼はパゴロをピサ経由で先行させ、自分はまっすぐピストイアへ向かった。真夜中、二人は城外で落ち合い、ともに友として入城を許された。こうして二人の首領が入ったところで、カストルッチョの合図と同時に、一方がヤーコポ・ダ・ジャを、もう一方がバスティアーノ・ディ・ポッセンテを殺し、両派の党徒も捕らえるか殺した。抵抗はもはやなく、ピストイアはカストルッチョの手に落ちた。彼はシニョーリアに宮殿から退去を命じ、民衆には服従を強いた。その代わりに多くの約束を与え、旧債を免除した。郊外の人々は新たな君主を見ようと市へ押し寄せ、皆が希望に満たされ、彼の大いなる勇気に強く影響されて、たちまち落ち着きを取り戻した。
このころローマでは、教皇がアヴィニョンに留守であったことから物価が高騰し、それが原因で大騒擾が起こった。ドイツ人総督エンリーコは、殺人と騒乱が日々続くのに収拾できず、激しく非難された。エンリーコは、ローマ人がナポリ王ルベルトを呼び込み、ドイツ人を市から追い払って教皇を呼び戻すのではないかと不安にかられた。頼れる友はカストルッチョしかいなかったので、援助だけでなく本人の来訪も乞う使者を送った。カストルッチョは、この奉仕を皇帝に捧げるのをためらうべきではないと考えた。というのも、皇帝がローマを失えば、いずれ自分も安全ではいられないと信じていたからである。彼はルッカの指揮をパゴロ・グイニージに任せ、六百騎を率いてローマへ向かい、エンリーコから最大級の栄誉で迎えられた。ほどなくカストルッチョの存在が皇帝への畏敬を呼び、流血も暴力もなく秩序が回復した。主因は、彼がピサ周辺から海路で大量の穀物を送り込み、騒動の火種を断ったことにあった。ローマの首領格の何人かを懲らし、ほかを戒めると、エンリーコへの自発的服従が戻った。カストルッチョは数々の栄誉を受け、ローマ元老院議員(ローマのセナトーレ)に任ぜられた。この職は最上の華麗さで引き受けられ、彼は錦織のトガをまとった。その前面には「我は神の欲するところのもの」と刺繍され、背には「神の望むことは成る」とあった。
その間フィレンツェ人は、休戦中にカストルッチョがピストイアを奪ったことに激怒し、彼の不在を利用して町を反乱に誘う策を練った。フィレンツェにいたピストイア亡命者の中に、バルド・チェッキとヤーコポ・バルディーニがいた。ともに指導的立場で危険を恐れぬ男である。彼らはピストイアの友人と連絡を取り合い、フィレンツェ人の援助で夜のうちに入城し、カストルッチョの役人と党徒を追い払い、ある者を殺し、町を自由へ戻した。この知らせはカストルッチョを激怒させ、彼はエンリーコに別れを告げると大急ぎでピストイアへ向かった。
フィレンツェ人は彼の帰還を聞き、彼が一刻も無駄にしないと知っていたので、ニエーヴォレ谷で軍をもって遮ろうと決めた。そうすればピストイアへの道を断てると踏んだからである。ゲルフ派の支持者を広く集めた大軍がピストイア領へ入り、他方カストルッチョは軍を率いてモンテカルロに到着した。フィレンツェ軍の位置を聞くと、彼はピストイア平野でもペーシャ平野でも会戦せず、可能なかぎりセッラヴァッレの峠で大胆に叩く決意をした。この策が成功すれば、勝利は確実だと考えた。フィレンツェ側は三万、こちらは一万二千と告げられていたが、それでもである。自分の才覚と兵の勇に絶対の信頼を置きながらも、数に呑まれる危険を恐れ、野での正面衝突は避けた。
セッラヴァッレはペーシャとピストイアの間、ニエーヴォレ谷を塞ぐ丘にある城で、峠そのものではなく、弓矢の射程ほど先に位置する。峠道は所々狭く険しく、概して緩やかに登るとはいえ、分水嶺の頂ではとりわけ狭く、横に二十人並べば押さえられるほどであった。城主はドイツ人マンフレートで、カストルッチョがピストイア領主となる以前から、この城はルッカ人とピストイア人の共有で、どちらも領有を主張せず、マンフレートが中立を守り誰にも義務を負わないかぎり、彼を追い払う者はいなかった。加えて城は堅固であったから、彼は常に地位を保ってこられた。カストルッチョが敵を襲うと定めたのはここである。少数の兵が地の利を得られ、敵の大群を見て怯む心配もないからだ。フィレンツェとの争いが生じた時、彼はこの城を握る利がいかに大きいかを見抜き、城内の住人と親密な友情を結んでいたのを利用して、攻撃前夜に自軍四百を入城させ、城代を殺す手はずを整えた。
準備を整えたカストルッチョは、フィレンツェ人が戦場をピストイアからニエーヴォレ谷へ移す意図を貫くよう、あえて軍をモンテカルロから動かさなかった。フィレンツェ軍は急ぎ進み、セッラヴァッレの麓に陣を敷き、翌朝丘を越えるつもりでいた。その間にカストルッチョは夜陰に乗じて城を奪取し、モンテカルロから軍を移動させ、真夜中に無音で進軍してセッラヴァッレの麓へ到達した。こうして朝、彼とフィレンツェ軍は同時に登攀を開始した。
カストルッチョは歩兵を大路から進ませ、騎兵四百を左の小道で城へ向かわせた。フィレンツェ側は、丘をカストルッチョが押さえているとも、城が奪われているとも夢にも思わず、軍の前に騎兵四百を先行させた。丘を登るフィレンツェ騎兵は、カストルッチョの歩兵を見た瞬間、完全に虚を突かれた。距離が近すぎて、面頬を下ろす暇もほとんどない。備えのない兵が備えある兵に襲われたのであり、猛烈な勢いで攻め立てられて、わずかな者が突破したものの、辛うじて持ちこたえるのが精一杯だった。
戦闘の騒音が麓のフィレンツェ陣に届くと、陣は混乱に呑まれた。騎兵と歩兵は入り乱れ、道は狭いため将たちは兵を前にも後ろにも動かせず、騒擾の中で誰も何をすべきか、何ができるのかすら分からなかった。まもなく敵歩兵と交戦していた騎兵は、地形の悪さのため有効な防戦もできぬまま散り散りにされ、または殺された。絶望的抵抗こそ示したが、退却は両側の山に阻まれ、前は敵、後ろは味方――逃げ場がなかった。
カストルッチョは、兵が敵を潰走させる決定打を欠いているのを見ると、千の歩兵に城の方を回らせ、先に派遣していた騎兵四百と合流して敵の側面を撃てと命じた。彼らがこの命令を猛烈な勢いで実行すると、フィレンツェ軍は支えきれず崩れ、たちまち総退却に移った。敵の勇よりも、不利な地形に敗れたのである。後方の者はピストイアへ向かい、平野へ散り、各人はただ己の助かる道を求めた。敗北は完璧で、血に染まった。多くの将が捕虜となり、その中にバンディーニ・デイ・ロッシ、フランチェスコ・ブルネッレスキ、ジョヴァンニ・デッラ・トーザというフィレンツェ貴族がいた。またルベルト王がゲルフ支援のため送り込んでいたトスカーナ人やナポリ人も多数捕らえられた。
この敗報を聞くやピストイア人はゲルフの友を追い払い、カストルッチョに降った。彼はプラートとアルノ川両岸の平野にある全ての城を占領するだけにとどまらず、軍をペレトラの平野へ進め、フィレンツェから二マイル(約3キロメートル)ほどの地点にまで迫った。彼はここに幾日も留まり、戦利品を分配し、宴と競技で勝利を祝った。馬競走、男女の徒競走も催した。さらにフィレンツェ敗北を記念するメダルを鋳造した。彼はフィレンツェ市民の一部を買収し、夜に城門を開けさせようとしたが、陰謀は発覚し、関与者は捕らえられて斬首された。その中にはトンマーゾ・ルパッチ、ランベルトゥッチョ・フレスコバルディがいた。
この敗北はフィレンツェ人を深く不安にし、自由を守り抜けぬと絶望した彼らは、ナポリ王ルベルトへ使節を送り、都市の支配権を差し出した。ルベルト王は、ゲルフ派の維持が自分にとっていかに重要かを知っていたので受諾した。彼は年貢として二十万フロリンを毎年受け取る約を結び、息子カルロを四千騎とともにフィレンツェへ送った。
ほどなくフィレンツェ人は、ある程度カストルッチョ軍の圧迫から解放された。ベネデット・ランフランキが彼に対して企てた陰謀を鎮圧するため、カストルッチョがフィレンツェ前面の陣地を離れてピサへ向かわねばならなくなったからである。ランフランキはピサの有力者の一人で、祖国がルッカ人の支配下に置かれることに耐えられなかった。彼は城塞を奪い、カストルッチョの党徒を殺し、守備隊を追い出すつもりで陰謀を結んでいた。だが陰謀は、秘匿のためには人数が少ないことが肝要である一方、実行には少人数では足りない。そこで加担者を増やそうとして、ランフランキは計画をカストルッチョに密告する者に行き当たった。この密告は、ピサで追放の憂き目を見ていたフィレンツェ亡命者ボニファーチョ・チェルキとジョヴァンニ・グイーディの二人に対する厳しい非難なしには語れない。カストルッチョはベネデットを捕らえて処刑し、ほかにも多くの貴族市民を斬首し、その家族を追放した。
こうしてカストルッチョには、ピサもピストイアもすっかり不穏に見えた。彼は両地での地歩を固めるのに多くの思慮と労力を費やし、その間にフィレンツェ人は軍を再編し、ナポリ王の子カルロの到着を待つ余裕を得た。カルロが到着すると、彼らはもはや時を移さず、歩兵三万超、騎兵一万の大軍を集めた。イタリアのゲルフをありったけ呼び集めたのである。まずピストイアとピサのどちらを攻めるべきか協議し、後者――ピサへ向かうほうがよいと決めた。直近の陰謀の件で成功しやすく、またピサを得ればピストイアの降伏も続くと信じたからである。
1328年5月上旬、フィレンツェ人は軍を動かし、ラストラ、シーニャ、モンテルーポ、エンポリを手早く占領し、そこからサン・ミニアートへ進んだ。フィレンツェが送り出した巨大な軍勢を聞いても、カストルッチョは少しも怯まなかった。今こそフォルトゥーナがトスカーナの覇権を自分の手に渡す時が来た、と信じたからである。敵がピサやセッラヴァッレの時以上に良く戦い、良い勝ち目を持てる理由などない、と彼には思えた。彼は歩兵二万と騎兵四千を集め、この軍でフチェッキオへ向かった。一方パゴロ・グイニージを歩兵五千とともにピサへ送った。フチェッキオはピサ地方のどの町よりも堅い地勢を持つ。アルノ川とグシャーナ川の間にあり、周囲の平野よりわずかに高いからである。敵は軍を分けぬかぎり補給を断てず、またルッカ方面からもピサ方面からも容易に近づけず、ピサへ抜けることも、カストルッチョ軍を攻撃することも、地の利を捨てねばならない。敵は一方では彼自身の軍とパゴロの軍の間に挟まれ、他方では敵に肉薄するためアルノ川を渡らねばならず、それは大いなる危険を伴う。フィレンツェに後者を選ばせる誘いとして、カストルッチョは兵を川岸から引き、フチェッキオの城壁下に置き、兵と川の間に広い空地を残した。
フィレンツェ人はサン・ミニアートを占領すると、ピサを攻めるか、カストルッチョ軍を攻めるかを軍議で決した。両案の困難を量った末、後者に決した。当時アルノ川は浅く徒歩で渡れたが、水は歩兵の肩まで、騎兵の鞍まで届いた。1328年6月10日の朝、フィレンツェは騎兵の一部と歩兵一万を先に進ませて戦いを始めた。カストルッチョは策を定め、何をなすべきか熟知していたので、ただちに歩兵五千と騎兵三千で攻めかかり、敵が川から上がりきる前に突撃した。さらに軽装歩兵千を上流の岸へ、同じく千を下流へ送った。
フィレンツェ歩兵は武具と水に阻まれて岸へ上がれず、騎兵が渡河したことで川底が荒れて泥深くなり、馬ごと倒れる者、泥に足を取られて動けぬ者が続出し、かえって状況を悪化させた。フィレンツェの将たちは困難を見て兵を退かせ、川上へ移動した。川底がより安全で、上陸に適した岸を求めたのである。ところがそこには、すでにカストルッチョが送っていた兵が待ち構えていた。彼らは小盾と投げ槍を手にした軽装兵で、凄まじい叫び声とともに騎兵の顔と体へ投槍を浴びせた。馬は叫びと負傷に驚き、前へ進まず、互いを踏み合って混乱した。
渡り切れた敵とカストルッチョの兵の戦いは激烈を極め、双方が死に物狂いで一歩も譲らなかった。カストルッチョの兵は敵を川へ押し戻そうとし、フィレンツェは陸地の足場を確保して後続が上がる余地を作ろうとした。川を出さえすれば戦えるのである。将たちは彼らを叱咤した。カストルッチョは「セッラヴァッレで打ち破った同じ敵だ」と叫び、フィレンツェは「多数が少数に負けるのか」と互いを罵り合った。
やがて戦闘が長引き、双方が疲弊し、死傷者が多いのを見ると、カストルッチョは新たな歩兵部隊を前線の後方に進めて据え、戦っていた兵に、退くふりをして隊列を開き、一部は右へ、一部は左へ動けと命じた。これで空間が生まれ、フィレンツェはたちまちそこに入り込み、戦場の一角を占めた。だが疲れ果てた兵が予備兵と肉薄すると、抗しきれず、たちまち川へ押し返された。
双方の騎兵はまだ決定的優勢を得ていなかった。カストルッチョは騎兵で劣ると知り、敵の突撃には守勢に徹せよと命じていた。歩兵を破れば騎兵は容易に片づくと見ていたのである。事態は彼の望んだ通りに転んだ。敵歩兵が川向こうへ押し戻されるのを見るや、彼は残りの歩兵に敵騎兵への攻撃を命じた。歩兵は槍と投げ槍でこれに当たり、自軍騎兵も合流して猛然と襲いかかり、たちまち敵を潰走させた。
フィレンツェの将たちは、騎兵が渡河で苦しむのを見て、歩兵をより下流から渡らせ、カストルッチョ軍の側面を突こうとした。だがそこも岸は険しく、すでにカストルッチョの兵が並び立っており、この動きも無益に終わった。こうしてフィレンツェは全方位で完敗し、逃げ延びたのは三分の一にも満たなかった。カストルッチョの栄光は再び天を衝いた。
多くの将が捕虜となり、ルベルト王の子カルロと、フィレンツェのコミッサリ(派遣監督官)であるミケランジョロ・ファルコーニ、タッデーオ・デッリ・アルビッツィはエンポリへ逃げた。戦利品も大きかったが、殺戮はそれ以上であった。フィレンツェ側の戦死者は二万二百三十一。カストルッチョ側の損失は千五百七十である。
しかしフォルトゥーナはカストルッチョの栄光を妬み、守るべき時にこそ彼の命を奪い、長年にわたり実現へ向けて練り上げてきた計画を、死という一点のみが止め得たその推進のただ中で、粉砕してしまった。
カストルッチョは一日中、戦闘の渦中にいた。終戦ののち、疲れ汗だくでありながら、フチェッキオの門に立って勝利から戻る兵を迎え、一人ひとりに礼を述べた。敵が戦局を取り返そうとする動きがないかも警戒した。良将とは、鞍に最初にまたがり、最後に降りる者だ――彼はそう考えていたのだ。彼はアルノ川の岸辺で正午ごろ吹く風に身をさらしていた。この風はしばしば不健康である。彼はそこで寒気を受けたが、いつものこととして意に介さなかった。だがそれが死因となった。
翌夜、彼は高熱に襲われ、急速に悪化し、医師たちは助からぬと見た。そこでカストルッチョはパゴロ・グイニージを呼び寄せ、こう語った。
「もしフォルトゥーナが、あらゆる成功が約束していたあの栄光へ向かう途上で私を断つと、あらかじめ信じ得たなら、私はここまで労しはしなかったろう。ルッカとピサの統治だけで満足し、せめて敵と危難の少ない国をお前に残したはずだ。ピストイア人を屈服させることもなく、フィレンツェ人に数々の害を加えて憎悪を招くこともなかった。むしろ両者を友とし、命が長くなくとも、もっと安らかに生きられたろう。そしてお前には、確かに小さいが、より堅固で確実な基礎の上に立つ国を遺せたはずだ。
だが人の事の裁定を握りたがるフォルトゥーナは、初めからそれを見抜くだけの分別を私に与えず、また乗り越えるだけの時を与えなかった。お前も聞いているだろう。多くの者がお前に語ったし、私も隠したことはない。私がまだ少年のころ、お前の父の家に入ったことを――あらゆる高き魂が抱くべき野心など何も知らぬ異邦人として――そして父に育てられ、まるで血を分けた子のように愛されたことを。父の統治の下で、私は勇を学び、運を活かす術を学んだ。その運をお前は見てきたはずだ。
善き父が亡くなるとき、父はお前と全財産を私に託した。私はその義務にふさわしい愛でお前を育て、その注意深さでお前の家産を増やした。さらに、お前が父の遺産だけでなく、私の運と力量で得たものも持てるよう、私は一度も結婚しなかった。子への愛が、お前の父の子らに負う恩義から私の心を逸らさぬためである。こうして私はお前に巨大な領分を残す。私はそれに満足している。だが、秩序が定まらず危うい形でお前に遺すことが、胸に重い。
お前の手にはルッカがある。だがあの町は、お前の統治に永遠に満足することはない。ピサもあるが、あそこは気まぐれで頼りない性質で、ときに従わせられても、ルッカ人の下で仕えることをつねに侮るだろう。ピストイアも忠実ではない。党派抗争に蝕まれ、近頃加えた害によって、お前の家に激しく憤っている。隣にはフィレンツェ人がいる。千の傷を我らから受けながら滅びてはいない連中で、私の死を聞けば、トスカーナ全土を得るよりも歓ぶだろう。
皇帝もミラノの君主たちも頼みにはならぬ。遠く、動きは遅く、援軍は来るとしても遅すぎる。ゆえに望みは、お前自身の力と、私の勇の記憶と、今回の勝利がもたらした威信だけである。それを賢明に用いる術をお前が知るなら、フィレンツェと折り合う助けとなろう。あれほどの敗北を受けた今、彼らも耳を傾けるはずだ。
私は、戦が私の力と栄光に資すると信じて、彼らを敵にする道を選んだ。だがお前には、彼らを友とする理由が尽きぬ。彼らとの同盟は利益と安全をもたらすからだ。世で最も重要なのは、人が自分自身と己の力・資源の分量を知ることである。戦の天分がないと知る者は、平和の術で統べることを学ばねばならぬ。私の助言をお前の規範とし、このようにして、私が生涯の働きと危難で獲得したものを享受するがよい。私の言葉が真であると信じることを学べば、それは容易に成る。そしてお前は二重に私に恩を負うことになる。私がこの領国を遺し、それを保つ術まで教えたのだから。」
その後、彼とともに戦っていたピサ、ピストイア、ルッカの市民がカストルッチョのもとへ来た。彼は彼らにパゴロを推挙し、後継として服従を誓わせたのち、息を引き取った。彼を知る者にとって、その記憶は幸福であり、当時のいかなる君主も、彼ほど深い献身で愛された者はいなかった。葬儀はあらゆる悲嘆のしるしとともに営まれ、ルッカのサン・フランチェスコに葬られた。
フォルトゥーナはカストルッチョほどにはパゴロ・グイニージに微笑まなかった。彼にはあの才がなかったからである。カストルッチョの死後まもなく、パゴロはピサを失い、ついでピストイアも失い、ようやくのことでルッカだけを保った。この町はパゴロの曾孫の時代までグイニージ家に留まった。
以上から分かる通り、カストルッチョは並外れた才の持ち主であり、同時代人に比してだけでなく、より古い時代の人々に照らしてもそうであった。背丈は平均を超え、体つきは見事に均整が取れていた。容姿は朗らかで、迎え方があまりに洗練されていたので、話した者はめったに不満を抱いて去らなかった。髪は赤みを帯び、耳の上で短く刈っていた。雨でも雪でも帽子をかぶらなかった。友の間では愉快で、敵には恐ろしく、臣下には公正。不義に対しては偽りで応じ、屈服させたい相手には欺きで勝つことを厭わなかった。勝利が栄光を連れてくるのであって、勝ち方が連れてくるのではない、というのが口癖だったからだ。危険に立ち向かう大胆さでは並ぶ者なく、身を引くときの慎重さでも比類がなかった。
彼は、人は何でも試み、何も恐れるな、と言った。神は強い男を愛する。弱者が強者に懲らしめられるのは、いつも目にすることだからだ。答えは鋭く辛辣でありながら礼を失わず、また自分が他人に容赦を求めぬのと同じく、他人が自分に容赦しなくとも腹を立てなかった。次のような場面でも、他人の辛辣さを静かに聞き流したことがある。
彼が雉に一枚のドゥカート金貨を払わせたとき、友人がそれを咎め、「あなたなら一ペニー以上は出さなかったでしょう」と言った。「そのとおり」と友が答えると、カストルッチョは言った。「私にとっては、ドゥカートのほうがずっと小さい。」
媚びへつらう者を侮って唾を吐きかけたところ、その男は言った。「漁師は小魚を取るために海水に濡れるのを厭わぬ。私は鯨を釣るために唾で濡れるのを厭わない。」カストルッチョはこれを忍耐強く聞いただけでなく、褒美さえ与えた。
司祭に、贅沢な暮らしは邪悪だと諫められると、彼は言った。「それが悪徳なら、あなたがたは聖人の祝宴で、なぜそんなに見事に食べるのだ。」
通りで、遊郭から出てきた若者が見られて頬を赤らめるのを見て言った。「恥じるのは出てきたときではない。入るときだ。」
友人が奇妙に結んだ結び目をほどけと言って渡すと、彼は言った。「愚か者め。結ぶのに苦労したものを、私がほどきたいと思うか。」
哲学者を名乗る者に彼が言った。「お前は、いちばん餌をくれる者を追う犬に似ている。」相手が答えた。「我らはむしろ、最も必要とする者の家へ行く医者に似ている。」
ピサからリヴォルノへ船で向かう途中、危険な嵐に襲われ、彼が動揺しているのを見て「あなたは何も恐れぬと言ったのに」と咎められると、彼は答えた。「それも不思議ではない。人は誰でも自分の魂を、その値打ちどおりに評価する。」
名望を得るにはどうすべきかと問われて、彼は言った。「宴に行くときは、木片の上に木片を載せて座るな。」[直訳すると「腰掛けの板の上にさらに板を置くな」。つまり、粗末な席でわざわざ場所を替えたり、無作法に場所を取り繕ったりするな、の意]
多読を自慢する者に言った。「彼は多くを覚えていることを自慢するほど愚かではない。」
大酒を飲んでも酔わないと豪語する者に言った。「牛も同じだ。」
親密な関係のある娘のことで、女に騙されるのは威厳を損なうと友に責められると、彼は言った。「騙されたのは私ではない。私が彼女を手に入れたのだ。」
美食を咎められると答えた。「お前は私ほど金を使わないのか。」そうだと言われると、「ならばお前は、私が大食である以上に、吝嗇だ。」
ルッカの富豪で華美な市民タッデーオ・ベルナルディに晩餐へ招かれ、絹の掛け物を張り、色鮮やかな花葉を象った美しい石で床を敷いた部屋に案内されると、カストルッチョは唾を口に溜め、タッデーオに吐きかけた。タッデーオがひどく狼狽するのを見ると、彼は言った。「どこに吐けば、君をより傷つけずに済むのか分からなかった。」
カエサルはどう死んだかと問われて言った。「神が望むなら、私もあのように死のう。」
ある夜、貴人の家で多くの婦人が集まる中、身分に似合わず踊って楽しみすぎだと友に諫められると、彼は言った。「昼に賢者と思われる者は、夜に愚者と思われはしない。」
頼み事に来た者が、彼が聞いていないと思い膝をつくと、カストルッチョは厳しく咎めた。すると男は言った。「こうせざるを得ないのはあなただ。耳を足に持っているのだから。」その男は求めた倍の恩恵を得た。
地獄への道は下りで目隠しのまま進めるのだから易しい、と彼は言った。
無駄口の多い者が頼み事をすると言った。「次に頼みがあるなら、別の人間に言わせて来い。」
同様に長広舌で、最後に「長く話してお疲れでしょう」と締めた者に言った。「疲れていない。お前の言ったことなど一言も聞いていないからだ。」
美少年から美丈夫になった男について「危険だ」と言った。昔は妻から夫を奪い、今は夫から妻を奪うからだ、と。
不幸な者を見て笑う嫉妬深い男に言った。「成功しているから笑うのか。それとも他人が不幸だからか。」
まだメッセル・フランチェスコ・グイニージの庇護下にあったころ、仲間に「鼻を殴らせてくれるなら何をやろう」と言われ、彼は答えた。「兜だ。」
権力につけるのに手を貸したルッカ市民を処刑し、古い友を殺すのは誤りだと言われると、彼は答えた。人々は勘違いしている、殺したのは古い友ではなく、新しい敵だ、と。
妻を娶るつもりだと言いながら結局しない男たちを彼は大いに褒めた。海へ行くと言いながら、時が来ると拒む男に似ているからだ、と。
土器やガラスの壺を買うときは叩いて良否を確かめるのに、妻を選ぶときには眺めるだけで済ませるのが不思議だ、と彼は言った。
死んだらどんなふうに埋葬されたいかと問われて答えた。「顔を下に向けてだ。私が去れば、この国は上下逆さまになると知っているから。」
魂を救うため修道士になろうと思ったことはないかと問われて答えた。「ない。フラ・ラゼローネが天国へ行き、ウグッチョーネ・デッラ・ファッジョーラが地獄へ行くというのは、私には妙に思える。」
健康のためにはいつ食べるべきかと問われて答えた。「金持ちなら腹が減ったときに食え。貧乏なら食えるときに食え。」
家の者に紐で着衣を締めてもらっている家臣を見て言った。「神に祈る。お前が彼に食べさせてもらう日が来ないように。」
誰かが家の壁にラテン語で「神よ、この家を悪しき者から守り給え」と書いたのを見て言った。「家主は決して中へ入れまい。」
大きな扉のついた小さな家を見て言った。「あの家は扉から飛んでいくぞ。」
ナポリ王の使節と追放貴族の財産について論争し、使節が「王を恐れぬのか」と問うと、彼は言った。「お前の王は悪い男か、良い男か。」良い男だと言われると、「なぜ良い男を恐れねばならぬと言うのだ」と返した。
彼の機知と重みのある言葉の逸話はまだ数多く語れるが、上に挙げたもので、その高い資質の証言としては十分であろう。彼は四十四年を生き、あらゆる意味で君主であった。そして彼は幸運の証しに囲まれていただけでなく、不運の記念も身近に置きたがった。ゆえに、獄中で繋がれていた足枷が、今日に至るまで、彼の住居の塔に掲げられている。逆境の日々を永遠に証言させるため、彼自身がそうしたのである。
生涯において彼は、アレクサンドロスの父マケドニアのフィリッポスにも、ローマのスキピオにも劣らなかった。そして彼は、彼らと同じ年齢で同じ年に死んだ。もしフォルトゥーナが、彼をルッカではなく、マケドニアかローマに生まれさせるよう定めていたなら、彼は疑いなく二人をも凌いだであろう。