H・G・ウェルズ
壁についた扉
一
三か月とたたない、ある夜のことだった。人目を忍ぶような静かな席で、ライオネル・ウォレスは私に「壁についた扉」の話をした。そのときの私は、少なくとも彼にとって、それは真実なのだと思った。
彼はあまりにも率直に、揺るぎない確信をこめて語ったので、私は信じるほかなかった。ところが翌朝、自分の部屋で目を覚ますと、空気はすっかり変わっていた。ベッドに横たわったまま、昨夜聞かされたことを思い返してみる。真摯でゆったりした彼の声の魅力を剥ぎ取り、卓上の一点に絞られた柔らかな明かりも、彼を包む薄闇も、私たちがともにした夕食のデザートやグラスやテーブルクロスといった、日常の現実から隔絶された明るく心地よい小世界を形作っていたものも、すべて取り払ってしまえば、話はまったく信じがたいものに思えた。「一杯食わされたんだ!」
私はそう口にし、それからこう続けた。「それにしても、見事なものだった! ……よりによってあいつが、あんな芸当をうまくやってのけるとは思わなかった。」
その後、ベッドの上に起き直って朝の紅茶をすすりながら、私は、あり得ないはずの彼の回想に私を惑わせるほどの現実味があった理由を説明しようとした。それは、ほかには語りようのない体験を、何らかの形で暗示し、示し、伝えるものだったのではないか――どの言葉がふさわしいのか、私にもよくわからないが――そう考えたのである。
だが今の私は、そんな説明には頼らない。途中で抱いた疑念も、すでに消えた。彼が語っていたその瞬間に信じたとおり、ウォレスは力のかぎり、秘密を覆うものを取り去り、ありのままの真実を私に明かしたのだと、今では信じている。ただし彼が実際に見たのか、それとも見たと思い込んだだけなのか、計り知れない恩寵を授かった者だったのか、奇怪な夢の犠牲者だったのか、それは私には推し量れない。私の疑いに永久に終止符を打った彼の死さえ、この点には何の光も投げかけてくれない。それは読者自身が判断すべきことである。
寡黙な彼に胸の内を明かさせたのが、私のどんな何げない言葉や批判だったのか、今では忘れてしまった。おそらく彼は、ある大きな社会運動で私の期待を裏切ったことについて、私が彼に怠慢で当てにならないとの非難を浴びせたので、弁明しようとしていたのだと思う。だが彼はいきなり核心へ飛び込んだ。「僕には」と彼は言った。「頭から離れないものがある――」
「わかっている」と、葉巻の灰をしばらく見つめたあとで彼は続けた。「僕は怠慢だった。実を言えば――幽霊や幻の話じゃない――だが――こんなことを話すのは妙なんだ、レドモンド――僕は何かに取り憑かれている。何かに……それが、あらゆるものから輝きを奪い、どうしようもない憧れで僕を満たすんだ……」
彼は口をつぐんだ。感動的なこと、厳粛なこと、美しいことを語ろうとするとき、私たち英国人をしばしば押し黙らせる、あの羞恥心に阻まれたのだ。「君はずっとセント・アセルスタン学院にいたね」と彼は言った。その瞬間、私にはまるで関係のない話に思えた。「そうだった――」彼はまた間を置いた。それから、初めはひどくつかえながら、やがて次第になめらかに、人生の奥底に隠してきたものについて語り始めた。心を満たしてやまない美と幸福の記憶、満たされることのない憧れを呼び起こし、この世の営みも華やかな見世物も、ことごとく色褪せ、退屈で、むなしいものにしてしまう記憶について。
その鍵を得た今となっては、それが彼の顔にはっきり記されていたように思える。彼の写真が一枚、私の手元にある。そこには、心がどこか遠くへ離れているような表情が、くっきりと捉えられている。彼を深く愛していたある女性が、かつてこう言ったのを思い出す。「突然」と彼女は言った。「あの人から関心が消えてしまうの。あなたのことを忘れる。目の前にいるのに、あなたのことなんて、これっぽっちも気にかけなくなる……」
とはいえ、いつも心ここにあらずだったわけではない。ひとたび何かに意識を集中すれば、ウォレスは際立って有能な人物となった。実際、その経歴は成功の連続だった。彼はとうの昔に私を置き去りにし、私の頭上はるか高くへ舞い上がり、私には到底できないような活躍を世間で見せた。まだ四十歳にも一年足りなかったし、生きていれば政府の要職に就き、おそらく新内閣にも入っていただろうと、今では誰もが言っている。学校でも彼は、努力らしい努力もせず――生まれつきそうであるかのように――いつも私を負かした。私たちは学齢期のほとんどを、ウェスト・ケンジントンのセント・アセルスタン学院でともに過ごした。彼は私と同じ位置で入学したが、奨学金と輝かしい成績に包まれ、私などはるか下に置いて卒業していった。もっとも、私も平均以上には健闘していたと思う。そして「壁についた扉」の話を初めて耳にしたのも学校だった――二度目に聞くのは、彼の死のわずか一か月前になってからだった。
少なくとも彼にとって、壁についた扉は、実在する壁を抜け、不滅の現実へと通じる本物の扉だった。そのことだけは、今の私には確信できる。
その扉が彼の人生に現れたのは早く、まだ五つか六つの幼児だったころである。ゆっくりと厳粛に告白しながら、彼がその時期を考え、計算していた様子を覚えている。「そこには」と彼は言った。「真紅のアメリカヅタがあった。白い壁を背に、澄んだ琥珀色の日差しのなかで、どこも一様に鮮やかな真紅だった。それがどういうわけか、強く印象に残っている。詳しくは覚えていないけれどね。それから、緑の扉の外のきれいな舗道には、セイヨウトチノキの葉が落ちていた。茶色でも汚れた色でもなく、黄と緑の斑だったから、落ちたばかりに違いない。なら十月だったのだろう。僕は毎年トチノキの落ち葉を気にして見ているんだから、わかるはずだ。
「それが正しければ、僕は五歳と四か月くらいだった。」
彼自身の言葉によれば、かなり早熟な子供だった。異常なほど早く言葉を覚え、ひどく分別があり、世間でいう「ませた」子だったため、たいていの子供なら七つか八つになっても許されないほど、自分の判断で行動することを認められていた。母親は彼を産んだときに亡くなり、彼は監督も権威も比較的ゆるい子守教師に預けられていた。父親は厳格で、仕事に気を取られている弁護士だった。息子にはほとんど構わない一方、大きな期待だけは寄せていた。利発な子ではあったが、彼には人生がいささか灰色で、退屈に感じられていたのだと思う。そしてある日、彼はひとりでさまよい出た。
どんな不注意のおかげで抜け出せたのか、ウェスト・ケンジントンの道をどうたどったのか、彼には思い出せなかった。それらはすべて、記憶のなかの癒やしようのないぼやけた染みに埋もれていた。しかし白い壁と緑の扉だけは、きわめて鮮明に浮かび上がっていた。
遠い幼年期の体験についての記憶をたどれば、その扉を初めて目にした瞬間、彼は奇妙な感情を覚えたという。扉に近づき、開け、中へ入っていきたいという、強い魅惑と欲望だった。同時に、その誘惑に屈するのは賢明ではない、あるいは悪いことなのだという確信も、恐ろしいほど明瞭にあった――どちらだったのかはわからない。さらに彼が奇妙なこととして強調したのは、記憶がとんでもない悪戯をしているのでないかぎり、最初から、扉には鍵がかかっておらず、入りたければ自由に入れると知っていたことである。
惹きつけられながら、同時に押し返される幼い少年の姿が、私には見えるような気がする。そしてなぜそう思ったのか、ついに説明はつかなかったが、その扉をくぐれば父親がひどく怒るということも、彼の心には明白だった。
ウォレスは、ためらっていたその一瞬一瞬を、じつに細かく私に語った。彼はいったん扉の前を通り過ぎた。それから両手をポケットに突っ込み、幼いなりに口笛を吹こうとしながら、壁の端を越えて先までぶらぶら歩いた。そこには、みすぼらしく汚い店が何軒も並んでいたという。なかでも鮮明だったのが、配管工兼内装業者の店だった。土管、板鉛、ボールタップ、壁紙の見本帳、エナメル塗料の缶が、埃まみれで雑然と積まれていた。彼はそれらを眺めているふりをしながら、緑の扉を渇望していた。情熱的に、胸が焼けるほどに。
すると突然、感情が噴き上がったという。再びためらいに捉えられぬよう、彼は駆け出した。手をまっすぐ伸ばし、勢いよく緑の扉を押し開けて飛び込み、背後で扉をばたんと閉めた。こうして一瞬のうちに、生涯彼につきまとい続ける庭へ入ったのである。
その庭に足を踏み入れたときの感覚を、余すところなく私に伝えるのは、ウォレスにとって非常に難しかった。
そこでは空気そのものに、心を浮き立たせる何かがあった。身も心も軽くなり、良いことが起こり、すべてが満ち足りていると感じさせる何かが。目に映るものには、あらゆる色を清らかで完全なものにし、ほのかな光を宿らせる何かがあった。そこへ入った瞬間、人は言いようもなく幸福になった――この世界では、若く、喜びに満ちた者が、ほんのまれな瞬間にしか味わえないほどの幸福に。そしてそこでは、何もかもが美しかった……
ウォレスはしばし物思いに沈んでから、話を続けた。「ほら」と、信じがたいことを口にするときの、ためらいを含んだ調子で彼は言った。「そこには大きな豹が二頭いたんだ……そう、斑点のある豹だ。なのに僕は怖くなかった。長くて幅の広い道があり、両側には大理石で縁取られた花壇が続いていた。その道で、巨大でビロードのような二頭の獣が、球を転がして遊んでいた。一頭が顔を上げ、少し好奇心を抱いたように僕へ近づいてきた。すぐそばまで来ると、差し出した僕の小さな手に、柔らかな丸い耳をとても優しく擦りつけ、喉を鳴らした。まさに魔法の庭だった。僕にはわかる。それで広さは? ああ! こちらにも、あちらにも、はるか遠くまで広がっていた。遠方には丘もあったと思う。ウェスト・ケンジントンがいったいどこへ消えたのか、神のみぞ知るだ。しかも、なぜか家へ帰ってきたような気がした。
「扉が背後で閉まったその瞬間、落ちたトチノキの葉や、辻馬車や、商人の荷車が行き交う道のことを、僕は忘れた。家の規律と服従へ引き戻そうとする、重力のような力も忘れた。ためらいも恐れも、分別も、この人生の身近な現実も、すべて忘れた。僕は一瞬にして、喜びと驚異に満ちた小さな少年になった――別の世界にいる少年に。そこは質そのものが異なる世界だった。光はより暖かく、奥深くまで染み入り、柔らかかった。空気には淡く澄んだ喜びが漂い、青い空には日差しを浴びた雲の切れ端が浮かんでいた。そして目の前には、長く広い道が、誘うように延びていた。両側には雑草一本なく、手入れもされていないのに豊かな花を咲かせる花壇があり、そこには二頭の大きな豹がいた。僕は恐れもせず、小さな両手をその柔らかな毛皮に置き、丸い耳や、その下の敏感な窪みを撫で、一緒に遊んだ。豹たちも、僕の帰宅を歓迎してくれているようだった。心には、帰ってきたという鋭いほどの感覚があった。やがて背が高く、色白の少女が道に現れ、微笑みながら迎えに来た。そして僕に『どう?』と声をかけ、抱き上げて口づけし、地面へ下ろすと、手を取って導いてくれた。僕は驚かなかった。ただ、すべてが嬉しいほど正しいという感じがした。どういうわけか見落としていた幸福な物事を、思い出させてもらったような気がした。覚えているのは、デルフィニウムの花穂の間から、幅の広い階段が姿を現したことだ。僕たちはそこを上り、ひどく古い、濃い影を落とす木々の間に延びる大並木道へ出た。並木道の端から端まで、赤くひび割れた幹の間には、大理石の立派な腰掛けや彫像が並び、人によく馴れた親しげな白い鳩がいた……
「少女はその並木道を、僕の手を引いて歩いた。こちらを見下ろす彼女の、優しく愛らしい顔立ちと、端正に形作られた顎の線を覚えている。柔らかく心地よい声で僕にいろいろ尋ね、いろいろなことを話してくれた。楽しい話だったことはわかるけれど、何を話してくれたのかは、どうしても思い出せなかった……やがて小さなオマキザルが、木から下りて僕たちのところへ来た。とても清潔で、毛は赤褐色、瞳は優しい榛色だった。猿は僕と並んで走り、こちらを見上げて歯を見せて笑うと、やがて僕の肩へ飛び乗った。そうして僕たちは、胸いっぱいの幸福に包まれながら先へ進んだ……」
彼は口をつぐんだ。
「続けてくれ」と私は言った。
「細かなことなら覚えている。月桂樹の間で物思いにふける老人のそばを通ったこと。インコが華やかに群れている場所を抜けたこと。それから幅の広い、日陰の列柱廊を通って、広々とした涼しい宮殿へ入った。心地よい噴水、美しいもの、心の望みをかなえる気配と約束に満ちた宮殿だった。そこには大勢の人と、たくさんのものがあった。今でも鮮明に思い出せるものもあれば、少し曖昧なものもある。けれど人々は皆、美しく親切だった。どんなふうにかはわからないが、彼らが皆僕に優しく、僕がそこにいることを喜んでいるのが伝わってきた。その仕草や手の感触、瞳に宿る歓迎と愛情によって、僕の心を喜びで満たしてくれた。そうだ――」
彼はしばらく物思いに沈んだ。「そこで遊び仲間も見つけた。それは僕にとって、とても大きなことだった。僕は孤独な子供だったからね。花に囲まれた日時計のある、芝生に覆われた中庭で、皆はすばらしい遊びをしていた。そして一緒に遊んでいると、互いを愛さずにはいられなかった……
「だが――妙なんだ――記憶に空白がある。どんな遊びをしたのか覚えていない。一度も思い出せなかった。その後、子供だった僕は、あの幸福がどんな形をしていたのか思い出そうとして、涙を流しながら何時間も考え続けた。子供部屋で――たったひとりで――もう一度、最初から遊び直したかった。だが、駄目だった! 覚えているのは幸福と、いちばん長く一緒にいてくれた、二人の大切な遊び仲間だけだ……そのうち、陰気な雰囲気をまとった黒髪の女がやってきた。顔は青白く厳粛で、瞳には夢見るような色があった。淡い紫色の柔らかな長衣をまとい、本を一冊抱えていた。女は手招きし、僕を皆から引き離して、大広間の上の回廊へ連れていった――遊び仲間たちは僕を行かせたがらず、遊びをやめ、連れ去られていく僕を立ち尽くして見つめていた。『戻ってきて!』と皆は叫んだ。『早く戻ってきて!』僕は女の顔を見上げたが、彼女はその声にまったく構わなかった。顔はとても優しく、厳粛だった。女は僕を回廊の椅子まで連れていった。僕はそのそばに立ち、女が膝の上で開く本をすぐに覗き込めるよう待ち構えていた。ページが開いた。女が指を差し、僕は目を向け、驚嘆した。本の生きたページのなかに、僕自身が見えたからだ。それは僕自身の物語で、生まれてからそのときまでに僕の身に起きたことが、すべて収められていた……
「僕にはすばらしいことだった。その本のページにあったのは、絵ではなく――わかるだろう――現実そのものだったからだ。」
ウォレスは厳粛に言葉を切り、疑わしげに私を見た。
「続けてくれ」と私は言った。「わかっている。」
「現実だった――そう、現実だったに違いない。ページのなかで人々が動き、物が現れては消えた。忘れかけていた大切な母、それから厳格で正しい父、使用人たち、子供部屋、家にある馴染み深いものすべて。次には玄関と、人や車が行き交う賑やかな通りが現れた。僕は目を見張り、女の顔を半信半疑で見上げてから、さらに多くを見ようと、あれこれ飛ばしながらページを繰った。そしてついに、長い白壁の緑の扉の前で、行こうかどうか迷い、うろうろしている自分の姿に行き着いた。すると僕は、あの葛藤と恐怖をもう一度感じた。
「『その次は?』僕は叫び、さらにページをめくろうとした。だが厳粛な女の冷たい手が、僕を押しとどめた。
「『次は?』と僕はせがみ、女の手とそっと格闘した。子供の力を振り絞り、その指を持ち上げた。女が手を緩め、ページがめくられると、彼女は影のように僕の上へ身をかがめ、額に口づけした。
「ところが、そのページに映っていたのは、魔法の庭でも、豹たちでも、手を引いてくれた少女でも、僕を行かせまいとした遊び仲間でもなかった。そこにあったのは、街灯がともる前の、冷え冷えとした午後のウェスト・ケンジントンに延びる、灰色の長い通りだった。そしてそこには、みじめで小さな僕の姿があった。どれほどこらえようとしても声を上げて泣き続けていた。『戻ってきて! 早く戻ってきて!』と呼びかけてくれた大切な遊び仲間のところへ、もう帰れないから泣いていた。僕はそこにいた。それはもはや本の一ページではなく、過酷な現実だった。魔法の場所も、その膝元に僕が立っていた厳粛な母の、引き止める手も消えていた――いったい、どこへ行ってしまったんだろう?」
彼はまた言葉を切り、しばらく炎を見つめていた。
「ああ! あの帰還のみじめさ!」と彼は呟いた。
「それで?」
しばらくしてから、私は促した。
「哀れでみじめな子供だった――またこの灰色の世界へ連れ戻されてしまった! 自分に何が起きたのか、そのすべてを理解すると、僕は抑えようもない悲しみに身を任せた。人前で泣きじゃくった恥ずかしさと屈辱、不名誉な帰宅の記憶は、今も残っている。金縁眼鏡をかけた、親切そうな老紳士の姿が今も見える。彼は立ち止まり、まず傘の先で僕をつついてから話しかけた。『かわいそうに』と彼は言った。『道に迷ったのかね?』――五歳を過ぎたロンドン育ちの僕に向かって! しかも彼は、親切な若い巡査まで呼び止め、僕の周りに人だかりを作り、そのまま家まで行進させずにはいられなかった。すすり泣き、人目にさらされ、怯えきった僕は、魔法の庭から父の家の玄関段へ帰ってきた。
「僕が覚えている、あの庭の光景――今なお僕につきまとう庭――は、せいぜいこんなところだ。もちろん、あらゆるものを包んでいた、透き通るような非現実感、日常の経験とはまったく異なる、言葉にできないあの性質は、少しも伝えられない。けれど――起きたのは、そういうことだった。もし夢だったとしても、昼間に見た、まったく尋常でない夢だったことだけは確かだ……ふむ! ――当然そのあとには、恐ろしい尋問が待っていた。叔母、父、乳母、家庭教師――誰も彼もが……
「僕は一生懸命説明した。すると父は、嘘をついたと言って、僕を生まれて初めて鞭で打った。あとで叔母に話そうとすると、性懲りもなく悪いことを言い張るといって、また罰せられた。それから、さっき言ったように、皆は僕の話を聞くことも、その件について一言でも耳を貸すことも禁じられた。おとぎ話の本まで、しばらく取り上げられた――僕は『想像力がありすぎる』からだ。え? そう、本当にそんなことをしたんだ! 父は古い流儀の人だった……こうして僕の物語は、僕の胸の内へ押し戻された。僕は枕に向かって囁いた――子供の涙で濡れ、囁く唇に塩辛く感じられることも多かった枕に。そして決まりきった、あまり熱意のこもらない祈りのあとに、いつも心からの願いを付け加えた。『神様、どうか庭の夢を見せてください。ああ! 僕を庭へ戻してください! 僕を庭へ戻してください!』
「僕は何度も庭の夢を見た。何かを付け足したかもしれないし、変えてしまったかもしれない。それはわからない……こうして話していることはすべて、ごく幼いころの体験を、断片的な記憶から組み直そうとする試みにすぎない。その体験と、その後へ連なる少年時代の記憶との間には、深い断絶がある。やがて、あの奇跡の一瞥について、二度と口にすることなどできないと思う時期が来た。」
私は当然の質問をした。
「いや」と彼は言った。「幼いころ、庭への道をもう一度探そうとした覚えはない。今の僕には妙に思えるが、あの失敗のあと、また迷子にならないよう、僕の行動は前より厳しく見張られていたのだろう。いや、庭を再び探そうとしたのは、君と知り合ってからだ。それに――今となっては信じられないが――庭のことをすっかり忘れていた時期もあったと思う。八つか九つのころだったかもしれない。セント・アセルスタンにいた子供のころの僕を覚えているか?」
「もちろん!」
「あのころの僕に、秘密の夢を抱えているような素振りはなかっただろう?」
二
彼はふいに微笑んで顔を上げた。
「僕と『北西航路』をやったことはあったか? ……いや、もちろん君は、僕と同じ道を通っていなかった!」
「それは」と彼は続けた。「想像力のある子供なら、誰でも一日中やっているような遊びだった。学校へ通じる『北西航路』を発見する、という趣向だ。学校への道そのものは、誰でも知っている。遊びは、誰も知らない道を見つけることにあった。十分早く家を出て、ほとんど望みのなさそうな方角へ進み、馴染みのない通りを回り回って目的地へたどり着く。ある日、僕はキャンプデン・ヒルの向こう側にある、かなり貧しい一帯へ迷い込み、今度ばかりは遊びに負けて遅刻するかもしれないと思い始めた。半ばやけになって、どう見ても袋小路らしい通りへ入ってみると、その突き当たりに抜け道があった。希望を取り戻し、僕はそこを急いだ。『まだ間に合うぞ』と自分に言い聞かせた。そして、なぜか見覚えのある薄汚れた小店の並びを通り過ぎると――見ろ! そこには、あの長い白壁と、魔法の庭へ通じる緑の扉があったんだ!
「その事実が突然、僕の頭を殴りつけた。なら、あの庭、あのすばらしい庭は、夢ではなかったんだ!」……
彼は言葉を切った。
「緑の扉との二度目の出会いは、忙しい学生生活と、幼児の無限にも思える暇との間にある、世界ほどの違いを表しているのだと思う。ともかく二度目には、すぐ中へ入ろうなどとは、ほんの一瞬も考えなかった。というのも……何より僕の頭は、時間どおり学校へ着くことでいっぱいだった――皆勤ならぬ皆時刻どおりの記録を、絶対に破りたくなかったんだ。もちろん、扉を試してみたいという気持ちも、少しくらいはあったはずだ――そう、きっとあった……だが記憶にあるかぎり、扉の魅力は、学校へ行くという圧倒的な決意を妨げる、もう一つの障害として感じられた。もちろん、この発見にはたちまち心を奪われた――そのことで頭をいっぱいにしながら、それでも先へ進んだ。足は止まらなかった。扉の前を走り過ぎながら、時計を引っ張り出した。まだ十分の余裕があるとわかり、そのあとは馴染みのある界隈へ向かって坂を下った。息を切らし、汗びっしょりではあったが、時間には間に合った。上着と帽子を掛けたことも覚えている……扉の前を通り過ぎ、そのまま後ろへ置き去りにした。妙だろう?」
彼は考え深げに私を見た。「もちろん、そのころの僕は、扉がいつもそこにあるとはかぎらないなどと知らなかった。学校に通う少年の想像力には限界がある。きっと僕は、あれがそこにあり、戻り道もわかっているなんて、ものすごく愉快なことだと思ったのだろう。だが学校が僕を引っ張っていた。その朝は、ひどく上の空で、授業にも集中していなかったはずだ。近いうちにまた会える、美しく不思議な人々について、覚えているかぎり思い返していた。奇妙なことに、皆が僕との再会を喜んでくれることを、少しも疑っていなかった……そう、その朝の僕は庭を、厳しい学業生活の合間に立ち寄れる、じつに愉快な場所くらいに考えていたに違いない。
「その日はとうとう行かなかった。翌日は半日休みだったから、それも心にあったのかもしれない。それに、僕が上の空だったせいで居残り課題を課せられ、回り道に必要な時間を奪われたのかもしれない。わからない。はっきりしているのは、その間にも魔法の庭のことが頭から離れず、自分ひとりの胸には収めておけなくなったということだ。
「僕は話した――何という名前だった? ――イタチみたいな顔をした、スクイフと呼ばれていた子に。」
「ホプキンズ少年だ」と私は言った。
「そう、ホプキンズだ。彼に話すのは気が進まなかった。どういうわけか、話すのは規則に背くような気がした。だが話してしまった。彼とは途中まで一緒に帰っていた。おしゃべりな子だったし、魔法の庭について話さなければ、何か別の話をしなければならなかった。僕には、ほかの話題を考えることなど耐えられなかった。だから、ぺらぺら喋ってしまった。
「すると彼は僕の秘密をばらした。翌日の休み時間、僕は半ばからかい、半ばというより全面的な好奇心で魔法の庭の続きを聞きたがる、六人ほどの上級生に囲まれた。大柄なフォーセットがいた――覚えているか? ――それにカーナビーとモーリー・レイノルズ。君はそこにいなかったよな? いや、いたなら覚えているはずだ……
「子供というのは、奇妙な感情を抱くものだ。秘密を汚した自分への嫌悪がありながら、こんな大きな連中に注目されて、少し得意にもなっていたのだと思う。とりわけ嬉しかった瞬間を覚えている。クロウショーが――作曲家クロウショーの息子で、兄のほうのクロウショーを覚えているか? ――こんなに見事な嘘は初めて聞いたと褒めてくれたんだ。けれど同時に、神聖な秘密だと感じていたものを口にしてしまったことへの、本当に痛ましいほどの恥が、心の底を流れていた。あのけだもののフォーセットは、緑の服の少女をねたにして下品な冗談を言った――」
ウォレスの声は、その羞恥を生々しく思い出し、低くなった。「聞こえないふりをした」と彼は言った。「するとカーナビーがいきなり、嘘つき小僧と僕を罵り、話は本当だと言っても聞かなかった。僕は緑の扉の場所を知っている、十分もあれば全員を連れていけると言った。カーナビーは腹立たしいほど正義漢ぶって、ならそうしろ、自分の言葉を証明しなければ痛い目を見るぞと言った。君もカーナビーに腕をねじ上げられたことがあるか? あるなら、僕がどういう目に遭ったかわかるだろう。僕は話が本当だと誓った。当時、カーナビーから仲間を救ってくれる者は学校にはいなかった。クロウショーが多少とりなしてはくれたけれどね。カーナビーは獲物を捕らえたんだ。僕は興奮して耳まで赤くなり、少し怯え、何から何まで愚かな小僧らしく振る舞った。そのあげく、ひとりで魔法の庭へ向かう代わりに、頬を火照らせ、耳を熱くし、目をひりつかせ、魂を焼くような苦痛と恥を抱えながら、嘲り、好奇の目を向け、脅しつけてくる六人の級友を引き連れて歩くことになった。
「僕たちは白い壁も、緑の扉も見つけられなかった……」
「つまり? ――」
「つまり、僕には見つけられなかった。見つけられるものなら、必ず見つけていた。
「あとでひとりで行けるようになってからも、見つけられなかった。一度もだ。振り返れば、学校に通っていた間ずっと探し続けていたような気がする。それでも二度と出会えなかった。」
「連中は――ひどいことをしたのか?」
「最悪だった……カーナビーは、悪意ある虚言の罪で僕を裁く会議まで開いた。泣き腫らした跡を隠そうと、こそこそ家へ帰り、階段を上ったのを覚えている。けれど最後に泣き疲れて眠りについたとき、カーナビーのことで泣いていたのではなかった。庭のため、過ごせるはずだった美しい午後のため、優しく親しげな女たちと、待っている遊び仲間たちと、もう一度覚えられるはずだった遊び、あの美しい、忘れてしまった遊びのために泣いていた……
「もし誰にも話さなければ――と、僕は固く信じていた……その後はつらい日々だった――夜は泣き、昼はぼんやり空想にふけった。二学期の間、成績が落ち、ひどい通知表をもらった。覚えているか? もちろん覚えているはずだ! 僕をまた勉強へ引き戻したのは、ほかならぬ君だった――数学で君に負けたことがきっかけだったんだ。」
三
友人はしばらく、炎の赤い中心を黙って見つめていた。それから言った。「次にあれを見たのは、十七歳になってからだった。
「三度目は突然、僕の前に飛び出してきた――奨学金試験を受けるためオックスフォードへ向かい、その途中でパディントンまで辻馬車に乗っていたときだ。見えたのは、ほんの一瞬だった。僕はハンサム型馬車[訳注:御者席が客席の後方上部にある二輪馬車]の前板から身を乗り出して煙草を吸い、おそらく自分をたいした世慣れた男だと思っていた。すると突然、扉と壁が現れた。忘れようもなく、今なお手に入る大切なものの感覚とともに。
「馬車は騒々しく走り過ぎた――僕も不意を突かれたので、馬車を止めようとしたときには、とっくに通り過ぎ、角まで曲がっていた。そこで僕の意志は奇妙に二つへ分かれ、正反対の動きをした。僕は馬車の屋根の小窓を叩き、それから時計を取り出そうと腕を下ろした。『はい、旦那!』と御者がすばやく答えた。『ああ――いや――何でもない』と僕は叫んだ。『僕の勘違いだ! 時間がない! そのまま行ってくれ!』そして馬車は走り続けた……
「僕は奨学金を獲得した。その知らせを受けた夜、父の家の上階にある小さな自室兼書斎で、暖炉の前に座っていた。父の賞賛――めったに得られない賞賛――と堅実な忠告が耳に響いていた。僕はお気に入りのパイプ――青年がいかめしく見せたがる、ブルドッグ型のやつだ――をふかしながら、長い白壁の扉について考えた。『もし止まっていたら』と僕は思った。『奨学金を逃し、オックスフォードへも行けず、前途洋々たる経歴を台無しにしていた! 僕も物事がよく見えるようになってきた!』僕は深い思索に沈んだ。しかし当時、自分の将来が犠牲を払うに値するものだということは、少しも疑わなかった。
「あの大切な友人たちと澄んだ空気は、とても甘美で、すばらしく思えた。だが遠かった。今や僕は、この世界をしっかりと掴み始めていた。別の扉が開くのが見えた――僕の経歴へ通じる扉だ。」
彼は再び炎を見つめた。揺らめく赤い光が、ほんの一瞬、彼の顔にある頑固な強さを浮かび上がらせ、また消えた。
「まあ」と彼は言って、ため息をついた。「僕はその経歴に仕えてきた。たくさんの仕事をした――実に多くの、骨の折れる仕事を。けれど魔法の庭の夢を千回も見た。そしてあれ以来、扉を――少なくとも扉らしきものを――四度見た。そう――四度だ。しばらくの間、この世界はあまりにも明るく興味深く、意味と機会に満ちているように見えた。そのため、半ば薄れた庭の魅力は、それに比べれば穏やかで遠いものだった。美しい女たちや名士と夕食へ向かう途中で、豹を撫でたいと思う者がいるだろうか? 僕はオックスフォードからロンドンへ戻った。大いに将来を嘱望された男として。そして、その期待にはある程度応えてきた。ある程度は――だが失望もあった……
「僕は二度恋をした――その話を長々するつもりはない――だがあるとき、僕が本当に来る勇気を持っているのか疑っていた人のもとへ向かう途中、アールズ・コート近くの人通りの少ない道を、当てずっぽうに近道してみた。すると白い壁と、見覚えのある緑の扉に出くわした。『妙だな!』と僕は思った。『これはキャンプデン・ヒルにあると思っていた。どういうわけか二度と見つけられなかった場所――あの奇妙な白昼夢の場所だ』。けれど僕は目的に心を奪われたまま、その前を通り過ぎた。その午後、扉は僕に何の訴えかけもしなかった。
「ほんの一瞬、扉を試してみたいという衝動はあった。せいぜい横へ三歩進むだけでよかった――しかも心の底では、扉が僕のために開くと確信していた――だが、そうすれば、自分の名誉がかかっていると思っていた約束に遅れるかもしれないと考えた。あとになって、時間を守ったことを後悔した――せめて中を覗き、豹たちに手を振るくらいはできたはずだと思った。だがそのころまでには、探しても見つからないものを、時機を逃してから探し直してはならないと、十分わかっていた。そう、あのときは本当に後悔した……
「それから何年も懸命に働き、扉を一度も見なかった。扉がまた僕の前に現れたのは、ごく最近になってからだ。それとともに、僕の世界全体に薄い曇りが広がったような感覚もやってきた。もう二度とあの扉を見られないことが、悲しく、苦いことに思え始めた。働きすぎで少し参っていたのかもしれない――世間でいう『四十の気分』というものだったのかもしれない。わからない。だが確かなのは、努力を容易にしてくれる、あの鋭い輝きが、最近あらゆるものから失われたことだ。それも新たな政治情勢が次々と生じ――働かなければならない、まさにその時期に。妙だろう? 僕は人生を骨の折れるものに感じ始め、報酬も、近づいてみれば安っぽいものに思えるようになった。少し前から、ひどく庭へ行きたくなった。そう――そして三度見たんだ。」
「庭を?」
「いや――扉を! しかも中へ入らなかった!」
彼はテーブル越しに身を乗り出した。声には巨大な悲しみがこもっていた。「三度も機会があった――三度も! もしあの扉がもう一度現れたら、僕は誓った。この埃と熱気から、この虚栄の乾いた煌めきから、骨折り損のむなしさから抜け出し、中へ入る。二度と戻らない。今度こそ、そこにとどまる……そう誓った。なのに、そのときが来ると――僕は入らなかった。
「一年に三度、僕は扉の前を通り過ぎ、中へ入り損ねた。この一年だけで、三度だ。
「最初は、小作人償還法案の抜き打ち採決があった夜だ。政府が三票差で救われた、あの採決だよ。覚えているだろう? こちら側の誰も――おそらく相手側でも、ごく少数しか――あの晩に決着するとは予想していなかった。ところが討論は、卵の殻が潰れるように突然崩れた。僕とホッチキスは、ブレントフォードにいる彼の従兄弟と夕食を取っていた。二人ともペアリング[訳注:賛否双方の議員が合意して採決を欠席する慣行]を組んでいなかったので、電話で呼び出され、ただちに従兄弟の自動車で出発した。ぎりぎりで間に合った。そして途中、僕の壁と扉の前を通った――月光のなかで鉛色に浮かび、車灯のぎらつきに照らされた部分は熱い黄色の斑になっていたが、見間違えようもなかった。『神よ!』と僕は叫んだ。『何だ?』とホッチキスが尋ねた。『何でもない!』と僕は答えた。そして、その瞬間は過ぎ去った。
「『大きな犠牲を払ったぞ』と、到着して院内幹事に言った。『誰だってそうだ』と彼は答え、足早に通り過ぎた。
「あのとき、ほかにどうしようがあったのか、僕にはわからない。そして次は、厳格な父に別れを告げようと、その病床へ駆けつけていたときだった。あのときも、人生からの要求は拒みようがなかった。だが三度目は違う。一週間前のことだ。思い出すたび、焼けつくような悔恨に満たされる。僕はガーカーとラルフスと一緒だった――もう秘密ではないから話すが、僕はガーカーと例の話し合いをした。僕たちはフロビシャーのところで夕食を取り、三人の話は内密なものになっていた。改造内閣で僕が得る地位の問題が、いつも会話の境界線のすぐ向こうにあった。そう――そうだ。もう決まった。まだ公に話す必要はないが、君に隠す理由もない……そう――ありがとう! ありがとう! だが、まず話を聞いてくれ。
「あの晩は、あらゆることがまだ宙に浮いていた。僕の立場はきわめて微妙だった。ガーカーから明確な言葉を引き出したくてたまらなかったが、ラルフスがいるために身動きが取れなかった。軽く何げない会話を、僕に関わる核心へあまり露骨に向けないよう、全知力を使っていた。そうする必要があった。その後のラルフスの行動は、僕の用心が正しかったことを十分すぎるほど証明している……ラルフスはケンジントン・ハイ・ストリートの先で別れるとわかっていた。そうすれば突然率直に切り出して、ガーカーを驚かせることができる。時には、こういう小細工も必要になる……そのときだった。視野の端に、また白い壁が見えた。その先の道には、緑の扉があった。
「僕たちは話しながら、その前を通り過ぎた。僕も通り過ぎた。ガーカーの特徴的な横顔が落とす影が、今も見える。突き出た鼻の上へオペラハットを傾け、首巻きを幾重にも巻いた彼の影が、ぶらぶら歩く僕とラルフスの影の前を進んでいた。
「僕は扉から二十インチ(約五十一センチ)も離れていないところを通った。『二人におやすみと言って中へ入ったら、どうなる?』と自分に尋ねた。だが僕の全身は、ガーカーからあの一言を引き出したい思いで震えていた。
「ほかの問題が絡み合っていたため、その問いに答えることができなかった。『二人は僕を狂人だと思うだろう』と考えた。『それに、今ここで僕が消えたら! ――有力政治家、驚異の失踪!』。そんなことが気にかかった。想像もできないほどくだらない、世俗のこだわりが、あの決定的瞬間に僕を押さえつけた。」
それから彼は悲しげに微笑んで私を見つめ、ゆっくりと言った。「そして僕は、ここにいる!」
「ここにいる!」と彼は繰り返した。「そして機会は失われた。一年に三度、扉が僕の前に差し出された――安らぎへ、歓喜へ、夢を超えた美へ、この地上の誰も知り得ない優しさへ通じる扉が。それなのに僕は拒んだんだ、レドモンド。そして扉は消えた――」
「なぜ、そうわかる?」
「わかるんだ。わかる。今や僕には、残された人生を最後までやり抜くしかない。機会が訪れたとき、あれほど強く僕を引き止めた仕事にしがみつくしかない。君は、僕が成功したと言う――この下品で、けばけばしく、煩わしく、人から羨まれるものを。確かに、僕は手に入れた。」
彼は大きな手にクルミを握っていた。「これが僕の成功だとするなら」と言い、それを握り潰し、私に見えるよう差し出した。
「一つ言わせてくれ、レドモンド。この喪失が僕を破滅させつつある。二か月――もう十週間近く、必要不可欠で緊急の務めを除けば、僕は何一つ仕事をしていない。魂は、慰めようのない後悔で満ちている。夜になると――人に見つかりにくい時間に――外へ出る。さまよい歩くんだ。そうだ。人々が知ったら、どう思うだろうな。閣僚が、最も重要な省の責任ある長官が、たったひとりでさまよい――悲しみ――時には声に出して嘆きながら――一枚の扉を、一つの庭を探している!」
四
今でも彼のやや青白い顔と、その瞳に宿っていた見慣れぬ暗い炎が見える。今夜、彼の姿はひどく鮮明に浮かぶ。こうして座り、彼の言葉と声の調子を思い返している。ソファには昨夜の『ウェストミンスター・ガゼット』がまだ置かれ、彼の死亡記事が載っている。今日の昼食時、クラブでは彼の話と、その運命をめぐる奇妙な謎でもちきりだった。
彼の遺体が発見されたのは、昨日の早朝、イースト・ケンジントン駅近くの深い掘削坑だった。鉄道を南へ延伸する工事にともなって掘られた、二本の立坑の一つである。大通り側には一般人の侵入を防ぐ板囲いが設けられ、そちら側に住む作業員の便宜のため、小さな出入口が一つ切り開かれていた。二人の作業班長の行き違いで、その扉には鍵がかけられていなかった。彼はそこから中へ入ったのだ……
私の心は、問いと謎に覆われて暗い。
あの晩、彼は下院からずっと歩いてきたらしい――前の会期にも、たびたび徒歩で帰宅していた――だから私は、着込んだ彼の黒い姿が、何かに心を奪われながら、夜更けの人気ない通りを歩いてくる光景を思い浮かべる。そして駅の近くにある青白い電灯が、粗末な板囲いを白壁のように見せたのだろうか? 鍵のかかっていない、あの死をもたらす扉が、何かの記憶を呼び覚ましたのだろうか?
そもそも本当に、壁についた緑の扉など存在したのだろうか?
私にはわからない。私はただ、彼が語ったとおりにその物語を記した。ウォレスは、まれではあるが前例のないものではない幻覚と、不注意に開け放たれた罠との偶然の一致、その犠牲者にすぎなかったと思うこともある。しかし、それが私の最も深いところにある信念ではない。迷信深い、愚かだと思うなら、それでもいい。だが実のところ、彼には本当に、尋常ならざる才能があったのではないかと、私は半ば以上確信している。何かの感覚、私には何とも名づけられないものが、壁と扉の姿を借り、この世界から抜け出す出口を、別の、はるかに美しい世界へ至る、秘密の特別な逃げ道を差し出していたのではないか。いずれにせよ、最後にはそれが彼を裏切ったではないか、と人は言うだろう。だが本当に、裏切ったのだろうか? そこにこそ、夢見る者、幻視する者、想像力に生きる者たちの、最も深い謎がある。私たちに見えるのは、平凡で明白なこの世界、板囲いと穴である。昼の世界の尺度で見れば、彼は安全な場所から、闇と危険と死へ踏み出した。だが彼にも、同じように見えていたのだろうか?
星
新年最初の日、太陽の周囲を巡る惑星のうち最も外側にある海王星の運動が、ひどく不規則になったとの発表が、三つの天文台からほぼ同時になされた。オギルヴィはすでに十二月、海王星の速度が低下している疑いを指摘していた。世の大多数は海王星という惑星の存在さえ知らなかったから、そんな知らせが人々の関心を引くはずもなかった。またその後、乱れを見せる海王星の近くに、遠く微かな光点が発見されても、天文学者以外にはさほど大きな興奮を呼ばなかった。しかし科学者たちは、新天体が急速に大きく明るくなり、その運動が惑星の規則正しい進行とはまったく異なり、海王星とその衛星の偏向が前例のないものになりつつあると判明する以前から、この知らせを十分に注目すべきものと見なしていた。
科学的訓練を受けていない者には、太陽系がどれほど巨大な孤立のなかにあるか、理解するのは難しい。惑星という光点や、小惑星という塵、触れることさえできない彗星を従えた太陽は、想像力さえ屈服させるほど広大な虚空を泳いでいる。海王星の軌道の外には、人間の観測が及ぶかぎり、熱も光も音もない空間、何もない空虚が、二千万掛ける百万マイル(約三京二千兆キロメートル)にわたって続く。それが、最も近い恒星へ到達するまでに横断しなければならない距離の、最低の見積もりである。そして最も薄い炎よりなお実体に乏しい、わずかな彗星を除けば、人類の知るかぎり、二十世紀初頭にこの奇妙な放浪者が現れるまで、いかなる物質もその宇宙の深淵を越えたことはなかった。それは巨大な物質の塊だった。嵩高く、重く、黒い天空の謎の奥から、何の前触れもなく太陽の光輝へ飛び込んできた。二日目には、まともな観測機器さえあれば、かろうじて直径を判別できる光点として、しし座のレグルス近くにはっきり見えた。ほどなくオペラグラスでも捉えられるようになった。
新年三日目、両半球の新聞読者は、この異常な天体出現が持つ真の重大さを、初めて知らされた。「惑星衝突」とロンドンのある新聞は見出しを掲げ、この奇妙な新惑星がおそらく海王星と衝突するだろうという、デュシェーヌの見解を伝えた。論説委員たちもこぞって話を膨らませた。そのため一月三日、世界の主要都市では、いかに漠然としたものであれ、天空に何らかの現象が迫っているとの期待が広がった。日没を追って夜が地球を巡ると、幾千もの人々が空を見上げ――いつもと変わらぬ、見慣れた星々を目にした。
やがてロンドンに夜明けが訪れ、ポルックスが沈み、頭上の星々が色褪せた。冬の夜明けだった。病んだような日の光が、じわじわと染み出してくる。人が起き出している家の窓には、ガス灯や蝋燭の黄色い明かりが見えた。だが、あくびをしていた巡査はそれを見た。市場の忙しい群衆は口を開けたまま立ち止まった。早朝の仕事へ向かう労働者、牛乳配達人、新聞運搬車の御者、遊蕩に疲れ青ざめて家路につく者、家なき放浪者、持ち場を巡回する歩哨。そして田舎では畑へ向かう農夫、家へ忍び帰る密猟者。薄闇のなかで目覚めつつある国じゅうの至るところから、それは見えた――海上で夜明けを待つ船乗りたちにも――西の空へ突然現れた、巨大な白い星が!
それは私たちの空にあるどの星よりも明るかった。最も輝くときの宵の明星よりも明るかった。夜が明けて一時間後にも、ただ瞬く光点ではなく、小さく丸く澄んで輝く円盤として、白く大きく光っていた。科学の及ばない土地では、人々はそれを見つめ、恐れ、天に現れるこの火の徴が戦争や疫病の前兆だと語り合った。屈強なボーア人、浅黒いホッテントット、黄金海岸の黒人、フランス人、スペイン人、ポルトガル人が、朝日のぬくもりのなかに立ち、この奇妙な新しい星が沈むのを見守った。
一方、百を数える天文台では、遠く離れていた二つの天体が突進して互いにぶつかるにつれ、抑えられた興奮が叫び声寸前まで高まっていた。写真装置や分光器、その他さまざまな機器をかき集め、世界の滅亡という、かつてない驚異の光景を記録しようと、人々が慌ただしく駆け回った。滅びたのは一つの世界だった。地球と姉妹関係にあり、実際には地球よりはるかに巨大な惑星が、突然燃え上がって死んだのである。それは海王星だった。外宇宙から来た奇妙な惑星に真正面から衝突され、その衝撃熱によって二つの固体球は、たちまち一つの巨大な灼熱塊へ変わった。その日、夜明けの二時間前、青白く巨大な星は世界を巡った。西へ沈み、その上へ太陽が昇ってきたときにのみ、光は薄れた。至るところで人々は驚嘆した。だがそれを見た者のなかでも、日頃から星を見慣れている船乗りほど驚いた者はいなかっただろう。遠い海上にいて出現の知らせを何も聞いていなかった彼らは、それが小さな月のように昇り、天頂へ登り、頭上にかかり、夜の経過とともに西へ沈むのを見たのである。
次にそれがヨーロッパの上へ昇ったとき、丘の斜面、家々の屋根、開けた広場には、巨大な新星が昇るのを東の空に待ち受ける群衆がいた。白い炎の照り返しのような輝きを先触れとして、星は昇った。前夜、その誕生を見た者たちは、目にした途端に叫んだ。「大きくなっている」と。「明るくなっている!」
実際、四分の一ほど満ち、西へ沈みつつある月には、見かけの大きさでは到底及ばなかった。それでも月の円盤全体を合わせても、今や奇妙な新星の小さな円ほど明るくはなかった。
「明るくなっている!」通りに群がる人々は叫んだ。だが薄暗い天文台では、観測者たちは息をのみ、互いの顔を見た。「近づいている」と彼らは言った。「近づいている!」
次々と声が「近づいている」と繰り返した。電信機の打鍵音がその言葉を拾い上げ、電話線を震わせ、千の都市で煤けた植字工たちが活字を拾った。「近づいている。」
事務所で書き物をしていた男たちは、奇妙な実感に打たれてペンを投げ出した。千もの場所で話していた者たちは、「近づいている」という言葉のうちに、突然、途方もない可能性を見いだした。
その言葉は目覚めつつある通りを駆け抜け、霜に静まり返った村道へ向けて叫ばれた。脈打つ電信テープからそれを読んだ者たちは、黄色い光の漏れる戸口に立ち、通行人へ知らせを叫んだ。「近づいている。」
華やかに着飾り、頬を上気させた美しい女たちは、踊りの合間に冗談めかしてその知らせを聞き、実際には感じてもいない知的関心を装った。「まあ、近づいているですって! 不思議ね! そんなことまで突き止めるなんて、学者というのは本当に、本当に頭がいいのね!」
冬の夜をひとり旅する浮浪者たちは、空を見上げ、自分を慰めるようにその言葉を呟いた。「もっと近づいてもらわなきゃ困る。今夜は慈善心みたいに冷えきってるからな。それにしても、近づいてるってわりには、ちっとも暖かくならねえが。」
「新しい星など、私に何の関係があるの?」死者のかたわらに跪く女は、泣きながら叫んだ。
試験勉強のため早起きした少年は、窓に咲いた霜の花を通して、巨大な白い星が広く明るく輝くのを見ながら、自分なりに考えた。「遠心力、向心力」と、拳に顎を載せて彼は言った。「飛んでいる惑星を止め、遠心力を奪えば、どうなる? 向心力が勝って、太陽へ落ちていく! それなら、こいつは――!
「地球がその進路上にあるんだろうか? どうなんだ――」
その日の光も、これまでの日々と同じように過ぎ去り、霜の夜が更けるころ、奇妙な星は再び昇った。今やあまりにも明るいため、満ちつつある月さえ、夕焼けのなかに巨大な姿で浮かぶ、青白く黄ばんだ亡霊にしか見えなかった。南アフリカのある都市では、偉人が結婚し、花嫁を連れて戻るのを歓迎するため、街路に明かりがともされていた。「天まで祝賀の灯をともしましたな」と追従者が言った。やぎ座の下では、互いへの愛ゆえに野獣や悪霊を恐れず、二人の黒人の恋人が、蛍の舞うサトウキビの茂みに身を寄せていた。「あれは私たちの星だ」と二人は囁き、その甘美な輝きに不思議な慰めを覚えた。
数学界の巨匠は私室に座り、書類を押しのけた。計算はすでに終わっていた。小さな白い薬瓶には、四晩もの長い間、彼を眠らせず活動させ続けた薬が、まだ少し残っていた。毎日、彼はいつもと変わらぬ穏やかさと明晰さと忍耐をもって学生に講義し、その後ただちに戻って、この重大な計算に取り組んだ。顔は厳しく、薬に支えられた活動のため、少しやつれて熱っぽかった。しばらく物思いに沈んでいるようだった。やがて窓へ行き、ぱちりと音を立ててブラインドを上げた。密集する都市の屋根、煙突、尖塔の上、空の中ほどに星がかかっていた。
彼は勇敢な敵の目を覗き込むように、それを見た。「おまえは私を殺すかもしれない」と、しばし沈黙してから彼は言った。「だが私は、この小さな頭脳で、おまえを――さらには全宇宙を――捉えることができる。私は取り替わりたいとは思わない。今この瞬間でさえ。」
彼は小さな薬瓶を見た。「もう眠る必要はないだろう」と言った。翌日の正午――一分の遅れもなく、彼は講義室へ入り、いつものようにテーブルの端に帽子を置き、大きな白墨を一本、慎重に選び出した。学生の間では、その白墨を指でもてあそらなければ講義ができないという冗談があり、一度など、学生たちに白墨を隠されて完全に立ち往生したこともあった。彼は教壇に立ち、灰色の眉の下から、階段状に並ぶ若々しい顔を見渡すと、いつものように慎重に選ばれた平凡な言葉遣いで話し始めた。「ある事情が生じた――私の力ではどうにもならない事情だ」と言って間を置いた。「そのため、予定していた講義課程を最後まで行うことができなくなった。諸君、明瞭かつ簡潔に表現することを許されるなら、どうやら――人類はむなしく生きてきたらしい。」
学生たちは顔を見合わせた。聞き違いだろうか? 狂ったのか? 眉を上げ、唇に笑いを浮かべる者もいたが、一、二人は、灰色の髪に縁取られた彼の穏やかな顔を凝視したままだった。「今朝は」と彼は言っていた。「この結論へ私を導いた計算を、諸君に理解できるかぎり明らかにすることへ費やすのも興味深いだろう。まず仮定しよう――」
彼は黒板へ向き直り、いつものように図をどう描くか考えた。「『むなしく生きてきた』って、何のことだ?」と一人の学生が隣へ囁いた。「聞けよ」と相手は講師を指して頷いた。
やがて彼らにも理解できるようになった。
その晩、星が昇るのは遅かった。本来の東向きの運動によって、しし座を横切り、おとめ座の方角へいくらか進んでいたからである。その輝きはあまりにも強く、昇るにつれて空は明るい青に染まり、天頂近くの木星、カペラ、アルデバラン、シリウス、そして北斗七星の指極星を除き、星々は次々に見えなくなった。新星は白く、じつに美しかった。その夜、世界の多くの土地で、青白い暈が周囲を取り巻いた。目に見えて大きくなっていた。光をよく屈折させる熱帯の澄んだ空では、月の四分の一近い大きさに見えた。イングランドの地面にはまだ霜が残っていたが、世界は真夏の月夜のように明るく照らされていた。その冷たく澄んだ光の下では、普通の印刷文字を読むことさえできた。都市の街灯は黄色く、弱々しく燃えていた。
その夜、世界は至るところで目覚めていた。キリスト教世界の田園地帯では、張りつめた空気のなか、荒野のヒースに群がる蜜蜂の羽音のような、陰鬱などよめきが漂っていた。そのざわめきは都市へ入ると、轟音にまで高まった。百万もの鐘楼と尖塔で鐘が鳴り、人々に、もはや眠るな、もはや罪を犯すな、教会へ集まり祈れと呼びかけていた。そして頭上では、地球が進み、夜が過ぎるにつれて、目も眩む星がいっそう大きく、明るくなりながら昇っていった。
あらゆる都市で街路と家々に明かりがともり、造船所は眩しく照らされ、高地へ通じる道という道は、一晩じゅう灯火と群衆で埋まった。文明国を取り巻くあらゆる海では、機関を脈打たせる船、帆を膨らませる船が、人間や生き物を満載して、外洋と北方を目指していた。数学界の巨匠による警告は、すでに電信で世界じゅうへ伝えられ、百の言語へ訳されていた。炎の抱擁に固く結ばれた新惑星と海王星は、速度を増しながら、猛烈な勢いで太陽へ突進していた。すでに燃える塊は一秒ごとに百マイル(約百六十一キロメートル)を飛び、その恐るべき速度は毎秒増大していた。確かに現在の進路のままなら、地球から一億マイル(約一億六千万キロメートル)以上離れた場所を通過し、ほとんど影響を及ぼさないはずだった。しかし予定進路の近くでは、今のところわずかしか乱されていない軌道を、巨大な惑星木星とその衛星たちが、壮麗に太陽を巡って進んでいた。炎の星と最大の惑星との間に働く引力は、刻一刻と強まった。その引力の結果は? 木星は必然的に本来の軌道から逸れ、楕円軌道へ移る。そして燃える星は、木星の引力によって太陽へ向かう突進から大きく振り回され、「曲線軌道を描き」、おそらく地球と衝突するか、少なくとも間違いなく至近距離を通過する。「地震、火山噴火、旋風、津波、洪水、そしてどこまで上がるか知れない気温の継続的上昇」――数学界の巨匠はそう予言した。
そして頭上には、その言葉を実現するためであるかのように、孤独で冷たく青白い、迫り来る破滅の星が燃えていた。
その夜、目が痛くなるまで見つめた多くの人々には、星が目に見えて近づいてくるように思えた。そしてその夜、天候も変わり、中央ヨーロッパとフランスとイングランドを締めつけていた霜が緩み、雪解けへ向かい始めた。
しかし、人々が夜通し祈り、船へ乗り込み、山地へ逃げたと述べたからといって、星のために全世界がすでに恐怖に陥っていたと想像してはならない。実際には、慣習と日常がなお世界を支配していた。暇なときの話題と夜空の壮麗さを別にすれば、十人中九人はまだ普段の仕事に忙しかった。あらゆる都市で、ところどころを除けば、店は決まった時刻に開き、決まった時刻に閉まった。医師と葬儀屋はそれぞれの商売に励み、労働者は工場へ集まり、兵士は訓練し、学者は研究し、恋人たちは互いを求め、泥棒は潜み、逃げ、政治家は策略を練った。新聞の輪転機は一晩じゅう唸りを上げた。あちらこちらの宗派の司祭たちも、愚かな恐慌を助長することになるとして、教会の扉を開こうとしない者が多かった。新聞は西暦千年の教訓を強調した――あのときも、人々は世界の終わりを予想したのだ。あれは星ではない――ただのガス、彗星だ。仮に恒星であったとしても、地球へ衝突することなどあり得ない。そんな前例は一つもなかった。常識は至るところで頑健に踏みとどまり、嘲り、冗談を飛ばし、頑として恐れ続ける者たちをやや迫害しようとさえした。その晩、グリニッジ標準時七時十五分、星は木星へ最接近する。そのとき世界は、事態がどちらへ転ぶかを知るだろう。数学界の巨匠による不吉な警告を、手の込んだ売名行為にすぎないと片づける者も多かった。ついには議論で少々熱くなった常識も、揺るぎない確信を示すため、床に就いた。新奇さにすでに飽きた未開人や野蛮人も、いつもの夜の営みに戻った。ところどころで犬が遠吠えするのを除けば、獣たちの世界も星を気に留めなかった。
それでもついに、ヨーロッパ諸国の観測者が星の昇るのを目にしたとき――確かに一時間遅かったものの、前夜より大きくはなっていなかった――数学界の巨匠を嘲笑し、危険は去ったかのように考える者が、なお大勢起きていた。
だがその後、笑いは消えた。星は大きくなった――時間を追うごとに恐ろしいほど着実に成長した。一時間ごとに少しずつ大きく、真夜中の天頂へ少しずつ近づき、ますます明るくなり、ついには夜を第二の昼へ変えた。曲線軌道ではなく地球へ一直線に向かい、木星によって速度を失っていなければ、一日で両者の間の深淵を飛び越えていたはずである。しかし実際には、地球のそばへ到達するまで、全部で五日を要した。次の夜、イングランドから沈むのが見えるころには、月の三分の一ほどの大きさとなり、雪解けは決定的になった。アメリカ上空へ昇ったときには、月ほどの大きさに近づいていたが、見つめれば目が潰れるほど白く、そして熱かった。昇るにつれて熱風が吹き始め、次第に勢いを増した。ヴァージニア、ブラジル、セントローレンス川流域では、激しく流れる雷雲の煙霧、紫色に閃く稲妻、前例のない雹の向こうで、星が断続的に輝いた。マニトバでは雪解けと壊滅的な洪水が起きた。その夜、地球上のあらゆる山で雪と氷が解け始め、高地から流れ出す川という川は濁り、泥にまみれ、やがて上流では、渦巻く木々や獣と人間の死体を運ぶようになった。亡霊のような輝きの下で川は絶え間なく、絶え間なく水位を増し、ついには谷間から逃げる住民を追うように、岸を越えて溢れ出した。
アルゼンチン沿岸から南大西洋にかけて、潮位は人類の記憶にあるどの時代より高くなり、暴風が多くの場所で海水を何十マイルも内陸へ押しやり、都市を丸ごと水没させた。夜の間に熱はあまりにも強くなり、太陽が昇ると、むしろ影が訪れたように感じられた。地震が始まり、次第に激しさを増した。北極圏からホーン岬まで、南北アメリカの全域で山腹が崩れ、亀裂が開き、家屋や壁が砕け落ちた。コトパクシ山の片側全体が巨大な激震のうちに崩落し、膨大な溶岩が、あまりにも高く、広く、速く、液状になって流れ出したため、わずか一日で海へ達した。
こうして星は、青白い月を従え、太平洋を横断していった。衣の裾のように雷雲を引きずり、その背後を苦しげに追っていた増大する津波は、泡立ち、貪欲に、島から島へ襲いかかり、人間を一掃した。やがてその波はついに――目を潰すような光と、溶鉱炉の息吹とともに、速く、恐ろしく――高さ五十フィート(約十五メートル)の水の壁となり、飢えたような咆哮を上げてアジアの長大な海岸へ襲来し、中国の平原を内陸へ向けて押し流した。今や真昼の太陽より熱く、大きく、明るくなった星は、しばしの間、広大で人口の多い国土を無慈悲な光で照らした。町や村、その仏塔と木々、道路、広大な耕地、灼熱する空をなすすべもなく恐怖に見開いた目で見つめる、眠らぬ幾百万の人々を。そして、低く次第に大きくなる、洪水のどよめきが聞こえてきた。その夜、幾百万もの人々が同じ運命をたどった――どこへも行き着かぬ逃走。熱に手足は重く、呼吸は焼けつき、浅くなり、背後から壁のように速く白い洪水が迫る。そして、死。
中国は白熱する光に照らされていた。だが日本、ジャワ、東アジアのすべての島々では、火山が星の到来を迎えるように噴き上げる水蒸気、煙、灰のため、巨大な星は鈍い赤色の火球に見えた。上には溶岩と熱いガスと灰、下には煮えたぎる洪水があり、全地は地震の衝撃に揺れ、鳴動した。ほどなく、チベットとヒマラヤの太古からの雪が解け、深さを増しながら合流する千万の水路を通って、ビルマとヒンドスタンの平原へ流れ落ちた。インドの密林では、もつれ合う樹冠が千か所で燃え上がり、下では幹の周囲を急流が走り、そのなかで黒い物体がなお弱々しくもがき、血のように赤い炎の舌を映していた。そして舵を失ったような混乱のうちに、大勢の男と女が、広大な河川を下り、人類に残された最後の希望――外洋を目指して逃げた。
星はさらに、さらに大きくなり、恐ろしい速さで熱く、明るくなった。熱帯の海からは燐光が消え、絶え間なく逆巻く黒い波から、渦巻く蒸気が亡霊のような筋となって立ち昇った。波間には、嵐に翻弄される船々が点在していた。
そして一つの驚異が起きた。ヨーロッパで星の出を待っていた人々には、世界が自転を止めたに違いないと思えた。洪水、倒壊する家、崩れ落ちる丘の斜面から逃れ、低い丘や高原にある千もの空き地へ集まった人々は、星が昇るのを待ったが、いつまでたっても現れなかった。恐ろしい緊張のうちに一時間、また一時間と過ぎても、星は昇らなかった。人々は永遠に失われたと思っていた、古い星座へ再び目を向けた。イングランドでは地面が絶えず震えていたものの、頭上は暑く澄み渡っていた。熱帯では、シリウス、カペラ、アルデバランが蒸気の幕を通して見えた。そしてついに、十時間近く遅れて巨大な星が昇ると、すぐそばから太陽も昇り、その白い中心には黒い円盤があった。
星が天空の動きから遅れ始めたのは、アジア上空でのことだった。そしてインドの上にかかったとき、突然その光が覆われた。その夜、インダス川河口からガンジス川河口まで、インドの全平原は、浅く輝く水の荒野となっていた。そこから寺院や宮殿、小山や丘が突き出し、人々で黒く埋め尽くされていた。すべてのミナレットには人が群がり、熱と恐怖に耐えられなくなると、一人、また一人と濁流へ落ちていった。全土が泣き叫んでいるようだった。すると突然、その絶望の炉を影が横切り、冷たい風がひと吹きし、冷え始めた空気のなかで雲が集まった。ほとんど目を潰されながら星を見上げた人々は、その光を黒い円盤が横切りつつあるのを見た。月だった。星と地球の間へ入ったのである。人々がこの猶予を神に感謝して叫んだまさにそのとき、説明のつかない異様な速さで、東から太陽が飛び出した。そして星と太陽と月は、一団となって天空を駆け抜けた。
こうして間もなく、ヨーロッパの観測者たちには、星と太陽が互いに近接して昇り、しばらく猛烈な勢いで進み、やがて減速し、ついには天空の天頂で、一つの炎の光輝に溶け合って静止したように見えた。月はもはや星を覆っておらず、空の輝きのなかに姿を失っていた。まだ生きている者の大半は、飢え、疲労、熱、絶望が生む鈍い愚昧さでそれを眺めていたが、それでも、この徴の意味を理解できる者は残っていた。星と地球は互いに最接近し、互いを中心に振り回され、そして星は通過した。すでに遠ざかりつつあり、太陽へ向かう猛烈な落下の最終段階で、ますます速度を上げていた。
その後、雲が集まって天空の光景を覆い隠し、雷鳴と稲妻が世界を包む衣を織った。地球全土に、人類がかつて見たこともない豪雨が降った。雲の天蓋を背景に火山が赤く燃える場所では、泥の奔流が流れ落ちた。至るところで水が陸地から引き、泥に埋もれた廃墟を残した。地面には嵐に荒らされた浜辺のように、流されてきたあらゆるものと、大地の子供である人間と獣の死体が散乱していた。何日もの間、水は陸地から流れ落ち、途中の土や木や家屋を押し流し、田園地帯に巨大な堤を築き、巨人の手によるような峡谷を抉った。それが星と熱に続いた、暗黒の日々だった。その間も、そしてその後何週、何か月にもわたり、地震は続いた。
だが星は過ぎ去った。飢えに駆られ、ゆっくりと勇気を取り戻した人々は、廃墟となった都市、埋もれた穀倉、水浸しの畑へ、這うように戻ることができた。あの時代の嵐を逃れた、わずかな船は、打ちのめされ、砕かれながらも、かつて馴染み深かった港に新たに生じた標識や浅瀬を測り、慎重に進んで帰還した。嵐が収まると、人々は、どこでも日々が以前より暑く、太陽が大きくなっていることに気づいた。そして以前の三分の一へ縮んだ月は、今や新月から次の新月まで、八十日を要した。
やがて人類の間に生まれた新たな同胞意識について、法律や書物や機械がいかに救われたかについて、アイスランド、グリーンランド、バフィン湾沿岸に起きた奇妙な変化について、この物語は語らない。後にそこへ来た船乗りたちは、それらの土地が緑豊かで穏やかになっているのを見て、自分の目をほとんど信じられなかった。また地球が温暖化したため、人類が北へ南へ、両極へ向けて移動したことも語らない。この物語が扱うのは、ただ「星」の到来と通過だけである。
火星の天文学者たちは――火星にも天文学者はいる。ただし人類とは大きく異なる生物だが――当然、これらの出来事に強い関心を抱いた。もちろん彼らは、彼ら自身の立場からそれを見た。「我々の太陽系を通過し、太陽へ投げ込まれた飛翔体の質量と温度を考えれば」と、その一人は記した。「すれすれのところで衝突を免れた地球が、これほどわずかな損害しか受けなかったことは驚嘆に値する。見慣れた大陸の模様も海洋の広がりも、すべてそのまま残っている。実際、唯一の変化は、両極を取り巻く白い変色部――凍結水と推測されているもの――が縮小したことだけらしい。」
それはただ、数百万マイルも離れれば、人類にとって最大の大惨事さえ、いかに小さく見えるかを示しているにすぎない。
アルマゲドンの夢
顔の白い男がラグビーで客車に乗り込んできた。ポーターにせき立てられているにもかかわらず、足取りは鈍かった。まだプラットホームにいるうちから、ひどく具合が悪そうだと私は気づいていた。男はため息とともに私の向かいの隅へ身を沈め、旅用の肩掛けを整えかけたものの途中でやめ、虚ろな目で宙を見つめたまま動かなくなった。やがて私の視線に気づいたのか、こちらを見上げ、力のない手を新聞へ伸ばした。それからまた私のほうをちらりと見た。
私は本を読むふりをした。知らず知らず男を居心地悪くさせてしまったかと思ったのだが、ほどなく、その男が話しかけてきたので驚いた。
「何かおっしゃいましたか?」と私は訊いた。
「その本だ」と男は繰り返し、痩せた指で示した。「夢についての本だな。」
「見ればわかるでしょう」と私は答えた。読んでいたのはフォートナム・ロスコー『夢の状態』であり、表紙に題名が記されていたからだ。
男は言葉を探すように、しばらく黙り込んだ。「そうだ」と、ようやく言った。「だが、そんな本を読んでも何もわからない。」
一瞬、意味がつかめなかった。
「連中には何もわかっていないんだ」と男は付け加えた。
私はあらためて、その顔を注意深く見た。
「夢にも」と男は言った。「夢としか呼べぬものと、そうでないものがある。」
こういう命題に、私は反論しないことにしている。
「その――」男はためらった。「あなたは夢を見るかね? つまり、鮮明な夢を。」
「めったに見ません」と私は答えた。「鮮明な夢となると、年に三度も見ないでしょう。」
「ああ!」と男は言い、しばらく考えをまとめているようだった。
「夢と記憶が混じることはないのか?」と不意に訊いた。「これは本当に起きたのか、それとも起きなかったのかと、わからなくなることは?」
「まずありません。時折、ほんの一瞬ためらうくらいです。たいていの人もそうでしょう。」
「その男は、何と――?」
男は本を示した。
「たまには起こると書いてあります。ただ、普通は起こらない理由について、印象の強度がどうのと、ありきたりな説明をしているだけです。あなたもこういう理論を多少はご存じなのでしょう――」
「ほとんど知らない。ただし、間違っているということだけはわかる。」
男のやつれた手が、しばらく窓の革紐をもてあそんだ。私は読書に戻ろうとしたが、それが男の次の言葉を誘ったらしい。男は、今にも私に触れようとするかのように身を乗り出した。
「連続夢とかいうものがあるだろう――夜ごと続いてゆく夢だ。」
「あるそうですね。精神疾患を扱う本なら、たいてい症例が載っています。」
「精神疾患! そうだな。きっと載っているだろう。そういうものを押し込めるには、まことに都合のいい場所だ。だが私が言いたいのは――」男は骨ばった拳を見つめた。「そういうものは、いつでも本当に夢なのか? 夢なのか? それとも別の何かなのか? 別のものだということはないのか?」
しつこい話をぴしゃりと打ち切ってもよかったのだが、その顔に浮かぶ切羽詰まった苦悩が私を思いとどまらせた。色褪せた目と、赤くただれた瞼。その様子を、今でも覚えている――あなたも、ああいう顔をご存じかもしれない。
「単なる意見の問題を論じているんじゃない」と男は言った。「こいつのせいで、私は死にかけている。」
「夢のせいで?」
「あれを夢と呼ぶならな。夜ごとだ。鮮明で――あまりにも鮮明で……こちらのほうが」男は窓外を流れてゆく風景を示した。「比べれば現実とは思えないほどだ! 自分が何者なのか、何の用事で旅をしているのかさえ、ほとんど思い出せない……」
男は口をつぐんだ。「今でさえ――」
「いつも同じ夢だということですか?」
私は訊いた。
「もう終わった。」
「というと?」
「私は死んだ。」
「死んだ?」
「叩き潰され、殺された。だから今では、あの夢であった私の部分は死んでいる。永遠に死んでしまった。私は別の男になる夢を見たんだ。世界の別の土地、別の時代に生きている男にね。それを夜ごと夢に見た。夜ごと、私はあちらの人生へ目覚めた。新しい光景、新しい出来事――そしてついに、最後の場面を迎えた――」
「死んだ場面を?」
「私が死んだ場面を。」
「それ以来は――」
「見ていない」と男は言った。「ありがたいことに! あれで夢は終わった……」
どうやら私は、この夢を最後まで聞かされる運命らしかった。考えてみれば、まだ一時間はある。外は急速に暗くなっており、フォートナム・ロスコーの文章はひどく退屈だ。「別の時代に生きていた」と私は言った。「つまり、違う時代ということですか?」
「そうだ。」
「過去?」
「いや、未来だ――これから来る時代だ。」
「たとえば西暦三千年?」
「何年だったかはわからない。眠っていたとき――つまり夢を見ていたときには知っていたが、今はわからない――目覚めた今となっては。夢から目覚めて以来、ずいぶん多くのことを忘れてしまった。あのとき――まあ、夢を見ていたときには、わかっていたのだが。彼らは年を、われわれとは違う呼び方で呼んでいた……何と呼んでいたのだったか?」
男は額に手を当てた。「駄目だ」と言った。「忘れてしまった。」
男は弱々しい笑みを浮かべて座っていた。一瞬、夢を話すつもりがないのではないかと思った。普段の私は、夢を語りたがる人間が大嫌いだ。だが、この男はどこか違っていた。私は助け船まで出した。「始まりは――」と促した。
「最初から鮮明だった。いきなりその夢の中で目覚めたような感じだった。奇妙なのは、今話している夢の中では、現在のこの人生を一度も思い出さなかったことだ。夢の人生は、それが続いているあいだ、それだけで完結しているようだった。おそらく――いや、できるかぎりすべてを思い出して、私がどこで自分を見いだしたか話そう。海を見晴らす、一種のロッジアに座っていたところまで、はっきりした記憶はない。私はうとうとしていて、突然目を覚ました――意識は冴え、何もかも鮮明で、夢らしさなどまるでなかった――娘が私を扇ぐ手を止めたからだ。」
「娘?」
「そう、娘だ。話の腰を折らないでくれ。調子が狂う。」
男は不意に口をつぐんだ。「私を狂人だと思わないか?」と言った。
「思いません」と私は答えた。「夢を見ていたのでしょう。続きを話してください。」
「目が覚めたのは、その娘が扇ぐのをやめたからだと言ったろう。自分がそこにいることに驝きもしなかったし、妙だとも思わなかった。突然そこへ放り込まれたという感覚ではなかった。その時点から、ごく自然に人生の続きを始めたんだ。この人生、この十九世紀の人生について持っていたはずの記憶は、目覚めるとともに薄れ、夢のように消え去った。自分については何もかも知っていた。名前がもはやクーパーではなくヘドンであることも、世間における自分の立場も。目覚めてから多くを忘れてしまい、ところどころつながりが欠けているが、あのときはすべてが明瞭で、当たり前の事実だった。」
男はまたためらい、窓の革紐を握りしめ、顔を突き出して、訴えるように私を見上げた。
「馬鹿げた話に聞こえるか?」
「いや、まさか!」
私は叫んだ。「続けてください。そのロッジアがどんな場所だったか教えてください。」
「本当はロッジアではなかった――何と呼べばいいのかわからない。南向きで、小さな場所だった。バルコニーの上に空と海を切り取る半円形の開口部と、娘の立っていた隅を除けば、すべて影の中にあった。私は長椅子に寝ていた――薄い縞模様のクッションを置いた金属製の長椅子だ――娘は私に背を向けて、バルコニーから身を乗り出していた。朝日の光が、その耳と頬に差していた。愛らしい白い首筋と、そこにまとわりつく小さな巻き毛、白い肩には陽が当たり、その優美な身体の残りは涼しげな青い影の中にあった。服装は――どう言えばいい? ゆったりとして、流れるようだった。そうして立つ姿を見ていると、まるで初めて目にしたかのように、その美しさ、愛おしさが胸に迫ってきた。やがて私がため息をつき、片腕を支えに身を起こすと、娘はこちらを向いた――」
男は言葉を切った。
「私はこの世で五十三年生きてきた。母も、姉妹も、友人も、妻も、娘たちもいる――その顔も、表情の移ろいも、よく知っている。だが、あの娘の顔は――私には、もっと現実なのだ。記憶の中に呼び戻し、もう一度見ることができる――絵にも描ける。それなのに、結局は――」
男は口を閉ざした――だが私は何も言わなかった。
「夢の顔――夢の中の顔だ。美しかった。聖女の美しさのように、恐ろしく、冷たく、崇拝を強いる美ではない。激しい情欲をかき立てる美でもない。むしろ内側から光を放つような美しさだった。微笑みにほどける優しい唇と、思慮深い灰色の瞳。身のこなしは優雅で、世にある心地よく気品に満ちたものすべてと、同じ本質を分かち合っているようだった――」
男は言葉を切り、うつむいて顔を隠した。やがて顔を上げ、自分の物語を現実だと完全に信じていることを、もはや取り繕おうともせずに話を続けた。
「わかるだろう。私はあの女のために、計画も野心も、これまで働き、望んできたものも、すべて投げ捨てた。遠い北方では、人々を支配する大人物だった。影響力も財産も、絶大な名声もあった。だが、あの女に比べれば、そのどれも持つ価値がないと思えた。私はあの女とともに、陽光と歓楽の都へやって来た。それまでのすべてを破滅するに任せ、せめて自分の人生の残りだけでも救おうとした。あの女が私を想っていると知るより前、あの女がそんなことを敢えてするとは――私たち二人が敢えて踏み出すとは、想像もしなかったころから、私は恋していた。そのころの人生は、すべて空虚で無意味に思えた。塵と灰だった。実際、塵と灰だった。夜ごと、長い昼のあいだも、私は焦がれ、求め続けた――私の魂は、禁じられたものに向かって激しく打ちつけていた!
「だが、こういうことを一人の人間が別の人間に説明するのは不可能だ。それは感情であり、色合いであり、現れては消える光なのだから。ただ、それがそこにあるあいだは、あらゆるものが変わる。何もかもだ。ともかく私は彼らを〈危機〉のただ中に残し、あとは自分たちでどうにかしろと立ち去った。」
「誰を残したのです?」
私は困惑して訊いた。
「あの北方の人々だ。夢の中では、とにかく私は大人物だった――人々が信頼を寄せ、周囲に集まってくるような男だ。私に会ったこともない何百万もの人間が、私を信頼するがゆえに行動し、危険を冒す覚悟をしていた。私は何年もその競技に身を投じていた。巨大で骨の折れる競技、曖昧で怪物じみた政治の競技だ。陰謀と裏切り、演説と扇動の渦中で繰り広げられる、途方もなく混乱した世界。やがて私は〈一味〉に対抗する、ある種の指導者となった――そう、あれは〈一味〉と呼ばれていた。悪辣な企てと卑しい野心、民衆の巨大で愚かな感情、耳ざわりのいい標語が折り合ってできた集団――年々、世界を騒がしく盲目なままにし、そのあいだにも世界を漂流させ、漂流させ、無限の破局へ向かわせていた〈一味〉だ。だが、未来の何年だかにおける微妙な事情や複雑さを、あなたに理解しろというのは無理だろう。夢の中では、どんな細部に至るまですべて知っていた。目覚める前にも、そのことを夢見ていたのだろう。目をこすっているあいだも、私が思い描いていた奇妙な新展開の、薄れかけた輪郭がまだ意識の周囲に残っていた。薄汚い事件で、そのせいで私は陽光に感謝したくなった。長椅子の上で身を起こし、あの女を見つめながら喜んだ――手遅れになる前に、あの騒乱と愚行と暴力のすべてから逃れてきたことを喜んだ。結局、これこそ人生ではないか、と私は思った。愛と美、欲望と歓喜。それらは、曖昧で巨大な目的をめぐる、あの陰鬱な闘争のすべてに勝る価値があるのではないか? 愛に日々を捧げることもできたのに、かつて指導者になろうとした自分を責めた。だがその一方で、若い日々を厳しく禁欲的に過ごしていなければ、虚栄心ばかりの価値のない女たちに身を浪費していたかもしれない、とも考えた。その瞬間、私の全存在が、愛しい恋人、愛しい貴婦人への愛と優しさとなってあふれ出した。ついに私のもとへ現れ、私には抗いようのない魅力によって、あの人生を捨てさせた女へ。
「『君にはそれだけの価値がある』と私は言った。聞かせるつもりはなかった。『何より愛しい君には、その価値がある。誇りも称賛も、あらゆるものを捨てるだけの価値が。愛しい人よ! 君を得られるなら、そのすべてを合わせても惜しくはない』。私の呟きに、あの女は振り返った。
「『来て、見て!』とあの女は叫んだ――今でもその声が聞こえる――『モンテ・ソラーロに昇る朝日を見て。』
「私は跳ね起き、バルコニーのあの女のもとへ駆け寄った。その白い手が私の肩に置かれ、命を吹き込まれたように赤く染まる巨大な石灰岩の塊を指さした。私はそちらを見た。だがその前に、頬と首筋の線を撫でるように照らす陽光へ目が行った。私たちの前に広がっていた景色を、どう説明すればいいだろう? そこはカプリ島だった――」
「行ったことがあります」と私は言った。「モンテ・ソラーロに登り、頂上でヴェーロ・カプリという、林檎酒のように濁った代物を飲みました。」
「ああ!」と顔の白い男は言った。「それなら教えてもらえるかもしれない――あれが本当にカプリ島かどうか、あなたならわかるだろう。この人生では、私は一度も行ったことがない。説明させてくれ。私たちは小さな部屋にいた。海面からはるか高くそびえる、岬のような石灰岩の一部をくり抜いて造られた、涼しく陽当たりのよい無数の小部屋、その一つだ。島全体が一つの巨大ホテルになっていて、説明できないほど複雑に入り組んでいた。反対側には何マイル(数キロメートル)にもわたって水上ホテルが並び、飛行機械が降り立つ巨大な浮遊式発着場もあった。そこは歓楽都市と呼ばれていた。もちろん、あなたが訪れた時代にはそんなものはなかった――いや、今はそんなものはない、と言うべきだな。もちろん。今は! ――そうだ。
「さて、私たちの部屋は岬の突端にあり、東も西も眺めることができた。東には高さ千フィート(約三百メートル)はあろうかという大断崖がそびえていた。冷たい灰色の岩肌で、縁の一筋だけが鮮やかな黄金色に輝いていた。その向こうにセイレーンの島があり、さらに先には、暑い朝日の中へ薄れながら消えてゆく海岸線が続いていた。西を向けば、近くにはっきりと小さな入り江が見え、その小さな浜辺はまだ影の中にあった。その影から、ソラーロがまっすぐ高く立ち上がっていた。赤く染まり、黄金の冠を戴いて、玉座の美女のようだった。その背後の空には白い月が浮かんでいた。私たちの前には、東から西まで、さまざまな色に染まった海が広がり、小さな帆船が点々と浮かんでいた。
「東の小舟は、もちろん灰色で、ごく小さく、くっきりとしていた。だが西の小舟は黄金色だった――輝く黄金――小さな炎のようだった。そして真下には、波に穿たれたアーチを持つ岩があった。その周囲で青い海水が緑に砕け、泡立っていた。すると一艘のガレー船が、アーチの中から滑り出てきた。」
「その岩なら知っています。」
私は言った。「そこで危うく溺れかけました。ファラリオーニ岩礁と呼ばれています。」
「イ・ファラリオーニ? そうだ、あの女もそう呼んでいた」と顔の白い男は答えた。「何か物語があった――だが、それは――」
男はまた額に手を当てた。「駄目だ」と言った。「その物語は忘れてしまった。」
「ともかく、それが私の最初の記憶、最初の夢だ。影に包まれた小部屋、美しい空気と空、輝く腕と優雅な衣をまとった愛しい女。そして私たちが寄り添い、囁くような声で語り合ったこと。囁いていたのは、人に聞かれる心配があったからではない。私たちの心には、まだあまりにも瑞々しいものがあって、自分たちの思いがついに言葉になったことに、少し怯えていたのだと思う。だから言葉は静かに交わされた。
「やがて空腹を覚え、私たちは部屋を出た。床が動く奇妙な通路を通り、大食堂へ向かった――そこには噴水があり、音楽が流れていた。陽光と水しぶき、弦を爪弾く音のざわめきに満ちた、快く喜ばしい場所だった。私たちは腰を下ろして食事をし、微笑みを交わした。近くのテーブルから私を見張る男がいたが、私は気にも留めなかった。
「その後、舞踏場へ行った。だが、あの広間を言葉で説明することはできない。途方もなく広大だった――あなたがこれまで目にしたどんな建物よりも大きい。ある場所では、カプリ島の古い門が、はるか頭上の回廊の壁に組み込まれていた。軽やかな梁、黄金の茎と糸が柱から噴水のように噴き出し、屋根を横切って極光のように流れ、複雑に絡み合っていた。まるで――まるで手品のようだった。踊り手たちのための大円形舞台を囲んで、美しい像、奇怪な竜、複雑で見事な怪物像が明かりを支えていた。生まれたばかりの朝を恥じ入らせるほどの人工光が、広間全体に満ちていた。私たちが群衆の中を進むと、人々は振り返ってこちらを見た。世界中に私の名と顔は知られており、誇りも闘争も突然投げ捨ててこの地へ来たことも知られていたからだ。人々は隣を歩く女にも目を向けた。ただ、あの女がついに私のもとへ来るまでの経緯は、半分も知られていないか、誤って伝えられていた。私の名にどれほどの恥辱と不名誉が降りかかっていようとも、そこにいた男たちのほとんどが、私を幸福な男だと思っていたことは間違いない。
「空気は音楽と、調和した香りと、美しい動きの律動に満ちていた。何千もの美しい人々が広間を埋め、回廊にひしめき、無数のくぼみに腰を下ろしていた。華麗な色彩の衣装をまとい、花冠を戴いていた。古代の神々の白い像の下、大円形舞台で何千もの人々が踊り、若い男女の壮麗な行列が行き交っていた。私たち二人も踊った。あなたの時代の――つまり今の時代の、退屈で単調な踊りではない。美しく、人を酔わせる踊りだった。今でも、私の愛しい女が踊る姿を目に浮かべることができる――喜びにあふれて踊る姿を。あの女は真剣な顔で踊っていた。厳粛な気品をたたえながら、それでも私に微笑みかけ、私を愛撫していた――瞳で微笑み、瞳で愛撫していた。
「音楽も違っていた」と男は呟いた。「あれは――説明できない。だが、目覚めているときに聞いたどんな音楽よりも、限りなく豊かで変化に富んでいた。
「そして――踊り終えたときだった――一人の男が私に話しかけてきた。痩せた意志の強そうな男で、あの場所には似つかわしくないほど地味な服装をしていた。食堂で私を見張っていた顔だと、すでに気づいていた。その後、通路を歩いているときも、私はその視線を避けていた。だが今、輝く床を行き交う人々の楽しげな姿を眺めながら、小さな壁龕で微笑み合っていると、男は近づいて私に触れ、どうしても聞かざるを得ない調子で話しかけた。そして少しだけ、二人きりで話をさせてほしいと言った。
「『いや』と私は言った。『この女性に隠すことなど何もない。何を伝えたい?』
「男は、些細なことだと言った。少なくとも、女性が聞いても面白くない無味乾燥な話だと。
「『私にとってもそうかもしれない』と私は言った。
「男はあの女を見た。まるで助けを求めようとしたかのようだった。それから突然、イーヴシャムが行った、壮大で報復的な宣言について聞いたかと訊いた。イーヴシャムは、それまで北方の大党派において、私に次ぐ指導者だった。精力的で強硬、しかも無神経な男で、制御し、穏健にさせられるのは私だけだった。仲間たちが私の離脱にあれほど狼狽したのは、私自身よりむしろイーヴシャムの存在ゆえだったのだと思う。それで、彼が何をしたのかという問いは、捨て去った人生への古い関心を一瞬だけ呼び覚ました。
「『もう何日も、どんなニュースにも注意を払っていない』と私は言った。『イーヴシャムが何を言った?』
「すると男は喜々として話し始めた。イーヴシャムが口にした、荒々しく威嚇的な言葉。その無謀な愚行には、私でさえ衝撃を受けたと認めざるを得ない。私のもとへ送られてきた使者は、演説の内容を伝えただけでなく、さらに助言を求め、仲間たちがどれほど私を必要としているか説いた。男が話すあいだ、私の愛しい女は少し身を乗り出し、男の顔と私の顔を見つめていた。
「策を練り、組織を動かす昔の習慣が息を吹き返した。突然北方へ戻った自分の姿と、それがもたらす劇的な効果さえ思い浮かんだ。この男の話は、たしかに党派の混乱を示していたが、致命的な損害は示していなかった。戻れば、私は以前より強くなれる。そして私は、愛しい女のことを思った。わかるだろう――どう説明すればいい? 私たちの関係には、ある特殊な事情があった――今となっては詳しく話す必要もない――そのため、あの女を連れてゆくことは不可能だった。北方で自分にできることをすべて果たそうとするなら、あの女を置いてゆかねばならない。いや、明確かつ公然と、あの女との関係を断たねばならなかった。男はそれを知っていた。私たち二人に語りかけながら、あの女と同じくらいよく知っていた。私が義務へ戻るための第一歩は別離、次いで放棄なのだと。その考えに触れた瞬間、帰還の夢は砕け散った。使者は、自分の雄弁が私の心を動かしつつあると思っていた。その男に、私は突然食ってかかった。
「『今の私に何の関係がある?』と私は言った。『私はもう手を引いた。ここへ来たのが、君たちを焦らして気を持たせるためだとでも思うのか?』
「『いいえ』と男は言った。『ですが――』
「『なぜ私を放っておけない。私はもう、ああしたこととは縁を切った。ただの私人になったのだ。』
「『ええ』と男は答えた。『ですが、お考えになりましたか? ――この戦争の噂、無謀な挑発、狂気じみた侵略行為を――』
「私は立ち上がった。
「『いや』と叫んだ。『聞くつもりはない。そうしたことはすべて考慮し、秤にかけた――そのうえで私は立ち去ったのだ。』
「男は、なおも食い下がるべきか考えているようだった。私と、座ってこちらを見つめる女とを見比べた。
「『戦争か』と、男は独り言のように言い、それからゆっくり背を向けて立ち去った。
「私は立ち尽くした。男の訴えによって巻き起こされた思考の渦に囚われていた。
「愛しい女の声が聞こえた。
「『ねえ』とあの女は言った。『でも、もしあの人たちにあなたが必要なら――』
「最後まで言わず、そこで言葉を宙に残した。私はその優しい顔を振り返り、心の天秤が揺れ、傾いた。
「『連中は、自分たちにやる勇気のないことを、私にやらせたいだけだ』と私は言った。『イーヴシャムを信用できないなら、自分たちで始末をつければいい。』
「あの女は疑わしそうに私を見た。
「『でも、戦争が――』と言った。
「その顔に、以前にも見た疑念が浮かんでいた。自分自身と私への疑い。それを強く、余すところなく悟ってしまえば、私たちを永遠に引き離すことになる、最初の影だった。
「私はあの女より年長で、思慮も深かった。だから、こちらの信念にも、あちらの信念にも導くことができた。
「『愛しい人よ』と私は言った。『こんなことに心を悩ませてはいけない。戦争など起こらない。絶対に起こらない。戦争の時代は終わったのだ。この問題の正しさについては、私を信じてくれ。彼らには私を求める権利などない。愛しい人よ、誰にもそんな権利はない。私は自分の人生を自由に選べた。そして、これを選んだのだ。』
「『でも、戦争が――』とあの女は言った。
「私は隣に腰を下ろした。背後に腕を回し、その手を取った。あの疑念を追い払おうとした――心を再び快いもので満たそうとした。私はあの女に嘘をつき、嘘をつくことで自分自身にも嘘をついた。そしてあの女は、あまりにも私を信じたがっていた。あまりにも忘れたがっていた。
「ほどなく影は再び消え、私たちはグロッタ・デル・ボーヴォ・マリーノの水浴場へ急いでいた。毎日そこで泳ぐのが習慣だった。泳ぎながら水を掛け合い、その身体を浮かせる水の中で、私は人間よりも軽く、強い何かになった気がした。やがて水から上がり、濡れたまま喜びにあふれて岩の間を駆け競った。それから乾いた水着に着替え、二人で陽を浴びて座った。やがて私はあの女の膝に頭を預けてうとうとし、あの女は私の髪に手を置いて、優しく撫でた。そして見よ! まるでヴァイオリンの弦がぷつりと切れたかのように、私は目を覚ました。現代の人生、リヴァプールの自分の寝床にいた。
「しばらくのあいだ、あれほど鮮明な時間のすべてが、夢の材料にすぎなかったとは信じられなかった。
「実際、周囲の物事が冷厳な現実味をもって迫ってきても、それが夢だったとは信じられなかった。習慣に従うように身体を洗い、服を着た。髭を剃りながら、愛する女を置いて、過酷で忙しい北方の幻想じみた政治へ、なぜほかならぬ自分が戻らねばならないのかと考え続けた。たとえイーヴシャムが世界を再び戦争へ追いやったとしても、それが私に何の関係がある? 私は人間の心を持つ一人の男だ。世界の行く末について、なぜ神のような責任を感じねばならない?
「ご存じのとおり、現実の仕事について、私は普段そんな考え方をしない。私は事務弁護士で、自分なりの見識もある。
「あの幻はあまりにも現実的で、夢とはまるで違っていた。そのため私は、些細で無関係な細部を絶えず思い出した。朝食室で妻のミシンの上に置かれていた本の表紙飾りを見ただけで、捨ててきた党派の使者と話した壁龕の座席を縁取る金色の線が、恐ろしいほど鮮明に蘇った。そんな性質の夢を聞いたことがあるか?」
「そんな性質とは――?」
「あとになって、忘れていた細部を思い出す夢だ。」
私は考えた。これまで意識したことはなかったが、男の言うとおりだった。
「ありません」と私は言った。「夢では、そういうことは起こらないようです。」
「そうだ」と男は答えた。「だが私には、まさにそれが起きた。私はリヴァプールの事務弁護士だ。その日、事務所で話している依頼人や商売人に向かって、二百年ほど先に生まれる娘に恋をし、遠い子孫たちの政治を心配していると突然打ち明けたら、どう思われるだろうと考えずにはいられなかった。その日は主に、九十九年間の建築借地契約の交渉で忙しかった。相手は急いでいる個人の建築業者で、こちらは考えられるかぎりの方法で縛りをかけようとしていた。面談すると、相手は少し癇癪を起こし、私は苛立ったまま床に就いた。その晩は夢を見なかった。翌晩も、少なくとも覚えているかぎりでは見なかった。
「あれが現実だという強烈な確信は、いくらか消えた。やはり夢だったのだと思い始めた。すると、再び夢が訪れた。
「ほぼ四日後、夢が再び訪れたとき、様子はまったく違っていた。夢の中でも四日ほどが経過していたに違いない。北方では多くのことが起こり、その影が再び私たちの間に落ちていた。今度は、そう簡単に払いのけられなかった。夢の初め、私は憂鬱な物思いに沈んでいた。なぜ、何もかも承知のうえで戻らねばならない? 残りの人生をすべて、労苦と重圧、侮辱と絶え間ない不満の中で過ごさねばならない? 愛してもいない、むしろしばしば軽蔑せずにはいられない何億もの平凡な人々を、戦争の苦痛と苦悶、際限のない悪政から救うためだけに? しかも失敗するかもしれない。誰もが自分の狭い目的を追っている。ならばなぜ私だけが――私も一人の人間として生きてはいけないのか? そんな考えに沈んでいた私を、あの女の声が呼び戻した。私は目を上げた。
「気がつくと、目覚めたまま歩いていた。歓楽都市の上方へ出て、モンテ・ソラーロの頂上近くから湾を眺めていた。午後も遅く、空気はひどく澄んでいた。はるか左には、イスキア島が海と空のあいだの黄金の靄に浮かび、ナポリは丘を背に冷たい白さを見せていた。正面にはヴェスヴィオ山があり、細長い煙が立ち昇ったのち南へ羽毛のように流れていた。トッレ・デル・アンヌンツィアータとカステッランマーレの廃墟が、近くで輝いていた。」
私は不意に遮った。「やはりカプリ島へ行ったことがあるのでしょう?」
「この夢の中でだけだ」と男は言った。「この夢の中でだけ。ソレントの向こう、湾一帯には、歓楽都市の水上宮殿が錨と鎖でつなぎ留められていた。北には、飛行機を受け入れる広大な浮遊式発着場があった。毎日午後になると、飛行機が空から舞い降り、一機ごとに世界の果てから何千もの行楽客をカプリ島とその歓楽へ運んできた。そうしたものがすべて、眼下に広がっていた。
「だが、その夕べには珍しい光景が現れたので、私たちはそうしたものにほとんど注意を払わなかった。ライン河口の遠い兵器庫で、長らく無用のまま眠っていた五機の軍用飛行機が、東の空で演習していた。イーヴシャムは、それらをはじめとする兵器を引っ張り出し、各地で旋回させて世界を驚かせていた。彼が仕掛ける大規模な威嚇競争に、現実の脅威を与えるためだった。私でさえ不意を突かれた。あの男は、災厄を引き起こすため天から遣わされたとしか思えない、信じがたいほど愚かで精力的な人間の一人だった。第一印象では、その精力が能力と見事なほどよく似て見える! だが想像力も創意もなく、あるのは愚かで巨大な、ひたすら前進する意志の力と、どんな窮地も愚鈍な『運』が切り抜けさせてくれるという狂信だけだった。岬に立ち、遠くで旋回する飛行隊を眺めたことを覚えている。私はその光景の意味を余すところなく考え、物事がどこへ向かわざるを得ないかを、はっきり理解していた。それでもまだ手遅れではなかった。戻れば、世界を救えたかもしれない。北方の人々は、たった一つ、彼らの道徳的規範を私が尊重しさえすれば、ついてくるとわかっていた。東方と南方も、ほかのどの北方人にも寄せない信頼を、私には寄せただろう。そして、あの女に話しさえすれば、行かせてくれると知っていた……私を愛していなかったからではない!
「ただ、私は行きたくなかった。私の意志は、まったく反対の方向を向いていた。責任という悪夢を脱ぎ捨てたばかりだった。義務に背いたばかりの新米の裏切り者だったため、何をすべきか白日のように明らかでも、その明晰さには私の意志を動かす力がまるでなかった。私の望みは生きること、歓びを集め、愛しい女を幸福にすることだった。しかし、放置した巨大な責務への自覚は、私を引き戻すことこそできなかったものの、沈黙させ、物思いに沈ませることはできた。それまで過ごした日々から輝きの半分を奪い、夜の静寂の中で暗い思索へと駆り立てた。私は立ったまま、イーヴシャムの飛行機が行き来するのを見ていた――無限の凶兆を告げる鳥たちを。あの女はそばに立ち、私を見つめていた。苦悩には気づいていたが、その正体まではわからない。瞳は私の顔に問いかけ、表情には困惑の影が差していた。夕焼けが空から消えかけていたため、その顔は灰色に見えた。あの女が私を引き留めているのは、あの女のせいではなかった。むしろ行ってくれと頼んだのだ。夜にもまた、涙を流して行ってくれと頼んだ。
「最後には、あの女の存在を意識したことで、私は沈んだ気分から目を覚ました。突然振り返り、山腹を駆け下りる競争をしようと挑んだ。『いやよ』とあの女は言った。私の言葉が、その深刻な気分を傷つけたようだった。だが私は、その深刻さを終わらせ、あの女を走らせると決めていた――息を切らしていれば、いつまでも沈んで悲しんではいられない――あの女がよろめいたときには、腕の下に手を添えて支えた。私たちは二人の男のそばを駆け抜けた。男たちは私の振る舞いに驚き、振り返って見つめていた――顔に気づいたに違いない。斜面を半ば下ったところで、空に騒音が湧き起こった。ガラン、ガシャン、ガラン、ガシャン。私たちが立ち止まると、やがて丘の稜線を越えて、あの軍用飛行機が一機ずつ連なって飛んできた。」
男は、その描写を始める寸前でためらっているようだった。
「どんな形だったのです?」
私は訊いた。
「実戦に出たことはなかった」と男は言った。「現代の装甲艦と同じだ。まだ一度も戦ったことがなかった。興奮した人間を中に乗せれば何をしでかすのか、誰にもわからなかった。推測しようとする者さえ、ほとんどいなかった。柄のない槍の穂先のような巨大な飛行機械で、柄のあるべき場所にプロペラがついていた。」
「鋼鉄製ですか?」
「鋼鉄ではない。」
「アルミニウム?」
「いやいや、そんなものではない。ごくありふれた合金だった――たとえば真鍮と同じくらいありふれていた。名前は――何だったか――」男は片手の指で額を押さえつけた。「何もかも忘れてゆく」と言った。
「砲を積んでいたのですか?」
「小型砲を積み、高性能爆薬の砲弾を撃った。砲は後ろ向きに――いわば葉の付け根から撃ち、嘴で体当たりする。それが理論だった。だが、実戦に使われたことはなかった。実際に何が起こるか、誰にも正確にはわからなかった。そのときは、若い燕の群れのように、素早く軽々と空を旋回するのが、さぞ見事に思えただろう。機長たちは、本物の戦いがどんなものになるか、あまり明確には考えまいとしていたのではないか。こうした空中戦闘機械も、長い平和のあいだに発明され、使われないまま廃れていた無数の戦争装置の、ほんの一種類にすぎなかった。人々はあらゆるものを引っ張り出し、磨き直していた。地獄じみたもの、愚かなもの、まだ一度も試されたことのないもの。巨大な機関、恐るべき爆薬、巨砲。こういうものを造る発明屋たちの愚かさは、あなたも知っているだろう。連中はビーバーがダムを造るように、次から次へと造り出す。流れを変えられる川や、水没する土地については、ビーバーほどの分別さえ持たずにな!
「黄昏の中、曲がりくねった階段を下ってホテルへ戻りながら、私はすべてを予見していた。愚かで暴力的なイーヴシャムの手によって、事態がいかに明瞭かつ不可避に戦争へ向かっているかを知った。新たな条件のもとで、戦争がどんなものにならざるを得ないかも、ある程度察していた。それでも、戻る機会が限界に近づいていると知りながら、戻ろうという意志を見いだせなかった。」
男はため息をついた。
「あれが最後の機会だった。
「空が星で満ちるまで、私たちは街へ入らなかった。高いテラスへ出て、行ったり来たり歩いた。そして――あの女は戻るよう私に勧めた。
「『愛しい人』とあの女は言い、その優しい顔で私を見上げた。『これは死よ。あなたが送っているこの人生は、死なの。あの人たちのもとへ戻って。あなたの義務へ戻って――』
「あの女は泣き始めた。すすり泣きの合間に、私の腕へすがりながら、『戻って――戻って』と言った。
「すると突然、口を閉ざした。私はその顔を見下ろし、何をしようと考えたのか、一瞬で読み取った。すべてが見える、あの種の瞬間だった。
「『駄目だ!』と私は言った。
「『駄目?』とあの女は驚いて訊いた。自分の考えへの答えを、少し恐れてもいたのだと思う。
「『何ものも』と私は言った。『私を戻らせることはできない。何ものもだ! 私は選んだ。愛しい人よ、私は選んだのだ。世界など滅びればいい。何が起ころうと、この人生を生きる――君のために生きる! 何ものにも道を変えさせない。何ものにもだ、愛しい人よ。たとえ君が死んでも――たとえ君が死んでも――』
「『そうしたら?』とあの女は静かに囁いた。
「『そうしたら――私も死ぬ。』
「あの女が再び口を開くより先に、私は話し始めた。あの人生でならできたように、雄弁に語った。愛を崇高なものとして讃え、私たちの生活を英雄的で輝かしいものに見せようとした。そして私が捨てつつあるものを、過酷で途方もなく卑しいもの、それを放棄することこそ立派なのだと思わせようとした。私は持てる精神のすべてを傾け、そこに魅惑の光を投げかけた。あの女を納得させるだけでなく、自分自身も信じ込ませようとした。私たちは語り合い、あの女は私にすがった。あの女もまた、高貴だと思うものと、甘美だと知っているものとのあいだで引き裂かれていた。そしてついに私は、それを英雄的なものに仕立て上げた。濃くなってゆく世界の災厄のすべてを、比類なき私たちの愛を輝かせる壮麗な背景にすぎないものとした。そうして私たち二人の哀れな愚か者は、ついにはその輝かしい妄想をまとい、いや、その輝かしい妄想に酔いしれて、静かな星々の下を得意げに歩いた。
「そうして、私の時は過ぎた。
「あれが最後の機会だった。私たちがそこで行き来しているまさにそのとき、南方と東方の指導者たちは決意を固めつつあった。イーヴシャムの虚勢を永遠に打ち砕く激烈な回答が形を取り、発せられるのを待っていた。そしてアジア全土、海洋、南方のいたるところで、大気と電線が、備えよ、備えよという警告に震えていた。
「生きている者は誰一人、戦争がどんなものか知らなかった。これほど多くの新発明によって、戦争がどれほどの恐怖をもたらすか、誰にも想像できなかった。大部分の人々はなお、戦争とは鮮やかな軍服、鬨の声をあげる突撃、勝利、旗、軍楽隊のことだと信じていたのだと思う――世界の半分が、一万マイル(約一万六千キロメートル)も離れた土地から食糧を得ていた時代に――」
顔の白い男は口をつぐんだ。私はその姿を見た。男は客車の床を一心に見つめていた。小さな駅、荷を積んだ貨車の列、信号所、小屋の裏手が窓の外を飛び去り、橋を通過すると鋭い轟音が列車の騒ぎを反響させた。
「その後」と男は言った。「私は何度も夢を見た。三週間にわたる夜、あの夢こそが私の人生だった。最悪なのは、夢を見られない夜があったことだ。この呪われた人生の寝床で、私は何度も寝返りを打った。そのあいだにも、私の手の届かないどこかでは、物事が起こっていた――重大で、恐ろしい物事が……私は夜に生きた。昼の日々、目覚めている日々、今送っているこの人生のほうが、色褪せた遠い夢となった。灰色の背景、本の表紙にすぎなくなった。」
男は考え込んだ。
「夢のことなら、すべて話せる。どんな小さなことも話せる。だが昼間に何をしていたかとなると――駄目だ。話せない――覚えていない。記憶が――記憶が失われてしまった。日々の仕事が、私の手から滑り落ちてゆく――」
男は身を乗り出し、両手で目を押さえた。長いあいだ、何も言わなかった。
「それから?」と私は訊いた。
「戦争が、暴風のように爆発した。」
男は、言葉にできないものを正面に見つめていた。
「それから?」
私は再び促した。
「ほんのわずかでも非現実感があれば」と男は、独り言のような低い声で言った。「あれは悪夢だったはずだ。だが悪夢ではなかった――悪夢ではなかった。違う!」
あまりに長く沈黙したため、この先を聞き逃すのではないかという不安が私の胸に生じた。だが男はまた、同じように自分自身へ問いかける調子で話し始めた。
「逃げるほかに、何ができただろう? 戦争がカプリ島にまで及ぶとは思わなかった――カプリ島だけはすべての外側にあり、すべてと対照をなす場所だと思っていた。だが二晩後には、島中で叫び声と怒号が飛び交い、ほとんどすべての女と、男の二人に一人が徽章――イーヴシャムの徽章――を身につけていた。音楽といえば、耳障りな軍歌が繰り返し流れるだけだった。いたるところで男たちが入隊し、舞踏場では教練が行われていた。島全体が噂の渦に巻き込まれた。戦闘が始まったという話が、何度も繰り返された。私はそんなことを予想していなかった。歓楽の世界をあまりに知らなかったため、素人たちのこの暴力性を計算に入れていなかった。私自身は、すでに蚊帳の外だった。火薬庫への発砲を防げたかもしれない男のようなものだった。機会は過ぎ去った。私は何者でもなかった。徽章をつけただけの虚栄心に満ちた若造でさえ、私より重んじられた。群衆は私たちを突き飛ばし、耳元で怒鳴った。呪われた歌が耳を聾した。徽章をつけていないというだけで、一人の女が私の愛しい女を罵った。私たちは乱され、侮辱されて、自分たちの部屋へ戻った――あの女は青ざめ、沈黙していた。私は怒りに震えていた。あまりにも激怒していたため、その目にほんのわずかでも非難の色を見いだしていたら、あの女に喧嘩を売っていただろう。
「私の壮麗さは、すべて失われていた。岩をくり抜いた部屋の中を行き来した。外には暗くなりゆく海があり、南の空には、燃え上がっては消え、また現れる光があった。
「『ここから出なければ』と私は何度も言った。『私は自分の道を選んだ。こんな騒動に手を貸すつもりはない。この戦争とは一切関わらない。私たちは自分たちの人生を、こうしたものすべてから切り離したのだ。ここはもう安息の地ではない。行こう。』
「翌日には、世界を覆った戦争から、私たちはすでに逃げていた。
「その後はすべて逃走だった――何もかもが逃走だった。」
男は暗く物思いに沈んだ。
「それは、どれくらい続いたのです?」
男は答えなかった。
「何日間?」
顔は白く引きつり、両手は固く握られていた。私の好奇心など意に介していなかった。
私は質問によって、男を物語へ引き戻そうとした。
「どこへ行ったのです?」
私は訊いた。
「いつ?」
「カプリ島を出たあとです。」
「南西へ」と男は言い、一瞬だけ私を見た。「船で行った。」
「飛行機を使うものだと思いましたが?」
「徴用されていた。」
私はそれ以上訊かなかった。やがて、また話し始めるように思えた。男は議論するような単調な声を突然発した。
「だが、なぜそうでなくてはならない? もし本当に、この争い、この殺戮と重圧こそが人生なら、なぜ私たちは歓びと美を求めるのか? 避難所などなく、平和な場所などなく、静かな土地を夢見ることがすべて愚行であり罠だというなら、なぜ私たちはそんな夢を見る? 私たちをここへ導いたのは、卑しい欲望でも、下劣な意図でもない。私たちを孤立させたのは愛だった。愛はあの女の瞳とともに、あの美しさをまとって私のもとへ来た。人生の何ものより輝かしく、人生そのものの姿と色を帯びて、私を呼び寄せた。私はあらゆる声を沈黙させ、あらゆる問いに答えた――そしてあの女のもとへ来た。それなのに突然、残されたのは戦争と死だけだった!」
ある考えがひらめいた。「結局のところ」と私は言った。「それはただの夢だったのかもしれません。」
「夢だと!」男は叫び、激しい目で私を見た。「夢――今この瞬間でさえ――」
初めて男は感情を露わにした。頬にかすかな血色が戻った。開いた手を上げ、拳を握り、それを膝へ落とした。私から顔を背けて話し、それから最後まで、こちらを見ることはなかった。「われわれは幻にすぎない!」と男は言った。「幻のまた幻。欲望は雲の影、意志は風に巻かれる藁。日々は過ぎ、慣例と習慣がわれわれを運んでゆく。列車が灯りの影を運ぶように――それでよい! だが、たった一つだけ現実で確かなものがある。夢の材料ではなく、永遠に残るものが一つある。それこそ私の人生の中心であり、周囲のあらゆるものはそれに従属するか、まったくの虚無なのだ。私はあの女を愛していた。夢の中の、あの女を。そして、あの女と私はともに死んだ!
「夢だと! 生きている人生を癒やしようのない悲しみでずぶ濡れにし、これまで私が生き、心にかけてきたすべてを無価値で無意味なものにしてしまったものが、どうして夢であり得る?
「あの女が殺されたまさにその瞬間まで、まだ逃げ延びる望みがあると私は信じていた」と男は言った。「カプリ島からサレルノへ海を渡った一晩と翌朝を通して、私たちは逃亡について語り合った。希望に満ち、その希望は最後まで私たちにまとわりついていた。すべての外で、戦闘と闘争、狂おしく空虚な情熱、世間が勝手に押しつける空虚な『せよ』と『するな』の外で、二人一緒に送る人生への希望だった。私たちは高揚していた。まるで探し求めるものが神聖であり、誰かを愛することが使命であるかのように……
「船上から、あの巨大な岩山カプリ島の美しい姿を眺めたときでさえ――要塞化のための砲座や隠れ場所に、すでに傷つけられ、切り裂かれていたが――間近に迫る殺戮を、私たちは何とも思わなかった。灰色の岩肌の至るところで土埃が煙や雲となり、準備の狂騒が立ち込めていたにもかかわらずだ。それどころか、私はその光景を材料にして語った。そこには岩山があった。傷だらけになっても、なお美しかった。無数の窓、アーチ、通路が層を重ね、高さ千フィート(約三百メートル)にわたって続く巨大な灰色の彫刻。葡萄に覆われた段々畑、レモンとオレンジの木立、リュウゼツランとウチワサボテンの群生、煙のようなアーモンドの花が、その灰色をところどころで破っていた。ピッコラ・マリーナの上に築かれたアーチの下からは、ほかの船も出てきた。岬を回って本土が見えるところまで来ると、別の小舟の列が姿を現し、風に押されて南西へ進んでいた。やがて無数の船が出てきて、遠いものは東の断崖の影に浮かぶ群青色の小点にすぎなかった。
「『愛と理性が』と私は言った。『この戦争の狂気から逃げてゆくのだ。』
「やがて南の空を横切る飛行隊を見ても、私たちは気に留めなかった。空に小さな点の列があり――次いで南東の地平にさらに多くの点が現れ、なおも増え続け、ついにはその方角の空全体が青い斑点で覆われた。それらは細い青の短線となり、時には一機、時には多数が傾いて陽を受け、短い閃光となった。巨大な鴎や烏などの群れのように、上昇と下降を繰り返しながら大きくなり、驚くほど一糸乱れぬ動きで迫ってきた。近づくほど、より広い空へ展開した。南風が矢じり形の雲を太陽の前へ投げつけた。すると突然、飛行隊は東へ旋回し、東の空へ流れていった。次第に小さくなり、再び細く明瞭になり、ついには空から消えた。その後、北のはるか高みで、イーヴシャムの戦闘機が、夕暮れの羽虫の群れのようにナポリ上空に浮かんでいるのに気づいた。
「私たちには、鳥の群れと同じくらい無関係に思えた。
「南東の遠方から聞こえる砲声の低い轟きさえ、私たちには何の意味も持たなかった……
「その後の日々、その後の夢でも、私たちはなお高揚し、暮らし、愛することのできる避難所を探し続けていた。疲労が私たちを襲い、痛みと多くの苦難に苛まれた。苦しい徒歩の旅で埃と汚れにまみれ、半ば飢え、目にした死者と逃げ惑う農民たちの恐怖に取り憑かれていた――ほどなく戦闘の突風が半島を吹き上がってきたのだ――それでも、そうしたものは逃げようという決意を深めるだけだった。ああ、あの女はなんと勇敢で、辛抱強かったことか! 苦難にも風雨にも晒されたことのなかったあの女が、自分自身のため、そして私のために勇気を振り絞った。集結する戦争の大軍に徴用され、略奪し尽くされた土地を行き来し、出口を探した。常に徒歩だった。最初のうちはほかの避難民もいたが、私たちは交わらなかった。北へ逃れた者もいれば、幹線道路を押し流す農民の奔流に呑み込まれた者もいた。多くは兵士たちに身を委ね、北へ送られた。男の多くは強制徴募された。だが私たちはそうしたものを避けた。北へ行く便宜を金で買おうにも、金を持ってきていなかった。それに徴兵された群衆の中で、愛しい女に何が起こるか恐ろしかった。私たちはサレルノに上陸し、カーヴァで追い返された。アルブルノ山の峠を越えてターラント方面へ抜けようとしたが、食糧が尽きて引き返した。そうして、巨大な神殿が孤独に立つパエストゥム近くの湿地へ下ってきた。パエストゥムなら船か何かを見つけ、再び海へ出られるのではないかと、漠然と考えていた。そこで戦闘が私たちに追いついた。
「私の魂は盲目になっていた。包囲されつつあることは明らかだった。〈戦争〉という巨人の大網に、私たちは捕らえられていた。北から下ってきた徴募兵の隊が行き来するのを何度も見た。山中の遠くで、弾薬を運ぶ道を造り、砲を据える準備をしているところにも出くわした。一度は、間諜と誤認され、こちらへ撃ってきたように思えた――少なくとも一発の砲弾が、震えるような音を立てて頭上を越えた。上空を旋回する飛行機から逃れ、何度か森へ隠れた。
「だが、そんなことは今となってはどうでもいい。逃亡と苦痛の夜々など……最後に私たちは、パエストゥムの大神殿近くの開けた場所にいた。尖った灌木が点在する、何もない石だらけの土地。人気がなく荒涼とし、ひどく平らで、遠くのユーカリの木立は幹の根元まで見えた。今でも目に浮かぶ! 愛しい女は灌木の下に座って少し休んでいた。ひどく弱り、疲れていた。私は立ったまま、断続的に聞こえる砲声の距離を測れないかと耳を澄ませていた。二つの軍は、まだ互いに遠く離れて戦っていた。それまで一度も使われたことのない恐ろしい新兵器を使っていた。目に見えぬ彼方まで届く砲と、さまざまなことをなし得る飛行機――それが何をするかは、誰にも予測できなかった。
「私たちが両軍のあいだにいることも、両軍が互いに接近しつつあることも知っていた。危険だとわかっていた。そこに留まり、休んでいることなどできなかった!
「そうしたことはすべて頭にあったが、背景に退いていた。自分たちには関わりのない出来事に思えた。何より、私は愛しい女のことを考えていた。胸を刺すような苦悩で満たされていた。あの女は初めて負けたと認め、泣き崩れていた。背後からすすり泣きが聞こえたが、振り返らなかった。泣く必要があると知っていたからだ。それまで、あまりにも長いあいだ、私のために気丈さを保ってきた。泣いて休めばいい。それからまた歩き続けよう、と私は思った。すぐ近くまで迫っていたものについて、何の予感もなかった。今でも、あそこに座る姿が見える。美しい髪が肩にかかり、頬のくぼみが深くなっていた。
「『もし私たちが別れていたら』とあの女は言った。『もし、あなたを行かせていたら。』
「『いや』と私は言った。『今でも後悔していない。後悔はしない。私は自分で選んだ。そして最後まで貫く。』
「そのとき――
「頭上の空で何かが閃き、炸裂した。周囲で弾丸が、一握りの豆を突然投げつけたような音を立てるのが聞こえた。弾丸は周囲の石を削り、煉瓦から破片を巻き上げ、飛び去った……」
男は口元に手を当て、それから唇を湿らせた。
「閃光を見た瞬間、私は振り返った……
「あの女は――立ち上がった――
「立ち上がって、私のほうへ一歩進んだ――私のもとへ来ようとしたかのように――
「そして、心臓を撃ち抜かれていた。」
男は口を閉ざし、私を見つめた。こういう場面でイングランド人が覚える、あの愚かしい無力感を、私も感じた。一瞬その目を見返し、それから窓外へ視線を逃がした。長いあいだ、私たちは沈黙した。ようやく見やると、男は隅に深くもたれ、腕を組み、拳に歯を立てていた。
突然爪を噛み、その爪を見つめた。
「私はあの女を抱き上げ」と男は言った。「神殿へ運んだ――そんなことに意味があるかのように。なぜそうしたのかわからない。あそこは一種の聖域に思えたのだ。あまりにも長く存在していたからだろう。
「ほとんど即死だったはずだ。ただ――私は道中ずっと、あの女に話しかけていた。」
再び沈黙が訪れた。
「その神殿なら見たことがあります」と私は唐突に言った。実際、男の話によって、静かな陽光の中に立つ、風化した砂岩の列柱廊が鮮やかに目の前へ蘇っていた。
「褐色の神殿だ。大きな褐色の神殿。私は倒れた柱に腰を下ろし、あの女を腕に抱いていた……最初の取り乱した言葉が尽きてからは、黙ったままだった。しばらくすると、蜥蜴が出てきて、また走り回り始めた。何も異常なことが起きていないかのように、何一つ変わっていないかのように……そこは恐ろしいほど静かだった。太陽は高く、影は動かなかった。エンタブラチュア[訳注:古典建築で柱の上に載る水平構造]に落ちる雑草の影さえ静止していた――空のいたるところで砲撃の鈍い轟きが響いていたにもかかわらず。
「飛行機は南から現れ、戦闘は西へ移っていったように覚えている。一機が撃たれ、ひっくり返って墜落した。それは覚えている――もっとも、少しも興味は湧かなかった。何の意味もないように思えた。傷ついた鴎のようだった――しばらく水面で羽ばたいていた。神殿の柱間を通して見えた。鮮やかな青い水の中に浮かぶ、黒い物体だった。
「三、四度、浜辺の周囲で砲弾が炸裂し、それから止んだ。炸裂するたび、蜥蜴は一斉に逃げ込み、しばらく隠れた。それ以外の被害はなかった。ただ一度、流れ弾がすぐそばの石を抉り、新しく明るい面を残しただけだった。
「影が長くなるほど、静けさは深まっていった。
「奇妙なのは」と男は、取るに足らない世間話でもするように言った。「私は何も考えていなかったことだ。石の間であの女を抱いたまま――一種の昏迷の中で――淀んでいた。
「目覚めたときのことは覚えていない。その日、服を着た記憶もない。気がつくと事務所にいて、目の前には封を切った手紙が並んでいた。自分がそこにいることの馬鹿馬鹿しさに打たれた。現実には、パエストゥムの神殿で、死んだ女を腕に抱いたまま呆然と座っているのだから。私は機械のように手紙を読んだ。何が書かれていたかは忘れた。」
男は口を閉ざし、長い沈黙が訪れた。
ふと、列車がチョーク・ファームからユーストンへ向かう下り坂を走っていることに気づいた。いつのまにか時間が過ぎていたことに驚いた。今しかない、という調子で、私は無遠慮な質問を男へ投げつけた。
「それから、また夢を見たのですか?」
「見た。」
男は無理に話を終わらせようとしているようだった。声はひどく低かった。
「もう一度だけ、ほんの数瞬ほどだった。深い無気力から突然目覚め、身を起こして座ったようだった。遺体は隣の石の上に横たわっていた。痩せ衰えた遺体だった。もう、あの女ではなかった。わかるだろう。あまりにも早く――あれはもう、あの女ではなかった……
「声が聞こえたのかもしれない。わからない。ただ、この孤独の中へ男たちが入ってくること、それが最後の陵辱になることだけは、はっきりわかった。
「私は立ち上がり、神殿を歩いた。すると姿を現した――まず一人、黄色い顔をした男だった。青い縁取りのある、汚れた白い軍服を着ていた。それから数人が、消滅した古都の城壁の頂へよじ登り、そこで身を屈めた。陽光の中の、小さく鮮やかな人影だった。武器を手に、その場に留まり、用心深く前方を窺っていた。
「さらに遠くにも別の者たちが見え、それから城壁の別の場所にも、さらに多くが現れた。散開した男たちの、長く緩やかな横列だった。
「やがて最初に見た男が立ち上がり、号令を叫んだ。部下たちは城壁を転がるように下り、背の高い雑草の中を神殿へ向かってきた。男も一緒によじ下り、先頭に立った。私のほうへまっすぐ進み、姿を認めると立ち止まった。
「最初、私はただ好奇心から見ていた。だが神殿へ来るつもりだとわかると、立ち入るなと命じたくなった。私は士官に向かって叫んだ。
「『ここへ来てはならない』と叫んだ。『私がいる。ここには、死んだ女と私がいる。』
「男は目を見開き、それから聞いたことのない言葉で何かを問い返した。
「私は同じ言葉を繰り返した。
「男はまた叫んだ。私は腕を組み、じっと立っていた。やがて男は部下に何かを言い、前へ出た。抜き身の剣を持っていた。
「近寄るなと身振りで示したが、それでも進んできた。私は再び、辛抱強く明瞭に言った。『ここへ来てはならない。ここは古い神殿だ。そして私は、死んだ女とともにここにいる。』
「やがて顔がはっきり見えるほど近づいてきた。細い顔で、鈍い灰色の目と黒い口髭があった。上唇に傷痕があり、汚れて無精髭を生やしていた。理解できないことを叫び続けていた。おそらく質問だったのだろう。
「今なら、男が私を恐れていたとわかる。だが、そのときは思いもよらなかった。私が説明しようとすると、男は高圧的な口調で遮り、おそらくそこを退けと命じた。
「私の脇を通ろうとしたので、つかまえた。
「つかまれた瞬間、男の顔が変わった。
「『愚か者!』と私は叫んだ。『わからないのか? あの女は死んだんだ!』
「男は飛び退いた。残酷な目で私を見た。その目に、勝ち誇るような決意が――歓喜が閃くのが見えた。次の瞬間、険しい顔で剣を後ろへ引き――こう――突き出した。」
男は突然、話を切った。
列車の律動が変わったことに気づいた。ブレーキが甲高い声を上げ、客車ががたつき、前後に揺れた。今この瞬間の世界が、騒々しく存在を主張した。曇った窓の向こうでは、背の高い柱から巨大な電灯が霧へ光を浴びせていた。停車中の空っぽの客車が何列も通り過ぎ、その後ろから信号所が、緑と赤の星座を薄暗いロンドンの黄昏へ掲げながら進み去った。私は再び、男の引きつった顔を見た。
「剣は私の心臓を貫いた。それが身体へ突き刺さり、深々と入ってゆくのを、恐怖も痛みもなく、ただ驚きながら感じた。痛くはなかった。本当だ。少しも痛くなかった。」
黄色いプラットホーム灯が視界に現れ、最初は素早く、次第にゆっくりと流れ、最後にはがくんと止まった。外では、ぼんやりした人影が行き来していた。
「ユーストン!」と声が叫んだ。
「つまり――?」
「痛みはなかった。刺すような痛みも、ひりつきも。驚きがあり、次いで闇がすべてを覆った。目の前にあった、私を殺した男の熱っぽく野蛮な顔が遠ざかっていくようだった。そして存在そのものから消えた――」
「ユーストン!」と外の声がわめいた。「ユーストン!」
客車の扉が開き、音の洪水が流れ込んだ。ポーターが立って、私たちを見ていた。扉の閉まる音、辻馬車の馬の蹄の音、その背後にある、ロンドンの石畳が発する形のない遠い轟きが耳へ届いた。明かりを灯したランプを満載した手押し車が、プラットホームを煌々と進んでいった。
「闇だ。押し寄せ、広がり、あらゆるものを塗り潰す闇だった。」
「お荷物はございますか?」とポーターが言った。
「それで終わりですか?」
私は訊いた。
男はためらったようだった。それから、ほとんど聞き取れない声で答えた。「いや。」
「どういう意味です?」
「私はあの女のところへ行けなかった。あの女は神殿の反対側にいた――そして――」
「それから?」と私は食い下がった。「それから?」
「悪夢だ」と男は叫んだ。「あれこそ悪夢だ! 神よ! 巨大な鳥たちが、争い、引き裂き合っていた。」
円錐
夜は暑く、空は雲に覆われていた。盛夏の夕焼けがいつまでも縁に残り、空を赤く染めていた。男と女は開いた窓辺に座り、そこなら少しは空気が涼しいと思い込もうとしていた。庭の木々と灌木は、黒々と硬直して立っていた。向こうの道路ではガス灯が一つ、夕暮れの霞んだ青を背に、鮮やかな橙色に燃えていた。さらに遠く、低く垂れ込める空を背景に、鉄道信号の三つの灯りが見えた。男と女は、低い声で語り合っていた。
「気づいてはいないだろうな?」と男が、少し神経質に訊いた。
「あの人が?」と女はいら立たしげに言った。そのことさえ腹立たしいとでもいうようだった。「工場と燃料の値段しか頭にないのよ。想像力も詩心もないわ。」
「鉄に関わる男は、みんなそうだ」と男はもったいぶって言った。「心がない。」
「あの人にはないわ」と女は言った。不満に満ちた顔を窓へ向けた。遠くで唸り、疾走する音がし、次第に近づいて大きくなった。家が震え、炭水車の金属音が聞こえた。列車が通過すると、掘割の上に光が走り、煙が轟々と流れた。一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、八つ――黒い長方形の貨車が八両、土手の薄暗い灰色を横切った。そしてトンネルの喉の中へ、一両ずつ突然消えていった。最後の一両が入ると、トンネルは列車も煙も音も、ひと呑みにしてしまったようだった。
「この土地も、昔は何もかも新鮮で美しかった」と男は言った。「だが今では――地獄だ。あちらを見れば――陶器工場と、天の顔へ炎と埃を吐きかける煙突ばかり……だが、それが何だ? 終わりが来る。この残酷なすべてに終わりが……明日。」
最後の一語は囁きだった。
「明日」と女も囁き、なお窓外を見つめていた。
「愛しい人」と男は言い、女の手に自分の手を重ねた。
女ははっと振り返り、二人は互いの目を探るように見つめ合った。男の眼差しを受けて、女の目が和らいだ。「あなた」と女は言い、それから続けた。「不思議だわ――あなたがこんなふうに私の人生へ入ってきて、開いてくれるなんて――」女は口をつぐんだ。
「何を開く?」と男は訊いた。
「この素晴らしい世界を――」女はためらい、さらに声を落とした。「この愛の世界を、私に。」
そのとき突然、扉がかちりと鳴って閉まった。二人は振り向き、男は激しく身を引いた。部屋の影の中に、大きな黒い人影が立っていた――無言で。薄明かりの中、顔がぼんやり見えた。張り出した眉の下には、感情の読めない黒い影があった。ラウトの全身の筋肉が、一瞬で強張った。いつ扉が開いた? 何を聞かれた? すべて聞かれたのか? 何を見た? 無数の疑問が渦巻いた。
新たに入ってきた男の声は、果てしなく思える沈黙の末に、ようやく発せられた。「それで?」と男は言った。
「会えずじまいかと思っていたよ、ホロックス」と窓辺の男は言い、手で窓枠をつかんだ。声が揺れていた。
ホロックスの不格好な巨体が、影の中から進み出た。ラウトの言葉には答えなかった。しばらく二人を見下ろすように立っていた。
女の心は冷え切っていた。「ホロックスさんが戻ってくるかもしれないと、ラウトさんに申し上げていたの」と、一度も震えない声で言った。
ホロックスはなお無言のまま、女の小さな裁縫台のそばの椅子へ唐突に腰を下ろした。大きな手は握りしめられていた。今や、眉の影の下で燃える目が見えた。息を整えようとしていた。信頼していた女から、信頼していた友人へ、そしてまた女へと視線を移した。
この時点で、少なくともその瞬間、三人は互いの胸中を半ば理解していた。だが、内に詰まり、息を塞ぐものを解き放つ言葉を、誰も口にできなかった。
ついに沈黙を破ったのは、夫の声だった。
「私に会いたかったのか?」とラウトに訊いた。
その声に、ラウトはびくりとした。「君に会いに来たんだ」と言った。最後まで嘘を突き通す覚悟だった。
「そうか」とホロックスは言った。
「約束しただろう」とラウトは言った。「月光と煙が織りなす、見事な光景を見せてくれると。」
「月光と煙が織りなす、見事な光景を見せると約束したな」とホロックスは、抑揚のない声で繰り返した。
「今夜、工場へ下りる前なら会えるかもしれないと思ったんだ」とラウトは続けた。「それで、一緒に行こうかと。」
また沈黙が訪れた。この男は何事もなかったように済ませるつもりなのか? 結局、何も知らないのか? いつから部屋にいた? だが扉の音がした瞬間でさえ、二人の姿勢は……ホロックスは、薄明かりの中で影のように青ざめた女の横顔を見た。それからラウトへ目を向け、急に自制を取り戻したようだった。「もちろんだ」と言った。「本来の劇的な条件のもとで工場を見せると約束した。どうして忘れていたのだろう。不思議なものだ。」
「迷惑なら――」とラウトは言いかけた。
ホロックスは再び身を震わせた。蒸し暑く暗い目に、突然新たな光が宿った。「少しも」と言った。
「あなたが素晴らしいと思っている、炎と影の対照について、ラウトさんに話していたの?」と女は言い、初めて夫へ顔を向けた。自信が少しずつ戻りつつあり、声は半音だけ高すぎた。「機械は美しく、世の中のほかのものはすべて醜いという、あの恐ろしい持論よ。ラウトさん、きっと散々聞かされたでしょう。この人の大理論、芸術における唯一の発見なんですもの。」
「私は物事を発見するのが遅い」とホロックスは険しく言い、女の勢いを一息に挫いた。「だが、ひとたび発見したら……」
そこで口をつぐんだ。
「何なの?」と女は言った。
「何でもない」そして突然、立ち上がった。
「工場を見せると約束したな」とラウトに言い、大きく不器用な手を友人の肩へ置いた。「出かける支度はできているか?」
「もちろん」とラウトは言い、自分も立ち上がった。
また沈黙が訪れた。三人は黄昏の曖昧な薄闇を通して、ほかの二人を窺った。ホロックスの手は、まだラウトの肩に載っていた。ラウトはなお、結局これは取るに足らない出来事なのかもしれないと、半ば思っていた。だがホロックス夫人は、夫をもっとよく知っていた。その声に潜む恐ろしい静けさを知っていた。混乱する心の中で、肉体的な災いの予感がぼんやり形を取った。「よかろう」とホロックスは言い、手を離して扉へ向かった。
「帽子は?」
ラウトは薄暗い室内を見回した。
「それは私の裁縫籠よ」とホロックス夫人は言い、ヒステリックに笑い出した。二人の手が椅子の背で触れ合った。「ここだ!」とラウトは言った。女は小声で警告したい衝動に駆られたが、一言も形にできなかった。「行かないで!」と「この人に気をつけて!」が心の中でせめぎ合い、その短い瞬間は過ぎ去った。
「あったか?」とホロックスは言った。扉を半ば開けて立っていた。
ラウトがそちらへ歩み寄った。「ホロックス夫人に、きちんと別れを言ったほうがいい」と製鉄所長は言った。声は先ほどよりさらに恐ろしく静かだった。
ラウトはびくりとして振り返った。「では、失礼します、ホロックス夫人」と言い、二人の手が触れ合った。
ホロックスは、男に対して普段なら見せない儀礼的な丁重さで、扉を開けたまま押さえていた。ラウトが出てゆき、夫は何も言わずに女を一瞥してから、その後に続いた。ラウトの軽い足音と、夫の重い足音が、高音と低音のように連れ立って廊下を遠ざかるあいだ、女は身じろぎもせず立っていた。玄関扉が激しく閉まった。女はゆっくり窓へ歩み寄り、身を乗り出して見張った。二人の男は道路の門口に一瞬姿を見せ、街灯の下を通り、灌木の黒い塊の陰へ消えた。街灯の光が一瞬その顔を照らしたが、意味のない青白い斑点を浮かび上がらせただけだった。女がなお恐れ、疑い、知りたいと切望しながら、どうしても知ることのできないものは、何一つ明かさなかった。それから女は、大きな肘掛け椅子の中へ身を屈めるように沈み込んだ。目を大きく見開き、空でちらつく炉の赤い光を見つめた。一時間後も、ほとんど同じ姿勢でそこにいた。
重苦しく静まり返った夕べが、ラウトへ重くのしかかった。二人は無言で並んで道を下り、やがて谷の眺望が開ける、燃え殻を敷いた脇道へ無言のまま入った。
半ば埃、半ば霧からなる青い靄が、長い谷を謎めいたものにしていた。向こうにはハンリーとエトルリアの灰色で暗い塊があり、まばらな街灯の金色の点によって、輪郭だけが細く浮かんでいた。ところどころにガス灯の点る窓や、遅くまで操業する工場、客で混み合う酒場の黄色い光が見えた。その塊から、夕空を背に、細くくっきりと無数の高い煙突が伸びていた。多くは煙を吐き、ごく一部は休業期間中で煙を出していなかった。
ところどころに、青白い斑点と、幽霊めいた背の低い蜂の巣形の窯が見え、陶器工場の位置を示していた。また、熱を帯びた低い空を背に、黒く鋭い輪が見える場所には、この地方特有の虹色に光る石炭を掘り出す炭鉱があった。もっと近くには広大な鉄道敷があり、半ば見えない列車が入れ替え作業をしていた。絶え間ない蒸気の噴出音と轟き。車両が走るたびに鳴り響く衝突音と、律動的に連なる衝撃音。さらに向こうの景色を、白い蒸気が断続的に横切っていった。そして左手、鉄道と、その向こうの低い丘の暗い塊とのあいだに、全景を圧して、巨大な漆黒の円筒群が立っていた。煙と、時折噴き上がる炎を冠した、ジッダ会社の高炉である。ホロックスが所長を務める巨大製鉄所の中心施設だった。重々しく威圧的にそびえ、内部では炎と煮えたぎる溶鉄が絶えず荒れ狂っていた。その足元では圧延工場が轟音を響かせ、蒸気ハンマーが重く打ち下ろされ、白熱した鉄の火花を四方へ飛び散らせていた。二人が見ているまさにそのときも、燃料を満載した貨車が一基の巨人へ投入され、赤い炎が輝き、煙と黒い埃が入り混じって空へ煮え上がった。
「たしかに君の高炉は、見事な色彩効果を生み出すな」とラウトは言った。不安を孕み始めた沈黙を破った。
ホロックスは鼻を鳴らした。両手をポケットに突っ込み、薄暗い鉄道の蒸気と、その向こうの忙しい製鉄所を見下ろして眉をひそめていた。難しい問題を考え抜こうとしているようだった。
ラウトは男をちらりと見て、また視線を逸らした。「今のところ、月光の効果はまだ十分に熟していないな」と、空を見上げて続けた。「月はまだ、残照の名残に覆われている。」
ホロックスは、突然目を覚ました人間のような顔で見つめた。「残照の名残? ……ああ、そうだ、そうだな。」
ホロックスも、盛夏の空でまだ青白い月を見上げた。「行こう」と突然言い、ラウトの腕をつかむと、二人の立つ場所から鉄道へ下ってゆく小道へ向かった。
ラウトは後ろへ踏ん張った。二人の視線がぶつかり、目が言葉にしかけた無数のことを、一瞬のうちに読み合った。ホロックスの手が強く締まり、それから緩んだ。手を離したかと思うと、ラウトが気づかぬうちに二人は腕を組み、一方は明らかに気が進まぬまま、小道を下り始めていた。
「バーズレム方面の鉄道信号が作る、見事な効果が見えるだろう」とホロックスは、突然饒舌になった。早足で歩き、同時に肘の締めつけを強めた。「小さな緑の灯り、赤と白の灯りが、すべて靄を背にして浮かんでいる。ラウト、君は効果を見る目がある。見事な効果だ。それに私の高炉を見ろ。丘を下るにつれ、われわれの前に立ちはだかってくる。右のやつは私のお気に入りだ――高さ七十フィート(約二十一メートル)。私自身が中身を詰めた。腹に鉄をたぎらせながら、もう丸五年、機嫌よく働いている。私は特にあいつが気に入っている。あそこの赤い線――君なら暖かみのある美しい橙色と呼ぶだろう、ラウト――あれはパドル炉だ。あそこ、熱い光の中に黒い人影が三つ――今、蒸気ハンマーが白い火花を散らしたのが見えたか? ――あれが圧延工場だ。さあ行こう! ガラン、ガシャン、床一面に轟いている! 錫板だよ、ラウト――驚くべき代物だ。圧延機から出てきたばかりのあれに比べれば、ガラス鏡など問題にならない。そして、ぐしゃり! ――またハンマーが落ちた。行こう!」
男は息をつくため、話すのをやめねばならなかった。腕はラウトの腕へ、痺れるほど強くねじ込まれていた。何かに憑かれたように、大股で黒い小道を鉄道へ下ってきた。ラウトは一言も発せず、ホロックスに引かれまいと全力で踏ん張り続けていた。
「おい」と今になって言った。神経質に笑ったが、声の底には唸り声が潜んでいた。「いったいなぜ、私の腕をちぎれそうなほど締めつけて、こんなふうに引きずるんだ、ホロックス?」
ようやくホロックスは腕を離した。態度がまた変わった。「腕をちぎれそうなほど?」と言った。「すまない。だが、こうして親しげに歩くやり方を教えてくれたのは君だろう。」
「それなら、まだ加減を覚えていないようだな」とラウトは、再び作り笑いをして言った。「まったく! 痣だらけだ。」
ホロックスは謝らなかった。二人は今や丘の麓近く、鉄道を囲う柵のそばに立っていた。近づくにつれ、製鉄所は大きくなり、視界いっぱいに広がっていた。今では高炉を見下ろすのではなく、見上げていた。下ってきたため、遠くのエトルリアとハンリーは見えなくなっていた。正面の踏み越し段のそばには掲示板が立ち、石炭泥の跳ねに半ば覆われながらも、「列車に注意」という文字がまだかすかに読めた。
「見事な効果だ」とホロックスは腕を振って言った。「列車が来る。煙の噴出、橙色の輝き、正面にある丸い光の目、音楽的な轟き。見事な効果だ! だが私の高炉も、炉口へ円錐を入れてガスを回収するようになる前は、もっと見事だった。」
「どういうことだ?」とラウトは言った。「円錐?」
「円錐だよ、君、円錐だ。もっと近くで見せてやる。昔は開いた炉口から炎が噴き出した。巨大な――何というかな? ――昼には雲の柱、赤と黒の煙。夜には火の柱だ。今ではパイプでガスを取り出し、送風を熱するために燃やしている。炉頂は円錐で閉じられている。君もあの円錐には興味を持つだろう。」
「だが、ときどき」とラウトは言った。「上から炎と煙が噴き出すな。」
「円錐は固定されていない。梃子から鎖で吊られ、釣り合い重りで均衡を保っている。近くで見せてやる。そうでなければ当然、燃料を中へ入れられないからな。時折、円錐が沈み、炎が噴き出す。」
「なるほど」とラウトは言った。肩越しに振り返った。「月が明るくなってきた」と言った。
「行こう」とホロックスは唐突に言い、また肩をつかみ、鉄道の踏切へ急に押し出した。すると、あまりにも素早く起こるため、鮮明でありながら、何があったのか疑わしく、目眩を覚えさせる、あの種の出来事が起きた。線路を半ば渡ったところで、ホロックスの手が突然、万力のようにラウトを締めつけ、後方へ引き戻しながら半回転させた。ラウトは線路の先を向かされた。そこには灯りの点った客車の窓が鎖のように連なり、急速に縮まりながら迫ってきていた。機関車の赤と黄色の灯りが、どんどん大きくなり、二人へ突進してきた。意味を悟ったラウトはホロックスを振り向き、自分を線路の間へ押さえつける腕を、全力で押し返した。争いは一瞬も続かなかった。ホロックスがそこに押さえつけていたことが確かなのと同じくらい、次の瞬間、ラウトが乱暴に危険から引きずり出されたことも確かだった。
「どけ」とホロックスは息を切らして言った。列車が轟音を立てて通り過ぎるあいだ、二人は製鉄所へ入る門のそばに立ち、荒い息をついていた。
「来るのが見えなかった」とラウトは言った。自分の抱いた疑念にもかかわらず、なお普通の会話を装おうとしていた。
ホロックスは鼻を鳴らして答えた。「円錐だ」と言い、それから我に返った者のように、「聞こえていないと思った。」
「ああ、聞こえなかった」とラウトは言った。
「君が轢かれるところなど、何があっても見たくないからな」とホロックスは言った。
「一瞬、取り乱した」とラウトは言った。
ホロックスは半分ほどのあいだ立ち尽くし、それからまた製鉄所へ唐突に向き直った。「夜になると、私のこの巨大な盛り土、鉱滓の山が、どれほど見事に見えるか! あそこ、上の貨車を見ろ! 上がってゆく。そして鉱滓を傾けて落とす。脈打つ赤いものが斜面を滑り落ちてゆくのを見ろ。近づくにつれ、山がせり上がり、高炉を隠す。大きな炉の上で震える光を見ろ。そっちではない! こちらだ、山の間を行く。あちらはパドル炉へ続くが、まず運河を見せたい。」
ホロックスは近づき、ラウトの肘を取った。そうして二人は並んで進んだ。ラウトは曖昧に返事をした。線路上で本当は何が起きたのか、と自問していた。自分の想像に惑わされているだけなのか。それともホロックスは本当に、列車の進路上へ押さえつけていたのか? 今まさに、殺される寸前だったのか?
この前屈みで陰気な怪物が、本当に何かを知っているとしたら? それから一、二分、ラウトは本気で命の危険を感じた。だが自分に言い聞かせるうちに、その気分は薄れた。結局、ホロックスは何も聞いていなかったのかもしれない。少なくとも、間に合うよう危険から引きずり出してくれた。奇妙な態度も、以前一度見せた、漠然とした嫉妬のせいかもしれない。今は灰の山と運河について話している。「え?」とホロックスは言った。
「何だ?」とラウトは言った。「まったくだ! 月光の中の靄。見事だ!」
「私たちの運河だ」とホロックスは言い、突然立ち止まった。「月光と火の光に照らされた私たちの運河は、途方もない効果を見せる。見たことがないのか? 驚いたな! 君はニューカッスルで女に言い寄ることに、夜を使いすぎていたんだ。本当に華麗な効果というものなら――いや、見ればわかる。沸騰する水……」
鉱滓の山、石炭と鉱石の山が作る迷路を抜けると、圧延工場の騒音が突然、近くで鮮明に襲いかかってきた。影のような三人の作業員が通り過ぎ、ホロックスに帽子を上げた。暗闇の中、その顔はぼんやりしていた。ラウトは彼らへ声をかけたいという、虚しい衝動を覚えた。だが言葉を形にするより先に、三人は影の中へ消えた。ホロックスはすぐ前の運河を指さした。炉の血のように赤い反射光の中で、異様な場所に見えた。羽口を冷却した熱水が、五十ヤード(約四十六メートル)ほど上流で流れ込んでいた。激しく波立つ、ほとんど沸騰した支流だった。水面から音もなく、白い蒸気が細い煙や筋となって立ち昇り、湿っぽく二人へまとわりついた。黒と赤の渦から幽霊が絶え間なく浮かび上がるような、目眩を催す白い上昇だった。大高炉の黒く輝く塔が霧の上にそびえ、その荒れ狂う轟きが二人の耳を満たした。ラウトは水際から離れ、ホロックスを見張っていた。
「ここでは赤い」とホロックスは言った。「血のように赤い蒸気だ。罪のように赤く、熱い。だがあそこ、月光が落ち、鉱滓の山を横切って流れる場所では、死のように白い。」
ラウトは一瞬そちらを見たが、急いでホロックスの監視へ戻った。「圧延工場へ行こう」とホロックスは言った。今度はつかむ手にそれほど露骨な脅威がなく、ラウトは少し安心した。それでも、「死のように白い」とか「罪のように赤い」とは、いったい何を意味している?
ただの偶然だろうか?
二人はしばらくパドル工たちの後ろに立ち、それから圧延工場を通り抜けた。絶え間ない轟音の中、冷然たる蒸気ハンマーが柔らかな鉄から汁を叩き出し、黒く半裸の巨人たちが、熱い封蝋のように柔らかな棒材を車輪の間へ突っ込んでいた。「来い」とホロックスはラウトの耳元で言った。二人は羽口の後ろにある小さな覗き窓から中を見て、高炉の底で転がり、身をよじる炎を目にした。片目がしばらく見えなくなった。暗闇の中で緑と青の斑点が踊るなか、二人は鉱石、燃料、石灰の貨車を巨大円筒の頂上へ運び上げる昇降機へ向かった。
炉の上へ張り出した狭い軌道へ出ると、ラウトの疑念が再び湧き上がった。ここにいてよいのか? もしホロックスが――すべてを知っているなら! どう努めても、激しい震えを抑えられなかった。足元は七十フィート(約二十一メートル)もの垂直な深みだった。危険な場所だ。二人は燃料貨車の脇をすり抜け、周囲を囲む手すりへ向かった。炉から漂う、硫黄臭に鼻を刺す苦みの混じった蒸気のせいで、遠くのハンリーの丘が揺らいで見えた。月は今や流れる雲の間から抜け出し、ニューカッスルの波打つ樹木の輪郭の上、空の中ほどを進んでいた。蒸気を立てる運河が眼下から判然としない橋の下へ流れ、バーズレム方面に広がる平らな野原の薄い靄へ消えていた。
「あれが、話していた円錐だ」とホロックスは叫んだ。「その下には、六十フィート(約十八メートル)にわたって炎と溶けた金属が詰まり、送風が炭酸水の気泡のように、その中を泡立ちながら通っている。」
ラウトは手すりを固く握り、円錐を見下ろした。熱は凄まじかった。鉄の沸騰と送風の轟きが、ホロックスの声へ雷鳴のような伴奏をつけていた。だが、もう最後まで付き合うしかなかった。ひょっとすると、結局……
「中央部は」とホロックスは怒鳴った。「温度が千度近い。もし君がそこへ落ちれば……蝋燭の火へ一つまみの火薬を投げ込んだように、一瞬で燃え上がる。手を出して、あいつの息の熱を感じてみろ。ここまで上がってきた雨水が、貨車の上で沸騰するのを見たことさえある。あそこの円錐もだ。菓子を焼くには、いささか熱すぎる。上面は三百度だ。」
「三百度!」とラウトは言った。
「摂氏三百度だぞ!」とホロックスは言った。「たちまち血が煮え切る。」
「え?」とラウトは言い、振り向いた。
「血が煮え切る――逃がすものか!」
「放せ!」とラウトは絶叫した。「腕を放せ!」
片手で手すりへしがみつき、次いで両手でつかんだ。一瞬、二人の男は揺れ動きながら立っていた。次の瞬間、激しくひねり上げるような動きで、ホロックスがラウトの手を外した。ラウトはホロックスをつかもうとして空を切った。足が虚空へ踏み出された。空中で身体をひねり、それから頬と肩と膝が同時に、熱い円錐へ激突した。
ラウトは円錐を吊るす鎖へしがみついた。衝突によって円錐がほんのわずか沈んだ。周囲に赤熱した輪が現れ、内部の混沌から解き放たれた炎の舌が、ラウトへ向かって揺らめいた。両膝を激痛が襲い、両手が焦げる臭いがした。立ち上がり、鎖をよじ登ろうとした。すると何かが頭に当たった。月光に黒く輝く炉口が、周囲にそびえていた。
見上げると、ホロックスが軌道上の燃料貨車の一つのそばに立っていた。月光の中で、その身振りする姿は明るく白かった。そして叫んでいた。「焼けろ、馬鹿め! 焼けろ、女あさりめ! 血の熱い犬め! 煮えろ! 煮えろ! 煮えろ!」
突然、貨車から石炭を一握りすくい上げ、一塊ずつ狙いすましてラウトへ投げつけた。
「ホロックス!」とラウトは叫んだ。「ホロックス!」
泣き叫びながら鎖へしがみつき、焼けつく円錐から身体を引き上げようとした。ホロックスの投げる石炭は、ことごとく命中した。服が焦げ、赤く燃えた。もがくうちに円錐が沈み、熱く息の詰まるガスが唸り声を上げて噴き出し、素早い炎の吐息となって全身を包み、焼いた。
人間らしい姿は失われた。一瞬の赤い炎が消えると、ホロックスの目に映ったのは、焦げて黒くなり、頭から血の筋を流しながら、なお鎖へしがみつき、手探りし、激痛に身をよじる人影だった――燃え殻の獣、人ならぬ怪物。すすり泣くような絶叫を、途切れ途切れに発し始めた。
その姿を見た途端、製鉄所長の怒りは消え去った。死ぬほどの吐き気に襲われた。焼ける肉の濃密な臭いが、鼻孔へ漂い上がってきた。正気が戻った。
「神よ、お慈悲を!」と叫んだ。「おお神よ! 私は何をしてしまった?」
眼下のものは、なお動き、感じているというだけで、すでに死人も同然だと悟った――哀れな男の血は、血管の中で煮え立っているに違いない。その苦痛が鮮烈に意識へ迫り、ほかのあらゆる感情を押し流した。一瞬、決めかねたように立ち尽くした。やがて貨車へ向き直ると、かつて人間だった、もがくものの上へ、積み荷を慌ただしく傾け落とした。塊は鈍い音を立てて落下し、円錐の上へ放射状に広がった。その衝撃と同時に絶叫が途絶え、煙と埃と炎の煮え返る混沌が、ホロックスへ向かって噴き上がった。それが過ぎると、円錐は再び何もない姿を現した。
ホロックスはよろめいて後退し、両手で手すりへしがみつきながら震えて立った。唇は動いたが、言葉は出なかった。
下から人声と、駆け寄る足音が聞こえた。建物内に響いていた圧延の轟音が、突然止んだ。
月光の寓話
昔々、母親に美しい晴れ着を仕立ててもらった、小さな男がいた。緑と金の糸で織られたそれは、言葉では言い表せないほど繊細で上品な仕上がりで、顎の下には、ふわふわした橙色のネクタイを結ぶようになっていた。真新しいボタンは、星のように輝いていた。男はその晴れ着が誇らしくて、嬉しくてたまらなかった。初めて袖を通したときには姿見の前に立ち、あまりの見事さに驚き、見惚れ、なかなかその場を離れられなかったほどだ。
男はそれをどこへでも着ていき、ありとあらゆる人に見せびらかしたかった。これまで訪れた場所や、人から話に聞いた景色を一つ残らず思い返し、輝く晴れ着をまとってそこへ行ったらどんな気分だろうと想像した。そして今すぐにでも、それを着て、牧草地の丈高い草と熱い陽射しの中へ飛び出したくなった。ただ着て歩きたい、それだけだった。だが母親は、「いけません」と言った。
母親は、晴れ着をくれぐれも大切にしなければならないと言った。これほど立派な服は、もう二度と手に入らないのだから、しまっておいて、よほど珍しい、晴れがましい機会にだけ着るべきなのだと。これはおまえの婚礼衣装なのだ、と母親は言った。そして真新しいボタンの輝きが曇らぬよう、一つ一つ薄紙で包み、袖口や肘など、傷みやすそうなところには小さな当て布を縫いつけた。男はそれが嫌で抵抗したが、どうしようもなかった。やがて母親の忠告と説得が効き、美しい晴れ着を脱いで、正しい折り目に沿って畳み、しまうことを承知した。まるで、せっかく手に入れた服を、また手放してしまうような気がした。それでも男は、いつかそれを着る日のことばかり考えていた。袖口にも肘にも当て布がなく、ボタンを覆う薄紙もなく、何一つ気にせず、心ゆくまで、限りなく美しいまま着られる――そんな至高の機会がいつか訪れることを。
ある晩、いつものように晴れ着の夢を見ていると、ボタンの一つから薄紙を剥がしたところ、その輝きがわずかに曇っている夢を見た。夢の中の男はひどく心を痛め、その哀れなボタンを何度も何度も磨いたが、磨けば磨くほど、かえって曇っていくようだった。男は目を覚まし、そのまま眠れずに、少し曇ったボタンの輝きについて考えつづけた。いつか大いなる機会が――それが何であれ――訪れたとき、ボタンの一つでも、ほんのわずかに最初のきらめく瑞々しさを失っていたら、自分はどんな気持ちになるだろう。その思いは幾日も幾日も胸を離れず、男を苦しめた。次に母親が晴れ着を着せてくれたときには、ボタンが今も昔と変わらず輝いているか確かめたくて、薄紙をほんの少しだけ指で剥がしてしまいたいという誘惑に駆られ、危うく負けそうになった。
男はその激しい欲望を胸に抱きながら、きちんとした足取りで教会へ向かった。というのも母親は、何度も念入りに注意を言い聞かせたうえで、ときおり晴れ着を着ることを許していたからだ。たとえば日曜日、雨の恐れもなく、埃も立たず、晴れ着を傷めるものが何もないときに、教会まで往復する場合である。それでもボタンには覆いをかけ、傷みやすい箇所には当て布を縫いつけ、陽射しが強すぎて色が褪せそうなら日陰を作れるよう、手には日傘を持たされた。そして帰宅するたび、男は母親に教えられたとおり、晴れ着を丁寧にブラシで払い、見事に畳み、再びしまった。
母親が晴れ着を着ることに課したこうした決まりを、男はすべて守った。いつでも、欠かさず従った――ある奇妙な夜、目を覚まして、窓の外に降り注ぐ月明かりを見るまでは。それはありふれた月明かりではなく、その夜もまた、ありふれた夜ではないように思えた。男はしばらく、その不思議な確信をぼんやり胸に抱いたまま横になっていた。温かな影の中で囁き合うもののように、一つの思いが次の思いへとつながっていった。やがて男は小さなベッドの上に突然身を起こした。すっかり目が覚め、心臓は激しく打ち、頭のてっぺんから爪先まで震えていた。決心したのだ。今こそ、あの晴れ着を、本来あるべき姿で着るのだと悟った。もはや何の疑いもなかった。怖かった。恐ろしく怖かった。だが、嬉しかった。嬉しくてたまらなかった。
男はベッドから抜け出し、窓辺に立って、月光に満ちた庭を見つめた。そして、これからしようとしていることに身を震わせた。空気には、コオロギのかすかなざわめきや、小さな生き物たちの、聞こえるか聞こえないかほどの叫びが満ちていた。眠っている家の者を起こさないよう、軋む床板をそっと渡り、美しい晴れ着が畳んである大きな暗い衣装箪笥へ向かった。男は衣服を一枚ずつ取り出し、音を立てぬよう、それでいて夢中になって、薄紙の覆いや縫いつけられた当て布を引き剥がした。するとそこには、ずっと昔に思えるあの日、母親から初めてもらったときと変わらぬ、完璧で心躍る晴れ着があった。ボタンは一つとして曇らず、愛しい晴れ着の糸は一本たりとも色褪せていなかった。男は嬉しさに涙をこぼしそうになりながら、音を立てず大急ぎで身につけた。それから素早く、そっと窓辺へ戻り、庭を見下ろした。月光の中に一分ほど立ち尽くす男の姿はきらきらと輝き、ボタンは星のように瞬いていた。やがて窓台に出ると、できるだけ衣擦れの音を立てぬようにして、下の庭道へと降りた。母親の家の前に立つと、家は白く、昼間とほとんど変わらぬほどはっきり見えた。男の部屋以外は、どの窓も眠る目のように日除けが下りていた。木々は壁の上に、入り組んだ黒いレースのような静かな影を落としていた。
月光の庭は、昼間の庭とはまるで違っていた。月明かりは生垣に絡まり、小枝から小枝へ、幻の蜘蛛の巣のように張り渡されていた。花という花が白く、あるいは黒ずんだ深紅に輝き、空気は小さなコオロギの細やかな鳴き声に震え、木々の奥深くでは、姿の見えないナイチンゲールが歌っていた。
世界のどこにも闇はなく、あるのはただ、温かく神秘的な影だけだった。葉も穂先も、虹色に輝く露の宝石で縁取られていた。これほど暖かな夜はかつてなく、天は奇跡によって、果てしなく広いと同時に、手が届きそうなほど近く感じられた。世界を統べる象牙色の巨大な月があるというのに、空にはなお無数の星が満ちていた。
果てしない喜びに満たされながらも、小さな男は叫びも歌いもしなかった。しばらくは畏怖に打たれた者のように立ち尽くしていたが、やがて奇妙な小さな声を上げ、両腕を広げると、温かく丸い、広大無辺な世界のすべてを一度に抱きしめようとするかのように駆け出した。庭を四角く区切る整った小道などたどらず、花壇を突っ切り、露に濡れた丈高い香草をかき分け、夜咲きアラセイトウやニコチアナ、幽霊のように白いゼニアオイの花房を抜け、サザンウッドとラベンダーの茂みを越え、モクセイソウが一面に茂る場所を膝まで浸かって進んだ。大きな生垣に行き着くと、その中へ強引に分け入った。イバラの棘が肌を深く引っかき、見事な晴れ着から糸を引き裂いても、くっつき虫やヤエムグラや野の草の実が絡みついても、男は気にしなかった。これこそが、ずっと焦がれていた「晴れ着を着る」ということの一部なのだと知っていたからだ。「晴れ着を着て、本当によかった」と男は言った。「この晴れ着で出てきて、本当によかった。」
生垣の向こうで、男はアヒル池に出た――少なくとも、昼間ならアヒル池である場所に。だが夜には、歌うカエルの声で賑わう、銀の月光を満たした巨大な鉢だった。不可思議な模様にねじれ、凝り固まった、見事な銀の月光。小さな男は細く黒い葦の間を駆け下り、水の中へ入っていった。膝まで、腰まで、やがて肩まで浸かり、両手で水面を打って、黒く輝くさざ波を立てた。揺らめき、震える波の中には、岸辺に佇む木々のもつれ合う影が映り、その間に星々が網のように絡め取られていた。男は歩けなくなるところまで進み、そこから泳いで池を渡り、向こう岸へ上がった。身体から長く垂れ、まとわりつき、雫を滴らせているものは、男にはアオウキクサではなく、純銀の房に思えた。そして姿を変えたヤナギランの茂みと、刈られぬまま種を結んだ対岸の草むらをかき分けて上っていった。こうして男は、喜びに満ち、息を切らして街道へ出た。「嬉しい」と男は言った。「この夜にふさわしい服を持っていたことが、何よりも嬉しい。」
街道は、放たれた矢のように真っ直ぐ、月の下にある深い青空の淵へと伸びていた。ナイチンゲールの歌声に挟まれた、白く輝く道だった。母親が疲れを知らぬ愛情深い手で作ってくれた服をまとい、男はその道を進んだ。あるときは走り、跳びはね、またあるときは歩きながら、喜びに浸った。道には深く埃が積もっていたが、男にとっては柔らかな白さにすぎなかった。濡れてきらめき、先を急ぐ男の周りに、大きな薄暗い蛾がひらひらと舞い寄った。初めのうち、男は蛾に気づかなかったが、やがて両手を振り、頭の周りを飛び回る蛾と一緒に踊るような仕草をした。「柔らかな蛾よ!」と男は叫んだ。「愛しい蛾よ! そして素晴らしい夜、世界の素晴らしい夜よ! 僕の服は美しいと思うかい、愛しい蛾よ? おまえの鱗粉や、大地と空を包むこの銀の装いと同じくらい、美しいと思うかい?」
蛾はますます近く、さらに近くを舞い、ついにそのビロードのような翅が、男の唇をかすめた……。
翌朝、人々は石切り場の底で、首の骨を折って死んでいる男を見つけた。美しい晴れ着は少し血に汚れ、泥にまみれ、池のアオウキクサで染みだらけになっていた。けれど、その顔にはあまりにも幸せそうな表情が浮かんでいた。それを見たなら、男が幸福のうちに死んだことが、きっとわかっただろう。池で触れた冷たく流れる銀を、最後までアオウキクサとは知らぬまま。
ダイヤモンド製造者
仕事の都合で夜の九時までチャンサリー・レーンに足止めされ、そのうえ少し頭痛の兆しもあったので、遊びに出かける気にも、さらに仕事をする気にもなれなかった。交通の狭い峡谷をなす高い建物の絶壁の間から、わずかに見える空は穏やかな夜を告げていた。そこでエンバンクメントまで歩き、川面に映る色とりどりの灯を眺めて目を休め、頭を冷やすことにした。この場所は、何といっても夜が一番だ。慈悲深い闇が川の汚れを隠し、過渡期にあるこの時代の灯――ぎらつく赤橙色、ガス灯の黄色、電灯の白――が、灰色から濃紫まで、ありとあらゆる色合いの影の輪郭の中に浮かび上がる。ウォータールー橋のアーチ越しには、無数の光点がエンバンクメントの曲線を描き、その欄干の上にはウェストミンスターの塔が、星明かりを背に温かな灰色でそびえている。黒い川はほとんど波紋も立てず、静寂を保ったまま流れ、その水面を泳ぐ灯の影が乱されることもめったにない。
「暖かい夜ですね」と、傍らで声がした。
顔を向けると、私の隣で欄干に身を乗り出している男の横顔が見えた。痩せこけてひどく青ざめてはいるが、醜くはなく、どこか上品な顔立ちだった。外套の襟を立て、喉元で留めている様子は、制服にも劣らぬ鮮明さで男の社会的境遇を物語っていた。返事をすれば、宿代と朝食代を出してやらねばならなくなる――私はそう感じた。
私は興味を引かれて男を見た。金を払うだけの話を何か持っているだろうか。それとも、よくいる無能者――自分自身の身の上さえ、まともに語れない類いだろうか。だが額と目には知性らしきものがあり、下唇にはかすかな震えがあった。それで私は応じることにした。
「ずいぶん暖かいですね」と私は言った。「もっとも、ここにいるぶんには暑すぎもしませんが。」
「ええ」と男は川向こうを見たまま言った。「ここなら、なかなか快適です……今のところは。」
「ロンドンにも、これほど心の休まる場所があるのはありがたいことです」と、しばらくして男は続けた。「一日じゅう仕事のことで思い悩み、出世を焦り、責務に追われ、危険をかわしつづけたあとでは、こうした平穏な一角がなければ、いったいどうすればいいのかわかりません。」
男は、一つ一つの文の間に長い沈黙を置いて話した。「あなたも世間の煩わしい苦労を多少はご存じなのでしょう。そうでなければ、こんなところにはいないはずです。ですが、私ほど頭が疲れきり、足を痛めてはいないでしょうね……ふん! こんなことを続けるだけの価値が本当にあるのか、疑わしくなることがあります。いっそ何もかも――名声も、財産も、地位も――投げ捨てて、つつましい商売でも始めたくなる。けれど、あれほどひどい仕打ちをしてくる野心でも、それを捨てたなら、その後の人生には後悔しか残らないでしょう。」
男は黙り込んだ。私は驚いて見つめた。これほど救いようもなく困窮した男を、私はかつて見たことがなかった。服はぼろぼろで、身体は汚れ、無精髭を生やし、髪も乱れている。まるで一週間もごみ箱に放り込まれていたような有様だ。そんな男が、よりにもよってこの私に、大事業を営む者の煩わしい苦労を語っている。私は危うく声を上げて笑うところだった。気が狂っているのか、それとも自分の貧窮を種に、惨めな冗談を演じているのか。
「高い目標や高い地位に、重労働や不安という不利益が伴うとしても」と私は言った。「それに見合うものもあるでしょう。影響力、善をなす力、自分たちより弱く貧しい者を助ける力。それに、華やかに見せること自体にも、ある種の満足はありますし……」
この状況でそんな皮肉を言うのは、ひどく悪趣味だった。男の外見と話の内容があまりにかけ離れていたため、つい口を滑らせたのだ。話している最中から、私は後悔していた。
男はこちらを向いた。やつれきってはいるが、ひどく落ち着いた顔だった。「失礼しました。もちろん、あなたにおわかりになるはずがありませんね。」
男はしばらく私を値踏みした。「たしかに、ひどく馬鹿げた話でしょう。話したところで、あなたは信じないでしょうから、その意味では安心して話せます。それに、誰かに打ち明ければ少しは気が楽になる。私は本当に大きな事業を抱えているんです。途方もなく大きな事業です。ただ、今は少々困ったことになっている。実は……私はダイヤモンドを作っているんです。」
「つまり」と私は言った。「今は仕事がない、ということですか?」
「信じてもらえないのには、もううんざりだ」と男は苛立たしげに言い、突然、みすぼらしい外套のボタンを外すと、首から紐で吊るした小さな帆布袋を取り出した。中から出したのは、褐色の小石だった。「これが何かわかる程度の知識を、あなたがお持ちだといいんですがね。」
男はそれを私に手渡した。
一年ほど前、私は余暇を利用してロンドン大学の理学学位を取っていたので、物理学と鉱物学について多少の知識はあった。それは色の濃い未研磨のダイヤモンドによく似ていたが、大きすぎた。私の親指の先ほどもあったのだ。手に取ってみると、正八面体をなし、最も貴重な鉱物に特有の湾曲した面を備えている。私は小刀を取り出して傷をつけようとしたが、まるで歯が立たなかった。ガス灯のほうへ身を乗り出し、腕時計のガラスにこすりつけてみると、実にたやすく白い線が刻まれた。
好奇心を募らせながら、私は話し相手を見た。「たしかに、ダイヤモンドによく似ています。しかし、もしそうなら、ダイヤモンドの怪物ですよ。どこで手に入れたんです?」
「私が作ったと言っているでしょう」と男は言った。「返してください。」
男は大急ぎで石を袋に戻し、上着のボタンを留めた。「百ポンドでお売りします」と、突然、熱を込めて囁いた。その言葉で、私の疑念が蘇った。ひょっとするとこれは、ダイヤモンドとほぼ同じ硬度を持つコランダムの塊が、偶然ダイヤモンドに似た形をしているだけかもしれない。あるいは本物だとしても、男はいったいどこで手に入れたのか。なぜ百ポンドで売ろうとするのか。
私たちは互いの目を見つめた。男は必死だったが、その必死さに偽りはなさそうだった。その瞬間、男が売ろうとしているのは本物のダイヤモンドだと、私は信じた。だが私は貧しい。百ポンドを失えば、財産に目立った穴が開く。それに正気の人間なら、ぼろを着た浮浪者の言葉だけを保証として、ガス灯の下でダイヤモンドを買ったりはしない。それでも、この大きさのダイヤモンドとなれば、数千ポンドもの大金が目に浮かぶ。だが、これほどの石が存在するなら、宝石に関するあらゆる書物に記載されているはずではないか。さらに私は、密輸品の話や、ケープ地方で宝石をくすねるカフィール人の話を思い出した。購入の問題はいったん脇に置くことにした。
「どうやって手に入れたんです?」と私は言った。
「私が作ったんです。」
モアッサンの研究については多少聞いていたが、彼が作った人工ダイヤモンドはごく小さなものだった。私は首を振った。
「この種のことを、少しはご存じのようですね。私自身について、少しお話ししましょう。そうすれば、買う気になるかもしれない。」
男は川に背を向け、両手をポケットへ入れた。そして溜息をついた。「どうせ信じてはもらえないでしょうが。」
「ダイヤモンドというものは」男は話し始めた。話すうちに、その声から浮浪者めいた響きが薄れ、教育を受けた人間らしい、よどみのない調子が現れた。「適切な融剤の中で、適切な圧力を加え、化合物から炭素を析出させれば作れます。炭素は黒鉛や木炭粉としてではなく、小さなダイヤモンドとして結晶化する。この程度のことは、化学者たちの間では何年も前から知られています。けれど炭素を溶かすために最適な融剤や、最良の結果を得るための正確な圧力を、誰もまだ突き止めていない。そのため化学者が作るダイヤモンドは小さく、色も暗く、宝石としては無価値です。そこで私は、この問題に人生を捧げた――文字どおり、自分の命を捧げたんです。
「ダイヤモンド製造の条件を研究し始めたのは十七歳のときで、今は三十二歳です。一人の人間の思考力と精力を、十年、あるいは二十年も費やすことになるかもしれないと思いました。それでも、挑むだけの価値はある。秘密が世間に知れ渡り、ダイヤモンドが石炭のようにありふれたものになる直前に、ただ一人、正しい手法を突き止められたとしたら、何百万という金を手にできる。何百万ですよ!」
男は言葉を切り、私の共感を求めるように見た。目が飢えたように輝いていた。「考えてもみてください」と男は言った。「私は今、そのすべてを手にする瀬戸際にいる。それなのに、この有様だ!
「二十一歳のころには、千ポンドほど持っていました。少し教師をして補えば、それで研究を続けられると思ったのです。まず一、二年を勉学に費やしました。主にベルリンでです。その後は独力で研究を続けました。問題は秘密を守ることでした。何をしているか一度でも明かせば、その考えが実現可能だという私の確信に刺激され、ほかの者たちも研究に乗り出したかもしれない。発見競争になっても必ず自分が先んじられると確信できるほどの天才だと、うぬぼれるつもりはありません。それに、本当にひと財産築くつもりなら、それが人工的な製法であり、ダイヤモンドを何トンでも作り出せるのだと、人に知られてはいけなかった。だから、すべて一人でやるしかなかったんです。初めは小さな実験室を持っていました。しかし資金が尽き始めると、ケンティッシュ・タウンにある家具もない惨めな一室で実験をしなければならなくなった。最後には装置の間で、床に敷いた藁布団に寝ていました。金はただ流れ去っていきました。科学機器以外には、何一つ金を使う気になれなかった。少し教えて収入を得ようとしましたが、私は教師としては大して有能ではないし、大学の学位もなく、化学以外にはろくな教育も受けていません。わずかな金を稼ぐために、ひどく多くの時間と労力を費やさなければなりませんでした。それでも私は、少しずつ目的に近づいていった。三年前、ついに融剤の組成という問題を解決しました。そして自分の融剤と、ある炭素化合物を、両端を塞いだ銃身の中へ入れ、水で満たし、厳重に密封して加熱することで、必要な圧力にも近づいたのです。」
男は言葉を切った。
「ずいぶん危険ですね」と私は言った。
「ええ。破裂して、窓ガラスが全部割れ、装置もかなり壊れました。それでも、一種のダイヤモンド粉末は得られました。次に、結晶を析出させる溶融混合物へ大きな圧力を加える問題を追究していたところ、パリの火薬・硝石研究所でドーブレが行った研究を見つけました。彼は、破裂しないほど頑丈な、ねじ蓋つきの鋼鉄製円筒の中でダイナマイトを爆発させた。そうすると岩石が粉砕され、ダイヤモンドが発見される南アフリカの地層によく似た泥状になることがわかったんです。資金には途方もない負担でしたが、私はその型をもとに、自分の目的に合う鋼鉄製円筒を作らせました。材料と爆薬をすべて詰め、炉に火を起こし、装置一式を放り込んで――散歩に出ました。」
そのあまりに事務的な口調に、私は笑わずにはいられなかった。「家ごと吹き飛ぶとは考えなかったんですか? 建物にはほかの人もいたのでしょう?」
「科学の利益のためでしたから」と、男はついに言った。「一つ下の階には露天商の一家が住み、私の部屋の裏には施しを求める手紙の代筆屋がいて、上の階には花売り女が二人いました。たしかに少々、配慮を欠いていたかもしれません。けれど、そのうち何人かは外出していたかもしれない。
「戻ってみると、装置は白熱した石炭の中に、置いていったとおりにありました。爆薬は容器を破裂させていなかった。そして今度は、別の問題に直面しました。ご存じのとおり、結晶化では時間が重要です。工程を急げば結晶は小さくなる。十分な大きさまで育てるには、長い時間をかけて静置するしかありません。私はこの装置を二年間かけて冷却し、その間に温度をゆっくり下げることにしました。ところが私はもう完全に無一文でした。大きな火を絶やさず、部屋代を払い、そのうえ自分の空腹まで満たさねばならない。手元にはほとんど一ペニーもありませんでした。
「ダイヤモンドを作っている間、どれほどあらゆる手段で食いつないだか、とてもすべては話せません。新聞を売り、馬を預かり、辻馬車の扉を開けました。何週間も封筒の宛名書きをしたこともあります。手押し車を持つ男の助手になり、男が道の片側で売り声を上げる間、私は反対側で呼び売りをしたこともありました。
「一度など、丸一週間まったく仕事がなく、物乞いをしました。何という一週間だったことか! ある日は火が消えかけ、私は一日じゅう何も食べていなかった。すると女の子を連れた若者が、いいところを見せようとして、私に六ペンスくれたんです。見栄に感謝せよ! 魚料理屋から漂う匂いの、何とたまらなかったことか! それでも私は、その金を全部石炭に使い、炉をもう一度真っ赤に燃え上がらせた。それから――まあ、飢えというものは人を愚かにします。
「そしてついに三週間前、私は火を消しました。円筒を取り出し、まだ手を焼くほど熱いうちにねじを外しました。崩れやすい溶岩状の塊を鑿でかき出し、鉄板の上で叩いて粉にしました。すると大きなダイヤモンドが三個、小さなものが五個見つかった。床に座って叩いていると、扉が開き、隣人の施し状代筆屋が入ってきました。いつものように酔っ払っていました。『アナーキストめ』と男は言った。『酔ってるな』と私は言いました。『破壊主義の悪党め』と男は言った。『お父上のところへ帰れ』と私は言いました。嘘の父、悪魔のことです。『おまえには関係ねえ』と男は言い、抜け目のない目つきで私に片目をつぶってみせ、しゃっくりをし、扉にもたれ、もう片方の目を戸柱に押しつけながら、私の部屋を覗き見していたことや、その朝警察へ行ったこと、警察が自分の話を何もかも書き留めたことを、べらべら喋り始めた――『まるで、おれが紳士みてえにな』と。そこで突然、私は窮地に陥ったことに気づきました。警察にこのささやかな秘密を明かし、すべてを世間に暴かれるか、それとも無政府主義者として投獄されるか、どちらかです。そこで隣人に歩み寄り、襟首をつかみ、少しばかり転がしてやりました。それからダイヤモンドをかき集め、逃げ出したんです。その晩の新聞は、私の巣窟を『ケンティッシュ・タウン爆弾工場』と呼びました。そして今では、どうしてもこの石を金に換えられない。
「まともな宝石商へ行けば、少々お待ちをと言われ、店員に警官を呼ぶよう耳打ちされる。そこで私は、待てないと言って立ち去るわけです。盗品故買屋を見つけたこともありますが、そいつは私が渡した一個をそのまま懐に入れ、取り戻したければ訴えろと言いました。今の私は、数十万ポンド相当のダイヤモンドを首から下げて歩き回りながら、食べ物も寝場所もない。秘密を打ち明けたのは、あなたが初めてです。あなたの顔が気に入ったし、私は追い詰められている。」
男は私の目を覗き込んだ。
「この状況でダイヤモンドを買うなど、私には狂気の沙汰です」と私は言った。「それに、何百ポンドもの金をポケットに入れて持ち歩いてはいません。ですが、あなたの話を半分以上は信じています。よければ、こうしましょう。明日、私の事務所へ来て……」
「私を泥棒だと思っているんだな!」と男は鋭く言った。「警察に知らせるつもりだ。罠になどかかりませんよ。」
「どういうわけか、あなたが泥棒ではないと確信しています。これが私の名刺です。とにかく持っていってください。約束の時間に来る必要はありません。いつでも好きなときに来ればいい。」
男は名刺と、私の好意の証しを受け取った。
「考え直して、来てください」と私は言った。
男は疑わしげに首を振った。「いつか、その半クラウンを利息つきでお返しします――あなたが仰天するほどの利息をね」と言った。「いずれにせよ、秘密は守ってくれますね? ……私のあとをつけないでください。」
男は道を渡り、エセックス・ストリートへ通じるアーチ下の小さな階段のほうへ、闇の中を去っていった。私は追わなかった。それが、私が男を見た最後だった。
その後、男から二通の手紙が来た。指定した住所へ、銀行券を――小切手ではなく――送ってほしいという内容だった。私はよく考え、自分で最も賢明だと思う道を選んだ。一度、私の留守中に男が訪ねてきたこともある。小僧の説明では、ひどく痩せ、汚れ、ぼろをまとい、恐ろしい咳をする男だったという。伝言は何も残さなかった。私の物語に関するかぎり、それで男の消息は途絶えた。あの男はどうなったのだろう、と今でもときどき考える。巧妙な偏執狂だったのか。小石を売りつける詐欺師だったのか。それとも、本人が主張したとおり、本当にダイヤモンドを作ったのか。最後の可能性には、ぎりぎり信じるに足るものがある。そのため私は時折、人生で最も輝かしい好機を逃したのではないかと思う。もちろん男はもう死んでいて、ダイヤモンドも何気なく捨てられたのかもしれない――繰り返すが、一個は私の親指ほどもあった。あるいは今なお、石を売ろうとしてさまよっているのかもしれない。いつか男が世間へ華々しく姿を現し、富豪や有名人だけに許された澄みきった高みを、私の空を横切るように進みながら、私の進取の気性のなさを無言で責めることも、まったくありえないとは言えない。せめて五ポンドくらいは賭けてみてもよかったのではないか――私はときどき、そう思う。
発電機の主
キャンバーウェルで唸り、がたつきながら電気鉄道を動かしていた三台の発電機。その主任係員はヨークシャー出身で、ジェームズ・ホルロイドという名だった。実務には強い電気技師だったが、ウイスキー好きで、赤毛の大柄な野獣じみた男だった。歯並びは悪かった。神の存在は疑っていたがカルノーサイクルは信奉し、シェイクスピアを読んでは、化学に弱いと評していた。助手は神秘的な東方から来た男で、名をアズマ=ジといった。だがホルロイドはプーバーと呼んでいた。ホルロイドが黒人を好んだのは、蹴られても耐えるからだった――人を蹴るのはホルロイドの癖だった――それに機械のことを詮索したり、仕組みを覚えようとしたりしないからでもある。われわれの文明が誇る最高の成果と、黒人の精神とが唐突に接触したとき、どのような奇妙な事態が起こりうるか、ホルロイドは最後まで十分には理解しなかった。もっとも、まさに最期の瞬間には、多少なりとも察したはずだが。
アズマ=ジが何人であるかを特定するのは、民族学の手にも余った。おそらく何よりもネグロイドに近かったが、髪は縮れているというより巻き毛で、鼻筋も通っていた。そのうえ肌は黒というより褐色で、白目は黄色かった。幅広い頬骨と細い顎のため、顔は毒蛇を思わせるV字形をしていた。頭も後ろが幅広く、額は低くて狭かった。まるで脳がヨーロッパ人とは逆向きにねじれているかのようだった。背は低く、英語力はさらに低かった。会話となると、何の役に立つのか見当もつかない奇妙な音をいくつも発し、めったに口にしない言葉も、紋章に刻まれた怪物のような異様さに彫琢されていた。ホルロイドはアズマ=ジの宗教的信仰を解明しようとし、とりわけウイスキーを飲んだあとには、迷信と宣教師に反対する講義を聞かせた。だがアズマ=ジは、蹴られてもなお、自分の神々について語ることを避けた。
アズマ=ジは、白いものの十分とはいえない衣服をまとい、海峡植民地と、さらにその彼方から、ロード・クライヴ号の火夫室を経てロンドンへやって来た。若いころからロンドンの偉大さと富について聞いていた。そこでは女は誰もが白く美しく、路上の物乞いさえ白いという。そこで新たに稼いだ金貨をポケットに入れ、文明の聖堂を礼拝すべく上陸した。上陸の日は陰鬱だった。空はくすんだ褐色で、風にかき乱された霧雨が脂じみた街路へ降り注いでいた。それでもアズマ=ジは勇敢にシャドウェルの歓楽へ飛び込んだ。そしてほどなくして、健康を損ない、服装だけは文明化され、無一文となり、よほど切迫した必要がないかぎり、ほとんど口の利けない獣同然の身となって吐き出された。こうしてキャンバーウェルの発電機小屋でジェームズ・ホルロイドのために働き、虐げられることになった。そしてホルロイドにとって、人を虐げるのは喜んで励む仕事だった。
キャンバーウェルには、原動機を備えた発電機が三台あった。当初から据えられていた二台は小型で、大型の一台は新しかった。小型機の音は常識的な範囲だった。ベルトがドラムの上で唸り、ときおりブラシがぶうんと震えて火花を散らし、磁極の間では空気が、ヒュー、ヒュー、ヒューと絶えずかき回されていた。一台は土台が緩んでいて、小屋全体を震わせつづけた。だが大型発電機は、鉄心から発する途切れない低音で、そうした小さな音をことごとくかき消した。その低音は、どういうわけか鉄骨の一部まで共鳴させていた。原動機のドッドッドッという脈動、大車輪の回転、球形調速機の旋回、ときおり噴き出す蒸気、そして何よりも、大型発電機の深く、絶え間なく、押し寄せる響き。それらのため、訪れた者は頭がくらくらした。この最後の騒音は、工学的に見れば欠陥だったが、アズマ=ジはそれを怪物の力強さと誇りの現れだと受け止めていた。
できることなら、この物語を読む間じゅう、読者の周りにあの小屋の騒音を響かせ、その伴奏とともに物語のすべてを語りたい。そこには途切れることのない轟音の奔流があり、耳はその中から、あるときは一つ、またあるときは別の音を拾い上げた。蒸気機関が断続的に鼻を鳴らし、喘ぎ、煮え立つ音。ピストンの吸い込む音と激突音。巨大な駆動輪のスポークが回ってくるたび、空気を鈍く打つ音。革ベルトが張ったり緩んだりしながら走る音。そして発電機群の苛立たしげな喧騒。そのすべての上に、大型機のトロンボーンのような音が重なっていた。耳が慣れると聞こえなくなることもあったが、やがて再び忍び寄り、感覚を支配した。足元の床は一瞬たりとも安定せず、静かでもなく、震え、がたついていた。そこは混乱した、不安定な場所で、誰の思考も奇妙なジグザグへ跳ね飛ばすに十分だった。そして技師たちの大ストライキが続いた三か月間、スト破りであるホルロイドと、文字どおりただの黒人であるアズマ=ジは、その渦巻く騒乱から片時も離れず、小屋と門の間にある小さな木造の掘っ立て小屋で寝食していた。
アズマ=ジが来て間もなく、ホルロイドは大型機を題材に神学講義を行った。騒音に負けず声を届けるには、叫ばなければならなかった。「あれを見ろ」とホルロイドは言った。「おまえら異教徒の偶像に、あいつにかなうものがあるか?」
アズマ=ジは見た。しばらくホルロイドの声は聞き取れなかったが、やがてこう聞こえた。「百人だって殺せる。普通株の配当は十二パーセントだ」とホルロイドは言った。「これこそ神ってもんだ!」
ホルロイドは大型発電機を誇りにしており、その大きさと力について、アズマ=ジに延々と語って聞かせた。その話と、絶え間ない回転と騒音が、黒い巻き毛の頭蓋の中にどれほど奇妙な思考の流れを生み出したかは、神のみぞ知る。ホルロイドは、人間がその機械に殺される十数通りの方法を、実に生々しく説明した。一度など、その威力の見本として、アズマ=ジに電撃を食らわせたこともあった。それ以来、仕事の合間に息をつけるときには――自分の仕事だけでなく、ホルロイドの仕事の大半まで負わされる重労働だった――アズマ=ジは座って大型機を眺めるようになった。ときどきブラシが火花を散らし、青い閃光を吐くと、ホルロイドは悪態をついた。だが、それ以外の動きは呼吸のようになめらかで、規則正しかった。ベルトは軸の上を唸りながら走り、眺めている者の背後では、ピストンが満足げにドッドッと響きつづけた。こうして大型機は一日じゅう、この広々とした小屋の中で生きていた。アズマ=ジとホルロイドに仕えさせながら。アズマ=ジが知るほかの機関のように、船の中へ閉じ込められ、働かされているのではない。あれらは英国のソロモン王に捕らえられた、ただの悪魔だった。だがこれは、玉座に就いた機械だった。対照的に、アズマ=ジは二台の小型発電機を見下していた。そして大型機には、ひそかに「発電機の主」という名を授けた。小型機は苛立たしげで不規則だったが、大型発電機は安定していた。何と巨大なのだろう! 何と穏やかに、悠然と動くことか! ラングーンで見た仏像よりも巨大で、穏やかだった。それでいて静止しているのではなく、生きている! 巨大な黒いコイルは回り、回り、回りつづけ、環はブラシの下を巡り、コイルの深い音が全体を安定させていた。それはアズマ=ジの心に、奇妙な作用を及ぼした。
アズマ=ジは労働が好きではなかった。ホルロイドが門番を説得してウイスキーを手に入れに行くと、あちこちに座り込み、発電機の主を眺めた。本来いるべき場所は発電機小屋ではなく原動機の後ろであり、しかも怠けているところをホルロイドに見つかれば、太い銅線の棒で殴られた。それでも巨像のすぐそばまで行って立ち、頭上を走る巨大な革ベルトを見上げた。ベルトには黒い染みが一つあり、それが回ってくるたび、なぜか心が満たされた。騒音のただ中で、その染みが何度も何度も戻ってくるのを眺めるのが好きだった。回転に合わせて、奇妙な思いが頭の中を巡った。学者は、未開人が岩や木に魂を与えると言う――だが機械は、岩や木の千倍も生きている。そしてアズマ=ジは、実際のところ、いまだ未開人だった。文明の上塗りは、粗末な作業着や身体の痣、顔や手についた石炭の煤より深くは染み込んでいなかった。父は隕石を崇拝していた。あるいは血を分けた者の血が、ジャガンナートの巨大な車輪に飛び散ったこともあったかもしれない。
アズマ=ジはホルロイドに許される機会をことごとく利用して、魅了されてやまない大型発電機に触れ、手入れした。金属部分が太陽の下で目も眩むほど輝くまで磨き、清めた。そうしていると、神秘的な奉仕の感覚に満たされた。機械に近づき、回転するコイルにそっと触れることもあった。かつて崇拝していた神々は、皆はるか遠くにいた。ロンドンの人々は、自分たちの神を隠していた。
やがて曖昧だった感情が明瞭になり、思考の形を取り、ついには行為となって現れた。ある朝、轟音を立てる小屋へ入ると、アズマ=ジは発電機の主に向かって平伏した。そしてホルロイドがいなくなると、雷鳴のように轟く機械に、自分はあなたの僕であると囁き、どうか憐れみを垂れ、ホルロイドから救ってくださいと祈った。そのとき、脈動する機械小屋の開いたアーチから、珍しく一条の光が差し込んだ。回転し、咆哮する発電機の主は、淡い黄金色に輝いた。そこでアズマ=ジは、自分の奉仕が主に受け入れられたと悟った。それからは以前ほど孤独を感じなくなった。実際、ロンドンではひどく孤独だったのだ。仕事の時間が終わってからも――そんなことはめったになかったが――小屋の周りをうろついた。
その次にホルロイドから虐待を受けたとき、アズマ=ジはすぐさま発電機の主のもとへ行き、「おお、わが主よ、ご覧になったでしょう!」と囁いた。機械の怒りに満ちた回転音が、答えているように聞こえた。それ以来、ホルロイドが小屋へ入ってくるたび、発電機の音に別の響きが加わるように思えた。「わが主は時を待っておられる」とアズマ=ジは胸の内で言った。「あの愚か者の罪は、まだ熟していないのだ。」
こうしてアズマ=ジは、裁きの日を待ち、見守った。ある日、短絡の兆候が現れ、ホルロイドが不用意に調べていると――午後のことだった――かなり激しい電撃を受けた。原動機の後ろにいたアズマ=ジは、ホルロイドが飛びすさり、問題のコイルへ悪態をつくのを見た。
「警告を受けたのだ」とアズマ=ジは思った。「わが主は、何と忍耐強くあられることか。」
当初ホルロイドは、自分の「黒んぼ」に、発電機の動作について初歩的な知識を教えていた。自分がいない間、一時的に小屋を任せられる程度には、ということだ。だがアズマ=ジが怪物の周りをうろつく様子に気づくと、疑い始めた。助手が「何か企んでいる」らしいと漠然と察し、コイルの一部に油を塗って絶縁ワニスを傷めた件とも結びつけた。そして機械の騒音を上回る声で、命令を怒鳴った。「あの大型発電機に二度と近づくんじゃねえぞ、プーバー。さもねえと、その皮を剥いじまうからな!」
それに、アズマ=ジが大型機のそばにいるのを喜ぶなら、そこから遠ざけるのが常識であり、道理というものだった。
そのとき、アズマ=ジは命令に従った。だが後になって、発電機の主の前で頭を下げているところを見つかった。ホルロイドは腕をねじり上げ、立ち去ろうとした背中を蹴った。やがてアズマ=ジが原動機の後ろに立ち、憎いホルロイドの背中を睨みつけていると、機械の騒音が新たな律動を帯び、故郷の言葉で四つの単語を語っているように聞こえた。
狂気とは何か、正確に言い表すのは難しい。私の考えでは、アズマ=ジは狂っていた。発電機小屋の絶え間ない騒音と回転が、わずかな知識と膨大な迷信的空想をかき混ぜ、ついには狂乱に近いものを生み出したのかもしれない。いずれにせよ、ホルロイドを発電機の呪物へ生贄として捧げるという考えが、こうして心に示されたとき、アズマ=ジは奇妙な歓喜の激流に満たされた。
その夜、小屋にいたのは二人の男と、その黒い影だけだった。小屋は一つの大きなアーク灯に照らされ、それが紫色に瞬き、ちらついていた。発電機の後ろには黒い影が横たわり、原動機の球形調速機は光から闇へ、闇から光へと回転し、ピストンは力強く一定の調子で打ちつづけていた。小屋の開いた端から見える外の世界は、信じがたいほど薄暗く、遠かった。そして機械の狂騒が外のあらゆる音を呑み込んでいるため、完全に静まり返っているようだった。はるか向こうには構内の黒い柵があり、その背後に灰色の家々が影のように並んでいた。頭上には深い青空と、青白く小さな星々があった。突然アズマ=ジは、革ベルトが頭上を走る小屋の中央を横切り、大型発電機の脇の影へ入った。ホルロイドはカチリという音を聞き、電機子の回転が変わるのに気づいた。
「そのスイッチに何してやがる?」と、ホルロイドは驚いて怒鳴った。「言っただろうが――」
そのときホルロイドは、影からこちらへ近づいてくるアジア人の目に、固い決意が宿っているのを見た。
次の瞬間、二人の男は巨大な発電機の前で、激しく組み合っていた。
「このコーヒー頭の馬鹿野郎!」とホルロイドは喘いだ。褐色の手が喉に食い込んでいた。「接触環に近づくんじゃねえ。」
次の瞬間、ホルロイドは足をすくわれ、よろめきながら発電機の主へ倒れかかった。本能的に機械から身を守ろうとして、相手をつかんでいた手を緩めた。
何が起きたのか調べるため、駅から大急ぎで派遣された使者は、門のそばの守衛所でアズマ=ジと出会った。アズマ=ジは何か説明しようとしたが、支離滅裂な英語からは何も理解できず、使者はそのまま小屋へ急いだ。すべての機械が騒々しく動いており、どこにも異常はないように見えた。だが、髪が焦げたような妙な臭いがした。やがて使者は、大型発電機の前面に、奇妙に折れ曲がった塊が貼りついているのを見つけた。近づいてみると、それが変わり果てたホルロイドの遺骸だとわかった。
男は目を見開いたまま、しばらく躊躇した。やがて顔を見ると、反射的に目を固く閉じた。二度とホルロイドを見ずに済むよう、目を開ける前に踵を返し、助言と助けを求めて小屋から出ていった。
巨大発電機に捕らえられてホルロイドが死ぬのを見たとき、アズマ=ジは自分の行為が招く結果に少し怯えた。それでも奇妙に心は高揚し、発電機の主の恩寵が自分に降りていると確信していた。駅から来た男と出会ったときには、すでに計画を決めていた。ほどなく現場へ到着した技術責任者は、一見して明白な自殺だと結論づけた。この専門家は、アズマ=ジにはほとんど注意を払わず、二、三質問しただけだった。ホルロイドが自殺するところを見たのか? アズマ=ジは、発電機の音が変わるのを聞くまで、原動機の炉の陰にいて何も見えなかったと説明した。疑う者がいない以上、難しい尋問ではなかった。
電気技師が機械から外したホルロイドの変わり果てた遺骸には、守衛がコーヒーの染みだらけのテーブルクロスを急いでかけた。誰かが気を利かせて、医者を呼んできた。専門家が何より気にしていたのは、機械を再び動かすことだった。電気鉄道の蒸し暑いトンネル内では、七、八本の列車が途中で止まっていたからだ。権限があるのか、単に厚かましいだけなのか、小屋へ入ってきた人々の質問に、アズマ=ジは答えたり、取り違えたりした。やがて技術責任者から、火夫室へ戻るよう命じられた。当然ながら、構内の門前には人だかりができた。ロンドンでは理由もなく、突然死の現場付近に一、二日、人だかりが居つくものだ。二、三人の記者が、どうにかして機関小屋へ潜り込み、一人はアズマ=ジのところまでたどり着いた。だが技術専門家は自分も素人記者だったので、彼らをまた追い出した。
やがて遺体は運び去られ、世間の関心も一緒に去った。アズマ=ジはひどく静かに炉の前に残り、石炭の中に、激しく身をよじった末に動かなくなる人影を何度も見た。殺人から一時間後、小屋へ入ってきた者には、まるで何事も起こらなかったように見えただろう。やがて機関室から覗いた黒人の目には、発電機の主が弟たちの傍らで回り、渦を巻く姿が映った。駆動輪は回転し、ピストンの中の蒸気は、宵の初めとまったく変わらず、ドッドッと音を立てていた。結局、機械の観点から見れば、まことに取るに足りない出来事だった――電流が一時的に逸れたにすぎない。ただ今では、原動機と発電機の間、ベルトの下に伸びる光の筋を、振動する床の上で行き来するのは、頑健なホルロイドの輪郭ではなく、技術責任者の細い身体と細い影だった。
「私はわが主に、よくお仕えしたのではないか?」と、アズマ=ジは影の中で、声にならぬ声で言った。巨大発電機の音が、豊かに澄みきって響き渡った。大型の回転機構を見つめているうち、ホルロイドの死以来、いくらか弱まっていた奇妙な魅惑が、再びアズマ=ジを支配した。
これほど迅速に、これほど無慈悲に人が殺されるのを、アズマ=ジはかつて見たことがなかった。巨大な機械は低く唸りながら、一瞬たりとも一定の鼓動を乱すことなく、犠牲者を殺した。まさしく強大な神だった。
何も知らない技術責任者は、アズマ=ジに背を向け、紙片に何かを書きつけていた。その影は怪物の足元に横たわっていた。
「発電機の主は、まだ飢えておられるのか? その僕は、いつでも捧げられる。」
アズマ=ジは忍び足で一歩進み、止まった。技術責任者は突然書くのをやめ、小屋の奥にある発電機まで歩いていき、ブラシを調べ始めた。
アズマ=ジはためらったのち、音もなく横切り、スイッチのそばの影へ滑り込んだ。そして待った。やがて責任者が戻ってくる足音が聞こえた。男は元の位置で立ち止まった。十フィート(約三メートル)離れたところに火夫が身を伏せているとは、夢にも思わなかった。そのとき大型発電機が突然、火花を散らして唸った。次の瞬間、アズマ=ジは闇から飛び出し、男に襲いかかった。
初め、技術責任者は胴を抱え込まれ、大型発電機のほうへ振り回された。だが膝で蹴り、両手で相手の頭を押し下げ、腰に回された腕を振りほどくと、機械から離れる方向へ身体を回した。すると黒人は再びつかみかかり、巻き毛の頭を胸へ押しつけた。二人は永遠とも思えるほど長く、揺れ、喘ぎつづけた。やがて技術責任者は、黒い耳を歯でくわえ、力いっぱい噛みつかずにはいられなくなった。黒人は凄まじい悲鳴を上げた。
二人は床に転がった。黒人は歯の万力から抜け出したらしい――それとも耳の一部を置いてきたのか、そのとき技術責任者にはどちらかわからなかった――そして男の首を絞めようとした。技術責任者が両手で何かを引っかこうとし、蹴ろうとして、どちらもろくに効果を上げられずにいると、床を急いで近づいてくる足音が、救いの響きとなって聞こえた。次の瞬間、アズマ=ジは男を放し、大型発電機へ駆け寄った。轟音の中で、激しく火花が弾けた。
入ってきた会社の職員は、呆然と立ち尽くした。アズマ=ジは両手で剥き出しの端子をつかみ、恐ろしい痙攣を一度起こした。それから顔を激しく歪めたまま、動かず機械にぶら下がった。
「本当に、いいときに来てくれて助かった」と、技術責任者はまだ床に座ったまま言った。
男はなお痙攣する身体を見た。
「見たところ、気持ちのいい死に方ではないな――だが、早くはある。」
職員はまだ遺体を見つめていた。物わかりの遅い男だった。
沈黙が流れた。
技術責任者は、いささかぎこちなく立ち上がった。考え込むように襟元へ指を滑らせ、頭を何度か左右に動かした。
「かわいそうなホルロイド! ようやくわかった。」
それからほとんど機械的に、影の中のスイッチへ歩み寄り、電流を再び鉄道回路へ流した。その途端、焼け焦げた身体は機械をつかんでいた手を緩め、前のめりに倒れて顔から床へ落ちた。発電機の鉄心が高く澄みきった咆哮を上げ、電機子が空気を打った。
こうして、おそらくあらゆる宗教のうち最も短命だった発電機神の崇拝は、早すぎる終焉を迎えた。それでも少なくとも、殉教者と人身供犠を誇ることだけはできたのである。
盲人の国
チンボラソ山から三百マイル(約四百八十三キロメートル)余り、コトパクシの雪峰から百マイル(約百六十一キロメートル)、エクアドルのアンデスでもひときわ荒涼たる奥地に、世の人々から隔絶された謎めく山間の谷――盲人の国がある。遠い昔、その谷はまだ外界へと通じており、恐ろしい峡谷を抜け、氷に閉ざされた峠を越えれば、ついには穏やかな草原へたどり着くことができた。そして実際そこへ、邪悪なスペイン人領主の淫欲と暴政を逃れた、ペルー系混血民の一、二家族が移り住んだ。やがてミンドバンバ山の凄まじい大噴火が起こった。キトでは十七日間も夜が続き、ヤグアチでは水が沸き立ち、グアヤキルに至るまで魚がことごとく死んで浮かんだ。太平洋側の斜面のいたるところで地滑りが起こり、雪解け水が奔流となり、鉄砲水が襲い、ついには古いアラウカ峰の片側全体が崩れ、雷鳴のような轟音とともに落下して、盲人の国を人間の探究の足から永遠に閉ざしてしまった。だが最初の入植者の一人は、世界がかくも恐ろしく身震いしたとき、たまたま峡谷のこちら側にいた。そのため、谷に残してきた妻も子も、友人も財産も、すべてを忘れ、下界で人生をやり直すほかなかった。だが再出発はうまくいかなかった。やがて盲目となり、鉱山で懲罰を受けて死んだ。しかし彼の語った話は伝説となり、今日までアンデス山脈の隅々に息づいている。
彼は、自分がなぜその秘境から引き返してきたのかを語った。幼いころ、巨大な荷物の脇でリャマに縛りつけられ、初めてその谷へ運び込まれたのだという。谷には、人の心が望みうるすべてがあった。甘い水、牧草地、穏やかな気候、見事な実をつける灌木が茂る肥沃な褐色の斜面。そして一方には、雪崩を高所で食い止める、崖に懸かるような広大な松林があった。頭上はるか高く、三方にそびえる灰緑色の巨大な岩壁には氷壁が冠のように載っていた。だが氷河の流れが谷へ来ることはなく、反対側の斜面へ流れ去り、ときおり巨大な氷塊だけが谷側へ崩れ落ちた。谷には雨も雪も降らなかったが、豊かな泉が青々とした牧草地を育み、灌漑さえすれば谷全体へ広げられた。入植者たちは実によく栄えた。家畜も健やかに育って数を増やした。ただ一つだけ、彼らの幸福を損なうものがあった。そして、その一つで十分すぎるほどだった。奇妙な病が彼らを襲い、谷で生まれた子供はすべて――いや、すでに育っていた子供の何人かまで――盲目になったのである。彼が疲労と危険と困難を冒して峡谷を下ってきたのは、この失明の災厄を退ける護符か解毒剤を求めるためだった。当時、こうした災厄に際して人々が考えるのは病原菌や感染ではなく、罪だった。彼には、司祭を持たない移民たちが谷へ入ってすぐに聖堂を建てなかった怠慢こそ、この苦難の原因と思えたのである。谷に聖堂を――立派で、安価で、霊験あらたかな聖堂を建てたかった。聖遺物や、それに類する信仰の力ある品々、祝福を受けた品、神秘のメダル、祈祷を求めていた。彼の財布には、出所を説明しようとしない自然銀の延べ棒が一本入っていた。谷には銀などないと言い張ったが、その言い方には、嘘の下手な者特有の妙な力みがあった。谷では金銭や装身具などほとんど必要ないので、皆が持ち寄り、病を救う聖なる助けを買おうとしたのだ、と彼は言った。大変動の起こる前、目のかすんだ若い山男が、日に焼け、痩せこけ、不安に駆られ、帽子のつばを熱に浮かされたように握りしめ、下界の作法など何一つ知らぬまま、鋭い眼差しで熱心に耳を傾ける司祭にこの話をしている姿が目に浮かぶ。やがて敬虔にして確実な治療法を携え、谷へ戻ろうとする彼の姿も。そして、かつて峡谷の出口だった場所を埋め尽くす崩壊の跡を前にしたとき、どれほど果てしない絶望に襲われたことだろう。だが、その後も続いた彼の不運な物語は、数年後に悲惨な死を遂げたということ以外、私には伝わっていない。あの僻地から迷い出た哀れな男! かつて峡谷を刻んだ流れは、今では岩窟の口から噴き出している。そして彼の哀れな、つたない物語から生まれた伝説は、「あちら」のどこかに盲人の一族がいるという伝説へ育ち、今なお耳にすることができる。
そのころ、孤立し忘れ去られた谷の小さな共同体では、病が容赦なく広がっていた。老人たちは手探りで歩くようになり、若者の視界はかすみ、そこで生まれた子供たちは初めから何一つ見えなかった。それでも、雪に縁取られ、世界から失われたその盆地での暮らしは、きわめて容易だった。棘も茨もなく、害虫もいない。動物といえば、細くなった川床をたどり、峡谷を登る際に、引っ張り上げたり、押し上げたり、あとを追わせたりして連れてきた、おとなしい品種のリャマだけだった。目の見える者たちはあまりにもゆっくりと弱視になっていったため、視力を失いつつあることにほとんど気づかなかった。彼らは目の見えない子供たちをあちらこちらへ導き、谷のすべてを驚くほど知り尽くさせた。そしてついに視力が一族から絶えたあとも、民は生き延びた。石造りの炉で注意深く火を起こし、盲目のまま火を扱う方法に順応する時間さえあった。もともと彼らは素朴な人々だった。文字を知らず、スペイン文明の影響もわずかしか受けていなかったが、古代ペルーの技芸と、失われた哲学の伝統をいくらか受け継いでいた。世代が世代に続いた。多くを忘れ、多くを生み出した。彼らが来た大いなる外界の伝承は、しだいに神話めき、不確かなものとなった。視覚を除けば、彼らは強く、有能だった。やがて偶然により、独創的な知性を持ち、語り、説得する力に秀でた者が一人、続いてもう一人現れた。二人は共同体に影響を残して世を去り、小さな社会は人口と知識を増し、発生した社会的・経済的問題に向き合い、解決していった。世代が世代に続いた。世代が世代に続いた。神の助けを求めて銀の延べ棒を携え谷を出たまま戻らなかったあの祖先から、十五代目にあたる子供が生まれる時代が来た。そしてそのころ、外界から一人の男がこの共同体へ迷い込んだ。これは、その男の物語である。
男はキト近郊の山岳地帯の出身だった。海まで下ったことがあり、世間を見ており、独自の読み方で本に親しむ、頭が切れて進取の気性に富んだ男だった。登山のためエクアドルを訪れていたイギリス人一行に、病に倒れた三人のスイス人案内人のうち一人の代役として雇われた。あちらの山を登り、こちらの山を登り、やがてアンデスのマッターホルン、パラスコトペトル登頂に挑んだ際、外界から姿を消した。その事故の顚末は、これまで幾度となく書かれている。なかでもポインターの記録が最も優れている。小さな一行が、いかに困難でほとんど垂直な道を進み、最後にして最大の断崖の真下まで到達したか。雪のなかの小さな岩棚に、いかに夜営用の避難所を築いたか。そして真に劇的な筆致を交えながら、ヌニェスがいなくなったことに、やがて彼らがどう気づいたかを記している。叫んだが返事はなかった。叫び、口笛を吹いた。その夜、一行は二度と眠れなかった。
夜が明けると、墜落の跡が見えた。声を上げる余裕などなかったに違いない。ヌニェスは山の未知なる東側へ滑り落ちていた。はるか下の急な雪面にぶつかり、雪崩に巻き込まれながら、その斜面をえぐるように落下していた。跡は恐ろしい断崖の縁まで一直線に続き、その先は何も見えなかった。はるか、はるか下、距離のためにかすむ、狭く閉ざされた谷から木々が伸びているのが見えた――失われた盲人の国である。だが彼らは、それが失われた盲人の国だとは知らず、ほかの細長い高地の谷と区別することもなかった。この惨事に気力をくじかれ、一行は午後に登頂を断念した。再挑戦する前にポインターは戦争へ召集された。今日に至るまでパラスコトペトルは征服されぬ頂をそびえさせ、ポインターの避難所は誰にも訪れられぬまま、雪中で崩れつつある。
そして、落ちた男は生き延びた。
斜面の端から千フィート(約三百五メートル)落下したヌニェスは、雪煙のただ中を、上よりもさらに急な雪面へ叩きつけられた。そこから気を失ったまま渦に巻かれるように滑り落ちたが、体の骨は一本も折れなかった。ようやく傾斜が緩くなり、最後には転がり出て止まった。彼とともに落ち、その命を救った白い雪塊が柔らかく崩れ、その中に埋もれていた。意識を取り戻したとき、病気で寝床にいるようなぼんやりした感覚があった。だがすぐ登山家らしく状況を悟り、体をよじって雪から抜け出した。何度か休みながら這い進み、ついに星が見えるところまで出た。しばらく胸を下にして横たわり、ここはどこか、何が起きたのかと考えた。手足を調べると、ボタンがいくつかなくなり、上着は頭にめくれ上がっていた。ナイフはポケットから消え、顎の下で紐を結んでいたはずの帽子もなくなっていた。避難所の壁を自分の担当分だけ高くするため、ぐらついた石を探していたことを思い出した。ピッケルも消えていた。
落ちたに違いないと判断し、見上げた。昇る月の不気味な光に誇張され、自分が飛び越えてきた途方もない落差が目に入った。しばらく呆然と横たわり、頭上にそびえる巨大で青白い断崖を眺めていた。闇の潮が引くにつれ、崖は刻々と姿を現していく。その幽玄で神秘的な美しさにしばし心を奪われたのち、突然、発作のような笑いと嗚咽が込み上げた……。
長い時が過ぎてから、自分が雪原の下端近くにいることに気づいた。下方には、いまや月光に照らされ、歩けそうな斜面が続き、その先には岩の散らばる黒々とした草地が途切れ途切れに見えた。あらゆる関節と手足を痛めながら立ち上がり、周囲に積もった緩い雪を苦労して下り、草地までたどり着いた。そこで岩のそばに横たわるというより崩れ落ち、内ポケットの水筒から深く飲むと、たちまち眠りに落ちた……。
はるか下の木々で歌う鳥の声に起こされた。
身を起こすと、巨大な断崖の麓にある小さな高原にいることがわかった。自分と雪とが流れ落ちてきた溝の部分だけは、崖の傾斜がわずかに緩んでいた。向かいには別の岩壁が空へ向かってそびえていた。二つの断崖に挟まれた峡谷は東西に走り、朝日で満たされていた。西を見ると、峡谷の下り口を塞ぐ崩落した山塊が陽光に照らされていた。足元にも同じほど急な断崖があるように見えたが、溝の雪の裏に、雪解け水の滴る煙突状の裂け目を見つけた。死に物狂いなら下りられそうだった。実際には見た目より容易で、ついに別の荒涼とした高原へ降り立ち、さほど難しくない岩登りを経て、木々の生えた急斜面へたどり着いた。方角を確かめて峡谷の奥へ顔を向けた。上方で緑の草原へ開けており、その草原の中には、見慣れない造りの石造小屋が集まっているのが、今やはっきり見えたからである。壁面を這うように進まねばならない場所もあった。やがて昇った太陽の光は峡谷へ差し込まなくなり、鳥たちの歌声も消え、周囲の空気は冷たく暗くなった。だがそのぶん、家々のある遠い谷はますます明るく見えた。ほどなく崖錐へ出た。観察力に富んだ男だったので、岩の間から鮮緑の手を伸ばし、割れ目をつかんでいるような、見慣れぬシダに気づいた。葉を一、二枚摘み、茎を噛んでみると、元気が出た。
正午ごろ、ようやく峡谷の喉元を抜け、平地と陽光の中へ出た。体はこわばり、疲れ果てていた。岩陰に腰を下ろし、泉の水で水筒を満たして飲み干すと、家々へ向かう前にしばらく休んだ。
彼の目には、家々がひどく奇妙に映った。いや、眺めれば眺めるほど、谷全体がますます異様で見慣れないものになっていった。谷の大部分は、数多くの美しい花が星のように咲く青々とした草原だった。驚くほど入念に灌漑され、一区画ずつ計画的に刈り取られている痕跡があった。谷を囲む高所には壁と、その周囲を巡る水路らしきものがあり、草原の植物を潤す細い水流はそこから来ていた。その上の斜面では、リャマの群れが乏しい草を食んでいた。境界の壁沿いには、リャマの避難所か餌場らしい小屋が、ところどころに建っていた。灌漑用の細流は谷の中央で一本の主水路に合流し、その両側は胸の高さほどの壁で囲われていた。そのため、この隔絶された土地には奇妙なほど都会的な趣があった。しかも、白と黒の石で舗装され、脇に風変わりな低い縁石を備えた道が何本も、整然とあちらこちらへ延びており、その印象をいっそう強めていた。中央の集落の家々は、ヌニェスが知る山村の、無造作で雑然と寄り集まった家々とはまったく違っていた。驚くほど清潔な中央通りの両側に切れ目なく並び、まだらな色の正面にはところどころ扉が開いていたが、整然とした壁面を破る窓は一つもなかった。塗られた色にはまるで統一がなく、灰色だったり、くすんだ黄褐色だったり、石板色や濃褐色だったりする漆喰が、でたらめに塗りたくられていた。この乱暴な塗り方を見て、探検者の頭に初めて「盲目」という言葉が浮かんだ。「これを塗ったお人好しは」と彼は思った。「きっと蝙蝠みたいな盲だったに違いない。」
急な場所を下り、谷を巡る壁と水路のところへ出た。そこは、水路からあふれた水が細く揺らめく滝となって、峡谷の深みへ流れ落ちる場所に近かった。草原の遠い一角には、昼寝でもしているように、刈草を積んだ山の上で休む何人もの男女が見えた。集落に近いところでは、子供たちが何人も寝そべっていた。さらに手前では、三人の男が天秤棒で桶を担ぎ、周囲の壁から家々へ続く小道を歩いていた。男たちはリャマの毛織物の服をまとい、革の長靴と帯を身につけ、後頭部と耳を覆う垂れのついた布帽子をかぶっていた。一列になってゆっくり歩きながら、徹夜明けの者のようにあくびをしていた。その身のこなしには、豊かで堅実な暮らしぶりを思わせる安心感があった。ヌニェスはしばらくためらったのち、岩の上でできるだけ目立つように立ち、谷じゅうにこだまする大声を張り上げた。
三人は立ち止まり、あたりを見回すように頭を動かした。顔をこちらへ向けたり、あちらへ向けたりしたので、ヌニェスは盛んに身振りをした。だが、どれほど手を振っても見えていないらしかった。しばらくすると、右手はるか遠くの山々へ顔を向け、返事をするように叫んだ。ヌニェスはもう一度、さらにもう一度怒鳴った。むなしく身振りを続けるうち、「盲目」という言葉が意識の表面へ浮かび上がった。「あの馬鹿ども、盲に違いない」と彼は言った。
さんざん叫び、腹を立てた末、ヌニェスは小さな橋で流れを渡り、壁の門をくぐって三人に近づいた。そのときには、彼らが盲人だと確信していた。こここそ伝説に語られる盲人の国なのだ。確信とともに、偉大で、少しばかり人も羨むような冒険に遭遇したという感覚が湧き上がった。三人は横一列に立ち、彼を見るのではなく、耳を彼のほうへ向け、聞き慣れない足音から相手を推し量っていた。少し怯えた者たちのように身を寄せ合っていた。瞼は閉じ、落ちくぼみ、その下にあるはずの眼球そのものが萎縮してなくなったかのようだった。顔には畏怖に近い表情が浮かんでいた。
「人だ」と一人が、かろうじてスペイン語とわかる言葉で言った。「人だ――人か、さもなくば精霊だ――岩場から下りてくる。」
だがヌニェスは、人生へ踏み出す若者のような自信に満ちた足取りで進んだ。失われた谷と盲人の国をめぐる昔話が、ことごとく脳裏によみがえった。そして古い諺が、繰り返し歌われる句のように心を駆け巡った――
「盲人の国では、片目の男が王となる。」
「盲人の国では、片目の男が王となる。」
そして彼は、きわめて丁重に挨拶した。話しかけながら、目で相手を見た。
「どこから来たんだ、ペドロ兄弟?」と一人が尋ねた。
「岩場を下りてきた。」
「山を越えて来たんだ」とヌニェスは言った。「あの向こうの国――人々が見える国から。ボゴタの近くから来た――十万もの人がいて、見渡しても果てが見えないほど街が続くところだ。」
「見える?」とペドロが呟いた。「見える?」
「岩場から来たんだ」と二人目の盲人が言った。
ヌニェスが見ると、三人の上着は奇妙な仕立てで、縫い方が一着ずつ異なっていた。
三人が一斉に彼へ踏み出し、それぞれ片手を伸ばしたので、ヌニェスはぎょっとした。広げられた指が迫ってきたため、後ずさった。
「こちらへ来い」と三人目が言い、その動きについてきて、巧みに彼をつかまえた。
三人はヌニェスを押さえ、全身を触って調べた。調べ終わるまで、ほかには何も言わなかった。
「気をつけろ!」指が目に入ったので、彼は叫んだ。彼らは、ひらひら動く瞼のついたその器官を、ヌニェスの奇妙な部分だと思ったらしい。もう一度触って確かめた。
「妙な生き物だな、コレア」とペドロと呼ばれた男が言った。「この髪の粗さを触ってみろ。リャマの毛みたいだ。」
「岩から生まれただけあって、岩のようにざらざらだ」とコレアは言い、柔らかく少し湿った手で、剃っていないヌニェスの顎を探った。「そのうちなめらかになるかもしれん。」
調べ回されてヌニェスは少し身をよじったが、三人はしっかり押さえていた。
「気をつけろ」と彼はもう一度言った。
「話すぞ」と三人目が言った。「やはり人間だ。」
「うっ!」ペドロは上着のごわつきに声を上げた。
「それで、おまえは世界の中へ来たのか?」とペドロが尋ねた。
「世界の中へじゃない、世界の外からだ。山と氷河を越えてきた。あの真上、太陽までの半ばほどの高さを越えてな。海まで十二日もかかる、広大な世界から来たんだ。」
三人はほとんど聞いていないようだった。「父祖たちによれば、自然の力が人を作ることもあるという」とコレアが言った。「物の温かさと、湿り気と、腐敗だ――腐敗から生まれるのだ。」
「長老たちのところへ連れていこう」とペドロが言った。
「まず叫んで知らせよう」とコレアが言った。「子供たちが怖がるといけない。これは驚くべき出来事だ。」
そこで彼らは声を上げ、ペドロが先頭に立ち、ヌニェスの手を取って家々へ導こうとした。
ヌニェスは手を振りほどいた。「俺は見える」と言った。
「見える?」とコレアが言った。
「ああ、見えるんだ」とヌニェスは彼のほうを向いて答え、ペドロの桶につまずいた。
「まだ感覚が未完成なのだ」と三人目の盲人が言った。「つまずくし、意味のない言葉を口にする。手を引いてやれ。」
「好きにしろ」とヌニェスは言い、笑いながら連れていかれた。
どうやら彼らは、視覚について何一つ知らないらしい。
まあよい。時が来れば教えてやろう。
人々の叫ぶ声が聞こえ、集落の中央通りに大勢の姿が集まってくるのが見えた。
盲人の国の住民との最初の出会いは、予想以上にヌニェスの胆力と忍耐を試した。近づくにつれ集落は大きく見え、塗りたくられた漆喰はますます奇妙に見えた。子供、男、女の群れが彼を取り囲んだ――瞼が閉じて落ちくぼんでいるとはいえ、女性や娘たちの何人かが実に愛らしい顔立ちであることに、彼はうれしく気づいた。人々は彼につかまり、柔らかく敏感な手で触れ、匂いを嗅ぎ、彼が発する一語一語に耳を澄ませた。ただし娘や子供の何人かは、怖がるように遠巻きにしていた。実際、彼らの柔らかな声と比べると、ヌニェスの声は荒く粗野に響いた。群衆が殺到してきた。三人の案内役は、所有権を主張するように彼のそばを離れず、「岩場から来た野人だ」と何度も繰り返した。
「ボゴタだ」と彼は言った。「ボゴタ。山々の頂の向こうだ。」
「野人だ――野蛮な言葉を使っている」とペドロが言った。「聞いたか――
「ボゴタ? まだ心がほとんど形を成していない。言葉も話し始めたばかりだ。」
幼い男の子がヌニェスの手をつねった。「ボゴタ!」とからかうように言った。
「そうとも! おまえたちの村など街のうちにも入らない。俺は大いなる世界――人が目を持ち、見ることのできる世界から来たんだ。」
「こいつの名はボゴタだ」と人々は言った。
「こいつはつまずいた」とコレアが言った。「ここへ来るまでに二度もつまずいた。」
「長老たちのところへ入れろ。」
人々は突然、彼を戸口から部屋の中へ押し込んだ。奥で火がかすかに赤く光っているほかは、漆黒の闇だった。群衆が後ろから詰めかけ、昼の光をほとんど完全に遮った。ヌニェスは体を止める暇もなく、座っていた男の足につまずいて頭から倒れた。投げ出した腕が、倒れざまに別の誰かの顔を打った。顔の柔らかな感触と、怒りの叫びを感じた。次の瞬間には何本もの手につかまれ、しばらくもがいた。勝ち目のない争いだった。状況がおぼろげに理解でき、そのままおとなしく横たわった。
「転んだんだ」と彼は言った。「こんな真っ暗闇じゃ、何も見えなかった。」
周囲の見えない人々が、その言葉を理解しようとしているかのような沈黙があった。やがてコレアの声が言った。「まだ生まれたばかりなのだ。歩けばつまずき、話の中へ意味のない言葉を混ぜる。」
ほかの者たちも彼について何か言ったが、聞き取れないか、意味がよくわからなかった。
「起き上がってもいいか?」話の切れ目に彼は尋ねた。「もう抵抗はしない。」
人々は相談し、起き上がることを許した。
年老いた男の声が質問を始めた。ヌニェスは、自分が落ちてきた大いなる外界や、空や山々といった驚異について、盲人の国の暗闇に座す長老たちへ懸命に説明することになった。だが彼らは、ヌニェスの話を何一つ信じず、理解もしなかった。まったく予想外のことだった。彼の用いる言葉の多くさえ理解しなかった。十四世代にわたり盲目のまま、目の見える世界から隔絶されてきた人々である。視覚に属するあらゆるものの名称は薄れ、変化していた。外界の物語は色褪せ、形を変え、子供向けのお伽話になっていた。周囲の壁の上にある岩の斜面を越えた先など、誰も気に留めなくなっていた。彼らの中には天才的な盲人たちが現れ、目の見えた時代から伝わる信仰と伝承の断片に疑問を呈し、それらを無益な空想として退け、もっと新しく健全な説明に置き換えてきた。目とともに想像力の多くも萎縮したが、いよいよ鋭敏になる耳と指先によって、新たな想像力を築いていた。ヌニェスはゆっくりと悟った。自分の出自と能力に対して、驚きと崇敬を寄せてもらえるという期待は、叶わないのだ。視覚を説明しようとした拙い試みも、生まれたばかりの存在が、まとまりのない感覚の驚異を混乱して語ったものとして片づけられた。少し気勢をそがれたヌニェスは、おとなしく彼らの教えに耳を傾けた。最長老の盲人は、人生と哲学と宗教を説明した。世界――つまり彼らの谷――は、初め岩の中に空いた空洞だった。次に触覚を持たない無生物が現れ、リャマと、わずかな感覚しか持たぬ数種の生き物が現れ、次に人間、最後に天使が現れたという。天使が歌い、羽ばたく音は聞こえるが、誰も触れることはできない。ヌニェスはひどく戸惑ったが、鳥のことだと思い至った。
長老は続いて、時が「暖」と「寒」に分けられていると語った。それは盲人にとって昼と夜に相当する。暖の間に眠り、寒の間に働くのがよいとされており、ヌニェスが来なければ、今ごろ盲人の町は全員眠っていたはずだという。彼らが獲得した英知を学び、それに仕えるため、ヌニェスは特別に創造されたに違いない。心がまとまらず、つまずいてばかりではあるが、勇気を持ち、精いっぱい学ばねばならない、と長老は言った。すると戸口に集まった人々が、励ますように一斉に呟いた。夜は――盲人たちは自分たちの昼を夜と呼ぶ――すでに深まり、皆もう一度眠りに戻るべきだという。長老はヌニェスに、眠り方を知っているかと尋ねた。知っているが、眠る前に食べ物が欲しい、とヌニェスは答えた。人々は椀に入れたリャマの乳と、粗い塩味のパンを持ってきた。そして食べる音が聞こえないよう、人気のない場所へ彼を連れていった。その後は、山の夕べの冷気が彼らを目覚めさせ、一日を再開させるまで、眠ることになった。だがヌニェスは少しも眠らなかった。
代わりに、置き去りにされた場所で起き上がり、手足を休めながら、思いもよらなかった自分の境遇について何度も考えた。
ときおり笑った。面白がって笑うこともあれば、腹立ち紛れに笑うこともあった。
「未完成の心だと!」彼は言った。「まだ感覚がないだと! 天から遣わされた王であり主人である俺を侮辱したとも知らずに……。
「やはり、こいつらに道理を教え込まなきゃならん。
「考えろ。
「よく考えろ。」
日が沈むまで、彼はまだ考え続けていた。
ヌニェスは美しいものを見逃さない男だった。谷の四方にそびえる雪原と氷河を染める輝きは、これまで目にしたうちで最も美しいものに思えた。その近づきがたい栄光から、急速に薄暮へ沈みゆく集落と灌漑された畑へ目を移したとき、突然、感情の波が押し寄せた。視覚という力を授けられたことを、心の底から神に感謝した。
集落の中から、自分を呼ぶ声が聞こえた。
「おおい、ボゴタ! こっちへ来い!」
彼は微笑んで立ち上がった。視覚が人間に何をもたらすか、今こそきっぱり見せつけてやろう。彼らはヌニェスを探すだろうが、見つけられまい。
「動いていないな、ボゴタ」と声が言った。
彼は声を立てずに笑い、道から脇へ忍び足で二歩移った。
「草を踏むな、ボゴタ。そこへ入るのは禁止だ。」
自分が立てた音さえ、ヌニェスにはほとんど聞こえなかった。驚いて立ち止まった。
声の主が、まだら模様の道をこちらへ走ってきた。
ヌニェスは道へ戻った。「ここだ」と言った。
「なぜ呼んだときに来なかった?」と盲人が言った。「子供のように手を引かれねばならんのか? 歩くとき、道の音が聞こえないのか?」
ヌニェスは笑った。「俺には見えるんだ」と言った。
「見えるなどという言葉はない」と盲人は間を置いて言った。「くだらぬことを言わず、私の足音について来い。」
ヌニェスは少し腹を立てながらついていった。
「いずれ俺の時代が来る」と言った。
「そのうち学ぶさ」と盲人は答えた。「世界には学ぶべきことが多い。」
「『盲人の国では、片目の男が王となる』と誰かに聞いたことはないか?」
「盲人とは何だ?」盲人は肩越しに、どうでもよさそうに尋ねた。
四日が過ぎ、五日目になっても、盲人の王は身分を隠したまま、臣民の中で不器用で役立たずのよそ者に甘んじていた。
王を名乗ることは、想像していたよりはるかに難しかった。そこで政変を企てながら、当面は言われたとおりに働き、盲人の国の礼儀や習慣を学んだ。夜に働き、動き回る暮らしはとりわけ苦痛だった。王になったら真っ先に変えてやろうと決めた。
この民は、素朴で勤勉な生活を送っていた。人間に理解しうるかぎりの美徳と幸福を、すべて備えた生活だった。働いてはいたが、過酷ではなかった。必要を満たすだけの食物と衣服があり、休息の日と季節があった。音楽と歌を愛し、人々の間には愛情があり、幼い子供たちがいた。整えられた世界を、彼らがどれほど確信と正確さをもって行き来するかは驚くべきものだった。すべてが彼らの必要に合わせて作られていたのだ。谷の中心から放射状に延びる道は、それぞれ隣の道と一定の角度をなし、縁石につけられた固有の刻み目によって区別された。道や草原の障害物や凹凸は、とうの昔に取り除かれていた。あらゆる方法と手順が、彼ら特有の必要から自然に生まれていた。感覚は驚くほど鋭敏になっていた。十二歩離れた人間のわずかな身振りさえ聞き分け、判断できた――心臓の鼓動さえ聞こえた。表情の代わりを抑揚が、身振りの代わりを接触が、とうの昔から果たしていた。鍬、鋤、熊手を使う仕事ぶりも、庭仕事として望みうるかぎり自在で確かだった。嗅覚は並外れて鋭く、犬のように個人差をたやすく嗅ぎ分けた。上の岩場に住み、餌と避難場所を求めて壁まで下りてくるリャマの世話も、楽々と自信をもってこなした。彼らの動きがどれほど軽快で確かなものになりうるかを、ヌニェスが思い知ったのは、ついに自分の権威を主張しようとしたときだった。
説得を試みた末に、彼は反抗した。
初めは幾度か、視覚について説明しようとした。「いいか、みんな」と彼は言った。「俺には、おまえたちの理解できないものがある。」
一、二度、一人か二人が耳を傾けてくれた。顔を伏せ、聡明そうに耳を彼へ向けて座り、見るとはどういうことかを語るヌニェスの懸命な説明に聞き入った。聴衆の中には、ほかの者ほど瞼が赤く落ちくぼんでおらず、まるで目を隠しているだけにも見える娘がいた。ヌニェスはとりわけ彼女を納得させたいと思った。見ることの美しさ、山々を眺めること、空や日の出について語った。彼らは面白半分の不信をもって聞いていたが、やがて非難するようになった。山など実際には存在せず、リャマの草を食む岩場の果てこそ世界の果てであり、そこから宇宙の洞窟状の天井が立ち上がり、露と雪崩はそこから落ちてくるのだと言った。ヌニェスが、世界には彼らの考えるような果ても天井もないと強く主張すると、その考えは邪悪だと言われた。空、雲、星を可能なかぎり説明しても、彼らには、万物を覆う滑らかな天井の代わりにある、おぞましい虚空、恐ろしい空白としか思えなかった。洞窟の天井が触れればうっとりするほど滑らかであることは、彼らの信仰の一箇条だった。ヌニェスは何らかの形で彼らを不快にさせていると悟り、その方面の話はきっぱり諦め、視覚の実用的な価値を示そうとした。ある朝、十七号路を歩いて中央の家々へ向かうペドロが見えた。だがまだ遠すぎて、音も匂いも届かない。ヌニェスは皆にそれを告げた。「もうすぐ」と予言した。「ペドロがここへ来る。」
老人の一人が、ペドロが十七号路にいるはずはないと言った。するとそれを裏づけるように、近づいてきたペドロは道を曲がり、横切るように十号路へ入ると、軽快な足取りで外壁へ戻っていった。ペドロが来なかったので、人々はヌニェスを嘲笑した。あとで疑いを晴らすためペドロを問い詰めたが、ペドロは否定して堂々としらを切り、それ以後ヌニェスに敵意を抱くようになった。
次にヌニェスは、物わかりのよい一人を連れ、傾斜する草原を壁近くまで遠く登ることを許してもらった。そして家々の間で起こることをすべて説明すると約束した。何人かの出入りには気づいた。しかしこの民にとって本当に重要な出来事は、窓のない家の中か裏手で起こった――そして彼らがヌニェスを試すため注目したのは、まさにそうした出来事だけだった。ヌニェスには何も見えず、何も語れなかった。この試みが失敗し、彼らがこらえきれず嘲笑したあと、ついに力へ訴えようとした。鋤をつかみ、一人か二人を突然地面へ打ち倒して、公正な戦いの中で目の優位を示そうと考えた。実際に鋤をつかむところまで決意を実行した。だがそこで、自分について新たな事実を発見した。何の恨みもない盲人を殴るなど、自分にはできないのだ。
ためらっていると、鋤を取ったことに全員が気づいていた。皆、警戒して立ち、首を傾け、次に何をするか聞き取ろうと耳を彼へ向けていた。
「その鋤を置け」と一人が言った。ヌニェスは、どうしようもない恐怖のようなものを感じた。危うく従いそうになった。
だが一人を家の壁へ突き飛ばし、その脇を駆け抜け、集落の外へ逃げた。
草原の一つを横切り、踏み荒らされた草の跡を残して、やがて道の脇に腰を下ろした。戦いを始める者なら誰もが感じる高揚もいくらかあったが、それ以上に困惑していた。自分とはまったく異なる精神的基盤に立つ者たちとは、満足に戦うことすらできないのだと悟り始めた。遠くを見ると、鋤や棒を持った男たちが家並みから出て、いくつもの道に沿って広がり、一列になってこちらへ進んでいた。ゆっくり進み、頻繁に言葉を交わし、ときおり包囲線全体が止まって空気の匂いを嗅ぎ、耳を澄ませた。
初めてそれを見たとき、ヌニェスは笑った。だがその後は、もう笑わなかった。
一人が草原に残された足跡を見つけ、身をかがめ、手で探りながらたどってきた。
五分間、包囲線がゆっくり広がるのを見ていた。すぐ何かしなければという漠然とした焦りが、やがて狂乱に変わった。立ち上がり、周囲の壁へ向かって一、二歩進み、向きを変え、少し戻った。彼らは皆、三日月形に並び、じっと耳を澄ませていた。
ヌニェスも動きを止め、両手で鋤をきつく握った。突撃するべきか?
耳の中で脈打つ音が、「盲人の国では、片目の男が王となる」という律動を刻んだ。
突撃するべきか?
背後の高く登れない壁を振り返った。滑らかな漆喰のため登れないが、小さな扉はいくつも開いている。そして迫る捜索者の列を見た。その後ろでは、さらに多くの者が家並みから出てきていた。
突撃するべきか?
「ボゴタ!」と一人が呼んだ。「ボゴタ! どこにいる?」
鋤をさらに強く握り、草原を下って住居のあるほうへ進んだ。動いた途端、彼らは一斉に集まってきた。「触ったら殴るぞ」と誓った。「神に誓って殴る。殴ってやる。」
彼は大声で叫んだ。「いいか、俺はこの谷で好きなことをする! 聞こえるか? 好きなことをして、好きなところへ行く!」
彼らは手探りしながらも、素早く距離を詰めていた。全員が目隠しをされ、自分一人だけ目が見える状態で、目隠し鬼をしているようだった。「捕まえろ!」と一人が叫んだ。ヌニェスは、緩やかな弧を描く追手の中に入り込んでいた。突然、機敏に、断固として動かねばならないと感じた。
「おまえたちにはわからないんだ」大きく断固たる声を出すつもりだったが、声は裏返った。「おまえたちは盲で、俺には見える。放っておけ!」
「ボゴタ! 鋤を置いて、草の上から出ろ!」
その最後の命令は、妙に都会的で日常的な響きを持っていたため、怒りが一気に込み上げた。「怪我をさせるぞ」と、感情にむせびながら言った。「神に誓って怪我をさせる! 放っておけ!」
走り出した――どこへ走るかもよくわからないまま。最も近い盲人から逃げた。その男を殴るのが恐ろしかったからだ。立ち止まり、狭まりつつある包囲から脱出しようと突進した。隙間の広いところを目指すと、両側の男たちは、近づく足音を素早く察知して互いへ駆け寄った。ヌニェスは前へ跳んだが、捕まると悟った。その瞬間、ぶん! 鋤が打ち込まれた。手と腕を打つ柔らかな衝撃が伝わり、男は苦痛の叫びとともに倒れた。ヌニェスは包囲を抜けた。
抜けた! だが再び家々の並ぶ通りのすぐ近くに出てしまい、盲人たちが鋤や杭を振り回しながら、考え抜かれた俊敏さであちらこちらへ走っていた。
背後の足音に間一髪で気づいた。長身の男が突進し、ヌニェスの立てる音を狙って薙ぎ払おうとしていた。ヌニェスは怖気づき、その相手から一ヤード(約〇・九メートル)も外れたところへ鋤を投げつけた。くるりと向きを変えて逃げ、別の男をかわしながら、ほとんど絶叫した。
完全に恐慌へ陥っていた。狂ったように右往左往し、避ける必要もないのに身をかわした。四方を一度に見ようと焦るあまり、つまずいた。一瞬、地面に倒れ、その音を聞きつけられた。遠く、周囲の壁に開いた小さな戸口が天国のように見え、死に物狂いで駆けだした。そこへ到達するまで追手を振り返りもしなかった。橋をよろめきながら渡り、岩場を少し登った。若いリャマが驚き恐れ、跳ねるように走って見えなくなった。ヌニェスはその場に倒れ、息を切らしてすすり泣いた。
こうして彼の政変は終わった。
盲人の谷の壁外で、食べ物も雨露をしのぐ場所もないまま二昼夜を過ごし、「予想外」というものについて考えた。その間、すでに破綻した諺を何度も何度も繰り返した。口にするたび、嘲りの響きは深まっていった。「盲人の国では、片目の男が王となる。」
考えたのは主として、この民と戦い、征服する方法だった。だが自分に実行可能な方法などないことが、しだいに明らかになった。武器を持っておらず、今となっては手に入れるのも難しい。
ボゴタにいたころから、文明という病巣にすでに侵されていた。下へ戻り、盲人を暗殺する気にはなれなかった。もちろん一人を殺せば、全員を暗殺すると脅して条件を呑ませられるかもしれない。だが――遅かれ早かれ眠らねばならない! ……。
松林で食べ物を探し、夜に霜が降りるなか松の枝の下で快適に過ごそうともした。また、さほど自信はなかったが、策略でリャマを捕まえ、殺そうともした――おそらく石で殴り殺し、最終的には、その肉を少し食べようとしたのだ。だがリャマたちは彼を怪しみ、不信に満ちた褐色の目で見つめ、近づくと唾を吐いた。二日目には恐怖に襲われ、震えが止まらなくなった。ついに盲人の国の壁まで這い下り、条件を申し出ようとした。流れに沿って這いながら叫び続けると、二人の盲人が門から出てきて、彼と話した。
「俺は狂っていた」と彼は言った。「まだ生まれたばかりだったんだ。」
二人は、それなら話がわかると言った。
今は賢くなり、したことをすべて後悔している、と告げた。
すると意図せず涙が出た。今やひどく衰弱し、病んでいたからだ。二人はそれを良い兆候と受け取った。
今でも自分には「見える」と思っているのか、と尋ねられた。
「いや」と彼は言った。「あれは愚かな考えだった。その言葉には何の意味もない。何の意味もないどころか、それ以下だ!」
頭上には何がある、と尋ねられた。
「人の背丈を十倍し、それをさらに十倍したほど上に、世界を覆う岩の天井がある――とても、とても滑らかな。滑らかで――じつに美しく滑らかな……」
再びヒステリックに泣きだした。「それ以上尋ねる前に、食べ物をくれ。さもないと死んでしまう!」
恐ろしい罰を覚悟していたが、盲人たちは寛容を示すことができた。反逆は、彼の愚かさと劣等性を示す証拠がまた一つ増えたにすぎないと考えた。鞭打ったのち、誰にでもできる最も単純で重い仕事を割り当てた。ほかに生きる道はないと悟ったヌニェスは、言われたとおり従順に働いた。
数日間病に伏すと、彼らは親切に看病した。それによって服従の心はさらに深まった。ただし暗闇の中で横たわるよう強いられ、それは大きな苦痛だった。また盲目の哲学者たちが訪れ、彼の心の邪悪な軽薄さについて説教した。彼らの宇宙という煮込み鍋を覆う岩の蓋を疑ったことを、あまりにも厳かに叱責したため、頭上にそれが見えない自分こそ、実は幻覚に囚われているのではないかと、ヌニェスは危うく疑いかけた。
こうしてヌニェスは盲人の国の住民となった。彼にとってこの民は、漠然とひとまとめにされた集団ではなく、一人一人異なる、親しい人々となった。一方、山々の向こうの世界は、しだいに遠く、現実味のないものになっていった。彼の主人ヤコブは、腹を立ててさえいなければ親切な男だった。ヤコブの甥ペドロもいた。そしてヤコブの末娘、メディナ=サローテがいた。盲人の世界では、彼女はあまり高く評価されていなかった。顔の輪郭がくっきりしすぎており、盲人が女性美の理想とする、心地よく艶やかな滑らかさに欠けていたからだ。だがヌニェスは初めから彼女を美しいと思い、やがて天地創造のすべてにおいて最も美しいものだと思うようになった。閉じた瞼は谷の人々のように赤く落ちくぼんではおらず、今にも開きそうに横たわっていた。長い睫毛もあったが、それは重大な醜点と見なされていた。声は弱く、鋭い聴覚を持つ谷の若者たちを満足させなかった。そのため恋人はいなかった。
彼女を得られるなら、残りの生涯を谷で暮らすことにも甘んじよう、とヌニェスが思う時が来た。
彼女を見守り、ちょっとした手助けをする機会を探した。やがて彼女も、自分を意識していることに気づいた。ある休息日の集まりで、二人は薄い星明かりの中、並んで腰を下ろしていた。音楽は甘美だった。ヌニェスの手が彼女の手に触れ、思い切って握った。すると彼女も、きわめて優しく握り返した。またある日、暗闇の中で食事をしていると、彼女の手がそっと自分を探しているのを感じた。ちょうどそのとき炎が跳ね上がり、顔に浮かぶ優しさが見えた。
彼女に思いを告げようとした。
ある日、夏の月光の下で糸を紡いでいる彼女のもとへ行った。光は彼女を銀色の神秘的な存在に変えていた。その足元に座り、愛していると告げ、どれほど美しく見えるかを語った。恋する者の声だった。畏敬に近い、優しく敬虔な調子で語った。彼女はそれまで、崇拝されるという経験をしたことがなかった。明確な返事はしなかったが、その言葉を喜んでいるのは明らかだった。
それからは、機会を見つけるたび彼女に語りかけた。谷が彼にとっての世界となり、人々が昼に暮らす山の向こうの世界は、いつか彼女の耳へ注ぎ込むお伽話にすぎなくなった。ごく控えめに、おずおずと、視覚についても話した。
彼女には、視覚はこの上なく詩的な空想に思えた。星や山々、月の白い光に照らされた彼女自身の美しさについて語るのを、何か後ろめたい快楽に浸るように聞いた。信じてはいなかったし、半分しか理解できなかったが、不思議なほど喜んだ。ヌニェスには、彼女が完全に理解してくれているように思えた。
彼の愛は畏れを失い、勇気を得た。やがてヤコブと長老たちに、彼女との結婚を申し入れようとしたが、彼女は怖がって先延ばしにした。メディナ=サローテとヌニェスが愛し合っていることを初めてヤコブに告げたのは、彼女の姉の一人だった。
二人の結婚には、初めから激しい反対が起こった。メディナ=サローテが大切にされていたからというより、ヌニェスが異質な存在、愚者、男として許容できる水準にも達しない無能な者と見なされていたからだ。姉たちは、一族全体の恥になると激しく反対した。老ヤコブも、不器用ながら従順な僕に一種の好意を抱くようにはなっていたが、首を振り、結婚は認められないと言った。若者たちは皆、血統を汚すという考えに腹を立て、一人はヌニェスを罵り、殴りさえした。ヌニェスも殴り返した。そのとき初めて、薄暮の中でさえ見えることの優位を発見した。その喧嘩が終わったあとは、誰も彼に手を上げようとしなくなった。だが結婚は依然として不可能とされた。
老ヤコブは末の娘をかわいがっており、肩にすがって泣かれると胸を痛めた。
「わかるだろう、かわいい娘よ。あれは愚か者だ。妄想に取り憑かれ、何一つまともにできない。」
「わかっています」メディナ=サローテは泣いた。「でも前よりよくなっています。だんだんよくなっているの。お父さま、あの人は強くて優しいわ――世界のどんな男より強く、優しいの。そして私を愛してくれている――お父さま、私もあの人を愛しているの。」
娘がどうしても泣きやまないので、老ヤコブはひどく苦しんだ。それに――苦しみをいっそう深くしたのは――さまざまな点でヌニェスを気に入っていた。そこで窓のない評議室へ赴き、ほかの長老たちと座って、議論の行方を見守った。そして頃合いを見て言った。「あれは以前よりよくなっている。いつの日か、我々と同じほど正気になることも、十分ありうるだろう。」
その後、深く物を考える長老の一人が、ある案を思いついた。彼はこの民の間で偉大な医師、呪医とされており、哲学的で発明の才に富む頭脳を持っていた。ヌニェスの奇癖を治すという発想は、彼の心を強く引きつけた。ある日、ヤコブが居合わせたとき、ヌニェスの話を再び持ち出した。「ヌニェスを診察した」と彼は言った。「症例がはっきりしてきた。おそらく治療できると思う。」
「私はずっとそれを望んでいた」と老ヤコブは言った。
「脳が冒されている」と盲目の医師は言った。
長老たちは同意の声を漏らした。
「では、何が脳を冒しているのか?」
「なるほど!」と老ヤコブは言った。
「これだ」医師は自分の問いに答えた。「目と呼ばれ、顔に心地よいくぼみを作るために存在する、あの奇妙なものだ。ヌニェスの場合、それが病んで脳に影響を及ぼしている。ひどく膨れ上がり、睫毛が生え、瞼が動く。そのため脳は絶えず刺激され、気を散らされている。」
「そうなのか?」と老ヤコブは言った。「そうなのか?」
「完全に治すために必要なのは、簡単で容易な外科手術だけだと、相当の確信をもって言えると思う――すなわち、この刺激物を取り除くのだ。」
「そうすれば正気になるのか?」
「完全に正気になり、まことに立派な住民となるだろう。」
「科学を授けた天に感謝しよう!」老ヤコブは言い、喜ばしい希望をヌニェスに伝えるため、すぐさま出ていった。
だが吉報を聞いたヌニェスの反応は冷淡で、老ヤコブを失望させた。
「その口ぶりでは」と彼は言った。「おまえが私の娘を大切に思っていないように聞こえるぞ。」
ヌニェスに盲目の外科医たちの手術を受けるよう説得したのは、メディナ=サローテだった。
「君は、俺に視覚という贈り物を失ってほしくはないだろう?」
彼女は首を振った。
「俺の世界は視覚なんだ。」
彼女の頭はいっそう深く垂れた。
「美しいものがある。小さく美しいものが――花々、岩の間の地衣類、毛皮の一片に宿る光と柔らかさ、夜明けの雲が流れていく遠い空、夕焼け、星々。そして、君がいる。君一人のためだけでも、目が見えることには価値がある。穏やかで愛らしい君の顔、優しい唇、大切な美しい両手が重ねられているのを見るために……。君が勝ち取ったのは、この目なんだ。俺を君へ結びつけている、この目を、あの愚か者どもは奪おうとしている。そうなれば、君に触れ、君の声を聞くだけで、二度と君を見ることはできない。岩と石と暗闇の天井の下、君たちの想像力まで身をかがめてしまう、あの恐ろしい天井の下へ入らなければならない……。まさか、君だって、俺にそんなことをしてほしくはないだろう?」
胸の内に不快な疑念が生じていた。そこで言葉を切り、問いのまま残した。
「ときどき」と彼女は言った。「あなたが――」そこでためらった。
「何だ?」ヌニェスは少し不安げに言った。
「ときどき、そんなふうに話さないでほしいと思うの。」
「どんなふうに?」
「きれいなお話だとはわかっているわ――あなたの空想だもの。私は好きよ。でも、今は――」
体が冷たくなった。「今は?」かすかな声で尋ねた。
彼女はじっと座ったままだった。
「つまり――君も――俺がもっとまともに、ひょっとすると、もっとよくなれると――」
すべてを一瞬で悟りつつあった。怒りも感じたのだろう。鈍重に流れる運命への怒りを。だが同時に、理解できない彼女への共感もあった。それは憐れみに近いものだった。
「愛しい人」と彼は言った。口にできない言葉を押し出そうと、彼女の心がどれほど張りつめているか、その青ざめた顔から見て取れた。腕を回し、耳に口づけし、二人はしばらく黙って座っていた。
「もし俺が、手術を受けると言ったら?」ついに、ひどく優しい声で言った。
彼女は激しく泣きながら、ヌニェスの首へ両腕を回した。「ああ、そうしてくれるなら」とすすり泣いた。「そうしてくださるなら!」
隷属と劣等の身から、盲目の住民と同じ地位へ引き上げるはずの手術までの一週間、ヌニェスは一睡もできなかった。暖かく陽光に満ちた時間、ほかの者たちが幸せそうに眠るあいだ、座り込んで考え続けるか、あてもなく歩き回り、苦しい選択へ思考を集中させようとした。答えは出した。同意もした。それでもなお、決心はつかなかった。そしてついに仕事の時間が終わり、太陽が黄金の峰々を越えて輝かしく昇り、目が見える最後の一日が始まった。メディナ=サローテが離れた場所へ眠りに行く前、二人きりで過ごす時間がわずかにあった。
「明日には」と彼は言った。「俺はもう何も見えなくなる。」
「愛しい人!」彼女は答え、ありったけの力で両手を握った。
「痛みはほんの少しよ」と彼女は言った。「あなたはこの痛みに耐えるのね。愛しい人、私のために耐えてくださるのね……。女の心と命で報いることができるなら、必ずお返しするわ。私のいちばん大切な人、優しい声をした愛しい人、きっとお返しする。」
自分と彼女への憐れみで、胸がいっぱいになった。
彼女を抱き、唇を重ね、その愛らしい顔を最後に見つめた。「さようなら!」大切な光景へ囁いた。「さようなら!」
そして黙って、彼女に背を向けた。
ゆっくり遠ざかる足音を、彼女は聞くことができた。その律動に潜む何かが、彼女を激しい慟哭へ突き落とした。
ヌニェスは歩き去った。
白い水仙が美しく咲く草原の人気のない場所へ行き、犠牲の時が来るまでそこに留まるつもりだった。だが歩きながら目を上げると、朝が見えた。黄金の鎧をまとった天使のような朝が、急斜面を行進して下りてきた……。
この荘厳な輝きを前にすれば、自分も、谷の盲目の世界も、恋も、何もかもが、罪の穴にすぎないように思えた。
予定していたように道を外れることはせず、そのまま進み、周囲の壁を抜けて岩場へ出た。その目は常に、陽光を浴びる氷と雪へ向けられていた。
限りない美しさを見た。想像力はその上を舞い上がり、今まさに永遠に手放そうとしている彼方のものへ飛んでいった!
引き離されていた、あの広大で自由な、自分自身の世界を思った。さらに向こうの斜面が、遠く、そのまた遠くへ続く光景が見えた。数えきれぬほど多くの、美しく躍動するものに満ちた街、ボゴタが中景に美しく横たわっている。昼は栄光に輝き、夜は光に満ちた神秘となる街。宮殿、噴水、彫像、白い家々のある街。峠を下れば、一日か二日で、賑わう通りや道へ刻々と近づいていけるだろうと思った。大いなるボゴタから、さらに広大な彼方の世界へ向かう川旅を思った。町や村を抜け、森と荒野を抜け、日ごとに奔流を下る。やがて両岸が遠のき、大きな蒸気船が水を跳ね上げながら通り過ぎ、ついには海へ出る――限りない海へ。千の島々、幾千もの島々があり、はるか遠くに船影がかすみ、あのより大きな世界を巡って、絶え間なく旅を続ける海へ。そこでは山々に閉ざされることなく、空を見ることができる――この谷から見えるような円盤ではなく、測り知れぬ青の大天蓋、巡る星々が浮かぶ、深みのさらに奥深い深淵を……。
その目は、巨大な山々の幕を、先ほどより鋭く探り始めた。
たとえば、こちらへ進み、あの溝を登り、あそこにある煙突状の裂け目へ行けば、矮小な松の群れが棚のように巡る高所へ出られるかもしれない。その棚は峡谷の上を通るにつれ、さらに、さらに高くなっている。その先は? あの崖錐なら越えられるかもしれない。そこから雪の下の断崖へ達する登路を見つけられるかもしれない。あの裂け目がだめでも、さらに東にある別の裂け目ならうまくいくかもしれない。その先は? 琥珀色の光を浴びた雪原へ出て、あの美しく荒涼たる峰の頂まで、半ばほど登れる。そして、もし幸運に恵まれれば!
集落を振り返り、それから完全に向き直り、腕を組んで眺めた。
メディナ=サローテのことを思った。彼女はもう、小さく遠い存在になっていた。
再び、朝が自分のもとへ下りてきた山壁へ向き直った。
そして細心の注意を払いながら、登り始めた。
日が沈んだとき、彼はもう登ってはいなかった。だがはるか高みまで来ていた。服は裂け、手足は血に染まり、全身いたるところに傷と痣があった。それでも安らいでいるように横たわり、顔には微笑みが浮かんでいた。
休んでいる場所から見ると、谷は穴の底にあり、一マイル(約一・六キロメートル)近く下にあるようだった。周囲の山頂は光と炎に燃えていたが、谷はすでに霞と影にかすんでいた。周囲の山頂は光と炎に燃え、すぐそばの岩場にある小さなものまで、光と美しさに濡れていた。灰色の岩を貫く緑の鉱脈。あちらこちらできらめく小さな結晶。顔のすぐそばにある、ごく小さく、精妙な美しさを持つ橙色の地衣類。峡谷には深く神秘的な影があり、青は紫へ深まり、紫は光を宿す闇へ溶けていた。そして頭上には、果てしなく広大な空があった。だが彼はもう、そうしたものに心を留めてはいなかった。ただじっと横たわり、満足げに微笑んでいた。王になろうと思った盲人の谷から、ただ逃れられただけで、今はもう満ち足りているかのように。やがて夕焼けの輝きは消え、夜が訪れた。それでも彼は、冷たく澄んだ星々の下に、じっと横たわり続けていた。
公開日: 2026-07-21