W・K・マリオットによる英訳版

*ニッコロ・マキャヴェッリ。1469年5月3日、フィレンツェに生まれる。1494年から1512年にかけてフィレンツェ共和国の公職に就き、欧州各国の宮廷へ外交使節として派遣された。1512年にフィレンツェで投獄され、後に追放。サン・カシャーノへ退いた。1527年6月22日、フィレンツェにて没する。*

序説

ニッコロ・マキャヴェッリは、一四六九年五月三日、フィレンツェに生を受けた。父は高名な弁護士ベルナルド・ディ・ニッコロ・マキャヴェッリ、母はその妻バルトロメア・ディ・ステファノ・ネッリであり、ニッコロはその次男であった。両親ともに、フィレンツェの古い貴族の血筋を引いている。

マキャヴェッリの生涯は、大きく三つの時期に分けられる。興味深いことに、その各時期がフィレンツェ史における明確かつ重要な転換点と重なっている。第一の時期は、彼の青年期だ。「豪華王」ロレンツォ・デ・メディチの指導下で、フィレンツェがイタリアの一大勢力として黄金時代を謳歌していた頃である。第二の時期は一四九四年に始まる。この年、メディチ家がフィレンツェから追放され、マキャヴェッリは公職に就いた。彼が政権の中枢で活躍したこの時代、フィレンツェは共和制を敷いていたが、一五一二年にメディチ家が復権すると同時に、マキャヴェッリはその職を追われた。そして第三の時期、一五一二年から一五二七年まで、再びメディチ家がフィレンツェを支配した。この期間こそ、マキャヴェッリが執筆活動に没頭し、その影響力を高めた時代である。しかし、彼は再びメディチ家が追放された直後の一五二七年六月二十二日、公職への復帰を果たせぬまま、五十八歳でこの世を去った。

青年時代 ―― 1歳から25歳(1469年~1494年)

マキャヴェッリの青年時代について残された記録は少ない。しかし、当時のフィレンツェはあまりにも有名であり、この都市を代表する市民の一人であった彼が、どのような環境で育ったかは容易に想像がつく。当時のフィレンツェには、正反対の二つの潮流が流れていた。一つは熱狂的で厳格なサヴォナローラによる宗教的潮流、もう一つは華やかさを愛するロレンツォによる文化的潮流である。若きマキャヴェッリに対するサヴォナローラの影響は、極めて限定的だったに違いない。サヴォナローラは一時期、フィレンツェの運命を左右するほどの強大な権力を振るったが、マキャヴェッリにとって彼は、『君主論』の中で「無残な末路を辿った武器なき預言者」として揶揄の対象にされる存在でしかなかった。対照的に、ロレンツォ時代のメディチ家による統治の華々しさは、マキャヴェッリの心に強烈な印象を刻んだようだ。彼の著作にはその面影が頻繁に現れ、『君主論』もまた、ロレンツォの孫に献上されている。

マキャヴェッリは著書『フィレンツェ史』の中で、自らの青春を共にした若者たちの姿をこう描いている。「彼らは先祖よりも服装や生活において奔放であり、放蕩の限りを尽くして時間と金を無駄遣いし、怠惰、博打、女に溺れていた。彼らの最大の関心は、いかに着飾り、いかに機知に富んだ鋭い口を利くかであり、他人を最も巧みに傷つける者こそが、最も賢いと見なされていた。」

息子グイドに宛てた手紙の中で、マキャヴェッリは「青年は学ぶ機会を逃してはならない」と説いている。これは、彼自身の青年時代がいかに勉学に捧げられていたかを物語るものだろう。「お前の手紙を受け取った。何よりもお前の体がすっかり良くなったと聞き、これ以上の喜びはない。神がお前と私に命を授けてくださるならば、お前が自らの役割を果たす覚悟がある限り、私はお前を立派な男に育て上げたいと願っている。」

さらに、新しいパトロンについて触れ、こう続けている。「これはお前にとって好機となるだろう。だが、そのためには勉強が必要だ。もはや病気という言い訳は通用しないのだから、文学と音楽に励みなさい。私のわずかな才能が、いかに私に名誉をもたらしているか、お前も分かっているはずだ。わが息子よ、もし私を喜ばせ、お前自身に成功と名誉をもたらしたいと願うなら、正しく生き、学びなさい。自ら助くる者を、他人は助けてくれるものなのだ。」

公職時代 ―― 25歳から43歳(1494年~1512年)

マキャヴェッリの生涯における第二の時期は、自由なフィレンツェ共和国に捧げられた。前述の通り、この共和国は一四九四年のメディチ家追放から一五一二年の帰還まで続いた。四年間、官庁で実務を経験した後、彼は第二書記局の長官兼「自由と平和の十人委員会」の秘書官に任命された。ここからのマキャヴェッリの足跡は、確かな史料によって辿ることができる。彼は共和国の重要事項で主導的な役割を果たしており、当時の布告、記録、外交文書、そして彼自身の著作が、その活動を雄弁に物語っている。彼が当時の政治家や軍人と繰り広げた交渉の数々を振り返るだけでも、その八面六臂の活躍ぶりがうかがえる。これこそが、後に『君主論』を彩る経験と人間観察の源泉となったのである。

最初の大仕事は一四九九年、カテリーナ・スフォルツァのもとへの派遣だった。彼女は『君主論』において「フォルリの女主人」として登場する。マキャヴェッリは彼女の振る舞いと運命から、「城塞を頼りにするよりも、民衆の信頼を得る方がはるかに重要である」という教訓を導き出した。これは彼の思想における極めて重要な原則であり、君主にとっての死活問題として繰り返し説かれることになる。

一五〇〇年、マキャヴェッリはフランス王ルイ十二世のもとへ送られた。ピサとの戦争を継続するため、支援の条件を引き出すのが目的だった。このフランス王こそ、イタリア政策において「統治の五つの致命的な過ち」を犯した人物として『君主論』に記されている。またルイ十二世は、教皇アレクサンデル六世の支持を得るために、自らの離婚を条件として提示した。この一件により、マキャヴェッリは「君主の信義」について論じる際、約束を忠実に守るべきだと主張する人々に対し、厳しい現実を突きつけることになる。

マキャヴェッリの公職生活の大部分は、教皇アレクサンデル六世とその息子、ヴァレンティーノ公ことチェーザレ・ボルジアの野望に翻弄される事件の連続だった。彼らは『君主論』の中で大きな比重を占めている。マキャヴェッリは、奪い取った国家を維持しようとする簒奪者たちにとって、チェーザレ・ボルジアの行動こそが最良の手本であると断言して憚らない。一部の批評家がチェーザレを『君主論』の「英雄」と呼ぶほどだ。しかし実際には、チェーザレは「他人の運命によってのし上がり、他人の運命と共に没落した男」の典型として描かれている。彼は思慮深い人間が成し遂げるべきあらゆる手を尽くしながら、自分を救う唯一の道だけを選び損ねた。あらゆる事態を想定していながら、唯一現実に起きた事態にだけ備えていなかった。そして、自らの才覚が通じなくなったとき、彼は「自分のせいではない、抗いがたい理不尽な運命のせいだ」と叫んだのである。

一五〇三年、ピウス三世が没すると、マキャヴェッリは次期教皇選挙を見届けるためにローマへ赴いた。そこで彼は、チェーザレ・ボルジアが欺かれ、宿敵であるジュリアーノ・デッレ・ローヴェレ(ユリウス二世)を枢機卿会議で選出させてしまう失態を目撃する。マキャヴェッリはこの選挙について、「新たな恩恵を与えれば、大人物が過去の屈辱を忘れてくれると思い込む者は、自らを欺いている」と評した。案の定、ユリウス二世はチェーザレを破滅させるまで攻撃を止めなかった。

一五〇六年、マキャヴェッリは再びユリウス二世のもとへ派遣された。このとき教皇はボローニャ攻略に乗り出しており、その激しい気性ゆえに、他の多くの冒険と同様、これを成功に導いた。この教皇に関連して、マキャヴェッリは「運命は女性に似ている」という教訓を述べ、「運命を手なずけ、支配するのは、慎重な者よりも大胆な者である」と結論づけている。

一五〇七年当時、イタリア諸国家の運命はフランス、スペイン、ドイツの三強国に握られていた。その複雑な興亡をここで詳述することは叶わないが、マキャヴェッリという人物の形成に影響を与えた主要な出来事に絞って見ていこう。彼はフランス王ルイ十二世と数回面会しており、その人物評については既に触れた通りである。また、スペイン王フェルナンドについては、「宗教の仮面を被って偉業を成し遂げたが、その実、慈悲も信義も人間性も誠実さも持ち合わせていない男」として描いている。もしフェルナンドがそれらの道徳に縛られていれば、即座に破滅していただろうというわけだ。皇帝マクシミリアンもまた、時代を象徴する興味深い人物だった。一五〇七年から八年にかけて彼の宮廷に滞在したマキャヴェッリは、皇帝が度重なる失敗を演じる理由を「秘密主義で、意志の力が欠如しているからだ」と見抜いた。計画を実行に移すための人材を軽視し、自らの意志を押し通す強さがなかったのである。

マキャヴェッリの公職時代の末期は、カンブレー同盟を巡る騒乱に明け暮れた。一五〇八年、前述の三強国と教皇がヴェネツィア共和国を粉砕するために結んだ同盟である。その結果、ヴァイラの戦い(アニャデッロの戦い)において、ヴェネツィアは八百年かけて築き上げた領土をたった一日で失った。この間、フィレンツェは極めて難しい舵取りを迫られた。教皇とフランスの間に不和が生じたからである。フィレンツェ共和国の外交政策は一貫してフランスとの親交に基づいていたが、一五一一年、ユリウス二世がフランスに対抗して「神聖同盟」を結成し、スイス兵の助けを借りてフランスをイタリアから追い出すと、フィレンツェは教皇の慈悲にすがるしかなくなった。教皇が突きつけた条件の一つが、メディチ家の復権であった。一五一二年九月一日、メディチ家がフィレンツェに帰還し、共和国は崩壊した。これはマキャヴェッリとその仲間たちにとって、解雇の合図であった。こうして彼の公職キャリアは幕を閉じ、二度とその座に戻ることはなかった。

執筆活動と死 ―― 43歳から58歳(1512年~1527年)

メディチ家の帰還後、数週間は職に留まれると淡い期待を抱いていたマキャヴェッリだったが、一五一二年十一月七日の布告により正式に罷免された。その直後、彼はメディチ家に対する陰謀に加担した疑いをかけられ、投獄されて拷問を受けた。しかし、メディチ家出身の新教皇レオ十世の即位に伴う恩赦で釈放されると、フィレンツェ近郊のサン・カシャーノにあるささやかな領地に退き、執筆活動に身を投じた。一五一三年十二月十三日付のフランチェスコ・ヴェットーリに宛てた手紙には、この時期の生活ぶりが生き生きと記されており、『君主論』を執筆した動機と手法が浮かび上がる。家族や隣人と過ごす日常を綴った後、彼はこう書いている。

「夜になれば、私は帰宅して書斎に入る。入り口で、泥と埃にまみれた日常の作業着を脱ぎ捨て、高貴な宮廷服に着替える。こうして身なりを整えてから、古代の賢人たちの宮廷へと足を踏み入れるのだ。彼らは私を温かく迎え入れ、私だけの糧、私がそのために生まれてきた糧で私を養ってくれる。私は彼らと語らうことを躊躇せず、彼らの行動の理由を問い、彼らもまた慈愛をもって答えてくれる。その四時間の間、私は一切の退屈を忘れ、あらゆる苦悩を払い、貧しさに怯えず、死に恐怖することもない。私は完全に彼らの世界に没頭しているのだ。ダンテが言うように、

『学んだことも、記憶に留めねば知識とはならぬ。』

ゆえに、私は彼らとの対話から得た知見を書き留め、『君主国について』という小論をまとめた。そこで私は、できる限り深くこの主題を掘り下げ、君主国とは何か、いかなる種類があるか、いかにして獲得され、維持されるのか、そしてなぜ失われるのかを論じている。もし私の空想がかつてお前の気に召したことがあるなら、この作品も嫌いではないはずだ。君主、とりわけ新しき君主にとっては歓迎すべきものとなろう。それゆえ、私はこれをジュリアーノ壮麗公に捧げるつもりだ。フィリッポ・カサヴェッキオが既にこれに目を通しており、内容や彼と交わした議論についてお前に話せるだろう。とはいえ、私は今もなお、この書に加筆し、磨きをかけているところだ。

この「小さな本」は、現在の形になるまでに多くの曲折を経た。執筆中にも様々な影響を受け、題名も献上先も変更された。最終的に、なぜかロレンツォ・デ・メディチ(二世)に捧げられることになったが、彼が実際にこの本を読んだという証拠はない。ロレンツォがマキャヴェッリを登用することもついになかった。生前に盗作されることはあったものの、マキャヴェッリ自身が『君主論』を出版することはなく、その草稿の正確なテキストはいまだ議論の的となっている。

ヴェットーリへの手紙を、彼はこう締めくくっている。「このささやかな著作を読めば、私が政治の探求に捧げた十五年間、眠っていたわけでも遊んでいたわけでもないことが分かるだろう。他人の犠牲の上に経験を積んだ男に仕えたいと、誰もが願うはずだ。私の忠誠を疑う者はいない。常に信義を守ってきた私が、今さら裏切り方を学べるはずもない。私のように誠実で正直に生きてきた人間は、その本性を変えることなどできないのだ。そして、私のこの貧しさこそが、私の誠実さの何よりの証である。」

『君主論』の目処が立つと、彼はすぐさま『ティトゥス・リウィウス論』の執筆に取り掛かった。この二作は併読されるべきものである。一五一八年頃まで、彼はこれらを含む数々の著作に没頭していたが、この年、ジェノヴァでのフィレンツェ商人の紛争解決という小さな任務を引き受けた。一五一九年、フィレンツェのメディチ家統治が市民に歩み寄りを見せると、マキャヴェッリも大評議会の復活を含む新憲法の策定について諮問を受けた。しかし、様々な口実により、その改革が日の目を見ることはなかった。

一五二〇年、再び商人の依頼でルッカとの交渉にあたったが、この年で特筆すべきは、彼がフィレンツェの文壇に復帰し、多くの人々から交流を求められたこと、そして『戦術論』を完成させたことである。

同年、枢機卿デ・メディチ(後のクレメンス七世)の推挙により、『フィレンツェ史』の編纂を依頼された。この仕事は一五二五年に完了する。彼が再び世間に受け入れられたことで、メディチ家も彼に仕事を与える気になったのだろう。ある古い書き手はこう述べている。「職を失った有能な政治家は、巨大なクジラのようなものだ。遊ばせておく空の樽を与えない限り、船をひっくり返そうとするだろう。」

『フィレンツェ史』を書き終えると、マキャヴェッリはそれを携えてローマへ向かい、パトロンであるクレメンス七世に献上した。一五一三年にメディチ家が権力を奪還した直後、彼らの教育のために『君主論』を書いた彼が、一五二五年、メディチ家の没落が目前に迫った時期に、その一族の長に『フィレンツェ史』を捧げたというのは、皮肉な巡り合わせである。その年、パヴィアの戦いでフランスのイタリア支配は崩壊し、フランソワ一世は宿敵チャールズ五世の捕虜となった。続いて「ローマ略奪」が起こると、フィレンツェの民衆派はメディチ家の軛を脱し、再び彼らを追放した。

このときマキャヴェッリはフィレンツェを離れていたが、かつての「自由と平和の十人委員会」秘書官の職を取り戻そうと急ぎ帰還した。しかし、願いは叶わず、帰国直後に病に倒れ、一五二七年六月二十二日に帰らぬ人となった。

人物とその著作

マキャヴェッリの遺骨がどこに眠っているかを知る者はいない。しかし、現代のフィレンツェは、サンタ・クローチェ教会に、名だたる偉人たちと並んで彼の立派な記念碑を建てた。他国の人々が彼の著作に何を見出したにせよ、イタリアはそこに「国家統一」の理想と、欧州諸国の中での「ルネサンス(再興)」の萌芽を見出したのである。彼の名が悪徳の代名詞として世界中に広まったことに抗議しても始まらないが、その不名誉な評判が強いる教義の歪んだ解釈は、彼が生きた時代には存在しなかったものだ。近年の研究により、ようやく私たちは彼をより正当に理解できるようになった。長く人々の目を曇らせていた「邪悪な魔術師」という幻影は、消え去りつつある。

マキャヴェッリが、類まれな観察眼と鋭敏な知性、そして並外れた勤勉さを備えた人物であったことは疑いようがない。彼は目の前を通り過ぎるあらゆる事象を鋭く捉え、公職から退かされた不遇の時代に、その至高の文才を駆使してそれらを結晶させた。彼は、成功した政治家と高名な著述家という二つの顔を完璧に併せ持っていたわけではない。外交使節としての成果は平凡であり、カテリーナ・スフォルツァには出し抜かれ、ルイ十二世には軽んじられ、チェーザレ・ボルジアには圧倒された。成果のない任務も多く、フィレンツェの防衛計画は失敗し、彼が組織した軍隊はその臆病さで世間を驚かせた。私生活においては臆病で、恩人であるソデリーニを巻き添えにするのを恐れて彼の側を離れるなど、保身に走る面もあった。メディチ家との関係も疑いの目で見られ、ジュリアーノが彼に実務ではなく『フィレンツェ史』を書かせたのは、彼の真の才能がどこにあるかを見抜いていたからだろう。マキャヴェッリの弱さや失敗が見当たらないのは、唯一、その文学的側面においてのみである。

四世紀近くにわたり、『君主論』には光が当てられ続けてきた。そこに提示された問題はいまだに議論を呼び、人々の関心を惹きつけて離さない。なぜなら、それは「支配する者」と「支配される者」の間に横たわる永遠の課題だからである。その倫理観は当時の時代背景に根ざしたものだが、欧州の政府がいまだに道徳的力よりも物理的力に依存している限り、それが時代遅れだとは言えない。マキャヴェッリが自らの統治理論を説明するために用いた歴史上の事件や人物は、彼の鋭い洞察によって今なお鮮烈な輝きを放っている。

現代の政治家たちにいまだ行動指針を与えている政治的格言はさておき、『君主論』には至る所に真理が散りばめられている。人間はアレクサンデル六世の時代と変わらず、自らの単純さと強欲ゆえに騙され続けている。フェルナンド・スペイン王の正体を暴いたマキャヴェッリの指摘通り、今なお宗教の仮面は数々の不道徳を覆い隠している。人間は物事をありのままに見ようとせず、自分の望むように見ようとして破滅する。政治に「完全に安全な道」など存在せず、思慮深さとは「最も危険の少ない道」を選ぶことに他ならない。そして、より高次元の視点からマキャヴェッリは繰り返す。犯罪によって帝国を勝ち取ることはできても、栄光を勝ち取ることはできない、と。避けられない戦争は正義であり、戦う以外に手段がないとき、その武器は神聖なものとなる。

「政府は、社会の基本原則を人々に正しく認識させるような、生きた道徳的力へと高められるべきである」という叫びは、マキャヴェッリよりもはるか後の時代のものだ。彼の『君主論』がその「崇高な議論」に寄与するところは少ない。マキャヴェッリは、人間や政府を、彼があるがままに見た通りにしか書かなかった。しかし、その卓越した筆致と洞察ゆえに、彼の著作は不朽の価値を持つ。単なる芸術的・歴史的好奇心を超えて『君主論』が読み継がれるのは、それが今なお国家や支配者が相互にあるいは隣国と結ぶ関係を支配している、抗いがたい大原則を扱っているからに他ならない。

『君主論』の翻訳にあたり、私は現代風の流麗な言い換えよりも、原文の忠実かつ厳格な再現を最優先した。マキャヴェッリは軽薄な言葉遊びをするような男ではない。執筆環境は彼に一語一語の重みを吟味することを強いた。主題は崇高であり、内容は重厚、その語り口は高潔なまでに簡潔で真摯である。Quis eo fuit unquam in partiundis rebus, in definiendis, in explanandis pressior?(物事を分類し、定義し、説明するにあたって、彼ほど簡潔な者がいただろうか)。『君主論』において、すべての言葉、さらにはその配置にさえ、明確な理由があると言っても過言ではない。シェイクスピア時代の英国人にとって、この論文の翻訳は比較的容易だった。当時の英語の精神はイタリア語のそれに近かったからだ。しかし、現代の英国人にとってはそう簡単ではない。例えば、ローマ元老院がギリシャの弱小諸国に対して採った政策を指す「intrattenere」という言葉がある。エリザベス朝の人間なら「entertain」と訳し、当時の読者は「ローマはアイートーリア人やアカイア人をもてなし(entertain)、その勢力を増大させることなく繋ぎ止めた」という意味を即座に理解しただろう。しかし今日、この表現は古臭く、曖昧で、無意味にさえ聞こえる。私たちは「ローマはアイートーリア人と友好関係を維持した」と言い換える必要があり、一語の仕事を四語で行わなければならない。私はイタリア語特有の簡潔さを、意味の正確さを損なわない範囲で守り抜こうと努めた。その結果、表現が時に無骨になったとしても、読者が著者の真意を掴み取ろうとする熱意のあまり、そこに至る道の険しさを見逃してくれることを願うばかりである。

以下はマキャヴェッリの著作目録である。

【主要著作】『ピサ情勢に関する論考』(1499)、『叛逆したヴァル・ディ・キアーナの民衆の処置について』(1502)、『公爵ヴァレンティーノによるヴィテロッツォ・ヴィテッリ、オリヴェロット・ダ・フェルモらの殺害の経緯』(1502)、『軍資金調達に関する論考』(1502)、『デチェンナーレ・プリモ』(三韻句法による詩、1506)、『ドイツ情勢報告』(1508-12)、『デチェンナーレ・セコンド』(1509)、『フランス情勢報告』(1510)、『ティトゥス・リウィウス論(政略論)』全三巻(1512-17)、『君主論』(1513)、喜劇『アンドリア』(テレンティウスの訳、1513?)、喜劇『マンドラゴラ』(1513)、『言語について(対話篇)』(1514)、喜劇『クリツィア』(1515?)、小説『大悪魔ベルファゴール』(1515)、詩『黄金のロバ』(1517)、『戦術論』(1519-20)、『フィレンツェ国制改革論』(1520)、『ルッカ市概要』(1520)、『ルッカの主カストルッチョ・カストラカーニ伝』(1520)、『フィレンツェ史』全八巻(1521-5)、『歴史断片』(1525)。

その他、ソネット、カンツォーネ、オッターヴァ、謝肉祭の歌などの詩作がある。

【主要な版】アルド版(ヴェネツィア、1546)、テッティーナ版(1550)、カンビアーギ版(フィレンツェ、全六巻、1782-5)、古典版(ミラノ、全十巻、1813)、シルヴェストリ版(全九巻、1820-2)、パッセリーニ・ファンファーニ・ミラネージ版(六巻のみ刊行、1873-7)。

【小論・書簡】F・L・ポリドーリ編(1852)、『親交書簡集』E・アルヴィージ編(1883、一部削除あり)、『未発表著作集』G・カネストリーニ編(1857)、『ヴェットーリへの手紙』(A・リドルフィ『君主論の目的に関する考察』参照)、D・フェラーラ編『ニッコロ・マキャヴェッリ私信集』(1929)。

献辞

壮麗なるロレンツォ・デ・メディチ殿下へ

君主の寵愛を得ようとする者は、自らが最も大切にしているもの、あるいは君主が最も喜ぶと思われる品を携えて御前に出るのが常であります。それゆえ、君主の威厳にふさわしい贈り物として、馬、武器、金糸の織物、宝石といった宝飾品が献上されるのをしばしば目にいたします。

私もまた、殿下への忠誠の証として何かを献上したいと願い、自らの持ち物を見渡しました。その結果、私が最も大切にし、価値があると思えるものは、偉大なる先人たちの事績に関する知識であると思い至りました。これは、現代の政務における長年の経験と、古代の歴史に対する不断の研鑽によって得られたものであります。私はこの知識を、多大なる労力と時間をかけて精査・熟考し、この一冊の小論にまとめ上げました。これを殿下に捧げたく存じます。

本書が殿下のお目に留まるに値しないものかもしれぬことは重々承知しております。しかしながら、私が長年にわたる辛苦と危険の中で学び取ったすべてを、極めて短時間で理解していただける機会を差し上げること以上に、私にできる最上の贈り物はございません。殿下の寛大なるお心にすがり、本書をお受け取りいただけるものと信じております。私はこの著作を、巷の多くの書き手のように、大げさな言葉や華美な修辞、あるいは虚飾に満ちた表現で飾り立てることはいたしませんでした。内容の真実味と主題の重みのみによって評価されるか、さもなくば、いかなる名誉も与えられぬかのどちらかであってほしいと願ったからであります。

また、卑賎な身分の者が君主の統治について論じるのを、僭越であると批判する方々もおられましょう。しかし、山々の険しさを描く画家が、その全容を捉えるために平地に身を置き、逆に平地を眺めるためには高い山に登るように、民衆の本質を知るには君主である必要があり、君主の本質を深く理解するには、一人の民衆である必要があるのです。

殿下、どうか私のこのささやかな贈り物を、私が込めた誠実な思いとともにお受け取りください。本書を熱心にお読みいただければ、殿下が運命と優れた資質によって約束された偉大さを掴み取られることを、私がどれほど強く切望しているかがお分かりいただけるでしょう。そして、殿下がその高貴な高みから、時にこの低い地へと目を向けてくださるならば、私が理不尽にも、いかに過酷で絶え間ない運命の悪意にさらされているかをご覧いただけることと存じます。

君主論

第一章 君主国の種類とその獲得方法について

およそ人間を支配してきた、あるいは支配しているすべての国家、すべての権力体は、共和国か君主国のいずれかである。

君主国には二つの型がある。一つは、君主の一族が長きにわたって統治してきた世襲の国家である。もう一つは、新たに誕生した国家である。

新興の君主国には、フランチェスコ・スフォルツァにとってのミラノのように「完全に新しい」ものもあれば、スペイン王によるナポリ王国のように、君主が獲得した領土を自らの世襲国家に「併合した一部」として扱うものもある。

このようにして獲得された領土は、もともと別の君主の支配下にあったか、あるいは自由な国風の中で生きてきた人々である。そして、それらは君主自らの武力、あるいは他人の武力によって、あるいは運命によって、さもなくば卓越した才覚(ヴィルトゥ)によって手に入れられるのである。

第二章 世襲の君主国について

共和国については、別の場所(『ティトゥス・リウィウス論』)で詳しく論じたので、ここでは触れない。本章では君主国のみに焦点を絞り、先に示した順序に従って、いかにしてそれらを統治し、維持すべきかを考察していく。

結論から言えば、君主の一族に馴染んでいる世襲の国家を維持することは、新興の国家を維持することに比べてはるかに容易である。先祖代々の慣習を破らず、不測の事態には臨機応変に対処するだけで十分だからだ。平凡な才覚しかない君主であっても、並外れた強大な力によって奪われない限り、自らの地位を保つことができる。たとえ一度は奪われたとしても、簒奪者に少しでも不運が重なれば、即座に旧領を取り戻すことができるだろう。

イタリアの例を挙げれば、フェッラーラ公がいる。彼は一四八四年のヴェネツィア人の攻撃にも、一五一〇年の教皇ユリウス二世の攻撃にも耐え抜くことができた。それは、彼の一族が長年にわたってその地を支配してきたからに他ならない。世襲の君主は、民衆を傷つける理由も必要性も少ない。それゆえ、当然ながら民衆に愛されやすいのだ。よほどの異常な悪徳によって憎まれない限り、臣民が君主に自然と親しみを持つのは理にかなっている。統治が長く続けば続くほど、変革を求める記憶も動機も薄れていく。一つの変革は、常に次の変革への足がかりを残すものだが、世襲の安定こそがその連鎖を断ち切るのである。

第三章 複合型の君主国について

困難が生じるのは、新しい君主国においてである。まず、その国家が完全に新しいのではなく、旧領に併合された「複合型」である場合、混乱はすべての新興国家に共通する本質的な問題から生じる。すなわち、「主人が変われば今より良くなる」という期待から、民衆は喜んで支配者を変えようとし、現支配者に対して武器を取る。しかし、これは幻想である。実際には、事態が以前より悪化したことを後で思い知るのが常だからだ。これは、新しい君主が避けて通れない自然な必然性によるものである。君主は、新たに獲得した領土を維持するために、軍隊を駐留させ、その他無数の重圧を新臣民に強いることになる。

こうして君主は、その領地を奪う際に傷つけたすべての人々を敵に回すことになる。一方で、自分を権力の座につけてくれた味方に対しても、彼らの期待を十分に満たすことができず、恩義があるために強硬な手段も取れない。たとえ強力な軍隊を擁していても、新たな土地に足を踏み入れる際には、常に現地の民衆の支持が必要不可欠だからである。

フランス王ルイ十二世が瞬く間にミラノを占領しながら、即座に失ったのはこのためだ。一度目の陥落は、ルドヴィーコ(スフォルツァ)自らの軍勢だけで十分だった。王のために門を開いた民衆が、期待していた利益を得られないと知るや、新君主による冷遇に耐えられなくなったのである。もっとも、一度反乱を起こした領土を二度目に獲得したときは、そう簡単には失われない。君主が反乱を口実にして、ためらうことなく反逆者を処罰し、疑わしい者を一掃し、弱点を補強して自らの地位を固めるからである。フランスを一度目にミラノから追い出すには、ルドヴィーコ公が国境で騒ぎを起こすだけで足りたが、二度目に追い出すには、全世界をフランスの敵に回し、その軍隊を壊滅させてイタリアから叩き出さねばならなかった。理由は先述の通りである。

ともあれ、ミラノは二度ともフランスの手から滑り落ちた。一度目の理由はすでに述べたが、二度目の失敗の原因は何だったのか。フランス王が領土をより確実に維持するために、他にどのような手段があったのか。彼と同じ状況に置かれた者が、王以上の策を講じることができたのかを検討してみよう。

獲得した領土が、もともとの自国と同じ国、同じ言語である場合、それを維持するのは比較的容易である。特に、その土地の人々が自由な自治に慣れていない場合はなおさらだ。その場合、以前の君主の一族を根絶やしにするだけで、支配を固めることができる。それ以外の古い習慣が守られ、風俗が似通っていれば、人々は平穏に暮らしていくものだ。ブルターニュ、ブルゴーニュ、ガスコーニュ、ノルマンディーが、長い間フランスに併合されていながら平穏なのはそのためである。言語に多少の違いはあっても、習慣が似ていれば互いにうまくやっていける。これらの土地を維持したいと願う君主が留意すべき点は二つ。第一に、旧支配者の一族を絶やすこと。第二に、法や税を変更しないことである。そうすれば、新領土は極めて短期間で旧領と一体化するだろう。

しかし、言語や習慣、法制度が異なる国を獲得した場合には困難が伴い、それを維持するには多大な幸運とエネルギーが必要となる。最も効果的で現実的な助けとなるのは、獲得した本人がその地に「移住して住む」ことだ。これにより、支配はより確実で永続的なものになる。トルコ人がギリシャで行ったのがまさにこれだ。彼が他のいかなる策を講じたとしても、もし自ら現地に居を構えなければ、あの国を維持することはできなかっただろう。現地にいれば、混乱の兆しをいち早く察知して即座に対処できるが、遠くにいれば、事態が深刻化してからしか耳に入らず、もはや手遅れとなるからだ。さらに、君主が駐在すれば、官吏による略奪を防ぐことができ、民衆は君主に直接訴え出ることで満足を得られる。善良な臣民は君主を愛する理由が増え、不届きな者は君主を恐れる理由が増える。外部からその国を攻めようとする者も、君主がそこにいる限り、極めて慎重にならざるを得ない。

次善の策は、その国の「要」となる一、二か所に「植民」を行うことだ。これを行わないのであれば、大規模な騎兵や歩兵を駐留させねばならない。植民にはそれほど費用はかからない。君主はほとんど、あるいは全く費用をかけずに、入植者を送り込み、維持することができる。君主が敵に回すのは、入植者に土地や家を奪われた一握りの住民だけである。彼らは貧しく、散りぢりになるため、君主に危害を加えることはできない。それ以外の大多数の住民は、直接の被害を受けていないため平穏を保ちやすく、また、自分たちも略奪された人々のようになりたくないという恐怖から、過ちを犯さないよう気を配るようになる。結論として、植民は費用がかからず、忠実であり、敵を作ることも少ない。そして被害を受けた者は、前述の通り貧しく散りぢりであるため、復讐の力を持たない。ここで銘記すべきは、「人間は手厚くもてなすか、さもなくば抹殺すべきである」ということだ。軽い屈辱に対しては復讐しようとするが、あまりに深刻な打撃に対しては復讐する力さえ失うからだ。したがって、人に危害を加えるときは、復讐の心配がないほど徹底的にやらねばならない。

一方、植民の代わりに軍隊を駐留させる場合、費用は膨大になる。その土地から得られる収益のすべてが守備隊の維持に消えてしまい、獲得したはずの領土が損失に変わってしまう。それだけでなく、軍隊の移動や宿営によって国中が苦しめられるため、反感を買う範囲も広がる。自らの土地で打ち負かされながらも、なおそこに留まっている敵は、いつでも牙を剥くことができる。あらゆる面において、軍隊の駐留は有害であり、植民こそが有益なのである。

さらに、異質な土地を支配する君主は、周辺の弱小勢力の「保護者」となり、強力な隣国の勢力を削ぐことに努めねばならない。また、自分と同等の力を持つ外国勢力が、不測の事態に乗じて入り込む隙を与えないよう、細心の注意を払うべきだ。不満を抱く現地人が、過度な野心や恐怖から、強力な外国人を招き入れることは歴史の常である。アイートーリア人がローマ人をギリシャに引き入れたように、外国勢力は常に現地人の手引きによって侵入する。強力な外国人が一歩足を踏み入れれば、支配者に憎しみを抱く弱小勢力は、雪崩を打ってその外国人に味方する。君主は彼らを味方につけるために苦労する必要はない。彼らは自ら、新しく獲得された勢力に合流するからだ。君主が注意すべきは、彼らが過大な力や権威を持たないようにすることだけである。自らの武力と彼らの支持を利用すれば、君主は強力な勢力を容易に抑え込み、その地の完全な主人として君臨し続けることができる。この舵取りを誤る者は、手に入れたものをすぐに失い、維持している間も絶え間ない困難と苦悩に直面することになるだろう。

ローマ人は、獲得した領土においてこれらの原則を忠実に守った。植民を行い、弱小勢力の力を増大させることなく友好関係を保ち、強力な勢力を抑え込み、他国の有力な外国勢力に権威を与えなかった。ギリシャの例だけで十分だろう。彼らはアカイア人とアイートーリア人を味方につけ、マケドニア王国を屈服させ、アンティオコスを追い払った。しかし、アカイア人やアイートーリア人の功績によって彼らの勢力拡大を許すことはなく、フィリッポスの甘言に乗って彼を屈服させる前に友人になることもなく、アンティオコスの権威に屈して彼に領地を残すことも認めなかった。ローマ人は、賢明な君主がなすべきことを実行したのである。すなわち、現在の混乱だけでなく、将来起こりうる混乱をも見越し、あらゆる努力を払ってそれに備えたのだ。問題は、予見できていれば対処は容易だが、目の前に迫るまで放置すれば、病が進んで手遅れになるのと同様、もはや薬は効かない。医者が結核について言うように、初期には治療は容易だが診断が難しく、時間が経てば診断は容易だが治療が困難になる。国家の事象もこれと同じである。賢者であれば、生じつつある悪を予見し、迅速に正すことができる。しかし、予見できずに誰もが気づくほど大きくなってしまえば、もはや救いようがない。

それゆえローマ人は、火種を見つけるやいなや即座に対処した。戦争を避けるために問題を先送りにすることはしなかった。戦争は避けられるものではなく、単に敵を有利にするために延期されるに過ぎないことを知っていたからだ。彼らはイタリアを戦場にしないために、あえてギリシャでフィリッポスやアンティオコスと戦うことを選んだ。どちらも回避できたはずだが、彼らはそうしなかった。現代の賢ぶった連中が口にする「時の利を享受せよ」といった言葉を、ローマ人は決して好まなかった。彼らが信じたのは、自らの卓越した才覚(ヴィルトゥ)と思慮深さがもたらす利益であった。時はすべてを押し流し、善も悪も、悪も善も等しく運び去るからである。

さて、フランスに目を向け、これらの中の一つでも実行したかどうかを見てみよう。私はシャルル(八世)ではなく、イタリアに長く留まり、その行動をより詳細に観察できるルイ(十二世)について語ることにする。彼は、多様な要素からなる国家を維持するために必要なことと、正反対のことばかりを行っていたことが分かるはずだ。

ルイ王をイタリアに引き入れたのは、ヴェネツィア人の野心だった。彼らは王の介入によってロンバルディアの半分を手に入れようとしたのだ。私は、王がとったこの行動を責めはしない。イタリアに足がかりを欲しながらも友人がおらず、シャルルの振る舞いのせいでどこの門も閉ざされていた当時、王は得られる友人と手を組むしかなかった。もし他の面で間違いを犯さなければ、王の計画は極めて迅速に成功していただろう。ルイ王はロンバルディアを占領すると、シャルルが失った権威を即座に取り戻した。ジェノヴァは降伏し、フィレンツェは友好を結んだ。マントヴァ侯、フェッラーラ公、ベントゥヴォーリオ家、フォルリの女主人、ファエンツァ、ペーザロ、リミニ、カメリーノ、ピオンビーノの諸領主、そしてルッカ、ピサ、シエナの人々――誰もが王の友人になろうと擦り寄ってきた。ここでヴェネツィア人は、自らの軽率な判断を思い知ることになった。ロンバルディアの二つの町を手に入れるために、王をイタリアの三分の二の主人にしてしまったのだ。

もし王が、前述のルールを守り、多くの弱小な友人たちを保護して安全を保証していたなら、イタリアでの地位を維持するのはいかに容易だったか、考えてみてほしい。彼らは数こそ多いが弱く、臆病で、ある者は教会を、ある者はヴェネツィア人を恐れていた。彼らは常に王に寄り添わざるを得ず、彼らを利用すれば、王は依然として強力な勢力を容易に封じ込めることができたはずだ。ところが王は、ミラノに入るやいなや、教皇アレクサンデル六世がロマーニャを占領するのを助けるという暴挙に出た。この行動によって、自らを支えてくれた友人たちを失い、自らを弱体化させ、一方で教会に世俗的な権力を与えて、その精神的権威をさらに強めてしまったことに、王は気づかなかった。この最初の大失敗を犯したために、王はそれを突き進むしかなくなった。アレクサンデルの野望に歯止めをかけ、彼がトスカーナの主人になるのを防ぐために、王は自らイタリアへ出向くことを余儀なくされたのである。

教会を強大にし、友人たちを失っただけでは飽き足らず、王はナポリ王国を欲するあまり、それをスペイン王と分割した。イタリアの絶対的な仲裁者であったはずの王が、自ら競争相手を招き入れたのだ。その地の野心家や不満分子が頼るべき場所を作ってしまったのである。本来なら、王はナポリに自らの息のかかった代理人を置いておけたはずなのに、自分を追い出す力を持つ人物をそこに据えるために、わざわざ旧王を追放したのである。

「獲得したい」という欲求は、実に自然で一般的なものであり、能力のある者がそれを成し遂げれば、常に称賛され、非難されることはない。しかし、能力がないにもかかわらず、どんな手段を使ってでも獲得しようとするならば、それは愚行であり非難に値する。したがって、フランスが自らの力でナポリを攻撃できたのであれば、そうすべきだった。それができなかったのであれば、分割などすべきではなかった。ロンバルディアをヴェネツィア人と分割したのは、イタリアに足がかりを得るためという言い訳が立つが、このナポリの分割にはそのような必然性もなく、ただ非難されるべきものであった。

このように、ルイ王は五つの過ちを犯した。弱小勢力を滅ぼし、イタリア内の一つの強大勢力の力を強め、極めて強力な外国勢力を引き入れ、自ら移住せず、植民も行わなかった。もし王が存命であれば、これらの過ちだけで破滅することはなかったかもしれない。だが彼は、ヴェネツィア人の領地を奪うという第六の過ちを犯してしまった。もし王が教会を増長させず、スペインをイタリアに引き入れていなかったなら、ヴェネツィアを叩くのは合理的かつ必要なことだっただろう。しかし、すでにそれらの策を講じてしまった以上、ヴェネツィアの破滅に同意すべきではなかった。強力なヴェネツィアがいれば、他国がロンバルディアを狙うのを防げたからだ。ヴェネツィアは自らが主人にならない限り、他国の侵入を許さなかっただろうし、他国もフランスから奪った土地をわざわざヴェネツィアに献上しようとは思わなかっただろう。両者を同時に敵に回す勇気など、誰にもなかったはずだ。

もし誰かが、「ルイ王は戦争を避けるために、ロマーニャをアレクサンデルに、ナポリをスペインに譲ったのだ」と言うなら、私は先に述べた通りこう答える。戦争を避けるために混乱を放置してはならない。戦争は避けられるものではなく、単に自分に不利な形で先送りにされるだけだからだ。また、もし王が教皇に対し、自らの離婚の承認とルーアン枢機卿の帽子[訳注:枢機卿の地位]の返礼として、ロマーニャ攻略を助けると約束していたと言うなら、それについては、後ほど詳述する「君主の信義とその守り方」についての章で答えよう。

つまり、ルイ王がロンバルディアを失ったのは、領土を獲得し、それを維持しようとした人々が守るべき条件を一つも守らなかったからである。これは奇跡でも何でもなく、極めて理にかなった当然の帰結なのだ。この件について、私はナントでルーアン枢機卿と語ったことがある。当時、アレクサンデル六世の息子チェーザレ・ボルジア(通称ヴァレンティーノ)がロマーニャを席巻していた。枢機卿が私に「イタリア人は戦争というものを分かっていない」と言ったとき、私は彼にこう言い返した。「フランス人こそ政治(国家の術)を分かっていない。もし分かっているなら、教会の勢力がこれほど強大になるのを許しはしなかっただろう」と。事実、イタリアにおける教会とスペインの強大化はフランスによってもたらされ、その結果、フランスはイタリアから追い出されることになったのである。ここから、めったに外れることのない一般則が導き出される。「他人が強大になる原因を作った者は、自ら破滅する」ということだ。その強大さは、才覚か武力のどちらかによってもたらされるが、権力を手にした者は、その両方を警戒するようになるからである。

第四章 アレクサンデル大王が征服したダリウス王国が、大王の死後も後継者たちに対して反乱を起こさなかったのはなぜか

新しく獲得した領土を維持することの困難さを考えれば、ある疑問が湧くだろう。アレクサンデル大王はわずか数年でアジアの主人となり、その征服が完了する間もなく世を去った。当然、帝国全土で反乱が起きると思われたが、実際には後継者たちはその地位を維持した。彼らが直面した唯一の困難は、彼ら自身の野心から生じた身内同士の争いだけであった。

これに対し、私はこう答えよう。歴史に記録された君主国には、二つの異なる統治形態がある。一つは、一人の君主と、その恩恵と指名によって大臣として国を治める「家臣」たちによる統治。もう一つは、君主と、古き血統ゆえにその地位にあり、君主の恩恵ではなく「自らの家柄」によってその特権を持つ「諸侯(男爵)」たちによる統治である。こうした諸侯は、自らの領地と臣民を持っており、臣民は彼らを主君として認め、自然な愛着を抱いている。君主と家臣によって統治される国では、君主の権威は絶大である。国中で彼以上の存在として認められる者は一人もおらず、他の者に従うとしても、それは単に君主の役人や大臣としてであって、個人的な愛着を抱いているわけではない。

現代におけるこれら二つの統治形態の例は、トルコとフランス王である。トルコの全君主制は一人の主人によって統治され、他はすべて彼の召使いである。彼は王国をサンジャク(行政区)に分け、そこに異なる管理官を送り込み、自らの意のままに入れ替え、変更する。一方、フランス王は、古くからその地位にある多数の諸侯に囲まれている。諸侯は自らの臣民に認められ、愛されている。彼らには固有の特権があり、王といえどもそれを奪えば自らの身を危険にさらすことになる。したがって、これら二つの国家を比較すれば、トルコの領土を奪うことは極めて困難だが、一度征服してしまえば、それを維持するのは極めて容易であることに気づくだろう。

トルコのような王国を奪うのが難しい理由は、王国内の諸侯に手引きをさせることも、王の側近たちの反乱を期待することもできないからだ。理由は前述の通り、彼らはすべて王の奴隷であり、恩義を被っている身ゆえに、買収することが極めて難しい。たとえ買収できたとしても、彼らが民衆を引き連れてくることは期待できないため、ほとんど役に立たない。それゆえ、トルコを攻撃する者は、敵が団結していることを覚悟せねばならず、他人の反乱を期待するよりも自らの武力を頼みにすべきである。しかし、一度勝利し、軍隊を再建できないほど徹底的に叩き潰せば、あとは君主の一族を根絶やしにするだけで、恐れるものは何も残らない。他の者たちは民衆に対して何の威信も持っておらず、征服者が勝利の前に彼らを頼りにしなかったのと同様、勝利の後も彼らを恐れる必要はない。

フランスのような統治形態の国では、その逆が起こる。王国内の諸侯を一人でも味方につければ、容易に侵入することができる。現状に不満を抱き、変革を望む者は常に存在するからだ。こうした連中は、前述の理由から侵攻の道を切り開き、勝利を容易にしてくれる。しかし、その後その土地を維持しようとすれば、自分を助けてくれた者からも、自分が踏みにじった者からも、無限の困難が降りかかる。君主の一族を絶やすだけでは不十分だ。生き残った諸侯たちが新たな反乱の指導者となり、彼らを満足させることも根絶やしにすることもできない以上、好機が訪れるたびにその領土は失われることになる。

さて、ダリウスが統治していた王国の性質を考えれば、それがトルコの王国と似ていたことが分かるだろう。ゆえに、アレクサンデルはまず戦場でダリウスを完全に打ち倒し、彼から領土を奪い取る必要があった。勝利の後、ダリウスが死ぬと、前述の理由により、その領土はアレクサンデルのものとして安定した。もし後継者たちが団結していたなら、彼らは安泰にその地を享受できたはずだ。王国で起きた騒乱は、すべて彼ら自身が引き起こしたものに過ぎなかった。

しかし、フランスのように構成された国家を、これほど平穏に維持することは不可能である。ローマ人がスペインやフランス、ギリシャで頻繁に反乱に直面したのは、それらの国々に多くの小君主国(諸侯領)が存在したからだ。その記憶が残っている限り、ローマ人の支配は常に不安定だった。だが、帝国の力が強まり、長期にわたって支配が続くことでその記憶が薄れると、ローマ人は確固たる支配者となった。後にローマ人同士が争った際も、各将軍は自らが権威を確立した地域の支持を取り付けることができた。旧支配者の一族が絶えていたため、民衆はローマ人以外の権威を認めなかったのである。

これらのことを念頭に置けば、アレクサンデルがアジア帝国をいとも簡単に維持したことも、ピュロスら多くの人々が獲得した領土を維持するのに苦労したことも、不思議ではない。これは征服者の才覚の多寡によるものではなく、征服された側の統治形態の違いによるものなのである。

第五章 併合される前に独自の法律の下で生きてきた都市や君主国をいかに統治すべきか

前述のように獲得された国家が、独自の法を持ち、自由な国風の中で生きてきた場合、それを維持するには三つの方法がある。第一は、その都市を徹底的に破壊すること。第二は、君主自らがそこに移り住むこと。第三は、現地の法をそのまま認め、貢納を課し、君主への友好的な関係を保つ少数の人間による「寡頭政権(親君主派の政府)」を樹立することである。こうした政府は君主によって作られたものであるため、君主の友情と保護なしには存続できないことを知っており、君主を支えるために全力を尽くす。自由な生き方に慣れた都市を維持したいなら、他人の手によるよりも、その市民自身を利用するほうがはるかに容易である。

例として、スパルタ人とローマ人を挙げてみよう。スパルタ人はアテネとテーベを占領し、そこに寡頭政権を置いたが、結局これらを失った。一方、ローマ人はカプア、カルタゴ、ヌマンティアを確実に保持するために、これらを破壊し、失うことはなかった。彼らはまた、スパルタ人がやったように、ギリシャを自由なままにし、その法を尊重して統治しようとしたが、失敗した。結局、維持のためにその地の多くの都市を破壊せねばならなかった。実のところ、自由な都市を確実に支配する道は、破壊以外にないのである。自由な暮らしに慣れた都市の主人となりながら、それを壊滅させない者は、自らがその都市によって滅ぼされることを覚悟せねばならない。反乱の際、彼らは常に「自由」という名目と「古き特権」を合言葉に団結する。それらは、時の経過によっても、恩恵によっても、決して忘れ去られることはないからだ。君主がどれほどの対策を講じようとも、住民を分断し分散させない限り、彼らはその名と特権を忘れない。ピサがフィレンツェの百年にわたる隷属から解き放たれた際、瞬く間に団結したのがその証拠である。

しかし、君主の支配に慣れていた都市や国で、その一族が絶えた場合は事情が異なる。彼らは一方では服従することに慣れており、他方では旧君主を失っているため、自分たちの中から新たな君主を一人選ぶことに合意できず、かといって自分たちで自分たちを治める(自治)方法も知らない。そのため、武器を取って立ち上がるのが極めて遅く、君主が彼らを味方につけ、手なずけるのは容易である。だが、共和国においては、より強い生命力、深い憎しみ、そして復讐への渇望が渦巻いている。かつての自由の記憶が彼らを安眠させることは決してない。したがって、最も確実な道は、それらを徹底的に破壊するか、さもなくば君主自らがそこに住み着くことである。

第六章 自らの武力と才覚によって獲得した新しい君主国について

これから述べる「完全に新しい」君主国について語る際、私が君主や国家の最高の実例を引き合いに出したとしても、驚かないでいただきたい。人間というものは、ほとんど常に他人が踏み固めた道を歩み、模倣によって行動するものだが、他人の道を完全に踏襲することも、模倣する相手の才覚(ヴィルトゥ)に並ぶこともできないからだ。賢明な男は常に偉人の歩んだ道を辿り、最高に優れた人々を模倣すべきである。そうすれば、たとえ彼らの高みに達することはできなくても、少なくともその香りを身に纏うことはできるだろう。それは熟練の射手の振る舞いに似ている。あまりに遠い標的を狙うとき、自らの弓の限界を知っている射手は、標的そのものよりもはるかに高い位置に狙いを定める。それは、その高さまで矢を届かせるためではなく、高く狙いを定めることで、目的の場所を射抜くためである。

さて、完全に新しい君主国において、新しい君主がその地位を維持する難易度は、獲得した本人の才覚(ヴィルトゥ)の多寡に左右される。一介の市民から君主になるという事実は、才覚か運命(フォルトゥナ)のどちらかがあることを前提としており、そのどちらかが多くの困難を和らげるのは明らかだ。とはいえ、運命に頼るところが少なかった者ほど、その地位を強固に保っている。さらに、他に領土を持たない君主が、自らその地に移り住むことを余儀なくされる場合、事態はより容易になる。

運命ではなく、自らの才覚によって君主となった優れた例として、モーセ、キュロス、ロムルス、テセウスらを挙げよう。モーセについては、単に神の意志の執行者に過ぎなかったとはいえ、神と語るにふさわしい恩寵を授かったという一点においてだけでも、称賛されるべきである。しかし、王国を獲得し、あるいは建国したキュロスやその他の人々を考察すれば、彼らもまた等しく称賛に値することが分かる。彼らの個々の事績や統治を検討すれば、偉大なる導き手を持っていたモーセと比べても、決して劣るものではない。彼らの生涯と行動を精査すると、彼らが運命から受け取ったものは、単なる「機会(チャンス)」に過ぎなかったことが見て取れる。機会は、彼らが最善と考える形に鋳造するための「素材」を与えただけなのだ。その機会がなければ、彼らの精神の力は発揮されずに潰えていたであろうし、その力がなければ、機会は無駄に終わっていただろう。

モーセがイスラエルの民を率いて苦役から脱出させるためには、彼らがエジプトで奴隷となり、虐げられている必要があった。ロムルスがローマの王となり、祖国の建国者となるためには、彼がアルバに留まらず、出生時に捨てられている必要があった。キュロスが、メディア人の統治に不満を抱くペルシャ人を見つけ、長きにわたる平和で軟弱になったメディア人に出会う必要があった。テセウスがその才覚を示すためには、アテネ人が離散している必要があった。このように、機会がこれらの男たちを幸運へと導き、彼らの卓越した才覚がその機会を捉えたのである。それによって彼らの祖国は高められ、栄光を掴んだのだ。

彼らのように、困難な道を切り拓いて君主となった人々は、獲得には苦労するが、維持するのは容易である。獲得の際の困難は、主として、自らの統治と安全を確立するために導入せねばならない新しい制度や秩序から生じる。忘れてはならないのは、「新しい秩序」を導入することほど、着手が難しく、遂行が危険で、成功が不確かなものはないということだ。なぜなら、改革者は、旧秩序の下で恩恵を受けていたすべての人々を敵に回し、新秩序の下で恩恵を受けるはずの人々からは、熱の入らない支持しか得られないからだ。この冷ややかさは、法を味方につけている旧勢力への恐怖と、実際に経験してみるまでは新しいものを信じようとしない人間の不信感に起因している。したがって、敵対勢力が攻撃の機会を得れば、党派的な熱情を持って襲いかかる一方で、支持者たちの守りは腰が引けたものになり、君主は彼らとともに危険にさらされることになる。

この問題を深く掘り下げるには、改革者が自らの力で立ち上がれるのか、それとも他人に依存せねばならないのかを見極める必要がある。つまり、目的を達成するために、彼らは「説得」に頼るのか、それとも「武力」を行使できるのか、という点だ。説得に頼る場合は、常に失敗し、何も成し遂げられない。しかし、自らを頼みとし、武力を行使できる場合には、危険にさらされることはめったにない。これこそ、武装した預言者はすべて勝利し、武器なき預言者は滅び去った理由である。前述の理由に加え、民衆の性質は移ろいやすく、彼らを説得するのは容易だが、その説得された状態に留めておくのは極めて困難だからだ。したがって、彼らがもはや信じなくなったとき、武力によって無理やりにでも信じ込ませる備えが必要なのである。

もしモーセ、キュロス、テセウス、ロムルスが武器を手にしていなかったら、彼らの定めた憲法を長続きさせることはできなかっただろう。現代において、フラ・ジロラモ・サヴォナローラが辿った末路がその証左である。大衆が彼を信じなくなると同時に、彼の新秩序は崩壊した。信じ続ける者を繋ぎ止める手段も、信じない者を屈服させる手段も、彼にはなかったからだ。こうした改革者たちは、目的を完遂するまでに多大な困難に直面し、その途上はあらゆる危険に満ちている。しかし、才覚によってそれらを乗り越え、自分たちの成功を妬む者たちを根絶やしにすれば、彼らは尊敬を集めるようになり、その後は強力で、安全で、名誉ある幸福な地位を保ち続けることができる。

これら偉大な例に、一つ小規模な例を付け加えよう。これらと共通する点があり、同種のすべての例を代表させるに足る人物、シラクサのヒエロン(二世)である。彼は一介の市民からシラクサの君主へと上り詰めたが、彼もまた運命から授かったのは「機会」だけであった。虐げられていたシラクサの人々が、彼を軍司令官に選び、その後の功績によって彼は君主の座を授けられたのである。彼は市民時代から極めて優れた才覚を備えており、ある書き手は彼について「王としての資質のうち、欠けているのは王国だけである」と評した。彼は旧来の軍隊を廃止して新しい軍隊を組織し、古い同盟を捨てて新しい同盟を結んだ。自前の兵と味方を得たことで、彼はその強固な土台の上に、いかなる建物をも築くことができた。獲得には多大なる苦労を要したが、維持にはほとんど苦労しなかったのである。

第七章 他人の武力や運命によって獲得した新しい君主国について

単なる幸運(フォルトゥナ)によって一市民から君主になった者は、苦労せずして頂点に達するが、そこに留まるには多大な苦労を伴う。昇りつめる途上には何の障害もない、空を飛んでいるようなものだからだ。だが、頂上に着いた途端、あらゆる困難が襲いかかる。金銭で地位を買った者や、誰かの恩恵で地位を授かった者がこれにあたる。ギリシャのイオニアやヘレスポントスの諸都市で、ダリウスが自らの安全と栄光のために任命した諸領主、あるいは兵士の買収によって一市民から皇帝に上り詰めた者たちがその例である。彼らは、自分を引き上げてくれた者の「意志」と「運命」という、極めて移ろいやすく不安定な二つのものの上にただ乗っかっているに過ぎない。また、彼らにはその地位を維持するための知識も能力もない。よほどの卓越した価値と才覚を備えていない限り、ずっと私人として生きてきた者が、命令の仕方を知っているはずがないからだ。さらに、彼らには自らに忠実で友好的な軍隊がないため、地位を保つことができない。

急ごしらえで誕生した国家は、自然界の急成長する他のすべてのものと同様、根を張り、枝を広げる時間がない。そのため、最初の嵐が来ればなぎ倒されてしまう。ただし、前述のように、不意に君主となった者が、運命がその膝元に放り投げたものを即座に維持する準備を整えるだけの卓越した才覚を備えている場合は例外だ。他の君主たちが即位「前」に築く土台を、彼らは即位「後」に築かねばならないのである。

才覚による上昇と運命による上昇、この二つの方法について、私たちの記憶に新しい二つの例、フランチェスコ・スフォルツァとチェーザレ・ボルジアを挙げよう。フランチェスコは、適切な手段と卓越した才覚を駆使し、一私人からミラノ公に上り詰めた。千辛万苦の末に獲得したものを、彼はほとんど苦労せずに維持した。一方、民衆からヴァレンティーノ公と呼ばれたチェーザレ・ボルジアは、父(教皇アレクサンデル六世)の運命によって領土を獲得したが、父の運命が衰えると同時にそれを失った。他人の武力と運命によって与えられた領土に根を張るために、賢明で才覚ある男がなすべきあらゆる手段を尽くしたにもかかわらず、である。

先に述べたように、最初に土台を築かなかった者でも、優れた才覚があれば後から築くことは可能だ。しかし、それは建築家にとっては苦難の作業であり、建物にとっては崩落の危険を伴うものである。チェーザレ公が取ったすべての歩みを検討すれば、彼がいかに将来の権力のために強固な土台を築いていたかが分かるだろう。新興の君主にとって、彼の行動以上に優れた手本はないと私は考える。ゆえに、ここで彼の足跡を辿ることは決して無駄ではない。彼の計画が結局実を結ばなかったとしても、それは彼の非ではなく、ただならぬ極端な運命の悪意によるものだったからだ。

アレクサンデル六世は、息子であるチェーザレを強大にするにあたって、現在および将来の多くの困難に直面していた。第一に、教会領以外の土地を息子に与える道が見当たらなかった。もし教会領を掠め取ろうとすれば、ミラノ公やヴェネツィア人が黙っていないことを知っていた。ファエンツァやリミニは、すでにヴェネツィアの保護下にあったからだ。さらに、イタリア内の武力、特に彼が利用できるはずの軍勢は、教皇の勢力拡大を恐れる者たち――すなわちオルシーニ家やコロンナ家とその一派――の手にあった。教皇は、この状況を打破し、諸勢力を混乱に陥れることで、彼らの領土の一部を確実に手中に収める必要があった。これは容易なことだった。折良くヴェネツィア人が別の理由からフランス軍をイタリアに呼び戻そうとしていたからだ。教皇はこれを妨害するどころか、ルイ王の以前の婚姻を解消[訳注:無効化]することで、より容易にしたのである。こうして王はヴェネツィア人の助けとアレクサンデルの同意を得てイタリアへ侵攻した。ミラノに入るやいなや、王は教皇にロマーニャ攻略のための兵を貸し与えた。ロマーニャは王の威光の前に屈した。

ロマーニャを獲得し、コロンナ派を叩いたチェーザレ公は、その地位を固めてさらに前進しようとしたが、二つの障害にぶつかった。一つは自軍の忠誠心、もう一つはフランスの意向である。すなわち、自分が利用しているオルシーニ家の軍勢が寝返り、征服の邪魔をするだけでなく、すでに獲得した領土さえ奪い取るのではないか、またフランス王も同じことをするのではないか、と危惧したのである。オルシーニ家については、ファエンツァを落とした後にボローニャを攻めた際、彼らが極めて不承不承に動いたことで確信を得た。フランス王については、ウルビーノ公国を奪った後にトスカーナへ侵攻しようとした際、王から中止を命じられたことでその真意を悟った。ここでチェーザレ公は、もはや他人の武力と運命には頼らないと決意したのである。

まず彼は、ローマにおけるオルシーニ派とコロンナ派を弱体化させるため、両家に属する貴族たちをすべて高給と官職、軍の指揮権を与えて自分の陣営に引き入れた。数か月のうちに、彼らの党派心は消え失せ、チェーザレ公への忠誠へと塗り替えられた。次に彼は、すでに散りぢりになっていたコロンナ派に続き、オルシーニ家を壊滅させる機会を待った。好機はすぐに訪れ、彼はそれを完璧に利用した。チェーザレ公と教会の強大化が自らの破滅を意味することにようやく気づいたオルシーニ家は、ペルージャのマジョーネで会合を開いた。これがウルビーノの反乱とロマーニャの騒乱を引き起こし、チェーザレ公を絶体絶命の窮地に追い込んだが、彼はフランスの助けを借りてこれらすべてを乗り越えた。権威を取り戻した彼は、もはやフランスや外部の力に頼って危険を冒すことをせず、策略を用いることにした。彼は自らの本心を隠し通し、パゴロ・シニョールを仲介役としてオルシーニ家と和解した。公はパゴロに対し、金銭、衣服、馬などを惜しみなく与えて懐柔した。オルシーニ家の人々は、その単純さゆえに公の手に落ち、シニガリアへと誘い出された。そこで指導者たちを根絶やしにし、その支持者たちを味方に引き入れたことで、公はロマーニャ全土とウルビーノ公国を手中に収め、自らの権力の極めて強固な土台を築き上げた。民衆もまた、公の下でようやく平穏が訪れたことを喜び始めており、公は彼らの心をも掴んだのである。

この一連の出来事は注目に値し、他者の手本となるべきものであるため、詳しく述べておきたい。

チェーザレ公がロマーニャを占領したとき、そこは無力な領主たちに支配されていた。彼らは臣民を統治するよりも略奪し、団結させるよりも分裂させる原因を作っていたため、国中が強盗、争い、あらゆる暴力に満ちていた。公は、この地に平和と法への服従を取り戻すためには、強力な統治が必要であると考えた。そこで、冷酷で行動力のあるラミーロ・ドルコを抜擢し、彼に全権を与えた。ラミーロは短期間で、見事に平和と統一を回復した。その後、公はこれほど強大な権限を維持し続けるのは得策ではないと考えた。あまりに厳格な統治は憎しみを買うからだ。そこで彼は、国内に最高裁判所を設置し、各都市に弁護人を置いた。また、過去の苛烈な統治が自分に対する憎しみを生んでいることを知っていたため、民衆の不満を和らげ、彼らを完全に味方につけるために、あらゆる残虐行為は自分ではなく、大臣の冷酷な性格から生じたものであることを示そうとした。この口実の下、公はある朝、ラミーロを捕らえ、チェゼーナの広場で真っ二つに斬り殺させ、その傍らに木製の台と血まみれのナイフを置かせた。この凄惨な見世物により、民衆の心は一瞬にして満足と恐怖で満たされたのである。

さて、話を戻そう。自前の軍隊を整えて当面の危険を排除し、隣接する敵対勢力をほぼ壊滅させたチェーザレ公が、さらなる征服を進めるにあたって次に考慮すべきはフランスだった。フランス王はようやく自らの間違いに気づき、もはや公を支持しないだろうと分かっていたからだ。これ以降、公は新たな同盟を模索し始め、フランスがガエータを包囲していたスペイン軍に対抗してナポリ王国へ進軍していた際、フランスに対して曖昧な態度を取り始めた。公の意図はスペインを牽制することにあり、もしアレクサンデルが生きていれば、それはすぐに成功していただろう。

これが、当面の状況に対する公の策であった。しかし、将来を見据えたとき、公が最も恐れるべきは、新しい教皇が自分に敵対し、アレクサンデルが与えてくれたものを奪い取ろうとすることだった。これに対抗するため、彼は四つの策を講じた。第一に、自分が領地を奪った領主たちの一族を根絶やしにし、教皇が彼らを利用する口実を失わせること。第二に、前述の通りローマの貴族たちをすべて味方に引き入れ、彼らの力で教皇を牽制すること。第三に、枢機卿会議をできる限り自分の息のかかった者たちで固めること。第四に、教皇が死ぬ前に十分な勢力を獲得し、最初の攻撃を自力で防げるようにすることである。アレクサンデルが没したとき、公はこのうち三つまでを達成していた。奪い取った領地の主たちのうち、捕らえられた者はすべて殺害し、逃げ延びた者はわずかだった。ローマの貴族を味方につけ、枢機卿会議にも強力な一派を形成していた。新たな獲得については、すでにペルージャとピオンビーノを領有し、ピサを保護下に置いていたため、トスカーナの主人になるつもりだった。フランスを考慮する必要ももはやなかった(フランス軍はすでにスペインによってナポリから追い出されており、両国とも公の好意を買わざるを得ない状況だった)。そこで彼はピサに襲いかかった。続いてルッカとシエナは、フィレンツェへの憎しみと恐怖から即座に降伏した。フィレンツェにはもはや対抗手段はなかった。もし、アレクサンデルが死んだ年に公が計画通りに突き進んでいれば、彼は絶大な権力と名声を手に入れ、もはや他人の運命や武力に頼ることなく、自らの力と才覚だけで自立していただろう。

だが、アレクサンデルが最初に剣を抜いてから五年後、彼は急逝した。残されたチェーザレ公の手元にあったのは、盤石なロマーニャのみ。他の計画はすべて宙に浮いたままで、二つの強大な敵軍に挟まれ、さらに公自身も死の淵を彷徨うほどの重病に伏していた。しかし、公には類まれな不屈の精神と才覚があり、人をいかにして味方につけ、いかにして葬るかを熟知していた。また、短期間に築いた土台があまりに強固だったため、もし背後に敵軍がいなかったか、あるいは彼が健康であったなら、あらゆる困難を克服していただろう。彼の土台がどれほど優れていたかは、ロマーニャが彼を信じて一か月以上待ち続けたことからも分かる。ローマでは、瀕死の状態でありながらも彼の安全は保たれた。バリオーニ家、ヴィテッリ家、オルシーニ家がローマに乗り込んできたが、公に対して何一つ成し遂げることはできなかった。彼は自分の望む人物を教皇にすることはできなかったが、少なくとも自分が望まない人物が選ばれるのを防ぐことはできた。もしアレクサンデルの死の瞬間に公が健康であったなら、すべては彼の思い通りになっていたはずだ。ユリウス二世が選出された日、公は私にこう語った。父が死んだときに起こりうることはすべて想定し、あらゆる対策を講じていたが、まさか父が死ぬときに自分自身も死に直面しているとは夢にも思わなかった、と。

これらすべてのチェーザレ公の行動を振り返ってみても、私には彼を責める気にはなれない。むしろ、他人の武力や運命によって権力の座に就いたすべての人々にとって、彼こそが倣うべき模範であると確信している。彼は崇高な精神と遠大な目的を持っており、あのような行動を取る以外に道はなかった。ただ、アレクサンデルの早すぎる死と、彼自身の病が、彼の壮大な計画を挫いたに過ぎない。したがって、新しい君主国において自らの安全を確保し、友人を獲得し、力か策略によって勝利し、民衆に愛されると同時に恐れられ、兵士に従われ尊敬され、自分を傷つける力や理由を持つ者を根絶やしにし、古い秩序を新しいものに刷新し、厳格さと慈愛、寛大さと寛容さを兼ね備え、不忠な軍隊を解体して新しい軍隊を作り、王や諸侯との友好関係を維持して、彼らが喜んで助け、慎重に敵対するように仕向けること――これらが必要であると考える者にとって、この男の行動以上に鮮烈な手本を見出すことはできないのである。

ただ一点、ユリウス二世を教皇に選ばせたことだけは非難されるべきであり、彼の唯一の誤った選択だった。前述の通り、自分の望む人物を教皇にできないまでも、特定の人物が選ばれるのを阻止することはできたはずだ。自分が傷つけた枢機卿や、教皇になれば自分を恐れるであろう枢機卿が選ばれるのを許すべきではなかった。人間は恐怖か憎しみから他人を傷つけるものだからだ。彼が傷つけた者の中には、サン・ピエトロ・アド・ヴィンクラ、コロンナ、サン・ジョルジョ、アスカニオらがいた。それ以外の者が教皇になれば、ルーアン枢機卿とスペイン人枢機卿を除いて、誰もが公を恐れたはずだ。スペイン人は同族であり恩義があるため、ルーアンはフランス王という後ろ盾があるため公を恐れる必要がなかったからである。したがって、公は何よりもまずスペイン人を教皇に据えるべきであり、それが叶わないならルーアンを支持すべきであって、決してサン・ピエトロ・アド・ヴィンクラを許してはならなかった。「新たな恩恵を与えれば、大人物が過去の屈辱を忘れてくれる」と思い込む者は、自らを欺いているのだ。公はこの選択において誤りを犯し、それが彼の最終的な破滅を招いたのである。

第八章 極悪非道な手段によって君主となった者について

一介の市民が君主となるには、運命や才覚(ヴィルトゥ)に完全には帰することのできない二つの方法がある。その一つは、後に共和国について論じる際により詳しく扱えるテーマではあるが、ここで触れないわけにはいかない。その方法とは、第一に、何らかの邪悪で非道な手段によって君主の座に駆け上がること、第二に、同胞たる市民たちの支持によって自国の君主になることである。まず第一の方法について、古代と現代の二つの例を挙げて説明しよう。議論を深めるまでもなく、この道を歩まざるを得ない者にとって、これらの例は十分な指針となるはずだ。

シラクサの君主アガトクレスは、単なる私人からというだけでなく、卑賎で卑しい身分から王に上り詰めた。陶工の息子であった彼は、その波乱に満ちた生涯を通じて常に悪徳にまみれていた。しかし、その悪行の一方で、彼は精神と肉体の両面において卓越した能力を備えていた。軍職に身を投じた彼は、階級を駆け上がり、ついにシラクサのプラエトル(軍司令官)となった。その地位を確立すると、彼は自ら君主となることを決意し、他人の恩義によらず、合意によって与えられた地位を暴力によって奪取しようと企てた。彼は、当時シラクサで戦っていたカルタゴの将軍アミルカルと密かに通じた。ある朝、彼はあたかも共和国の重要事項を議論するかのように、シラクサの民衆と元老院を召集した。そして合図とともに、兵士たちに元老院議員全員と富裕な市民たちを皆殺しにさせた。これらの人々が死ぬと、彼は市民たちの抵抗を受けることなく、その都市の支配権を握った。その後、彼はカルタゴ軍に二度敗北し、ついには包囲されたが、自らの都市を守り抜いただけでなく、兵の一部を防御に残し、自らはアフリカを攻撃して、短期間のうちにシラクサの包囲を解かせた。極限まで追い詰められたカルタゴ人は、アガトクレスと和平を結ばざるを得なくなり、シラクサを彼に委ね、自らはアフリカの領有だけで満足することとなった。

この男の行動と才覚(ヴィルトゥ)を考察すれば、そこに運命(フォルトゥナ)によるものはほとんど、あるいは全く見当たらない。前述の通り、彼は誰の助けも借りず、軍職において一歩一歩階段を上り詰め、千の苦労と危険を乗り越えてその地位を勝ち取り、その後も数々の決死の賭けを繰り返してそれを維持したからだ。しかし、同胞を殺し、友人を欺き、信義も慈悲も宗教心もないことを「才覚(ヴィルトゥ)」と呼ぶことはできない。そのような方法で帝国を勝ち取ることはできても、栄光を勝ち取ることはできないからだ。それでも、アガトクレスが危険に飛び込み、そこから脱した勇気、困難に耐え抜き克服した精神の偉大さを考えれば、彼が並外れた名将の誰よりも劣っていると見なされる理由はない。しかしながら、その野蛮な残酷さと非人間性、そして数々の悪行ゆえに、彼を「最高の偉人」の一人に数えることは許されない。彼が成し遂げたことは、運命にも才覚にも帰することはできないのである。

現代の例を挙げよう。アレクサンデル六世の時代、フェルモのオリヴェロットは、幼くして孤児となり、母方の叔父ジョヴァンニ・フォリアーニの手で育てられた。青年になると、パゴロ・ヴィテッリの下で軍事訓練を受け、軍職において高い地位に就くことを目指した。パゴロの死後は、その弟ヴィテロッツォの下で戦った。オリヴェロットは機知に富み、強靭な肉体と精神を持っていたため、瞬く間に軍の第一人者となった。しかし、他人に仕えることを卑小なことと考え、祖国の自由よりも奴隷化を望む一部のフェルモ市民とヴィテッリ派の助けを借りて、フェルモを奪い取ろうと決意した。彼は叔父ジョヴァンニに手紙を書き、長年故郷を離れていたので叔父と街を訪問し、父の遺産を確認したいと伝えた。また、自分は名誉以外に何も求めてこなかったが、自分が時間を無駄にしなかったことを市民に示すため、百騎の友人や従者を連れて華々しく帰郷したい、ついてはフェルモの民衆に盛大に迎えられるよう手配してほしい、それは育ての親である叔父の面目にもかなうはずだ、と言い添えた。

ジョヴァンニは甥のために尽力し、フェルモの人々に盛大に迎えさせ、自分の屋敷に泊まらせた。そこで数日過ごし、邪悪な計画の準備を整えたオリヴェロットは、ジョヴァンニとフェルモの主立った人々を招いて盛大な宴会を催した。料理が運ばれ、宴もたけなわとなった頃、オリヴェロットは巧妙に、教皇アレクサンデルやその息子チェーザレの偉大さとその事業について、重大な話を切り出した。ジョヴァンニらがそれに答えると、彼は突然立ち上がり、このような話はもっと人目につかない場所ですべきだと言って奥の部屋へ退き、ジョヴァンニたちもそれに続いた。彼らが席に着くやいなや、隠れていた兵士たちが飛び出し、ジョヴァンニらを皆殺しにした。この虐殺の後、オリヴェロットは馬にまたがって街中を駆け巡り、宮殿にいる行政長官を包囲した。恐怖に陥った人々は彼に従わざるを得ず、彼は新たな政府を作り、自ら君主となった。彼は自分を傷つける可能性のある不満分子をすべて殺し、新たな民政・軍事制度を整えて自らを強化した。その結果、君主となってからの一年間、彼はフェルモの街を確実に支配しただけでなく、近隣諸国にとっても恐るべき存在となった。もし彼がチェーザレ・ボルジアに騙され、シニガリアでオルシーニ家やヴィテッリ家とともに捕らえられなければ(前述の通り)、彼を破滅させるのはアガトクレス同様、困難だっただろう。こうして、叔父殺しから一年後、彼は自らの武勇と悪行の師であったヴィテロッツォとともに絞首刑に処された。

アガトクレスのような人物が、あれほどの裏切りと残虐行為を重ねながら、なぜ長きにわたって自国を安泰に統治し、外敵を防ぎ、市民から陰謀を企てられることもなかったのか、不思議に思う者もいるだろう。他の多くの者は、平時でさえ残虐な手段では国家を維持できず、ましてや戦時の不安定な時期にはなおさらだったからだ。私は、これは「残虐さの使い方が適切か不適切か」によるものだと信じている。悪について「適切」と言うことが許されるならば、自らの安全のために必要に迫られ、一度にそれを行い、その後はそれを繰り返さず、可能な限り臣民の利益になるように転換する場合、それを「適切な使い方」と呼べる。一方、「不適切な使いかた」とは、最初はわずかであっても、時間の経過とともに減少するどころか増大していくような場合である。前者の方法を採る者は、神や人の助けを借りて、アガトクレスのように統治をいくらか和らげることができる。後者の道を歩む者が、自らの地位を維持することは不可能である。

したがって、国家を奪取する際、簒奪者は自らが行わねばならないあらゆる加害行為をあらかじめ精査し、それらをすべて一度に済ませてしまうべきである。そうすれば、日々繰り返す必要がなくなり、人々の心を静め、恩恵を施すことで味方に引き入れることができる。臆病さや悪しき助言ゆえにこれを行わない者は、常に手にナイフを握っていなければならない。絶え間なく繰り返される加害行為のせいで、臣民は彼を信頼できず、彼もまた臣民に頼ることができないからだ。加害行為は、受ける苦痛を少なくするために一度に行うべきであり、逆に恩恵は、その有り難みを長く味わわせるために、少しずつ小出しに与えるべきである。

そして何よりも、君主は、いかなる不測の事態――それが幸運であれ不運であれ――が起きても、自らの態度を変えないように臣民と共に生きねばならない。なぜなら、逆境になってから厳しい手段を講じようとしてももはや遅すぎ、逆に寛大な処置をしても、それは「強制されたもの」と見なされ、誰からも感謝されないからである。

第九章 市民型の君主国について

次に、もう一つのケース、すなわち一介の有力市民が、悪行や耐え難い暴力によらず、同胞たる市民たちの支持によって自国の君主となる場合について述べよう。これは「市民型の君主国」と呼べる。これに到達するには、必ずしも卓越した才覚や運命が必要なわけではなく、むしろ「幸運な機転」が必要である。この君主の座は、民衆の支持か、あるいは貴族の支持のどちらかによって獲得される。およそいかなる都市にも、これら二つの相容れない気質が存在する。民衆は貴族に支配され、虐げられることを望まず、貴族は民衆を支配し、虐げることを望む。この二つの相反する欲求から、都市には「君主制」「自由な自治」「無政府状態」の三つの結果のうちのいずれかが生じる。

君主国は、民衆か貴族のどちらかが機会を捉えることで誕生する。貴族は、自分たちが民衆に対抗できないと悟ると、仲間の一人の威信を高めて彼を君主に仕立て上げ、その影に隠れて自らの野望を遂げようとする。民衆もまた、貴族に抗しきれないと悟ると、仲間の一人の威信を高めて彼を君主にし、その権威によって自分たちを守ろうとする。貴族の助けを借りて主権を得た者は、民衆の助けでその座に就いた者に比べて、地位を維持するのが困難である。なぜなら、彼の周りには自分を対等と見なす者たちが多く、思い通りに命令したり操ったりすることができないからだ。一方、民衆の支持によって主権を得た者は、頂点に独り立つ。彼の周りには、従わない者は一人もいないか、いたとしてもごく少数である。

さらに、貴族を満足させるには、他人に害を及ぼさずに公明正大な手段で行うことは不可能だが、民衆を満足させることは容易である。民衆の目的は貴族のそれよりも正義にかなっているからだ。貴族は虐げることを望み、民衆は虐げられないことを望んでいる。また、君主にとって、敵対する民衆から身を守ることは不可能である。その数が多すぎるからだ。だが、貴族から身を守ることはできる。彼らは少数だからである。敵対する民衆から君主が被る最悪の事態は、彼らから見捨てられることだが、敵対する貴族からは、見捨てられるだけでなく、反旗を翻されることをも恐れねばならない。貴族はより先見の明があり狡猾であるため、常に自分たちが助かるために早めに動き、勝利しそうな側に媚びを売るからだ。さらに君主は、常に同じ民衆と共に生きることを余儀なくされるが、貴族についてはその必要がない。君主は日々、貴族を作ったり壊したりでき、自分の都合次第で彼らに権威を与えたり奪ったりできるからである。

この点を明確にするために言えば、貴族については主に二つの見方をすべきである。すなわち、彼らが自らの運命を完全に君主の運命に結びつけて行動するか、そうでないかである。君主に忠誠を誓い、強欲でない者は、重用し愛すべきである。結びつかない者については、二つの理由が考えられる。一つは、臆病さや生まれつきの勇気の欠如による場合だ。この場合は彼らを利用すべきである。特に優れた知恵を持つ者は重宝すべきだ。そうすれば、平時には彼らを重用することで名声を得られ、逆境にあっても彼らを恐れる必要はない。もう一つは、自らの野心のためにあえて君主に結びつかない場合である。これは、彼らが君主よりも自分たちのことを考えている証拠である。君主はこうした連中を警戒し、公然たる敵であるかのように恐れねばならない。逆境のとき、彼らは常に君主を破滅させる手助けをするからだ。

したがって、民衆の支持によって君主となった者は、民衆との友好関係を保たねばならない。彼らが求めているのは「虐げられないこと」だけなのだから、これは容易なはずだ。一方、民衆に背いて貴族の支持により君主となった者は、何よりもまず民衆を味方につけることに努めるべきである。彼らを自分の保護下に置けば、これも容易に達成できる。人間というものは、悪を予期していた相手から善を施されると、その恩人に対してより深い恩義を感じるものだからだ。そうなれば、民衆は自分たちの支持で君主になった場合よりも、さらに深い献身を君主に捧げるようになる。君主が民衆の心を掴む方法は千差万別であり、状況によって異なるため、一定のルールを挙げることはできない。しかし、繰り返すが、君主にとって民衆を友にすることは不可欠である。さもなくば、逆境において救いの道はない。

スパルタの君主ナビスは、全ギリシャの攻撃と勝利に沸くローマ軍の猛攻を凌ぎ、祖国と自らの統治を守り抜いた。この危機を乗り越えるために彼が必要としたのは、少数の有力者を封じ込めることだけだった。もし民衆が敵であったなら、それだけでは到底足りなかっただろう。ここで、「民衆を頼りにする者は、泥の上に家を建てるようなものだ」という使い古された諺を引いて、私の意見を否定しようとする者がいるかもしれない。だが、それは一私人が民衆に期待をかけ、敵や役人に追われたときに民衆が自分を助け出してくれると思い込む場合にのみ当てはまる真理である。その場合、ローマのグラックス兄弟やフィレンツェのジョルジョ・スカーリのように、期待を裏切られるのが常だろう。しかし、私が述べているのは、確固たる地位を築き、命令を下す力を持ち、勇気にあふれ、逆境に怯まず、他の準備も怠らず、自らの決断と活力によって民衆全体を鼓舞し続けるような君主のことである。そのような君主であれば、民衆に裏切られることは決してなく、自らの土台がいかに強固であったかを知ることになるだろう。

この種の君主国が危機に陥るのは、市民的な統治から絶対的な統治へと移行しようとする時である。これらの君主は、自ら直接命令を下すか、あるいは行政官を通じて統治を行う。行政官を通じる場合、君主の地位はより弱く、不安定になる。なぜなら、その統治は行政官に就いている市民たちの意志に完全に依存しているからだ。特に混乱した時期には、彼らが反乱を起こしたり命令を無視したりすることで、いとも簡単に政府を崩壊させることができる。混乱の最中では、君主が絶対的な権威を行使する余裕はない。行政官からの命令に慣れている市民や臣民は、騒乱の中で君主に服従しようとはせず、危急の際に信頼できる人間は常に不足するからだ。このような君主は、平時の様子を見て判断してはならない。市民が国家を必要としている平時には、誰もが君主に擦り寄り、忠誠を誓い、死が遠くにあるうちは皆が「君主のために死ぬ」と言い募る。しかし、国家が市民を必要とする逆境の時には、味方はほとんど見つからない。この賭けが危険なのは、それが一度しか試せないからである。したがって、賢明な君主は、市民がいかなる時も、いかなる状況下でも、国家と君主を必要とするような仕組みを整えるべきである。そうすれば、市民は常に君主に忠実であり続けるだろう。

第十章 あらゆる君主国の軍事力をいかに測定すべきか

君主国の性質を検討する際、もう一つの点を考慮せねばならない。それは、君主がいざという時に自力で持ちこたえられるほどの力を持っているか、それとも常に他人の助けを必要とするかである。この点を明確にするために言えば、自力で立ち行ける者とは、十分な金銭と兵力を持ち、攻撃してくる者に対して戦場で一戦を交えることができる者のことである。一方、常に他人の助けを必要とする者とは、敵と野戦で戦うことができず、城壁の中に逃げ込んで防御に徹せざるを得ない者のことである。第一のケースについてはすでに論じたし、今後も必要に応じて触れるだろう。第二のケースについては、そのような君主に対して「自らの街に食糧を蓄え、防備を固めよ。周辺の領土のことは気にするな」と助言する以外にない。自らの街を強固に要塞化し、前述した(そして後でも繰り返す)ような民衆への統治を適切に行っている君主を攻撃するには、敵は多大な覚悟を必要とする。人間は困難が見えている企てを嫌うものであり、防備が完璧で、かつ民衆に憎まれていない君主を攻めるのが容易でないことは、誰の目にも明らかだからだ。

ドイツの諸都市は完全に自由である。彼らは周辺にわずかな領土しか持っておらず、皇帝に対しても自分が望む時しか従わない。彼らは皇帝も近隣の諸侯も恐れていない。なぜなら、彼らの要塞化はあまりに完璧で、誰もがその攻略を長期間にわたる困難なものだと考えているからだ。彼らは適切な堀と壁を備え、十分な大砲を持ち、公共の倉庫には常に一年分の食糧、飲料、燃料を蓄えている。さらに、民衆を退屈させず、国家に損失を与えないために、その都市の生命線であり、民衆がそれで生計を立てているような手仕事(労働)を、常に公共の事業として与えられるようにしている。また、彼らは軍事演習を尊重し、それを維持するための多くの規則を持っている。

したがって、強力な都市を持ち、民衆から憎まれていない君主が攻撃を受けることはまずない。たとえ攻撃されたとしても、敵は恥をかいて撤退するだけだろう。この世界の情勢はあまりに流動的であり、一年間も軍隊を動かさずに包囲を続けることは、ほとんど不可能だからだ。「もし民衆が街の外に資産を持っていて、それが焼かれるのを見れば、彼らは我慢できなくなり、長期の包囲と自らの利益のために君主を忘れてしまうのではないか」と反論する者がいるかもしれない。これに対し、私はこう答えよう。強力で勇気ある君主は、「この災難は長くは続かない」という希望を民衆に抱かせたり、敵の残虐さを恐れさせたり、あるいは、不穏な動きをする者を巧みに排除したりすることで、あらゆる困難を乗り越えるものだ、と。

さらに、敵は到着するやいなや、民衆の士気がまだ高く、防衛の意欲に燃えている時期に、田野を焼き払い略奪を行うのが常である。それゆえ、君主はなおさら躊躇してはならない。数日が経ち、民衆の熱が冷めた頃には、損害はすでに確定し、災厄は避けられないものとなっており、もはや打つ手がないからだ。そうなれば、民衆は以前にも増して君主と団結するようになる。君主を守るために自分たちの家が焼かれ、財産が破壊された以上、君主は自分たちに大きな恩義があると感じるからだ。人間の本性として、恩恵を与えることは、恩恵を受けることと同じくらい人を縛るものである。したがって、賢明な君主が、最初から最後まで市民の心を繋ぎ止めることは、決して難しくはない。ただし、そのためには、食糧と防衛手段を欠かさないことが前提である。

第十一章 教会型の君主国について

残るは教会型の君主国についてである。これに関する困難は、すべて獲得する前の段階にある。というのも、これらは才覚(ヴィルトゥ)か運命(フォルトゥナ)によって獲得されるが、維持にはそのどちらも必要ないからである。これらは古くからの宗教制度によって支えられており、その制度があまりに強力で特殊な性質を持っているため、君主がどのような振る舞いをし、どのような生活を送ろうとも、その地位は揺るぎない。これらの君主だけが、領土を持ちながらそれを防衛せず、臣民を持ちながらそれを統治しない。防衛されていない領土が奪われることはなく、統治されていない臣民はそれを気にせず、君主から離反しようとする意志も能力も持たない。このような君主国だけが、安全で幸福なのである。しかし、これらは人間の知恵が及ばない崇高な力によって維持されているため、これ以上語ることは控えよう。神によって高められ守られているものについて論じるのは、僭越で無謀な者のすることだからである。

それでも、なぜ教会が世俗的な権力においてこれほどまでの強大さを手にするに至ったのか、と問う者がいるかもしれない。アレクサンデル六世より前は、イタリアの有力者たち(名だたる諸侯だけでなく、どんなに小さな男爵や領主でさえも)は、教会の世俗的権力を軽んじていた。ところが今や、フランス王でさえ教会の前で震え上がり、教会はフランス王をイタリアから追い出し、ヴェネツィア人を破滅させるまでになった。この事実は明白ではあるが、改めてその経緯を振り返っておくことは無駄ではないだろう。

フランス王シャルルがイタリアに侵攻する前、この国は教皇、ヴェネツィア人、ナポリ王、ミラノ公、そしてフィレンツェ人の支配下にあった。これらの有力者たちには二つの大きな関心事があった。第一に、いかなる外国勢力も武力を持ってイタリアに入り込ませないこと。第二に、自分たちの中の誰もがこれ以上領土を広げないことである。特に警戒されていたのは、教皇とヴェネツィア人だった。ヴェネツィア人を抑えるには、フェッラーラ防衛の時のように他の全勢力が団結する必要があった。教皇を抑えるには、ローマの貴族たちが利用された。彼らはオルシーニ派とコロンナ派の二派に分かれて常に争っており、教皇の目の前で武器を手に騒乱を起こすことで、教皇の権力を弱体化させ、無力化していた。シクストゥス(四世)のような勇気ある教皇が現れても、運命も知恵も、彼をこの煩わしさから解放することはできなかった。教皇の在位期間が短いことも弱体化の原因だった。教皇の平均在位期間である十年では、片方の派閥を叩き潰すのが精一杯だったからだ。例えば、ある教皇がコロンナ派をほぼ壊滅させたとしても、次にオルシーニ派を嫌う別の教皇が即位すれば、彼らがコロンナ派を復活させてオルシーニ派を攻撃し、しかもオルシーニ派を滅ぼす時間がない、といった具合だった。これが、イタリアで教皇の世俗的権力が軽んじられていた理由である。

その後、アレクサンデル六世が登場した。彼は歴代のどの教皇よりも、金銭と武力がいかに教皇を優位に立たせるかを実証した。彼はヴァレンティーノ公(チェーザレ・ボルジア)を道具として使い、またフランスの侵攻を好機として、私がチェーザレ公の事績として述べたすべてのことを成し遂げた。彼の意図は教会ではなく息子を強大にすることにあったが、結果として彼が行ったことは教会の強大化に寄与した。彼の死後、そして息子の破滅後、その苦労の成果を教会が引き継いだのである。

次に即位したユリウス二世は、教会がロマーニャ全土を領有し、ローマの貴族たちが無力化され、アレクサンデルの弾圧によって派閥争いが一掃された状態にあるのを見出した。さらに彼は、アレクサンデル以前には行われていなかったような、金銭を蓄積する新たな道が開かれていることも知った。ユリウスはこれらの政策を継承しただけでなく、さらに推し進めた。彼はボローニャを手に入れ、ヴェネツィア人を叩き、フランス人をイタリアから追い出そうと企てた。これらの企てはすべて成功し、しかも彼がそれらすべてを私利私欲のためではなく、教会の強化のために行ったという点で、いっそう称賛に値する。彼はオルシーニ派とコロンナ派を、自分が引き継いだ時のままの枠内に抑え込んだ。彼らの中に騒乱を起こそうとする動きがあっても、教皇は二つの重石で彼らを沈めた。一つは教会の強大さという恐怖であり、もう一つは、彼らの中から枢機卿を出させないことである。派閥争いの火種は常に枢機卿にあるからだ。枢機卿がいれば、彼らはローマの内外で派閥を煽り、貴族たちは彼らを支持せざるを得なくなる。こうして、高位聖職者の野心から貴族間の騒乱や tumult(騒乱)が生じるのである。

このような経緯を経て、現在の教皇レオ十世殿下は、極めて強力な教皇庁を引き継がれた。先代たちが武力によって教会を偉大にしたとするならば、殿下はその慈愛と無限の徳によって、教会をさらに強大にし、崇敬されるものにされることが期待されている。

第十二章 軍隊の種類と傭兵について

私が冒頭で論じようとした君主国の諸特徴について、またその盛衰の原因や、多くの人々が獲得と維持のために用いた手法について一通り述べてきた。今度は、それらすべての国家が備えるべき攻撃と防御の手段について、一般論を述べることにする。

すでに述べた通り、君主にとって土台を固めることは不可欠であり、さもなくば破滅は免れない。新旧を問わず、あらゆる国家にとっての主要な土台は、「優れた法律」と「優れた軍隊」である。優れた軍隊がないところに優れた法律は存在し得ず、優れた軍隊があるところには、必然的に優れた法律が存在する。ゆえに、法律についての議論は脇に置き、軍隊について論じることにしよう。

君主が自国を防衛するために用いる軍隊は、自前の軍、傭兵、援軍、あるいはそれらの混成軍のいずれかである。このうち、傭兵と援軍は役に立たないばかりか、極めて危険である。もし傭兵に依拠して自国を維持しようとする者がいれば、その地位が安泰になることは決してない。彼らは団結心がなく、野心的で、規律がなく、不忠実である。味方の前では威勢がいいが、敵の前では臆病だ。神を恐れず、人への信義も持たない。彼らによる破滅が先延ばしにされるのは、敵の攻撃が先延ばしにされている間だけであり、平時には傭兵に略奪され、戦時には敵に略奪されるのが関の山だ。なぜなら、彼らが戦場に留まる理由は、わずかな給料以外に何もなく、そんなもののために命を捨てるはずがないからだ。平時には君主の兵士でありたがるが、いざ戦争が始まれば、逃げ出すか去っていく。このことを証明するのは容易である。今日のイタリアの没落は、長年にわたって傭兵にすべてを委ねてきたこと以外に原因はない。かつては彼らもそれなりの成果を挙げ、身内同士の争いでは勇猛に見えたかもしれないが、外国勢力が侵入するやいなや、その正体を露呈した。フランス王シャルルがチョークを手にしただけでイタリアを占領できた[訳注:戦わずして宿泊先を決めるチョークを持つだけで征服した]のは、そのためである。「我々の罪が原因だ」と言った者がいたが、それは正しい。しかし、その罪とは彼が想定したような宗教的な罪ではなく、私が述べたような政治的な罪であり、君主たちが犯した罪であった。そしてその報いを受けたのも、他ならぬ君主たち自身だったのである。

傭兵の有害さをもっと詳しく説明しよう。傭兵隊長が有能であるか無能であるかのどちらかだ。有能であれば、彼らは常に自らの偉大さを求め、雇い主である君主を圧迫するか、君主の意に反して他人を攻撃するため、信頼することはできない。逆にもし無能であれば、通常通り君主を破滅に導くだけだ。

「武器を手にすれば、傭兵であろうとなかろうと誰でも同じことをする」と反論する者がいるかもしれないが、私はこう答える。武力を行使せねばならないとき、君主であれ共和国であれ、君主なら自ら出陣して隊長の責務を果たすべきであり、共和国なら市民を送り出すべきである。もし送り出した市民が無能であれば交代させ、有能であれば法によって彼が権限を逸脱しないよう縛らねばならない。経験が示しているのは、自前の軍を持つ君主や共和国だけが絶大な進歩を遂げ、傭兵は害悪しかもたらさないという事実だ。また、自前の軍を持つ共和国が、一市民の支配下に落ちることは、外国の軍隊に頼っている共和国よりもはるかに難しい。

古代の例を挙げれば、ローマやスパルタは長世紀にわたって武装し、自由であり続けた。スイス人は完璧に武装しており、完全に自由である。古代の傭兵の例としてはカルタゴ人がいる。彼らは第一次ローマ戦争の後、隊長が自国の市民であったにもかかわらず、自分たちの傭兵によって圧迫された。マケドニアのフィリッポスは、エパメイノンダスの死後、テーベ人によって軍の指揮官に任命されたが、勝利の後に彼らから自由を奪った。

ミラノ公フィリッポが死んだ後、ミラノ人はヴェネツィア人に対抗するためにフランチェスコ・スフォルツァを雇ったが、彼はカラヴァッジョで敵を破るやいなや、雇い主であるミラノ人を叩き潰すために敵と結託した。彼の父スフォルツァも、ナポリ女王ジョヴァンナに雇われていながら、彼女を無防備のまま見捨てたため、女王は王国を守るためにアラゴン王の懐に飛び込まざるを得なくなった。ヴェネツィア人やフィレンツェ人がかつて傭兵によって領土を広げながら、隊長が君主にならずに防衛に徹したではないか、という反論があるかもしれないが、私はこう答える。この場合、フィレンツェ人は運に恵まれていたに過ぎない。恐るべき有能な隊長たちのうち、ある者は勝利できず、ある者は政敵に阻まれ、ある者は野心を他へ向けたからだ。勝利できなかったのはジョヴァンニ・アクート(ジョン・ホークウッド)であり、勝利していない以上、彼の忠誠心は証明されようがない。しかし、もし彼が勝利していたなら、フィレンツェ人が彼の意のままに操られていたであろうことは誰もが認めるところだ。スフォルツァは常にブラッチョ派と対立していたため、互いに監視し合っていた。フランチェスコはロンバルディアに野心を向け、ブラッチョは教会とナポリ王国に野心を向けた。

最近の例を見よう。フィレンツェ人はパゴロ・ヴィテッリを隊長に任命した。彼は私人から絶大な名声を築いた極めて思慮深い男だった。もし彼がピサを攻略していたなら、フィレンツェ人が彼に従い続けねばならなかったことは明白だ。もし彼が敵側に寝返れば防ぐ術はなく、味方に留めておくなら彼に従うしかなかったからだ。ヴェネツィア人の歩みを見れば、自国の市民や貴族を武装させて戦っていた間は、安全かつ栄光に満ちていたことが分かる。彼らが陸上での征服に乗り出す前のことだ。しかし、陸上で戦い始めると、彼らはその美徳を捨て、イタリアの悪習に染まった。陸上拡大の初期には、領土が狭く威信が高かったため、隊長を恐れる必要はあまりなかった。だが、カルマニョーラの下で領土が広がると、彼らはその過ちを思い知ることになった。彼の下でミラノ公を破り、彼が極めて勇猛であることを知りながら、一方で戦争に対して彼が冷淡になっているのを見て、もはや彼の下では勝利できないと悟ったのである。しかし、獲得した領土を失いたくないために彼を解雇することもできず、結局、自らの安全のために彼を殺害せねばならなかった。その後、彼らはバルトロメオ・ダ・ベルガモ、ロベルト・ダ・サン・セヴェリーノ、ピティリアーノ伯らを隊長としたが、彼らの下では利得ではなく損失を恐れねばならなかった。事実、ヴァイラの戦いでは、八百年かけて苦労して築き上げたものをたった一日で失った。傭兵による征服は遅々として進まず、わずかな成果しか得られないが、損失は突如として壊滅的にもたらされるのである。

これらの例から、私は長年傭兵に支配されてきたイタリアの現状について、より深く論じたい。その成り立ちと発展を知ることで、より適切な対策を講じられるようになるからだ。最近のイタリアでは帝国の権威が失墜し、教皇の世俗的権力が強まり、多くの国家に分裂した。これは、かつて皇帝に支持されて民衆を虐げていた貴族に対し、多くの大都市が武器を取って立ち上がったからである。教会は世俗的な権威を得るためにこれら都市を支持した。また、多くの都市では一市民が君主となった。こうしてイタリアの大部分は教会と共和国の手に入ったが、司祭からなる教会も、武芸に疎い市民からなる共和国も、外国人(傭兵)を雇い始めたのである。

この傭兵軍に名声を与えた最初の人物は、ロマーニャのアルベリーゴ・ダ・コーニョだった。彼の門下からブラッチョやスフォルツァが現れ、彼らは当時のイタリアの命運を握る審判者となった。その後、今日までイタリアの軍事を動かしてきた隊長たちが続いた。彼らの「武勇」の結果はどうだったか。イタリアはシャルルに蹂躙され、ルイに略奪され、フェルナンドに荒らされ、スイス人に侮辱される羽目になった。彼らが守ってきた原則は、まず、自らの威信を高めるために歩兵の価値を貶めることだった。彼らは領地を持たず、給料だけで暮らしていたため、多くの歩兵を養うことができず、かといって少数の歩兵では何の権威も得られなかった。そのため彼らは騎兵を重用し、適度な数で体面を保ち、養われるようになった。その結果、二万人の軍隊の中に歩兵が二千人もいないという事態にまで至ったのである。さらに彼らは、自らと兵士の疲労と危険を避けるためにあらゆる工夫を凝らした。乱闘の中で殺し合うことをせず、捕虜を取っては身代金なしで解放した。夜間に都市を攻撃せず、都市の守備隊も夜間に陣営を襲わなかった。陣営の周りに柵も堀も作らず、冬場には行軍もしなかった。これらすべては、私が述べた通り、疲労と危険を避けるために彼らの軍規によって許容され、考案されたものだった。こうして彼らは、イタリアを奴隷状態と軽蔑の淵に沈めたのである。

第十三章 援軍、混成軍、自前の軍隊について

もう一つの役に立たない軍隊である「援軍(アウクシリアーリ)」とは、有力な他国の君主に、自らを助け防衛するために軍勢を派遣してもらう場合を指す。最近では教皇ユリウス二世がこれを行った。彼はフェッラーラ攻略において傭兵の無能さを痛感し、援軍に頼ることに決め、スペイン王フェルナンドに兵と武器の援助を求めたのである。援軍そのものは、それ自体として有能で優れたものであるかもしれないが、それを呼び入れる者にとっては常に不利に働く。負ければ破滅し、勝てばその援軍の捕虜になるからだ。

古代史には多くの例があるが、私はまだ記憶に新しい教皇ユリウス二世の例を挙げたい。その危険性がいかに明白であったか。彼はフェッラーラを手に入れたい一心で、自らの運命を完全に外国人の手に委ねたのだ。しかし、彼の幸運が第三の事態を引き起こしたため、彼はその軽率な選択の報いを受けずに済んだ。ラヴェンナで彼の援軍が敗北した際、予想外にもスイス人が蜂起して勝者(フランス軍)を追い出したため、彼は逃げ去った敵の捕虜にもならず、自らの軍勢以外の力で勝利したことで援軍の捕虜にもならずに済んだのである。

フィレンツェ人は、自前の軍隊を持たなかったために、ピサ攻略のために一万人のフランス兵を送り込んだが、これによって彼らは、かつてないほどの窮地に立たされた。

コンスタンティノープル皇帝は、隣国に対抗するために一万人のトルコ兵をギリシャに招き入れたが、戦争が終わっても彼らは立ち去ろうとしなかった。これが、ギリシャが異教徒の奴隷となる始まりとなったのである。

したがって、勝利を望まない者こそ、これらの軍隊を利用すべきである。彼らは傭兵よりはるかに危険だ。援軍の場合、破滅はあらかじめ約束されている。彼らは団結しており、他人の命令に服従しているからだ。一方、傭兵の場合、勝利した後に君主を傷つけようとしても、より多くの時間と好機が必要となる。彼らは一つの共同体ではなく、君主によって集められ、給料を払われている身であり、君主が彼らの頭に据えた第三者が、即座に君主を脅かすほどの権威を持つことはできないからだ。結論として、傭兵において最も危険なのは「臆病さ」であり、援軍において最も危険なのは「武勇」である。

ゆえに、賢明な君主は常にこれらの軍隊を避け、自前の軍隊を組織した。他人の武力による勝利を真の勝利とは見なさず、他人の軍で勝つよりも、自前の軍で負ける道を選んだ。

私はチェーザレ・ボルジアとその行動を挙げることを躊躇しない。この公は、援軍(フランス兵のみ)を率いてロマーニャに侵攻し、イモラとフォルリを占領した。しかし、そのような軍勢が信頼に値しないと察するや、傭兵の方が危険が少ないと判断して、オルシーニ派とヴィテッリ派を雇った。その後、彼らを実際に使ってみて、疑わしく、不忠実で、危険であると見抜くや、彼らを抹殺して自前の軍隊に切り替えた。これら軍勢の違いは、公の威信の推移を見れば明らかだ。フランス兵だけを率いていた時、オルシーニやヴィテッリを雇っていた時、そして自前の軍隊と自分自身だけを頼りにしていた時では、彼の評価は全く異なっていた。公が自軍の完全な主人であると誰もが認めたとき、彼の威信はかつてないほど高まったのである。

私はイタリアの最近の例以外に触れるつもりはなかったが、先に名を挙げたシラクサのヒエロンを避けて通るわけにはいかない。彼はシラクサ人によって軍の首領に選ばれるや、我々のイタリアのコンドッティエーリ(傭兵隊長)と同じく、傭兵が役に立たないことを即座に見抜いた。彼らを維持することも解雇することもできないと判断した彼は、彼らを皆殺しにし、その後は他人の軍隊ではなく自前の軍隊で戦争を遂行した。

また、旧約聖書からこの主題にふさわしい一節を引用したい。ダビデがサウルに対し、ペリシテ人の勇者ゴリアテと戦うことを申し出たとき、サウルは彼を勇気づけるために自分の武具を貸し与えた。しかしダビデはそれを身に着けるやいなや、これでは戦えないと言って拒絶し、自分の石投げ器とナイフだけで敵に立ち向かいたいと答えた。結局、他人の武具は、背中から滑り落ちるか、重荷になるか、あるいは体を締め付けるだけなのである。

フランス王ルイ十一世の父シャルル七世は、幸運と武勇によってフランスをイギリスから解放した後、自前の軍隊を持つ必要性を認識し、王国に重装騎兵と歩兵に関する条例を定めた。ところが息子のルイ王は歩兵を廃止し、スイス人を雇い始めた。この誤りが、今や見られる通り、フランス王国の危機の源となっている。スイス人の名声を高めたことで、フランス軍自体の価値を貶めてしまったからだ。歩兵を完全に解体し、騎兵を他国の軍に依存させてしまったため、スイス兵と共に戦うことに慣れきったフランス兵は、もはや彼らなしでは勝利できないと思い込むに至った。その結果、フランス兵はスイス兵に太刀打ちできず、スイス兵がいなければ他国に対しても成果を挙げられなくなっている。こうしてフランス軍は、一部が傭兵、一部が自国軍という混成軍となった。混成軍は傭兵のみや援軍のみよりはずっと優れているが、自前の軍隊に比べればはるかに劣る。シャルル七世の条例が拡張され、維持されていたなら、フランス王国は不落であっただろう。

しかし、人間の浅知恵は、一見良さそうに見える事柄に飛びつき、その裏に隠された毒に気づかない。それは、前述した結核の初期症状と同じである。したがって、事態が悪化してからでなければ悪を察知できない君主は、真に賢明とは言えない。そして、そのような洞察力を持つ者はごく稀である。ローマ帝国が崩壊し始めた最初の原因を突き詰めれば、それはゴート族を雇い始めたことに他ならない。その時から帝国の活力は衰え始め、かつて帝国の誇りであった武勇はすべて他者の手に渡ってしまったのである。

結論として、私は、自前の軍隊を持たない君主国に安全はないと断言する。逆境において自らを守る才覚(ヴィルトゥ)を持たない以上、それは完全に運命に依存している。自らの力に根ざしていない名声や権力ほど不安定で移ろいやすいものはないというのが、古来、賢者たちの一致した見解である。自前の軍隊とは、臣民、市民、あるいは自分の扶養家族によって構成される軍隊のことであり、それ以外はすべて傭兵か援軍である。自前の軍隊を整える方法は、私が提案したルールを熟考し、アレクサンデル大王の父フィリッポスや、多くの共和国や君主がいかにして自らを武装し組織したかを考察すれば、容易に見出せるはずだ。私はそのルールにすべてを委ねる。

第十四章 軍事に関して君主がなすべきこと

君主は、戦争とその規則、そして訓練以外に、いかなる目的も、いかなる関心事も、いかなる学問も持ってはいけない。それこそが、支配者に求められる唯一の技術であり、君主として生まれた者の地位を維持するだけでなく、一介の私人からその地位に上り詰めることをも可能にするほどの力を持っているからだ。逆に、君主が武力よりも安逸を重んじたとき、国家を失うことは歴史が証明している。国家を失う最大の原因はこの技術を軽視することであり、国家を獲得させる最大の要因はこの技術に精通することである。

フランチェスコ・スフォルツァは、武に秀でていたがゆえに、私人からミラノ公となった。一方、その息子たちは、軍務の苦労や困難を避けたがゆえに、公爵から私人の身へと転落した。武装していないことがもたらす数々の災厄の中でも、人から「軽蔑される」ことは、君主が最も警戒すべき不名誉の一つである。これについては後ほど詳述する。武装した者と武装していない者の間には、何の共通点もないからだ。武装した者が、武装していない者に喜んで服従することなどあり得ないし、武装していない主人が、武装した家臣たちに囲まれて安全でいられるはずもない。一方は軽蔑を抱き、他方は疑念を抱いている状態で、両者がうまく協力し合うことなど不可能なのである。したがって、軍事に疎い君主は、これまで述べた不幸に加えて、兵士たちから尊敬されず、また彼らを信頼することもできない。

それゆえ、君主は片時も戦争のことを忘れてはならず、戦時よりもむしろ平時にこそ、その訓練に励むべきである。これには二つの方法がある。一つは「実地訓練」、もう一つは「精神的訓練」である。

実地訓練に関して、君主は何よりもまず兵士を組織し、絶えず訓練させねばならない。また、頻繁に狩猟を行い、それによって体を過酷な環境に慣れさせるとともに、地形の性質を学ぶべきである。山々がいかにそびえ、谷がいかに開け、平原がいかに広がり、河川や沼地がいかに横たわっているか――これらを細部まで観察し、熟知せねばならない。この知識は二つの意味で有益である。第一に、自国を知ることで、防衛をより効果的に行えるようになる。第二に、その土地の知識と観察眼を養っておけば、将来、別の未知の土地を調査せねばならないとき、それを容易に理解できるようになるからだ。トスカーナの山、谷、平原、川、沼地は、他国のそれらと一定の類似性を持っているため、一つの土地の様相を熟知していれば、他の土地の知識も得やすくなるのである。この技術に欠ける君主は、軍司令官として不可欠な資質を欠いていると言わざるを得ない。この知識こそが、敵を奇襲し、宿営地を選び、軍を率い、陣形を整え、有利な条件で都市を包囲することを可能にするからである。

アカイア人の君主フィロポイメンは、書き手たちから多くの称賛を受けているが、その中の一つに、彼が平時において戦争のルール以外に何も考えなかったことが挙げられている。友人と田舎を歩いているとき、彼はしばしば立ち止まって議論をふっかけた。「もしあちらの丘の上に敵がいて、我々が軍を率いてここにいたとしたら、どちらが有利だろうか? 陣形を崩さずに敵を迎え撃つにはどう進軍すべきか? 退却したいときはどうすべきか? 敵が退却したなら、どう追撃すべきか?」

彼は歩きながら、軍隊に起こりうるあらゆる事態を彼らに示し、彼らの意見を聞き、自らの意見を理由とともに述べた。このような絶え間ない議論のおかげで、いざ戦争が始まったとき、彼が対処できない不測の事態は一つとして生じなかったという。

次に精神的訓練についてだが、君主は歴史を読み、そこに記された偉人たちの行動を研究すべきである。彼らが戦争においていかに振る舞ったか、その勝利と敗北の原因は何であったかを分析し、敗北を避け、勝利を模倣するためである。そして何よりも、過去の偉大な先人が、自らの前に称賛され栄光を勝ち取った人物を手本とし、その事績や行動を常に念頭に置いたように振る舞うべきだ。アレクサンデル大王はアキレウスを、カエサルはアレクサンデルを、スキピオはキュロスを模倣したと言われている。クセノポンが書いたキュロスの生涯を読めば、その模倣がいかにスキピオの栄光に寄与したか、またスキピオの貞潔、親しみやすさ、人間性、寛大さがいかにクセノポンの描いたキュロスの姿に合致していたかが分かるだろう。賢明な君主はこのようなルールを守り、平時において決して怠惰に過ごすことなく、勤勉に資源を蓄え、逆境に備えねばならない。そうすれば、運命が変わったとしても、その一撃に耐えうる準備ができているはずである。

第十五章 人間、とりわけ君主が称賛され、あるいは非難される原因となる事柄について

次に、君主が臣民や友人に対してどのような行動指針を持つべきかを検討しよう。これについては多くの人がすでに論じているため、私が再びこれに触れることは僭越だと思われるかもしれない。特に、私の議論の進め方が他の方々の手法とは大きく異なるため、なおさらである。しかし、私の目的は、これを理解しようとする者にとって真に有益なものを書くことにある。それゆえ、事柄の「想像上の姿」よりも、その「ありのままの真実」を追い求める方が適切であると考えた。多くの人々は、実際には存在したことも見たこともない共和国や君主国を夢想してきた。しかし、「いかに生きるべきか」と「いかに生きているか」の間にはあまりにも大きな隔たりがあるため、なされるべきことのために、現になされていることを疎かにする者は、自らの維持どころか破滅を招くことになる。あらゆる面で「善い人間」であろうと公言する者は、これほど多くの「善くない人間」に囲まれていては、すぐに破滅せざるを得ないからだ。

したがって、自らの地位を保とうと願う君主は、「善くない人間」になる方法を学び、必要に応じてそれを用い、あるいは用いないようにならねばならない。それゆえ、君主に関する空想を脇に置き、現実に即して論じるならば、人々――特に高い地位にある君主――が語られるとき、彼らは称賛、あるいは非難をもたらすいくつかの資質によって特徴づけられる。すなわち、ある者は「寛大」と評され、ある者は「けち」と評される(トスカーナの言葉を用いる。我々の言葉で「強欲」とは略奪によって所有を望む者を指し、「けち」とは自らの持ち物を使うことを極端に控える者を指すからだ)。ある者は「情け深い」とされ、ある者は「強欲」とされる。ある者は「残酷」、ある者は「慈悲深い」。ある者は「不実」、ある者は「忠実」。ある者は「女々しく臆病」、ある者は「猛々しく勇壮」。ある者は「親しみやすい」、ある者は「傲慢」。ある者は「淫ら」、ある者は「貞潔」。ある者は「誠実」、ある者は「狡猾」。ある者は「頑固」、ある者は「柔軟」。ある者は「厳格」、ある者は「軽薄」。ある者は「信心深い」、ある者は「不信心」、といった具合である。

誰もが認めるように、君主が上記のすべての資質のうち「善い」とされるものだけを備えていれば、それは最高に称賛すべきことだろう。しかし、人間という条件の下では、それらすべてを兼ね備えることも、完璧に守り通すことも不可能である。それゆえ、君主は、国家を失う原因となるような悪徳による汚名を避けるだけの慎慮を備えねばならない。また、国家を失うほどではない悪徳についても、可能であれば避けるべきだが、それが不可能であれば、あまり躊躇することなくそれに身を任せてもよい。さらに言えば、それなしには国家を救うことが困難であるような悪徳については、その汚名を被ることを恐れるべきではない。なぜなら、すべての事柄を深く考察すれば、一見「美徳」に見えることが、それを実行すれば自らの破滅を招き、逆に「悪徳」に見えることが、それを実行すれば自らの安全と繁栄をもたらすということが、しばしばあるからだ。

第十六章 寛大さとけちについて

前述の資質の最初のものから始めよう。私は、寛大であるという評判を得ることは良いことだと考える。しかし、その寛大さが、評判にならないような形で行われれば、それは君主を傷つける。もし公明正大に、本来あるべき形で行われれば、それは人々に知られることはなく、君主は「けち」という汚名を避けられないからだ。したがって、人々の間で「寛大」という名を維持したいと願う君主は、いかなる贅沢な誇示も辞さないことになる。そうなれば、そのような君主はあらゆる財産を浪費し尽くし、最後にはその名を保つために民衆に過酷な重税を課し、金を得るためにあらゆる手段を講じざるを得なくなる。これはすぐに臣民から憎まれる原因となり、貧しくなれば誰からも軽んじられるようになる。こうして、彼の寛大さは多くの人を傷つけ、報われる者はわずかとなり、最初の困難が生じただけで動揺し、最初の危険で破滅の危機に瀕することになる。君主がこれに気づいて方針を転換しようとすれば、今度は即座に「けち」であるという非難を受けることになるのである。

ゆえに、君主が「寛大」という美徳を、自らを傷つけることなく、かつ人々に認められる形で行うことができない以上、賢明であれば「けち」という評判を恐れるべきではない。時が経てば、人々は彼を以前よりも「寛大」であると見なすようになるからだ。節約によって自らの収入だけで十分間に合い、あらゆる攻撃から自らを守ることができ、民衆に負担をかけずに事業を遂行できることが分かれば、君主は「奪わない相手」である無数の人々に対して寛大であり、「与えない相手」であるわずかな人々に対してだけ「けち」であることになるからである。

現代において偉業を成し遂げたのは、皆「けち」であると見なされた人々だけであり、それ以外の者は失敗している。教皇ユリウス二世は、教皇の座に就くまでは寛大な評判を利用したが、その後フランス王と戦争をする際には、その評判を維持しようとはしなかった。彼は多くの戦争を遂行したが、長年の節約によって蓄えた資金があったため、臣民に特別な課税をすることなくそれらを賄ったのである。現在のスペイン王(フェルナンド)も、もし寛大という評判を気にしていたら、これほど多くの事業に着手し、成功させることはできなかっただろう。したがって、君主は、臣民から略奪せず、自らを守ることができ、貧しく卑しい身分に落ちず、強欲にならずに済むためであれば、「けち」という評判を立てられることを意に介すべきではない。なぜなら、それは統治を可能にする悪徳の一つだからだ。

「カエサルは寛大さによって権力を得たではないか、また他の多くの人々も寛大であったことで、最高位に上り詰めたではないか」と反論する者がいるかもしれない。それに対し、私はこう答えよう。君はすでに君主であるか、あるいは君主になる途上にあるかのどちらかだ。すでに君主であるなら、その寛大さは危険である。君主になる途上にあるなら、寛大であると見なされることは不可欠である。カエサルはローマで権力を握ろうとしていた一人だった。だが、もし権力を握った後も生きながらえ、その浪費を抑制しなかったなら、彼は自らの統治を崩壊させていたに違いない。また、「軍隊を率いて偉業を成し遂げた多くの君主たちは、極めて寛大であると見なされていたではないか」と言うなら、私はこう答えよう。君主が費やすのは、自分や臣民の財産か、あるいは他人の財産である。前者の場合、君主は倹約すべきだ。後者の場合、寛大である機会を一つとして逃すべきではない。略奪、略奪品、徴発によって軍隊を維持し、他人の財産を扱う君主にとって、この寛大さは不可欠である。さもなくば、兵士たちはついてこないからだ。自分のものでも臣民のものでもない財産については、キュロス、カエサル、アレクサンデルがそうであったように、惜しみなく与えてよい。他人の財産を浪費することは、君主の名声を高めることはあっても、損なうことはないからだ。君主を傷つけるのは、自分自身の財産を浪費することだけである。

寛大さほど、自らを使い果たすものはない。それを行使している最中にも、それを行う能力を失っていき、貧しくなって軽蔑されるか、あるいは貧困を避けようとして強欲になり、憎まれるかのどちらかになるからだ。君主が何よりも避けるべきは「軽蔑」と「憎しみ」であり、寛大さはその両方へと君主を導く。したがって、憎しみを伴わない「けち」という評判を甘受する方が、寛大という名を求めて、憎しみを伴う「強欲」という名を着せられるよりも賢明なのである。

第十七章 残酷さと慈悲深さについて、また、愛されるのと恐れられるのとではどちらが良いか

次に、前述の他の資質について述べよう。君主は皆、残酷ではなく慈悲深いと思われることを望むべきである。しかし、その慈悲深さを履き違えないよう注意せねばならない。チェーザレ・ボルジアは残酷であると見なされていたが、その残酷さによってロマーニャを平定し、統一し、平和と忠誠を取り戻した。これを正しく考えれば、彼は残酷という評判を避けるためにピストイアの破滅を許したフィレンツェの民衆よりも、はるかに行き届いた慈悲を施したことが分かるだろう。したがって、君主は臣民を団結させ忠実なままに保つためであれば、残酷という汚名を着せられることを気に病むべきではない。過度な慈悲によって殺戮や略奪を招く混乱を放置する者よりも、わずかな見せしめの処刑を行う者の方が、結果的にははるかに慈悲深いからだ。混乱は社会全体を傷つけるが、君主による処刑は特定の個人を傷つけるに過ぎない。

とりわけ「新しい君主」にとって、残酷という汚名を避けることは不可能である。新興国家は危険に満ちているからだ。ゆえにウェルギリウスは、ディドの口を借りて、建国間もない国家の非情さをこう弁明させている。

「Res dura, et regni novitas me talia cogunt(過酷な運命と、王国の新しさが私に強いるのだ)

Moliri, et late fines custode tueri.(このような策を講じ、広く国境を警備することを)。」

とはいえ、君主は信じたり動いたりするのに慎重であるべきであり、自ら恐怖を煽るような真似もすべきではない。適度な慎慮と人間性を持って行動し、過信が彼を不注意にさせず、過度な不信が彼を偏屈にさせないようにせねばならない。

ここで一つの問いが生じる。愛されるのと恐れられるのとでは、どちらが良いか。答えは「その両方であるのが望ましい」ということになるが、両立させることは難しいため、もしどちらかを欠かねばならないのであれば、愛されるよりも恐れられる方がはるかに安全である。なぜなら、人間一般について言えば、彼らは「恩知らずで、移ろいやすく、偽善的で、危険を避け、利得に目がない」からだ。君主が成功を収めている間は、彼らはすべて君主のものである。私が先に述べた通り、必要が遠くにあるうちは、彼らは血も財産も命も子供も捧げると誓う。しかし、いざ必要が迫ると、彼らは背を向ける。臣民の誓いだけを信じて他の備えを怠った君主は、破滅する。精神の偉大さや気高さによらず、金銭で得た友情は、手に入れることはできても、真に自分のものにはなっておらず、危急の際には役に立たないからだ。人間は、愛している者よりも、恐れている者を傷つけることに躊躇しない。愛は「恩義」という絆で繋ぎ止められているが、人間は卑しき存在であるため、自らの利益の機会があればいつでもその絆を断ち切ってしまう。しかし、恐怖は「処罰への不安」によって繋ぎ止められており、それが君主を見捨てることは決してないのである。

それでも、君主は、たとえ愛されずとも、憎まれることだけは避けるような形で、自らを恐れさせねばならない。憎まれずに恐れられることは、十分に両立可能だからだ。そのためには、臣民の財産と彼らの女に手を出さないようにすればよい。もし誰かの命を奪う必要がある場合は、明確な正当性と明白な理由があるときに行うべきである。だが何よりも、他人の財産には決して手を触れてはならない。人間は父親の死よりも、遺産の喪失の方を早く忘れるものだからだ。それに、財産を没収する口実には事欠かない。略奪によって生きることを始めた者は、常に他人のものを奪う口実を見つけるものだ。一方、命を奪う理由は見つけにくく、すぐに尽きてしまう。

しかし、君主が軍隊を率い、大軍を指揮しているときは、残酷という評判を全く気にする必要はない。その評判なしには、軍隊を団結させたり、任務に従事させたりすることは不可能だからである。ハンニバルの驚異的な事績の一つに、多種多様な民族からなる大軍を率いて異国の地で戦いながら、不運の時も幸運の時も、兵士の間で内紛が起きることも、君主に対して反乱が起きることもなかったことが挙げられる。これは彼の「非人間的な残酷さ」以外の何物でもなかった。その残酷さが、彼の無限の武勇とともに、彼を兵士たちの目で崇敬され恐るべき存在たらしめたのである。その残酷さがなければ、彼の他の美徳だけではこのような効果を生むことはできなかっただろう。思慮の浅い書き手たちは、彼の実績を称賛しながらも、その最大の原因である残酷さを非難している。もし残酷さがなかったなら、他の美徳だけでは不十分であったことは、スキピオの例を見れば分かる。彼は自らの時代だけでなく、人類史上でも稀に見る傑出した人物であったが、スペインで彼の軍隊が反乱を起こした。これは彼の「過度な寛容」が原因であり、それが軍紀を乱すほどの自由を兵士に与えてしまったのである。このため、彼は元老院でファビウス・マクシムスから「ローマ軍の腐敗を招いた男」と非難された。また、スキピオの副官がロクリの民を蹂躙した際も、スキピオは彼の非道さを罰することも、民の恨みを晴らすこともしなかった。それはすべて彼の柔軟すぎる性格のせいだった。元老院である者が彼を擁護して、「世の中には、他人の過ちを正すことよりも、自らが過ちを犯さないことにおいて、はるかに長けている者が多くいるものだ」と言ったほどである。もしスキピオがそのまま軍の指揮を執り続けていたなら、この気質はいずれ彼の名声と栄光を蝕んでいただろう。しかし、彼は元老院の統制下にあったため、この有害な特権は隠されただけでなく、むしろ彼の栄光に寄与することとなったのである。

恐れられるのと愛されるのとの議論に戻れば、私はこう結論づける。人間は自らの意志で愛し、君主の意志で恐れるものであるから、賢明な君主は他人の意志ではなく、自らの意志の下にあるもの(恐怖)の上に自らを確立すべきである。ただし、すでに述べた通り、憎まれることだけは全力で避けるべきである。

第十八章 君主はいかにして信義を守るべきか

君主が信義を守り、策謀によらず誠実に生きることがどれほど称賛に値するかは、誰もが認めるところである。しかし、我々の時代の経験が示しているのは、偉業を成し遂げた君主たちは信義をほとんど重んじず、狡猾さによって人間の知性を翻弄する方法を知っており、最終的には、誠実さを重んじた人々を打ち負かしてきたという事実である。

戦いには二つの方法があることを知らねばならない。一つは「法」によるもの、もう一つは「力」によるものである。前者は人間に固有のものであり、後者は獣のものである。しかし、多くの場合、前者だけでは不十分であり、後者に訴える必要が生じる。したがって、君主は獣と人間の両方を使い分ける方法を心得ていなければならない。古代の書き手たちは、アキレウスをはじめとする古の多くの君主たちが、半人半獣のケンタウロス、ケイローンの下に預けられて育てられたという寓話を通じて、この教訓を密かに君主たちに授けてきた。教師が半獣半人であるということは、君主が両方の性質を使いこなす必要があり、一方を欠けばその地位は永続しないということを意味しているのである。

君主は、獣の性質を使いこなさねばならないとき、「狐」と「ライオン」を選ばねばならない。ライオンは罠から身を守れず、狐は狼から身を守れないからだ。それゆえ、罠を見破るためには狐である必要があり、狼を威嚇するためにはライオンである必要がある。ただライオンの力にのみ頼る者は、事の本質を理解していない。したがって、賢明な支配者は、信義を守ることが自分に不利に働くとき、あるいは約束をした理由がもはや存在しなくなったとき、その信義を守ることはできないし、また守るべきでもない。もし人間が皆善人であれば、この教えは正しくないだろう。しかし、人間は邪悪であり、君主に対する信義を守らない以上、君主もまた彼らに対して信義に縛られる必要はない。また、君主が約束を破るための正当な口実に困ることも決してない。これについては、現代の無数の例を挙げることができるだろう。君主の不誠実さによって、いかに多くの平和条約や約束が反故にされ、無効になったか。そして、狐の性質を最も巧みに使いこなした者こそが、最も成功を収めてきたのである。

しかし、この性質を巧みに覆い隠し、優れた「偽装者」であり「欺瞞者」である必要がある。人間はあまりに単純で、目の前の必要に容易に屈するため、欺こうとする者は、常に欺かれる相手を見つけるものだ。最近の例を一つ、沈黙して通り過ぎるわけにはいかない。アレクサンデル六世は、人を欺くこと以外に何もしなかったし、それ以外のことを考えもしなかった。そして常にその犠牲者を見つけた。彼ほど、何かを断言するのに説得力があり、多大なる誓いとともに確約しながら、それを全く守らなかった男はいない。それにもかかわらず、彼は人間の本性を熟知していたため、その欺瞞は常に彼の望み通りに成功した。

したがって、君主にとって、私が挙げたすべての善い資質を実際に備えている必要はないが、それらを備えているように「見える」ことは極めて重要である。あえて言えば、それらをすべて備え、常に実行することは有害であり、それらを備えているように見えることこそが有益なのである。すなわち、慈悲深く、忠実で、人間味があり、誠実で、信心深いように見え、かつ実際にそうであるべきだが、もしそうでなくなる必要が生じたときには、即座に正反対の性質に切り替えることができるだけの精神の構えを持っていなければならない。

特に「新しい君主」は、人々から善いと見なされるすべての事柄を常に守ることはできないことを知らねばならない。国家を維持するためには、しばしば信義に背き、慈悲に反し、非人間的になり、宗教に逆らう行動を強いられるからだ。それゆえ、君主は、運命の風向きや状況の変化に応じて、自らを自在に転換できる精神を持たねばならない。先に述べた通り、可能な限り善から離れないようにすべきだが、必要に迫られれば悪に踏み入る方法を知っておかねばならないのである。

このため、君主は、自らの口から出る言葉がすべて、前述の五つの資質(慈悲、信義、人間性、誠実、宗教心)に満ち溢れているように細心の注意を払わねばならない。彼を見、その声を聞くすべての人にとって、君主は慈悲そのもの、信義そのもの、誠実そのもの、人間性そのもの、そして宗教心そのものであるかのように見えるべきだ。特に、この最後の「宗教心」を備えているように見えることほど、不可欠なものはない。人間は一般に、手で触れるよりも目で見ることで判断するからだ。誰もが君主の姿を見ることができるが、君主の真の姿に触れることができる者はごくわずかである。誰もが君主が見せている姿を見るが、君主が真に何者であるかを知る者はほとんどいない。そして、その少数の人々は、国家という威光に守られた多数派の意見に異を唱える勇気を持たない。また、あらゆる人間の行動、特に批判が許されない君主の行動については、人はその「結果」によって判断するものだからである。

それゆえ、君主は勝利を収め、国家を維持することだけに専念すればよい。そのための手段は常に正当であると見なされ、誰からも称賛されるだろう。大衆というものは、常に外見と結果によってのみ動かされるものだからだ。そして、この世は大衆で溢れている。少数の知者が入り込む余地があるのは、多数派がどこに拠って立つべきかを知らない時に限られる。

現代のある君主(名を挙げるのは控えるが)は、平和と信義以外に何も説かないが、実際にはその両方に対して極めて敵対的である。もし彼がそのどちらか一方でも守っていたなら、彼は何度も名声と国家を失っていただろう。

第十九章 軽蔑と憎悪をいかに避けるべきか

これまで君主が備えるべき資質について主なものを論じてきたが、残りの点については、ここで一括して手短に触れておきたい。要約すれば、君主が肝に銘じるべきは、先に断片的に述べた通り、自らを「憎悪」や「軽蔑」の対象にするあらゆる事柄を避けることである。この一点において失策がなければ、君主としての役割は十分に果たしたと言える。他のいかなる汚名を着せられようとも、身に危険が及ぶことはない。

何よりもまず、君主が憎悪を買う原因は、強欲に走り、臣民の財産や女を奪うことにある。これだけは、断じて慎まねばならない。大多数の人間は、自分の財産と名誉さえ侵されなければ、現状に満足して暮らすものである。そうなれば、君主が相手にすべきは一握りの野心家だけとなり、彼らを抑え込む手段などいくらでもある。

一方で、軽蔑を招くのは、君主が「移り気」「軽薄」「女々しい」「卑屈」「優柔不断」だと思われることだ。君主はこれらの欠点を、航海者が暗礁を避けるがごとく警戒しなければならない。むしろ自らの行動を通じて、偉大さ、勇気、重厚さ、不屈の精神を周囲に知らしめるよう努めるべきである。臣民との私的な関わりにおいては、一度下した裁定は決して覆さないという姿勢を示し、誰一人として君主を欺いたり、言いくるめたりできるなどという淡い期待を抱かせぬほどの威信を保たねばならない。

このような評価を確立した君主は、極めて高い名声を享受する。そして、高く評価されている君主に対して謀反を企てる者は稀である。なぜなら、その君主が優れた人物であり、民衆から敬愛されていることが周知の事実であれば、外敵も容易には手を出せないからだ。君主が抱くべき恐れには二種類ある。一つは臣民による内からの脅威、もう一つは諸外国による外からの脅威である。後者については、精強な軍備と良き同盟国を持つことで防衛できる。優れた軍備があれば、自ずと良き友邦も得られるものだ。そして、外敵との関係が安定していれば、すでに陰謀によって乱されていない限り、国内の情勢も平穏を保つことができる。仮に外敵が襲いかかってきたとしても、私が説いたような備えを怠らず、信念を持って生きてきた君主であれば、スパルタのナビスがそうであったように、あらゆる攻撃を退けることができるはずだ。

外敵の心配がない平時において、臣民に関して警戒すべきは、水面下で進められる陰謀である。これに対し、君主が最も安全を確保できる方法は、憎悪と軽蔑を避け、民衆を満足させておくことに尽きる。これがいかに重要であるかは、すでに詳しく述べた通りだ。陰謀に対する最も有効な特効薬の一つは、民衆から憎まれないことである。なぜなら、謀反を企てる者は、君主を亡き者にすれば民衆が喜ぶと信じているからだ。もし自分の行動が民衆を怒らせるだけだと分かれば、陰謀を完遂する勇気など湧いてこない。謀反の道には、数えきれないほどの困難が待ち受けている。歴史が示す通り、陰謀の企ては数多くあれど、成功した例は極めて少ない。謀反人は一人では動けず、不満分子の中から仲間を募るしかないが、不満を抱く者に計画を打ち明けた瞬間、相手に「密告」という成功への近道を与えてしまうことになる。密告すれば確実な報酬が得られる一方で、謀反に加担すれば不確実な未来と危険しかない。よほど稀有な友人か、あるいは君主に対して筋金入りの敵意を持つ者でなければ、秘密を守り通すことはないだろう。

端的に言えば、謀反人の側にあるのは、恐怖、嫉妬、そして処罰への怯えだけである。対して君主の側には、君主という地位の威厳、法、友邦の援助、そして国家という後ろ盾がある。これらに「民衆の支持」が加われば、もはや謀反を企てるほどの無鉄砲な者は現れまい。通常の陰謀であれば、実行前に恐怖を感じるものだが、この場合は実行後にも、民衆という敵を相手にする絶望的な逃避行が待っているからだ。

この例証は枚挙にいとまがないが、我々の父祖の時代にボローニャで起きた事件を一つ挙げよう。現在のアンニバーレの祖父にあたるメッセル・アンニバーレ・ベンティヴォーリは、ボローニャの君主であったが、カンネスキ一族の陰謀によって暗殺された。残されたのは、まだ幼子であったメッセル・ジョヴァンニただ一人。しかし暗殺の直後、ボローニャの民衆は蜂起し、カンネスキ一族を一人残らず惨殺した。これは、ベンティヴォーリ家が当時、民衆からいかに厚い支持を受けていたかの証左である。その支持は、アンニバーレの死後に国を治める者がいなくなった際、ベンティヴォーリ家の血を引く若者がフィレンツェにいるという噂(それまで彼は鍛冶屋の息子だと思われていた)を聞きつけたボローニャ市民が、わざわざ彼を迎えに行き、ジョヴァンニが成人するまで統治を委ねたほどであった。

それゆえ、民衆に愛されている君主は、陰謀など取るに足りないものと考えてよい。だが、一度民衆を敵に回し、憎悪を買ってしまえば、あらゆる物事、あらゆる人物を恐れなければならなくなる。秩序ある国家や賢明な君主は、貴族を絶望させないよう配慮しつつ、民衆を満足させることに細心の注意を払ってきた。これこそが、君主が果たすべき最重要の責務の一つだからだ。

現代において、統治の行き届いた王国の一つにフランスがある。そこには王の自由と安全を守る優れた制度が数多く存在するが、その筆頭は「パルルマン(高等法院)」とその権限である。この国の建国者は、貴族たちの野心と傲慢さを知っており、彼らを制御するための「轡(くつわ)」が必要だと考えた。一方で、民衆が恐怖ゆえに貴族を憎んでいることも理解しており、民衆を保護したいと考えた。しかし、王が直接どちらかの肩を持てば、貴族からは民衆を優遇していると恨まれ、民衆からは貴族に加担していると疑われる。そこで、王に代わって「強きを挫き、弱きを助ける」役割を果たす第三者機関として、法院を設立したのである。これほど賢明で、王と王国の安全に寄与する制度はない。ここから導き出される教訓は、君主は「恨みを買うような仕事」は他人に任せ、「恩恵を与えるような仕事」は自らの手で行うべきだということだ。重ねて言うが、君主は貴族を重んじるべきだが、それによって民衆の憎悪を買ってはならない。

ローマ皇帝たちの生涯と最期を振り返れば、私の主張に対する反論が出るかもしれない。皇帝の中には、立派な人格を持ち、優れた魂を示しながらも、臣民の陰謀によって帝位を追われ、殺害された者がいるからだ。この反論に答えるため、数人の皇帝の性格を分析し、彼らの破滅の原因が私の述べた原則と矛盾しないことを示そう。併せて、当時の歴史を学ぶ上で見逃せない点にも触れておきたい。

マルクス・アウレリウス(哲人皇帝)からマクシミヌスに至るまでの皇帝たちを例に挙げるのが適当だろう。すなわち、マルクス、その子コモドゥス、ペルティナクス、ユリアヌス、セウェルス、その子アントニヌス・カラカラ、マクリヌス、ヘリオガバルス、アレクサンデル、そしてマクシミヌスである。

まず注目すべきは、通常の君主国では「貴族の野心」と「民衆の不遜」だけを相手にすればよいが、ローマ皇帝には第三の難敵がいたことだ。それは「兵士たちの残忍さと強欲」である。これはあまりに困難な問題で、多くの皇帝を破滅に追いやった。平和を愛する民衆は穏やかな君主を好むが、兵士たちは、自分たちの給料を倍増させ、強欲と残忍さを発散させるために、果敢で残忍で略奪を好む好戦的な君主を求めたからだ。そのため、生まれ持った威信や、自ら築き上げた権威によって両者を統制できなかった皇帝たちは、例外なく破滅した。特に新しく帝位に就いた者の多くは、この相反する二つの気質の板挟みになり、結局は民衆を犠牲にしてでも兵士たちを満足させる道を選んだ。君主は誰からも憎まれずにいることは不可能だが、まずは「万民」から憎まれることを避けねばならず、それが叶わぬなら、最も強力な集団からの憎悪を回避するために全力を尽くさねばならない。それゆえ、経験の浅い新皇帝たちは、民衆よりも兵士に寄り添うことを選んだ。それが功を奏するかどうかは、君主がどれほど兵士たちを御する手腕を持っていたか次第であった。

こうした事情から、潔白な生活を送り、正義を愛し、残酷さを嫌ったマルクス、ペルティナクス、アレクサンデルのうち、マルクスを除いては悲惨な末路を辿った。マルクスだけが栄光のうちに生を全うできたのは、彼が世襲によって帝位を継承しており、兵士にも民衆にも恩義を感じる必要がなかったからだ。また、彼は多くの美徳によって尊敬を集めていたため、在位中は常に両陣営を分相応の位置に留め、憎まれることも軽蔑されることもなかった。

一方、ペルティナクスは兵士たちの意に反して皇帝に担ぎ上げられた。コモドゥス時代の放蕩に慣れきった兵士たちは、ペルティナクスが強いた規律正しい生活に耐えられなかった。こうして憎悪が生まれ、さらに彼の老齢に対する軽蔑が加わったことで、彼は統治の初期に暗殺された。ここで注目すべきは、憎悪というものは、悪行だけでなく善行によっても買われるということだ。君主が国家を維持しようとするならば、往々にして「善人」ではいられない状況に追い込まれる。君主が自らの基盤として頼りにする集団――それが民衆であれ、兵士であれ、貴族であれ――が腐敗している場合、その機嫌を取り、満足させるためには、あえて悪行に手を染める必要が出てくる。そうなれば、善行はむしろ害毒となるのだ。

アレクサンデルについても触れておこう。彼は稀に見る善人であり、十四年の在位期間中、正当な裁判を経ずに処刑された者は一人もいなかったと称賛されている。しかし、彼は「女々しい男」であり、「母親に操られている」と見なされたことで兵士たちの軽蔑を買い、軍の反乱によって殺害された。

対照的に、コモドゥス、セウェルス、カラカラ、マクシミヌスの四人は、極めて残忍で強欲であった。彼らは兵士を満足させるためなら、民衆に対してあらゆる非道を働くことを厭わなかった。そしてセウェルスを除き、全員が悲惨な死を遂げた。セウェルスだけが成功を収めたのは、彼の卓抜した「実力(ヴァルトゥ)」ゆえである。彼は民衆を虐げはしたが、兵士たちとの友好関係を保ち、その武勇によって、兵士からは畏敬され、民衆からは驚嘆と恐怖を抱かせ、不満を封じ込めることに成功した。新参の君主として見事な足跡を残した彼の行動から、君主がいかに「狐」と「獅子」を使い分けるべきかを簡潔に示したい。

セウェルスは、時の皇帝ユリアヌスの惰弱さを見抜くと、自分が率いていたスラヴォニアの軍団に対し、近衛兵に殺害されたペルティナクスの仇を討つためにローマへ進軍すべきだと説いた。この大義名分を掲げ、自らの野心を隠したままローマへ急行し、彼が到着するまで誰もその進軍を知らなかったというほどの速さでイタリアに乗り込んだ。ローマに到着すると、恐怖に駆られた元老院は彼を皇帝に選出し、ユリアヌスを殺害した。帝国の主となるために、彼には二つの障害が残っていた。一つはアジアで皇帝を自称したニゲル、もう一つは西方で帝位を狙うアルビヌスである。両者を同時に敵に回すのは危険だと判断したセウェルスは、ニゲルを武力で討ち、アルビヌスを策略で欺くことにした。彼はアルビヌスに対し、「元老院によって皇帝に選ばれたが、この栄誉を分かち合いたい」と書き送り、「カエサル」の称号を授け、共同統治者として迎えるふりをした。アルビヌスはこれを真に受けた。しかし、ニゲルを倒して東方を平定するや、セウェルスはローマに戻り、元老院で「アルビヌスが受けた恩義を忘れ、自分を暗殺しようとした」と告発した。そしてフランスまで追い詰め、その地位と命を奪ったのである。彼の行動を精査すれば、彼がいかに猛々しい獅子であり、いかに狡猾な狐であったかが分かるだろう。彼は万民から恐れられ、尊敬され、軍隊からも憎まれなかった。一介の新参者がこれほどの帝国を維持できたのは、彼の圧倒的な名声が、その暴虐ゆえに民衆が抱くはずの憎悪を撥ね退けていたからに他ならない。

息子のアントニヌス(カラカラ)もまた、優れた軍事的資質を備えていた。彼は過酷な労働に耐え、美食や贅沢を軽蔑したため、兵士たちから熱狂的に愛された。しかし、その残忍さは言語に絶するもので、無数の個人的な殺害にとどまらず、ローマやアレクサンドリアの市民を大量に虐殺した。その結果、彼は全世界から憎まれ、側近たちからも恐れられるようになり、ついには軍のまっただ中で一人の百人隊長によって刺殺された。ここで教訓とすべきは、確固たる決意と絶望的な勇気を持って実行される暗殺は、君主といえども避けようがないということだ。死を恐れない者であれば、誰でも君主を手にかけられるからである。とはいえ、こうした事態は極めて稀であるため、過度に恐れる必要はない。ただ、側近や国家の要職にある者に対して、耐え難い侮辱を与えないよう注意すればよい。カラカラはこの注意を怠り、その百人隊長の兄弟を処刑した上に、本人を毎日脅しながらも護衛の任に就かせ続けていた。これほどの無謀が、彼の破滅を招いたのである。

コモドゥスについて言えば、彼はマルクスの息子として帝位を継承したため、父の足跡を辿りさえすれば、統治を維持するのは容易なはずであった。しかし、彼は生まれつき残忍で獣のような性格であり、民衆から略奪するために兵士を甘やかし、堕落させた。一方で、自らの威厳を投げ打ち、剣闘士として舞台に立つなど皇帝の尊厳に泥を塗るような行為を繰り返したため、兵士たちの軽蔑をかった。一方は憎悪を抱き、もう一方は軽蔑を抱く。この状況下で、彼は陰謀によって殺害された。

最後にマクシミヌスである。彼は極めて好戦的な人物で、アレクサンデルの軟弱さに愛想を尽かした軍隊によって皇帝に担ぎ上げられた。しかし、その治世は短命に終わった。二つの理由から、彼は激しい憎悪と軽蔑を浴びたからだ。一つは、彼がかつてトラキアで羊飼いをしていたという卑しい出自が知れ渡り、万民から蔑まれたこと。もう一つは、即位後にローマへ入るのを遅らせ、その間に配下の執政官たちにローマや帝国全土で凄惨な暴政を行わせたことで、残虐非道な男としての悪名を轟かせたことである。まずアフリカが反旗を翻し、次いで元老院とローマ市民、そしてイタリア全土が蜂起した。さらには、アクイレイアの包囲戦で手こずり、彼の残虐さに嫌気がさしていた自軍の兵士たちまでもが、敵の多さを見て彼を恐れるに足りないと判断し、彼を殺害したのである。

ヘリオガバルスやマクリヌス、ユリアヌスについては、あまりに卑小で語るに値しないため、すぐに歴史から消し去られたと言っておこう。この議論の結論として、現代の君主は「兵士を過度に満足させねばならない」という困難に直面することは、ローマの時代に比べればはるかに少ない。もちろん兵士への配慮は必要だが、ローマ帝国のように、地方の統治や行政に深く根を張った常備軍を抱えている君主はいないからだ。当時は民衆よりも兵士を満足させることが優先されたが、現在はトルコ(オスマントルコ)とエジプト(マムルーク朝)の君主を除けば、民衆の方が強力であるため、民衆を満足させることが最優先となる。

例外としたトルコ皇帝は、常に一万二千の歩兵と一万五千の騎兵を身辺に置いており、それが王国の安全と強さの基盤となっている。それゆえ、民衆への配慮を二の次にしてでも、兵士たちとの友好を保たねばならない。エジプトの「スルタン」も同様で、国家が完全に兵士の手に握られている以上、民衆を差し置いてでも兵士の支持を繋ぎ止める必要がある。なお、スルタンの国家は他の君主国とは異なり、キリスト教の教皇領に似ている。それは世襲制でもなければ、完全な「新興君主国」でもない。先代の君主の子が跡を継ぐのではなく、権限を持つ者たちによって選出された者が君主となり、その子は単なる貴族に留まるからだ。この制度は古くから確立されているため、新興君主国特有の困難はない。君主自身は新しくとも、国家の制度は古く、世襲君主を迎えるかのように新君主を受け入れる準備ができているからだ。

さて、話を戻そう。以上の考察から明らかなように、前述の皇帝たちの破滅の原因は「憎悪」か「軽蔑」のいずれかであった。また、相反する行動をとった者たちのうち、ある者は成功し、ある者は悲惨な最期を遂げた理由も分かるはずだ。新参の君主であったペルティナクスやアレクサンデルが、世襲の君主であったマルクスの真似をしようとしたのは無益であり、危険であった。同様に、カラカラやコモドゥス、マクシミヌスが、セウェルスほどの器量もないのにその残忍さを模倣したことは、自滅を招く行為であった。したがって、新興君主はマルクスの行動をすべて模倣することはできないし、かといってセウェルスのやり方をすべて踏襲する必要もない。セウェルスからは「国家を樹立するために必要な要素」を学び、マルクスからは「すでに確立された国家を維持し、栄光をもたらすための資質」を取り入れるべきなのである。


第二十章 要塞の建設、その他君主が日常行う諸策は有益か有害か

  1. 君主が国家を盤石にするために用いる手段は様々である。臣民から武器を取り上げる者もいれば、征服地の党派争いをあえて助長する者、自らに対して敵意を抱かせるよう仕向ける者、統治の初期に疑いを抱いていた者たちを味方に引き入れることに腐心する者もいる。また、要塞を築く者もいれば、逆にそれを取り壊す者もいる。これらの諸策の是非を一概に断ずることは難しい。それぞれの国家が置かれた個別の状況を考慮せねばならないからだ。しかし、ここでは可能な限り、この問題の核心について一般論を述べておこう。

  2. 新興君主が臣民の武装を解除した例は歴史上存在しない。むしろ、臣民が無防備であれば、常に武器を与えてきた。武装させることで、その武器は君主のものとなり、疑わしかった者は忠実な臣下へと変わり、忠実だった者はその忠誠をさらに深め、臣民は君主の熱烈な支持者となるからだ。もちろん、臣民全員を武装させることはできないが、一部の者に恩恵(武器と特権)を与えれば、残りの者たちも御しやすくなる。武装を許された者は自らの責任を自覚し、許されなかった者も「危険と労苦を伴う者こそが報われるべきだ」と納得し、君主を恨むことはない。逆に、武装を解除すれば、それは臣民への不信感の表れと受け取られ、臆病か不忠の烙印を押されたと感じた臣民は、君主を激しく憎むようになるだろう。君主が無防備でいるわけにはいかない以上、必然的に傭兵に頼ることになるが、傭兵の有害さはすでに述べた通りだ。仮に傭兵が有能であっても、強力な外敵や不満を抱く臣民から君主を守り抜くことはできない。ゆえに、新興君主国においては、常に軍隊を組織することが鉄則である。しかし、既存の領土に新たな領土を併合した場合、その新領土の臣民からは、征服時に味方した者を除いて、武器を取り上げねばならない。そして、その味方した者たちでさえ、時とともに骨抜きにし、柔弱な性格に変えていく必要がある。最終的には、国家の武力は、旧領土で君主の身近にいた自国兵のみで構成されるように仕向けるべきである。

  3. 我々の先祖や、賢者と称された人々は、「ピストイアを維持するには党派争いを利用し、ピサを維持するには要塞を利用せよ」と説いた。そのため、彼らは支配下の都市に内紛を助長させ、支配を容易にしようとした。イタリアに勢力の均衡が保たれていた時代には、それも有効だったかもしれない。しかし、現代においてそれが教訓になるとは思えない。分裂した都市に敵が攻めてくれば、瞬く間に陥落するからだ。弱い方の党派は必ず外敵に内通し、強い方の党派だけでは防衛しきれない。ヴェネツィア人もまた、この理由から、支配下の都市でゲルフ(教皇派)とギベリン(皇帝派)の争いを煽った。流血の事態こそ避けさせたが、市民が内紛に明け暮れていれば、ヴェネツィアに反旗を翻す余裕はあるまいと考えたのだ。しかし、ヴァイラでの敗北後、一方の党派が即座に勢いを得て国家を奪い取ったことで、この策が裏目に出たのは周知の通りだ。こうした手法は君主の弱さの露呈に他ならない。強力な君主国であれば、決して内紛など許さない。平時には統治を容易にするかもしれないが、戦争という有事の際には、その脆弱さが露呈する。

  4. 君主が偉大さを手にするのは、困難や障害を克服した時である。それゆえ、世襲君主よりも名声を必要とする新興君主を偉大にしようと望むとき、運命の女神はあえて強力な敵を差し向け、謀略を巡らせる。それによって君主に戦う機会を与え、敵が用意した「梯子」を登らせ、より高みへと引き上げるのだ。したがって、賢明な君主であれば、機会を捉えて巧妙に自らへの敵意を煽り、それを鎮圧することで自らの名声をさらに高めるべきだと考える者も少なくない。

  5. 君主、特に新興君主は、統治の初期に信頼していた者よりも、当初疑っていた者たちの中に、より深い忠誠と有用性を見出すことが多い。シエナの君主パンドルフォ・ペトルッチは、かつて疑っていた者たちを重用して国を治めた。ただし、これは個々の状況によって異なるため一般化はできない。ただ一つ言えるのは、当初敵対していた者であっても、自らの地位を保つために君主の助けを必要とするような立場の者であれば、容易に味方に引き入れることができるということだ。彼らは過去の悪印象を拭い去るために、人一倍忠実に仕えようとする。それゆえ、安泰な地位に胡坐をかき、君主の事務を疎かにしがちな者たちよりも、君主に大きな利益をもたらすものである。また、内通者たちの手引きで新領土を手に入れた君主に忠告しておきたい。なぜ彼らが自分を助けたのか、その動機を冷徹に見極めよ。もしそれが君主への愛情ではなく、前政権への不満によるものであったなら、彼らの満足を維持するのは至難の業であり、友好関係を保つのは不可能に近い。古今東西の例を見れば分かる通り、新君主にとって、旧政権に満足していた「かつての敵」を友とする方が、旧政権に不満を持って「味方をした者」を繋ぎ止めるよりもはるかに容易なのである。

  6. 君主が国家を安泰にするために、反乱分子への「轡」とし、不意の攻撃に対する避難所として要塞を築くことは古くからの慣習であり、私もそれを否定はしない。しかし、現代において、メッセル・ニコロ・ヴィテッリがチッタ・ディ・カステッロを維持するために二つの要塞を取り壊し、ウルビーノ公グイド・ウバルドが、チェーザレ・ボルジアから取り戻した領土の要塞をすべて更地にした例がある。要塞がなければ二度と奪われることはないと考えたのだ。ベンティヴォーリ家がボローニャに戻った際も同様の決断を下した。つまり、要塞が有益か否かは状況次第であり、ある面で助けになっても、別の面では害になる。結論を言えばこうだ。「外敵よりも民衆を恐れる君主は要塞を築くべきであり、民衆よりも外敵を恐れる君主は要塞など放っておくべきである」。フランチェスコ・スフォルツァが築いたミラノの城塞は、スフォルツァ家にとって、いかなる内乱よりも多くの災いをもたらした。結局のところ、最高の要塞とは「民衆に憎まれないこと」に他ならない。民衆が君主を憎んでいるならば、いくら堅固な城壁があろうとも救いにはならない。武器を取った民衆に手を貸そうとする外敵は、決して絶えることがないからだ。現代において、要塞が君主の役に立った例は、夫ジローラモ伯爵を殺害されたフォルリ伯爵夫人のケースくらいだろう。彼女は要塞に立てこもることで民衆の攻撃を凌ぎ、ミラノからの援軍を待って政権を奪還できた。当時は民衆を助ける外敵がいなかったからだ。しかし、後にチェーザレ・ボルジアが攻めてきた時、民衆が彼と結託したため、要塞は何の役にも立たなかった。彼女にとって、要塞を持つことよりも、民衆から憎まれないことの方がはるかに安全な道だったのである。以上のことから、要塞を築く者も築かぬ者も、私は等しく称賛する。しかし、要塞を過信し、民衆の憎悪を軽んじる者は、厳しく難じざるを得ない。


第二十一章 名声を高めるために君主はいかに行動すべきか

君主が尊敬を勝ち取るために、大事業を成し遂げ、自ら稀有な手本を示すことほど有効なものはない。現代におけるその最良の例は、スペインの現国王、アラゴンのフェルナンドである。彼は弱小国の王から、名声と栄光によってキリスト教世界で第一の王へと上り詰めた、いわば「新興君主」である。彼の事績を振り返れば、すべてが壮大であり、中には驚天動地と言えるものもある。即位直後に行ったグラナダ攻略は、彼の覇権の礎となった。彼はまずこの事業を、貴族たちに余計な懸念を抱かせぬよう慎重に進めた。カスティリャの貴族たちが戦争に目を奪われている隙に、彼は着々と権力を掌握していったのである。教会と民衆から集めた資金で軍を維持し、その長きにわたる戦いを通じて、後に彼を際立たせることになる精強な軍隊を鍛え上げた。さらに、より大規模な野望を果たすために、常に「宗教」を大義名分に掲げ、敬虔という名の残虐さをもって、王国からモーロ人を一掃した。これほど見事な、そして類を見ない手本はない。同じ口実のもとに、彼はアフリカを襲い、イタリアに侵攻し、ついにはフランスを叩いた。彼の企ては常に壮大であり、臣民は絶えずその推移に目を奪われ、驚嘆し、結末を固唾を飲んで見守ることとなった。そして、一つの事業が終わらぬうちに次の布石を打つことで、誰にも反撃の隙を与えなかったのである。

また、国内政治において際立った手本を示すことも、君主の名声を大いに高める。ミラノのメッセル・ベルナボに関する逸話のように、市民が善行であれ悪行であれ、何か並外れたことをした際に、世間で語り草になるような特別な方法で褒賞や処罰を与えるのだ。君主は何よりもまず、あらゆる行動を通じて「偉大で卓越した人物である」という評価を確立するよう努めねばならない。

さらに、君主が「真の友」あるいは「真の敵」であることを鮮明にすること、すなわち躊躇なく一方の陣営への支持を表明することも、尊敬を集める要因となる。中立を保つよりも、この道を選ぶ方が常に有利である。隣接する二つの強国が衝突した際、勝者が君主にとって脅威となるか否かに関わらず、態度を明確にして全力で戦う方が得策なのだ。なぜなら、まず勝者が脅威となる場合、中立を守っていれば、君主は必ず勝者の餌食となり、敗者はそれを見て快哉を叫ぶだろう。君主を守ってくれる者は誰もいない。勝者は、苦難の時に助けてくれなかった疑わしい友など必要としないし、敗者は、武器を取って運命を共にしなかった君主を匿うはずがないからだ。

かつてアイートーリア人に招かれてローマ人を追い払うべくギリシャに入ったアンティオコスは、ローマの友人であったアカイア人に中立を促す使者を送った。一方で、ローマ人はアカイア人に参戦を促した。アカイア人の会議において、アンティオコスの使者が中立の利を説いた際、ローマの使節はこう反論した。「我々の戦争に介入しないことが最善だという主張があるが、これほど誤った考えはない。介入しなければ、君たちは何の恩義も敬意も得られぬまま、勝者の報酬となるだけだ」。

敵ではない者は常に中立を求め、友である者は常に参戦を求めるものだ。優柔不断な君主は、目先の危険を避けようとして中立の道を選び、自滅する。しかし、君主が勇敢に一方を支持し、その同盟側が勝利したなら、たとえ勝者が強大で君主がその慈悲にすがる立場になったとしても、そこには恩義と友情の絆が生まれる。人間、それほど恥知らずではなく、助けてくれた者を虐げて不義理の象徴となることはない。勝利といえども、勝者が正義を完全に無視できるほど完璧なものではないのだ。逆に、同盟側が敗北したとしても、君主は敗者に受け入れられ、可能な限りの援助を受け、いつの日か再び浮上する運命を共にする仲間となれる。

次に、戦っている両者が君主にとって脅威でない場合、どちらかに味方することはさらに賢明な策となる。なぜなら、一方が賢明であれば救うはずの相手を、君主の助けを借りて滅ぼすことになるからだ。君主の助けがあれば勝利は確実であり、勝者は君主の意のままになる。ここで注意すべきは、やむを得ない場合を除き、他国を攻撃するために自分より強力な国と同盟を組んではならないということだ。勝利した瞬間、君主はその強国の虜になってしまう。君主は、他人の意のままになる状況を全力で避けねばならない。ヴェネツィア人はミラノ公を叩くためにフランスと組んだが、この不必要な同盟が彼らの破滅を招いた。しかし、フィレンツェが教皇とスペインの連合軍に攻められた時のように、回避不能な事態であれば、前述の理由からどちらかの陣営に付くべきである。

いかなる国家も、常に安全な道を選べると信じてはならない。むしろ、すべての選択肢は疑わしいものだと覚悟すべきだ。一つの困難を避けようとすれば、別の困難に突き当たるのが世の常である。思慮分別とは、困難の種類を見極め、より小さな悪を選択することに他ならない。

また君主は、才能を愛で、あらゆる芸術に精通した者を重んじる姿勢を示すべきである。同時に、臣民が商業や農業、その他の職業に安心して励めるよう奨励せねばならない。自分の財産が奪われることを恐れて土地の改良を躊躇したり、重税を恐れて商売を控えるようなことがあってはならない。むしろ、こうした活動を通じて都市や国家を豊かにしようとする者には、惜しみない褒賞を与えるべきである。

さらに、一年のうちの適切な時期に、祭礼や見世物で民衆を楽しませることも重要だ。あらゆる都市は職能ギルドや社会集団に分かれている。君主はこうした集団を尊重し、時には彼らの集まりに顔を出し、自ら礼節と寛大さの手本を示すべきである。ただし、君主としての威厳だけは、いかなる時も、いかなる事柄においても、決して損なうことがあってはならない。


第二十二章 君主の秘書官について

君主にとって、近臣の選択は極めて重要である。彼らが有能であるか否かは、君主自身の洞察力にかかっている。君主の知性や人物像を判断する最初の基準は、その身近にどのような人間を置いているかを見ることだ。側近たちが有能で忠実であれば、君主は賢明であると見なされる。有能な者を見抜き、その忠誠を繋ぎ止める術を知っているからだ。しかし、側近がその逆であれば、君主の評価は低くならざるを得ない。その選択こそが、君主が犯した第一の過ちだからである。

シエナの君主パンドルフォ・ペトルッチの臣下であったメッセル・アントニオ・ダ・ヴェナフロを知る者は皆、彼を側近に持ったパンドルフォを、極めて有能な人物だと評価した。知性には三つの段階がある。第一は、自ら事理を解する者。第二は、他人が解したことを正しく理解する者。第三は、自らも解せず、他人の説明も理解できない者である。第一は最高であり、第二も優れているが、第三は無用である。パンドルフォが第一の段階でなかったとしても、少なくとも第二の段階にはあったはずだ。なぜなら、他人の言動の善し悪しを判別する判断力さえあれば、自ら創意工夫ができずとも、臣下の働きを正しく評価し、褒賞と矯正を使い分けることができるからだ。そうなれば、臣下も君主を欺くことはできないと悟り、誠実に仕えるようになる。

臣下を見極めるための、決して誤ることのない確実な試金石がある。もしその者が、君主の利益よりも自分の利益を優先し、あらゆる行動の裏に自らの利得を求めているなら、その者は決して良き臣下にはなれず、信頼に値しない。他人の国を預かる者は、決して自分自身のことを考えてはならず、常に君主のことを考え、君主に関係のない事柄に心を砕いてはならないからだ。

一方で、臣下の忠誠を保つために、君主もまた彼を重んじ、富を与え、恩義を施し、栄誉と責任を分かち合うべきである。臣下が「自分一人では立ち行かない」と自覚するほどに厚遇せよ。十分な名誉があればそれ以上の野心を抱かず、十分な富があればそれ以上の欲望を抑え、十分な責任があれば変革を恐れるようになる。このように君主と臣下が互いに誠実な関係にあれば、両者は信頼し合える。しかし、一方がその道を外れれば、その結末は必ずやどちらかにとって悲劇的なものとなるだろう。


第二十三章 諂い(へつらい)をいかに避けるべきか

この重要な問題に触れないわけにはいかない。君主が細心の注意と洞察力を備えていない限り、宮廷に溢れる「諂い」という疫病から身を守ることは極めて困難だからだ。人間は自惚れが強く、自らの行いに盲目になりがちであるため、この害悪を避けるのは容易ではない。かといって、諂いを防ごうと躍起になれば、今度は軽蔑を招く危険がある。諂いから身を守る唯一の方法は、「真実を告げられても、私は決して怒らない」ということを周囲に理解させることだ。しかし、誰もが君主に真実を言えるようになれば、君主への敬意は失われてしまう。

ゆえに、賢明な君主は「第三の道」を歩まねばならない。すなわち、国内から賢者を選び抜き、彼らに対してのみ、君主が求めた事柄についてだけ真実を語る自由を許すのである。君主はあらゆる事柄について彼らに諮り、その意見に耳を傾け、その上で自ら決断を下すべきだ。これらの顧問官たちに対しては、率直に語れば語るほど重用されるということを、個別に、あるいは全体に知らしめるべきである。しかし、彼ら以外の人間の言葉には耳を貸さず、一度決めたことは毅然として実行せねばならない。これを怠る君主は、諂い者に翻弄されるか、あるいは意見をコロコロ変える優柔不断な男として軽蔑されることになる。

この点について、現代の例を挙げよう。現皇帝マクシミリアンの側近であったフラ・ルカは、皇帝についてこう語っている。「陛下は誰にも相談されないが、何一つ思い通りに事が運んだ試しがない」。これは、皇帝が前述の原則とは真逆の行動をとっているからだ。皇帝は秘密主義で、自分の計画を誰にも明かさず、意見も求めない。しかし、いざ計画を実行に移そうとすれば、周囲にその意図が露見し、側近たちから反対される。皇帝は押しに弱いため、そこで計画を曲げてしまう。その結果、今日なされたことが明日には覆され、皇帝が何を望み、何を意図しているのか誰にも分からず、その決断を誰も頼りにしなくなるのである。

したがって、君主は常に助言を求めるべきだが、それは「他人が望む時」ではなく「自分が望む時」でなければならない。求められてもいないのに助言をしようとする者には、釘を刺しておくべきだ。ただし、君主自身は飽くなき探究者であり、諮問した事柄については忍耐強い聞き手でなければならない。もし誰かが何らかの配慮から真実を隠していると分かったなら、容赦なく怒りを示すべきである。

「君主が賢明に見えるのは、周囲に優れた助言者がいるからであり、君主自身の能力ではない」と考える者がいるが、それは大きな間違いだ。これは決して揺らぐことのない鉄則であるが、「君主自身が賢明でなければ、決して良き助言を得ることはできない」のである。例外があるとすれば、君主が全権を委ねた一人の極めて賢明な人物に完全に操られている場合のみだ。その場合、統治はうまくいくかもしれないが、長くは続くまい。その摂政が、遠からず君主から国を奪い取ってしまうからだ。

また、経験の浅い君主が複数の人間から助言を求めた場合、意見はバラバラになり、それらを一つにまとめる術も君主にはない。顧問官たちはそれぞれ自分の利益を考え、君主は彼らを制御することも、その本心を見抜くこともできない。人間というものは、必要に迫られて誠実さを強制されない限り、常に不実な本性を現すものだ。結論として、良き助言は君主の賢明さから生まれるものであって、良き助言が賢明な君主を作るのではない。


第二十四章 イタリアの君主たちはいかにしてその国を失ったか

これまで述べてきた事柄を忠実に守れば、新興君主であっても、古くからの世襲君主以上に安定した統治を築くことができる。新興君主の行動は世襲君主よりも厳しく注目されるものだが、その手腕が優れていると認められれば、古くからの血筋以上に人々の心を惹きつけ、強く結びつけることができるからだ。人間は過去よりも現在に心を動かされるものであり、現在が良好であれば、それに満足して他を求めなくなる。君主が他の面で失策を犯さない限り、民衆は全力で君主を守り抜くだろう。こうして、新たな君主国を打ち立て、優れた法、優れた軍備、優れた同盟、そして優れた手本によって国家を飾り立て、強化することは、君主にとって二重の栄光となる。逆に、君主として生まれながら、その不徳ゆえに国を失うことは、二重の不名誉である。

現代のイタリアで国を失った君主たち、例えばナポリ王やミラノ公らを振り返れば、第一の共通の欠陥として、すでに詳述した「軍備」の問題が挙げられる。第二に、彼らの多くは民衆を敵に回していたか、あるいは民衆を味方につけていても貴族を抑える術を知らなかった。野戦を維持できるだけの力を持つ国家が、こうした過ちを犯さぬ限り、滅びることはないのである。

マケドニアのフィリッポス(アレクサンデル大王の父ではなく、ティトゥス・クィンティウスに敗れた方)は、彼を攻めたローマ人やギリシャ人の強大さに比べれば、わずかな領土しか持っていなかった。しかし、彼は武勇に優れ、民衆の心をつかみ、貴族を掌握する術を知っていた。そのため、多年にわたって強敵との戦争を戦い抜き、最終的にいくつかの都市を失いはしたが、王国そのものは守り通した。

ゆえに、長年保ってきた国を失ったイタリアの君主たちは、運命の不運を嘆くのではなく、自らの怠慢を恥じるべきである。平穏な時に、事態が急変することなど夢にも思わなかった(嵐の前に凪があることを想定しないのは、人間の共通の欠陥である)。いざ逆境が訪れると、彼らは戦うことよりも逃げることを考え、「征服者の傲慢さに嫌気がさした民衆が、いつか自分たちを呼び戻してくれるだろう」と淡い期待を抱いた。他に打つ手がない時の最後の手段としては悪くないかもしれないが、自らの無策を棚に上げて、誰かが拾い上げてくれるのを待つなどという生き方は、あまりに卑屈である。他人に頼った救済など、真の救済ではない。確実で永続的な救済とは、ただ自らの能力と武勇(ヴァルトゥ)にのみ依拠するものなのだ。


第二十五章 運命は人間の営みにおいていかなる力を持ち、いかに抗うべきか

世界の出来事は運命と神によって支配されており、人間の知恵では抗うことも、変えることもできないという考えが、世間に根強くあることは承知している。それゆえ、人はあくせく働くのをやめ、すべてを偶然のなすがままに任せるべきだという結論に至る。現代において、我々の想像を絶するような激変が日々繰り返されているのを目の当たりにすれば、こうした意見が信じられるのも無理はない。私自身、時には彼らの意見に傾きかけることもある。しかし、我々の「自由意志」を否定しないためには、次のように考えるべきだろう。運命は我々の行動の半分を支配しているかもしれないが、少なくとも残りの半分、あるいはそれに近い部分は、我々自身の手に委ねられているのだ、と。

私は運命を、猛り狂う川に例えたい。一度氾濫すれば平野を飲み込み、木々をなぎ倒し、建物を壊し、土壌を削り取って別の場所へ運び去る。あらゆるものがその暴力に屈し、抗う術を持たない。しかし、川がそういう性質のものだからといって、平時に人間が堤防を築き、堀を掘り、再び水かさが増したときに安全に水を流し、その破壊力を弱める備えをしてはならないということにはならない。運命もまた同じである。自らの実力(ヴァルトゥ)によって抵抗の準備がなされていない場所でその猛威を振るい、自分を抑え込むための堤防や障壁がないと見抜いた場所へ、その力を向けるのである。

これらの激変の舞台であり、その発信源でもあるイタリアを見れば、ここがいかに堤防も障壁もない無防備な平原であるかが分かるだろう。もしイタリアが、ドイツやスペイン、フランスのように適切な武勇によって守られていたならば、これほどの激変にさらされることも、あるいは侵略そのものを受けることもなかったはずだ。運命への一般的な抵抗については、これくらいにしておこう。

より具体的な状況について言えば、ある君主が、昨日まで幸福の絶頂にいながら、何ら性格も行動も変えていないのに、今日には破滅しているという光景をよく目にする。これは第一に、すでに詳述した通り、運命に全面的に依存している君主は、運命が変われば共に滅びるからである。第二に、時代の精神(時勢)に自らの行動を適応させられる者が成功し、適応できない者が失敗するのだと私は信じる。人間は、富と栄光という共通の目標に向かって、様々な方法で突き進む。ある者は慎重に、ある者は急進的に。ある者は暴力で、ある者は策略で。ある者は忍耐強く、ある者はその逆で。そして、それぞれが異なる道を通って目的地に到達する。また、二人の慎重な者のうち、一方が成功し他方が失敗することもある。逆に、慎重な者と性急な者が、全く異なるやり方で共に成功することもある。これらはすべて、その手法が「時勢」に適合しているか否かにかかっている。手法が異なっても結果が同じになることもあれば、手法が同じでも結果が分かれることもある。

君主の浮沈もここに起因する。慎重さと忍耐をもって統治している君主にとって、時代と状況がその手法に合致していれば、彼の統治は成功し、運命は微笑むだろう。しかし、時代と状況が変わったときに、自らの行動を変えることができなければ、彼は破滅する。だが、変化に適応できるほど聡明な人間は滅多にいない。一つには、自らの天性に逆らうことができないからであり、もう一つには、これまでのやり方で成功し続けてきたがゆえに、その道を変えるべきだと自分を納得させられないからだ。それゆえ、慎重な男は、いざ大胆さが求められる局面になっても、どう動いていいか分からず、破滅の道を辿る。もし彼が時勢に合わせて性格を変えることができたなら、運命が変わることはなかっただろう。

教皇ユリウス二世は、あらゆる事柄において猪突猛進であった。そして、幸運にも彼の時代の状況は、その激しさに完璧に合致していたため、彼は常に成功を収めた。メッセル・ジョヴァンニ・ベンティヴォーリが健在だった頃の、最初のボローニャ遠征を思い起こしてほしい。ヴェネツィア人は反対し、スペイン王も乗り気ではなく、フランス王とはまだ交渉中であった。それにもかかわらず、彼は持ち前の果敢さとエネルギーで自ら軍を率いて出陣した。この電撃的な行動により、スペインとヴェネツィアは呆然とし、一方は恐怖から、もう一方はナポリ王国奪還の野心から動けなくなった。一方で、教皇の動きを見たフランス王は、ヴェネツィアを叩くために教皇を味方につけておきたいと考え、援軍を拒むことができなくなった。ユリウス二世は、その性急な行動によって、いかなる教皇が人間の知恵を尽くしても成し得なかったことを成し遂げたのだ。もし彼が、他の教皇たちがしたように、ローマですべての計画を固め、万全の準備が整うのを待っていたなら、決して成功はしなかっただろう。フランス王は数千の言い訳を並べ、他国は数千の脅威を突きつけてきたはずだからだ。

彼の他の事績もすべて同様であり、すべてが成功に終わった。彼の命が短かったおかげで、逆風を経験せずに済んだのだ。もし慎重さが求められる時代が訪れていたなら、彼は破滅していただろう。自らの天性が命じるやり方を変えることなど、彼には決してできなかったからだ。

結論を言おう。運命は移ろいやすく、人間はその手法に固執するものである。両者が合致している間は成功し、食い違えば失敗する。私個人の見解としては、慎重であるよりは、むしろ果敢である方が良いと思う。なぜなら、運命は女性であり、彼女を従えようと思えば、打ちのめし、手荒に扱うことも辞さない覚悟が必要だからだ。運命は、冷静に事を運ぶ者よりも、荒々しく立ち向かう者に征服されることを好む。それゆえ、彼女は常に若者の味方である。若者は慎重さに欠け、より激しく、より大胆に彼女を支配するからだ。


第二十六章 蛮族の手からイタリアを解放するための勧告

これまで論じてきた事柄を深く省み、果たして今のイタリアが、新興君主を迎えるにふさわしい時期にあるのか、そして、賢明で卓越した実力(ヴァルトゥ)を持つ人物が、自らに名声を、民衆に幸福をもたらすような「新たな秩序」を導入する機会があるのかを自問してみた。私の目には、あまりに多くの条件が新興君主の出現を後押ししており、今ほどその機会に満ちた時代はないように思われる。

かつて、モーセの能力を際立たせるためにはイスラエルの民がエジプトで奴隷となっている必要があり、キュロスの魂の偉大さを知らしめるためにはペルシャ人がメディア人に虐げられている必要があり、テセウスの卓越した手腕を証明するためにはアテネ人が離散している必要があった。それと同様に、イタリアの精神がいかに気高いかを証明するためには、現在のこの惨状が必要だったのだ。すなわち、ヘブライ人以上に隷属し、ペルシャ人以上に抑圧され、アテネ人以上に散り散りになり、指導者もなく、秩序もなく、打ちのめされ、略奪され、引き裂かれ、蹂躙され、あらゆる困苦を舐め尽くした今のイタリアである。

かつて、ある人物の中に神が遣わした救世主の輝きを見たことがあったが、彼はその絶頂期において運命に見放された。今のイタリアは、瀕死の状態で自らの傷を癒してくれる者を待っている。ロンバルディアの略奪に終止符を打ち、ナポリ王国やトスカーナでの搾取と重税を止め、長く放置され膿んだ傷口を清めてくれる者を。イタリアがいかに神に祈り、蛮族の横暴から救い出してくれる誰かを待ち望んでいるかは、火を見るよりも明らかだ。旗を掲げる者さえ現れれば、イタリアは喜んでその後に続く準備ができている。

そして今、貴家(メディチ家)以上に希望を託せる存在はいない。貴家は、その武勇と幸運を備え、神と教会(現在は貴家がその頂点にある)の加護を受けており、この救済の旗頭となるにふさわしい。私が挙げた偉人たちの生涯と事績を思い起こせば、それは決して不可能なことではない。彼らもまた人間であり、今の貴家以上に恵まれた機会を持っていたわけではない。彼らの大義がこれ以上に正義であったわけでも、これ以上に容易であったわけでもなく、神が彼らの味方であった以上に貴家の味方でないはずがない。

我々の側には大いなる正義がある。「必要とされる戦争は正義であり、武器以外に希望がないとき、その武器は神聖なものとなる」からだ。民衆の意志は極めて高く、意志あるところに困難はない。私が指し示した先人たちの足跡を辿りさえすればよいのだ。さらに、神の奇跡もまた類を見ない形で示されている。海は割れ、雲は道を導き、岩からは水が溢れ、マナが降り注いだ。すべては貴家の偉大さのために備えられている。残された仕事は、貴家自身の手で成し遂げねばならない。神はすべてを代行してはくださらない。我々の自由意志と、我々に割り振られた栄光を奪うことを望まれないからだ。

前述のイタリア人たちが、貴家に期待されることを成し遂げられなかったとしても、驚くには当たらない。多年にわたるイタリアの動乱と戦乱の中で、イタリアの武勇が尽き果てたかのように見えるのは、従来の軍事制度に欠陥があり、誰も新しい制度を編み出すことができなかったからだ。新しく立ち上がった人物にとって、自ら新しい法と秩序を打ち立てることほど名誉なことはない。それが堅固な基盤に基づき、威厳あるものであれば、その人物は尊敬と驚嘆を集める。イタリアには、いかなる形式の秩序をも受け入れるだけの素地がある。

イタリア人の末端(兵士)には優れた武勇が備わっているが、頭脳(指導者)がそれに欠けている。一騎打ちや少人数での戦闘を見れば、イタリア人がいかに力強く、器用で、機敏であるかが分かるだろう。しかし、軍隊となるとその力は発揮されない。それは指導者の無能ゆえである。有能な者は服従せず、誰もが自分こそは知者であると自惚れている。武勇においても運命においても、他を圧倒して従わせるほどの傑出した人物がこれまで現れなかった。そのため、過去二十年の戦乱において、イタリア人だけで構成された軍隊は常に惨敗を喫してきた。タロ川、アレッサンドリア、カプア、ジェノヴァ、ヴァイラ、ボローニャ、メストリでの戦いが、その生き証人である。

したがって、祖国を救った偉人たちの跡を追おうとする貴家にとって、何よりもまず必要なのは、自国の軍隊を組織することだ。これこそがあらゆる事業の真の基盤である。自国の兵士以上に忠実で、勇敢で、優れた兵は存在しない。一人ひとりが優れているが、自らの君主に率いられ、敬われ、養われるならば、彼らは一丸となってさらに強力な軍勢となるだろう。蛮族の侵略からイタリアの武勇を守るためには、こうした軍備を整えることが不可欠である。

スイス兵やスペイン兵の歩兵は恐るべき存在とされているが、双方には欠陥がある。それを見抜けば、第三の新しい軍制によって彼らに対抗し、打ち破ることが可能だ。スペイン兵は騎兵の突撃に弱く、スイス兵は自分たちと同等かそれ以上に粘り強い歩兵との近接戦闘を恐れる。事実、スペイン歩兵はフランス騎兵を食い止めることができず、スイス歩兵はスペイン歩兵に圧倒されてきた。後者の例として、ラヴェンナの戦いがある。スイス兵と同じ戦術をとるドイツ歩兵に対し、機敏なスペイン兵は盾を使い、長槍の下を潜り抜けて懐に飛び込み、安全な位置から攻撃を仕掛けた。もし騎兵が救援に来なければ、ドイツ兵は全滅していただろう。これら両者の欠陥を踏まえ、騎兵に抗し、歩兵を恐れない新しい軍制を考案することは可能だ。それは単なる武器の刷新ではなく、戦術の変革によって成し遂げられる。こうした革新こそが、新興君主に名声と権威をもたらすのである。

この絶好の機会を逃してはならない。イタリアにようやく救済者が現れるのを、今こそ見せつけるのだ。長年蛮族の蹂躙に苦しんできた諸州が、どれほどの愛情、どれほどの復讐心、どれほどの不屈の信仰、どれほどの涙をもって彼を迎え入れるか、言葉では言い尽くせない。彼に対して閉ざされる門があるだろうか。彼の服従を拒む民がいるだろうか。彼の出世を阻む妬みがあるだろうか。彼に臣下の礼を尽くさないイタリア人がいるだろうか。我々すべてにとって、この蛮族の支配は鼻持ちならない悪臭を放っている。

ゆえに、貴家はこの使命を、正義の大義が持つ勇気と希望をもって引き受けていただきたい。貴家の旗の下で、我々の祖国が再び気高さを取り戻し、貴家の庇護の下で、ペトラルカのあの詩が真実となるように。

「美徳(ヴァルトゥ)は狂暴(フルーレ)に対し  武器を手に取り、戦いは短く終わるだろう。  古の武勇は  イタリアの心の中に、今も死んではいないのだから。」


チェーザレ・ボルジアがいかにしてヴィテロッツォ・ヴィテッリ、オリヴェロット・ダ・フェルモ、パゴロ公、およびグラヴィーナ・オルシーニ公を謀殺したかについての記述

ニコロ・マキャヴェッリ著

チェーザレ・ボルジア(ヴァレンティーノ公)は、アレッツォやヴァル・ディ・キアーナの諸都市の反乱を巡り、フィレンツェ人からフランス王へ向けられた中傷を釈明するためにロンバルディアへ赴いていたが、そこから戻り、イモラに到着した。彼はそこから軍を率いて、ボローニャの僭主ジョヴァンニ・ベンティヴォーリに対する遠征を開始するつもりであった。その都市を支配下に置き、ロマーニャ公国の中心地とするためである。

この計画を知ったヴィテッリ一族、オルシーニ一族とその一派は、公の勢力が強大になりすぎることを危惧した。ボローニャが奪われれば、公はイタリアの覇者となるべく、自分たちを抹殺しにかかるのではないかと恐れたのである。そこで彼らはペルージャ近郊のマジョーネで会合を開いた。出席したのは、オルシーニ枢機卿、パゴロ、グラヴィーナ・オルシーニ公、ヴィテロッツォ・ヴィテッリ、オリヴェロット・ダ・フェルモ、ペルージャの僭主ジャンパゴロ・バリオーニ、そしてシエナの君主パンドルフォ・ペトルッチの代理として送られたメッセル・アントニオ・ダ・ヴェナフロである。彼らは公の強大さと野心を抑えねば、自分たちが破滅の危機にさらされることを議論した。そして、ベンティヴォーリ家を見捨てず、フィレンツェ人を味方に引き入れ、各地に人を送って共通の敵に対する共闘を呼びかけることを決定した。この会合のニュースは瞬く間にイタリア全土に広まり、ウルビーノの民衆をはじめ、公の支配に不満を持つ者たちが一斉に蜂起の希望を抱いた。

人心が揺らぐ中、ウルビーノの者たちが公の守備隊が置かれていたサン・レオの要塞を奪取する計画を立てた。彼らは、城代が岩山に木材を運び込もうとしている隙を狙った。運び込まれた材木が橋の上にあり、跳ね橋を上げられなくなった瞬間を見計らって橋に飛び乗り、要塞を占拠したのである。この成功に触発されてウルビーノ全土が反乱を起こし、先代の公を呼び戻した。彼らは要塞の奪取以上に、マジョーネの会合からの支援を期待していたのである。

ウルビーノの反乱を知ったマジョーネの同盟者たちは、この機を逃すまいと軍を集結させ、公の手に残っている都市を攻略すべく進軍した。彼らは再びフィレンツェに使者を送り、「共通の火種(ボルジア)」を消し去るために協力するよう求めた。今ならリスクは小さく、この機会を逃すべきではないと説いたのである。

しかし、フィレンツェ人は諸々の理由からヴィテッリ家やオルシーニ家を激しく憎んでいたため、同盟を拒否したばかりか、書記官ニコロ・マキャヴェッリを公のもとに派遣し、敵に対する援助と避難所の提供を申し出た。イモラにいた公は、予期せぬ部下たちの裏切りと、目前に迫った敵の軍勢に恐怖していた。しかし、フィレンツェからの申し出に勇気を取り戻すと、残ったわずかな手勢で戦う前に、和解の交渉を始めつつ時間を稼ぎ、援軍を集める決断をした。彼はフランス王に援軍を要請すると同時に、傭兵や騎士を募り、彼らに惜しみなく金を与えた。

それでも敵は迫り、フォッソンブローネ近郊で公の軍勢と衝突した。オルシーニとヴィテッリの援護を受けた反乱軍は、公の軍を撃破した。この敗北を受けて、公は和解の提案によって事態を収拾しようと決意した。希代の偽装工作の名手である彼は、反乱者たちに対し、「これまでに得た領地はすべて保持してよい。自分は君主という称号さえあれば十分であり、実質的な支配は諸君に任せる」と信じ込ませるために、あらゆる手段を講じた。

この策略は見事に功を奏し、反乱軍は和解交渉のためにパゴロ・オルシーニを公のもとに送り、進軍を停止させた。しかし公はその間も着々と軍備を整え、騎兵と歩兵を集めた。その準備が敵に悟られないよう、部隊を小分けにしてロマーニャ各地に分散させた。その間にフランスから五百騎の槍騎兵も到着した。公は公然と戦って復讐を果たすのに十分な力を得ていたが、敵を欺いて一網打尽にする方が安全で有利だと考え、和解交渉を止めなかった。

和解を確実なものにするため、公は彼らと和平条約を締結した。旧来の契約を再確認し、即座に四千ドゥカートを支払い、ベンティヴォーリ家を傷つけないことを約束し、ジョヴァンニと攻守同盟を結んだ。さらに、彼らが望まない限り、公の御前に参頭することを強制しないという条項まで設けた。対して彼らは、奪ったウルビーノ公国などを返還し、公のあらゆる遠征に従事し、公の許可なく他国と戦ったり同盟を結んだりしないことを誓った。

和解が成立すると、ウルビーノ公グイド・ウバルドは再びヴェネツィアへ亡命したが、去り際に自国の要塞をすべて破壊した。民衆の支持を信じていた彼は、守りきれない要塞が敵の手に渡り、味方を苦しめることを望まなかったからだ。一方、ヴァレンティーノ公は、ロマーニャ各地に分散させていた部隊を招集し、十一月末にフランス兵を伴ってイモラを出発した。次いでチェゼーナへ向かい、そこでウルビーノ公国に集結していたヴィテッリやオルシーニの使節と、次の遠征先について協議した。しかし結論が出なかったため、オリヴェロット・ダ・フェルモが派遣され、「公がトスカーナ遠征を望むなら準備はできている。もし望まないなら、シニガリアを包囲する」と提案した。公は、フィレンツェ人と敵対することになるトスカーナ遠征は望まないが、シニガリア攻略には賛成だと答えた。

間もなくシニガリアの町は降伏したが、城代が「公本人以外には引き渡さない」と主張して要塞が明け渡されなかった。そのため、彼らは公にシニガリアへ来るよう促した。これは公にとって絶好の機会であった。彼らに招かれて行くのであれば、疑念を抱かれる心配がないからだ。彼らをさらに安心させるため、義弟カンダレス氏が率いる百騎を除いて、ロンバルディアから同行していたフランス兵をすべて帰還させた。十二月中旬にチェゼーナを発ち、ファーノへ向かった公は、狡猾な弁舌を尽くして、ヴィテッリとオルシーニにシニガリアで待機するよう説得した。従わないことは和解の誠実さを疑わせる行為であり、自分は友人の武勇と助言を頼りにしているのだと説いたのである。ヴィテロッツォは、兄の死(チェーザレによる処刑)という教訓から、一度敵対した君主を信じることに極めて慎重であったが、公に買収され約束を与えられていたパゴロ・オルシーニに説得され、ついに待機することに同意した。

一五〇二年十二月三十日、ファーノを出発する直前、公は側近の中の側近八人(後の枢機卿ドニ・ミケーレやエウナ司教ら)に自らの計画を打ち明けた。ヴィテロッツォ、パゴロ・オルシーニ、グラヴィーナ公、オリヴェロットが到着次第、二人一組で彼ら一人ひとりに付き添い、シニガリアに到着するまで退席させず、公の宿舎へ連行して捕縛せよと命じたのである。

次いで公は、騎兵二千余、歩兵一万からなる全軍に対し、夜明けまでにファーノから五マイル(約八キロメートル)のメタウロ川に集結するよう命じた。十二月三十一日の朝、メタウロ川で軍と合流した公は、まず二百騎の先遣隊を送り出し、次いで歩兵を進ませ、自らは残りの騎兵と共に進軍した。

ファーノとシニガリアはアドリア海沿いのマルケ地方にある二つの都市で、その距離は十五マイル(約二十四キロメートル)である。シニガリアへ向かう道中、右手には山が迫り、所々で海に接している。シニガリアの町は山の麓から弓の届く距離にあり、海岸からは約一マイル(約一・六キロメートル)離れている。町の側には小さな川が流れ、ファーノ側の城壁と街道に沿って流れている。シニガリアに近づくには、山沿いの道をしばらく進み、町を流れる川に至る。そこから堤防に沿って左に弓の届く距離ほど進むと、川に架かる橋がある。その橋のほぼ正面にシニガリアの門があるが、道は直線ではなく斜めに通じている。門の手前には家々が立ち並び、川の堤防を一面とする広場がある。

公を迎える準備を整えていたヴィテッリとオルシーニは、公の軍勢を収容するために、自分たちの部隊をシニガリアから六マイル(約十キロメートル)ほど離れた近隣の城へ移動させていた。シニガリアの町に残っていたのは、オリヴェロットが率いる歩兵千人と騎兵百五十騎だけで、彼らは前述の郊外の住宅地に宿営していた。こうして準備が整ったところへ、ヴァレンティーノ公が到着した。騎兵の先頭が橋に差し掛かったが、彼らは渡らず、橋の両側に分かれて川と野原に向かって展開し、中央に歩兵が通り抜けるための道を作った。歩兵たちは立ち止まることなく、そのまま町の中へと入っていった。

ヴィテロッツォ、パゴロ、グラヴィーナ公はラバにまたがり、数人の騎手を連れて公を出迎えた。ヴィテロッツォは武器を帯びず、緑の裏地のついたケープを羽織り、自らの死を予感しているかのようにひどく消沈していた。その武勇と過去の栄光を知る者にとって、その姿は驚きであった。シニガリアへ向けて出発する際、彼は部下たちに対し、これが今生の別れであるかのように振る舞い、一族の行く末を隊長たちに託し、甥たちには「一族の運命ではなく、父祖の美徳を胸に刻め」と諭したという。三人は公の前に進み出て恭しく挨拶し、公もまた彼らを親しげに迎えた。彼らはすぐに、監視役を命じられていた側近たちの間に挟まれる形となった。

公は、シニガリアに留まっているはずのオリヴェロットの姿がないことに気づいた。オリヴェロットは川の近くの宿舎前の広場で、部隊の整列と訓練を行っていたのである。公は、オリヴェロットの監視役であったドニ・ミケーレに目配せし、彼を逃さないよう合図を送った。ミケーレは馬を走らせてオリヴェロットの元へ行き、「部下を外に出しておくと、公の軍勢に宿舎を占拠される恐れがある。すぐに部下を宿舎に入れ、自分は公を出迎えに行くべきだ」と助言した。オリヴェロットはこの言葉に従い、公の前に現れた。公は彼を呼び寄せ、オリヴェロットは礼を尽くして他の三人に加わった。

一行はシニガリアの町に入り、公の宿舎で馬を降りた。奥の秘密の部屋へ案内された瞬間、公は彼らを捕縛した。すぐさま公は馬に乗り、オリヴェロットとオルシーニの部隊から武器を取り上げるよう命じた。近くにいたオリヴェロットの部下たちは即座に制圧されたが、遠方にいたオルシーニとヴィテッリの部隊は、主君たちの破滅を察知して再集結し、オルシーニ家・ヴィテッリ家伝来の武勇と規律を発揮して、地元の敵対勢力や公の軍を撥ね退けて脱出した。

公の兵士たちは、オリヴェロットの部下から略奪するだけでは飽き足らず、シニガリアの町全体を略奪し始めた。公が略奪に加わった数人を即座に処刑して鎮圧しなければ、町は完全に破壊されていただろう。夜になり、騒乱が収まると、公はヴィテロッツォとオリヴェロットの殺害を命じた。二人は一室に連行され、絞殺された。死に際して、二人はそれまでの武勇に似つかわしくない言葉を遺した。ヴィテロッツォは教皇に自分の罪の赦免を乞い、オリヴェロットは公に対するすべての裏切りの責任をヴィテロッツォに押し付け、卑屈に命乞いをしたという。パゴロとグラヴィーナ・オルシーニ公は、ローマで教皇がオルシーニ枢機卿、フィレンツェ大司教、メッセル・ヤコポ・ダ・サンタクローチェを捕らえたという報せが届くまで生かしておかれた。そして一五〇三年一月十八日、ピエーヴェの城において、彼らもまた同様の方法で絞殺された。


ルッカの君主カストルッチョ・カストラカーニ伝

ニコロ・マキャヴェッリ著 友人ザノービ・ブオンデルモンティおよびルイージ・アラマンニに捧ぐ

カストルッチョ・カストラカーニ(1284年-1328年)

親愛なるザノービとルイージよ。世に偉業を成し遂げ、同時代の人々の中で抜きん出た存在となった者たちの多くが、卑しい出自や不明な家系に生まれている、あるいは運命によって過酷な試練を課されているというのは、まことに不思議なことだ。彼らは野獣の群れの中に捨てられたり、あるいはあまりに卑小な親を持ったために、自らをジュピターや他の神の子であると偽らざるを得なかった。こうした例を挙げていけばきりがないし、読者にとっても退屈であろうから割愛する。私が思うに、運命(フォルトゥーナ)はこうした偉人たちの初期の歩みにおいて、彼らの成功が人間の知恵によるものではなく、自らの手によるものであることを世界に示したいのだ。知恵がまだ何の力も持たない幼少期から、運命はその力を誇示し始める。ゆえに、すべての成功は運命に帰せられるべきなのだ。ルッカのカストルッチョ・カストラカーニもまた、その時代と彼が生まれた都市の規模に照らせば、偉大な事績を残した一人である。しかし、彼もまた多くの偉人と同様、決して恵まれた家系に生まれたわけではない。彼の生涯を振り返ることは、彼の中に実力(ヴァルトゥ)と運命の稀有な融合を見出すことができ、人々にとって大いなる手本となると信じるからだ。また、高潔な行為を何よりも好む諸君に、彼の事績を伝えることは私の義務であるとも感じている。

カストラカーニ家はかつてルッカの貴族であったが、ここで語る時代には、世の常として没落しつつあった。この家にアントニオという息子が生まれ、彼はルッカのサン・ミケーレ教会の司祭となり、メッセル・アントニオと呼ばれ尊敬されていた。彼には一人妹がおり、ブオナッコルソ・チェナミと結婚していたが、夫に先立たれた後、再婚せず兄と同居していた。メッセル・アントニオの家の裏には葡萄園があり、周囲を庭園に囲まれていたため、誰でも自由に出入りできた。ある日の日の出直後、アントニオの妹マドンナ・ディアノーラが、食事の味付け用のハーブを摘みに葡萄園へ入ったところ、葡萄の葉の間からガサガサという音と、赤ん坊の泣き声のようなものが聞こえた。彼女が近づいてみると、そこには葉に包まれ、母親を求めて泣いている赤ん坊がいた。驚きと恐怖、そして深い慈愛に駆られた彼女は赤ん坊を抱き上げ、家に連れ帰って体を洗い、清潔な布で包んだ。戻ってきたメッセル・アントニオも、赤ん坊を見て妹に劣らぬ驚きと慈しみを感じた。二人は相談の末、兄は司祭であり、妹には子がなかったことから、この子を育てることに決めた。乳母を雇い、実の子のように愛情を注いで育てた。二人は亡き父の名にちなんで、その子をカストルッチョと名付けた。

成長するにつれ、カストルッチョは類まれな美貌と知性を備えるようになった。メッセル・アントニオが教える学問を、年齢に似つかわしくない速さで吸収していった。アントニオは彼を司祭にし、自らの聖職禄を継がせるつもりで教育を施したが、やがてカストルッチョの気質が聖職には全く向いていないことに気づかされた。十四歳になったカストルッチョは、もはや養父母の小言を恐れなくなり、聖典を読むのをやめて武器を持って遊ぶことに熱中した。走ること、跳ぶこと、仲間とレスリングをすることに何よりの喜びを見出した。あらゆる運動において、彼は勇気と体力の面で仲間を圧倒し、彼を支配する者はいなかった。本を読むにしても、戦争や偉人の英雄伝にしか興味を示さなかった。メッセル・アントニオはこれを見て、深く嘆き悲しんだ。

当時、ルッカにグイニージ家のメッセル・フランチェスコという武人がいた。彼は富、体力、そして武勇においてルッカで右に出る者はなかった。ミラノのヴィスコンティ家の指揮下で戦った経験もあり、ルッカにおけるギベリン(皇帝派)の指導者であった。彼は毎朝晩、ルッカで最も美しいサン・ミケーレ広場の高台にあるポデスタ(行政長官)のバルコニーの下に、他の貴族たちと集まるのを習慣にしていた。そこで彼は、街の子供たちに混じって前述のような遊びに興じるカストルッチョの姿を何度も目にしていた。カストルッチョが他の少年たちを遥かに凌駕し、彼らに対して王のような威厳を持って接し、少年たちもまた彼を愛し服従している様子を見て、フランチェスコはその少年の素性を知りたいと強く願うようになった。カストルッチョの生い立ちを聞いた彼は、この少年を自分の側に置きたいと考えた。ある日、彼はカストルッチョを呼び、「ミサや教会の儀式ばかりを教わる司祭の家で暮らすのと、馬に乗り武器を扱う術を教わる貴族の家で暮らすのと、どちらがよいか」と尋ねた。カストルッチョは「馬」や「武器」という言葉を聞いただけで顔を赤らめ、歓喜に震えた。フランチェスコに促されると、彼は「もし許されるなら、司祭の修行をやめて兵士になりたい」と答えた。この答えに満足したフランチェスコは、すぐにメッセル・アントニオの承諾を得た。アントニオもまた、少年の天性を抑え続けることは不可能だと悟り、譲歩せざるを得なかったのである。

こうしてカストルッチョは司祭の家から軍人の家へと移ったが、短期間のうちに、真の貴族にふさわしい徳性と立ち振る舞いを身につけた。彼はまず卓越した騎手となり、いかなる荒馬も自在に操り、馬上槍試合やトーナメントでは若年ながら誰よりも際立った活躍を見せた。しかし、これらの能力以上に人々を魅了したのは、彼の謙虚な態度であった。目上の者には敬意を払い、同輩には慎み深く、目下の者には礼儀正しく接したため、誰の反感も買わなかった。これらの資質により、彼はグイニージ家のみならず、ルッカ市民全員から愛されるようになった。彼が十八歳の時、パヴィアでギベリンがゲルフ(教皇派)によって追放される事件が起き、ヴィスコンティ家からの要請でフランチェスコが援軍として派遣されることになった。カストルッチョも部隊を任されて同行した。この遠征でカストルッチョは、いかなる隊長をも凌ぐ知略と勇気を示し、その名はパヴィアのみならずロンバルディア全土に轟いた。

かつてないほど高い評価を得てルッカに戻ったカストルッチョは、あらゆる手段を尽くして友人を作り、そのための努力を惜しまなかった。その頃、メッセル・フランチェスコが亡くなった。彼は十三歳の息子パゴロを残し、カストルッチョをその守護職および財産管理人に指名した。死の間際、フランチェスコはカストルッチョを呼び寄せ、自分がこれまでカストルッチョに注いできた愛情をパゴロにも注いでほしいこと、そして自分に返しきれなかった恩を息子に返してほしいと懇願した。フランチェスコの死後、カストルッチョがパゴロの後見人となったことで、彼の権力と地位は絶大なものとなった。しかし、かつての万人からの好意は、彼が独裁の野心を抱いているのではないかという疑念と嫉妬に変わり始めた。その筆頭はゲルフの党首ジョルジョ・デリ・オピジであった。ジョルジョはフランチェスコの死後にルッカの第一人者となることを目論んでいたが、若くして卓越した能力を持ち、後見人としての地位を固めたカストルッチョがその邪魔になると考えた。彼はカストルッチョを失脚させるべく、陰謀の種をまき始めた。カストルッチョは最初これを冷笑していたが、やがてジョルジョがナポリ王ルベルトの代官と結託して自分を追放しようとしていることを知り、危機感を抱いた。

当時、ピサの領主はアレッツォ出身のウグッチョーネ・デッラ・ファッジュオーラであった。彼は最初ピサの隊長に選ばれ、後にその主となった人物である。ピサにはルッカから追放されたギベリンたちが身を寄せており、カストルッチョは彼らと連絡を取り合い、ウグッチョーネの助けを借りて彼らを帰還させる計画を立てた。また、ルッカ国内でもオピジ家の支配を快く思わない友人たちを仲間に引き入れた。カストルッチョは慎重にオネスティの塔を要塞化し、数日間の籠城に耐えられるよう武器と食糧を運び込んだ。約束の夜、ウグッチョーネが多くの兵を率いてピサとルッカの間の平原を占拠すると、合図が送られた。ウグッチョーネは気づかれることなくサン・ピエロ門に接近し、格子門を焼き払った。同時にカストルッチョが市内で騒乱を起こし、民衆に武器を取るよう呼びかけ、内側から門をこじ開けた。市内に流れ込んだウグッチョーネの軍勢は、メッセル・ジョルジョとその一族、支持者たちを惨殺した。代官は追放され、政府はウグッチョーネの意向通りに再編されたが、百以上の家系が追放されるという惨状となった。逃れた者たちはフィレンツェや、ゲルフの拠点であったピストイアに向かったため、ピストイアはウグッチョーネとルッカに対して激しい敵意を抱くようになった。

フィレンツェ人を中心とするゲルフ陣営は、トスカーナでギベリンの勢力が強まりすぎることを危惧し、追放されたルッカのゲルフを復帰させることを決定した。彼らはニエーヴォレ谷に大軍を集結させてモンテカティーニを占領し、ルッカへの通路を確保するためにモンテカルロへ進軍した。これに対し、ウグッチョーネはピサとルッカの軍勢にロンバルディアから呼び寄せたドイツ騎兵を加え、フィレンツェ軍を迎え撃った。敵はモンテカルロから撤退し、モンテカティーニとペーシャの間に陣を張った。ウグッチョーネはモンテカルロ近郊、敵から約二マイル(約三キロメートル)の地点に陣を構え、連日小競り合いが続いた。しかし、ウグッチョーネが病に倒れたため、ピサ・ルッカ連合軍は攻撃を躊躇した。病状が悪化したウグッチョーネは治療のためにモンテカルロに退き、軍の指揮をカストルッチョに委ねた。これがゲルフの破滅を招いた。敵軍は指揮官が不在になったことで「蛇は頭を失った」と過信したのである。カストルッチョはこれを見抜き、数日間あえて恐怖の色を見せ、陣地の防御を固めるだけで一歩も動かなかった。ゲルフ軍はますます傲慢になり、連日カストルッチョの陣前で挑発を繰り返した。敵が十分に油断し、その戦術を見極めたカストルッチョは、ついに決戦を決意した。彼は兵士たちに「自分の命令に従えば勝利は確実だ」と激励した。

カストルッチョは、敵が精鋭を中央に配置し、弱体な兵を両翼に置いていることに注目した。そこで彼は全く逆の配置をとった。最も勇敢な兵を両翼に、信頼の置けない兵を中央に配したのである。陣を整えた彼は、挑発に来た敵軍の前に姿を現した。彼は中央の部隊にはゆっくり進むよう命じ、両翼の部隊には急速進撃を命じた。その結果、両軍が接触したとき、戦っているのは両翼のみで、中央の部隊は互いに遠く離れたまま戦いに加わることができなかった。カストルッチョの精鋭部隊は敵の弱体な部隊を叩き、一方で敵の精鋭部隊は遊兵と化したのである。フィレンツェ軍は自分たちの目の前の敵と戦うことも、両翼を助けることもできず、カストルッチョの両翼部隊によって瞬く間に壊滅させられた。中央の部隊も、両翼が崩れたのを見て、武勇を示す機会もないまま潰走した。ゲルフ軍は一万以上の戦死者を出し、多くの騎士や貴族、さらには救援に来ていたルベルト王の弟ピエロ、甥のカルロ、タラント領主フィリッポまでもが命を落とした。対してカストルッチョ側の損害はわずか三百人ほどであったが、その中にはウグッチョーネの息子で、若さゆえに突出したフランチェスコが含まれていた。

この勝利によってカストルッチョの名声は絶大なものとなったが、同時にウグッチョーネは彼に対して嫉妬と疑念を抱くようになった。この勝利は自らの権力を強めるどころか、カストルッチョという脅威を育ててしまったと感じたからだ。彼はカストルッチョを除く機会を窺っていた。その機会は、ルッカの名士ピエール・アニョーロ・ミケーリが殺害され、その犯人がカストルッチョの家に逃げ込んだ時に訪れた。犯人を逮捕しに来た代官の役人たちをカストルッチョが追い払い、犯人を逃がしたのである。ピサにいたウグッチョーネはこの知らせを聞き、カストルッチョを罰する絶好の口実ができたと考えた。彼はルッカの知事であった息子ネーリを呼び、宴席でカストルッチョを捕らえて処刑するよう命じた。何も疑わずに出向いたカストルッチョは、知事と食事を共にした直後に捕縛され、牢に投げ込まれた。しかし、ネーリはカストルッチョを殺せば民衆が暴動を起こすことを恐れ、父に再考を促すために彼を生かしておいた。ウグッチョーネは息子の優柔不断さを呪い、四百の騎兵を率いて自ら決着をつけるべくピサからルッカへ向かった。しかし、彼が途中の温泉地に達したとき、ピサで反乱が起き、代官が殺害されてガッド・デッラ・ゲラルデスカ伯が新たな領主になったという報せが届いた。ウグッチョーネは引き返さずルッカへ急いだが、ピサの例に倣ってルッカ市民が門を閉ざすことを恐れた。ルッカ市民はすでにピサの反乱を知っており、ウグッチョーネが到着したにもかかわらず、カストルッチョの解放を叫んで蜂起した。最初は密やかな囁きだったものが、やがて広場や通りで公然と叫ばれるようになり、ついには武器を手にした民衆がウグッチョーネにカストルッチョの釈放を迫った。事態の悪化を恐れたウグッチョーネは、カストルッチョを釈放した。自由の身となったカストルッチョは即座に友人や民衆を率いてウグッチョーネを攻撃した。逃げ場を失ったウグッチョーネはロンバルディアのスカラ家の元へ逃れ、そこで貧困のうちに没した。

カストルッチョは囚人の身から一転してルッカの事実上の支配者となり、友人や民衆に対して極めて慎重に振る舞ったため、一年間の軍司令官に任命された。彼はさらなる名声を求め、ウグッチョーネの去った後に反乱を起こした諸都市の奪還を計画した。ピサと条約を結んで援護を取り付けると、セレッザーナへ進軍した。彼は町の向かいに今日ゼレッザネッロと呼ばれる砦を築き、二ヶ月で町を攻略した。その勢いでマッサ、カッラーラ、ラヴェンザを次々と落とし、短期間のうちにルニジャーナ全土を制圧した。ロンバルディアからルニジャーナへの通路を封鎖するため、彼はポントレモーリを包囲し、領主メッセル・アナスタージオ・パラヴィチーニからこれを奪い取った。この勝利を携えてルッカに戻った彼は、全市民から熱烈な歓迎を受けた。もはや君主となる時期を遅らせるべきではないと考えたカストルッチョは、買収しておいたパッツィーノ・デル・ポッジョ、プッチネッロ・ダル・ポルティコ、フランチェスコ・ボッカンサッキ、チェッコ・グイニージらの支持を得て、ルッカの領主に推戴され、その後正式に民衆によって選出された。この頃、バイエルンのフリードリヒ(ルートヴィヒ四世)が皇帝の戴冠式のためにイタリアへ入った。カストルッチョは彼と友好を結ぶため、五百の騎兵を率いて出迎えた。彼は留守中のルッカを、亡きフランチェスコの息子で民衆から愛されていたパゴロ・グイニージに託した。皇帝はカストルッチョを最大限の礼をもって迎え、多くの特権を与え、彼をトスカーナにおける皇帝代理に任命した。当時、ピサ市民は追放したガッド・デッラ・ゲラルデスカを恐れて皇帝に助けを求めていた。皇帝はカストルッチョをピサの領主に任命し、ゲルフ陣営、特にフィレンツェを恐れていたピサ市民も、彼を主として受け入れざるを得なかった。

皇帝はイタリアの事務を監視する代官をローマに残してドイツへ戻った。皇帝に従うトスカーナやロンバルディアのギベリンたちは、皆カストルッチョに助けと助言を求め、自国の政権を奪還した際には彼を総督に迎えることを約束した。その中には、フィレンツェから追放されたギベリンの名士マッテオ・グイディ、ナルド・スコラーリ、ラーポ・ウベルティ、ゲロッツォ・ナルディ、ピエロ・ブオナッコルシらも含まれていた。カストルッチョは、彼らの協力と自軍の力をもってトスカーナ全土を支配する野望を密かに抱いた。さらに影響力を強めるため、ミラノの君主メッセル・マッテオ・ヴィスコンティと同盟を結び、軍備を強化した。ルッカには五つの門があったため、彼は領内を五つの軍管区に分け、武器を配備して隊長を置いた。これにより、ピサからの援軍を除いても、即座に二万の兵を動員できる体制を整えた。こうした軍備を整えていた時、メッセル・マッテオ・ヴィスコンティが、フィレンツェ軍とルベルト王の支援を受けたピアチェンツァのゲルフに攻撃された。マッテオはカストルッチョに対し、フィレンツェ領内に侵攻して、彼らの軍をロンバルディアから引き揚げさせるよう要請した。カストルッチョはヴァルダルノに侵攻し、フチェッキオとサン・ミニアートを占領して甚大な被害を与えた。フィレンツェ軍は慌てて撤退したが、彼らがトスカーナに到着する前に、カストルッチョは別の急務のためにルッカへ戻らねばならなかった。

ルッカのポッジョ一族は、カストルッチョを君主の座に押し上げた功労者であったが、自分たちが受けた報償が功績に見合わないと不満を抱いていた。彼らは他の有力家系を煽り、カストルッチョをルッカから追放しようと企てた。ある朝、彼らは武器を取って決起し、カストルッチョが秩序維持のために残した代官を襲撃して殺害した。彼らは民衆に蜂起を呼びかけたが、一族の長老で平和主義者のステファノ・ディ・ポッジョが介入した。彼は一族を説得して武器を置かせ、自分がカストルッチョとの仲介役となり、彼らの要求を叶えることを約束した。一族は、決起した時と同じ程度の軽率さで武器を置いた。ルッカの変報を聞いたカストルッチョは、軍の指揮をパゴロ・グイニージに任せ、騎兵部隊を率いて急行した。予想に反して反乱は収束していたが、彼は市内の要所に兵を配置した。ステファノはカストルッチョが自分に深く感謝していると信じ、彼を訪ねた。自分の功績を誇ることもせず、一族の若さゆえの過ちを許し、過去の友情と一族への恩義を忘れないでほしいと懇願した。カストルッチョは慈愛に満ちた態度で応じ、ステファノを安心させた。反乱が収まったことは、起きた時以上の喜びであると語り、「神が寛大さと慈悲を示す機会を与えてくれたことに感謝する」と言って、一族を連れてくるよう促した。ステファノと一族がカストルッチョの言葉を信じて出頭すると、彼らは即座に捕らえられ、ステファノもろとも処刑された。一方、フィレンツェ軍はサン・ミニアートを奪還した。カストルッチョは、ルッカ国内の基盤がまだ盤石でないと考え、和平を結ぶのが得策だと判断した。彼はフィレンツェに休戦を提案し、戦費に苦しんでいたフィレンツェ側もこれを快諾した。二カ年の休戦条約が結ばれ、両者は現在の占領地を保持することになった。内憂を断ったカストルッチョは、二度と同じ危険に遭わないよう、様々な口実を設けて、君主の座を脅かす可能性のある野心家たちを次々と粛清した。国外追放、財産没収にとどまらず、手中に収めた者は一人残らず殺害し、「誰一人として信頼に値しないことを経験から学んだ」と言い放った。さらに安全を期すため、殺害したり追放したりした者たちの塔の石材を使って、ルッカに強固な要塞を築き上げた。

フィレンツェとの和平中も、カストルッチョは公然たる戦争以外の手段で勢力拡大に余念がなかった。ピストイアを手に入れればフィレンツェに王手をかけられると考えた彼は、ピストイア周辺の山岳地帯の住民と親交を結び、市内の両陣営から信頼を得るよう工作した。ピストイアは例によって「白党(ビアンキ)」と「黒党(ネーリ)」に分裂しており、白党の首領はバスティアーノ・ディ・ポッセンテ、黒党はヤコポ・ダ・ジアであった。両者はそれぞれカストルッチョと密通し、相手を追放しようと企て、ついには武力衝突に至った。ヤコポはフィレンツェ門を、バスティアーノはルッカ門を固めた。両者とも、フィレンツェ人よりも行動の早いカストルッチョを頼り、援軍を求めた。カストルッチョは双方に約束を与え、バスティアーノには自分が直接向かうと伝え、ヤコポには弟子のパゴロ・グイニージを送ると伝えた。約束の時刻、彼はパゴロをピサ経由で向かわせ、自らは直行して深夜に市外で合流し、双方から「友人」として迎え入れられた。市内に入ると、カストルッチョの合図で一方はヤコポを、もう一方はバスティアーノを殺害し、それぞれの党派の者たちを捕縛または殺害した。抵抗を受けることなくピストイアを手に入れたカストルッチョは、シニョーリア(政府)を宮殿から追い出し、民衆に多くの約束を与え、古い借金を免除して忠誠を誓わせた。近隣の農民たちも新しい君主を一目見ようと押し寄せ、その武勇に圧倒されて即座に帰順した。

この頃、教皇がアヴィニョンに不在であったため、ローマでは物価高騰による深刻な騒乱が起きていた。ドイツ人の代官エンリコは、連日続く殺人と暴動を抑えられず、非難の矢面に立たされていた。彼は、ローマ市民がナポリ王ルベルトを呼び寄せ、ドイツ人を追い出して教皇を連れ戻すのではないかと危惧した。カストルッチョ以上に頼れる友がいなかったエンリコは、彼に援助と、ローマへの親征を乞う使者を送った。カストルッチョは、皇帝がローマを失えば自分の地位も危うくなると考え、躊躇なく承諾した。パゴロ・グイニージをルッカに残し、六百の騎兵を率いてローマに入ると、エンリコから最大の敬意をもって迎えられた。カストルッチョの存在は皇帝への畏敬を取り戻させ、流血を見ることなく秩序が回復した。彼はピサ周辺から大量の穀物を海路で運び込ませ、騒乱の元凶であった食糧不足を解消したのである。彼はローマの首謀者数人を処刑し、他を戒め、エンリコへの絶対服従を誓わせた。カストルッチョは多くの栄誉を授かり、ローマ元老院議員に任命された。その就任式において、彼は金襴のトガを纏った。その前面には「我は神の望み給うままに」と刺繍され、背面には「神の望み給うことは成らん」と記されていた。

この間、休戦中にピストイアを奪われたことに憤慨したフィレンツェ人は、カストルッチョの不在を突いてピストイアを奪還しようと画策した。フィレンツェに亡命していたピストイア人のバルド・チェッキとヤコポ・バルディーニは、市内の内通者と連絡を取り、フィレンツェ軍の助けを借りて夜間に潜入し、カストルッチョの役人や支持者を追放・殺害してピストイアを解放した。この知らせに激怒したカストルッチョは、エンリコに暇乞いをして急ぎピストイアへ向かった。フィレンツェ軍は、カストルッチョがピストイアへ至る道を断つべく、ニエーヴォレ谷のセッラヴァッレの峠で彼を待ち伏せすることにした。ゲルフ陣営の総力を挙げた三万の大軍がピストイア領に入った。一方、カストルッチョはモンテカルロに到着したが、敵軍と平原で戦うことを避け、セッラヴァッレの峠で奇襲をかける決断をした。敵は三万、こちらは一万二千。まともに戦えば数に圧倒されることは明白であった。セッラヴァッレはペーシャとピストイアの間にある、ニエーヴォレ谷を塞ぐ山上の城である。峠道は狭く急峻で、頂上付近は二十人が並ぶのがやっとという狭さであった。城主のマンフレッドはドイツ人で、ルッカとピストイアの間にあって中立を守ることを条件に、これまで独立を保っていた。カストルッチョはこの城を占拠すれば勝利は確実だと考え、城内の友人と通じて、攻撃の前夜に四百の兵を潜り込ませ、城代を殺害させた。

カストルッチョはフィレンツェ軍を誘い出すため、あえてモンテカルロから動かなかった。フィレンツェ軍は翌朝に峠を越えるべく、セッラヴァッレの麓に陣を張った。深夜、カストルッチョは静寂のうちに全軍を動かし、麓に到達した。夜明けとともに、両軍は同時に峠への登坂を開始した。カストルッチョは歩兵を本道から、四百の騎兵を左の城への小道から進ませた。フィレンツェ軍は先遣隊として四百の騎兵を先行させていたが、カストルッチョが峠を占拠し、城まで奪っているとは夢にも思わなかった。登り切ったところでカストルッチョの歩兵と鉢合わせたフィレンツェ騎兵は、面を当てる暇もないほどの急襲を受けた。準備の整った軍が、不意を突かれた軍を叩いたのである。麓のフィレンツェ本隊は大混乱に陥った。狭い峠道で騎兵と歩兵が入り乱れ、隊長たちは退くことも進むこともできなくなった。先遣隊の騎兵は必死に抵抗したが、退路を断たれ、左右は山、前方は敵、後方は味方に塞がれた絶望的な状況で全滅した。カストルッチョはさらに城にいた兵に命じて敵の側面を突かせた。フィレンツェ軍はこの猛攻に耐えきれず、武勇よりも地形によって敗れ、潰走を始めた。追撃は凄惨を極めた。フィレンツェの貴族バンディーニ・デイ・ロッシ、フランチェスコ・ブルネレスキ、ジョヴァンニ・デッラ・トーザをはじめ、ルベルト王からの援軍を含む多くの騎士が捕虜となった。ピストイア市民はこの敗北を知るや否やゲルフ陣営を追放し、カストルッチョに降伏した。彼はプラートをはじめアルノ川両岸の諸城を次々と手中に収め、フィレンツェからわずか二マイル(約三キロメートル)のペレトラ平原に陣を張った。そこで数日間、勝利を祝う祭礼や競技会を行い、馬や男女の競走を開催した。また、フィレンツェの敗北を記念するメダルを鋳造させた。彼はフィレンツェ市内の内通者に門を開けさせようと工作したが、陰謀が露見し、トンマーゾ・ルパッチやランベルトゥッチョ・フレスコバルディらが処刑された。窮地に陥ったフィレンツェ人は、自由を捨ててナポリ王ルベルトに統治権を委ね、王は毎年二十万フローリンの貢納を条件にこれを受諾した。王は息子カルロを四千の騎兵とともにフィレンツェへ送った。

カストルッチョはフィレンツェ包囲を解かざるを得なくなった。ピサの有力者ベネデット・ランフランキが、ルッカの支配を潔しとせず、反乱を企てたからである。ベネデットは要塞を奪い、カストルッチョの支持者を殺害する計画を立てていたが、仲間に引き入れようとした男に密告された。この密告には、ピサに亡命していたフィレンツェ人のボニファチョ・チェルキとジョヴァンニ・グイディが深く関わっていた。カストルッチョは即座にベネデットを捕らえて処刑し、多くの貴族を処刑または追放した。ピサとピストイアの不穏な動きを封じるためにエネルギーを注いでいる間に、フィレンツェ人は軍を再編し、カルロの到着を待った。カルロが到着すると、彼らは三万の歩兵、一万の騎兵からなる大軍を組織し、イタリア中のゲルフに呼びかけた。彼らは、ピサを落とせばピストイアも自ずと降伏すると考え、ピサへの進軍を決定した。

一三二八年五月初旬、フィレンツェ軍はラストラ、シーニャ、モンテルーポ、エンポリを占領し、サン・ミニアートへ進んだ。カストルッチョはこの大軍を前にしても全く動じなかった。ピサやセッラヴァッレでの成功を考えれば、運命がトスカーナの覇権を自分に授けようとしていると信じて疑わなかったからだ。彼は二万の歩兵と四千の騎兵を集め、フチェッキオへ向かった。一方でパゴロ・グイニージを五千の歩兵とともにピサへ送った。フチェッキオはアルノ川とグシャーナ川に挟まれた高台にあり、軍事上の要衝であった。敵は軍を二分しない限り食糧補給を断つことができず、ルッカからもピサからも接近が困難であった。敵が攻撃を仕掛けるには、カストルッチョとパゴロの二つの軍に挟まれるか、あるいはアルノ川を渡るという危険な賭けに出るしかなかった。カストルッチョは敵を誘い出すため、あえて川岸から兵を引き、フチェッキオの城壁の下に陣を広げた。

サン・ミニアートを占領したフィレンツェ軍は、カストルッチョの軍を叩くことを決めた。アルノ川は当時浅くなっており、歩兵は肩まで、騎兵は鞍まで浸かる程度で渡渉が可能であった。一三二八年六月十日の朝、フィレンツェ軍は一万の歩兵と騎兵部隊を渡河させた。カストルッチョは敵が岸に上がる前に、五千の歩兵と三千の騎兵で猛攻を仕掛けた。同時に千人の軽装歩兵を川の上流と下流に送り込んだ。フィレンツェ歩兵は水と武具の重さに阻まれて岸に登れず、騎兵もまたぬかるんだ川床で馬が転倒し、混乱に陥った。フィレンツェの隊長たちは場所を変えて渡河を試みたが、そこにはカストルッチョが送り込んだ軽装歩兵が待ち構えていた。彼らは盾と投げ槍を使い、凄まじい叫び声とともにフィレンツェ騎兵の顔面や体に槍を浴びせかけた。馬は騒音と傷に狂い、味方を踏みつけ、混乱は極まった。渡河に成功した一部の部隊とカストルッチョ軍の間で、凄惨な肉弾戦が繰り広げられた。双方が死力を尽くし、一歩も引かなかった。カストルッチョは兵士たちに「こいつらはセッラヴァッレで負けた連中だぞ!」と叫び、フィレンツェ側は「これほどの多勢が、なぜ無勢に負けるのか!」と互いを叱咤した。戦闘が長引き、双方が疲弊しきった頃、カストルッチョは温存していた予備の歩兵部隊を投入した。彼は前線の部隊に、退却するふりをして左右に道を開けるよう命じた。フィレンツェ軍は勝機と見てその隙間に流れ込んだが、そこにカストルッチョの新鮮な精鋭部隊が襲いかかった。疲れ果てたフィレンツェ兵はひとたまりもなく、次々と川へ突き落とされた。カストルッチョは自軍の騎兵が劣勢であることを知っていたため、彼らには防御に徹するよう命じていた。歩兵を壊滅させた後、彼は全歩兵に敵騎兵を攻撃させ、自軍の騎兵とともに総攻撃を仕掛けた。フィレンツェ軍は完全に崩壊し、潰走した。この戦いでフィレンツェ軍は三分の二を失い、カストルッチョの栄光は頂点に達した。カルロやフィレンツェの使節たちはエンポリへ逃げ延びた。フィレンツェ側の死者は二万二百三十一人、カストルッチョ側は千五百七十人であった。

しかし、運命の女神は彼の絶頂期にその命を奪った。彼が長年かけて築き上げた壮大な計画は、彼の死とともに霧散することになる。カストルッチョは一日中戦場を駆け回り、勝利の後は疲労と熱気に包まれたまま、フチェッキオの門に立って帰還する兵士たちを一人ひとり労った。彼は「名将は誰よりも先に馬に乗り、誰よりも後に降りるべきだ」という信念を持っていた。その時、アルノ川沿いに吹く昼下がりの不吉な風が彼の体を冷やした。彼はいつもの疲れだろうと気に留めなかったが、それが致命傷となった。その夜、彼は高熱に襲われ、病状は急速に悪化して医師もさじを投げた。死期を悟ったカストルッチョはパゴロ・グイニージを枕元に呼び、次のように語りかけた。

「パゴロよ、もし私がこれまでの勝利の末に、さらなる栄光を掴む前に運命に断ち切られると知っていたなら、これほどまでの労苦はしなかっただろう。お前には、もっと規模は小さくとも、敵も危険も少ない国を残したはずだ。ルッカとピサの支配だけで満足していれば、ピストイアを屈服させることも、フィレンツェ人をこれほどまでに怒らせることもなかっただろう。両国民を友とし、私はより長く、穏やかに生き、お前には確固たる基盤の上に築かれた安全な国を遺せたはずだ。しかし、人間の営みを支配する運命は、私にそれを悟る知恵も、克服する時間も与えてくれなかった。お前も知っての通り、私はまだ少年の頃、野心など持たぬ見知らぬ者としてお前の父の家に入った。父上は私を実の子のように育て、愛してくださった。私はその教えの下で武勇を磨き、お前が目にした通りの幸運を掴んだ。父上が亡くなる際、彼は全財産とお前を私に託した。私は誓いに従い、深い愛情をもってお前を育て、財産を増やしてきた。お前が父の遺産だけでなく、私の実力で得た領土をも継げるよう、私はあえて結婚もしなかった。子供への愛によって、グイニージ家への恩義が揺らぐことを恐れたからだ。今、私は広大な領土をお前に遺すが、それが極めて不安定な状態にあることが心残りだ。ルッカはお前の統治を容易には受け入れまい。ピサの人間は移り気で、ルッカ人に仕えることを屈辱と感じている。ピストイアもまた、党派争いと我々が与えた傷のために不忠のままだ。隣には、我々が数えきれないほど辱めたフィレンツェ人がいる。彼らは私の死を、トスカーナ全土を手に入れること以上に喜ぶだろう。皇帝もミラノの諸公も、遠く離れていて頼りにはならぬ。お前が頼れるのは、お前自身の知恵と、私の武勇の記憶、そしてこの最後の勝利がもたらした威信だけだ。これを賢明に使えば、敗北に打ちひしがれているフィレンツェ人と有利な条件で和睦できるだろう。私は彼らを敵とすることで権力を拡大したが、お前は彼らを友とすることで安全を確保せねばならない。この世で最も重要なのは、己を知り、己の力量を測ることだ。戦いの才がない者は、平和の術をもって治めることを学ばねばならぬ。私の助言に従い、私の苦難の成果を享受せよ。私の言葉が真実であると信じれば、お前は二重の恩義を私に感じることだろう。私がこの王国を遺し、かつそれを守る術を教えたのだから。」

その後、カストルッチョと共に戦ったピサ、ピストイア、ルッカの市民たちが集まり、彼は彼らにパゴロを世継ぎとして忠誠を誓わせた後、息を引き取った。享年四十四歳。彼は知る者すべてに幸福な記憶を残し、これほどまでに慕われた君主は他にいなかった。葬儀は深い哀悼のうちに執り行われ、彼はルッカのサン・フランチェスコ教会に埋葬された。運命はパゴロ・グイニージには微笑まなかった。彼にはカストルッチョほどの能力がなかったからだ。カストルッチョの死後まもなく、パゴロはピサを、次いでピストイアを失い、ルッカを維持するのが精一杯であった。ルッカにおけるグイニージ家の支配は、パゴロの曾孫の代まで続いた。

カストルッチョがいかに卓越した人物であったかは、同時代のみならず古代の偉人と比べても遜色ない。身長は人並み外れて高く、均整の取れた体つきをしていた。その風貌は気品に溢れ、誰に対しても親しみやすく接したため、彼と話して不快になる者は稀であった。髪は赤みがかっており、耳の上で短く切り揃え、雨の日も雪の日も帽子を被らなかった。友人には愉快な仲間であり、敵には恐るべき存在であった。臣民には公正であったが、不実な者には不実をもって報い、策略で勝つことを好んだ。「勝利こそが栄光をもたらすのであり、その手段が問われることはない」というのが彼の持論であったからだ。危険に立ち向かう勇気において彼を凌ぐ者はなく、窮地を脱する知恵において彼に及ぶ者もいなかった。「人間はあらゆることを試みるべきであり、何も恐れてはならない。神は強き者を愛される。弱き者が強き者に罰せられるのを常に目にするからだ」と彼はよく口にしていた。また、彼の受け答えは非常に鋭く、毒があったが、同時に礼儀を失わなかった。自分が他人の言葉を許容したように、他人にも自分を許容することを求めた。彼の機知に富んだ逸話は数多く残っている。

ある友人が、カストルッチョが一羽のシャコに一ドゥカートも払ったことを咎め、「君なら一ペニーも出さないだろう」と言うと、カストルッチョは「私にとって一ドゥカートは、君にとっての一ペニーよりも価値が低いのだ」と答えた。

ある諂い者が、カストルッチョに軽蔑されて唾を吐きかけられた際、「漁師は小さな魚を釣るために海水に濡れることを厭わない。私は鯨を釣るために唾に濡れるくらい平気だ」と言った。カストルッチョはこれを感心して聞き、彼に褒美を与えた。

ある司祭が彼の贅沢な暮らしを罪深いと批判すると、カストルッチョは「もしそれが罪なら、聖人たちの祝祭であれほど豪勢な食事は出されないはずだ」とやり返した。

遊郭から出てきた若者がカストルッチョを見て顔を赤らめると、「恥ずべきは出る時ではなく、入る時だ」と諭した。

非常に複雑な結び目を解いてほしいと頼まれると、「結ぶのにあれほど苦労したものを、なぜ解こうなどと思うのか、馬鹿げたことだ」と断った。

哲学者を自称する男が「あなた方は、うまい飯をくれる者の後を追う犬のようなものだ」と言うと、カストルッチョは「我々はむしろ、最も助けを必要としている者の家を訪ねる医者のようなものだ」と答えた。

ピサからリヴォルノへ海路で向かう際、嵐に遭ってカストルッチョが怯えていると、同行者の一人が「私は何も怖くない」と彼を嘲笑した。カストルッチョは「当然だ。君と私では、魂の価値が違うのだからな」と返した。

どうすれば尊敬されるかと尋ねられ、「宴会に行くときは、木の上に木を重ねて座らないことだ(高慢な態度を取るな)」と答えた。

多読を自慢する者に、「多くのことを覚えているのを自慢するより、それをどう使うかを知るべきだ」と言った。

酒に強いと豪語する者には、「牛も同じだ」と切り捨てた。

ある女と関係を持ったことを友人に「女に捕まったな」とからかわれると、「私が彼女を捕まえたのだ」と答えた。

美食を咎められると、「君は私ほど金を使わないだろう?」と聞き、その通りだと答えられると、「ならば君は私以上に強欲だということだ。私は食いしん坊なだけだがね」と笑った。

ルッカの富豪タッデオ・ベルナルディの豪華な部屋に招かれた際、あまりに床が美しく磨かれていたため、カストルッチョはタッデオの顔に唾を吐きかけた。怒るタッデオに「君を一番汚さない場所がそこしかなかったのだ」と言い放った。

カエサルの最期について尋ねられると、「神が許すなら、私も彼のように死にたい(最高権力の絶頂で死にたい)」と答えた。

夜な夜な貴婦人たちと踊り、遊んでいることを「君主の品位に欠ける」と批判されると、「昼間に賢者と思われる者は、夜に愚者と思われても構わないのだ」と答えた。

ある男がカストルッチョに請願したが、聞き入れられていないと思い込み、地面に膝をついて懇願した。カストルッチョがそれを厳しく叱責すると、男は「あなたの耳が足の裏についているから、こうするしかないのです」と言った。カストルッチョは笑って、求めていた倍の恩恵を与えた。

「地獄への道は易しい。下り坂だし、目隠しをしていても行けるからな」というのが彼の口癖であった。

言葉の多い男が請願に来ると、「次からは、別の人に頼んでくれ」と言った。

長い演説を終えて「お疲れでしょう」と言った男に、「いいや、一言も聞いていなかったから疲れていないよ」と答えた。

かつて美少年で、今は美男子となった男について、「昔は夫から妻を奪い、今は妻から夫を奪う恐ろしい男だ」と評した。

羨望の強い男が笑っているのを見て、「自分が成功したのか、それとも他人が不幸になったのか、どちらで笑っているんだ?」と尋ねた。

メッセル・フランチェスコ・グイニージの家にいた頃、仲間に「鼻を一発殴らせてくれたら何をくれる?」と聞かれ、「ヘルメットだ」と答えた。

自分を権力の座に就けてくれた恩人を処刑したことを「旧友を殺すとは」と非難されると、「皆、勘違いしている。私は新しい敵を殺しただけだ」と答えた。

結婚しようとしてやめる者を、「海へ行こうと言って、いざとなると行かない賢い連中だ」と称賛した。

「瓶を買うときは叩いて音を確かめるのに、なぜ妻を選ぶときは顔を見るだけで決めるのか不思議だ」と語った。

死んだらどう埋葬してほしいかという問いには、「うつ伏せにしてくれ。私が死んだら、この国はひっくり返るだろうから、その時ちょうど上を向くことになる」と答えた。

魂を救うために修道士にならないかと勧められると、「フラ・ラゼローネ(悪徳僧)が天国に行き、ウグッチョーネ・デッラ・ファッジュオーラが地獄に落ちるような場所には興味がない」と断った。

健康のためにいつ食べるべきかと聞かれ、「金持ちなら腹が減ったとき、貧乏人なら食べ物があるときだ」と答えた。

部下に靴の紐を結ばせている貴族を見て、「神に祈ろう。彼が君の口に食べ物を運んでくれるようにもな」と皮肉った。

家の門に「神よ、この家を悪人から守り給え」とラテン語で書かれているのを見て、「ならば主人は中に入れないな」と言った。

小さな家に不釣り合いな大きな門があるのを見て、「家が門から飛び出していきそうだ」と笑った。

ナポリ王の使節と追放者の財産について議論し、口論になった際、「王が怖くないのか」と聞かれ、「君たちの王は善人か、悪人か?」と問い返した。「善人だ」と答えられると、「ならば、なぜ善人を怖がる必要があるのだ?」と返した。

彼の機知と重みのある言葉は他にも数多くあるが、これだけでも彼の卓越した資質の証左となるだろう。彼は四十四年間を生き抜き、あらゆる面で君主であった。幸運の証に囲まれて生きた彼は、同時に不遇の時代の記憶も大切にした。彼が牢獄で繋がれていた手枷は、今も彼の屋敷の塔に掲げられており、逆境の日々を永遠に語り継いでいる。その生涯において、彼はマケドニアのフィリッポスやローマのスキピオに劣ることはなかった。彼は彼らと同じ年齢で世を去ったが、もし彼がルッカではなく、マケドニアやローマに生まれていたならば、間違いなく彼らをも凌駕していただろう。