ハックルベリー・フィンの冒険

Adventures of Huckleberry Finn

作者: マーク・トウェイン

出版年: 1884年

訳者: gpt-4.1

概要: 本作の舞台は南北戦争前のミシシッピ渓谷。少年ハックルベリー・フィンは自由を求め、束縛から逃れ、複雑な人間関係や社会の矛盾の中で成長していく。自由黒人ジムを助けるための計略が緻密に練られ、数々の困難と謎に満ちた状況が次々と展開される。物語は、主人公と仲間たちが自由への道を模索しつつ、自らの運命と向き合……

公開日: 2025-05-28

ハックルベリー・フィンの冒険

(トム・ソーヤーの仲間)

マーク・トウェイン著


おことわり

この物語の中に動機を見出そうとする者は訴追される。教訓を見出そうとする者は追放される。筋書きを見出そうとする者は射殺される。

作者の命により
兵器主任G.G.

解説

本書にはいくつかの方言が使われている。すなわち、ミズーリ州の黒人方言、南西部奥地の極端な田舎言葉、普通の「パイク郡」の方言、さらにその変形が四種類ある。これらの違いはいい加減に、または当てずっぽうにされたものではなく、注意深く、そしてそれぞれの話し方に個人的な親しみがあるからこそできたことである。

こうして説明しておかないと、登場人物たちがみんな同じようにしゃべろうとして失敗していると思う読者が多いだろうから、そのために述べておく。

作者

ハックルベリー・フィン

舞台:ミシシッピ渓谷
時代:40年から50年前

第一章

『トム・ソーヤーの冒険』って本を読んでないと、俺のことは知らないだろう。でも、それはたいしたことじゃない。その本はマーク・トウェインさんが書いたもので、ほとんど本当のことが書いてある。ちょっと大げさに書いてるところもあるけど、だいたい本当の話だ。まあ、そんなことはどうでもいい。俺が知ってる限り、うそを一度もついたことがないのは、ポリーおばさんとか未亡人とか、もしかするとメアリーくらいなもんだ。ポリーおばさん――トムのポリーおばさんだ――とメアリー、それにダグラス未亡人のことは、あの本に全部書いてある。だいたい本当の本だが、さっき言った通り、ちょっと大げさなところもある。

さて、あの本の終わり方はこうだ。トムと俺は、強盗たちが洞窟に隠した金を見つけて、大金持ちになった。俺たちはそれぞれ六千ドル――全部金貨だ――を手に入れた。山のような金で、見ているだけで圧倒されるほどだった。サッチャー判事がその金を預かって、利子を付けて運用してくれて、俺たちは一年中毎日一人一ドルずつもらえるようになった。何に使ったらいいか分からないくらいの金だった。ダグラス未亡人は俺を息子のように迎え入れて、「文明人」にしてやると言った。でも、未亡人は何もかもきちんとしていて真面目だから、家の中でずっと暮らすのは息苦しかった。だから、もう我慢できなくなって、俺は逃げ出した。またぼろ服に着替えて、砂糖樽の中で眠る元の自由な暮らしに戻った。満足だった。だけど、トム・ソーヤーが俺を見つけ出して、「強盗団」を作るから、未亡人のところに戻ってちゃんとした生活をすれば仲間に入れてやると言う。それで俺はまた戻った。

未亡人は俺のことで泣いて、かわいそうな迷子の子羊だって呼ぶし、他にもいろんな名前で呼ばれたけど、悪気はなかった。新しい服をまた着せられて、俺は汗びっしょりで、縮こまってばかりいた。だけど、またあの暮らしの始まりだ。未亡人が夕食のベルを鳴らすと、すぐに行かなくちゃいけない。テーブルに着いても、すぐに食べられるわけじゃなくて、未亡人がちょっと頭を下げて、料理に不満でもあるようにぶつぶつ言うのを待たなきゃいけない。といっても、本当は何の問題もなかった。ただ、すべての料理が別々に作られているだけだ。いろんなものが混ざって、味がしみ込んでいるバレルの中のごちゃまぜ料理のほうが、俺にはうまいと思う。

食事のあと、未亡人は本を取り出して、俺にモーセと葦の話を教えてくれた。俺も最初はモーセの話に夢中になったけど、やがてモーセはずっと昔に死んだ人だと分かって、もうどうでもよくなった。俺は死んだ人の話には興味がないんだ。

そのうち、俺は煙草を吸いたくなって、未亡人に頼んだ。でも、未亡人は駄目だと言う。「悪い癖だし、不潔だからやめなさい」と言われた。世の中には、よく知らないことを悪く言う人がいるもんだ。未亡人はモーセの話ばかり気にしていたけど、あの人は未亡人と何の関係もないし、もうこの世にいないんだから何の役にも立たないのに、俺がやろうとすることには文句を言う。でも、未亡人は嗅ぎ煙草は吸う。自分がやることは全部正しいってことらしい。

未亡人の姉妹のミス・ワトソンっていう、やせた独身のおばさんが、眼鏡をかけて新しく住み始めた。今度はその人がつづりの本を持ち出して、俺を叩き込もうとした。小一時間くらい、かなり厳しくやられたけど、未亡人が途中で手加減するように言ってくれた。もう少しで我慢できなくなるところだった。それからまた一時間ほどは退屈で、俺はイライラした。ミス・ワトソンは「ハックルベリー、そこに足をのせないで」とか、「ハックルベリー、そんなふうに体を丸めないで、背筋を伸ばして座りなさい」とか、しまいには「ハックルベリー、あくびして背伸びばかりして、だらしないわよ。もっとちゃんとしなさい」と言う。それから地獄の話をしてくれた。俺は「そこに行きたい」と言ったら、ミス・ワトソンは怒ったけど、俺は別に悪気はなかった。ただどこか違うところに行きたかっただけで、特にこだわりはなかった。「そんなことを言うのは悪いことだ」とミス・ワトソンは言った。自分はどんなことがあってもそんなことは言わない、良いところに行けるようにちゃんと生きるつもりだって。でも、俺にはミス・ワトソンが行くようなところに行く利点は分からなかったから、行こうなんて思わなかった。でも、それを口にしたらまた面倒になるだけだと思って、黙っていた。

ミス・ワトソンは調子が出てきたらしく、今度は天国の話をしてくれた。そこでは、みんな一日中ハープを持って歩き回って、永遠に歌って過ごすだけだと言う。俺にはあまり魅力的には思えなかった。でも、黙っていた。俺は「トム・ソーヤーもそこに行けると思いますか」と聞いた。ミス・ワトソンは「絶対に無理よ」と言った。俺はそれを聞いてうれしかった。トムと一緒にいられるほうがいいからだ。

ミス・ワトソンはずっと俺に小言ばかりで、だんだんうんざりして寂しくなってきた。そのうち、黒人たちが連れてこられ、みんなでお祈りをしてから、それぞれ寝ることになった。俺はロウソクをひとつ持って自分の部屋に上がり、テーブルに置いた。そして窓際の椅子に座って、何か楽しいことを考えようとしたけど、どうしても気が晴れなかった。あんまり寂しくて、死んでしまいたいと思うくらいだった。星が輝いて、森の葉っぱが悲しそうにざわめき、遠くでフクロウが「ホーホー」と誰かの死を鳴いていた。ホイップウィルドリや犬も誰かの死を泣いているみたいだった。風が何かをささやいているようだったけど、何を言ってるのか分からなくて、ぞっとした。森の奥からは幽霊が悩みを打ち明けたいのに伝えられず、眠れずに毎晩さまよっているような音まで聞こえてきて、俺はすっかり気分が沈んで、怖くなった。誰か一緒にいてほしいと本気で思った。そのとき、クモが俺の肩を這い上がってきて、俺はそれを払ったら、クモはロウソクの炎に飛び込んですぐに焼け焦げてしまった。誰にも教えられなくても、それがすごく悪い前兆だってことは分かったし、きっと悪いことが起こると思って、怖くて服が脱げそうなほど震えた。俺は立ち上がって、その場で三回くるくる回り、毎回胸に十字を切って、最後に髪の毛をひと房糸で結んで魔女除けにした。でも、あまり効くとは思えなかった。拾った蹄鉄をドアの上に打ち付けずに失くしたときなんかはこうするんだけど、クモを殺したときの厄除けになるって話は聞いたことがなかった。

俺はまた座って、震えながらパイプを取り出して一服しようとした。今は家中が死んだように静かで、未亡人にもばれそうにない。しばらくすると、遠くの町の時計がボーン、ボーン、ボーンと十二回鳴った。また一段と静かになった。やがて、暗い木立の中で小枝がパキッと折れる音がした――何かが動いている。俺は身をひそめて耳を澄ませた。やがて、かすかに「ミャーオ、ミャーオ」という声が聞こえた。うまくいったぞ! 俺もできるだけ小さな声で「ミャーオ、ミャーオ」と返した。それからロウソクを消して、窓から物置の屋根に這い出た。それから静かに地面に降りて木立の中を這って行くと、案の定、そこにはトム・ソーヤーが待っていた。

第二章

俺たちは木立の小道をつま先立ちで進み、未亡人の庭の端のほうへ向かった。枝が頭に当たらないように身をかがめて歩いた。台所のそばを通るとき、俺は根っこにつまずいて音を立ててしまった。俺たちはすぐ身を伏せて、じっとした。ミス・ワトソンの大きな黒人、ジムが台所の入口に座っていた。後ろに明かりがあるので、はっきり見えた。ジムは立ち上がって、首を伸ばしてしばらく耳を澄ませていた。それから言った。

「誰だ?」

もっと耳を澄ませていたけど、やがて忍び足で出てきて、俺たちのすぐ真ん中に立った。もう少しで手が届きそうなくらいだった。しばらくの間、まったく音がしなかった。俺たちはみんな、ぴったりくっついてじっとしていた。足首がかゆくなったけど、かくのは怖かった。今度は耳がかゆくなって、その次は背中、肩甲骨のあいだがかゆくなった。かけないのは、死にそうなくらいつらいもんだ。あとで気づいたが、こういうことはよくある。お偉いさんの前にいるときや、お葬式のとき、眠くもないのに寝ようとするとき――とにかく、かいてはいけないときには、全身千か所もかゆくなるものだ。やがてジムが言った。

「おい、誰や? どこや? 絶対なんか聞こえたぞ。よし、こうしよう。ここに座って、また聞こえるまで見張っとったる。」

ジムは俺とトムの間に地面に座った。背中を木に寄りかけて、足を伸ばしたら、一本はもう俺の足に触れそうだった。今度は鼻がかゆくなった。涙が出るほどかゆかった。でもかくのは我慢した。今度は鼻の中がかゆくなって、次は下のほうがかゆくなった。とてもじっとしていられそうになかった。この苦しさは六分か七分は続いたと思うけど、もっと長く感じた。十一か所もかゆくなったころには、もう一分ももたないと思ったが、歯をくいしばって我慢することにした。そのとき、ジムが重そうな呼吸を始め、やがていびきをかき始めたので、俺はまた楽になった。

トムは俺に合図をした――口で小さな音を出して――それで俺たちは手と膝をついてそっと離れた。十フィートほど離れたところで、トムは俺にささやいて、ジムを木に縛り付けてやろうと言った。でも、俺は反対した。ジムが目を覚まして騒ぎになったら、俺が家にいないことがばれるからだ。するとトムは、ロウソクが足りないというので、台所に忍び込んで更に取ると言い出した。俺はやめたほうがいいと言った。ジムが起きてくるかもしれないからだ。でもトムはどうしてもやると言い張り、俺たちはそっと入ってロウソクを三本取った。トムは代金としてテーブルに五セント置いてきた。外に出ると、俺は早く逃げたくてたまらなかったが、トムはどうしてもジムのところに這って行って、何かいたずらをしたがった。俺は待っていたが、あまりにも静かで寂しい気分になった。

トムが戻ると、俺たちは小道を抜けて庭の柵を回り、やがて家の向こうの丘の上にたどり着いた。トムはジムの帽子をそっと外して、頭の上の枝にかけ、そのときジムは少し身じろぎしたけど目は覚まさなかったと話した。あとでジムは、「魔女に魔法をかけられてトランスにされて、州中を連れ回されて、また木の下に戻された。帽子を枝にかけて、誰がやったか分かるようにしたんや」と言った。その後、ジムが話すたびに話はどんどん大きくなり、今度はニューオーリンズまで連れていかれたと言い、さらにそのうち世界中を乗り回されて、体中が鞍の擦り傷だらけになったと言うようになった。ジムはそのことをものすごく誇りに思って、他の黒人たちをほとんど相手にしなくなった。黒人たちはジムの話を聞くために何マイルもやって来て、あのあたりで一番尊敬される存在になった。よその黒人たちは口をあんぐり開けてジムを見て、まるで珍しいものでも見るみたいだった。黒人たちは台所の火のそばで暗い中、魔女の話ばかりしているものだが、誰かが偉そうに詳しいふりをしていると、ジムが現れて、「ふん! お前、魔女について何知っとるんや?」と言う。すると、そいつは黙り込んで引っ込むしかなかった。ジムは常に五セント硬貨を首からひもでぶら下げていた。これは悪魔が自分に直接くれたお守りで、これで誰でも治せるし、呪文を唱えれば魔女も呼び出せると言っていたが、その呪文が何かは絶対に明かさなかった。黒人たちは、その五セント硬貨を見たさに何でも差し出したが、悪魔が触ったものだから誰も手には取ろうとしなかった。ジムは、悪魔に会って魔女に乗られたことですっかり召使いとしてはダメになってしまった。

さて、俺とトムが丘の端に着いたとき、村を見下ろすと三つか四つ灯りがまたたいていた。たぶん、病人の家なんだろう。頭上には星がきれいに輝き、村のそばには川があって、幅は一マイルもあるのに、静かで壮大だった。俺たちは丘を下りて、ジョー・ハーパーやベン・ロジャース、他に二、三人の少年たちがタン革工場跡に隠れているのを見つけた。そこで小舟を外して、川を二マイル半ほど下って、丘の大きな傷跡のあるところで上陸した。

茂みの中に入って、トムがみんなに誓いを立てるよう言い、茂みの奥にある穴を見せた。俺たちはロウソクに火をつけて、手と膝で中に入っていった。二百ヤードほど進むと、洞窟が広がった。トムは通路を探し回り、やがて、壁の下に小さな穴があるのを見つけてくぐった。俺たちは細い通路を進み、じめじめして冷たい部屋のような場所にたどり着いた。そこでトムが言った。

「これから強盗団を作って、名前は“トム・ソーヤーの団”にする。入団したい奴は、みんな誓いを立てて、血で名前を書かなきゃならない。」

みんな賛成した。トムは自分で書いた誓約書を取り出して読み上げた。それは、仲間を裏切らず、秘密を絶対に漏らさないこと。もし仲間に何かあったら、指示された者はその人と家族を必ず殺し、胸に十字の印を刻みつける――それが団のしるしだということだった。また、団員以外はその印を使ってはならず、もし使ったら訴えられる。二度やったら殺される。もし団員が秘密を漏らしたら、喉を切られ、死体は焼かれ、灰はばらまかれ、名簿から血で名前を消され、二度と仲間に口にされず、永遠に呪われて忘れ去られる、というものだった。

みんな「すごく立派な誓いだ」と言って、トムに「自分で考えたのか」と聞いた。トムは「一部は自分で考えたけど、あとは海賊や強盗の本から取った」と言った。どこの本物の強盗団も同じような誓いを立てるものだ、と。

何人かは、「秘密を漏らしたやつの家族も殺したほうがいい」と言った。トムも「それはいい」と言って、鉛筆で書き加えた。するとベン・ロジャースが言った。

「でもハック・フィンには家族がいないじゃないか。どうするつもりだ?」

「父親ならいるだろ?」とトム・ソーヤーが言った。

「ああ、確かに父親はいるけど、今はまったく行方が分からない。昔はタン革工場で豚と一緒に泥酔して寝てたけど、もう一年以上このあたりで見かけてないよ。」

みんなで話し合ったんだけど、俺をメンバーから外そうってことになりかけた。みんな、どの少年にも家族か、殺す相手になる誰かがいないと、公平じゃなくなるって言うんだ。だけど、誰も妙案を思いつけなくて、みんな途方に暮れて黙り込んじまった。俺はもう泣きそうだったけど、急にひとつ思いついて、ミス・ワトソンを差し出した。「彼女を殺してもらえばいいよ」ってな。みんな、

「おお、それでいいじゃん。問題ない。ハックも仲間に入れてやろう」

って言った。

それからみんな、指にピンを刺して血を出して、契約書にサインした。俺も自分の印を紙につけた。

「さて」とベン・ロジャースが言った。「このギャングの稼業は何やるんだ?」

「強盗と殺人だけさ」とトムが言う。

「でも誰を襲うんだ? 家か牛か、それとも――」

「ばか言えよ。牛とか盗んでも強盗じゃない、泥棒だ」ってトム・ソーヤーが言った。「俺たちは泥棒じゃない。そんなのダサい。俺たちは街道強盗だ。マスクかぶって、道で馬車や客車を止めて、人を殺して時計や金を奪うんだ」

「人って必ず殺さなきゃいけないのか?」

「もちろん。そっちの方がいいんだ。偉い人は違う意見もあるけど、だいたいは殺した方がいいってされてる――ただし、一部のやつはここに連れてきて、身代金払われるまで閉じ込めておく」

「身代金? それって何だ?」

「知らないよ。でも本にそう書いてあった。だから俺たちもそうしなきゃならないんだ」

「でもやり方が分かんないのにできるのかよ?」

「まったく、やるしかないだろ。本に書いてあるって言ってるじゃないか。本に書いてあるのと違うことをしたら、全部台無しになるぞ?」

「それは言うのは簡単だけどさ、トム・ソーヤー、やり方が分からないのにどうやって“身代金”にすんだよ? 俺はそれが知りたいんだ。お前はどう思う?」

「さあな。でも、もしかしたら、身代金になるまで閉じ込めておくってことは、死ぬまで閉じ込めておくってことかもな」

「おお、それなら納得だ。それでいいじゃん。なんで最初からそう言わなかったんだよ? 俺たちは死ぬまで身代金にしとくんだな。こいつら、きっと食べ物食い散らかすし、逃げようとばかりするだろうけどな」

「何言ってんだよ、ベン・ロジャース。見張りがいて、ちょっとでも動いたら撃たれるってのに、どうやって逃げるんだよ?」

「見張り! そりゃおもしろいな。誰かが毎晩眠らずにずっと見張ってなきゃいけねえのか。馬鹿げてるよ。来たらすぐ棍棒でぶちのめして“身代金”にしちゃえばいいじゃん」

「それは本に書いてないからダメなんだよ。なあ、ベン・ロジャース、お前は正しいやり方でやりたいのか? それとも勝手にやりたいのか? 本を書いた人たちは正しいやり方を知ってるに決まってるだろ。お前が教えてやれると思うのか? 絶対無理だ。俺たちは決まり通りに身代金にする」

「分かったよ。俺は気にしねえけど、馬鹿なやり方だな。なあ、女も殺すのか?」

「ベン・ロジャース、お前ぐらい無知だったら、俺なら黙ってるぜ。女を殺す? そんなこと本に書いてたの誰も見たことない。女は洞窟に連れてきて、めちゃくちゃ親切にしてやるんだ。そしたらそのうちお前に惚れて、家に帰りたくなくなるんだよ」

「まあ、それならいいけど、俺は信じちゃいねえ。すぐに女と身代金待ちのやつらで洞窟がいっぱいになって、強盗の居場所がなくなりそうだ。でも好きにしろよ、俺は何も言わねえ」

トミー・バーンズはもう寝ちゃってて、起こしたらうろたえて泣き出して、「お母ちゃんのとこ帰りたい、もう強盗なんか嫌だ」って言い出した。

だからみんなでからかって、泣き虫呼ばわりしたら、怒って「全部秘密を話してやる!」と脅してきた。でもトムが五セントやって黙らせて、「今日は家に帰って、来週また集まって誰かを襲って人を殺そう」ってことにした。

ベン・ロジャースは、日曜しか外に出られないから、次の日曜に始めたいって言ったけど、みんな日曜にやるのは悪いことだって言って、それで話は決まった。できるだけ早く集まって日を決めようってことになって、その後、トム・ソーヤーを第一隊長、ジョー・ハーパーを第二隊長に選んで、みんなで家路についた。

俺は納屋に登って窓から忍び込んだ。ちょうど夜明け前だった。新しい服はもう泥と油だらけで、俺はへとへとだった。

第三章

朝になると、ミス・ワトソンが服のことでひどく叱ってきた。でも未亡人は叱らず、静かに油や泥を拭き取ってくれて、すごく悲しそうな顔をしてた。だから俺も、できるだけしばらくはちゃんとしようと思った。そしたらミス・ワトソンが俺をクローゼットに連れてって、祈らせた。でも何も起きなかった。毎日祈れば、欲しいものが何でも手に入るって言うけど、そんなことなかった。俺も試したんだ。一度は釣り糸が手に入ったけど、釣り針は手に入らなかった。針がなけりゃ役に立たない。何度か針を頼んでみたけど、どうしてもダメだった。ある日、ミス・ワトソンに代わりに頼んでくれって言ったら、「馬鹿ね」って言われた。理由は教えてくれなかったし、俺にはさっぱり分からなかった。

一度、森の奥に座り込んでじっくり考えてみた。もし祈れば何でも手に入るんなら、ウィン執事は豚で損した金を取り戻せるはずだし、未亡人だって盗まれた銀の嗅ぎタバコ入れを取り返せるはずだ。ミス・ワトソンだって太れるはずなのに。やっぱり、そんなことはないって自分で納得した。それで未亡人に相談したら、「祈ることで得られるのは“霊的な贈り物”よ」って言われた。それもよく分からなかったけど、説明してくれた。人を助けて、できるだけ人のためになることをして、いつも人のことを考えなさい、自分のことは考えちゃだめよ、と。ミス・ワトソンのことも含まれてるんだろうなと思った。森の中でずっと考えてみたけど、他人のためになるだけで、自分の得になることは何もなさそうだった。だから、もう気にしないことにした。未亡人は時々、神のご加護についてすごく魅力的に語ってくれたけど、次の日になるとミス・ワトソンがそれを否定する。俺は、二つの神様がいるようなもんだと思った。未亡人の神様なら貧乏な俺にもチャンスがあるけど、ミス・ワトソンの神様に当たったら、もう救いはない。俺はよく考えて、もし神様が欲しいなら未亡人の方の神様のものになろうと思ったけど、俺みたいな無知で、どうしようもない人間を手に入れて、神様が前より良くなるとは思えなかった。

パプはもう一年以上も姿を見せていなかったから、俺は気楽だった。もう会いたくなかった。奴はシラフのときに俺をよくぶん殴ったし、近くにいるときは俺もたいてい森に逃げていた。ちょうどその頃、パプが川で溺れて死んでたって話が流れた。町から十二マイル上流で見つかったそうだ。みんな彼だろうって言ってた。大きさも合うし、ボロボロの服に異常に長い髪、どれもパプと同じだった。でも顔は水に浸かりすぎてて、もうほとんど顔じゃなかった。奴は仰向けに浮かんでいた。川岸に葬られた。でも、俺はすぐには安心できなかった。思い出したことがあったんだ。溺死体は仰向けじゃなくて、うつ伏せで浮かぶって知ってたから、あれはパプじゃなくて、男の格好をした女なんだって分かった。だからまた不安になった。きっといつかパプがまた現れると思ったし、そうならなきゃいいのにとも思った。

俺たちは一ヶ月くらい強盗ごっこをして遊んだけど、そのうち俺は抜けた。他のやつらもみんなやめた。誰も襲ってないし、誰も殺してない。ただのごっこ遊びだった。森から飛び出して、豚を運ぶ男や野菜を市場に持っていく女の人を襲う真似をしたけど、誰も捕まえられなかった。トム・ソーヤーは豚を「延べ棒」って、カブや野菜を「宝石」って呼んで、洞窟にこもっては、どれだけ人を殺して印をつけたかとか、戦利品の話をしていた。でも俺には何の得があるのか分からなかった。あるときトムは、火のついた棒を持って町中を走り回るようにある子に命じた。それがギャングを集める合図(スローガン)だって言う。スパイからの極秘情報で、「明日、スペイン商人と金持ちのアラブ人が大勢、ケイブ・ホロウに野営して、象が二百頭、ラクダ六百頭、それに運搬用のラバが千頭以上もいて、全部ダイヤモンドを積んでいる。護衛は四百人しかいないから、俺たちは“待ち伏せ”して全員やっつけて宝を奪う」って話だった。剣と銃を磨いとけって念を押された。カブ運びの荷車を襲うときでさえ、剣や銃(と言っても板切れやほうきの柄だけど)をピカピカにしておかなくちゃならなくて、いくら磨いても価値は変わらないのに。俺は、そんなスペイン人やアラブ人の大群を倒せるとは思わなかったけど、象やラクダが見たかったから、土曜日にはちゃんと“待ち伏せ”場所にいた。合図が出るとみんなで森から飛び出して丘を駆け下りた。けど、スペイン人もアラブ人もいない。象もラクダもいなかった。ただの日曜学校のピクニック、それも初級クラスだけだった。俺たちはそれをめちゃくちゃにして、子供たちを谷の奥まで追いかけたけど、手に入ったのはドーナツとジャムだけ。ベン・ロジャースはぼろ人形、ジョー・ハーパーは賛美歌集と小冊子をもらった。先生が飛び込んできて、全部置いて逃げる羽目になった。

俺はダイヤなんか見なかったってトム・ソーヤーに言った。すると「たくさんあったんだ」と言い張るし、アラブ人や象も本当はいっぱいいたって言う。俺が「じゃあなぜ見えなかったんだ?」と聞いたら、「お前が無知だからだ。“ドン・キホーテ”って本を読んでればそんなことは聞かなくても分かる。全部魔法なんだ」ってさ。敵は“魔法使い”で、わざと全部を日曜学校みたいに変えてしまったんだと。俺は「じゃあ、そいつら魔法使いをやっつければいいじゃん」って言ったら、トム・ソーヤーは俺を馬鹿呼ばわりした。

「いいか、魔法使いは魔人を呼び出して、お前なんか瞬殺だぞ。連中は木みたいにデカくて、教会ぐらい太いんだ」

「じゃあ、俺たちも魔人を味方にできれば勝てるんじゃないか?」

「どうやって呼ぶんだよ?」

「さあな。向こうはどうやるんだ?」

「ランプとか鉄の指輪をこすれば、嵐みたいに魔人たちが現れて、命令されたことは何でもやるんだ。弾丸タワーを根こそぎ引っこ抜いて、日曜学校の先生にぶつけちゃうくらい朝飯前だ」

「誰がそんなことさせるんだよ?」

「ランプや指輪をこする人だよ。持ち主の命令は絶対なんだ。例えば、ダイヤでできた長さ六十キロの宮殿を建てて、中にチューインガムを山ほど詰め込めとか、中国から皇帝の娘を連れてこいとか言ったら、夜明けまでに全部やる。しかも、宮殿ごと好きな場所に移動させることだってできる」

「ふうん。俺だったら、そんなすごいもんもらったら自分のために使うけどな。なんでわざわざ他人に使わせるんだ? それに、もし俺が魔人だったら、知らんやつがランプこすっても絶対無視するけどな」

「何言ってんだよ、ハック・フィン。こすられたら絶対行かないとダメなんだよ、嫌でもな」

「なんだって? 俺が木みたいにデカくて教会みたいに太いのに? そりゃ行くけどさ、でも絶対そいつに一番高い木に登らせてやる」

「やれやれ、お前と話しても無駄だよ、ハック・フィン。お前って本当に何も知らないんだな――まるで大馬鹿だ」

俺はそのことを二、三日考えて、それから本当かどうか試してみようと思った。古いブリキのランプと鉄の指輪を拾って、森でこすりにこすって汗だくになった。宮殿を建てて売ろうとしたんだけど、何も起きなかった。魔人は一人も現れなかった。だから、全部トム・ソーヤーの作り話だと思った。トムはアラブ人や象を信じてるんだろうけど、俺は違う。どう見たって日曜学校の仕業だ。

第四章

さて、三、四ヶ月が過ぎて、もう冬もだいぶ深くなった。俺はほとんどずっと学校に行ってて、少しばかり綴りや読み書きができるようになったし、九九も六の七まで――三十五まで――言えるようになった。たぶん一生かかってもそれ以上は無理だろう。まあ、算数なんか信じちゃいないけどな。

最初は学校が嫌でたまらなかったけど、そのうち慣れてきた。我慢できなくなるとサボったけど、翌日ぶん殴られると逆にスッキリした。通えば通うほど楽になってきた。未亡人のやり方にも慣れてきて、それほど苦にはならなくなった。家に住んでベッドで寝るのは苦しかったけど、寒くなる前はよく森へ抜け出して寝てたから、気が休まった。昔のやり方の方が好きだったけど、新しい暮らしも少しは好きになってきた。未亡人は、俺はゆっくりだけど確実に進歩してるし、とても満足だと言ってくれた。「あなたのことを恥ずかしいなんて思わないわ」と。

ある朝、朝食のとき塩入れをひっくり返してしまった。すぐに悪運を避けようと思って左肩越しに塩を投げようとしたけど、ミス・ワトソンが先に手を出して俺を止めた。「手をどけなさい、ハックルベリー。毎回こんなに散らかして」って。未亡人はかばってくれたけど、それで不運が避けられるはずもないと分かってた。朝食後、落ち着かなさと不安で胸が重くて、これから何が起きるか気にしながら出かけた。悪運を避ける方法もあるけど、今回はどうにもならなかった。だから、何もせず気分が沈んだまま、警戒しながら歩いていた。

俺は庭先に行って、高い板塀のところの踏み石をよじ登って越えた。地面には新雪が一インチ積もってて、誰かの足跡が見えた。石切り場の方から来て、踏み石の周りをしばらくうろついて、それから庭の塀沿いに進んでいた。不思議なのは、しばらく立ち止まってたのに中には入ってこなかったことだ。何だか妙だった。後を追おうと思ったけど、まず足跡をよく見ようとしゃがみ込んだ。最初は何も気づかなかったけど、すぐに分かった。左足のかかとに、大きな釘で十字が打たれてた。悪魔を遠ざけるための印だ。

俺は一瞬で立ち上がって、丘を駆け下った。時々振り返りながら、何も見えなかったけど、なるべく急いでサッチャー判事のところへ向かった。判事はこう言った。

「やあ、ハック。そんなに息を切らせて、どうしたんだ? 利息を取りに来たのか?」

「いえ、ありません」と俺は言った。「俺の分も何かありますか?」

「おお、あるとも。昨夜、半年ごとの分配金が入ったぞ――百五十ドル以上だ。お前にとっちゃ、ちょっとした財産だな。六千ドルと一緒に、私に預けて運用させたほうがいい。お前が持っていったら、どうせ使っちまうだけだからな」

「いえ、いりません」と俺は言った。「俺は使う気なんかないし、全然ほしくもない――六千ドルだっていらない。全部あなたに預かってほしいんです――六千ドルも何もかも」

彼は驚いた顔をした。どういうことか理解できない様子だった。そして言った。

「どういう意味なんだ、坊や?」

俺は言った。「何も聞かないでください。お願いです。とにかく預かってくれませんか?」

彼は言った。

「うーん、困ったな。何かあったのか?」

「どうか預かってください」と俺は言った。「何も聞かないで――それなら嘘をつかなくてもすむから」

彼はしばらく考えて、それから言った。

「ほう、なるほど。お前は全部の財産を私に『譲る』んじゃなくて、『売りたい』んだな。それが正しい手続きだ」

そう言って、彼は紙に何かを書き、読み返してから言った。

「ほら、ここに『対価をもって』と書いてあるだろう。つまり、私はお前から財産を買い取って、代金も払ったということだ。これがその一ドルだ。さあ、ここにサインしなさい」

だから俺はサインして、そこを出た。

ミス・ワトソンの黒人、ジムは拳ほどもある毛玉を持っていた。それは牛の四番目の胃から取り出したもので、ジムはそれで魔法を使っていた。ジムは、その中に精霊がいて、何でも知っていると言っていた。だからその晩、俺はジムのところへ行って、パプがまた戻ってきたことを話した。雪の上に足跡を見つけたからだ。俺が知りたかったのは、パプがこれからどうするつもりか、ここに居続けるのかどうかだった。ジムは毛玉を取り出して、何か呪文のようなことを言い、それを持ち上げて床に落とした。毛玉はどさっと落ちて、ちょっとだけ転がった。ジムはもう一度試し、それからまたもう一回やったが、毎回同じだった。ジムは膝をついて、耳を押し当てて聞こうとした。でも駄目だった。ジムは「金がないと言わないこともある」と言った。俺は、古くてつるつるの偽造クォーター硬貨が一枚あると言った。それは真鍮が銀の下から少し見えていて、どうやっても使い物にならないし、真鍮が見えなくても表面が滑らかすぎて油っぽく感じるので、すぐに偽物だとばれるものだった。(判事からもらった一ドルのことは黙っておいた。)俺は「すごく悪い金だけど、毛玉は違いが分からないかもしれないし、もしかしたら受け取るかも」と言った。ジムはそれを嗅いだり、噛んだり、こすったりして、「毛玉が本物だと思うようにうまくやる」と言った。あらかじめ生のアイリッシュポテトを半分に割って、その間にクォーターを挟んで一晩置けば、翌朝には真鍮が見えなくなり、油っぽさも消えるから、町の誰でも受け取ると言ったし、毛玉だって大丈夫だと。まあ、ポテトがそういうことできるってのは、俺も前から知ってたけど、忘れてた。

ジムはクォーターを毛玉の下に置いて、また耳を当てて聞いた。今度は毛玉がちゃんと話してくれると言った。ジムは「お前が望めば、お前の運命を全部教えてくれる」と言い、俺は「じゃあ頼む」と言った。すると毛玉がジムに語りかけ、ジムがそれを俺に伝えてくれた。ジムはこう言った。

「お前のおとっつぁんは、まだどうするか決めてへん。時々はどっか行こうと考えるし、また留まろうとも思う。まあ、気楽にして、あの親父の好きにさせるのが一番や。あの人のまわりには天使が二人おる。ひとりは白くて輝いてて、もうひとりは黒い。白い方が親父をしばらくの間、いい道に導くけど、黒い方がやってきて全部ぶち壊す。どっちが最後に親父を連れていくか、まだ誰にもわからん。でもお前は大丈夫や。お前の人生には結構な苦労も喜びもある。時々怪我したり病気したりするけど、そのたびに回復する。お前の人生には女の子が二人飛び回ってる。一人は色白で、もう一人は色黒や。一人は金持ちで、もう一人は貧乏や。最初は貧乏な方と結婚して、やがて金持ちの方と結婚することになる。それから、できるだけ水には近づかんほうがええ。無茶はあかん。なぜなら、運命に『お前は首吊りになる』と書いてあるからや」

その夜、ろうそくに火をつけて自分の部屋へ上がると、そこにパプが座っていた! 

第五章

俺はドアを閉めていた。それから振り返ると、そこにパプがいた。昔から、パプが俺をしょっちゅう殴っていたから、俺はいつもパプが怖かった。今も怖いと思っていたけど、すぐに自分の勘違いだと気づいた――と言うのも、最初の衝撃で息が止まりそうになったけど、あまりに突然だったからで、その後すぐに、もう前ほど怖くはないとわかった。

パプは五十歳近くで、その年相応に見えた。髪は長くてぼさぼさ、脂ぎっていて、ぶら下がるように伸びている。その髪の奥から、まるで蔦の向こうにいるみたいに、目がきらっと光っていた。髪もひげも全部真っ黒で、白髪はまじっていない。顔に色はなく、見えている部分は真っ白だ。他の人の白さとは違って、気持ち悪くなるような白さで、鳥肌が立つ、まるで木の上のヒキガエルとか魚の腹みたいな色だった。服といえば、ただのぼろきれ。片方の足首をもう一方の膝に乗せていて、履いているブーツは破れていて、二本の指が突き出ていて、それを時々動かしていた。帽子は床に落ちていて、古い黒いソフト帽だったけど、てっぺんがふにゃっと潰れていて、まるで鍋の蓋のようだった。

俺は立ったままパプを見ていた。パプは椅子を少し後ろに傾けて俺を見ていた。俺はろうそくを置いた。窓が開いているのに気づいた。きっとパプは物置の屋根から登ってきたんだろう。パプは俺の全身をじろじろ見ていた。しばらくして言った。

「おい、立派な服着てるじゃねえか。偉くなったつもりか、どうなんだ?」

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」と俺は言った。

「生意気言うな」とパプは言う。「俺がいない間に、ずいぶん小賢しい真似しやがって。お前の鼻をへし折ってやるぞ。教育まで受けたってな――読み書きができるそうだな。今じゃ父親より偉いと思ってるんだろう、俺ができないからって? その鼻っ柱、へし折ってやる。誰がそんなくだらんことに首突っ込んでいいって教えた? ――誰が許した?」

「未亡人だよ。未亡人がそうしろって」

「未亡人だと? で、未亡人に誰が他人のことに口出ししていいって教えた?」

「誰も教えてないよ」

「よし、未亡人にもお灸を据えてやる。それから――学校はやめろ、わかったな? 自分の息子に父親より偉そうにさせるような育て方、許さんぞ。今度また学校に行ってるのを見つけたら、ただじゃおかんぞ。お前の母親だって、死ぬまで読み書きできなかった。家族の誰もがそうだった。俺だってできねえ。なのに、お前は得意げに――俺は黙ってないぞ。いいか、ちょっと読んでみろ」

俺は本を手に取って、ワシントン将軍と戦争についての話を読み始めた。半分ほど読んだところで、パプは本を手で叩き落として、部屋の端まで飛ばした。そして言った。

「本当にできるんだな。お前が言ったときは疑ってたんだ。だが、もういい。いいか、もう偉ぶるのはやめろ。俺は許さん。覚えてろよ、このお利口さんめ。学校に近づいたら、ただじゃおかんぞ。しまいには宗教まで身につけるんじゃないか。こんな息子、見たことないぜ」

パプは青と黄色の牛と少年の絵を手に取って言った。

「これはなんだ?」

「勉強を頑張ったご褒美にもらったんだ」

パプはそれを破って言った。

「もっといいもんをやる――ムチだ」

パプはしばらくぶつぶつ文句を言って、それからこう言った。

「お前、いい身分だなあ? ベッドに寝て、シーツもかけて、鏡まであって、床にはカーペットも敷いてやがる――なのに、自分の父親はなめし場の豚と一緒に寝るしかない。こんな息子、見たことないぜ。見てろよ、こんな贅沢、すぐになくしてやるからな。お前は金持ちだって噂じゃないか。どういうことだ?」

「嘘だよ、そんなの」

「気をつけてしゃべれよ、俺はもう我慢の限界なんだ。生意気言うな。町じゅう、下流に行ったところでも、お前が金持ちだって話ばかり聞いた。だから俺は戻ってきたんだ。明日、俺に金を持ってこい――今すぐだ」

「お金なんか持ってないよ」

「嘘だ。サッチャー判事が預かってるんだろう。持ってこい。俺は欲しいんだ」

「ほんとに持ってないよ。サッチャー判事に聞いてみなよ、同じこと言うから」

「わかった。聞いてやるよ。絶対に金を引き出させてやる。で、今手持ちの金は? 全部よこせ」

「一ドルしかない、それも――」

「何に使おうが関係ねえ。出せ」

パプは一ドル札を受け取り、噛んで本物か確かめ、それから「今から酒を買いに行ってくる」と言った。一日中飲んでなかったそうだ。パプが物置の屋根に出たところで、また頭を出して「偉そうにすんな、父親より偉くなるな」と罵り、もう行ったかと思えば、また顔を出して「学校には気をつけろ。見つけたらぶっ飛ばすからな」と言った。

次の日、パプは酔っ払って、サッチャー判事のところへ乗り込み、金を渡せと脅したが、うまくいかなかった。そこで「法律の力で無理やりでも奪ってやる」と怒鳴った。

判事と未亡人は、裁判所に俺を引き取って自分たちのどちらかが後見人になれるよう訴えた。でも来たばかりの新しい判事は、パプのことを知らなかったので、「裁判所ができるだけ家族を引き離すべきではない」と言い、子どもを父親から引き離すのは気が進まないと言った。だからサッチャー判事と未亡人はこの件から手を引くしかなかった。

パプはそれがうれしくてたまらなかった。もし金を持ってこなかったら、俺を青あざになるまで殴ってやると言った。俺はサッチャー判事から三ドル借りて、それをパプに渡した。パプは酒を買って飲み、町じゅうで騒ぎ回り、鍋を叩きながら大声を上げ、夜中近くまで暴れて、ついに牢屋に入れられた。そして次の日、裁判所に出されて、また一週間牢屋に入れられた。でもパプは「これで満足だ。息子のボスは俺だ。これから厳しくする」と言った。

出所すると、新しい判事は「パプを真人間にしてみせる」と言い出した。自分の家に連れていって、きれいに着替えさせ、家族と一緒に朝食・昼食・夕食を食べさせ、とても親切に世話をした。それから夕食後、禁酒とかいろいろと語りかけて、パプは泣き、「これまで愚かだった。人生を無駄にしてしまったけど、これからは更生して立派な男になる。判事にも見放さないでほしい」と言った。判事はその言葉がうれしくて「抱きしめたいぐらいだ」と涙を流し、判事の奥さんもまた泣いた。パプは「これまでずっと誤解されてきた」と言い、判事も「その通りだ」と信じた。パプは「人生で落ちぶれた男に必要なのは同情だ」と言い、判事も「その通りだ」と答え、またみんなで泣いた。そして寝る時間になると、パプは立ち上がり、手を差し出して言った。

「見てくれ、紳士淑女のみなさん。この手を握ってくれ。これは以前は豚並みの手だったが、もう違う。新しい人生への一歩を踏み出した男の手だ。二度と元には戻らない。俺の言葉を忘れるな。今はきれいな手だから、握手してくれ――怖がらずにな」

みんなが順番にその手と握手し、泣いた。判事の奥さんは手にキスもした。それからパプは誓約書にサイン――というか、印をつけた。判事は「これほど神聖な時間はない」と言った。そしてパプは客間に寝かされ、夜中にひどく喉が渇いて、バルコニーの屋根から柱を伝って降り、新しいコートを酒一瓶に替え、また柱を登って戻り、さんざん飲んだ。夜明け近く、また外に出て、べろべろに酔っ払ったままバルコニーから転げ落ちて、左腕を二箇所折り、朝になって誰かに見つかったときには凍えかけていた。客間の中はというと、まるで航海する前に水深を測らなければならないほど、めちゃくちゃになっていた。

判事は腹を立てて、「あの男を更生させたいなら、猟銃でも使うしかなさそうだ」と言った。それ以外の方法は知らない、と。

第六章

さて、しばらくしてパプはまた元気になり、今度はサッチャー判事を訴えて金を渡せと迫り、俺にも学校をやめろと文句を言った。二度ほど捕まって殴られもしたが、俺はそれでも学校に通ったし、大体はパプをうまくかわしたり、逃げ切ったりしていた。前はあまり学校に行きたくなかったが、今ではパプへのあてつけで通ってやろうと思った。その裁判はなかなか始まらず、進展もなかったので、時々サッチャー判事から二、三ドル借りてパプに渡し、ムチを免れていた。パプは金を手に入れるたびに酒を飲み、酔うたびに町で大騒ぎしては牢屋に入れられた。これがパプにはぴったりの暮らしだった。

パプは未亡人の家にも入り浸るようになり、ついに未亡人は、「これ以上うろつくなら、警察沙汰にする」と言い渡した。パプは怒り狂って、「誰がハック・フィンの親分か見せてやる」と言い、ある春の日、俺の隙をついて捕まえ、川を三マイルほど上流まで小舟で連れていき、イリノイ側の森で、誰も家のない場所にあった古い丸太小屋に連れ込んだ。そこは木が生い茂っていて、場所を知らなければ見つけられないような場所だった。

パプは俺を一日中そばに置き、逃げ出す隙を与えなかった。俺たちは小屋で一緒に暮らし、夜になるとパプはドアに鍵をかけて、その鍵を頭の下に置いて寝た。銃も一本あって、たぶん盗んできたものだと思う。魚を釣ったり狩りをしたりして、それが主な食料だった。時々、パプは俺を小屋に閉じ込めて、三マイル離れた店まで行き、魚や獲物をウイスキーと交換して持ち帰り、飲んでは大騒ぎして、俺を殴った。やがて未亡人も俺の居場所を突き止めて、誰か男をよこして俺を連れ戻そうとしたが、パプは銃で追い返した。それからしばらくして、俺もこの暮らしに慣れ、むしろ気に入るようになった――ムチだけは嫌だったが。

一日中ごろりと寝転んで、煙草をふかしたり釣りをしたり、本もなければ勉強もない、のんびりして陽気な毎日だった。二ヶ月かそれ以上そんな日が続いて、俺の服はすっかりぼろぼろで泥だらけになった。未亡人の家で、洗濯しなきゃならないし、皿で食事して身なりを整え、決まった時間に寝起きして、いつも本のことで頭を悩ませて、ミス・ワトソンが絶えず小言を言ってくる、あんな暮らしがどうして好きになれたのか、今では全然分からなかった。もうあそこに戻りたくなんかなかった。未亡人が嫌がるから悪態をやめてたけど、今じゃパプは何も言わないから、また悪態をつくようになった。森の中の生活は、全体的に見れば悪くなかった。

だが、そのうちパプがヒッコリー棒をやたら使うようになって、俺はとうとう我慢できなくなった。体中がみみず腫れだらけだった。パプは出かけることも多くなり、俺を閉じ込めるようになった。あるときは三日間も閉じ込められたままだった。ひどく心細かった。パプはきっと溺れ死んだんだ、もう二度と外には出られないんだと思った。怖かった。なんとかしてここを出ようと決心した。小屋から抜け出そうと何度も試したが、方法が見つからなかった。犬でも通れないような小さな窓しかない。煙突も狭すぎて上れない。扉は分厚いオーク材でできていた。パプは外出するとき、ナイフとか道具は絶対に小屋に置いていかなかった。俺はたぶん百回くらい部屋じゅう探し回ったと思う。ほとんどの時間をそれに費やしていた、他にやることもなかったからだ。でも今回はついに見つけた。柄のない錆びついた古い木挽きノコギリが、屋根の梁と板の間に挟まっていた。油を差して使えるようにして、作業に取りかかった。小屋の奥のテーブルの後ろには、風が隙間から入ってロウソクが消えないよう、古い馬用毛布が釘で打ち付けてあった。俺はテーブルの下に潜り込んで毛布を持ち上げ、床の一番下にある太い丸太の一部を、俺が通れるくらいの大きさに切り取ることにした。なかなか大変な作業だったが、もう終わりに近づいたころ、森の中からパプの銃声が聞こえた。作業の痕跡を全部隠し、毛布を元に戻し、ノコギリも隠した。間もなくしてパプが戻ってきた。

パプは機嫌が悪かった――つまりいつも通りだった。町に行ってきたが、何もかも上手くいかないと言った。弁護士は、もし裁判が始まれば訴訟に勝って金を手にできるだろうと言ったけど、その裁判を延期する方法はいくらでもあるし、サッチャー判事はそれをよく心得てるとも言った。それに、今度は俺をパプから引き離して、未亡人に後見人をさせるための新しい裁判を起こすつもりらしい、しかも今回は未亡人側が勝つだろうとみんなが言ってるらしかった。この話には本当に動揺した。俺はもう未亡人の家に戻って、あんなに窮屈で“文明化”された暮らしなんて、まっぴらごめんだったから。それからパプは悪態をつき始めた。思いつく限りのものや人間に悪態を浴びせ、それが全部終わると、今度は全員をまとめて罵って、まだ名前を知らない連中には“なんとかさん”と呼びながら、どこまでも罵り続けた。

パプは、未亡人が俺を引き取るところなんて見てみたいもんだ、と言った。見張っていて、もしそんな真似をされたら、六、七マイル離れたところに俺を隠して、誰が探そうと絶対に見つけられないようにしてやる、とも言った。これでまた不安になったが、それもほんの一瞬だけだった。俺は、パプがそうする前に、ここを出てやるつもりだった。

パプは俺にボートまで行って、自分が買ってきたものを運んでこいと言った。中身は、二十五キロのトウモロコシ粉の袋、ベーコンの塊、弾薬、十五リットル入りのウイスキーの壺、それに古い本と新聞が二部、火口用の麻くずもあった。俺は荷物を運び上げて、ボートの船首に座って一休みした。いろいろ考えた末、銃と釣り糸を持って森に逃げようと決めた。逃げるとき、一箇所にとどまるより、夜に歩き回って狩りや釣りで食いつなぎながら、パプにも未亡人にも決して見つけられないくらい遠くまで行ってやろうと思った。その夜、パプが十分酔っ払ったら、ノコギリで抜け出すつもりだった。そう考えるうち、どれだけ時間が経ったかも気にせずにいたら、パプが怒鳴り始めた。「お前、寝てんのか、それとも溺れたのか」って。

荷物を全部小屋まで運ぶと、ちょうど暗くなり始めていた。俺が夕飯を作っている間、パプはウイスキーを二口三口飲んで気分が良くなってきたのか、また悪態を始めた。町で酔いつぶれて側溝で一晩寝ていたそうで、見るも無残な有様だった。まるでアダムかと思うほど泥だらけだった。酒が効き始めると、決まって政府の悪口が始まる。今回もこう言い出した――

「これが政府だと? 見てみろよ、どんなもんか。法律が、男の息子を取り上げようとしてる――自分で苦労して心配して金かけて育てた、自分の息子だぞ。それをやっと大きくなって、これから親の役に立つようになるってときになって、法律が口を出してくる。それでこれが政府だって言うのか? それだけじゃない。法律はあのサッチャー判事の味方をして、俺が自分の財産を手に入れられないようにしてる。法律ってやつは、六千ドルも持ってる人間を、こんなみすぼらしい小屋に閉じ込めて、豚にも着せられないような服を着させてる。こんなのが政府と言えるか! こんな政府じゃ人権なんか守られやしない。たまに本気でこの国を出てやろうかと思うんだ。実際そう言ったんだぞ、サッチャーにも面と向かって言った。大勢が聞いてたから、俺の言ったことを言えるはずだ。二セントもらえりゃ、こんなクソみたいな国なんかとっとと出て行って二度と戻らないぞってな。これがそのときの言葉さ。俺の帽子を見てみろ――帽子って呼べるもんかどうか――蓋は上に跳ねて、他は顎の下まで下がっちまってる。帽子ってより、ストーブの煙突を頭から突き抜けたみたいだ。こんな帽子をかぶってる俺――もし権利があれば、この町で一番の金持ちのはずなのによ。

「おお、なんて素晴らしい政府だろうな、素晴らしいよ。ほら見てみろ。オハイオから来た自由黒人がいてな――ほとんど白人みたいに明るい肌のやつだ。着てるシャツは真っ白で、帽子もピカピカだ。町の誰より立派な服を着てるし、金の時計に鎖、銀の頭の杖――州一番のご立派なジジイだ。それだけじゃない。そいつは大学の先生だそうで、色んな言葉も話せるし、なんでも知ってるらしい。だが最悪なのは、家にいれば投票もできるって話だ。そりゃ俺も頭にきた。国も終わりだな、ってな。ちょうど選挙の日だったんだけど、酔っ払いすぎて行けなかった。でも、あんな黒人に投票権がある州があると聞いて、俺はもう二度と投票はしないって言ったんだ。これが俺の言葉さ、みんな聞いてた。国なんかどうなったって知るか――もう生きてる限り二度と投票しないつもりさ。そいつのふてぶてしい態度ったら――もし俺が無理にどかさなきゃ、道だって譲らなかっただろうよ。俺はみんなに聞いたんだ、なんであいつは競売にかけて売られないんだ? ってな。そしたら、州内に六ヶ月いないと売れないって言うじゃないか。まだそこまで経ってなかったんだとさ。ほら見ろ、これが政府ってもんだ。六ヶ月も州にいないと自由黒人は売れないなんて、そんなのが政府かよ。自分を政府だと名乗ってるくせに、白いシャツ着た自由黒人一人に手を出すのに、六ヶ月もじっと待ってなきゃいけないんだぞ、それで――」

パプは止まらずにしゃべってたから、足元が見えず、塩漬け豚の樽につまずいて両足のすねを打った。残りの演説は、今までで一番激しい罵詈雑言になった――主に黒人と政府、それから途中で樽にも悪態をつきながら。小屋の中を、片足ずつ交互に跳ね回り、すねを押さえながら飛び回った挙げ句、左足で勢いよく樽を蹴飛ばした。だがそれは悪手だった。ブーツの先は穴があいていて、指が二本飛び出していたから、ものすごい叫び声を上げて床に転げ回り、足の指を押さえながら悶え苦しんだ。そのときの悪態は、今までで最高だったと本人も後で言っていた。ソウベリー・ヘイガンの全盛期の悪態さえ上回ると言っていたが、それはちょっと自慢しすぎだろう。

夕飯のあと、パプはウイスキーの壺を手に取り、「こりゃ二回分の泥酔と一回分の発狂(幻覚)ができる量だ」と言った。これがいつもの決まり文句だった。俺は一時間もすればパプはぐでんぐでんになると思い、そのすきに鍵を盗むかノコギリで抜け出すか、いずれかに決めていた。パプは飲み続け、やがて毛布の上に倒れこんだ。でも運は俺には味方しなかった。パプは熟睡せず、うめき声をあげたり、体をねじらせたり、あちこち転げ回ったりして、なかなか寝つかなかった。俺の方は、眠気に勝てず、気づいたときにはうっかり眠り込んでいた。ロウソクはまだ燃えていた。

どれくらい眠っていたか分からないが、突然ものすごい叫び声がして、俺は飛び起きた。パプは目を血走らせ、辺りを飛び跳ねて、蛇が足に這い上がってくると叫んでいた。飛び上がっては悲鳴を上げ、今度は頬を噛まれたと言う――でも蛇なんて見えなかった。パプは、首を噛まれると叫びながら、小屋の中をぐるぐる走り回った。あんな目の色をした人間は見たことがない。やがて息が切れて倒れ、ものすごい速さで転げ回り、あちこちのものを蹴飛ばし、手で空をかきむしりながら、悪魔に取りつかれたと叫んでいた。やがて力尽きてしばらく静かに横たわり、うめき声をあげた。そしてさらに動かなくなり、完全に無音になった。遠く森からフクロウや狼の声が聞こえ、恐ろしいほど静かだった。パプは隅の方で横になっていた。そのうち半身を起こし、首を傾けてじっと耳を澄ませ、低い声でこう言った。

「トントン……トントン……あれは死人だ……トントン……トントン……俺を迎えにきてる。でも俺は行かないぞ。ああ、来た! 触るな――触るな! 冷たい、放せ、頼む、可哀想な悪党を放しといてくれ!」

それから四つん這いになって這い出し、頼むから放してくれと叫びながら、毛布にくるまって古い松のテーブルの下にもぐり込み、泣き出した。毛布越しに泣き声が聞こえた。

そのうち毛布から転げ出てきて、立ち上がるとまた目を血走らせて俺を見つけ、襲いかかってきた。小型ナイフを手に「死の天使め、お前を殺せばもう俺を迎えに来られないぞ」と叫びながら、俺を追い回した。俺は命乞いし、「俺はハックだ」と言ったが、パプは金切り声で笑い、怒鳴り、罵り、俺を追い詰め続けた。一度、俺が急に身をかわしてパプの腕の下をくぐったとき、パプは背中のジャケットをつかんだ。俺はもうだめかと思ったが、稲妻のようにジャケットを脱ぎ捨て、どうにか逃げおおせた。やがてパプは疲れ果て、扉にもたれて座り込んだ。「ちょっと休んだらお前を殺す」と言いながら、ナイフを体の下に隠し、「寝て力をつけたら誰が強いか分かるぞ」と言った。

やがてパプはうとうとし始めた。俺は古い割れ底の椅子を静かに持ってきて、できるだけ音を立てないようにして登り、銃を手に取った。銃身にラマー棒を通して装填されているか確かめ、カブの樽の上にパプに向けて据え、自分はその後ろに座って、パプが動くのをじっと待った。だが、その時間の流れ方の遅いことといったらなかった。

第七章

「起きろ! 何してんだ?」

俺は目を開けて周りを見渡し、ここがどこか考えた。日はすっかり昇っていて、俺はぐっすり眠っていた。パプが俺の上に立って、しかめっ面でしかも気分の悪そうな顔をしていた。パプは言った。

「その銃で何してやがる?」

パプは自分が昨夜何をしていたのか全然覚えていないようだったので、俺はこう答えた。

「誰かが入ってこようとしたから、待ち伏せしてたんだ。」

「だったら俺を起こさねえのはなんでだ?」

「起こそうとしたんだけど、ダメだった。いくら揺すっても全然起きなかったんだ。」

「まあいい。いつまでもウダウダしてないで、さっさと外に出て釣り糸に魚がかかってるか見てこい。俺もすぐ行く。」

パプはドアの鍵を開け、俺は川沿いに駆け上がった。川には枝や木の皮が流れていて、水かさが増しているのが分かった。もし町にいれば、今頃面白いことになってただろう。六月の増水は、いつも俺にとって幸運だった。増水が始まると、薪用の丸太や木筏の切れ端――ときには十本以上の丸太が一度に流れてくる。そういうのを捕まえて、薪屋や製材所に売ればいい。

川岸を歩きながら、片方の目ではパプを、もう片方では流れてくるものを見張っていた。すると突然、カヌーが一艘流れてきた――しかも見事なやつで、長さは四メートルちょっと、アヒルみたいに水面に軽やかに乗っている。俺はカエルみたいに岸から頭から飛び込んで、服のままカヌーに泳ぎ着いた。誰かが寝そべっているかと思った――よく人がそれで他人をだますからだ。舟の近くまで引き寄せると、急に起き上がって笑うんだ。でも今回は違った。本当に流れ着いたカヌーだった。俺はよじ登って岸まで漕いでいった。これはパプも喜ぶだろう――十ドルはする代物だ。でも岸に着いたとき、パプの姿は見えなかった。それで俺はカヌーをツタやヤナギの茂った小さな川筋に隠すことにした。逃げる時、森に駆け込む代わりに、このカヌーで川を五十マイルほど下り、どこか一箇所に根を下ろせば、歩き回らずに済むと思いついたのだ。

小屋からも近い場所だったので、パプがいつ来るか気が休まらなかったが、どうにかカヌーは隠せた。それからヤナギの茂み越しに様子を見に行くと、パプが道の先で銃で鳥を狙っているところだった。何も気づいていないようだ。

パプが戻ってきたとき、俺は「トロットライン」(延縄釣り)を引き上げている最中だった。パプは俺が遅いと少し文句を言ったが、俺は「川に落ちて濡れたから時間がかかった」と言った。どうせ服が濡れてるのを見て、質問攻めにされるだろうからな。俺たちは釣り糸からナマズを五尾取り上げて、家に帰った。

朝飯のあと、俺たちはぐったり疲れ果ててたから、ひと眠りしようとごろごろしてた。そうしてるうち、もし俺がパプや未亡人が俺のあとを追ってこれないように細工できたら、運にまかせて逃げおおせるよりずっと確実じゃないかって考えついた。だって、いろんなことが起きるかもしれないからな。しばらくは何も思いつかなかったけど、やがてパプが水をもう一樽飲もうとちょっと起き上がって、こう言ったんだ。

「次に誰かがここらをうろついてたら、ちゃんと俺を起こせよ、いいな? あいつはろくな奴じゃなかった。もし起きてたら撃ってやったのに。今度は必ず起こせ、いいな?」

そう言うとまた寝ちゃったけど、その言葉がまさに俺の欲しかったヒントをくれた。これで誰にも追いかけられずにすむだろう、と心の中で思った。

正午ごろ、俺たちは起きて岸を歩き出した。川はどんどん増水してて、流木が山ほど流れていた。そのうち丸太筏の一部――九本の丸太がくくりつけてあるやつ――が流れてきた。俺たちはスキッフで漕ぎ出して、それを岸に引き上げた。それから昼飯を食った。パプじゃなきゃ、その日はもう少し様子を見て、もっと何か拾えるかもしれないから待つところだけど、あいつのやり方は違う。九本もあれば十分、さっさと町へ持ってって売らなくちゃ気がすまない。だから俺を家に閉じ込めて、スキッフを持って出かけていった。筏を引っぱって三時半ごろ出ていったから、その晩は戻らないだろうと俺は踏んだ。パプが十分遠くへ行ったと思ったころ、俺はノコギリを取り出してまた丸太に取りかかった。パプが川の向こう岸に着く前に、俺は穴から抜け出せた。パプと筏は、もう水の向こうに小さくなって見えなくなってた。

俺はコーンミールの袋を持ってカヌーの隠し場所まで行き、ツタや枝をどかしてそこに入れた。同じようにベーコンの塊も、ウイスキーの壺も運んだ。コーヒーも砂糖も全部持ち出したし、弾薬もワタも持ってきた。バケツとヒョウタン、柄杓とブリキのカップ、古いノコギリに毛布を二枚、フライパンとコーヒーポットも。釣り糸やマッチ、そのほか金目のものは全部持ち出した。全部きれいに運び出した。斧も欲しかったけど、薪小屋にある一つしかなくて、それは置いていく理由がわかってた。最後に銃を持ち出して、これで準備完了だ。

穴から這い出したり、荷物を引きずり出したりして地面がかなりすり減ってたから、外から見てわからないように砂埃をまいて、滑らかな地面とノコギリ屑を隠した。それから元の丸太を戻して、下に石を二つ、横に一つ置いて浮かないように押さえた。そこだけ丸太が反り上がってて地面に付いてなかったけど、四、五歩も離れて見れば、切ったことなんて気付かない。だいいち、ここは小屋の裏側で、誰もわざわざ近寄ってくるような場所じゃない。

カヌーまで草が生い茂ってて足跡も残ってなかった。念のためあとをたどってみたけど大丈夫だった。岸辺に立って川を見渡した。全部無事。俺は銃を持って森の奥へ入り、鳥を探して歩き回っていたら、野生のブタを見つけた。あの辺じゃ、豚は農場から逃げるとすぐ野生化してしまう。俺はそいつを仕留めてキャンプへ持ち帰った。

斧を取ってドアをぶち破った。何度も叩きつけてしっかり壊した。豚を家に持ち込み、テーブルのそばで斧で喉を裂いて血を流した。床っていっても、板じゃなくて固い地面だったから「地面」と言うべきだな。さて、次に古い袋に大きな石を目一杯詰めて、それを豚のところからドアまで引きずり、森を抜けて川まで運んで放り込んだ。袋は沈んで見えなくなった。引きずったあとが地面にくっきり残ってた。トム・ソーヤーがそばにいてくれたらなと思ったよ。ああいうのが好きなやつだから、きっと面白がって凝った仕掛けもしてくれるだろうし、トムほどこういう時に張り切るやつはいない。

そんで最後に、自分の髪を少し抜いて斧にしっかり血を付けて、裏手にくっつけてから、斧を部屋の隅に放り投げておいた。豚を持ち上げて上着で押さえつけて(血が垂れないようにして)家からだいぶ下流まで運んでから川へ投げ込んだ。さらに思いついたことがあって、カヌーからミールの袋とノコギリを家に持ってきた。袋を元あった場所に置いて、ノコギリで底に穴を開けた。ナイフやフォークなんてここにはなくて、パプはいつも料理にも折りたたみナイフしか使わなかったからな。それから袋を草原を百ヤードばかり東へ、柳の茂みを抜けて、五マイルもある浅い湖まで運んでいった。湖はラッシュに覆われていて、時期になればアヒルでいっぱいだ。湖の向こう側には沼か小川があって、どこまでも続いていたが、川にはつながっていなかった。ミールは袋からこぼれて、湖まで道しるべになった。ついでにパプの砥石も湖に落として、偶然そうなったように見せかけた。それから袋の裂け目を紐で縛ってミールが漏れないようにし、ノコギリと一緒にまたカヌーに戻した。

もう暗くなってきてた。俺はカヌーを川下に流して、岸に垂れ下がる柳の下に隠した。柳にしっかり括りつけて、何か食べてから、カヌーの中で横になってパイプをくゆらせながら計画を練った。これで、やつらは袋に詰めた石ころの跡を川岸まで追いかけてくるだろうし、川で俺の死体を引き上げようとするに違いない。それからミールの跡をたどって湖まで行き、そこから流れ出す小川を下って、俺を殺して物を奪った強盗を探そうとするだろう。川では俺の死体以外探しはしない。そのうち飽きて、俺のことなんて気にしなくなるはずだ。よし、これでどこでも好きな場所でやっていける。ジャクソン島がちょうどいい。あそこなら勝手知ったる場所で、誰も来やしない。夜になったら町まで漕いでいって、欲しいものをこっそり拾ってくればいい。ジャクソン島こそ俺の場所だ。

俺はくたびれてて、気がついたら寝てしまっていた。目が覚めたとき、しばらくどこにいるかわからなかった。ちょっと怖くなって、起き上がってあたりを見回した。そのときようやく思い出した。川はどこまでも広がっているようだった。月明かりがあまりに明るくて、流れていく流木を何本も数えられた。全部が静まり返って、遅い夜で、しかも夜の匂いがした。どう言ったらいいかわからないけど、あの感じだよ。

大きく伸びをして、さあ出発しようかというとき、水の上の遠くから音が聞こえてきた。耳を澄ました。しばらくしてわかった。夜の静けさの中で、オールが舵受けに当たる鈍い規則的な音だった。柳の枝越しにのぞくと、向こうにスキッフが一艘見えた。何人乗ってるかはわからなかった。スキッフは近づいてきて、俺の真横を通ったとき、乗っているのは一人だけだとわかった。もしかしてパプかも、と一瞬思ったが、まさかと。だが、スキッフは流れに乗って俺の下流へ進み、やがて岸に沿って漕ぎ上がってきた。すぐ近くを通ったとき、手を伸ばせば銃で触れそうな距離だった。本当にパプだったし、酔ってもいなかった。オールのさばき方でわかった。

俺はすぐさま動いた。次の瞬間には、岸の陰を静かに素早く川下に漕ぎだしていた。二マイル半ほど下ったところで、今度は川の中央に四分の一マイルほどこぎ出した。もうすぐ渡し場を通り過ぎるところで、人に見つかって呼び止められるかもしれなかったからだ。流木が浮かぶ中にカヌーを滑り込ませ、底に寝そべって流れに任せた。

しばらくそこでゴロゴロしながら、パイプをくゆらせてゆっくり休んだ。空には雲ひとつなかった。月明かりの中で仰向けになって空を眺めると、空がこんなに深いものだとは知らなかった。水の上だと、夜はどれだけ遠くまで音が聞こえるものかも。その渡し場では、人の話し声が聞こえてきた。それも、何を言ってるか全部わかった。一人が「これからは昼が長くて夜が短くなるな」と言った。もう一人は「今夜は短い方じゃないな」と返してふたりで笑った。それからまた同じことを繰り返して笑って、さらにもう一人を起こして同じ話をしたけど、そいつは笑わずにきつい言葉で「放っといてくれ」と言い、最初の男は「うちの女房にも話すつもりだ」と言ったが、あいつは「たいした話じゃない、自分が昔言ったことの方がもっとすごいぞ」と言っていた。誰かが「もう三時か、夜明けまで一週間くらいしかなきゃいいんだけどな」と言った。それから声はだんだん遠ざかり、内容は聞き取れなくなったけど、ざわめきや時々の笑い声はまだかすかに聞こえた。

もう渡し場もずいぶん下流まで来てた。俺が起き上がると、そこにはジャクソン島があった。川下二マイル半、川の真ん中にこんもりと木が生い茂って、灯りのない蒸気船みたいに大きく黒々と浮かんでいた。島の先の砂州はもう水に沈んで見えなかった。

すぐに島に着いた。島の先端を猛烈な勢いで通り過ぎ、流れが静かなところでイリノイ側の岸に着いた。知ってるくぼみにカヌーを入れて、柳の枝をかき分けて隠した。そのままじゃ外からカヌーは見えなかった。

島の端の丸太に腰かけて、大きな川と黒い流木、それに三マイル向こうの町に灯る三つか四つの明かりを眺めた。上流の方には巨大な木材筏が一つ、真ん中にランタンを灯してゆっくり迫ってきていた。筏がちょうど俺の前あたりに来たとき、「スターンオールだ! 舳先を右舷へ!」と男の声がはっきり聞こえた。まるで隣で言われたみたいに。

空が少し白み始めていたので、森の中に入って朝飯前にひと眠りした。

第八章

目が覚めたら、太陽が高く昇っていて、たぶん八時は過ぎてただろう。草の上で、木陰の涼しいところで寝そべって、いろんなことを考えながら、すっかり疲れも取れて心地よく満ち足りた気分だった。木の隙間から太陽が見えたりもしたが、ほとんどは大きな木々に囲まれていて、あたりは薄暗かった。葉の間からこぼれる光が地面に斑点を作っていて、その斑点が少し動いているのを見て、上の方ではかすかに風が吹いているのがわかった。リスが二匹、枝に座って俺に親しげにしゃべりかけてきた。

俺はものすごく怠け心が湧いてきて、心地よすぎて、朝飯を作ろうなんて気になれなかった。もう一度うとうとしかけたとき、川上の方から「ドーン!」という深い音が聞こえてきた気がした。跳ね起きて、肘をついて耳を澄ませると、しばらくしてまた同じ音がした。飛び起きて、葉っぱの隙間から川をのぞくと、かなり上流――ちょうど渡し場のあたり――の水面に煙が溜まっているのが見えた。フェリーボートが人をいっぱい乗せて流れていた。何が起きてるかすぐにわかった。「ドーン!」とボートの横から白い煙が噴き出した。やつらは大砲を撃って、俺の死体を水面に浮かせようとしてるんだ。

ひどく腹が減ってたけど、火を焚くわけにはいかなかった。煙を見られたら困るからな。だから、ただ座って大砲の煙を眺めたり、爆音を聞いたりしていた。川幅は一マイルもあって、夏の朝はいつもきれいに見える――食べ物さえあれば、俺の「遺体」を探しているやつらを眺めているのも悪くなかった。そうだ、パンに水銀を入れて流すと、必ず溺死体のところで止まるって話を思い出した。だから、もしパンが流れてきたら捕まえてやろうと思って、島のイリノイ側へ移った。そしたら案の定、でかい二斤パンが流れてきて、長い棒で掬おうとしたけど、足が滑って届かなかった。もちろん、流れが岸に一番近く寄っている場所を選んで待っていたのさ。そのうちもう一つ流れて来て、今度はうまく取れた。栓を抜いて水銀を取り出し、すぐにかじりついた。いわゆる「ベーカリーのパン」――お偉方が食うやつだ。安物のコーンパンじゃない。

葉っぱの間のいい場所で、丸太に腰かけてパンをかじりながらフェリーボートを見て、満足していた。ふと、こう思った。未亡人や牧師さんあたりが、このパンが俺を見つけてくれるようにってお祈りしたんだろうな、で、実際その通りになった。やっぱり、ああいう人たちが祈れば何かしら効き目があるもんなんだろう。でも俺には効かないし、やっぱり「選ばれた人」にしか効かないんだって思った。

パイプに火をつけて、ゆっくり長い一服を楽しみながら様子をうかがっていた。フェリーボートは流れに乗っていたから、そのうち近くを通るときに誰が乗ってるか見られるだろうと思った。パンが流れ着いたのと同じくらい岸に寄って通るはずだ。ボートがこっちに近づいたとき、パイプを消してパンを拾った場所に行き、岸辺の丸太の陰に伏せた。その丸太が二又になっていたので、そこから覗き見できた。

やがてボートが流れてきて、ほんのすぐそばまで寄ってきた。板を渡せば岸に降りられるくらいの距離だ。ほとんど全員がボートに乗っていた。パプ、サッチャー判事、ベッシー・サッチャー、ジョー・ハーパー、トム・ソーヤー、それにトムのポリーおばさん、シドやメアリー、それから他にもたくさん。みんな殺人事件の話をしていたけど、船長が遮ってこう言った。

「よく見張れよ。ここは流れが一番岸に近いから、岸に打ち上げられて藪に引っかかってるかもしれんからな。そうならいいんだが。」

俺はぜんぜんそう思わなかった。みんなが身を乗り出して俺の顔のすぐそばで見張ってて、じっと黙って必死に探してる。俺からはみんなの顔がよく見えたが、向こうからは全然見えなかった。すると船長が叫んだ。

「下がれ!」と。その瞬間、目の前で大砲が轟いて、音で耳が遠くなりそうだし、煙でほとんど目が見えなくなるところだった。あれで弾が入ってたら、本当に「死体になって」見つかったかもしれない。だが、俺は無事だった。ありがたいことだ。ボートはそのまま流れていき、やがて島の肩越しに見えなくなった。大砲の音も時折遠くで聞こえたが、一時間もするとまったく聞こえなくなった。島は三マイルもあるから、きっと下まで行って諦めたんだろうと思った。だが、そうじゃなかった。ボートは島の下流でUターンし、ミズーリ側の水路をエンジンで逆上りしながら、時々またドーンと撃っていた。俺はそっち側に渡って見張った。島の上流あたりまで来たとき、撃つのをやめてミズーリの岸に寄せて町へ帰って行った。

もうこれで大丈夫だった。これ以上誰も俺を探しにくる奴はいない。カヌーから荷物を降ろして、森の奥に立派なキャンプを作った。毛布でテントみたいなものをこしらえて、雨をしのげるようにした。ナマズを釣り上げてノコギリでさばき、夕方にはキャンプファイヤーを焚いて晩飯にした。そのあと釣り糸を仕掛けて、朝飯用の魚を狙った。

暗くなってから、俺は焚き火のそばに座って煙草をふかし、まあまあ満足した気分でいた。でもそのうち、なんだか寂しくなってきて、岸に出て流れの音を聞きながら、星や流れてくる丸太や筏を数えて、そのあと寝た。寂しいときは、時間をつぶすにはこれ以上のやり方はない。ずっとそうしてはいられないし、そのうち気がまぎれるものだ。

そうやって三日三晩が過ぎた。変わり映えのしない、同じことの繰り返しだった。けど、その次の日、俺は島の下の方まで探検に出かけた。俺がこの島の主で、全部が俺のものと言ってもいいくらいだったし、島のことを全部知りたかった。でも、まあ一番の目的は時間つぶしだった。いくらでもイチゴがあって、熟しててうまそうだったし、青い夏ぶどうや青いラズベリーもあった。ブラックベリーも青いままで、ちょうどなり始めたところだった。きっとそのうち役に立つと思った。

で、俺は銃を持って深い森の中をぶらぶら歩いていた。だけど何も撃ってはいない。銃は護身用だったし、家の近くで何か獲物を撃とうと思ってたんだ。そんなとき、危うくでかいヘビを踏みそうになった。そいつは草と花の中を滑るように逃げていって、俺は銃で狙おうと追いかけた。急いで走っていったら、いきなりまだ煙がくすぶっている焚き火の跡に飛び出してしまった。

心臓が肺まで飛び上がった。これ以上見ている余裕なんてなくて、銃の撃鉄を戻して、つま先立ちでできるだけ静かに引き返した。時々、茂った葉の中で立ち止まって耳を澄ませたけど、自分の息が荒すぎて他の音なんて聞こえやしなかった。もう少し進んではまた耳を澄まし、そんなことを何度も繰り返した。切り株を見つけるとそれが人に見えてしまうし、木の枝を踏み折ったりしたら、息を誰かに半分に切られたみたいな気がして、その半分しか吸えない感じになった。

キャンプに戻ったとき、俺は全然元気じゃなかったし、いくらも度胸なんて残っていなかった。でも、こんなときにうろうろしてる場合じゃないとも思った。だから、道具を全部カヌーに積み込んで隠し、火を消して灰をまき散らして、去年の古いキャンプ跡みたいに見せかけてから、木に登った。

俺は木の上に二時間はいたと思う。でも何も見えなかったし、何も聞こえなかった。ただ、「見えた」「聞こえた」と思ったものが千もあっただけだ。まあ、いつまでも木の上にいるわけにもいかない。だからついに下りたけど、ずっと森の茂みの中から警戒して動いた。食えるものはベリーと朝飯の残りだけだった。

夜になる頃には、だいぶ腹が減っていた。だから、すっかり暗くなってから月が出る前に岸を離れ、カヌーでイリノイ州側の岸まで漕いで行った。四分の一マイルくらいだ。森の中に入って夕飯を作って、今夜はここで寝ようとほぼ決めていたときに、「プランケティ・プランク、プランケティ・プランク」と音がして、俺は「馬が来る」と思った。次に、人の声も聞こえた。俺は急いで荷物をカヌーに詰め込んで、森を這うように抜けて様子を探りに行った。あまり進まないうちに、男がこう言うのが聞こえた。

「ここにいい場所があればキャンプしようぜ。馬はもうバテバテだ。ちょっと見て回ろう。」

俺は待たずにその場を離れて、そっと漕ぎ出した。元の場所にカヌーを繋いで、今夜はカヌーで寝ることにした。

ほとんど眠れなかった。なぜだかどうしても眠れず、目が覚めるたびに誰かに首を掴まれたような気がした。だから寝ても全然疲れがとれなかった。そのうち俺は、「こんなことじゃ生きていけない。島にいるのが誰か、突き止めてやる。それができなきゃ死んでもいい」と思った。そう思ったら、急に気が楽になった。

それで俺はパドルを持って岸からちょっとだけ漕ぎ出し、カヌーを影の中にすべり込ませて流した。月の光が明るくて、影から出ると昼間みたいに見えた。岩みたいに静かな夜で、まるで世界中が眠っているみたいだった。そうして一時間くらいも進んだ頃、俺はほとんど島の下流まで来ていた。そよ風が吹きはじめて、それは夜明けが近い合図みたいだった。パドルで向きを変えて岸に鼻先をつけ、銃を取って森の端っこに忍び込んだ。倒木の上に座って葉の間から様子をうかがった。月が沈んでいって、川が闇に包まれていく。でもしばらくすると、木の上にうっすらと白んだ筋が見えて、夜明けだと分かった。だから銃を持って、あの焚き火の跡のあたりへ向かって、数分ごとに立ち止まって耳を澄ませながら進んだ。でもなぜかうまく場所がわからなかった。だがそのうち、本当に、木立ちの向こうに火がちらっと見えた。俺は用心深く、ゆっくりと近づいた。やがて十分近づいて、様子がわかる距離になった。そこには男が地面に横たわっていた。もう、気を失いそうだった。男は毛布を頭にかぶせていて、ほとんど火に顔を突っ込むくらいだった。俺は茂みの陰から、六フィートくらい離れた場所でじっと見張っていた。あたりはもう薄明るくなってきていた。やがて男が大きくあくびをして伸びをし、毛布を放り投げると、それはミス・ワトソンのジムだった! 俺は嬉しくてたまらなかった。思わず言った。

「やあ、ジム!」と飛び出した。

ジムは跳ね起きて、俺を見て目を見開いて固まった。それから膝をついて、手を合わせて言った。

「俺を傷つけんでくれ、頼む! 俺は幽霊に悪さなんかしたことない。死人はいつも好きやったし、できることは何でもしてきた。あんたは川に戻って、自分の場所に帰ってくれ、ジムには何もせんといてくれ、ジムはずっと友達やったやろ……」

まあ、俺だって自分が死んでいないことをジムにわからせるのに、時間はかからなかった。ジムに会えて本当に嬉しかった。もう寂しくなんてなかった。俺は、ジムなら俺がここにいることを誰にもばらしたりしないだろうと話した。いろいろ話したけど、ジムはただ黙って俺を見てるだけで、何も言わなかった。それで俺は言った。

「もう明るくなったな。朝飯にしよう。焚き火をちゃんと起こしてくれ。」

「なんでイチゴやらそんなもん焼くのに焚き火がいるんや? でもお前、銃持ってるやろ? それならイチゴよりずっとうまいもんが手に入るやろ。」

「イチゴやらそんなもんが食いもんか?」と俺は言った。

「他に何も手に入らんかったんや。」とジムは言った。

「なあ、ジム、どれくらい島にいたんや?」

「お前が殺された晩から来とる。」

「え、ずっとその間ずっとか?」

「そうや、ほんまや。」

「じゃあずっとそんなもんしか食ってないんか?」

「そうや、他に何も無い。」

「そりゃ、もう腹ペコやろ?」

「馬でも食える気がするわ、ほんまに。お前、この島にはいつからおるんや?」

「俺も“殺された”あの晩からだ。」

「まさか! それで何食って生きてたんや? あ、でも銃あるな。そっか、銃があるんならよしやな。よし、お前がなんか撃ってきてくれ、俺は火を起こす。」

それで俺たちはカヌーのところに行って、ジムは木立ちの間の草地で焚き火を作った。俺はコーンミールとベーコン、コーヒーとコーヒーポット、フライパンと砂糖とブリキのカップを持ってきた。ジムは魔法か何かだと思って、びっくりしていた。俺はでっかいナマズも釣ったから、ジムがナイフで捌いて、焼いてくれた。

朝飯ができたとき、俺たちは草の上に寝転がって、熱いうちに夢中で食った。ジムも、腹ペコだったから、がっついていた。そのあと腹が一杯になったら、しばらくごろごろしてのんびりした。やがてジムが言った。

「でもハック、もしあの小屋で死んだんがお前やなかったら、いったい誰やってん?」

そこで俺は全部話した。ジムは「賢いな」と言ってくれた。トム・ソーヤーでも俺よりうまい計画は思いつかんやろう、と言った。それで俺はまた聞いた。

「ジム、どうしてここにおるんや? どうやってここへ来たんや?」

ジムは落ち着かない様子で、しばらく黙っていた。それから言った。

「……話さん方がええかもな。」

「なんでや、ジム?」

「理由があるんや。でも、俺が話したら、お前俺をちくったりせんやろな、ハック?」

「絶対せんよ、ジム。」

「ほんなら信じるわ、ハック。俺、――逃げてきたんや。」

「ジム!」

「なあ、でも約束やで、絶対言わんって。ハック、ほんまやで。」

「言わないって言った。ちゃんと守るさ。誓うよ、ほんとに。人は俺のこと、“最低のアボリショニスト”だとか、口を閉ざしてるってことで軽蔑するかもしれないけど、そんなの関係ない。絶対口外しないし、どうせもうあそこには戻らない。だから、全部話してくれよ。」

「……そやな、こういうことや。おかみさん――つまりミス・ワトソンや――は、いつも俺に小言ばっかり言うし、きつく当たるけど、ずっと“オルリンズ[訳注:ニューオーリンズの略]へは売り飛ばさん”って言ってた。でもな、このとこ、黒人商人がよく家の周りにうろついてて、それで俺、気が気やなかったんや。で、ある晩、遅くにドアのそばに忍び寄ったら、ドアがちゃんと閉まってなくて、中からおかみさんが未亡人[訳注:ダグラス未亡人]に、“あの子をオルリンズに売る、でも本当は売りたくないけど、八百ドルで売れるから仕方ない、そんな大金には勝てん”て話してるのが聞こえた。未亡人は、やめといた方がええって止めてたけど、俺は最後まで聞かず、すぐ逃げた。

丘を駆けおりて、町の上流のどこかでスキフ(小舟)を盗もうと思ったけど、人がまだ起きてたから、川岸の潰れた樽屋に隠れて、人がいなくなるのを待ってた。夜通しそこにいた。いつも誰かがうろうろしてた。朝六時ごろにはスキフが通り始めて、八時か九時ごろになると、通るスキフみんな、“お前のパプが町へ来て、お前が殺されたって言ってる”って話してた。最後の方のスキフには、見物しにいく淑女や紳士がいっぱい乗ってた。岸に寄って、渡る前に一息つく人もいた。話を聞いて、“殺された”ことは全部わかった。ハック、お前が殺されたって聞いて、俺はすごく悲しかったけど、今はもう全然や。

俺は一日中、木屑の下に潜んでた。腹は減ったけど、怖くはなかった。おかみさんも未亡人も、朝飯のあとでキャンプミーティングに出かけて、一日帰らないってわかってたし、みんな朝早く牛の世話に出かけると思われてるから、俺が家にいなくても暗くなるまで気づかれない。ほかの召使い連中も、親方たちが出かけたらすぐ遊びに出るから、俺がいないことは気にしない。

で、暗くなったら、川沿いの道を二マイルほど上って、人家が無いところまで歩いた。俺はどうするか決めてた。歩いて逃げても犬に追われるし、スキフを盗んで渡れば、船が無くなったのはすぐばれるし、どこに渡り着いたかも足がつく。でも筏なら、あとも残らん。

そのうち、角を回ってくる灯りが見えたから、俺は水に入って丸太を押しながら半分以上川を泳ぎ、流木の中に頭を低くして紛れて、流れに逆らって泳いだ。筏が来たとき、後ろについてつかまった。雲が出てきてしばらく真っ暗だった。筏に這い上がって板の上に寝転がった。男たちはみんな真ん中でランタンの明かりの下にいた。川は増水して流れも速かった。だから朝四時には、二十五マイルも下流まで行けると踏んでた。夜明け直前にこっそり陸に上がって、イリノイ側の森に逃げ込むつもりだった。

でも運が悪かった。島の上流まで来たとき、誰かがランタンを持って後ろに来始めたから、もう待っていられないと思って、水に飛び込んで島へ向かった。どこでも岸に上がれると思ってたけど、崖が急でなかなか上がれなかった。島の下の方まで来て、やっと良い場所を見つけた。森に入って、もう筏には関わるまいと決めた。筏はランタンを動かすから危ない。パイプとタバコの塊と、キャップに包んだマッチがあったけど、濡れてなかったから大丈夫だった。」

「じゃあ、ずっと肉もパンも食べてないのか? 泥ガメとか捕れたんじゃないか?」

「どうやって捕るんや? そっと近づいてつかまえるのも出来んし、石なんか当てられへん。夜にそんなことできるか? 昼間に岸に出る気はなかったし。」

「まあ、そりゃそうだな。ずっと森に潜んでたんだもんな。大砲をぶっ放してたの、聞いたか?」

「ああ、あれはお前を探してたんやろ。ここを通るの、茂みから見てた。」

そのとき、若い鳥たちが数羽、少しずつ飛びながらやってきて止まった。ジムは「雨の前兆や」という。若い鶏がそんな風に飛ぶときは雨が降るし、鳥でも同じだろうと。俺は捕まえようとしたけど、ジムは止めた。「死の前兆や」と言った。ジムの父さんが重病の時、誰かが鳥を捕まえたら、おばあさんが「父さんは死ぬ」と言い、実際そうなったらしい。

それからジムは、晩飯にするもんを数えたりしたら不吉やと言った。日が暮れてからテーブルクロスを振ってもよくないという。そして、もし男が蜂の巣を持っていて、その男が死んだら、翌朝日の出前に蜂にそのことを伝えないと、蜂がみんな弱って仕事をやめて死んでしまうとも言った。ジムは「蜂は馬鹿には刺さない」とも言ったけど、俺は信じなかった。何度も試したけど、俺のことは刺さなかったからだ。

こんな話は前にも聞いたことはあったが、全部じゃない。ジムはいろんな前兆を知っていた。何でも知っていると言っていた。俺は「悪い予兆ばっかりじゃないか。いい予兆ってないのか?」と聞いた。ジムはこう言った。

「めったにないし、あっても役に立たん。いいことが起きる前兆を知って何になる? 避けたいんか? でもな、腕や胸に毛が生えてる奴は金持ちになるんや。そいつは役に立つ前兆や。だって、先のことを教えてくれるからな。ずっと貧乏でも、“そのうち金持ちになる”って知ってたら、くじけて死ぬこともないわな。」

「ジムは腕や胸に毛が生えてるのか?」

「そんな質問してどうする。見てわからんか?」

「じゃあ、金持ちなんか?」

「今はちゃうけど、前は金持ちやったし、また金持ちになるつもりや。前は十四ドル持ってた。でも投資して、全部なくした。」

「投資って何に投資したんだ?」

「最初は家畜や。」

「どんな家畜や?」

「牛や。十ドル牛につっこんだんや。でももう二度と家畜には金を使わん。牛が死んでもうたからな。」

「じゃあ、十ドルは全部なくしたんだな。」

「いや、全部なくしたわけやない。九ドルばかし損しただけや。皮と脂を売って、一ドル十セントになってん。」

「じゃあ、五ドル十セント残ってたんだな。それで、また何かに手を出したのか?」

「そうや。あの片足の黒人、ブラディッシュさんの持ちもんやけど、あいつが銀行始めよってな、誰でも一ドル預けたら年の終わりに四ドル増やして返す言うてな。黒人みんな乗っかったけど、誰も大した金持っとらん。俺だけがちょっと持っとったんや。せやから、四ドルじゃ足らんて言うたんや。もっとくれんのやったら、俺が自分で銀行始める言うてな。そしたら、あの黒人は俺を商売に入れたくなかったんや。銀行二つもいらんて言うてな。せやから、俺が五ドル預けたら、年の終わりに三十五ドル払うってことになってん。

「ほんで、預けたんや。それで三十五ドルできたら、すぐにまた投資して回していこう思うたんや。ちょうどボブいう黒人が、木材運びのイカダを捕まえとったんやけど、主人は知らんかった。それを俺が買い取って、年の終わりに三十五ドル受け取れって言うたんや。でもその夜、誰かがそのイカダ盗んでもうてな。次の日に片足の黒人が、銀行は潰れた言いよった。ほなから、俺らみんな一銭も戻ってこんかったんや。」

「その十セントはどうしたんや、ジム?」

「それはな、使おう思うてたんやけど、夢を見てな、その夢がバラムいう黒人に渡せって言うてきてん。みんなバラムのロバて呼んでるわ、あいつはちょっと間抜けやけど、運がええて評判や。俺は全然運ないからな。夢が、バラムに十セント投資させたら、俺のために増やしてくれる言うてん。ほんでバラムがその金受け取ったんやけど、教会で牧師が言うのを聞いてな、『貧しい者に施せば、その金は百倍になって戻ってくる』て。それでバラムは十セントを貧しい人に渡して、その後どうなるかじっと待っとったんや。」

「で、結局どうなったんや、ジム?」

「何も起こらんかったわ。俺もバラムもどうやってもその金は戻ってこんかった。俺はもう、ちゃんと担保がない限り金なんて貸さんて決めたわ。牧師は百倍になる言うけどな! もし十セントでも戻ったら、それでチャラにしてもええし、ありがたく思うとこやで。」

「まあ、ええやんジム。どうせ、いつかまた金持ちになるんやから。」

「そやな、今考えてみたら、俺はもう金持ちや。自分の身は自分で持っとる。八百ドルの価値があるんやで。もしその金が現実にあったら、もう他に何もいらんわ。」


第九章

俺は島の真ん中あたりに前に見つけた場所を確かめたくなった。だから二人で出かけたんやけど、島は長さ三マイル、幅は四分の一マイルしかないから、すぐに着いた。

その場所は、だいたい高さ四十フィートくらいの、結構長くて急な丘、あるいは尾根やった。頂上までたどり着くのは大変やった。斜面が急で、茂みもすごくてな。ぐるぐる回って登ったり下りたりしてるうちに、やがて、イリノイ側の斜面のほぼ頂上近くで、大きな洞穴を見つけた。部屋が二つか三つくっついたくらいの広さで、ジムがまっすぐ立てるくらい天井も高かった。中はひんやりして気持ちええ。ジムはすぐにでも荷物を全部ここへ運び込もうって言い出したけど、俺は「ちょくちょく上り下りするのは嫌や」って言った。

でもジムが言うには、カヌーをうまく隠せる場所につけて、荷物は全部洞穴に運んどけば、誰かが島に来てもすぐに洞穴へ逃げ込めるし、犬でも連れてこない限り見つからんって。それに、小鳥たちも雨が降るって鳴いてるし、荷物を濡らしたくないやろ? とも言う。

それでまた戻ってカヌーを取りに行き、洞穴の近くまで漕いできて、荷物を全部運び上げた。カヌーはすぐそばのヤナギの茂みに隠し場所を見つけておいた。釣り糸から魚を取って新しく仕掛け直し、晩飯の準備を始めた。

洞穴の入口は豚樽を転がして入れられるくらい大きくて、入口の片側はちょっとだけ床が突き出して平らになってて、そこで火を焚くのにちょうどよかった。そこに火を起こして夕飯を作った。

中には毛布を敷いてカーペット代わりにした。中で夕飯を食べて、他の荷物は全部奥の方にまとめて置いた。しばらくすると急に暗くなり、雷と稲光が始まった。鳥たちの言うとおりやった。すぐに土砂降りの雨になった。見たこともないほどすごい風やった。まさに夏の嵐や。外は真っ暗で青黒く、ものすごくきれいやった。雨で木々の向こう側もかすんで、蜘蛛の巣みたいに見える。風がビュービュー吹き荒れて木々がしなり、葉の裏側の青白いところがひっくり返る。次の瞬間にものすごい突風が来て、枝が腕を振り回すみたいに暴れだす。いよいよ真っ暗になったと思ったら、パッと稲光で一瞬ものすごい明るさになり、嵐の中で遠くの木の梢がぐるぐる踊ってるのが見えたりする。またすぐ闇に戻って、ドーンとすごい雷鳴がして、それがゴロゴロ、グワングワン、カラカラ音を立てて空の向こうへ転がっていく。まるで空の長い階段を、空っぽの樽を落としたみたいに跳ねながら転がってくんや。

「ジム、ここ最高やな」って俺が言うと、「他のどこにもいたくないわ。魚もう一切れと、焼きたてのコーンブレッドもくれや」って言った。

「ほんまやな、ハック。もしジムがおらんかったら、あんたは今ごろ森ん中で飯も食えんとこやったし、きっとびしょ濡れになってたで。ニワトリも鳥も、雨降るの分かるもんや、坊や。」

川はその後十日か十二日くらいどんどん増水して、ついに岸を越えた。低いところやイリノイ側の河原は三、四フィートも水がかぶった。イリノイ側は何マイルも川幅が広がったけど、ミズーリ側はずっと高い崖になってるから、前と同じで半マイルほどのままだった。

昼間はカヌーで島中をあちこち漕いで回った。深い森の中は外で太陽がギラギラしてても、ものすごく涼しくて陰ってた。木立の間を縫って進んで、ツタが絡まってて進めないときは引き返して別の道を探した。古い倒木にはウサギやヘビなんかがたくさんおった。島が水浸しになって一、二日もすると、動物たちは腹が減って人間慣れしてしまって、近づいて手で触れるくらいまで寄れる。けどヘビやカメはすぐ水に逃げてしまう。俺らの洞穴のある尾根にもぎょうさんおった。ペットにするならいくらでも捕まえられたやろうな。

ある晩、丸太イカダの一部を手に入れた。良い松板を使ってて、幅十二フィート、長さ十五、六フィートくらいで、水面から六、七インチ高くて、床がしっかりしてた。昼間は製材用の丸太が流れてくるのも見かけたけど、俺らは昼間は姿を見せなかった。

また別の夜、島の上流で夜が明ける前、今度はフレーム作りの家が流れてくるのを見た。二階建てで、かなり傾いてた。俺たちはカヌーで近づいて、二階の窓から中に入った。でも中はまだ暗くて何も見えない。カヌーを家につないで、夜明けまで待った。

明るくなってくる頃には、島の下流に差しかかってた。窓から中を覗くと、ベッドやテーブル、古い椅子が二つ、床にはいろんな物が散らかってて、服も壁にかかってた。奥の隅には何か人が寝てるような影があった。ジムが言った。

「おーい、そこの人!」

でも動かない。俺ももう一度呼んでみた。するとジムが、

「あれは寝てへん。死んどるで。ちょっと待っとき、俺が見に行くわ。」

ジムは近づいて、腰をかがめて覗き込むと、

「もう死んどる。間違いない。裸や。背中から撃たれてる。二、三日経ってるな。おいで、ハック。でも顔は見んとき。えらいえぐい顔や。」

俺は見もしなかった。ジムはその男に古いボロをかけてやったけど、そんなことせんでもええくらい、俺は見たくもなかった。床には油で汚れたカードやウイスキーボトルが散らばってて、黒い布で作った仮面が二つ転がってた。壁には炭で描かれた、どうしようもなく下品な文字や絵がいくつもあった。古びたキャリコのドレスが二着、日よけ帽子、女物の下着、それに男物の服も壁にかかってた。全部カヌーに積んだ。何かの役に立つかもしれんと思ってな。床には古い麦わら帽子もあったから、それももらった。ミルクの空瓶もあって、赤ん坊が吸うための布栓がついてたけど、瓶は割れてたから持って帰れんかった。ボロボロのチェストと壊れた金具の毛皮トランクもあったけど、どちらも開けっ放しで中身はたいしたもんが残ってなかった。あちこちに物が散らかってる様子からして、人は急いで逃げていったんやろうし、荷物もろくに運べなかったんやろう。

俺たちは古いブリキのランタン、柄のない包丁、二ビットの値打ちがある新品のバーロウナイフ、ロウソクがいっぱい、ブリキの燭台、ヒョウタン、ブリキのカップ、ボロボロのベッドカバー、針やピン、蜜蝋、ボタンや糸が入った手提げ袋、斧、釘、俺の小指ほどもある太い釣り糸と巨大な釣り針、なめし皮の巻物、革の犬の首輪、蹄鉄、ラベルのない薬瓶も何本か、他にもいろいろ拾い集めた。出発間際にはまあまあ使えそうな馬櫛も見つけたし、ジムはボロボロのバイオリンの弓、それから木製の義足も見つけた。ベルトはちぎれてたけど、それ以外は十分使えそうな足やった。俺には長すぎて、ジムには短すぎたけどな。もう一本は探しても見つからんかった。

まあ、いろいろ考えても、なかなかの収穫やった。出発する頃には島の下流で四分の一マイルほど流されて、すっかり日も高くなってた。だから俺はジムにカヌーの底に横になってキルトをかぶれって言った。座ってたら遠くからでも黒人だって分かってしまうからな。俺がカヌーを漕いでイリノイ側へ向かった。ほとんど半マイルも漂いながら移動した。岸の陰にそっと入って、誰にも会わず、何もトラブルもなく家に戻った。


第十章

朝飯のあと、俺はあの死んだ男のことが気になって、どうして殺されたんやろうとか話したかったけど、ジムは嫌がった。そんなこと話すと不吉や、それにあの世に行けてへん奴は幽霊になって出てきやすいって言う。埋葬されて安心してる奴より、土に入れられてへん奴の方が出て来るってな。まあ、もっともな話やし、それ以上は何も言わんかったけど、俺はどうしても気になって、誰に撃たれたんやろ、何のために殺されたんやろ、って考えずにはいられんかった。

拾った服を調べてみたら、古いブランケットのオーバーコートの裏地に銀貨八ドルが縫い込んであった。ジムは「この家の人間がコートを盗んだんやろ。自分のもんやったら、金が入ってること気づいて持って逃げるはずや」と言った。俺は「きっとそいつらが殺したんやろ」と言ったけど、ジムはそれ以上は話したくなかった。俺は言うた。

「今は不吉や言うけど、俺が一昨日、尾根のてっぺんで見つけたヘビの抜け殻持って帰った時は、世界一の悪運が来るで、って言うとったやん。でも今回これだけいろんなもんと八ドルまで手に入ったで。こんな不吉なら毎日でもほしいくらいや。」

「ええんや、坊や、ええんや。あんまり調子乗ったらあかん。悪運は来るもんや、覚えときや。必ずや。」

ほんまに、その通りやった。その話をしたのは火曜日やった。金曜の昼飯の後、俺らは尾根の上の草むらでゴロゴロしてて、タバコが切れた。俺は洞穴に取りに行ってみたら、中にガラガラヘビがおった。俺はそいつを殺して、ジムの毛布の足元に自然な感じで丸めておいた。ジムが見つけたらきっと面白いと思ってな。けど夜になる頃にはすっかりそのことを忘れてて、ジムが毛布にドサッと寝転んだとき、そのヘビのつがいがいて、ジムを噛んだ。

ジムは飛び上がって叫んだ。火をつけたら、すぐそこにもう一匹のヘビが丸まってて、今にもまた飛びかかろうとしてた。俺は棒で一撃で仕留めた。ジムはパプのウイスキー瓶をつかんで、中身をがぶがぶ飲み始めた。

ジムは裸足で、かかとに噛まれたんや。それもこれも、俺がアホで、死んだヘビのところには必ずつがいが戻ってくるって忘れてたからや。ジムは「頭を切り落として捨てろ。胴体は皮を剥いで焼いて食え」って言う。それでそうして、ジムはそれを食べて「これで治る」と言う。さらに、ガラガラを外して手首に結べ、と言う。そうすれば効き目があるからと。俺は静かに抜け出して、死んだヘビも生きてたヘビも全部茂みに投げ捨てた。ジムには俺のせいだってバレたくなかったからな。

ジムは瓶を持ってずっと吸い続けて、ときどき意識が飛んで暴れたり叫んだりした。でも意識が戻るとまた瓶に吸い付いた。足も膨れて、脚も腫れた。でもしばらくすると酔っぱらったみたいになって、そうなれば大丈夫やろと思った。だけど俺は、パプのウイスキー飲まされるくらいならヘビに噛まれる方がマシやったな。

ジムはまるまる四日四晩寝込んだ。でも腫れが全部引いたら、また動けるようになった。これでもう二度と自分からヘビの抜け殻なんか触らんと心に決めた。ジムも「これで俺の言うこと信じるやろ」と言う。ヘビの抜け殻を触るのはとてつもなく不吉だから、まだこれで終わりやないかもしれんとも言う。「新月を左肩越しに見るのを千回やるより、ヘビの抜け殻を手に取る方がずっと悪運や」ってな。俺もそんな気持ちになってきた。けど、新月を左肩越しに見るのは昔から一番バカげた迷信やと思ってた。ハンク・バンカーじいさんも昔やったことがあって、自慢しとったけど、二年も経たんうちに酔っぱらって射撃塔から落ちて、地面に広がって、まるで層になったみたいな姿になった。それで棺桶代わりに納屋の戸二枚の隙間に挟んで埋めたんやって。そう言っとったけど、俺は見てへん。パプが教えてくれた話や。でもとにかく、全部新月を左肩越しに見たせいや、アホみたいやろ。

さて、日々が過ぎていき、川の水もまた岸の間におさまった。俺たちがまずやったのは、大きな釣り針のひとつに皮をはいだウサギを餌にして仕掛け、でっかいナマズを釣り上げることだった。そいつは人間くらいでかくて、長さは六フィート二インチ(約1メートル90センチ)、重さは二百ポンド(約90キロ)を超えていた。もちろん、俺たちにゃ手に負えなかった。あいつにゃイリノイ州までぶん投げられちまうとこだった。だから、俺たちはただ座って、あいつが暴れ回るのを見てたら、やがて溺れてしまった。腹の中からは真鍮のボタンと丸い玉、それからごみみたいなもんがたくさん出てきた。俺たちはその玉を手斧で割ってみたんだが、中から糸巻きが出てきた。ジムが言うには、長いこと腹の中にあって、覆いができてあんな玉になったんだろうってことだった。ミシシッピ川で釣れた中でも、こんなでかい魚は見たことがないと思う。ジムも今まで一番でかいのを見たことがないと言ってた。村に持っていけば、きっとかなりの値がついたはずだ。ああいう魚は、あっちの市場でポンド単位で売りさばくんだ。みんな少しずつ買っていく。肉は雪みたいに白くて、揚げ物にするとすごくうまい。

翌朝、俺は「なんだか最近退屈でつまらねえ」と言って、ちょっと刺激がほしいと言った。「川を渡って様子を見てこようかな」と俺が言うと、ジムもその考えが気に入ったみたいだった。でも、夜のうちに行って、用心深くしろと言われた。それからジムはしばらく考えて、「あの古い服を着て女の子みたいに変装できねえか?」と言い出した。その考えも悪くなかった。だから、綿布のドレスの裾を短くして、俺はズボンのすそを膝までまくりあげて、それに着替えた。ジムが背中の留め具をひっかけてくれたら、まあまあぴったりだった。日除け帽(サンボネット)をかぶって、あごの下でひもを結んだら、顔をのぞこうとすれば煙突の中をのぞき込むような感じだった。ジムは、「昼間だってお前だとはわからねえだろう」と言った。俺は一日じゅう女物の着方を練習して、だんだんうまくできるようになった。ただ、ジムは「女の子みたいに歩けてねえ」と言うし、「スカートをめくってズボンのポケットに手を突っ込むのはやめろ」とも言われた。俺はそれを気にして、だんだんうまくやるようになった。

俺は日が暮れてから、カヌーでイリノイ側の川岸を上っていった。

それから、フェリー乗り場より少し下流から町へ渡った。川の流れでちょうど町の端っこに着いた。カヌーをつなぎ、岸沿いに歩き出した。長い間人の住んでいなかった掘っ立て小屋に明かりがついていたので、誰が住んでいるんだろうと思った。こっそり近づいて窓から覗いたら、中に四十歳くらいの女がいて、松のテーブルの上のろうそくの明かりで編み物をしていた。見たことのない顔だった。俺はこの町の顔ぶれならみんな知ってるから、知らない人ならよそ者に違いない。これは運が良かった。俺は弱気になっていたし、誰かに声でばれるんじゃないかと心配してたけど、こんな小さな町に来てまだ二日しかたってない女なら、俺の知りたいことを全部教えてくれるはずだと思った。それで、ドアをノックして、女のふりをするのを忘れまいと心に決めた。

第十一章

「お入り」と女が言ったので、俺は入った。女は言った。「椅子に座って」

俺はそうした。女は小さなきらきらした目で俺をじろじろ見て、こう言った。

「お名前は?」

「サラ・ウィリアムズ」

「どこに住んでるの? このあたりかい?」

「いいえ。フーカーヴィル、ここから七マイル下です。歩いてきたから、くたびれちゃいました」

「お腹もすいてるんじゃない? 何か探してこようか」

「いいえ、お腹はすいてません。途中でどうしてもお腹がすいて、ここから二マイル下の農家で食べてきたんです。だからもう大丈夫。遅くなったのもそのせいです。母が病気で、お金も何もなくて、叔父のアブナー・ムーアに知らせに来たんです。彼はこの町の上の端に住んでると母が言ってました。俺はここに来るのは初めてなんです。彼のこと、ご存知ですか?」

「いや、知らないよ。でも私はこの町に来てまだ二週間もたってないから、みんなを知ってるわけじゃない。上の端までは結構距離があるよ。今夜はここに泊まっていった方がいい。帽子を脱ぎなさい」

「いいえ」と俺は言った。「少し休んだら、また行こうと思います。暗いのは怖くありません」

女は、ひとりで行かせるつもりはないと言い、でも夫がそのうち帰ってくるはずだから、一時間半もすれば戻るかもしれないから、その夫に送らせると言った。それから夫の話や、川の上流や下流にいる親せきの話、昔はもっと良かったのにという話、この町に来たのは間違いだったかもしれない云々を延々と話し始めた。俺は、町の様子を知るためにここへ来たのはむしろ間違いだったんじゃないかと心配になった。でもやがて話はパプと殺人事件のことになり、俺としてはむしろそのまましゃべらせておきたかった。女は俺とトム・ソーヤーが六千ドル見つけた話(でも女は一万ドルと言った)や、パプがどんだけ悪党か、俺がどんな悪ガキか、ついには俺が殺された話までしゃべった。そこで俺はこう言った。

「誰がやったんです? フーカーヴィルでもかなり噂になってるけど、ハック・フィンを殺したのが誰かは知らなくて」

「まあ、この町でも誰がやったのか知りたがってる人がたくさんいるよ。最初はみんな年寄りのフィンがやったんじゃないかと思ってた」

「へえ、本当ですか?」

「最初はほとんどそう思ってた。危うくリンチされるところだったんだよ。でも夕方には考えが変わって、逃げ出した黒人のジムがやったってことになった」

「なんでジムが――」

俺は口をつぐんだ。黙っておいた方がいいと思った。女は気にせずしゃべり続けた。

「ジムはハック・フィンが殺されたその晩に逃げ出したのよ。だから三百ドルの懸賞金が出てる。フィンにも二百ドルの懸賞金がかかってるよ。事件の翌朝、町にやってきて事件のことを話して、捜索隊と一緒にフェリーボートで探し回ったけど、その後すぐにいなくなった。夕方にはリンチされかけたけど、もういなかった。次の日、ジムがいなくなってるのがわかった。殺人事件のあった夜の十時以降、誰も彼を見ていなかった。だからみんな彼のせいにしたのよ。翌日、またフィンが戻ってきて、泣きながらサッチャー判事に金をせびって、イリノイじゅうをジム探しに行くって言ってた。判事は金を渡したけど、その晩は酔っぱらって、柄の悪いよそ者二人と一緒に深夜までうろついて、そのままどこかへ行っちまった。それから帰ってきてないし、みんな事件が落ち着くまで戻らないだろうと思ってる。今じゃ、息子を殺して、盗賊の仕業に見せかけて、裁判の手間なしでハックの金を手に入れようとしたと思われてる。あの人ならやりかねないって言うよ。ずる賢い男だろうね。もし一年帰ってこなくても、なんのお咎めもない。証拠なんてないから、何もかも静まったころに、いとも簡単にハックの金を手に入れられるってわけさ」

「そうですね。邪魔するものはなさそうです。じゃあ、みんなジムがやったっていうのはもうやめたんですか?」

「いや、みんながそうってわけじゃない。まだ多くの人がジムがやったと思ってる。でも、もうすぐジムを捕まえるだろうし、そうしたら吐かせるかもしれない」

「まだジムを追ってるんですか?」

「まあ、なんて無邪気なんだい! 三百ドルが毎日転がってると思うかい? ジムはこの町の近くにいるんじゃないかって思ってる人もいる。私もその一人。でも、あちこちで言いふらしたりはしてないけどね。この前、隣の丸太小屋に住む老夫婦と話してたとき、あそこのジャクソン島にはめったに誰も行かないって言ってた。『誰も住んでないの?』って聞いたら、『誰もいないよ』って。まあ、それ以上は言わなかったけど、私はちょっと考えたんだ。島の上流のあたりで一、二日前に煙を見かけた気がして、もしかしたらジムがあそこに隠れてるのかもしれない、まあ調べる価値はあると思った。その後煙は見てないけど、もしジムだったらもういないのかも。でも、うちの夫がほかの男と一緒に今夜見に行くよ。夫は川の上流に行ってたけど、今日帰ってきたから、着いたとたんに私が話したの」

俺はもう落ち着かなくなって、じっとしていられなかった。何か手を動かさずにいられなくて、テーブルの上にあった針をとって糸を通そうとした。手が震えて、ぜんぜんうまくいかなかった。女が話すのをやめたとき、顔を上げたら、女はじっと俺を見て、ちょっとにやにやしてた。俺は針と糸を置いて、興味ありげなふりをした。いや、実際興味もあったんだ。それで言った。

「三百ドルって大金ですね。うちの母がそれをもらえたらなあ。ご主人は今夜あそこに行くんですか?」

「もちろんだよ。さっき話してた男と一緒に町に上がって、船を借りてもう一丁銃も借りるつもりさ。真夜中過ぎに行くよ」

「昼間だったら、もっとよく見えたんじゃないですか?」

「そうだね。でも、ジムにもよく見えるよ? 真夜中過ぎならたぶん寝てるだろうし、もし火をたいてたら、暗い中のほうが見つけやすいからね」

「それは考えませんでした」

女は俺をじっと見ていたので、全然落ち着かなかった。そのうちに女が言った。

「ねえ、さっき何て言ったっけ、お名前?」

「……メ、メアリー・ウィリアムズ」

自分でも最初にメアリーって言った気がしない。サラって言った気がして、どうしていいかわからなくなって、たぶん顔にも出てただろう。女が何か言ってくれればよかったのに、黙ってる時間が長くなるほど俺は落ち着かなくなった。でも女は言った。

「おや、最初に来たときサラって言わなかった?」

「あ、はい。そうでした。サラ・メアリー・ウィリアムズです。サラがファーストネームで、サラと呼ぶ人もいればメアリーと呼ぶ人もいます」

「そういうことなの?」

「はい」

ちょっと気が楽になったけど、やっぱり早くここを出たい気持ちは消えなかった。うつむいたままだった。

女はまた、景気が悪いとか、貧乏暮らしだとか、ネズミがこの家を自分の持ち物みたいにうろついてるだとか、そういう話を始めたので、俺もだんだん気が楽になった。ネズミのことは本当だった。ちょっとすると、どこかの穴から鼻先を出すのが見えた。女は、ひとりのときは何か投げるものを手元に置いておかないと、ネズミが騒いで落ち着かないと話し、鉛の塊を結び目みたいに曲げたものを見せて、普段はこれでよく命中させるけど、ここ二、三日腕を痛めてしまって、今はうまく投げられるかわからないと言った。でもチャンスを待っていて、すぐにネズミめがけて投げた。でも大きく外れて、「いてっ」と言った。腕に響いたらしい。それから次のネズミは俺に投げろと言った。俺は早くここを抜け出したかったが、そういうそぶりは見せなかった。ネズミがまた顔を出したので、思いっきり投げた。もしあいつがその場に残ってたら、かなりひどい目に遭ったろう。女は「上出来だ」と言って、次はきっと仕留めるわよと言った。鉛の塊を拾ってきてくれて、ついでに糸玉も持ってきた。手を広げると、糸玉を俺の手にかけて、また夫の話などをし続けた。でもそのうちに話を止めて、

「ネズミに気をつけてね。鉛は膝の上に置いておくといいよ」と言った。

その瞬間に膝の上に鉛の塊を落とし、俺は両足でそれを挟み込んだ。女はまた話し続けたが、それもほんの一分ほど。糸玉を取ると、俺の顔をまっすぐ見て、とても穏やかな笑顔で言った。

「さあ、ほんとの名前を教えておくれ」

「な、なんですか?」

「ほんとの名前だよ。ビルかい、トムかい、ボブかい? 本当はなんていうんだい?」

俺は葉っぱみたいに震えて、どうしていいかわからなかった。でも俺は言った。

「どうか、困ってる女の子をからかわないでください。私が邪魔なら……」

「違うよ。座っていなさい。私はあんたに危害を加えたりしないし、誰にも言わないよ。あんたの秘密を話してごらん。私は守るし、それに、もし望むならうちの旦那も助けてくれる。あんたはただの脱走徒弟なんだろう? それだけのことだ。悪いことじゃない。ひどい目にあって逃げてきたんだろう。心配いらないよ。全部話してごらん、いい子だから」

そこで、もうごまかすのは無理だと思って、全部正直に話すことにした。でも絶対に約束は守ってくれと頼んだ。俺の両親はもう死んでて、法律で三十マイルほど川から離れた田舎の意地悪な農夫のところに奉公に出されていた。そこがあんまりひどいので我慢できなくなり、農夫が二日ほど出かける隙に、その家の娘の古着を盗んで抜け出した――もう三晩かけて三十マイル歩いてきた。夜に歩いて昼間は隠れて寝て、家から持ってきたパンと肉で食いつないだ。叔父のアブナー・ムーアならきっと面倒を見てくれると思って、この町の「ゴーシェン」に向かったんだと話した。

「ゴーシェンだって? ここはゴーシェンじゃないよ。ここはセント・ピーターズバーグ。ゴーシェンは川を十マイル上ったところさ。誰がここがゴーシェンだって言ったんだい?」

「今朝、夜明けに森に入って寝ようとしてたとき、道で会った男が、『道が分かれたら右に行きゃ五マイルでゴーシェンにつく』って」

「あの男は酔っぱらってたんだろうね。まるっきり反対のことを教えてくれたよ」

「たしかに酔っぱらってるみたいだった。でももうどうでもいいです。俺はもう行かなくちゃ。夜明け前にはゴーシェンに着きます」

「ちょっと待ちな。何かつまむ物を持たせてあげるよ。きっと役に立つから」

女は軽食を包んでくれて、言った。

「ねえ、牛が寝てるとき、先にどっち側が立ち上がる? すぐ答えて、考えちゃだめだよ。どっちが先に立つ?」

「後ろ足です」

「じゃあ、馬は?」

「前足です」

「木の苔はどっち側に生える?」

「北側です」

「十五頭の牛が丘の斜面で草を食べていたら、何頭が同じ向きで頭を下げてる?」

「みんな同じ、十五頭です」

「なるほど、本当に田舎で暮らしてたんだね。もう一度私をだまそうとしてるんじゃないかと思ったけど。で、本当の名前は?」

「ジョージ・ピーターズです」

「じゃあ、覚えておくんだよ、ジョージ。忘れたりして、帰り際にエレクサンダーだったなんて言うんじゃないよ。それで、俺が見抜いたら“ジョージ・エレクサンダー”だったなんて言い訳をするんじゃないよ。それから、あの古いキャラコの服で女の人のマネをして歩き回るのはやめておきな。娘のふりはまあまあできてるけど、男はだませても女はだまされないかもしれない。いいかい、子ども、針に糸を通すときは、糸をじっと持って針を近づけちゃだめだよ。針を動かさずに糸のほうを突っ込むんだ。女の人はたいていそうするけど、男はたいてい逆なんだ。それと、ネズミか何かに物を投げるときは、つま先立ちになって、できるだけぎこちなく手を頭上に振り上げて、ネズミから6、7フィート外して投げるんだ。肩から棒のように投げる、まるでそこに軸があるみたいに回すんだよ、女の子みたいにね。手首やひじで脇から投げちゃだめ、男の子みたいになっちゃうから。それからな、女の子が膝の上で何かを受け止めようとするときは、膝を開くけど、君が鉛のかたまりを受け止めたときみたいに膝を合わせたりしないんだ。針に糸を通そうとしたときに、君が男の子だってすぐにわかったよ。他のことは、念のため確かめるために仕掛けたんだ。さあ、行きな、サラ・メアリー・ウィリアムズ・ジョージ・エレクサンダー・ピーターズさん。もし困ったことになったら、ジュディス・ロフタス夫人、つまり私に知らせるんだよ。できるだけ助けてあげるから。ずっと川沿いの道を行きなさいよ。今度旅をするときは靴と靴下を持って行くんだ。川沿いの道はごつごつしてるから、ゴーシェンに着くころには足がどうにかなってるだろうね。」

俺は土手を50ヤードほど登ってから、足跡をたどって引き返し、家からだいぶ下流にあるカヌーのところへ戻った。飛び乗って、急いで出発した。上流へカヌーを漕いで島の先端まで行き、それから横断を始めた。日よけ帽子を脱いだ、あんなのかぶってたくなかったからだ。真ん中あたりまで来たとき、時計が鳴り始めるのが聞こえたので、立ち止まって耳を澄ました。音は水の上をかすかに、でもはっきりと伝わってきた――十一時だった。島の先端に着いても息を整えたりせず、ほとんど息が切れそうだったけど、そのまま昔キャンプしていた林の中へ突っ込んで行き、そこに高くて乾いた場所で大きな焚き火を起こした。

それからまたカヌーに飛び乗って、俺たちの場所まで一気に1マイル半下った。上陸して、林を抜けて尾根を登り、洞窟へ入った。ジムは地面に寝転がってぐっすり眠っていた。俺はジムを揺り起こして言った。

「起きて、急げよ、ジム! 一分も無駄にできない。奴らが俺たちを追ってる!」

ジムは何も訊かず、一言も発しなかったが、その後三十分間の働きぶりを見れば、どれだけ怖がってたかわかる。俺たちが持ってる物は全部いかだに積み込まれ、いかだは柳の茂みの陰から押し出せる準備ができた。まずは洞窟の焚き火を消し、それからは外でロウソク一本つけることもなかった。

俺はカヌーを少し岸から出して、様子をうかがった。もし舟がいたとしても、星や影ばかりで何も見えなかった。それからいかだを出して、島の端を音もなくすり抜けて下流へ滑っていった――誰も一言も口にしなかった。

第十二章

ようやく島を下ったときは、もう一時近くだったはずだ。いかだの進みはどうにも遅く感じた。もし舟が近づいてきたら、カヌーに乗り換えてイリノイの岸まで逃げるつもりだった。舟が来なくてよかった――なにしろ、俺たちはカヌーに銃も釣り糸も食べ物も積んでなかったんだから。それくらい焦っていた。全部いかだに積み込んだのは、あんまり賢くなかった。

もし追っ手が島へ行ったとしたら、俺が作った焚き火を見つけて、一晩中ジムが戻るのを見張ってたんだろう。まあ、どっちにしろ奴らは俺たちには近づかなかったし、焚き火で騙せなかったとしても、それは俺のせいじゃない。できるだけうまくやったつもりだ。

夜明けの気配が見え始めたころ、俺たちはイリノイ側の大きな川の曲がり角にある砂州にいかだをつけ、手斧で綿の木の枝を切り落としていかだを覆い、まるで岸が崩れたみたいにカモフラージュした。砂州というのは、綿の木が歯車の歯みたいに密集して生えている中洲のことだ。

ミズーリ側には山々があり、イリノイ側には深い森があった、その場所では川の本流はミズーリ側を流れていたから、誰かが偶然通りかかる心配はなかった。昼間はそこでじっとして、いろんな筏や蒸気船がミズーリ側を下っていくのを眺めたり、上りの蒸気船が川の流れに逆らって必死に進むのを見たりしていた。俺はジムに、あの女の人と話したときのことを全部話した。ジムは、あの人は賢い人だ、もし自分で俺たちを追うならキャンプの火なんか見張らず犬を連れてくるだろう、と言った。じゃあ、旦那さんに犬を連れてくるよう頼めばよかったのに、と俺が言ったら、ジムは、きっと出発のころにはそのことも思いついたんだろう、だから犬を手に入れに町まで行ってて時間をロスした、それで俺たちが村から十六、十七マイルも離れたこの砂州にいられたんだろう、でなきゃまたあの町に逆戻りしてたはずだ、と言った。だから俺は、理由がなんであれ、俺たちを捕まえられなかったんならそれでいい、と言った。

日が暮れかけたころ、俺たちは綿の木の茂みから頭を突き出し、上下流や対岸を見回したが、何も見えなかった。それでジムは筏の上の板を何枚か外して、小屋(ウィグワム)を建てた。暑い日も雨の日もその下に入れるし、荷物も濡れないようにできた。ジムは床も作って、筏のレベルより一尺ほど高くしたから、毛布も道具も蒸気船の波が来ても水に浸からなくなった。ウィグワムの真ん中には、枠で囲った五、六インチの厚さの土を敷いた――これは雨の日や寒い日に火を焚くためだ。ウィグワムなら、火が外から見えない。予備の舵用オールも作った。ほかのオールが流木や何かで折れるかもしれないからだ。それから、古いランタンを吊るすための短いY字型の棒も作った。蒸気船が下ってきたら、必ずランタンを灯して轢かれないようにしないといけない。でも、上りの船には、いわゆる「クロッシング(横断地点)」にいるとき以外は灯さなくてよかった。川はまだかなり増水していて、低い岸は水に浸かっていることもあったから、上り船はいつも本流を通るわけじゃなく、流れの緩い場所を探しながら進んでいた。

二晩目は七、八時間も流されて、流れが時速四マイル以上出ていた。魚を釣ったりおしゃべりしたり、ときどき泳いで眠気を飛ばした。大きな静かな川を下りながら、仰向けになって星を眺めていると、自然と声も小さくなるし、あまり笑うこともなかった。せいぜい小さくクスクス笑うくらいだった。天気はほとんど良くて、その晩も、次の晩も、その次の晩も、何も起こらなかった。

毎晩、町を通り過ぎた。黒い丘の上にぽつんと光が敷き詰められていて、家は一軒も見えない。五晩目にセントルイスを通り過ぎたときは、まるで世界中が光に包まれたみたいだった。セント・ピーターズバーグでは、セントルイスには二万か三万人いるって言われていたが、その夜中の二時、あの見事な灯りの広がりを見るまで信じていなかった。音は何も聞こえなかった。みんな眠っていたんだ。

今では毎晩、十時ごろになるとどこか小さな村に上がって、十セントか十五セント分の粉やベーコンなど食べ物を買っていた。時には、居心地悪そうに寝ているニワトリを失敬して持って帰ることもあった。パプはいつも、チャンスがあればニワトリを取っとけ、自分で食べなくても欲しがる人は必ずいる、いいことは忘れられないもんだ、と言っていた。俺はパプがニワトリを欲しがらなかったのを見たことがないけど、とにかくそう言っていた。

夜明け前にはトウモロコシ畑に忍び込んで、スイカやマクワウリやカボチャや新しいトウモロコシなんかを失敬した。パプは、いつか返すつもりなら物を借りるのは悪いことじゃない、と言っていたが、未亡人は、それは盗むってことをきれいな言葉でごまかしてるだけで、まともな人間はそんなことしないと言っていた。ジムは、未亡人もパプも半分正しいだろうから、リストの中から二、三品選んで、それだけはもう借りないことにすれば、あとは借りても悪くないだろう、と言った。それで、二人で一晩中川を下りながら、どれをやめるか考えた。スイカにするか、マクワウリにするか、あるいはマクワウリか――そんなふうに。でも、夜が明けるころには結論が出て、クラブアップルとカキはやめることにした。これで気持ちもすっきりした。俺もこの決まり方でよかったと思った。だって、クラブアップルはうまくないし、カキはあと二、三ヶ月は熟さないから。

早起きしすぎた水鳥や、寝るのが遅すぎた水鳥を時々撃って食べたりもした。全体として、なかなかいい暮らしだった。

セントルイスを過ぎて五晩目に、夜中を過ぎて大嵐になった。雷と稲妻がすごくて、雨は滝みたいに降りしきった。俺たちはウィグワムにこもって、いかだは流れに任せた。稲妻が光ると、前方に真っ直ぐ伸びる川と、両岸の高い岩山が見えた。しばらくして俺が言った。「なあ、ジム、あそこ見てみろ!」そこには、岩にぶつかって壊れた蒸気船があった。俺たちはまっすぐその方角へ流されていた。稲妻がはっきりと船を照らし出した。船は傾いていて、上甲板の一部は水の上に出ていた。煙突の留め金までくっきり見えて、ベルのそばには椅子があり、背もたれには古いソフト帽がかかっているのが、稲妻のたびに浮かび上がった。

夜で嵐もあって、すべてが神秘的な雰囲気だったから、俺は他のどんな男の子でもそうしただろうけど、あの悲しげで寂しい沈没船を見て中を探検したくなった。だから言った。

「ジム、船に上陸しようぜ。」

でもジムは最初から猛反対だった。

「俺は難破船なんかに関わりたかない。今のままで十分うまくいってるんだから、聖書にもある通り、余計なことはするもんじゃない。どうせ見張りがいるに決まってる。」

「年寄りの見張りなんかいるもんか」と俺。「見張るものなんて、テキサスデッキと操舵室くらいだ。そんな夜に命賭けて見張るやつがいると思うか? いつ船が崩れて流されるかわからないんだぜ?」これにはジムも何も反論できなかった。「それにさ」と俺は続けた。「船長室にいいものがあるかもしれない。葉巻とかさ――絶対あるぜ、一本五セントもするやつが。蒸気船の船長は金持ちで、月に六十ドルも給料もらってる。欲しいものなら金なんか気にしないさ。ろうそくをポケットに突っ込んで行こうぜ。ジム、俺は気が済まない、絶対中を探さないと。トム・ソーヤーだったらこんなの見逃すか? 絶対しない。これを冒険って呼ぶんだ、きっとそう呼ぶ。もしトムがいたら、最後の一瞬でも絶対やるさ。しかも格好良く決めるぜ、どんな派手にやるか――クリストファー・コロンブスが新天地を発見したみたいな騒ぎだ。トム・ソーヤーがいればなあ。」

ジムはぶつぶつ言いながらも、結局折れた。ただし、できるだけ話さず、小声で話すようにと言い聞かせた。ちょうど稲妻がまた船を照らし出し、俺たちは右舷側のデリックにたどり着き、そこにカヌーを結びつけた。

デッキはここでは高かった。俺たちはデッキの傾斜を左舷(ラボード)側に向かってそろそろと歩き、足で探りながら、両手を広げてワイヤーにぶつからないように進んだ。何も見えないくらい暗かったんだ。やがてスカイライトの前端に当たり、そこによじ登った。次の一歩で船長室の前に来た。ドアは開いていて、なんと、テキサスホールの奥に明かりが見えた! 同時に、低い声も聞こえた気がした。

ジムはささやいて、ものすごく具合が悪いと言い、戻ろうとせがんだ。俺は「わかった」と言って筏へ戻ろうとしたが、ちょうどそのとき声が上がった。

「頼むよ、みんな、もう絶対言わないから!」

もう一つの声が、かなり大きく言った。

「嘘だな、ジム・ターナー。お前は前からそうだった。いつも分け前以上を欲しがって、そのためなら黙らないと脅して手に入れてきた。でも今回はやりすぎだ。お前はこの国で一番卑劣で裏切り者の犬野郎だ。」

このときにはジムはもう筏に戻っていた。俺は好奇心で頭が爆発しそうだった。自分に言い聞かせた。「トム・ソーヤーなら今、絶対逃げたりしない。だから俺も逃げない。何が起きてるのかこの目で見てやる。」それで俺は四つん這いになって暗い通路を奥へ忍び込み、テキサスホールの横手にある船室一つ分まで近づいた。そこで中をのぞくと、床に手足を縛られた男が横たわり、その上に二人の男が立っていた。片方が薄暗いランタンを持ち、もう一人はピストルを持っていた。ピストルを持った方は、床の男の頭に銃口を向けて何度も言った。

「やりたいもんだなあ! やるべきだよ――このクズ野郎!」

床の男は縮こまって「頼むから、ビル、もう絶対言わないから」と懇願した。

そのたびにランタンの男は笑いながら言った。

「本当にそうだろうな! 今のお前ほど正直なこと言ったことないぜ、賭けてもいい。」また一度は「泣き言ぬかしてやがる。でももし俺たちがこいつを縛り上げてなかったら、今ごろ俺たち二人とも殺されてただろう。なんでかって? ほんのことのついでだ。俺たちが自分の権利を主張しただけだ――それだけの理由だ。でもな、もう人を脅すのは終わりだ、ジム・ターナー。ピストルをしまえ、ビル。」

ビルは言った。

「嫌だよ、ジェイク・パッカード。俺はこいつを殺す派だ――あいつがハットフィールドを殺したのと同じだろ、罰が当たって当然だ。」

「でも俺は殺したくない、ちゃんと理由がある。」

「その言葉はありがたいぜ、ジェイク・パッカード! 一生忘れないよ!」と床の男が泣きながら言った。

パッカードはそれに構わず、ランタンを釘にかけて、俺のいる暗がりの方に歩き出し、ビルにも来るよう合図した。俺は必死に2ヤードほど後ずさったが、船が傾いていたのでなかなか進めなかった。追いつかれて捕まらないように、上側の船室に這い込んだ。男たちは暗闇の中を手探りで近づいてきて、パッカードが俺のいる船室のところで言った。

「ここだ――入れ。」

そして二人とも中に入ってきた。でも入ってくる前に、俺は上の寝台の隅に逃げ込んで、来たことを後悔していた。やつらは寝台の縁に手をかけて、そこで話し始めた。姿は見えないが、ウイスキーの匂いでどこにいるかわかった。ウイスキーなんて飲まなくてよかったと思ったが、飲んでいたところでほとんど息も止めていたから、気付かれなかっただろう。怖すぎて息もできなかったし、それに、こんな話してるのを聞いてると呼吸どころじゃない。二人は声を潜めて真剣に話していた。ビルはターナーを殺したいと言った。

「あいつはばらすって言ってるし、必ずやるだろう。今ここで分け前全部渡したって、さっきの喧嘩やこれまでの仕打ちを思い出したらどうせ証人になっちまう。絶対間違いない、俺はあいつを楽にしてやるべきだと思うぜ。」

「俺もだ」とパッカードが、とても静かに言った。

「なんだよ、てっきりお前は違うのかと思いかけてたぞ。よし、それなら問題ない。行ってやっちまおうぜ。」

「ちょっと待て、まだ俺の話が終わっちゃいない。よく聞け。撃つのも悪くねぇが、もしどうしてもやらなきゃならねぇってんなら、もっと静かなやり方もある。だけど俺が言いたいのはこうだ。わざわざ危ない橋を渡るより、同じだけのことができて、しかもリスクのないやり方があるんなら、そっちを選んだ方が賢いってことだ。違うか?」

「その通りだよ。でも今回はどうやってやるつもりなんだ?」

「こうだ。今からサッと動いて、客室で見落としてた獲物を集めて、岸に上がってそれを隠す。それから待つんだ。俺の考えじゃ、この難破船はあと二時間もすりゃバラバラになって川に流されちまう。そうなりゃ、あいつは溺れて自業自得ってわけだ。わざわざ殺すよりよっぽどマシだと思う。人を殺すのは、どうしても避けられない場合以外はよくないし、分別もなけりゃ道徳的でもねぇ。そうだろ?」

「そうだな、たしかに。でももし船がバラバラになって流されなかったらどうする?」

「それでも、とにかく二時間は待てるだろ?」

「よし、分かった。行こうぜ。」

そう言って、あいつらは動き出した。俺は冷や汗ダラダラで飛び出し、前の方へ這って進んだ。そこは真っ暗闇で、俺は荒っぽいささやきで「ジム!」と呼んだ。ジムはすぐそばでうめくように返事をした。そこで俺が言った。

「急げ、ジム。今はうろうろしたりうめいてる暇なんかねぇ。あそこに殺人者の一味がいる。俺たちがあいつらのボートを見つけて、川下に流しちまえば、やつらはこの難破船から逃げられなくなる。そうすりゃ一人どころか、あいつら全員が困ることになる。保安官が捕まえてくれるだろう。急げ! 俺は左舷を探す、お前は右舷だ。筏のほうから始めて――」

「おお、なんてこった! 筏やて? もう筏なんかありゃせん! 外れて流れてった、俺たちはここや!」


第十三章

俺は息を呑んで、危うく気を失いそうになった。あんな連中と一緒に難破船に閉じ込められるなんて! でも今は感傷にひたってる暇なんかなかった。なんとしてもボートを見つけなきゃならない――自分たちのために。俺たちはガタガタ震えながら右舷側を探し、遅々として進まなかった。船尾にたどり着くまで一週間くらいかかった気がした。ボートの気配はない。ジムは、もうこれ以上進めないって言った。怖すぎて、ほとんど力が残ってないって。でも俺は、ここに置いてかれたらおしまいだって言って、なんとか進むように言い聞かせた。俺たちはまた這い進んだ。テキサスの船尾にたどり着き、そこからスカイライトの上を這いながら、雨戸から雨戸へとつかまり進んだ。スカイライトの縁は水に浸かっていた。クロスホールのドアにだいぶ近づいたとき、そこにスキッフがあった! やっと見えた。心底ありがたいと思った。あと少しで乗り込めるところだったのに、その時ドアが開いた。男の一人が頭だけ出して、俺のすぐそば、二フィートもない所で、俺はダメかと思った。でも男はすぐに頭を引っ込めて、「そのランタンをどこか見えない所にやれ、ビル!」と言った。

パッカードが何か袋をボートに投げ入れ、自分も乗り込んで腰を下ろした。ビルもすぐに出てきて乗り込んだ。パッカードが低い声で言った。

「よし、準備できた――離せ!」

俺は雨戸にしがみつくのもやっとの状態だったけど、ビルが言った。

「待てよ――あいつのポケットは探ったか?」

「いや。お前は?」

「いや。ってことは、まだ現金持ってるってことだな。」

「なら戻ろう。物だけ持ってって金を置いてくるのはバカらしい。」

「でも、あいつに気づかれないか?」

「気づかねぇかもな。でもどうせ必要だ。行こう。」

あいつらはまた船内へ戻っていった。

ドアは傾いた側だからバタンと閉まった。その瞬間、俺はボートに飛び乗った。ジムも転がり込んできた。俺はナイフを抜き、ロープを切った。そしたら、すぐに船を離れた! 

櫂には一切触らず、俺たちは声も出さず、ささやきもせず、ほとんど息すら止めて、音もなくすっと流れていった。パドルボックスの先端を通り過ぎ、船尾を通り過ぎ、あっという間に難破船から百ヤードも下流に出て、闇に包まれ、何もかも見えなくなった。ようやく、助かったと分かった。

三、四百ヤード下流に流れたころ、テキサスのドアの所にランタンの明かりが一瞬、火花のように見えた。それで、あいつらが自分たちのボートがなくなっていることに気づいて、自分たちもジム・ターナー同様、困った状況に陥ったと分かり始めたんだと分かった。

それからジムが櫂を手に取り、俺たちは筏を探しに出た。その時初めて、俺はあの連中のことを心配し始めた――今までそんな余裕がなかっただけだ。殺人者でも、こういう目に遭うのはさすがに気の毒だと思った。俺は心の中で、もしかしたら自分もいつか殺人者になるかもしれない、そしたら俺だってどうなるか分からねぇよな、と思った。だからジムにこう言った。

「最初に明かりを見つけたら、その百ヤード下か上の、ジムとスキッフが隠れやすい場所に上陸しよう。それから俺が何か話をでっち上げて、誰かを呼んであの連中を助けに行かせる。そうすりゃ、いずれ法の裁きを受けるさ。」

でもその考えは無駄だった。すぐにまた雨が降り出して、さっきより酷くなった。雨はどしゃぶりで、灯りは一つも見えなかった。きっとみんな寝てるんだろう。俺たちは川を下りながら灯りと筏を探し続けた。しばらくして雨は止んだが、雲は残り、稲妻が時折光っていた。やがて稲妻の光で、黒い物体が流れているのが見えた。俺たちはそれを目指した。

それは筏だった。俺たちは心底うれしかった。右手の岸の遠くに灯りが見えた。俺はそこへ行くと言った。スキッフにはさっきの連中が難破船から盗んだ荷物がいっぱいだった。俺たちはそれを筏に山積みにして、ジムには「二マイルくらい流したら明かりを出してくれ。俺が戻るまでずっと灯しといてくれ」と言った。そして俺は櫂を握り、灯りの方へ向かった。近づくと丘の上に三つか四つ灯りが見えた。村だった。岸の灯りの上流側に近づき、櫂を止めて流れに任せた。通り過ぎる時、それが二重船体のフェリーボートの旗棒に吊るされたランタンだと分かった。俺は船番がどこで寝ているか探して回った。やがて前のビットに腰掛け、膝に頭をうずめて寝ているのを見つけた。俺は肩を二、三度揺すって、泣き真似を始めた。

男は驚いた様子で身を起こした。でも俺だと分かると大あくびをして伸びをし、それからこう言った。

「おい、どうした? 泣くなよ、坊や。何があった?」

俺は言った。

「おやじと、おふくろと、妹と――」

そこまで言って、泣き崩れた。男は言った。

「おいおい、そんなに悲しむことねぇさ。みんなそれぞれ苦労ってもんがあるもんだ。今回はきっとなんとかなる。どうしたんだ?」

「みんな、その、あんた――船の番人さんなの?」

「ああ」と男はどこか満足げに言った。「俺は船長であり、オーナーであり、航海士であり、水夫長であり、甲板長であり、時には荷物や乗客でもある。ジム・ホーンバックほど金持ちじゃねぇし、あいつみたいに気前よくトムやディックやハリーに金をばら撒いたりもできねぇ。けど、何度も言ってやったさ。俺はあいつと立場を変わるなんてごめんだ。船乗りの人生が一番だし、町の二マイルも外れで何もない所に住むくらいなら、金がいくらあっても嫌だってな。だが――」

俺は話をさえぎって言った。

「みんな、大変な目に遭ってて――」

「誰がだ?」

「おやじと、おふくろと、妹と、フッカー嬢だよ。もしあんたのフェリーボートで上流まで行ってくれたら――」

「上流? どこにいるんだ?」

「難破船さ。」

「なんの難破船だ?」

「一つしかないじゃないか。」

「まさか、ウォルター・スコット号じゃないだろうな?」

「そうだよ。」

「なんてこった! 一体、何しにそんな所に行ったんだ?」

「わざとじゃないんだ。」

「そりゃそうだろうよ! こんなところにいたら、早く逃げないと命がねぇぞ! いったい何があってそんなことになったんだ?」

「簡単さ。フッカー嬢が町に遊びに来てて――」

「ああ、ブース・ランディングだな。続けてくれ。」

「ブース・ランディングに遊びに来てて、夕方になると黒人の女中と一緒に馬渡し船で友達の家に泊まりに行こうとしたんだ。でも舵櫂をなくして、後ろ向きに二マイルも流されて、難破船にぶつかった。船頭も女中も馬もみんな流されちまったけど、フッカー嬢だけは何とか難破船にしがみついた。暗くなってから一時間後くらいに、俺たちの商い船で川を下ってたんだけど、暗くて難破船に気付かなくて、そのままぶつかっちまった。でも俺たちはみんな助かったんだ、ビル・ウィップルを除いてな――あいつは最高の奴だった……俺が代わりに死ねばよかったくらいだ。」

「なんてこった! こりゃ今までで一番驚いた話だ。それからどうしたんだ?」

「叫んだり泣いたりしたけど、川幅が広すぎて誰にも聞こえなかった。だからおやじが、誰か一人が岸に泳いで助けを呼ばなきゃダメだって言った。俺だけが泳げたから、岸まで行くことにしたんだ。フッカー嬢は、もし途中で誰にも会えなかったら、町にいる叔父さんを探してくれって言ってた。俺は一マイルほど下流で岸に上がって、ずっと誰かを助けに行かせようとあちこち頼んで回ったんだけど、『こんな夜に、こんな流れの中で助けに行くなんて馬鹿げてる。蒸気フェリーを呼べ』ってみんな言うんだ。だから、もしあんたが――」

「ジャクソンの名にかけて、行ってやりたいけど、誰がその金を払うんだ? お前の親父が――」

「その心配はいらない。フッカー嬢が特に言ってたんだ。叔父のホーンバックが――」

「なんだって! あいつが叔父さんなのか? よし、あそこの明かりに向かって走れ。着いたら西に曲がって四分の一マイル行けば宿がある。そこからジム・ホーンバックの家まで連れてってもらえ。あいつが全部払ってくれるさ。グズグズしてる暇はないぞ、ホーンバックはすぐにでも知らせを聞きたがってるはずだ。俺はこれからエンジニアを起こしてくる。」

俺は灯りの方へ向かったが、あいつが角を曲がったのを見てから引き返してスキッフに戻り、水をかき出してから、岸沿いに六百ヤードほど進み、木材置場の船の間に身を隠した。だってフェリーボートが出発するのを見届けるまでは落ち着かなかったからさ。でも、なんだかんだで俺は結構満足してた。あんな悪党どものためにここまで骨を折る奴なんて、そうはいないからな。未亡人にこのことを知ってほしいと思った。あの人なら俺がこんな悪党――未亡人や善人が一番気にかけるのは、そういうならず者や怠け者なんだって――を助けたことを誇りに思ってくれただろうに。

やがて、ぼんやりした姿で難破船が流れてきた。寒気が背筋を走ったけど、俺はすぐに船に向かった。船底がかなり沈んでいて、もう誰も生きていないだろうとすぐ分かった。ぐるりと回って少し叫んでみたけど、返事はなかった。死んだように静かだった。ちょっと気が重くなったけど、でもまあ、あいつらが耐えられるなら、俺も耐えられるさと思った。

それからフェリーボートがやってきたので、俺は川の真ん中に向かって下流に斜めに漕ぎ出した。もう見つからないと判断してから、櫂を止めて振り返ると、ボートが難破船を調べて回っていた。船長はホーンバックの姪の遺体を、叔父が欲しがるだろうと思って探しているんだろう。そしてやがて諦めて岸に戻り始めたので、俺はまた懸命に漕いで川を下った。

ジムの明かりが見えるまで、ものすごく長い時間がかかった気がした。やっと見えた時には、何マイルも離れているように思えた。着いた頃には空が東の方からうっすら明るくなり始めていた。俺たちは島に向かい、筏を隠し、スキッフを沈めて、死んだように眠った。


第十四章

しばらくして目が覚めると、俺たちは悪党どもが難破船から盗んだ荷物をひっくり返してみた。ブーツ、毛布、服、それにいろんな物が入っていて、本の束と望遠鏡、葉巻が三箱もあった。俺たちの人生で、こんなに金持ちになったことはなかった。葉巻は最高だった。午後はずっと森の中で寝転んで、本を読んだり、ジムと話したりして楽しく過ごした。俺はジムに難破船とフェリーボートでの出来事を全部話した。こういうのを冒険って呼ぶんだと俺は言ったけど、ジムは二度と冒険なんかごめんだと言った。あの時、俺がテキサスに行き、ジムが筏に戻ろうとした時、筏がなくなってるのを見て死にそうになったって。どうせもう終わりだと思ったらしい。助からなければ溺れるし、助けられたら、きっと家に送り返されて賞金をもらうために南部へ売られる、間違いないって。まぁ、ジムの言う通りだった。ジムはいつも大抵正しい。黒人にしては、並外れてしっかりした頭を持ってた。

俺はジムに、王様や公爵、伯爵とか、そいつらがどんなに派手に着飾って、どんなに偉そうにしていて、お互いに「陛下」とか「閣下」とか「ご公爵」とか呼び合うんだってことをたくさん読んで聞かせた。ジムは目を丸くして興味津々だった。ジムが言った。

「そんないっぱいおるなんて知らなんだ。ワイ、ソロモン王しか知らんで、あとはトランプの王様くらいや。王様っちゅうのは、どれくらい金もろうんや?」

「金? そりゃあ、月に千ドルだって欲しいだけもらえる。何だって手に入るんだ。」

「ほんまかいな? それで王様は何しよるん?」

「何もしねぇよ! お前、何言ってんだ! ただ座ってるだけさ。」

「うそやろ? ほんまに?」

「当たり前だ。何もしない――ただ座ってるだけ。まぁ戦争があれば戦に出ることはあるけど、それ以外はだらだらしてるか、鷹狩りしてるだけ――鷹狩りや、そんで……おい、なんか音聞こえたか?」

俺たちは抜け出して様子を見たが、遠くで蒸気船の車輪が唸ってるだけで、また戻った。

「ああ」と俺は続けた。「あと、手持ち無沙汰な時は議会で揉めたりする。もしみんなが言うこと聞かねぇと、首をはねちまう。それ以外はだいたいハーレムで遊んでる。」

「ハーレムて、何や?」

「ハーレム。」

「ハーレムって何や?」

「自分の奥さんたちを住まわせてる場所のことだ。ハーレムを知らないのか? ソロモンが持ってたんだ。奥さんが百万くらいいたんだぞ。」

「そりゃそうやったな、俺、すっかり忘れとったわ。ハーレムっちゅうんは、下宿屋みたいなもんやろな。たぶん子供部屋はいつも大騒ぎやろうな。それに奥さん同士がしょっちゅうケンカしとるやろうし、それで余計にうるさくなるわけや。でもな、みんなソロモンは史上最高の知恵者やって言うんやろ? 俺はそんなもん信じんで。なんでか言うたら、賢い人間があんなドタバタ騒ぎの中で暮らしたいと思うはずないやろ? 絶対思わんて。賢い人間やったら、鍋工場でも建てて、休みたい時には工場を止めるわ。」

「でも、やっぱり彼は一番賢かったんや。だって未亡人が自分でそう言うてたもん。」

「未亡人がなんて言おうが俺は気にせんわ、ぜんぜん賢い人間ちゃうやろ。あいつのやり方なんて、俺が今まで見た中でも最悪や。お前、あの子供を二つに切ろうとした話、知ってるか?」

「ああ、未亡人が全部話してくれた。」

「ほらな! あれ、世界一アホな考えとちゃうか? ちょっと考えてみいや。ほら、ここが切り株や、それが一人の女で、ここにもう一人の女もいる。俺がソロモンや。この一ドル札がその子供や。二人ともその子供を欲しい言う。そしたら俺はどうする? 普通の感覚持ってる人間やったら、近所の人に聞いて回って、本当にその子供の親が誰か調べて、ちゃんと本物の親に返すやろ。でもソロモンはそうせんかった。ただその札を真ん中から二つに割って、一方には半分、もう一方にはもう半分渡す。それが子供にも同じことをしようとしたんや。なあ、聞きたいんやが、半分の札に何の意味がある? 何も買えへんやろ。半分の子供なんて何の役に立つ? 俺やったら、そんなもん百万あってもいらんわ。」

「でもなあ、ジム、お前は肝心なところを丸っきり見逃してるんだよ。まったく、全然わかってない。」

「誰やて? 俺がか? やめてくれや。そんな訳の分からん話を俺にするな。俺は何が筋の通った話か分かってるつもりや、あんなやり方には筋が通っとらん。争いは半分の子供のためじゃなくて、丸ごとの子供のためや。丸ごとの子供の争いを半分の子供で解決できる思うようなやつは、雨の中でずぶ濡れになっとることにも気づかんほどアホや。ソロモンの話なんかやめてくれ、ハック。俺はあいつの裏の顔まで知っとる。」

「でもな、やっぱりお前は肝心なところがわかってへん。」

「肝心なところやて! 俺は俺の知ってることを知っとるわ。それに本当のポイントは、もっと深いところにあるんや。ソロモンがどんな育ち方したかってことや。子供が一人か二人しかおらん男なら、その子供をむやみに粗末に扱うか? そんなんできへんて。大事にするやろ。でも五百万も家じゅうに子供が走り回っとる男やったら、話はちゃうわ。猫を真っ二つにするのと同じくらい平気で子供も二つにするやろ。まだまだ他にもいっぱいいるしな。子供が一人や二人、増えようが減ろうが、ソロモンには屁でもなかったんや、まったく!」

こんな黒人は見たことなかった。ひとたび何か思い込んだら、絶対に頭から追い出せへん。ソロモンの悪口を言わせたら、俺が知ってるどの黒人よりも徹底してた。だから俺はソロモンの話はやめて、ほかの王様の話をした。昔フランスで首を切られたルイ十六世の話や、その息子で「ドーファン」って呼ばれてた子は、本当なら王様になるはずやったのに、捕まって牢屋に入れられて、そこで死んだって人もいるって話をした。

「かわいそうな子やな。」

「でも、実は脱走してアメリカに来たって言う人もいるんや。」

「そりゃええな! けど、アメリカじゃ王様なんておらんやろ、ハック?」

「おらん。」

「ほな、仕事もらわれへんやん。どうすんねん?」

「うーん、王様の中には警官になったり、人にフランス語を教えたりするやつもおるで。」

「なあハック、フランス人は俺らと同じ言葉しゃべるんちゃうの?」

「ちゃうで、ジム。全然わからへんで、一言も。」

「ええっ、そんなアホな! どうしてや?」

「俺も知らんけど、そうなんや。本に載ってる言葉をちょっと覚えたことある。もし誰かお前のところに来て『ポリヴー・フランセ』なんて言ったら、どう思う?」

「何とも思わんわ。もしそいつが白人やなかったら、頭ぶん殴ったるわ。黒人にそんなこと言わせへんで。」

「いや、別に悪口ちゃうねん。ただ『フランス語しゃべれる?』って聞いてるだけや。」

「やったら、そう言えばええやんか。」

「いや、それがフランス人の言い方なんや。」

「アホらし! もうそんな話聞きたないわ。訳分からん。」

「なあジム、猫は俺らみたいにしゃべるか?」

「しゃべらん。」

「牛はどうや?」

「牛もちゃう。」

「猫が牛みたいにしゃべるか? 牛が猫みたいにしゃべるか?」

「そんなんせんやろ。」

「お互いに違うしゃべり方するのが当たり前やろ?」

「そらそうや。」

「じゃあ、猫と牛が俺らと違うしゃべり方するのも当然やろ?」

「まあ、そらそうや。」

「ほんなら、フランス人が俺らと違うしゃべり方するのも当然やと思わへんか? どうや?」

「猫は人間か、ハック?」

「ちゃう。」

「やろ? ほんなら、猫が人間みたいにしゃべる必要ないやろ。牛は人間か? 牛は猫か?」

「どっちでもないで。」

「やろ? ほんなら、牛が人間みたいにも猫みたいにもしゃべる必要ないやろ。フランス人は人間か?」

「そうや。」

「やろ! ほんなら、なんで人間らしくしゃべらへんのや? それ答えてみいや!」

もう話してもムダやと思った。黒人には屁理屈で勝とうとしても無駄や。だからやめた。

第十五章

俺たちは、あと三晩ぐらいでイリノイ州の端っこ、オハイオ川が合流するカイロに着くやろうと見当をつけてた。そこが目的地や。筏を売って蒸気船に乗り換えて、オハイオ川を上って自由州まで行けば、もう厄介なこととは無縁になるはずやった。

で、二晩目のこと、霧が出てきて、俺たちは小島に繋ごうとした。霧の中を進むのは無理やからな。でも、俺がカヌーで先に出てロープを巻こうとしたけど、繋げるのは細っこい幼木だけやった。そいつにロープを巻きつけたけど、流れが速くて、筏が勢いよくぶつかって、木の根ごと引っこ抜いてしまった。それで筏は流されていった。霧がどんどん濃くなってくるのを見て、俺は気分が悪くなって怖くて、しばらく身動きできへんかった気がする――それから筏の姿が消えて、もう二十ヤードも見えんようになった。

俺はカヌーに飛び乗って、船尾まで戻ってパドルをつかんで漕ごうとした。でも動かへん。焦りすぎてロープをほどくの忘れとった。立ち上がってロープを外そうとしたけど、興奮しすぎて手が震えて、うまくできん。

どうにか出発して、筏を追いかけて必死で漕いだ。小島を抜けるまではうまくいったけど、その小島は六十ヤードもなかった。端っこを過ぎた瞬間、真っ白な霧の中に突っ込んで、どこに向かってるのか死体ぐらい分からんようになった。

「こんな時に漕いだらあかん。岸か小島か何かにぶつかってまう。じっとして流された方がいい」と思ったけど、こんな時にじっとしてるのはそりゃあ気が急くもんや。俺は大声で呼んで、耳を澄ませた。ずっと向こうから小さく返事が聞こえてきて、元気が出た。そっちへ向かって、耳をすませながら漕いだ。次に声が聞こえた時には、方向が右の方にずれてるのが分かった。その次は左にずれてて、ぜんぜん近づいてる気がせえへん。俺はあっち行ったりこっち行ったり、ぐるぐる回ってばっかりやのに、向こうは真っすぐ進んでるみたいやった。

あいつが空き缶でも叩いてくれたら、ずっと音がしてて分かりやすいのに、そんなことはしてくれへん。声と声の間の静けさが余計ややこしくしてた。俺は必死でやってたけど、そのうち後ろから声が聞こえてきた。もう完全に混乱してた。それは誰か別の人の声か、俺の向きが逆になってしまってるかだった。

俺はパドルを放り投げた。もう一度呼ぶ声がした。また後ろやったけど、さっきと違う場所や。声はどんどん場所を変えて返ってくる。俺はそれに返事してたけど、そのうちまた前から聞こえるようになった。流れがカヌーを下流に向けてくれたんやと分かって、あれがジムの声ならこれで大丈夫やと思った。でも霧の中じゃ声の区別なんてつかん。何もかも見たことないし、聞いたこともないみたいに、全部がおかしく感じる。

呼び声は続いて、しばらくしたら、俺は煙ったような大きな木の影が並ぶ切り立った岸に突っ込んでいき、流れで左に流されて、ガンガン音を立てる流木やゴミの間を勢いよく通り過ぎた。流れがあまりにも速くて、木にぶつかる音が轟いてた。

またすぐ一面真っ白になって、静かに戻った。俺はじっと動かずに心臓の音を聞いてて、百回ぐらい脈打つ間、息もしてなかったと思う。

もうあきらめた。何が起こったか分かった。その切り立った岸は島やったんや。ジムは反対側に流されてしまった。十数分で通り過ぎるような小島やなかった。立派な木がびっしり生えた本物の島で、五、六マイルはありそうやし、幅も半マイル以上はあるやろう。

俺はおそらく十五分くらい、じっと耳を澄ませてた。もちろん流れは四、五マイル毎時で進んでたけど、そんなこと気にしない。じっと水の上に寝てるみたいな感覚になるんや。もし流木がちらっと見えたら、自分がどんだけ速く流されてるかなんて考えずに、「うわ、あの木はなんて速いんや」と思ってしまう。あんな風に夜の霧の中、一人で浮かんでみれば、どんだけ心細いか分かる。

次は、だいたい三十分くらいかな、たまに大声あげてみたけど、やっと遠くから返事が聞こえた。でも、なかなか近づけないし、じきに小島がいくつもある一帯に迷い込んだと思った。かすかに両側に小島が見えたり、間が細い水路になってたり、見えん場所でも流れが岸のゴミや枯れ枝に当たる音で「あ、ここにもある」って分かった。で、小島に迷い込んだら呼び声もすぐ分からんくなったし、どうせ追いかけても鬼火を追いかけるようなもので、めちゃくちゃやと思ってすぐやめた。あんなに素早く音が動いて、すぐ場所を変えるのなんて、ほかに知らん。

岸から離れようと必死で漕いだのも四、五回はあった。島にぶつかるのを避けるためや。きっと筏も時々岸にぶつかったり、もっと先に行ってしまったりして、俺の耳に届かんようになってたんやろう。筏の方が少し速かったしな。

やがてまた広い川に出た気がしたけど、もうどこからも呼ぶ声は聞こえんかった。ジムは流木にでもひっかかって死んだんとちゃうかと思った。俺はもうクタクタやったから、カヌーの中で寝転がって「もうやめや」と思った。もちろん寝るつもりなんてなかったけど、眠気には勝てへんかった。「ちょっとだけ目を閉じるだけや」と思った。

でも、たぶん「ちょっと」どころやなかった。目を覚ました時には星がキラキラして、霧もきれいに晴れてて、カヌーは川の大きな曲がり角を船尾から流されていた。最初は自分がどこにいるか分からへんかったし、夢でも見てるんかと思った。だんだん色んなことが思い出されてきたけど、それもまるで先週のことを思い出すみたいにぼんやりしてた。

ここはとんでもなく大きな川で、両岸には背の高い木がぎっしり並んでて、星明かりで見る限り、まるで壁みたいやった。川下の方に黒い点が水の上に見えて、それを追いかけた。でも近づいてみたら、それはただの丸太が二本くくりつけてあるだけやった。もう一つ黒い点が見えたから、また追いかけてみた。今度も違った。でも三度目にやっと正解やった。それが筏やった。

近づくと、ジムは膝の間に頭を突っ込んで、舵取り用のオールに右腕をだらんとぶら下げて寝ていた。もう一本のオールは折れてて、筏の上は枝や葉っぱや泥でぐちゃぐちゃやった。ひどい目にあったみたいやった。

俺は筏をしっかり繋いで、ジムの鼻先の下で横になり、あくびをしながら背伸びして、ジムに言った。

「やあジム、俺寝てたんか? なんで起こしてくれへんかったん?」

「おおきに、おおきに、ハックか? 死んでへんのか、溺れてへんのか、また戻ってきたんか? ほんまやろか、こんなええことがあってええんか。顔見せてみ、触ってみ。ほんまや、生きとるやん! また戻ってきたんや、前と同じハックや――ほんまに良かったわ!」

「何やねん、ジム? 酒でも飲んだんか?」

「酒? 飲めたと思うか? そんな暇あったと思うか?」

「せやったら、なんでそんな変なことしゃべっとるんや?」

「どないおかしなこと言うた?」

「どないって? 俺が戻ってきたとか、あれやこれや、まるでどっか行ってたみたいなことばっかり言うてるやんか。」

「ハック――ハック・フィン、お前俺の目をちゃんと見てみい。ほんまにどっか行ってなかったか?」

「どっか行ったやて? 何のことや? 俺、どこにも行ってへん。どこに行くっちゅうねん?」

「ほんなら、やっぱりおかしいわ。俺は誰や? 俺はここにおるんか? それともどこや? それが知りたいんや。」

「お前はここやろ、どう見ても。でもジム、お前はほんまに頭が絡まったアホやで。」

「そうか? ほな聞くけどな、お前はさっきカヌーでロープ持って島に繋ごうとせんかったか?」

「してへんわ。どの島や? そんな島見てへん。」

「島見てへんのか? ほんまにロープが外れて、筏が川をバンバン流れて、俺とカヌーが霧の中で置いてけぼりになったんやろ?」

「何の霧や?」

「あの霧や! ――夜じゅう出てた霧や。お前も叫んだし、俺も叫んだ。そしたら島に迷い込んで、お互いに行方不明みたいになったやろ? 俺は何度も島にぶつかって、えらい目に遭って、死にかけたんやで? なあ、そうやろ? そうやったやろ? 答えてみい。」

「ジム、これは俺には多すぎる話だ。霧も、島も、トラブルも、何も見ちゃいない。俺はずっとここでお前としゃべってて、十分くらい前にお前が寝ちまって、それで俺も同じように寝てたと思う。そんな短い間に酔っ払えるはずもないし、だからこれは夢だったんだよ。」

「ったくもう、どうやったら十分でそげな夢見れるっちゅうんや?」

「まあ、どうあれ夢だったんだよ、だって何も起きちゃいないからな。」

「でもな、ハック、俺には全部はっきりしとるんやで――」

「どれだけはっきりしてたって関係ないよ。何もなかったんだ。だって俺はずっとここにいたんだから。」

ジムは五分ほど黙って座ったまま、そのことを考え込んでいた。それからこう言った。

「ほんならやっぱり俺は夢見てたんやな、ハック。でもな、こんなに力強い夢は初めてや。これほど疲れる夢も今までなかったわ。」

「まあ、それなら大丈夫だよ。夢ってのは時々ものすごく人を疲れさせるもんさ。でも今回のはすごい夢だったな。全部話してくれよ、ジム。」

それでジムは腰を据えて、まるで本当に起きたことのように、細かく話してくれた。しかもかなり脚色してな。それから「解釈」しないといけないと言い出した。これは警告として送られてきた夢なんだ、と。最初の小島は俺たちを助けようとする誰かを表し、でも川の流れはそいつから俺たちを引き離そうとする別の誰かを意味してる。叫び声は時折俺たちに訪れる警告で、それを注意深く聞こうとしなければ、災難に巻き込まれる、逆に無事なら災いを避けられるって話だった。いっぱいあった小島たちは、俺たちがこれから出会う口うるさい連中や意地悪な人間たちとのトラブルだと。でも、余計なことを言わずに自分のことだけやってれば、霧を抜けて広くて澄んだ川――つまり自由な州――に出られて、もう何も困ることはない、っていうんだ。

俺がいかだに戻ったときは空はかなり暗くなってたが、今はまた晴れてきていた。

「まあ、ここまではうまく解釈できてるよ、ジム」と俺は言った。「でも、このゴミと壊れたオールは何の意味なんだ?」

いかだの上の葉っぱやガラクタと、壊れたオールのことだった。今ならよく見える。

ジムはそのゴミを見て、俺を見て、またゴミを見た。夢の内容が頭に強くこびりついて離れないようだったが、気持ちを整理してやっと現実に戻ったとき、ジムはじっと俺を見て、にこりともせずにこう言った。

「それが何を意味しとるかって? 今言うたるよ。俺は働き疲れて、お前を呼び続けて疲れて、寝てしもうた。お前が行方不明になって、心はほとんど壊れそうやった。いかだがどうなろうがもうどうでもええ、そんな気持ちやった。でも、目が覚めたらお前が無事に戻ってきてて、涙が出てきた。ありがたくて、お前の足にひざまずいてキスしたいくらいやった。でもお前は、どうやってジムをバカにしてやろうかってことしか考えてなかった。そこにあるそのガラクタ、あれがゴミや。友だちの頭に泥を塗って恥をかかせるような奴、それがゴミや。」

それだけ言うと、ジムはゆっくり立ち上がって、ウィグワムへ入り、何も言わずにそのまま中へ消えた。でもそれで十分だった。俺はあまりにみじめな気持ちになって、ジムに許してもらうためなら足にキスしてもいいと思ったくらいだ。

黒人に頭を下げる気持ちになるまで、十五分はかかった。でも俺はやった。そしてそれを後悔したことは一度もない。もう二度とジムに意地悪なことはしなかったし、もしあんな気持ちにさせると知っていたら、そもそもこんなことはしなかった。


第十六章

俺たちはほとんど一日中寝ていて、夜になってから出発した。ものすごく長いいかだのすぐ後ろを進んだが、まるで行列みたいに延々と通り過ぎていった。両端には四本ずつ長い櫂があったから、三十人は乗ってるんじゃないかと思った。いかだには大きなウィグワムが五つ、それぞれ間隔を空けて建ってて、真ん中には焚火、両端には高い旗竿が立っていた。ものすごく立派なものだった。あんな船に乗る筏師になれたら、たいしたもんだって気分だった。

俺たちは大きな湾曲した川へ流れ込み、夜は曇って蒸し暑くなった。川幅は広く、両岸はびっしりと木に囲まれて、切れ目もほとんど見えないし、明かりもなかった。俺たちはカイロの町について話し合い、着いたとき分かるかどうか考えた。俺は「たぶん分からないだろう」と言った。カイロは家が十軒くらいしかないと聞いていたし、もし明かりがついてなければ、町を通り過ぎても分からないじゃないか、と。ジムは「二つの大きな川が合流してれば分かるはずだ」と言ったが、俺は「たぶん島の端を通り過ぎて同じ川に戻ったように思うかもしれない」と言った。それがジムの気持ちをざわつかせたし、俺も同じだった。どうするかを考え、俺は「明かりが見えたらすぐ岸へ漕ぎ寄せて、パプが後ろから筏で来ている、新米だからカイロまでどれくらいか教えてほしいと聞いてみよう」と提案した。ジムも賛成したので、俺たちはタバコを一服して待つことにした。

後はもう町を見逃さないようによく見張るしかなかった。ジムは「カイロさえ見えれば俺は自由の身だ」と言って、見逃したらまた奴隷州に戻って自由は絶たれるから絶対に見逃さないと言った。彼は何度も跳ね上がって「見えたか?」と言うが、それはただの鬼火やホタルで、また座り直す。そのたびに「自由にすごく近づいたと思うと全身震えて熱が出るようだ」と言う。俺だって同じくらい震えて熱くなった。だって、よく考えたら、ジムはもうすぐ自由になりそうなんだ――その責任は誰にある? ――だ。そのことが頭から離れず、良心が咎めて居ても立ってもいられなかった。今までこれがどんなことか、実感がなかったが、今ははっきりと分かった。その思いがどんどん俺を苦しめた。俺は「俺がジムを逃がしたわけじゃない」と自分に言い聞かせようとしたが、良心は「お前はジムが自由になるために逃げてるのを知ってて、誰かに知らせなかったじゃないか」と言い張る。それは本当だった。どうにもごまかせなかった。しかも、「ミス・ワトソンはお前に何をした? お前の目の前で奴隷が逃げても何も言わなかったじゃないか。あの可哀想なご婦人はお前に本を教え、マナーを教え、できる限り親切にしてくれたじゃないか」と良心は責める。

俺は情けなくて死んだほうがましだと思うほどだった。いかだの上をうろつきながら、自分で自分を責め、ジムも同じようにうろうろしていた。どちらもじっとしていられなかった。ジムが「カイロだ!」と踊りながら言うたびに、俺の胸はズキンと痛んで、もし本当にカイロだったら俺は苦しさで死んじまうと思った。

ジムはずっと声を出して、自由州に着いたら最初にすることはお金を貯めて、一銭も無駄にせず、十分貯まったら自分の妻を買い戻すんだと言った。彼女はミス・ワトソンの家の近くの農場にいた。それから二人で働いて子どもたちも買い戻すつもりだ、とも。もし主人が売ってくれなければ、アボリショニストに頼んで子どもたちを盗み出してもらうとも言った。

それを聞いて俺はぞっとした。ジムは今まで一度だってそんなことを口にしたことはなかった。自由が目の前に来ただけで、こんなにも変わるもんなんだ。「黒人に一寸あげたら一尺取る」という昔の言い回しの通りだ、と思った。これが思慮なしの俺のせいだ。俺の手助けで逃げた黒人が、堂々と自分の子どもを盗むと言っている。その子どもは、俺が知らない男の持ち物で、その人は俺に何も悪いことをしていないのに。

ジムの言葉を聞いて、俺は彼が堕ちたようで悲しかった。良心はますます俺を責める。ついに俺は心の中で「もうやめてくれ、まだ間に合う、明かりが見えたら岸へ行って全部話す」と決意した。その瞬間、俺は羽のように軽くなって、幸せでたまらなかった。悩みはすっかり消えた。俺は明かりを探して鼻歌まじりに見張った。やがて明かりが見えた。ジムが叫ぶ。

「助かったで、ハック、助かった! 跳ねて踵を鳴らせ! あれがカイロや、間違いない!」

俺は言った。

「カヌーで見てくるよ、ジム。違うかもしれないし。」

ジムは跳ね上がってカヌーを用意し、俺が座るように古い上着を敷いて、パドルを渡してくれた。俺が岸へ漕ぎ出そうとすると、ジムは言った。

「もうすぐ俺は叫ぶで、喜びでな。そしたら『全部ハックのおかげや、俺は自由の身や、もしハックがおらんかったら自由にはなれんかった、全部ハックのおかげや』って言うんや。ジムは絶対にお前のこと忘れへん。ハックはジムの一番の友達や、しかも今はジムの唯一の友達や。」

俺はジムを裏切るために汗だくで漕ぎ出したのに、そう言われたら力が抜けてしまった。ゆっくり進みながら、やるべきことなのか分からなくなった。五十ヤードほど離れたところでジムが言った。

「行くんやな、ハック。本当に約束を守る唯一の白人紳士や。」

もう俺は気分が悪くて仕方がなかった。でも、やるしかない、逃げられないんだ、と自分に言い聞かせた。ちょうどその時、銃を持った男が二人乗ったボートがやってきて、俺たちは止まった。男の一人が言った。

「あれは何だ?」

「いかだの一部です」と俺。

「お前はそのいかだの仲間か?」

「はい、そうです。」

「男が乗ってるのか?」

「一人だけです。」

「今夜、上流で黒人が五人逃げた。お前の連れは白人か黒人か?」

すぐに答えられなかった。答えようとしたが、言葉が出てこない。数秒なんとか勇気を出そうとしたが、ウサギよりも臆病だった。俺はもうダメだと諦めて、こう言った。

「白人です。」

「じゃあ、俺たちで確かめよう。」

「ぜひ見てください」と俺は言った。「あそこにいるのはパプで、いかだを岸に引き上げるのを手伝ってくれたら助かります。パプは病気で、母さんもメアリー・アンも同じです。」

「くそっ、急いでるんだが、しょうがないな。よし、パドルを取って進もうぜ。」

俺はパドルを取り、二人もオールを漕ぎ始めた。何度か漕いだところで俺は言った。

「パプはきっとあなたたちに感謝します。誰もいかだを岸に引き上げるのを手伝ってくれなくて、俺一人じゃどうにもなりません。」

「それはひどいな。珍しいこともあるもんだ。なあ坊や、お前の親父はどうしたんだ?」

「それは、その――たいしたことじゃないです。」

二人は漕ぐのをやめた。もういかだはすぐ近くだった。一人が言った。

「坊や、それは嘘だな。何が親父に起きたんだ? 正直に答えろ。そのほうがお前のためだぞ。」

「はい、正直に言います。でも、どうか置いていかないでください。お願いです、先に進んでください、いかだのヘッドラインを投げますから、近づかなくてもいいです――どうか、お願いします。」

「戻せ、ジョン、戻せ!」と一人が言い、水を戻し始めた。「離れとけ、坊主――風下に行け。くそっ、風でうつされたかもな。お前の親父は天然痘だな、わかってるんだよ。なぜ最初からそう言わなかった? 広めたいのか?」

「今まで誰に話しても、みんな離れていったからです」と俺は泣きながら答えた。

「かわいそうに、それは仕方ないな。すまないが、こっちも天然痘はご免だ。坊や、こうしなさい。一人で岸に着けようなんてするな、全部壊しちまうぞ。二十マイル下れば川の左岸に町がある。朝日がずっと昇ってから着くから、助けを求めるときはみんな熱病にやられてるって言うんだぞ。もう二度とバカな真似してうっかり病気をばらすな。俺たちは善意で言ってるんだ、二十マイル離れてくれ、それでいい。あそこに見える灯りのところに上陸しても無駄だ、あれは薪置き場だ。親父さんは貧しいだろうし、気の毒に思う。ここに二十ドル金貨を板に置いて流してやる、通り過ぎるときに取るんだぞ。後味悪いが、でも天然痘は冗談じゃすまんからな。」

「待てよ、パーカー」ともう一人が言い、「俺の分も二十ドル置いとく。じゃあな、坊や、パーカーさんの言う通りにすれば大丈夫だ。」

「そうだ、坊や――さようなら、さようなら。もし逃亡奴隷を見かけたら人を呼んで捕まえろ、そうすれば金が入るぞ。」

「さようなら」と俺は言った。「逃亡奴隷が通ったら絶対見逃しません。」

二人は去り、俺はいかだに戻った。後ろめたくて落ち込んだ。自分が悪いことをしたのは分かっていたし、どうしても正しいことなんてできないんだと思った。小さいころからまともに育てられなきゃ、いざというときに支えもなくて、結局負けるしかないのだ、と。それからふと考えてみた。「もし正しいことをしてジムを差し出していたら、今より気分がよかっただろうか?」いや、やっぱりつらい思いをしていただろう。だったら、正しいことを学んでも面倒なだけで、間違ったことをしたって同じくらいの気分なら、何の意味がある? 俺は答えが出せなかった。だからもう考えるのはやめて、これからはその場その場で一番やりやすい方を選ぶことにした。

ウィグワムに入るとジムはいなかった。どこを探してもいない。俺は呼んだ。

「ジム!」

「ここや、ハック。もう見えんようになったか? 大声出すなよ。」

ジムはいかだの後ろのオールの下、川の中に鼻だけ出して潜んでいた。俺が「もう見えない」と言うと、ジムは戻ってきた。彼はこう言った。

「全部聞いとったで。話を聞いて、俺は川に飛び込んで、もし乗り込んできたら岸に泳いで逃げるつもりやった。それで、いなくなったらまたいかだに泳いで戻るつもりやった。でもな、ハック、あんたは本当にうまく彼らをだましたな! あれは最高の策やった! おかげでジムは助かった、ジムは絶対忘れへんぞ。」

それから俺たちは金のことを話した。二人で二十ドルずつ、かなりのもうけだった。ジムはこの金で今度は外輪船で客室に乗れるし、自由州まで困らないと言った。いかだでもう二十マイル進めば着くが、今すぐ着いてしまいたい気持ちだった。

夜明け近くにいかだをつなぎ、ジムは念入りに隠した。それから一日中、荷物をまとめたり、いかだを降りる準備をした。

その夜、だいたい十時ごろ、俺たちは左手に曲がった川の先にある町の明かりを見つけた。

俺はカヌーを出して、その町について聞きに行った。すぐに、川の中でスキッフを使って縄釣りを仕掛けてる男を見つけた。近づいてこう言った。

「おじさん、あれってカイロの町ですか?」

「カイロ? 違うよ。お前はまぬけか。」

「じゃあ、なんて町です?」

「知りたきゃ自分で調べな。まだここでうろついてると、そのうち痛い目に遭うぞ。」

俺はいそいでいかだに戻った。ジムはひどくがっかりしてたけど、俺は「気にするな、次がカイロだろうさ」と言った。

俺たちは夜明け前にもう一つ町を通り過ぎた。俺はまた様子を見に行こうとしたが、そこは高台だったのでやめた。ジムが言うには、カイロには高台なんてないそうだ。俺はそれをうっかり忘れてた。その日は左岸の近くの小島に上がって休んだ。何かおかしいと俺もジムも感じはじめた。

「もしかして、あの霧の晩にカイロを通り過ぎちまったのかもな。」

ジムは言った。

「ハック、もうその話はやめようや。貧乏黒人に幸運なんてないんや。あのガラガラヘビの皮は、まだ災いを運んでくるって思ってたんや。」

「ジム、あんなヘビの皮なんか見なきゃよかったよ。あれさえ見なきゃよかったのに。」

「お前のせいやない、ハック。知らんかったんや。自分を責めたらあかん。」

夜が明けると、岸の近くには確かに澄んだオハイオ川の水が流れていて、その外側にはいつもの泥水があった。もうカイロは通り過ぎてしまったわけだ。

俺たちはいろいろ相談した。岸に上がるのはまずいし、いかだで上流に戻るのは無理だ。仕方がないから、暗くなるのを待って、カヌーで戻るしかなかった。それで、夜に備えて綿の木の茂みの中で一日中寝て、いかだに戻ったときにはもう夜だった――が、カヌーが消えていた! 

何も言わずにしばらく沈黙していた。言うことなんてなかった。二人とも、あれもこれも全部ガラガラヘビの皮のせいだと分かっていたからだ。話すだけ無駄だった。文句を言ったりすれば、もっと不運が呼び寄せられるだけで、それがずっと続くに違いない――黙っていることを覚えるまで。

やがてどうするか話し合ったが、いかだで下流に流れながら、戻るためのカヌーを買うチャンスを待つしかなかった。パプみたいに誰もいない隙に借りたりすれば、人に追われることになるので、それはやらないと決めた。

それで、日が暮れてからいかだを漕ぎ出した。

ここまでのヘビの皮の仕打ちを見て、まだ「ヘビの皮をいじるのは馬鹿げてる」って信じないやつも、これから先を読めば絶対信じるだろうさ。まだまだ起こるからな。

カヌーを買うには、岸に停めてあるいかだを探せばいい。だが、いかだはどこにも見えなかったので、三時間以上も川を下り続けた。夜は灰色で、少し霞んでいて、まるで霧みたいだった。川の形も分からないし、遠くも見えない。夜も更けて静まり返った頃、上流から汽船がやってきた。俺たちはランタンに火をつけて、船には見えるはずだと考えた。上流に向かう船はいつもは俺たちに近づかないで、浅瀬を避けて進む。でもこういう夜は、川の真ん中を突っ切ってくる。

エンジンの音は聞こえても、姿がはっきり見えたのはすぐ近くになってからだった。まっすぐこっちに向かってくる。たいてい、どれだけ近くまで寄れるか試すつもりでやるんだ。たまにいかだの竿を切っちゃって、操縦士が顔を出して高笑いする。今回もそうだろうって思ってたけど、全然避ける気配がない。でっかい船で、急いでるみたいだった。黒い雲みたいな船体に、蛍みたいな明かりが並んでる。そしたら突然、巨大な船体と、赤く燃えるような炉の扉が並ぶ口みたいに見えて、でかい船首とガードが俺たちの真上まで覆いかぶさってきた。大声で怒鳴られて、ベルが鳴ってエンジンが止まり、罵声と蒸気の音が響き――ジムが一方へ、俺が反対側へ飛び込んだとき、船はいかだをまっすぐ粉々に突き抜けていった。

俺は潜った。しかも、絶対底まで行こうと決めてた。なにせ三十フィートもあるスクリューが頭上を通るんだ、できるだけ深くいなきゃ危ない。普段でも一分くらいは潜っていられるが、今回はたぶん一分半は潜ってたと思う。それから急いで浮かび上がった。もう息がもたなかったからだ。水面に胸まで出て、水を鼻から吹き出して、しばらく息を整えた。当然、流れは激しくて、船も十秒としないうちにエンジンをかけ直して、もう見えないくらい遠くを走っていったが、音だけは聞こえた。

ジムの名前を十回くらい叫んだが、返事はなかった。それで流れてきた板切れをつかんで、水をこぎながら岸を目指した。流れが左岸に向かってるのを見て、そこが渡し場だと分かり、そっちへ進んだ。

そこは二マイルもある長い斜めの渡し場で、結構時間がかかった。ようやく無事に上陸し、土手をよじ登った。周りはあまり見えなかったが、ごつごつした地面を四分の一マイルほど進んでいくと、突然、大きな昔風の二棟続きの丸太小屋に出くわした。すぐに通り過ぎて逃げようとしたそのとき、たくさんの犬が飛び出してきて、俺を取り囲んで吠え始めた。俺はもう一歩も動かないほうがいいと悟った。

第十七章

しばらくすると、誰かが窓から頭も出さずに声をかけてきた。

「やめろ、みんな! そこに誰がいる?」

俺は言った。

「俺です。」

「俺って誰だ?」

「ジョージ・ジャクソンです。」

「何の用だ?」

「別に用はないです。通り過ぎたいだけなのに、犬が通してくれません。」

「夜中にここで何をうろついてるんだ、え?」

「うろついてたわけじゃなく、蒸気船から落っこちたんです。」

「そうかい、落っこちたのか? 誰か明かりをつけろ。名前は何だって?」

「ジョージ・ジャクソンです。俺は子供です。」

「よし、もし本当なら怖がることはない、誰もお前に危害は加えない。ただし動くな、その場を動くなよ。ボブとトムを起こして鉄砲を持ってこい。ジョージ・ジャクソン、お前の他に誰かいるのか?」

「いえ、誰もいません。」

家の中で人々が動き始め、明かりが見えた。男が叫んだ。

「ベッツィ、その明かりを下げろ、ばかもん! 分別はないのか? 玄関の裏に置け。ボブ、トム、準備できたら持ち場につけ。」

「準備できた。」

「じゃあ、ジョージ・ジャクソン、お前はシェパードソン家を知ってるか?」

「いえ、存じません。」

「まあ、それもあり得るし、そうでないかもしれん。全員準備! ジョージ・ジャクソン、前へ進め。ただし焦るんじゃない、ゆっくりだ。誰か一緒なら下がってろ、姿を見せたら撃つぞ。さあ進め、ゆっくりだ。自分でドアを押し開けろ――身体が通るくらいでいい、分かったな?」

俺は焦ることなんてできなかった。一歩ずつゆっくり進み、音は何もなく、心臓の音だけが聞こえる気がした。犬もみんなも静まり返って、犬たちは俺の後ろを少し離れてついてきた。丸太の三段の玄関に来ると、鍵を外したり、棒を外す音がした。俺はドアに手をかけて、ほんの少しずつ押した。誰かが「それで十分――頭だけ入れろ」と言った。俺はそうしたが、頭をもいでやろうとしてるんじゃないかと思った。

ロウソクは床に置かれていて、そこにはみんながいて、俺を見ていて、俺もみんなを見ていた。ほんの十五秒くらいだったが、三人の大男が銃を向けていて、正直かなりびびった。年長の人は白髪まじりで六十歳くらい、他の二人は三十を超えてるくらい――みんな立派でかっこいい男たちだった。そして、白髪のやさしそうなおばあさん、その後ろには若い女の人が二人、よく見えなかったがいた。年寄りの男が言った。

「よし、もう大丈夫だろう。入って来なさい。」

俺が入ると、すぐに年寄りの男がドアを鍵で閉め、棒をかけ、さらに閂もかけ、若い男たちに銃を持って入るよう指示した。みんなはラグカーペットが敷かれた大きな客間の、窓から見えない隅に集まった。ロウソクの明かりで、俺のことをしげしげと見て、「こいつはシェパードソンじゃないな、シェパードソンの気配は全然ない」と口々に言った。それから年寄りの男が「武器を持っていないか調べさせてもらうが、気を悪くしないでくれ、危害を加える気はない。ただ確認したいだけなんだ」と言った。ポケットの中までは調べず、外側から手で触って確かめて「大丈夫だ」と言った。それから「楽にしてくれ、うちのように思って、身の上話でもしてくれ」と言ったが、おばあさんが

「まあまあサウル、この子はずぶ濡れじゃないか。それにお腹もすいてるかもしれないよ」

「ほんとだな、レイチェル、忘れてた」

おばあさんは言った。

「ベッツィ」(これは黒人の女の人だった)「この子に何か、すぐに食べさせてあげておくれ、かわいそうに。それから女の子の誰か、バックを起こしてきて――あら、自分で来たわ。バック、この小さな子を連れてって、濡れた服を脱がせて自分の乾いた服を着せてあげておくれ」

バックは俺と同じくらいの年で、十三か十四くらいだが、俺よりちょっと大きかった。シャツ一枚しか着てなくて、頭はぼさぼさだった。片手で目をこすりながら欠伸して、もう一方の手では銃をずるずる引きずっていた。バックが言った。

「シェパードソンは来てないの?」

みんなが「違う、空振りだったよ」と答えた。

「ふーん。もし来てたら、一人くらい仕留めてたと思うけどな」

みんな笑った。ボブが言った。

「バック、お前が来るのが遅いから、全員頭を剥がれてたかもしれないぞ」

「誰も起こしに来なかったやろ。いつも俺ばっかり後回しにされるし、不公平や」

「まあまあバック、いずれ出番は来るから心配するな。さぁ行って、母さんの言うとおりにしてきなさい」

二階のバックの部屋に行くと、彼が粗末なシャツとジャケットとズボンを貸してくれたので、俺はそれを着た。着替えている間に名前を聞かれたが、俺が答える前に、バックは自分が一昨日森で捕まえたカケスとウサギの話を始め、それから「ロウソクの火が消えた時、モーゼはどこにいたと思う?」と聞いてきた。俺は初耳だったので、「分からない、そんな話聞いたことがない」と答えた。

「まあ、当ててみてよ」

「聞いたこともないのに、どうやって当てるんだよ?」

「でも予想くらいできるだろ? 簡単だぜ」

「どのロウソクの話だよ?」

「どのロウソクでもいいんだよ」

「わからないって。どこにいたんだ?」

「ほら、暗闇 にいたんだよ!」

「知ってるなら、なんで俺に聞いたんだ?」

「そりゃ、なぞなぞだからさ! なあ、どのくらいここにいるつもりなん? ずっといたらいいじゃん。一緒に楽しいことやろうよ。今は学校もないし。犬飼ってる? 俺の犬はな、水に投げた木片を取ってきてくれるんだ。日曜に髪をきれいにとかしたり、ああいう馬鹿らしいこと好き? 俺は嫌だけど、母さんがやれって言うからさ。ちぇっ、このズボンはいた方がいいかな、でも暑いし、できれば履きたくないんだよな。準備できた? よし、行こうぜ、相棒!」

下で俺のために用意してくれたのは、冷えたコーンパン、冷たいコーンビーフ、バター、それにバターミルクだった。今まで食べた中で一番うまかった。バックも母さんも、みんながコーンパイプで煙草を吸っていた。黒人の女の人と若い女の子二人以外はみんな吸ってた。みんなで煙草を吸い、話もし、俺も食べながら話した。若い女の子たちはキルトを羽織っていて、髪は背中に垂らしていた。みんな俺に質問してきたので、俺は「パプや家族みんなとアーカンソーの小さな農場で暮らしていて、姉のメアリー・アンは駆け落ちして消息不明、ビルは探しに行ったまま行方知れず、トムとモートは死んで、残ったのは俺とパプだけ。でもパプも苦労がたたって痩せ細り、死んじゃったから、残ったものをもらって、農場は自分のものじゃなかったから川をさかのぼって、客船の安い席で旅してて、落っこちた――それでここに流れ着いた」という話をした。みんな「好きなだけここを家にしていい」と言ってくれた。それから、もう夜明けになりそうだったので、みんな寝床に入り、俺はバックと同じベッドで寝た。で、朝起きたとき、なんと、自分の名前を忘れてしまってた。そこで一時間くらい思い出そうと横になっていると、バックが起きたので言った。

「バック、お前、綴りできる?」

「できるよ」

「じゃあ、俺の名前を綴れるか?」

「なんだって賭けても、できるよ」

「よし、やってみろ」

「G-e-o-r-g-e J-a-x-o-n――どうだ」

「おう、できたな。でも、お前がすぐに綴れるとは思わなかったよ。下調べせずに、ぱっと綴るには大したもんだ」

俺はこっそりノートに書きとめておいた。今度は誰かが俺に綴りを聞いてきても、すぐ答えられるようにするためだった。

この家族は本当にいい人たちで、家もすごく立派だった。田舎でこんなに立派で洒落た家は見たことがなかった。玄関のドアには鉄のラッチも、鹿皮の紐付きの木のラッチもなく、町の家と同じように真鍮のノブがついていた。客間にはベッドも、ベッドの痕跡もなかった。町の家の客間にはよくベッドが置いてあるのに。暖炉も大きくて、床はレンガ張り、レンガは水をかけて別のレンガで磨いて、いつも赤くてきれいだった。たまにスペインブラウンっていう赤い塗料で塗り直すんだ。町でも同じらしい。大きな真鍮のアンドアイアンがあって、丸太を支えられるくらい頑丈だった。暖炉の上には時計があって、ガラスの下半分には町の絵が描かれていて、真ん中に太陽を描く丸いスペースがあった。振り子がその裏で揺れているのが見えた。その時計の音を聞くのが心地よかった。たまに行商人がやってきて磨いて調整していくと、百五十回も時を打つことがあった。その時計は、いくら積んでも手放さないそうだ。

時計の両脇には、石膏みたいなものでできたでっかい派手なオウムの置物があり、その片方の横には陶器の猫、もう一方には陶器の犬が置いてあった。その猫や犬を押すとキュッと音がするけど、口を開けたり、表情が変わったりはしない。下から音が出るだけだった。その後ろには野生の七面鳥の羽で作られた大きな扇も広がっていた。部屋の真ん中のテーブルには、きれいな陶器のバスケットがあり、中にはリンゴやオレンジ、モモ、ブドウがいっぱい詰め込まれていた。色鮮やかで本物よりきれいだったけど、よく見ると欠けて白い石膏が見えていたので、偽物だと分かった。

このテーブルには、美しいオイルクロスのカバーがかけられていて、そこには赤と青の鷲が大きく描かれていて、周りには彩色の縁取りがされていた。フィラデルフィアからわざわざ取り寄せたものだそうだ。テーブルの四隅には、本がきっちりと積み上げられてあった。そのうちの一冊は、挿絵のたくさん入った大きな家族用聖書だった。もう一冊は『天路歴程』という本で、ある男が家族を残して旅に出る話だったが、なぜそうしたのかは書かれていなかった。俺は時々かなり読んだが、書いてあることは面白いけど難しかった。ほかには『友情のおくりもの』という本もあって、綺麗な話や詩がいっぱい載っていたけど、詩は読まなかった。ヘンリー・クレイの演説集もあったし、ドクター・ガンの家庭医学書もあった。これは病気になったときとか死んだときにどうすればいいか全部書いてある本だった。他にも賛美歌集やいろんな本があった。椅子は背もたれが割れているやつで、とても丈夫で、真ん中が沈んだり壊れていたりする古い籠みたいなのとは全然ちがって、ちゃんとしていた。

壁には絵がたくさんかかっていた――ワシントンやラファイエットの肖像が主で、戦争の場面や「ハイランド・メアリー」の絵、それから「独立宣言に署名する人々」というのもあった。中には「クレヨン画」と呼ばれるものがあって、これは亡くなった娘さんが十五歳のときに自分で描いたものらしい。俺が今まで見たことのないような絵で――たいてい普通より黒っぽかった。一つは、細身の黒いドレスを着て、脇のすぐ下でベルトを締め、袖はキャベツみたいに膨れていて、大きな黒いスコップみたいなボンネットに黒いヴェール、白くて細い足首には黒い紐が巻かれていて、ちっちゃな黒いスリッパを履いた女の人が、物思いにふけって柳の木の下で墓石にもたれかかっている絵だった。その下には「Shall I Never See Thee More Alas(もう二度とあなたに会えないのでしょうか、ああ)」と書かれていた。もう一つは、髪をまっすぐ頭のてっぺんまでとかして椅子の背もたれみたいな櫛で結び、ハンカチに顔をうずめて泣きながら、もう一方の手には仰向けになったまま動かない小鳥を持っている若い女性の絵で、その下には「I Shall Never Hear Thy Sweet Chirrup More Alas(もうあなたのかわいいさえずりを聞けないのね、ああ)」とあった。また、窓辺で月を見上げて涙を流している若い女性の絵もあり、その手には封が黒い蝋でされた開封済みの手紙を持ち、もう一方の手でロケット(ペンダント)を口元に押し当てていた。その下には「And Art Thou Gone Yes Thou Art Gone Alas(そしてあなたは逝ってしまった、そう、逝ってしまったのね、ああ)」と書かれていた。どれも立派な絵だと思うが、どうも俺は好きになれなかった。ちょっと気が滅入っているときなんかに見ると、決まってゾッとするんだ。みんな彼女が亡くなったのを悲しんでいた。なぜなら、まだたくさん絵を描くつもりだったらしく、今まで描いたものだけでもどれほどのものを失ったか分かるからだ。でも俺は、彼女の性格なら墓場で今ごろのびのびしてるんじゃないかと思った。彼女は生涯で最高傑作になるはずの絵に取り組んでいたときに病気になったそうで、毎日毎晩、完成するまでは生かせてほしいと祈っていたけど、とうとう願いはかなわなかった。その絵は、長い白いドレスを着て髪を背中にたらした若い女性が、橋の欄干の上に立って、今にも飛び降りそうな様子で月を見上げ、涙を流し、胸の上で腕を二本組み、もう二本を前に伸ばし、さらにもう二本を月に向かって差し出している姿だった――どの腕が一番よく見えるか決めたら、残りは消すつもりだったらしい。だけど、さっきも言ったように、彼女はその決心がつく前に亡くなってしまった。その絵はいま彼女の部屋のベッドの頭の上に飾られていて、誕生日が来るたびに花をかけることになっている。普段はカーテンで隠してある。絵の女の人は、なかなか優しそうな顔をしていたが、あんまり腕が多いせいで、俺にはどうにも蜘蛛みたいに見えた。

この娘さんは生きていた時、スクラップブックをつけていて、Presbyterian Observerから訃報や事故、苦しんで亡くなった人の話を切り抜いて貼り付け、自分で詩まで書き添えていた。とても上手な詩だった。たとえば、スティーブン・ダウリング・ボッツという名の少年が井戸に落ちて溺れ死んだとき、彼女はこんな詩を書いた――

スティーブン・ダウリング・ボッツ追悼の詩

若きスティーブンは病み、
 若きスティーブンは死したのか?  悲しき心は重くなり、
 悼む者は泣いたのか?  否――それはスティーブン・ダウリング・ボッツの
 運命ではなかった。
彼のまわりに悲しき心は集まれど、
 それは病がもたらしたものではない。
百日咳がその身を苦しめたのでも、
 斑点だらけのはしかが襲ったのでもない。
これらは聖なる名をけがしはしなかった、
 スティーブン・ダウリング・ボッツの名を。
報われぬ恋が悲しみで
 あのカールした頭を打ったのでもなし、
腹痛が彼を倒したのでもない、
 若きスティーブン・ダウリング・ボッツを。
いや、違う。涙をたたえ耳を傾けよ、
 俺が彼の運命を語るあいだ。
彼の魂はこの冷たい世を飛び立った――
 井戸に落ちて果てたのだ。
井戸から彼を引き上げたが――
 ああ、時すでに遅し。
その魂は地上を離れ、
 善き者、偉大なる者のもとへと遊びに行った。

エミライン・グレンジャーフォードが十四になる前にこんな詩を書いていたのだから、将来どんなことができたか想像もつかない。バックによれば、彼女は詩をいくらでも湧くように書けたそうだ。考え込む必要なんて全くなくて、ひとつ書いて韻が合わなければ消してまた別のをすぐ書いたという。何にでも――とにかく悲しいことなら何についてでも詩が書けたらしい。誰か男が死ねば、女が死ねば、子どもが死ねば、冷たくなる前に「追悼の詩」を用意した。彼女はそれらを「トリビュート」と呼んでいた。近所の人たちは「まず医者、次がエミライン、最後が葬儀屋」と言っていた――エミラインより葬儀屋が先に駆けつけたことは一度しかなかった。そのときは亡くなった人の名前(ウィスラー)で韻をどうしても合わせられなかったからなんだそうだ。それ以降、彼女はもとに戻らず、何も言わなかったが、だんだんしおれてしまい長くは生きなかった。かわいそうに。俺はしょっちゅう、あの娘さんの小さな部屋にわざわざ行って、スクラップブックを取り出して読んだものだ。絵にイライラしたり、少し彼女のことが嫌になったときでも、だ。俺はこの家族――亡くなった人も含めてみんな好きだったし、何があっても彼らの間に割り込みたくなかった。エミラインは、生きている間は死者のために詩を書いていたのに、自分が死んだ後は誰も詩を作ってやらなかったのは何だか可哀そうで、俺も自分でどうにか詩をひねり出そうとした。でも、どうしても上手く書けなかった。エミラインの部屋は今も綺麗に片付けられていて、物も全部、生きていたときのままにしてあった。誰もそこで寝ることはなく、奥さんが自分で手入れし、たくさん黒人の召使いがいるのに、彼女がそこでよく針仕事をしたり、聖書を読んだりしていた。

さて、さっきの応接間の話に戻るが、窓には白くて、そこに蔦の絡まる城や、水を飲みに降りてくる牛たちの絵が描かれた立派なカーテンがかかっていた。古くて小さいピアノもあって、中にはブリキの皿でも入ってるんじゃないかと思うような音だったけど、お嬢さんたちが「The Last Link is Broken」を歌ったり、「The Battle of Prague」を弾いたりするのを聴くのはとても素敵だった。どの部屋の壁も漆喰で塗られていて、床にはほとんどカーペットが敷かれていたし、家の外側も全部、白い漆喰で塗ってあった。

この家は二世帯分の大きさで、真ん中の広い空間には屋根も床もついていて、日中はそこにテーブルを出して食事をすることもあった。涼しくて気持ちのいい場所だった。これ以上のところはなかったし、料理も本当に美味しかったし、量もたっぷりあった! 

第十八章

グレンジャーフォード大佐は、紳士だった。全身がまるごと紳士で、その家族もみんなそうだった。生まれも良かった。生まれの良さってのは馬にとっても人間にとっても大事なものだとダグラス未亡人が言っていて、町一番の名家出身だと誰も否定しなかったし、パプだっていつもそう言っていた――もっとも自分自身は、生まれも育ちも泥鰌みたいなもんだったけど。グレンジャーフォード大佐は、すごく背が高くて細身で、肌は少し青白く、どこにも赤味がなかった。毎朝顔中をきれいに剃っていて、唇も鼻の穴もものすごく細く、高い鼻梁に重そうな眉、そして真っ黒な目をしていた。その目は奥に深く沈んでいて、まるで洞窟からこっちを見ているみたいだった。額は高く、黒くてまっすぐな髪が肩まで垂れていた。手は細長く、毎日真っ白なリネンのシャツとスーツを頭から足まで着ていて、あまりの白さに目が痛くなるくらいだった。日曜になると、真鍮のボタンがついた青い燕尾服を着た。持ち歩いていたステッキはマホガニーで、銀の飾りがついていた。無駄口も一切なく、声を荒げることもなかった。とても親切な人で、それがひしひしと伝わってきて、自然と信頼できた。たまに微笑む顔もすごく良かった。でも、まっすぐ伸びて旗竿みたいになって、眉の下から稲妻がきらめきだすと、こっちとしてはまず木にでも登ってから何が起きたか考えたくなるくらいだった。礼儀を守れなんて一言も言わないけど、周りにいる人はみんなきちんとしていた。みんな、大佐がいると嬉しいようだった。大佐がいると、まるで天気がよくなったみたいな気分になる。逆に、大佐が雲みたいになるとほんの一瞬、世界が真っ暗になる――でもそれだけで、あとは一週間何も問題が起こらない。

大佐と奥さんが朝降りてくると、家族全員が椅子から立ち上がって「おはようございます」と挨拶し、二人が座るまでまた誰も座らなかった。それからトムとボブがサイドボードのデカンタ――のところに行ってビターズを作り、大佐に手渡す。大佐はそれを手に持ったまま、トムとボブのグラスができるのを待って、三人で「どうぞ、お父様、お母様」と挨拶しながら乾杯する。大佐たちは軽くお辞儀して「ありがとう」と言い、三人で飲む。ボブとトムはグラスの底に砂糖と少しのウイスキーかアップルブランデーを入れ、水をひとさじ加えて、俺とバックにも渡してくれた。俺たちもお年寄りに乾杯した。

ボブが一番上で、次がトム――どちらも背が高く、がっしりした肩幅に日に焼けた顔、長い黒髪と黒い目をしていた。服装も全身白いリネンで、大佐と同じだった。パナマ帽も広いつばだった。

それからシャーロットお嬢さん。二十五歳で背が高く、気高くて堂々としていたが、普段はとても優しい人だった。ただ、いったん気分を害すると父親譲りの迫力があって、睨まれたらその場でしおれてしまいそうだった。とても美しかった。

シャーロットの妹、ソフィアお嬢さんも美しかったが、また違った美しさだった。鳩のように優しくておっとりしていて、まだ二十歳だった。

家族みんな一人ずつ専属の黒人召使いがついていた――バックにも。俺の召使いはほとんど仕事がなかった。俺は誰かに何かしてもらうのに慣れてなかったからだ。でもバックの召使いはほとんど走り回っていた。

今はこの人数だけだが、昔はもっとたくさんいた――息子が三人いて、皆殺された。それにエミラインも亡くなった。

大佐はたくさんの農場と百人を超す黒人を持っていた。ときどき、十マイル、十五マイルもの遠くから馬で大勢の人が集まってきて、五日も六日も滞在しては、川や森でピクニックやダンス、夜には家で舞踏会、昼間は外でどんちゃん騒ぎをしていた。集まるのはほとんど親類だった。男たちはみんな銃を持ってきた。みんな立派な家柄の人ばかりだった。

このあたりには、ほかにも名家がいくつかあった――五、六家族。そのほとんどがシェパードソンという姓だった。グレンジャーフォード家に負けず劣らず、名門で金持ちで堂々とした家柄だった。シェパードソン家とグレンジャーフォード家は同じ蒸気船の船着き場を使っていた。俺たちの家から二マイルほど上流にあって、俺もたまにそこに行くと、立派な馬に乗ったシェパードソン家の人たちを見ることがあった。

ある日、バックと俺は森の奥で狩りをしていた。馬の足音が聞こえてきて、俺たちはちょうど道を横切るところだった。バックが言った。

「急げ! 森の中へ!」

俺たちは森に飛び込んで、葉の間から道を覗いた。するとすぐ、立派な若者が馬を操って颯爽と現れた。まるで兵隊みたいだった。馬の鞍の前に銃を横たえている。見覚えがあった。若いハーニー・シェパードソンだった。次の瞬間、バックの銃声が耳元で鳴り、ハーニーの帽子が吹っ飛んだ。ハーニーは銃を手にして、俺たちが隠れている場所へ真っすぐ馬で突っ込んできた。でも俺たちはもう待たなかった。森を駆け抜けて逃げた。森はそれほど深くなかったので、俺は振り返って弾を避けようとした。その時、二度ほどハーニーが銃でバックを狙うのが見えた。でも結局、彼は元来た道を引き返した――たぶん帽子を拾いに行ったんだろうけど、よく見えなかった。俺たちは家に着くまで走り続けた。家に戻ると、大佐の目が一瞬ギラリと光った――主に喜びだったと思う――でもすぐに顔が穏やかになって、優しく言った。

「茂みの陰から撃つのは好きじゃないな。どうして道に出てから撃たなかったんだ?」

「シェパードソンは違います、お父さん。あいつらはいつも有利な方を選びます」

シャーロットお嬢さんは女王みたいに頭を高く上げて、鼻の穴を広げ、目をギラギラさせた。二人の兄さんは険しい顔をしていたが、何も言わなかった。ソフィアお嬢さんは青ざめたが、男が無事だと分かると元に戻った。

俺はバックをとうもろこし小屋の陰に呼び出して、二人きりになると聞いた。

「なあ、バック、ほんとにあいつを殺したかったのか?」

「そりゃ、殺したかったさ」

「でも、あいつはお前に何かしたのか?」

「あいつ? 何もされてないよ、俺は」

「それじゃ、なんで殺したかったんだ?」

「そりゃ……何でもないさ――ただ、あれは“確執”のせいだよ」

「確執ってなんだ?」

「おい、どこで育ったんだよ? 確執を知らないのか?」

「まったく聞いたことない。教えてくれよ」

「いいか、“確執”ってのはこういうもんだ。ある男が別の男と揉め事起こして相手を殺す。すると、殺された男の兄弟が、今度はそいつを殺す。そしたら、今度は両家の兄弟たちが互いに殺し合い始める。次にはいとこたちも加わる――そして、そのうちにみんな殺されちまって、確執も終わりさ。でもこれは、えらくゆっくり進むんだけどな」

「この確執も長いのか、バック?」

「そりゃあもう、長いさ! 三十年前に始まったんだ。何かでもめて、裁判になって、裁判はどっちかが負けてな。それで負けた方が勝った方を撃ち殺したわけ――当然そうするもんだろ? 誰だってな」

「何がもとで揉めたんだ、バック? 土地か?」

「たぶんな――よく知らねえけど」

「で、最初に撃ったのは誰だ? グレンジャーフォードか、それともシェパードソンか?」

「さあ、が知るわけないだろ? もうずっと昔のことさ」

「誰も知らないのか?」

「ああ、親父さんは知ってると思うし、他の年寄りたちもな。でも、もともと何の喧嘩だったかは今じゃ分かんねえよ」

「今までにたくさん殺されたのか、バック?」

「ああ。葬式はしょっちゅうあったよ。でも、毎回殺し合いになるわけじゃねえ。親父さんは散弾がちょっと体に入ってるけど、あまり重くないから気にしてない。ボブはボウイナイフで何度か切られてるし、トムも一、二度怪我してる」

「今年に入ってから誰か殺されたのか、バック?」

「ああ、そうだ。俺たちもひとりやられたし、あっちもひとりやられた。三ヶ月ほど前に、俺のいとこのバド――十四歳だった――が、川向こうの森を馬で駆けてたんだが、武器を何も持ってなかったんだ。まったくもって馬鹿な話だろ? で、寂しい森の中で後ろから馬の音が近づいてくるのが聞こえて、見ると、銃を手にした白髪のバルディ・シェパードソンじいさんが、髪を風になびかせながら追いかけてきてたんだ。バドは馬から飛び降りて藪に逃げればよかったのに、自分なら逃げ切れるって思ったらしい。それで、ふたりで五マイル以上も必死で駆けたけど、じいさんはどんどん追いついてくる。ついにバドも無理だって悟って、止まって向き直った――撃たれるなら正面からにしようってわけさ。で、じいさんが乗りつけてきて撃ち殺した。でも、じいさんもその幸運を長く味わえなかった。うちの連中が一週間も経たないうちにじいさんをやっつけたんだ。」

「そのじいさん、臆病者だったんだろうな、バク。」

「いや、あのじいさんは臆病者なんかじゃない。絶対に違う。シェパードソンの連中に臆病者なんてひとりもいないんだ。それに、グレンジャーフォード家にも臆病者はいない。いいかい、あのじいさんはある日、三人のグレンジャーフォードを相手に、三十分も戦い抜いて勝ち抜いたんだ。みんな馬に乗ったままで、じいさんは馬から降りて薪の山の後ろに隠れて、自分の馬を盾にして弾を防いでた。でも、グレンジャーフォードたちは馬に乗ったままじいさんの周りをぐるぐる回りながら撃ち合ってた。結局、じいさんも馬もひどく傷ついたけど、グレンジャーフォードの連中は倒されて家まで運ばれて――ひとりはその場で死に、もうひとりも翌日死んだんだ。違うよ、もし臆病者を探してるやつがいたら、シェパードソン家には近寄らないほうがいい。あいつらの中には、そういうタチの人間は生まれてこない。」

次の日曜、俺たちはみんなで三マイルほど先の教会に行った。みんな馬に乗ってな。男はみんな銃を持って行って、膝の間に挟んだり、壁に立てかけたりしていた。バクもそうだった。シェパードソン家の連中も同じだった。説教はたいして面白くもなくて、兄弟愛だのなんだの、退屈な話ばかりだったけど、みんな「いい説教だった」と言って、帰り道に信仰とか善行とか自由な恩寵とか、予定説がどうのとか、あれこれ延々と話し合ってた。俺には、これまでで一番やりきれない日曜のひとつに思えた。

昼飯のあと一時間くらい経つと、みんな椅子や部屋でウトウトしはじめて、だいぶ静かになった。バクと犬は草の上で寝ていて、俺も自分の部屋でひと眠りしようと思った。すると、隣の部屋のミス・ソフィアがドアのところに立ってて、俺を自分の部屋にそっと引き入れ、ドアを静かに閉めて、「俺のこと好き?」って聞いてきた。俺は「好きだ」って答えた。すると「誰にも言わずに頼み事してくれる?」って聞くから、「いいよ」って言った。彼女は、教会の席に聖書を忘れてきた、しかも他の二冊の本の間に挟んだままだと言って、「こっそり取りに行ってきてくれない? 誰にも言わないで」と頼んできたんだ。俺は「いいよ」と答えた。それでそっと抜け出して、教会まで歩いて行った。誰もいなかった――せいぜい豚が一、二匹いるだけ。教会に鍵はかかってなかったし、夏場の板張りの床は豚にとって涼しくて好きなんだ。よくよく考えてみれば、人間は必要がないと教会になんか行かないけど、豚は違う。

俺は自分で、「なにかおかしいぞ」と思った。女の子が聖書でこんなに汗をかくなんて普通じゃない。それで本をパラパラ振ってみたら、小さな紙切れが落ちてきて、「二時半」と鉛筆で書いてあった。ほかに何かないか探したけど、何も見つからなかった。その意味は分からなかったけど、紙切れをまた本に挟んで家に戻った。部屋に上がると、ミス・ソフィアがドアのところで俺を待っていた。彼女は俺を引き入れて、ドアを閉め、聖書の中から紙切れを見つけると、それを読んでうれしそうな顔をした。俺が何か言う前に、彼女は俺をぎゅっと抱きしめて「世界一いい子だわ、絶対に誰にも言わないでね」と言った。顔を真っ赤にして、目がきらきらして、とてもきれいだった。俺はびっくりしたけど、息を整えてから「あの紙切れはなんなの?」と聞いた。でも彼女は「読んだ?」と聞くから、「いや」と答えた。「字は読めるの?」と聞くので、「いや、大きな字だけ」と答えた。すると「あれはしおりよ」とごまかして、「もう外で遊んでいいわ」と言った。

俺は川のほうへ歩きながら、このことをあれこれ考えていた。すると、俺につきまとってる黒人がいることに気づいた。うちの使用人だ。家が見えなくなると、その黒人はきょろきょろしてから駆け寄ってきて、こう言った。

「ジョージ坊ちゃん、沼まで来てくれたら、毒ヘビが山ほどいるとこ見せてあげます。」

俺は「妙だな」と思った。昨日も同じこと言ってたじゃないか。誰が好き好んで毒ヘビなんか探しに行くもんか。何を考えてるんだろう? だから俺は言った。

「わかった、先に行けよ。」

俺はあとをついていった。半マイルほど歩くと、そいつは沼地の中へ入っていって、さらに半マイルほど足首まで水に浸かりながら進んだ。やがて、木や茂み、つる草が生い茂る小さな乾いた土地に着いた。そいつは言った。

「ここからちょっと入ったとこや、坊ちゃん。そこにいるよ。俺はもう見たから、もう見たくない。」

そう言ってそのまま向こうへ行ってしまい、やがて木々に隠れて見えなくなった。俺は少し奥へ入っていくと、寝室くらいの広さの、小さな空き地に出た。つる草が絡まっていて、そこに男がひとり寝ていた。なんと、俺の古い相棒、ジムだった! 

俺はジムを起こした。きっと驚くだろうと思ったけど、そうじゃなかった。ジムは俺と再会できてうれしさのあまり泣きそうだったが、驚きはしなかった。あの夜、俺のあとを泳いでついてきて、俺が叫ぶたびに聞こえていたけど、誰かに見つかってまた奴隷にされるのが怖くて返事ができなかったらしい。ジムは言った。

「ちょっと怪我しとったさかい、あんまり速う泳げんかったんや。それで最後はだいぶ遅れをとってしもた。坊ちゃんが上陸したとき、俺も叫ばずに陸で追いつける思うたけど、あの家を見てからは用心してゆっくり行ったんや。家の中で何しゃべってるかは、遠すぎて聞こえんかったし、犬が怖かった。でも静かになったから、坊ちゃんは家の中やろ思うて、夜明けまで森で待っとった。朝早うに黒人の連中が畑に行くのん通りかかって、俺をここに連れてきてくれてな。犬が水で足跡消えるから見つけられへん。それに毎晩食いもん持ってきてくれて、坊ちゃんがどうしてるかも教えてくれたんや。」

「なんでうちのジャックに、もっと早く俺をここに連れてくるよう言わなかったんだ、ジム?」

「そりゃあな、ハック、まだ何もできんうちは、わざわざ呼ぶほどのこともなかったんや。でも今は大丈夫や。俺はチャンス見て鍋やら鍋やら食いもんやら買うて、夜な夜な筏も直しとったんや――」

「なんの筏だよ、ジム?」

「うちらの筏や。」

「筏はバラバラになったんじゃなかったのか?」

「いや、そうでもなかった。一部は壊れたけど、そう大したことはなかった。道具はほとんど流されたけどな。もしあんなに深く潜ったり遠く泳いだりしなくて、夜がもうちょい明るくて、怖がらずにしっかりしてたら、筏が見えたはずなんや。でもまあ、見つけなくてよかった。今はほとんど元どおり直して、なくした分も新しいもん揃ったしな。」

「どうやってまた筏を手に入れたんだ? ジム、拾ったのか?」

「森の中やのに、どうやって拾うねん。黒人の誰かがこの曲がり角で筏が引っかかってるの見つけて、柳の間の小川に隠しておいたんや。その筏が誰のもんかで揉めてるうちに、話が俺の耳にも入ってきてな。そんで俺が『あれは誰のもんでもない、俺とハックのもんや。若い白人の坊ちゃんの持ち物を盗めばどうなるか分かってるやろ』って脅したんや。それから一人十セントずつ渡したら、みんな大喜びで、また筏が流れてこないかと期待してるわ。みんなほんまに親切やし、頼みごとしたら二度言わんでもやってくれる。ジャックはええ奴やし、頭も切れる。」

「そうだな。あいつ、俺がここにいるって一度も言わなかった。蛇を見せてやるからってだけで、俺たちが一緒にいるのを見たことがないって言える。そしたら、本当のことになる。」

次の日のことはあまり話したくない。短く済ませるつもりだ。夜明けに目を覚ましたとき、また寝ようと思ったら、やけに静かで誰も動いてる気配がない。不思議に思って下に降りたけど、誰もいない。外も同じで、まるで鼠一匹動かない。何だろうと思いながら、薪の山のところでジャックに会った。

「どうしたんだ?」

ジャックは言った。

「知らんのか、ジョージ坊ちゃん?」

「いや、知らない。」

「ほんなら、ミス・ソフィアが逃げてしもた! 本当やで、昨夜のうちにどっかに逃げた。誰にもいつ出て行ったか分からへんけど、ハーニー・シェパードソンと駆け落ちしたみたいや。家族がそれに気づいたのは、三十分くらい前や。そしたらもう大慌てで、銃と馬の用意やら、女の人らは親戚呼びに行くし、サウルおじさんや男連中は川沿いの道を駆けて、ハーニーがソフィアを連れて川を渡る前に捕まえて殺すつもりや。えらい騒ぎやで。」

「バクは俺を起こさずに出かけたのか。」

「そりゃそうやろ。坊ちゃんを巻き込む気はなかったんや。バク坊ちゃんは銃を持って『絶対シェパードソンを一人仕留めてやる』って意気込んで出て行ったわ。向こうもたくさんおるやろけど、チャンスさえあればバクはきっとやるで。」

俺はできるだけ急いで川沿いの道を走った。やがて遠くで銃声が聞こえてきた。丸太小屋の店と薪の山が見えてきたので、木や藪の陰を伝って、いい場所まで行き、綿の木の枝に登って隠れた。薪の山が木の前に四尺ほど積んであって、最初はその陰に隠れようと思ったけど、やめておいてよかったかもしれない。

丸太小屋の前の広場では、四、五人の男が馬で暴れ回って、怒鳴ったり罵ったりして、蒸気船の桟橋脇の薪山の陰にいるふたりの若者をどうにかしようとしてた。でもうまくいかない。誰かが薪山の川側から身を見せるたびに撃たれる。二人の若者は背中合わせでしゃがんで、両方を見張っていた。

やがて男たちは暴れるのをやめ、店の方へ馬で向かった。すると若者の一人が立ち上がって、薪山越しに狙いを定め、一人の男を馬から撃ち落とした。みんな馬から飛び降りて、怪我人を運んで店へ向かった。その隙に二人の若者は走り出した。男たちが気づいたときには、もう二人は俺のいる木のそばまで来ていた。慌てて馬に乗って追いかけるけど、若者たちの方が先に薪山の陰にすべり込んで、また有利な場所を取った。バクと、もう一人は十九歳くらいの細身の青年だった。

男たちはしばらく暴れ回ってから、馬で去っていった。姿が見えなくなると、俺は木の上からバクに声をかけた。最初、木の上から声がするもんだから、バクはすごく驚いた。用心して見張ってくれ、また男たちが来たら知らせてくれと言ってきた。きっと何か悪だくみしてる、長くは離れていないだろう、と。俺は木から降りたかったが、怖くてできなかった。バクは泣き出して怒りだし、自分とジョー(もう一人の若者)は今日の借りをきっと返すと言った。父さんと兄弟二人が殺されて、敵も二、三人やったらしい。シェパードソンたちが待ち伏せしていたそうだ。父さんや兄弟はもう少し親戚の応援を待つべきだった――シェパードソンは強すぎたんだと。俺は、ハーニーとミス・ソフィアはどうなったのか聞いた。川を渡って無事だと言うので、正直ほっとした。でもバクが、あの日にハーニーを仕留められなかったことを、あんなに悔しがるのを聞いたのは生まれて初めてだった。

そのとき、急にパン! パン! パン! と三、四発の銃声が響いた――男たちが馬を置いて森を回りこみ、後ろから来たんだ! 二人の若者は川へ飛び込み、どちらも怪我を負いながら流れに乗って泳いだ。男たちは岸を走りながら「殺せ、殺せ!」と叫び、弾を撃ち込んでいた。それを見て俺は吐き気がして、もう少しで木から落ちそうだった。これ以上のことは話したくない。今思い出しても気分が悪くなるだけだ。あんなものを見るためにあの夜上陸したことを、心から後悔した。きっと一生、忘れられない。今でも夢に見ることがある。

暗くなり始めるまで、俺は木の上で動けなかった。降りるのが怖かったんだ。ときどき遠くで銃声が聞こえたり、二度ばかり小さな武装した集団が丸太小屋の店の前を駆け抜けていくのを見かけた。まだ騒ぎは収まっていないようだった。すごく気が滅入った。もう二度とあの家には近寄らないと心に決めた。どうも、俺のせいでこうなった気がしたんだ。紙切れは、ミス・ソフィアがハーニーと二時半にどこかで落ち合って駆け落ちする合図だったんだろうし、俺があの紙と彼女の様子を父さんに伝えていれば、ミス・ソフィアは閉じ込められて、こんなひどいことにはならなかったかもしれない。

木から降りて、川沿いを少し下ると、水際にふたりの遺体があった。俺はそれを引き上げ、顔に布をかぶせてから急いで立ち去った。バクの顔に布をかぶせるとき、俺はちょっと泣いた。バクは本当に俺に親切だったからだ。

もうすっかり暗くなっていた。俺は家に近づかず、森を抜けて沼地へ向かった。ジムは島にいなかったので、俺は急いで小川に行き、柳の茂みをかき分けて筏のところまで駆け寄った。あの恐ろしい土地からすぐにでも逃げ出したかった。でも、筏がない! 頭が真っ白になって、しばらく息もできなかった。思わず大声をあげた。すると、二十五フィートも離れていないところから声が聞こえてきた。

「なんや、坊ちゃんかいな! 静かにしなはれ。」

ジムの声だった――これほど嬉しい声はなかった。俺は岸沿いに駆けていき、筏に飛び乗った。ジムは俺を抱きしめて、俺が無事だったことを心から喜んでいた。ジムはこう言った。

「まあまあ、お前さん、ほんとにまた死んだかと思ってしまったよ。ジャックがここに来て、たぶんお前さんが撃たれたんだろうって言うんだ、だってもう家に戻ってこないからね。それで、今ちょうどこの筏を川の河口の方に動かそうとしてたんだよ、ジャックがまた戻ってきて本当にお前さんが死んだって言ったら、すぐにでも出発できるようにな。ほんとに、お前さんが戻ってきてくれてうれしいよ、坊や。」

俺は言った。

「わかった、それは助かったよ。誰にも見つかりゃしないし、みんな俺が殺されて川を流れていったと思うだろう――そう思わせるようなもんが上流にあるからな――だから、ジム、時間を無駄にしちゃいけない、できるだけ早く大きな川に出るんだ。」

筏がそこから二マイル下ってミシシッピ川の真ん中に出るまでは、俺はずっと落ち着かなかった。それから合図のランタンを吊るして、また自由で安全になったと確信した。昨日から何も食ってなかったから、ジムがコーンドジャー[訳注:とうもろこし粉で作ったパン]とバターミルク、それに豚肉とキャベツと青菜を出してくれた――きちんと料理されたら世界一うまい――夕飯を食いながら色々話して、楽しいひとときを過ごした。俺は争いごとから抜け出せて心底うれしかったし、ジムも沼地から逃げ出せて同じ気持ちだった。結局、筏ほど居心地のいい家はないって話になった。他の場所はどうも窮屈で息苦しいけど、筏は違う。筏の上だと、ほんとに自由で気楽で心地いい感じがするんだ。

第十九章

二、三日と夜が過ぎた。まるで時が滑るように、静かでなめらかで美しい時間だった。俺たちの過ごし方はこうだ。あそこらへんの川はとてつもなく広くて、ときには一マイル半もあった。俺たちは夜間に移動し、昼間は陸に上がって隠れていた。夜明けが近づくと航行をやめて、たいていは小さな中洲の静水域に筏を結びつけ、若いハコヤナギやヤナギを切って筏を隠した。そのあと釣り糸を仕掛ける。次に川に滑り込んで泳ぎ、さっぱりして体を冷やす。それから膝くらいの浅瀬に座って、夜明けを眺める。どこもかしこも音ひとつしない――まるで世界中が眠っているみたいで、ときおりウシガエルがぐわぐわ鳴くくらいだ。最初に見えるのは、水の向こうにぼんやりとした線――あれは対岸の森だ。ほかには何も見えない。それから空に淡い光が差してきて、だんだん明るさが広がる。遠くの川面は少しずつ黒から灰色に変わり、遠くに小さな黒い点――あれは交易用のはしけや何かだ――や、長い黒い筋――筏だ――が流れていくのが見える。たまにオールのきしむ音や、遠くでざわめく声が聞こえたりする。しばらくすると川面に筋ができているのが見えて、その筋の様子からそこに流木か何かが引っかかっていて急流がぶつかっていると分かる。そして川から霧が立ち上り、東の空が赤くなり、川や対岸の森の縁にある丸太小屋――たぶん薪小屋だが、あのごまかし屋どもが積んだもんで、どこでも犬を投げ込めそうな隙間だ――も見えてくる。そうしていい風が吹いてきて、森や花のおかげで涼しくて新鮮でいい香りがする。でも時々、ガーパイクなんかの死んだ魚が転がってて、ひどく臭うこともある。それから本格的な朝になって、すべてが太陽に微笑み、鳥たちが思い切りさえずるんだ。

少し煙が出ても今は平気なので、釣った魚を焼いて熱い朝飯を作る。その後は川の静けさを眺めたり、だらだら過ごして、やがてうとうとと昼寝する。目が覚めて何かあるかと思って見ると、たまに対岸の遠くに外輪船か内輪船かも分からないくらいの汽船が上流に向かってごとごと進んでいるのが見える。それから一時間ほどは、聞こえるものも見えるものも何もなくて、ただただ静けさに包まれる。次に遠くに筏が流れていくのが見えて、たいてい誰かが木を割っている。斧が光って振り下ろされるのが見えるけど、音は聞こえない。斧がまた振り上げられて、男の頭の上まで上がったとき、ようやく「カチャン!」という音が届く――水の上を渡ってくるのにそれだけ時間がかかるんだ。そんなふうにして一日を過ごし、静けさを聞きながらのんびりすることが多かった。霧が濃い日には、はしけや筏がブリキの皿を叩いて、汽船にぶつからないようにしていた。はしけか筏がすぐそばを通って、話し声や悪態や笑い声がはっきり聞こえることもあったが、姿は見えない。不気味な気がして、まるで空中で幽霊が騒いでいるみたいだった。ジムは、あれは幽霊だと信じていたけど、俺はこう言った。

「いや、幽霊が『くそったれの霧め』なんて言うもんか。」

夜になるとまた筏を押し出し、川の真ん中まで出すとあとは流れに身を任せた。それからパイプに火をつけて、足を水につけながら、いろんな話をした――昼も夜も、蚊さえいなけりゃずっと裸だった。バックの家族が作ってくれた新しい服は、上等すぎて着心地が悪いし、そもそも服なんてどうでもよかった。

時には、川全体がまるごと俺たちだけのものみたいになることもあった。あっちに岸や島が見えて、たまにきらっと光るのは小屋の窓のろうそくで、水の上にも一つ二つ光が見える――筏やはしけの上の灯りだ。遠くからフィドルや歌声が聞こえることもあった。筏暮らしは最高だ。頭上には星がびっしりで、仰向けになって眺めながら、星は作られたのか偶然できたのかなんて話をした。ジムは作られたものだと言い、俺は偶然できたんだと言った。だって、あんなにたくさん作るのは大変すぎるからな。ジムは、月が産んだんだろうと主張したが、それもまあ理屈に合ってる気がしたので反論しなかった。だってカエルだってあれくらい卵を産むのを俺は見たことがあるし、できない話じゃない。流れ星もよく見て、あれは巣からはじき出された星なんだとジムは言っていた。

夜中に蒸気船が暗闇の中を静かに進むのを見かけることがあって、ときどき煙突から火の粉を山ほど吹き上げて、それが川に雨のように降ってきて、すごくきれいだった。それから船が川の曲がり角を曲がると、灯りは消えて音もやみ、また静けさが戻る。しばらくしてから、もうとっくに船が見えなくなったあとに波が届いて筏が揺れる。それからはまた、カエルか何かの声しか聞こえない長い静けさだ。

真夜中を過ぎると岸の人々も寝てしまって、二、三時間は岸辺が真っ黒になる――小屋の窓の明かりももうない。その明かりがまたつき始めると朝が来る合図なので、すぐに隠れる場所を探して筏を結びつける。

ある朝、夜明けごろ俺はカヌーを見つけて、本流の向こうの本土側に渡った――たった二百ヤードしかない。カヌーで小川を一マイルほどさかのぼり、サイプレスの森の中でベリーを探そうとした。ちょうど家畜道みたいなのが川を横切るあたりを通りかかったとき、二人の男が必死でその道を駆け上がってきた。誰かが誰かを追っているときは、きっと俺かジムが狙われていると思うから、俺は慌てて逃げ出そうとしたが、もうかなり近くまで来ていた。二人は俺に助けを求めて大声で叫び、命だけは助けてくれと言う。何も悪いことはしていないのに追われている、男たちと犬が追ってくる、と。すぐに乗せろと言うが、俺は言った。

「待てよ。まだ犬も馬も聞こえない。藪を抜けてもう少し川を上がってから、水の中に入って俺のほうまで歩いて来い。そうすりゃ犬も追えなくなる。」

二人はその通りにして、乗り込むと同時に俺は急いで中洲へ向かった。五分か十分もしないうちに、遠くで犬や男たちが叫ぶ声が聞こえた。こちらに近づく声は聞こえたが姿は見えず、しばらくそのあたりでうろうろしていたようだ。俺たちはどんどん離れていって、ほとんど声も聞こえなくなった。森を一マイル抜けて川に出るころには、すっかり静かになり、筏を中洲に渡してハコヤナギの中に隠して安全になった。

このうちの一人は七十歳くらいで、禿げ頭に白髪混じりのひげ。くたびれたソフト帽、油で汚れた青いウールのシャツ、ぼろぼろの青いジーンズのズボンをブーツインして、手編みのサスペンダー――いや、片方だけしかない。長い尾のついた青ジーンズの古コートを腕にかけ、二人とも大きくてみすぼらしいカーペットバッグを持っていた。

もう一人は三十歳くらいで、これまたみすぼらしい格好だった。朝飯を食べ終わるとみんなで寝転がって話し始めたが、まず分かったのは、この二人がお互いを知らないってことだ。

「どうしてトラブルに巻き込まれたんだ?」と禿げ頭が若い方に聞いた。

「歯の歯石を取る薬を売っててね――確かに歯石は取れるが、だいたいエナメルも一緒に取れる。でも一晩長く居すぎて、逃げ出そうとした時にお前さんに会ったんだ。お前さんが追われてるって言うから、俺も自分がトラブルに巻き込まれそうだと思って一緒に逃げた。それだけの話だ。そっちはどうだ?」

「俺は小さな禁酒会をやっててな、一週間ほどだったが女連中のアイドルだった。酔っ払い連中には手厳しくしてて、一晩で五、六ドルは稼いでた――一人十セント、子供と黒人は無料――どんどん盛況になってたんだが、昨夜、どういうわけか俺が裏で酒をこっそりやってるって噂が立ってね。今朝、黒人が起こしにきて、人々が犬や馬を用意してるから、あと三十分だけ逃げる猶予をくれると言ってくれた。もし捕まったらタールと羽でまみれにされて棒に括りつけられるってさ。朝飯も食わずに逃げたよ、腹も減ってなかったしな。」

「おやじさん」と若い方が言った。「俺たちで組まないか? どうだ?」

「反対じゃないぜ。お前さんは主にどんな稼業だ?」

「俺はもともと印刷屋だが、特許薬の売り込みもやるし、役者もやる――悲劇が得意だ。催眠術とか骨相学もやるし、地理歌の教師になることもある。講演もやる――まあ、何でもできるさ。働かなくて済むことなら何でもな。そっちは?」

「俺は医者まがいをいろいろやってきた。手当て療法が得意でな――ガンとかマヒとかそんなの。誰か話を聞き出してくれる奴がいれば、占いもできる。説教も得意だし、キャンプ集会や伝道もやってきた。」

しばらく誰も何も言わなかった。やがて若い男が溜息をついて言った。

「はあ……。」

「何をため息ついてるんだ?」と禿げ頭が言った。

「こんな人生を送るようになって、こんなに落ちぶれて、こんな連中と一緒にいるなんて……。」そう言って、ハンカチで目元をぬぐい始めた。

「なんだと、俺たちの仲間じゃ不満か?」と禿げ頭がややムッとしながら言う。

「いや、違う。むしろお似合いだ。俺にはそれぐらいしかふさわしくない。高いところから落ちぶれたのは自分のせいだ。あなた方のせいじゃない。俺が全部悪い。世界は俺からすべてを奪ったけど、墓だけは残してくれる。いつかそこに横たわったら、全部忘れてこの傷ついた心も休まるさ。」そう言って涙をぬぐい続けた。

「そんな傷ついた心、俺たちに投げつけてどうする。俺たちは何もしてないぞ。」

「分かってる。あなた方のせいじゃない。全部自分のせいだ。苦しむのも当然だ――文句は言わない。」

「どこから落ちぶれたんだ? いったい何者だったんだ?」

「いや、どうせ信じてもらえない。世間は誰も信じない――もういい、どうでも。生まれの秘密だ……。」

「生まれの秘密だって? まさか――」

「諸君」と若い男はとても厳かに言った。「打ち明けよう。俺は君たちを信頼してもいいと感じている。実は、俺は公爵なんだ!」

ジムは目をまんまるくして驚いていたし、俺も同じだった。すると禿げ頭が言った。「まさか、本気か?」

「ああ。本当だ。俺の曽祖父はブリッジウォーター公爵家の長男だったが、十八世紀末に自由を求めてこの国に亡命してきた。こっちで結婚し、息子を残して亡くなった。そのとき公爵も亡くなったが、次男が爵位と財産を奪い、本来なら公爵だった赤ん坊は無視された。俺はその赤ん坊の直系の子孫――つまり本来のブリッジウォーター公爵なんだ。なのに俺は、こんなふうに身を引き裂かれ、地位を追われ、人に追われ、世界に見下され、ぼろぼろで傷ついた心を抱えて、筏の上で罪人と一緒にいるなんて……!」

ジムはすっかり同情していたし、俺もそうだった。慰めようとしたが、彼はあまり慰めにはならないと言った。もし俺たちが彼を認めてあげれば、それが一番の慰めになると言うので、どうすればいいか聞くと、話すときはお辞儀して「閣下」とか「公爵様」とか「ブリッジウォーター卿」と呼ぶべきだと言った。普通に「ブリッジウォーター」と呼んでもかまわない、それも称号だと言う。食事の時は誰かが給仕役をして、ちょっとした用事もやらなきゃいけない、と。

まあ、それは簡単なので、その通りにした。食事の間じゅう、ジムはそばについて「閣下、これを召し上がりますか?」などと世話を焼いた。明らかに本人は大いに満足していた。

だが、年寄りのほうはだんだん口数が減ってきて、あまり落ち着かない様子だった。どうも何か考え事があるらしい。午後になって彼はこう言った。

「なあ、ビルジウォーターよ。気の毒だが、お前さんだけがそんな目に遭ったわけじゃないんだ。」

「そうか?」

「そうさ。高い地位から不当に引きずり下ろされたのはお前さんだけじゃない。」

「はあ……。」

「生まれの秘密があるのもお前さんだけじゃない。」そして、なんと今度は年寄りが泣き始めた。

「やめてくれ、どういう意味だ?」

「ビルジウォーター、お前さんを信じていいか?」と年寄りがすすり泣きながら言った。

「最期まで信じる!」若い男は年寄りの手を取って握りしめ、「その秘密を話せ!」

「ビルジウォーター、俺こそが、かの失われたドーファン[訳注:フランス王太子]、ルイ十七世なんだ!」

今度こそ、ジムも俺も目を見開いた。すると公爵が言った。

「何だって?」

「ああ、そうだ、君よ。今まさに君の目が見ているのは、行方不明のドーファン、ルイ十六世とマリー・アントワネットの息子、ルイ十七世なんだ。」

「お前! その歳で! いやいや、まさか自分があのシャルルマーニュの亡霊だと言うのか。少なくとも六百か七百歳はあるってことになるじゃないか。」

「苦労ってやつが、こうさせたんだ、ビルジウォーター。苦労がこの白髪と年寄りじみた禿げ頭をもたらしたんだ。そうさ、諸君、みすぼらしいジーンズ姿で不幸のどん底にいる俺こそが、さすらい、追放され、踏みにじられ、苦しんできた、まっとうなフランス国王なのさ。」

そりゃあ、王様は泣き出して大騒ぎするもんだから、俺もジムもどうしたらいいかわからなくなった。とても気の毒でたまらなかったし、でも一方で、こんな人物が一緒にいるんだと思うと、なんだかうれしくて誇らしい気分にもなった。だから、前に公爵のときにやったみたいに、王様を慰めようとしたんだ。でも王様は、それじゃ何の役にも立たない、もう死んじまって全部終わる以外に救いはないって言った。でも、人が自分を正当に扱って、ひざまずいて話しかけたり、「陛下」と呼んで、食事のときも最初に世話してくれたり、王様が座っていいと言うまで座らなかったりすれば、しばらくだけでも気分が楽になることがあるとも言った。だから俺とジムは彼を王様扱いして、いろいろ世話を焼いたり、立ちっぱなしでいたりした。王様が「座っていいぞ」と言うまで座らなかった。これが王様にはずいぶん効いたみたいで、だんだん機嫌もよくなってきた。でも、公爵の方は面白くなさそうで、不満げな顔をしていた。けれど王様はやけに公爵に親しげにして、公爵の曾祖父やビルジウォーター家の公爵たちは、自分の父親にもずいぶん評判がよくて、よく宮殿にも招かれていたと言った。でも公爵は、しばらくふてくされていたけれど、やがて王様がこう言った。

「どうせこのいかれた筏の上で、長いこと一緒にいなきゃならんかもしれんのだ、ビルジウォーター。それなら、むくれていてもしょうがないだろ? かえって気まずくなるだけさ。俺が公爵じゃなく生まれたのは俺のせいじゃないし、お前が王様じゃなく生まれたのもお前のせいじゃない。だから、気にしたって無駄だろ? 俺のモットーは、与えられた状況でうまくやる、ってことさ。ここでの暮らしも悪くないぞ――飯はたっぷりあるし、楽なもんだ。さあ、公爵、手を出せ。みんな仲良くやろうじゃないか。」

公爵も手を差し出してきた。それで俺もジムもホッとした。これで気まずさが一気になくなって、すごく気分がよくなった。筏の上で仲間割れなんて最悪だからな。筏の上で一番大事なのは、みんなが満足して、お互いに親切で気持ちよく過ごすことなんだ。

俺は、こいつらが王様でも公爵でもなく、ただのろくでなしのペテン師だってすぐに見抜いた。でも、何も言わず、気づかないふりをしておいた。その方がケンカにもならないし、厄介事にも巻き込まれないからな。奴らが王様だの公爵だのと呼ばれたがるなら、家族がうまく収まるなら俺は別にかまわなかったし、ジムに言っても意味はないと思ったから黙っていた。パプから唯一学んだことがあるとすれば、こういう手合いには好きにやらせておくのが一番だってことだ。

第二十章

やつらは俺たちにいろんな質問をしてきた。なんで筏をあんなふうに隠して、昼間は動かず夜だけ移動しているのか、ジムは逃亡奴隷なのか、って。俺はこう言った。

「頼みますよ、逃亡奴隷が南に逃げると思いますか?」

いや、そんなわけないとやつらも納得した。何か理由をつけなきゃならなかったから、俺はこう話した。

「俺の家族はミズーリ州のパイク郡に住んでたんだけど、そこで生まれたんだ。親父と兄貴のアイクと俺だけが生き残った。親父は、一家をたたんで、オーリンズから四十四マイル下った川沿いに住むベンおじさんのところに行くって言い出したんだ。親父は貧乏で借金もあった。それで精算したら、十六ドルと俺たちの奴隷のジムだけが残った。それじゃデッキパスでも他の手段でも千四百マイルの旅費には全然足りない。ところが川が増水したある日、親父が運よく筏の一部を拾った。それで俺たちはこの筏でオーリンズまで行こうと決めた。でも親父の運もそこまでだった。ある晩、蒸気船が筏の前を轢いて、俺たちはみんな川に落ちて、スクリューの下に潜った。ジムと俺は無事だったけど、親父は酔っぱらってたし、アイクはまだ四歳だったから、二人とも浮かんでこなかった。その後の一、二日は大変だった。人がボートでやってきて、ジムは逃亡奴隷だって言って連れて行こうとしたりするから。だからもう昼間は動かないことにした。夜なら誰にも邪魔されない。」

公爵が言った。

「昼間でも移動できる方法を考えてやるから、俺に任せとけ。いい考えを思いついたら計画を立てる。今日はやめとこう。どうせあの町の近くだし、昼間に通るのは危険だ。」

夕方近くになると、空が暗くなって雨が降りそうになってきた。熱雷が空の低いところを走り、葉っぱがざわめき始めた。ひどい天気になりそうなのは見てすぐわかった。そこで公爵と王様は小屋を調べて、ベッドの具合を見てまわった。俺のベッドは麦藁で、ジムのはトウモロコシの皮の詰め物だった。トウモロコシの皮には芯も混じってて、それが体に刺さって痛いし、寝返りをうつと枯葉の山の上で寝返りを打つみたいな音がして、ガサガサうるさくて目が覚めちまう。公爵は俺のベッドを使うと言ったけど、王様は納得しなかった。こう言った。

「階級の違いを考えれば、トウモロコシの皮のベッドなんて俺にふさわしくないってわかりそうなもんだ。公爵閣下こそ、そのベッドを使いたまえ。」

また揉めるのかと、俺とジムは一瞬ヒヤッとした。でも公爵がこう言ったので安心した。

「俺の運命は、いつも圧政の鉄のかかとで泥にすりつぶされることなんだ。不運がかつての誇り高い魂を砕いてしまった。俺は従うしかない。これが俺の運命さ。世間に一人きりで……苦しむのも俺一人。耐えてみせるさ。」

夜が十分に暗くなってから出発した。王様は、川の真ん中寄りを進んで、町をかなり下るまで明かりは見せるなと言った。やがて小さな明かりの塊が見えてきた――あれが町だった。俺たちは半マイルほど離れて静かに通り過ぎた。三分の四マイルほど下ったところで、信号ランタンを上げた。それから十時ごろには、すごい雨、風、雷、稲妻がやってきた。王様は天気が回復するまで二人とも見張りをしろと言い、自分と公爵は小屋に入って寝た。俺が当番で十二時まで見張ることになってたけど、どうせベッドがあったって寝なかっただろう。あんな嵐はめったに見られないからな。いやあ、風がすさまじく吹き荒れた。稲妻がひっきりなしに光って、白波が半マイル先まで見えて、雨の中に島がかすんで見え、木々が風で踊っていた。しばらくするとどかーんと雷が響いて、ドドドドドーンと鳴り響き、しばらくしてまた稲妻と「どかん!」と一発。波は何度も俺を筏から洗い流しそうになったけど、どうせ裸だったし平気だった。障害物も問題なかった。稲妻のおかげでよく見えて、十分に間に合って舵を切ることができた。

俺はその後半の見張り番だったけど、その頃にはかなり眠くなって、ジムが代わると言ってくれた。ジムは本当に親切なやつだ。俺は小屋に入ったけど、王様と公爵が足を投げ出して寝ていたから、入る余地がなかった。だから外に寝転んだ。雨は暖かく、波もそれほど高くなかったから平気だった。二時ごろにはまた波が高くなってきた。ジムは俺を起こそうとしたけど、「まだ大丈夫だろう」と思い直した。でも、それが間違いだった。突然、ものすごい波が俺を筏からさらっていった。これにはジムも大笑いだった。あいつはとにかくよく笑う奴だった。

それから俺が見張りをして、ジムは寝ていびきをかいていた。やがて嵐もすっかりおさまった。最初の家の明かりが見え始めた頃、俺はジムを起こして、筏を隠れ場所に滑り込ませた。

朝食のあと、王様はボロいトランプを取り出し、公爵と二人でセブンアップをしばらく五セント勝負でやっていた。でもすぐ飽きて、「作戦を練ろう」と言い出した。公爵はカーペットバッグをあさって、印刷された小さなビラを取り出し、大声で読み上げた。あるビラには「パリの著名なアルマン・ド・モンタルバン博士が、頭蓋論の科学について講演する。場所と日時は空白。入場料十セント、性格診断チャートは一枚二十五セント」とあった。公爵は自分がこの博士だと言った。別のビラでは「世界的に有名なシェイクスピア悲劇役者、ドリュリー・レーンのギャリック・ザ・ヤンガー」と書いてあった。ほかにもいろんな名前で、占い棒で水や金を探したり、魔法を退散させたり、いろいろすごいことをやると書いてあった。やがて公爵が言った。

「でも、芝居こそが俺の一番の得意分野さ。王族殿、舞台に立ったことは?」

「ないな」と王様。

「なら、三日もしないうちにやらせてやる、落ちぶれた栄光よ」と公爵。「最初に着いた町でホールを借りて、リチャード三世の剣劇とロミオとジュリエットのバルコニーの場面をやろう。どうだ?」

「何でも金になるなら俺はやるぞ、ビルジウォーター。でも芝居なんて全然知らんし、見たこともあまりない。親父が宮殿で芝居をやってたときは、俺はまだ小さかったからな。お前、教えてくれるか?」

「簡単さ!」

「よし、最近は新しいことに飢えてたんだ。すぐに始めようじゃないか。」

それで公爵は、ロミオがどういう人物で、ジュリエットがどんな子か説明して、自分はロミオ役を慣れてるから、王様がジュリエットをやれと言った。

「でも、ジュリエットはそんなに若い娘なんだろ、公爵。俺の禿げ頭と白いヒゲじゃ、やけに変に見えやしないか?」

「いや、心配するな。田舎者は細かいことなんて気にしないさ。それに衣装を着れば何もかも変わる。ジュリエットはバルコニーで月明かりを楽しみながら、寝る前のナイトガウンとフリル付きのナイトキャップをかぶってるって設定なんだ。これが衣装だ。」

公爵はカーテン地の安物の衣装を二、三着出して、リチャード三世ともう一人のための中世の甲冑だと言った。あとは白い木綿の長シャツとフリル付きのナイトキャップ。王様も納得した。それで公爵は本を取り出し、台詞を大げさに読み上げながら、動きもつけて見せて、どう演じなきゃいけないか教えた。それから本を王様に渡し、台詞を覚えろと言った。

筏を曲がりくねった三マイル先に、ボロな小さな町があった。昼飯のあと、公爵は昼間に危険なくジムを連れて移動する方法を考えついたと言って、その町へ行って準備すると言った。王様も何か稼げないかと付いていくことにした。コーヒーを切らしてたので、ジムが俺も一緒にカヌーで行ってこいと言った。

町に着いたが、誰もいなくて、人通りもなく、まるで日曜みたいに死んだようだった。裏庭で日向ぼっこしてた病気の黒人に会ったが、元気な者はみんな、森の奥二マイルほどのところで開かれているキャンプミーティングに行ってると教えてくれた。王様は道順を聞き出し、その集会をとことん利用してやると言った。俺にも一緒に来いと言った。

公爵は印刷所が目当てだった。見つけたのは、大工道具屋の二階にある小さな印刷所で、大工も印刷屋もみんな集会に行ってて、鍵もかかってなかった。中は汚くて散らかっていて、インクの跡や、馬の絵や逃亡奴隷のビラが壁じゅうに貼ってあった。公爵は上着を脱いで、「これで準備は万端だ」と言った。それで俺と王様はキャンプミーティングへ向かった。

三十分ほどで着いたが、あまりに暑い日で、汗だくになった。近くの二十マイル四方から千人は集まっていた。森じゅうに馬車や荷馬車が止めてあって、馬たちは荷台の餌箱から食い、ハエを追い払っていた。枝で覆った仮設の屋根の小屋があって、そこでレモネードやジンジャーブレッド、スイカやトウモロコシなどを売っていた。

説教は同じような小屋の下で行われていたが、そっちはもっと大きくて、たくさん人が入っていた。ベンチは丸太の外側を板にして、丸い方に穴を開けて棒を差し込んだだけで、背もたれはなかった。説教台は高く作られていて、説教師はその端に立っていた。女たちはサンボンネットをかぶり、リンジーウールシーやギンガム、若い娘はキャラコの服を着ているのもいた。若い男は裸足も多く、子どもは麻のシャツ一枚だけってのもいた。年寄りの女は編み物をしてる人もいれば、若い連中はこっそりいちゃついていた。

最初の小屋では、牧師が賛美歌をリードしていた。二行ずつ歌わせて、みんなで大合唱――それがどんどん盛り上がる。最後の方では呻く者、叫ぶ者も出てきた。それから牧師が本気で説教を始め、演台の端から端へ歩き回ったり、身を乗り出して腕や体を動かしながら全力で叫ぶ。ときどき聖書を掲げ、それを左右に振って「これぞ荒野の青銅の蛇! 見よ、そして生きよ!」と叫ぶ。人々も「栄光あれ! アーメン!」と叫ぶ。そんな調子で、みんな呻き、泣き、アーメンと叫ぶ。

「悔い改めの席へ来い! 罪にまみれた者よ! (アーメン!)病んだ者、傷ついた者よ! (アーメン!)足の不自由な者、目の見えぬ者! (アーメン!)貧しく恥に沈んだ者よ! (アーメン!)疲れ、汚れ、苦しむ者よ――砕けた魂で来い! 悔い改めの心で来い! ボロをまとい、罪と泥にまみれたまま来い! 清めの水は自由だ、天国の扉は開かれている――入って安らげ!」(アーメン! 栄光、ハレルヤ!)

そんな具合で、もう説教師の言葉は歓声や泣き声でほとんど聞こえなくなった。群衆の中で、あちこちから人々が立ち上がり、涙を流しながら力ずくで悔い改めの席へ進み出て、前のベンチに群がった。するとみんなで歌い、叫び、わめきながら、麦藁の上に倒れ込んで、もう夢中で我を忘れていた。

さて、気がつくと王様が勢いよく立ち上がって、みんなの声を圧倒するくらい大きくしゃべりだした。次に、王様は壇上に駆け上がって、牧師が「どうぞ皆さんにお話しを」と何度も頼み、とうとう話し出した。王様は、自分は海賊で、インド洋で三十年も海賊をやってきたが、去年の春の戦いで仲間がずいぶん減ってしまい、今は新しい仲間を連れ帰るために戻ってきたのだと言った。そして昨夜、ありがたいことに盗みにあって無一文で蒸気船から降ろされてしまったが、それが人生で一番幸運な出来事だったと語った。なぜなら、今の自分は生まれ変わった人間で、生まれて初めて幸せを感じているというのだ。貧乏だけど、これからすぐにインド洋に戻って、残りの人生をかけて海賊を更生させるつもりだと言う。自分はあの海のどの海賊部隊とも顔なじみだから、他の誰よりも上手くできるのだと。金がなくて時間はかかるだろうが、必ずやり遂げる。そして海賊を一人説得するたびに、こう言うのだ――「俺に感謝しちゃいけない、俺に手柄をあげちゃいけない、すべてはポークヴィルの野外集会の親切な皆さん、つまり人類の兄弟であり恩人である方々と、あそこで見守ってくれる親愛なる牧師さんのおかげなんだ――海賊が持ち得た中で一番の友人さ!」と。

それから王様は大泣きしはじめ、それにつられてみんなも泣き出した。誰かが「寄付を集めよう、寄付を!」と叫ぶと、何人かがすぐさま動き出したが、また別の誰かが「王様本人に帽子を回してもらおう!」と叫んだ。すると今度はみんながそう言い出し、牧師まで一緒だった。

それで王様は帽子を持って群衆の中を回りながら、目を拭いて人々を祝福し、遠く離れた海賊たちのためにこんなにも親切にしてくれるみんなに感謝し続けた。そして時々、一番可愛らしい女の子たちが涙を頬に流しながら、別れの記念にキスさせてほしいと頼みに来た。王様はいつでも応じていたし、中には五、六回も抱きしめてキスした子もいた。さらに、一週間滞在してほしいと招待されるし、みんな自分の家に泊まってほしいと名誉に思っていると言う。でも王様は、今日が集会の最終日だからもう役には立てないし、それに一刻も早くインド洋へ戻って海賊のために働きたいからと断った。

いかだに戻ってから王様が集めた金を数えると、八十七ドル七十五セントにもなっていた。それに、帰り道の森の中でワゴンの下にあった三ガロン入りのウィスキーの瓶も見つけて持ち帰っていた。王様は、「今まで宣教師としてやってきたどの日よりも、今日の方がはるかに実入りがよかった」と言っていた。王様曰く、未開人を相手にしても海賊ほどには儲からない、キャンプ集会で一番うまくやれるのはやっぱり海賊相手だと言うのだ。

公爵は自分もまあまあ稼げてると思っていたらしいけど、王様の成果を見せられてからはそんな気分じゃなくなった。公爵は印刷所で農場主向けに二つの仕事――馬の告知ビラ――を印刷して、代金四ドルを受け取った。それから、新聞に十ドル分の広告も集めてきて、前払いなら四ドルで載せると持ちかけ、相手も応じた。新聞の購読料は年二ドルなのに、三人からは前払いで五十セントずつ受け取った。普段なら薪やタマネギで払うところ、公爵は「自分は最近この店を買ったばかりで、できるだけ安くしている。今後は現金主義だ」と言い張った。さらに自作の詩――三連の切なくて甘い詩「そうだ、打ち砕け、この冷たい世界よ、傷ついた心よ」――も組版しておいて、これは無料で載せてやるつもりだった。結局、九ドル半を稼いで「今日はなかなか誠実な仕事をした方だ」と言っていた。

それからもう一つ、俺たち用に刷ってくれたビラを見せてくれた。そこには、棒の先に包みを括りつけて肩に担いだ逃亡奴隷の絵と、「二百ドルの報奨金」と書かれていた。説明文は全部ジムのことを寸分違わず書いてあって、「去年の冬、ニューオーリンズの四十マイル下流にあるサン・ジャック農園から逃げ出し、北へ向かったと思われる。捕らえて送り返せば報奨金と経費を支払う」とあった。

「これでな」と公爵は言った。「今夜以降は昼間でも堂々と進める。誰かに出くわしたら、ジムを縄でぐるぐる縛って小屋に寝かせ、このビラを見せて『俺たちは上流でこの逃亡奴隷を捕まえたが、蒸気船で移動する金もないから、友人からこのいかだを借りて報奨金をもらいに下ってるところだ』と言えばいい。本当は手錠や鎖をつけた方がもっとそれっぽく見えるが、俺たちがそんなに貧しいって話と合わなくなる。宝石みたいに見えるからな。縄がちょうどいい――芝居の舞台と同じで一貫性が大事だ。」

俺たちはみんな、公爵はなかなか頭が切れると感心して、これなら昼間でも問題なく行けそうだと納得した。その晩には、印刷所での公爵の仕事で町が騒ぎになる前に、十分に遠くまで逃げられると見込んでいた。そうすれば、あとは思いきり突っ走れるというわけだ。

俺たちはしゃがんでじっとして、夜の十時近くになるまで出発しなかった。それから町にかなり離れていかだを滑らせて進み、完全に見えなくなるまでランタンも灯さなかった。

朝四時にジムが見張りを交代しろと呼んだ時、ジムが言った。

「ハック、これから先、この旅でまた王様に出くわすと思うか?」

「いや」と俺は答えた。「もうないだろうな。」

「そうか、それならええわ。王様が一人か二人なら平気やけど、もう十分や。この王様はとんでもなく酔っぱらいやし、公爵も大して変わらん。」

ジムは、王様にフランス語をしゃべらせてどんな感じか聞いてみたかったらしいが、王様は「この国に長くいすぎて苦労を重ねたせいで、もうすっかり忘れてしまった」と言ったそうだ。

第二十一章

もうすっかり日が昇っていたけど、俺たちは止まらずにそのまま進み続けた。やがて王様と公爵がぼろぼろの格好で起きてきたが、川に飛び込んでひと泳ぎしたら、だいぶ元気になった。朝飯のあと、王様は筏の隅に座って、ブーツを脱いでズボンの裾をまくり上げ、水に足をぶら下げて涼みながら、パイプに火をつけて『ロミオとジュリエット』の台詞を覚えはじめた。ある程度覚えた頃、公爵と一緒に練習を始めた。公爵は王様に何度も台詞の言い方を教えて、溜息をついたり、胸に手を当てたり、しばらくして「なかなか良くなった、でもね」と言った。「ロミオ! ってあんなふうに牛みたいに怒鳴っちゃだめだよ。もっと柔らかく、悲しげに、甘く――ロォーーーミオ! ってね。ジュリエットは大切な乙女の子供なんだから、ロバみたいに鳴いちゃ台無しでしょ。」

そのあと二人は公爵がオーク材の薄板で作った長い剣を取り出して、剣劇の練習を始めた。公爵は自分をリチャード三世と名乗り、二人の剣さばきと筏の上の跳ね回りようは見事なものだった。だが王様が転んで川に落ちてしまい、そのあとは一休みして、これまで川沿いで経験したいろんな冒険談を話し合っていた。

昼飯のあと、公爵が言った。

「なあ、カペー。今回の劇は一流の見世物に仕上げたいから、もう少し演目を増やそう。アンコールの声に応える出し物もいるしな。」

「アンコールってなんだい、ビルジウォーター?」

公爵が説明してから、

「じゃあ俺はハイランド・フリングか水夫のホーンパイプを踊ろう。お前は……そうだ、ハムレットの独白をやればいい。」

「ハムレットの何だって?」

「ハムレットの独白だよ、シェイクスピアで一番有名なやつだ。あれはすごいんだ、絶対ウケる。本には載ってないんだけど、一巻しか持ってないからな。でもたぶん、記憶を頼りに繋げられる。ちょっと歩き回って思い出してみるよ。」

それで公爵は行ったり来たりしながら、時おりすごいしかめっ面をしたり、眉を吊り上げたり、額に手を当ててよろめきながら呻いたり、ため息をついたり、涙をこぼすふりをしたり――見ていて面白かった。やがて思い出したらしく、俺たちに注目するように言い、おもむろに堂々たる姿勢――片足を前に突き出し、腕を高く広げ、頭を反らせて空を見上げる――をとって、そこから怒鳴ったり暴れたり歯ぎしりしたり、台詞の間じゅう叫び散らして体を大きく膨らませて、俺が今まで見てきたどんな芝居よりも破天荒な演技をした。その台詞はこんな具合だ――俺は王様に教えている間に、あっさり覚えてしまった。

生きるべきか――否か、それが問題
長き命を苦しめるは、この素寒貧な刃先
誰が重荷を負う、ビアナムの森がダンシネーンに来るまで
だが、死後の恐れが
無垢な眠りを殺し、
大いなる自然の次なる道筋を閉ざし、
我らはむしろ運命の矢を投げ返すのだ
知らぬものへと飛び込むよりは。
ここにある思いこそが、我らを立ち止まらせる:
ダンカンよ、お前のノックで目覚めよ! 叶うものなら!  誰が時の鞭や嘲りに耐えよう、
圧政者の虐げ、誇り高き者の侮蔑、
法の遅延、それに彼の苦痛がもたらす静寂。
墓場があく夜更けに
決まりきった黒装束で集う時、
だが、未知の国、その門から戻る旅人なく、
世界に病みを吐き出す、
決意の生まれながらの色も、ことわざの猫のように
憂いで色あせる。
屋根の上を覆った雲も
その思いで流れを変え、
行動という名を失う。
まこと、願わしい成就なり。
だが、待て、美しきオフィーリアよ:
その重々しく大理石の顎をあけるな。
さあ、修道院へ行け――行け! 

爺さんはこの台詞をすごく気に入り、すぐに上手に演じられるようになった。まるで生まれつき役者みたいで、手が慣れてきて興奮が乗ってくると、叫び散らす様子はなんとも素晴らしかった。

最初のチャンスで、公爵はビラをいくらか印刷し、それから二、三日いかだで流れながら、ずっと剣劇やら「稽古」やらばかりで、筏の上はこの上なくにぎやかだった。ある朝、アーカンソー州もかなり下ったあたりで、小さな一馬力の町が川の大きな曲がり角に見えてきたので、町から四分の三マイルほど上流の入り江に筏をつけて、ジム以外はカヌーで町へ行き、ショーができるかどうか探りを入れることにした。

運よくその日は午後にサーカスが来る予定で、もう田舎の人たちがガタガタの馬車や馬に乗って続々と町に集まりはじめていた。サーカスは夜までには引き上げてしまうから、俺たちのショーにも十分チャンスがある。公爵は裁判所を借りて、町じゅうにビラを貼って回った。内容はこんなふうだ。

シェイクスピア劇 復活上演!!!
驚異のアトラクション!  一夜限り!  世界的名優
デイヴィッド・ギャリック・ジュニア (ロンドン・ドゥルリー・レーン劇場)
ならびに
エドマンド・キーン・シニア(ロイヤル・ヘイマーケット劇場、ホワイトチャペル、パディング・レーン、ピカデリー、ロンドン及び
ヨーロッパ各地王室劇場)による、
壮麗なるシェイクスピア劇
『ロミオとジュリエット』のバルコニーの場!!!
ロミオ……………………………ギャリック氏
ジュリエット…………………….キーン氏
劇団総力を結集してお届け!  新衣装、新舞台、新装置!  さらに:
手に汗握る、血湧き肉躍る
ブロードソード決闘劇
『リチャード三世』!!!
リチャード三世…………………..ギャリック氏
リッチモンド…………………….キーン氏
またまた:
(特別リクエストにつき)
ハムレット不朽の独白!!  栄光のキーン氏が熱演!  パリで三百夜連続上演の名演目!  一夜限り、
欧州での重要公演のため、今回限り!  入場料 25セント、子供・召使い10セント。

それから町をぶらぶら歩き回った。店も家もほとんど全部、古びて色あせた木造で、一度も塗装したことがないみたいだった。どの家も洪水の時に浸からないように、地面から三、四フィート高く杭の上に建っていた。家の周りには小さな庭があったけど、ジムソン草やヒマワリ、灰の山、丸まった古い靴や瓶のかけら、ぼろ布や使い古しのブリキばかりで、ろくなものは育っていなかった。柵はさまざまな種類の板で作られていて、時期もバラバラ、あちこちに傾いていて、門の蝶番も大抵は皮一枚しかなかった。昔は白塗りだった柵も、公爵いわく「コロンブスの時代の話だろう」とのことだった。たいてい豚が庭に入っていて、みんなそれを追い出していた。

店は一つの通りに並んでいて、軒先には白い日除けが張られていた。田舎の人たちは馬をその柱につないでいる。軒下には空の荷箱が積んであって、昼間じゅう怠け者たちが座り込んで、バーローナイフで削ったり、タバコを噛んだり、あくびや伸びをしたりしていた。みんな黄色い麦わら帽子をかぶっているが、上着もベストも着ていない。「ビル」「バック」「ハンク」「ジョー」「アンディ」と呼び合い、だらだらとした口調でしゃべり、やたらと下品な言葉を使っていた。柱一本につき一人は寄りかかっていて、手はたいていズボンのポケットの中。タバコを貸す時や体を掻くときだけポケットから出す。連中の会話といえば、こうだ。

「ハンク、タバコ一口くれよ。」

「やだよ、あと一口しか残ってねえ。ビルに聞け。」

ビルがくれることもあるし、持ってないと嘘をつくこともある。こんな連中は一銭も持ったことがなくて、自分のタバコなんて一度も買ったことがない。全部「借りる」だけで済ませている。「なあ、ジャック、一口貸してくれよ。さっきベン・トンプソンに最後の一口やっちまったばっかなんだ」と言う――だいたいそれは嘘で、余所者くらいしか騙されない。でもジャックは地元民だからこう返す。

「お前がやったって? 猫の婆さんがな。まず今まで貸した分を返してからだ、レイフ・バックナー。そしたら一、二トンくらい貸してやるし、利子も請求しないよ。」

「ちゃんと前に少し返したぜ。」

「ああ、確かにな――六口くらいな。でも借りる時は上等の店タバコ、返す時は『ニガーヘッド』だ。」

店タバコってのは、平たくて黒い板状のやつだが、こいつらはたいてい乾燥葉をねじったのを噛んでいる。借りる時はナイフで切るんじゃなく、歯でくわえて、手で引っ張って噛み切る。それで持ち主が返してもらった時に、悲しげな顔で皮肉っぽくこう言ったりする。

「はいはい、俺に“タバコの一口”返して、お前は“板ごと”持ってけよ。」

通りも横丁も、どこもかしこも泥だらけだった。まさに泥以外の何物でもなくて、タールみたいに黒くて、場所によっちゃあ足首くらいの深さがあったし、どこでも二、三インチ[訳注: 約5~7.5センチ]は積もっていた。どこでもブタがうろついて、ブーブー鳴いていた。泥だらけの雌ブタと子ブタの群れが、のそのそと通りを歩いてきて、道の真ん中でドサッと寝転がって、通りかかった人たちがわざわざ避けて歩かなきゃならない。母ブタは体を伸ばして目を閉じて、耳をひらひら動かしながら、子ブタに乳を飲ませてるんだけど、まるで給料もらってるみたいに幸せそうな顔してるんだ。そうしているうちに、どこかから怠け者が「ほれ、いけ! やっちまえ、タイガー!」とか叫ぶ声が聞こえてきて、雌ブタは大声で悲鳴を上げながら逃げ出す。両耳に犬が一匹ずつ噛みついてぶら下がり、ほかにも三、四十匹くらいの犬が、後ろから追いかけてくる。すると、通りの怠け者どもが一斉に立ち上がって、その様子を見届けて大笑いし、騒動に感謝しているみたいな顔をするんだ。それからまた、犬の喧嘩が始まるまで元の場所に戻っていく。町中の人間を一斉に目覚めさせ、みんなを幸せにするものといったら、犬の喧嘩くらいしかない――いや、もしかしたら、迷い犬にターペンタインをかけて火をつけるとか、尻尾にブリキの鍋をくくりつけて走らせるとか、それくらいしか他にないだろう。

川沿いにある家のいくつかは、土手から突き出して建っていて、建物が曲がって傾いて、今にも崩れ落ちそうだった。住人はすでに引っ越していた。土手が崩れて家の隅の下がえぐれており、その一角が宙に浮いている家もあった。それでもまだ住んでる人もいたけど、すごく危険だった。なぜなら、ときどき家一軒分くらいの幅の土地が、まとめて崩れ落ちることがあるからだ。ときには、四分の一マイル[訳注: 約400メートル]もの幅の土地が、夏の間に少しずつ崩れ始めて、最後は全部川に落ちてしまうこともある。こんな町じゃ、ずっと後ろへ、後ろへと移動し続けなきゃならないんだ。川がいつも町を削り取っているからだ。

その日の昼近くになると、通りには荷馬車や馬がどんどん増えてきて、ますます混雑してきた。田舎から来た家族は食事を持参して、荷馬車の中で昼を食べていた。ウィスキーを飲む連中も結構いて、俺は三回も喧嘩を見た。やがて誰かが叫ぶ声がした――

「ボッグスが来たぞ! 田舎から毎月のヨッパライに来たんだ、来たぞ、みんな!」

怠け者どもはみんなうれしそうな顔をした。きっとボッグスをからかって楽しむのに慣れてるんだろう。そのうちの一人が言った。

「さて、今度は誰にかみつくつもりかね。ここ二十年で、言った通りに全部の男をかみついてたら、今ごろ相当な評判者になってるだろうに。」

また別のやつが言う。「俺もボッグスに脅かしてもらいたいもんだよ。そうすりゃ千年は死なずにすむって分かるからな。」

ボッグスは馬にまたがって、インディアンみたいに喚き叫びながら突進してきた。

「どけどけ、道を開けろ! 俺は戦闘態勢だぞ。棺桶の値段が上がるぜ!」

彼は酔っぱらっていて、鞍の上でふらふらしていた。五十はとうに過ぎてて、顔は真っ赤だった。みんなが彼にやじを飛ばし、笑い、なじり、彼も負けじとやり返す。彼は「お前らのことは順番に片付けてやるが、今は急いでるんだ。今日はシェルバーン大佐を殺すために町に来たんだ。俺のモットーは『まず肉、最後に汁もの』さ」と言っていた。

ボッグスは俺を見つけて馬を寄せてきて言った。

「どこから来たんだ、坊主? 死ぬ覚悟はできてるか?」

そう言うと、また進んでいった。俺はびびったけど、そばの男が言った。

「心配するな。あいつは酔うといつもあんな調子だ。アーカンソーで一番人のいい馬鹿者さ――酔ってても素面でも、誰にも危害は加えたことがないよ。」

ボッグスは町で一番大きな店の前まで来て、馬上から頭を下げてテントのひさしの下を覗き込み、叫んだ。

「シェルバーン、出てこい! 俺を騙した男に会いに来たぞ。お前を狙ってるんだ、必ず捕まえてやる!」

彼はシェルバーンをありとあらゆる悪口で罵り続け、通りは人でぎっしり埋まり、みんなが見物しながら笑っていた。そのうち、五十五歳くらいの、町で一番上等な身なりの男が店から出てきた。群衆は彼が通れるように両側に分かれた。その男――シェルバーン大佐――は、ものすごく落ち着いてゆっくりとボッグスに言った。

「もううんざりだが、一時までは我慢しよう。一時まで、だ。それ以降、俺に一言でも口をきいたら、どこに逃げても必ず見つけ出すぞ。」

そう言うと、店の中に戻っていった。群衆は一気に静まりかえり、誰も身動きせず、もう誰も笑わなかった。ボッグスは大声でシェルバーンを罵りながら通りを下っていき、やがてまた店の前まで戻ってきて、罵倒を続けていた。何人かが彼の周りに集まって、いい加減にやめて帰るよう説得しようとしたが、ボッグスは聞く耳を持たなかった。「あと十五分で一時になるから、家に帰れ、今すぐ帰れ」と言われても、全然効果はなかった。彼は全力で罵り続け、帽子を泥の中に投げ捨てて、それを馬で踏みつけてから、また銀髪をなびかせて通りを駆け抜けていった。誰もが、なんとか彼を馬から降ろして酔いを覚まさせようとしたが、無駄だった。彼はまた駆け上がってきて、シェルバーンを罵倒するのだった。そのうち誰かが叫んだ。

「娘を呼んで来い! 早く娘だ! 彼女だけは、たまに説得できるんだ!」

誰かが走っていった。俺も通りを歩いてちょっと離れた場所で立ち止まった。五分か十分ほどして、ボッグスがやってきたけど、もう馬には乗っていなかった。帽子もかぶらず、両脇に友達がついて腕を抱え、ふらふらしながらも急がせるように歩いていた。彼はおとなしくて落ち着きがなく、むしろ自分から早く歩こうとしていた。誰かが叫んだ。

「ボッグス!」

俺が声のした方を見ると、それはシェルバーン大佐だった。彼は通りの真ん中にじっと立ち、右手にピストルを持ち上げていた――狙いをつけてるわけじゃなく、銃口を空へ向けている。ちょうどその時、若い女の子が二人の男と一緒に走ってきた。ボッグスとその友人が振り返ると、銃を見て友人たちはさっと身を引き、ピストルの銃身がゆっくり水平になる――両方の銃身がコックされている。ボッグスは両手を挙げて「おお神よ、撃たないでくれ!」と叫ぶ。――バン! 一発目が鳴り、彼は後ろへよろめいて手を空中で掻く。――バン! 二発目で彼はどさっと地面に倒れ、両腕を広げたまま動かなくなった。あの若い女の子は悲鳴を上げて走り寄り、父親の上に倒れ込んで「殺された、殺された!」と泣き叫ぶ。群衆は彼らの周りに押し寄せ、肩をぶつけ合いながら首を伸ばして見ようとし、内側の人たちは「下がれ、下がれ! 空気をあげろ、空気をあげろ!」と叫びながら押し返していた。

シェルバーン大佐はピストルを地面に投げ捨て、くるりと向きを変えてその場を立ち去った。

ボッグスはドラッグストアに運ばれ、群衆もそのまま押しかけて町中がついていった。俺は窓辺のいい場所を確保して、中をのぞき込んだ。彼を床に寝かせ、大きな聖書をひとつ頭の下に置き、もうひとつは胸の上に広げた。でもまずシャツを引き裂いて、弾痕を確認した。彼は十数回、長い呼吸をして、そのたびに胸が聖書を持ち上げて、息を吐くとまた聖書が下がった――それが終わると動かなくなった。もう死んでいた。それから娘が父親から引き離され、悲鳴を上げて泣き叫びながら連れて行かれた。娘は十六歳くらいで、とても可愛らしく優しそうな顔立ちだったが、真っ青になって怯えていた。

さて、すぐに町中の人間がそこに集まってきて、押し合いへし合い窓際の場所を取ろうとしたけれど、先に場所を取った人たちは譲らない。後ろの人たちは「おい、もうじゅうぶん見ただろ、いつまでも独り占めするなよ。他の奴らにも権利はあるんだ!」と文句を言い続けていた。

かなり口論になってきたので、俺はトラブルになる前にそっとその場を離れた。通りは人であふれ、みんな興奮していた。目撃者はそれぞれに状況を説明していて、その周りには大勢の人が集まり、首を伸ばして聞き入っていた。背の高いやせた男が、長い髪と頭の後ろに載せた真っ白なシルクハット、それに曲がった杖を持って、ボッグスが立っていた場所やシェルバーンの立ち位置を地面に示して回っていた。人々は彼を追いかけて移動し、納得したように頷き、しゃがんで膝に手をついたりして、彼が杖で地面に印をつけるのを見ていた。彼はシェルバーンが立っていた場所で直立し、眉をひそめて帽子のつばを目深にして「ボッグス!」と叫び、ゆっくり杖を水平に下ろして「バン!」と叫び、後ろによろめいてもう一度「バン!」と言って、背中から倒れ込んだ。その様子は本当に本物そっくりだったと、目撃者は口々に言っていた。それから十人くらいが瓶を取り出して彼に酒をふるまっていた。

さて、そのうち誰かが「シェルバーンはリンチすべきだ」と言い出し、一分もたたないうちにみんながそう叫び始めた。そうして彼らは怒号を上げながら、リンチ用のロープにしようと見つけた洗濯紐を片っ端から引きちぎりながら進み始めた。

第二十二章

やつらはシェルバーンの家に向かって押し寄せ、インディアンみたいな騒ぎで、道をふさぐものは何でもなぎ倒して進み、ひどい有様だった。子供たちは叫びながら群衆より先に逃げようとし、道沿いの窓という窓には女たちの顔が並び、木の上には黒人の子供たち、柵の向こうには男も女も身を乗り出していた。群衆が近づくと、一斉に散って逃げていった。女や娘たちの中には泣き叫び、死にそうなほど怯えている者も大勢いた。

やつらはシェルバーンの家の柵の前に、これでもかというくらい密集して押し合い、うるさくて自分の声も聞こえないほどだった。庭は二十フィート[訳注: 約6メートル]ほどしかない狭いスペースだった。「柵を壊せ! 柵を壊せ!」と誰かが叫ぶと、バキバキと壊す音がして、柵が倒れ、群衆の最前列が波のように押し寄せてきた。

その時、シェルバーン大佐が小さな玄関ポーチの屋根に出てきて、両手に二連銃を持ち、まったく動じず落ち着き払って立った。何も言わず、ただじっと立っている。騒ぎはピタリと止まり、群衆は引き波のように一歩引いた。

シェルバーンは一言も発せず、ただ群衆を見下ろしていた。ぞっとするほどの静けさで、気味が悪いくらいだった。シェルバーンがゆっくりと群衆を見渡すと、目が合った人たちは何とか睨み返そうとするが、結局皆目をそらして小賢しい顔になる。しばらくして、シェルバーンはちょっと嘲るように笑った――それはパンに砂が混じっているのを食べているような、不快な笑いだった。

そして、彼はゆっくりと、侮蔑を込めて言った。

「お前らがリンチなんて、片腹痛いわ。お前らが男をリンチする度胸があると思うなんて、滑稽だ。哀れな女の流れ者をタールと羽根で痛めつけるくらいの勇気はあっても、それで男に手を出せると勘違いしてるのか? 男は、お前ら一万人に囲まれても、昼間なら、背後を取られない限り安全なんだぞ。

お前たちのことはよく分かってる。俺は南部で生まれ育ち、北部にも住んでいたからな。どこでも平均的な奴は臆病者だ。北部じゃ誰にでも好きなようにされて、家に帰ると『謙虚な心をください』なんて祈る始末だ。南部じゃ一人の男が真昼間に駅馬車を襲って、満員の男どもから金を巻き上げる。新聞はお前らが勇敢だと書くから、自分もそうだと思い込んでるが、実際は他の連中と大して変わらない。なぜ裁判で殺人犯を絞首刑にしない? 犯人の仲間に暗闇で背中から撃たれるのが怖いからだ――そして実際そうなる。

だからいつも無罪放免になる。すると今度は、男たちが夜になって、百人の仮面をかぶった臆病者を引き連れてリンチに行くんだ。お前らの失敗は、本物の男を連れてこなかったことさ。そしてもうひとつ、暗闇に仮面をかぶって来なかったことだ。お前たちは男の半分――そこにいるバック・ハークネス――だけ連れてきた。もしあいつがいなきゃ、口先だけで終わってたんだ。

本当は誰も来たくなかったんだろ。大抵の奴は面倒や危険は嫌いだ。お前らだってそうだ。でも半端者――たとえばそこのバック・ハークネス――が『リンチだ、リンチだ!』と叫ぶと、怖くて引き下がれなくなる。臆病者だとバレるのが嫌でな。だから騒ぎながらついてきて、自分が何か大きなことをやるつもりでいる。哀れなのは群衆だ。軍隊も同じ、集団の人数と隊長から借りた勇気で戦うだけで、本来の勇気なんて持ってない。本物の男がいない群衆なんて、哀れ以下だ。今お前らがするべきことは、しっぽを巻いて家に帰って、穴にでも潜り込むことだ。本当にリンチしたい奴がいるなら、南部流に夜に仮面をかぶって、本物の男も連れてくるだろう。さぁ、とっとと帰れ――その半端者も一緒にな」

そう言いながら、銃を左腕に乗せてコックした。

群衆は一気に押し戻され、バラバラに散り、あちこちに走り去った。バック・ハークネスも尻尾を巻いて逃げていった。俺はその気になれば残れたけど、別に残りたくなかった。

それから俺はサーカスに行って、裏手で警備員が通り過ぎるのを待ち、こっそりテントに潜り込んだ。二十ドル金貨といくらかの金は持っていたが、こうやって家を離れて見知らぬ土地で暮らしていると、いつ何があるか分からないから、なるべく節約しておいた方がいいと思った。用もないのにサーカスで金を使うのは好きじゃないが、他に方法がないなら仕方がない。

サーカスは本当に素晴らしかった。みんな二人ずつ、紳士と婦人がペアになって馬に乗って入場してくるんだ。男たちは下着姿で靴も鐙もなく、手を楽に膝に置いている――二十人はいたと思う。女たちはみんな綺麗な顔立ちで、まるで本物の女王様の一団みたいに豪華な衣装を着ていて、ダイヤモンドもびっしりだった。こんなきれいな光景は見たことがない。やがて一人ずつ立ち上がって、ふわりふわりと優雅にリングを回り、男たちは背が高くて軽やかに、頭を揺らしながらテントの屋根近くをすいすい動いていく。女たちのドレスはバラの花びらみたいに柔らかく腰のあたりで揺れ、その姿はまるで最高に素敵なパラソルみたいだった。

そしてみんなだんだん速くなっていき、片足を交互に高く上げて踊り、馬はどんどん傾いていく。リングマスターはポールの周りを回りながら鞭を鳴らして「はい! はい!」と叫び、ピエロが後ろで冗談を飛ばす。そのうちみんな手綱を放し、女たちは両手を腰に、男たちは腕を組んで、馬たちはさらに体を傾けて必死に走る。そのあと全員が跳ねるようにリング内に入り、最高に優雅なお辞儀をして、駆け足で退場していった。観客は手を叩いて大盛り上がりだった。

サーカスの間じゅう、みんながびっくりするようなことばかりやってたし、その間ずっと道化師はふざけまくって、客は大笑いして死にそうなくらいだった。団長が何か言おうとしても、道化師はすぐさま、ものすごくおかしい返事を返して、あんなに次々と、しかも即座に面白いことばかり思いつくやつを俺は他に知らない。俺なんか一年かかっても思いつけやしない。しばらくすると、酔っ払いがサーカスのリングに入ろうとした――自分だって誰にも負けずに馬に乗れるんだって言うんだ。みんなで止めたりなだめたりしてたけど、そいつは聞きやしない。それでショーは全部止まってしまった。すると観客がそいつに向かってヤジを飛ばしたり、からかったりし始めて、それがまた酔っ払いを怒らせて、暴れ出したもんだから、今度は観客が立ち上がってリングに押し寄せ、「ぶっ飛ばせ! 外に放り出せ!」なんて叫び始めて、女の人も一人二人悲鳴をあげた。そしたら団長がちょっとしたスピーチをして、「騒ぎにならないことを願っているが、この男がもう問題を起こさないと約束するなら、馬に乗ってもいい。ただし、落ちずに乗っていられると思うんなら」と言った。みんな大笑いして「いいぞ」となり、男は馬に乗った。そしたら馬が暴れだして跳ね回り、サーカスの男二人が手綱をつかんで必死で抑えてるけど、酔っ払いは馬の首にしがみつき、足が宙に舞ったり、今にも地面に届きそうになったりして、観客は立ち上がって涙を流すほど笑い転げていた。とうとうサーカスの連中でも手に負えなくなって、馬は暴走し始め、酔っ払いは寝そべるように馬の首にしがみつき、片足ずつ交互にだらんと下げながらリングをぐるぐる回り、観客はもう狂乱状態だった。でも俺には全然おかしくなかった。危なっかしくて震えが止まらなかったくらいだ。けど、そのうち酔っ払いはなんとか馬にまたがって手綱をつかみ、体を揺らしながらもがいてたが、次の瞬間にひょいっと立ち上がって、手綱を離し、堂々と立ち上がった! しかも馬は火がついたみたいに疾走してるのに、まるで酔っ払ってなどいないみたいに楽々と立って、ゆうゆうと乗りこなしている。それから服を脱ぎ捨て始めて、次から次へと脱いで投げていくもんだから、空中まで服だらけになって、結局十七着も脱いだ。そして、最後にはスリムでハンサムで、えらく派手で綺麗な衣装をまとって現れて、鞭で馬をあおって派手に走らせ、そのまま軽やかに降りてお辞儀をし、踊りながら楽屋に引っ込んでいった。観客は興奮と驚きで大騒ぎだった。

それで団長も、自分がまんまと騙されたのに気づき、たぶんこの世で一番悔しがっていたと思う。だって、あれは団長の手下の男だったんだ! 全部自分で考えたイタズラで、誰にも気づかせなかったんだ。俺もすっかり騙されて、バカにされた気分だったけど、千ドル積まれても団長の立場にはなりたくなかった。もっとすごいサーカスが他にあるかもしれないけど、俺はまだ出会ったことがない。まあ、俺には十二分に面白かったし、もしまた出くわす機会があれば、俺の金は全部そこにつぎ込むつもりだ。

さて、その夜に俺たちも「興行」をやったんだけど、来たのはせいぜい十二人くらいで、経費が出る程度だった。みんな最初から最後まで笑いっぱなしで、それが公爵を怒らせた。しかもショーが終わる前に、寝ている一人の少年を除いて全員出て行ってしまった。公爵は「アーカンソーの田舎者はシェイクスピアにはついてこれない。あいつらが求めているのは三文芝居か、それよりもっとひどいもんだろう」と言っていた。奴は観客の趣向を見抜いていると言い、翌朝にはでかい包装紙と黒ペンキを用意してビラを書き、村中に貼り出した。そのビラにはこう書いてあった。

AT THE COURT HOUSE!
FOR 3 NIGHTS ONLY!
世界的に有名な悲劇役者
デイビッド・ギャリック・ザ・ヤンガー!  および
エドモンド・キーン・ザ・エルダー!  ロンドンおよび大陸劇場所属
驚愕の悲劇
王のカメロパード
または
王家のとんでもないやつ!!!  入場料50セント

そして一番大きな文字で一行、こう書いてあった。

女性および子供の入場はお断り

「ほら」と公爵が言った。「この一行で釣れなかったら、アーカンソーを知らないってことだ!」

第二十三章

その日は一日中、公爵と王様が舞台やカーテンを作ったり、蝋燭を並べて照明を用意したりして大忙しだった。そして夜になると、あっという間に会場は男たちで満員になった。もう入れなくなったところで、公爵は入口の番をやめて裏手から舞台へ向かい、幕の前に立って短いスピーチをした。今夜の悲劇は史上最もスリリングだと持ち上げ、主役のエドモンド・キーン・ザ・エルダーについても自慢しまくった。そして観客の期待が十分高まったところで幕を上げると、次の瞬間、王様が全裸で四つん這いになって跳ね回りながら登場した。体中にあらゆる色の縞模様やら模様やらを描いて、虹のように派手な姿だった。――そのほかの衣装についてはもう言うまい。とにかく滅茶苦茶だったけど、すごくおかしかった。観客は腹を抱えて笑い転げ、王様が跳ね回って舞台裏に引っ込むと、歓声と拍手と爆笑の嵐、再登場させてまた同じことをやらせ、それが終わってももう一度やらせた。あのバカがやる馬鹿騒ぎを見たら、きっと牛でも笑うだろう。

それから公爵が幕を下ろし、観客に一礼して、偉大な悲劇はロンドンでの公演が控えているため、あと二晩だけの上演だと告げた。そしてもし観客を楽しませ、啓蒙できたなら、友人にも宣伝してまた見に来てほしいと、さらに一礼した。

二十人ほどが叫んだ。

「何だ、もう終わりか? それで全部か?」

公爵は「その通り」と答えた。すると会場は大騒ぎ。「だまされた!」とみんな怒って舞台に詰め寄ろうとした。だが、その時、大柄で立派な男がベンチの上に飛び乗って叫んだ。

「待て! 一言だけ、みんな。――確かに俺たちはやられた。こっぴどくだまされた。でも、町中の笑い者になって、一生この話を言われ続けるのはごめんだ。違う。俺たちがやるべきなのは、黙って帰って、このショーを褒めそやして、残りの町の連中を同じ目に遭わせることだ! そうすればみんな同じ立場だろう。そう思わないか?」(「その通りだ! 判事の言うとおり!」とみんなが叫んだ)「よし、じゃあ、だまされたことは一切口にするな。家に帰って、みんなにこの悲劇を見に行くよう勧めろ」

翌日、町中どこを歩いても「昨夜のショーは最高だった」という話しか聞こえなかった。その夜もまた会場は満員で、俺たちはまた同じ手で観客から金を巻き上げた。俺と王様と公爵が筏に戻ると、みんなで晩飯を食った。そして夜中近くになると、王様たちはジムと俺に筏を川の真ん中まで押し出させて、町から二マイル下ったところの岸に隠させた。

三晩目もまた会場は超満員――しかも今度は初日や二日目に来たやつばかりだった。俺は公爵のそばで入口番をしていたけど、入っていく男たちはみんなポケットが膨らんでいたり、コートの下に何かを隠し持っているのが見えた――しかも香水なんかじゃないことは間違いなかった。樽単位で腐った卵やキャベツの臭いがしたし、死んだ猫がいるときのサインも確かにあった。六十四匹分くらいはいたはずだ。俺もちょっと会場に入ってみたが、あまりにひどい臭いで耐えられなかった。満員になったところで公爵は誰かに四分の一ドル渡して入口番を代わらせ、自分は裏口に回り始めた。俺もあとを追うと、曲がり角を曲がって暗がりに入った途端、公爵が言った。

「早く歩け、家並みを抜けたら全速力で筏まで駆けろよ!」

俺もそうしたし、公爵も同じだった。二人で同時に筏にたどり着いて、ものの二秒もしないうちに、川の真ん中へ静かに、闇の中を滑り出していった。誰も何もしゃべらない。王様は町に行ってなかったから、観客に痛い目に遭わされてるんじゃないかと思っていたけど、そんなこともなかった。しばらくすると王様が小屋から這い出してきて言った。

「さて、今夜はどうだった、公爵?」

王様は最初から町へ行っていなかったのだ。

筏の明かりを灯したのは、町を十マイルほど下ったころだった。そして晩飯を食いながら、王様と公爵は、町の連中をうまく騙したと大笑いしていた。公爵が言った。

「青二才どもめ、間抜けどもめ! はな、初日の連中が黙ってて残りの町の奴らを巻き込むことくらい見抜いてたし、三晩目には今度は自分たちの番だと狙ってくるのも分かってた。まあ、その通りになったし、連中がどんな目に遭ったか知りたいもんだ。せっかくの機会なんだ、ピクニックにするつもりなら好きにすりゃいい。食い物はたっぷり持ち込んでたしな」

あのろくでなしどもは三晩で四百六十五ドルも稼いだ。そんな大金をトラックで運ぶみたいに稼ぐやつは初めて見た。そのうち二人が寝ていびきをかき出したころ、ジムが言った。

「ハック、あんなふうに王様たちがやりたい放題するの、びっくりせんか?」

「いや」と俺は言った。「別に驚かない」

「なんでや、ハック?」

「いや、だって、それが生まれつきなんだろう。みんな同じさ」

「でもな、うちらの王様たちは正真正銘の悪党やで? ほんまに悪党や」

「俺もそう思う。王様ってのはどいつもこいつもだいたい悪党なのさ、俺の知ってるかぎりじゃな」

「ほんまか?」

「歴史を読めば分かるさ。ヘンリー八世を見てみろ、あいつに比べりゃ今の王様なんて日曜学校の先生みたいなもんだ。チャールズ二世も、ルイ十四世も、ルイ十五世も、ジェームズ二世も、エドワード二世も、リチャード三世も、他にも四十人くらいいるし、それに昔大暴れしてたサクソン七王国なんかもいる。ヘンリー八世が全盛期の頃なんて見せてやりたいくらいだ。あれはまさに乱暴者だった。毎日新しい嫁さんをもらって、翌朝には首をはねる。それがまるで卵でも注文するみたいに平気なんだ。『ネル・グウィンを呼べ』って言って、呼び出す。次の朝には『首をはねろ!』ってな感じだ。『ジェーン・ショアを連れて来い』って言って呼び出して、また次の朝に『首をはねろ』だ。『フェア・ロザムンドを呼べ』って言えば、彼女も呼ばれて次の朝には『首をはねろ』。しかも全員に毎晩一つずつ物語を語らせて、それを千一夜分ため込んで本にして、『ドゥームズデイ・ブック』って名付けた――なかなかのネーミングで、実情そのままだ。ジムは王様のことなんか知らないだろうけど、俺は歴史で見てきた。今の王様も史上指折りの悪党の一人さ。でな、ヘンリーは国と揉め事を起こしたくなったら、どうすると思う? 予告をしたり、相手にチャンスを与えたりするか? 違う。いきなりボストン港に積んであった紅茶を全部ぶちまけて、独立宣言を出して、『かかって来い』と挑んだ。あれがあいつのやり方で、絶対に相手に隙を見せなかった。親父のウェリントン公爵が怪しいと思ったら? 問いただすか? 違う――マムジー酒の樽に沈めて殺した。もし誰かが金を置きっぱなしにしてたら、どうする? 当然盗るさ。何か頼まれて、金を受け取っても、目の前でやったか確かめないと、絶対に違うことをする。口を開けたらどうなる? すぐ閉じなきゃ必ず嘘を一つは吐く。ヘンリーっていうのはそういう虫けらで、今の王様が町の連中を騙したよりも、もっとひどい目に遭わせただろう。もちろん、俺たちの王様が羊みたいだなんて言う気はないけど、あいつに比べりゃ可愛いもんさ。結局、王様ってのはどいつも王様で、仕方ないってことだ。どいつもこいつもろくでもない奴らなんだ。育ちがそうさせるんだな」

「でも、こいつらはとりわけ悪臭がすごいで、ハック」

「そりゃみんな同じさ、ジム。俺たちが王様の匂いをどうにかできるわけじゃない。歴史にも解決法は書いてない」

「でも公爵は、まだマシや思うときもある」

「まあ、公爵は少し違うけど、たいして変わりゃしない。この公爵もなかなか手強い部類だ。酔っぱらってるときは、近眼のやつなら王様と見分けがつかないくらいだ」

「まあ、どっちにしろ、もうこんな連中はたくさんや。これ以上は耐えられんわ、ハック」

「俺も同じだよ、ジム。でも、今はこいつらと一緒にいるしかないし、こいつらがどんな奴かをよく分かって、ちゃんと割り切ってやらなきゃな。時々、王様がいない国があったらいいのにって思うよ」

ジムに、こいつらは本物の王様や公爵じゃないんだって教えたところで、意味はなかったし、正直言って本物と見分けがつかないくらいだった。

俺は眠りに落ちて、ジムは俺の番になっても起こさなかった。よくあることだった。夜明け前に目を覚ますと、ジムは膝の間に頭をうずめて、うめきながら悲しそうにしていた。俺は特に気にも留めず、知らんふりしていた。それがどういうことか分かっていたからだ。ジムは北のほうにいる妻と子どもたちのことを考えて、寂しくてたまらなかったんだ。家を離れたことなんて一度もなかったから、余計にこたえてたんだろう。それに、白人と同じくらい自分の家族を大切にしてるって、俺には思えて仕方なかった。そんなのおかしな話に思えるかもしれないが、たぶん本当なんだ。ジムは夜、俺が寝てると思っている時によく、ああやってため息をつきながら、「かわいそうなリザベス! かわいそうなジョニー! 辛いなあ、もう会えんのやろか、もう会えんのやろか!」なんて呟いていた。ジムは本当にいい奴だった。

でもその時は、なんとなくジムと奥さんや子どもの話をし始めて、しばらくしたらジムが言った。

「今回こんなに気分が落ち込んだのはな、さっき向こう岸で何かドンとかバタンとか音がして、昔、リザベスにひどいことしたのを思い出してしもうたからや。あの子はまだ四つくらいで、猩紅熱にかかって大変やったけど、なんとか元気になった。で、ある日、立ってたから、俺が言うたんや――

『ドア閉めえ』

せやけど、リザベスは何もせんと、ただ俺を見上げてにこにこしとんや。それで俺は腹が立って、また大声で言うた――

『聞こえへんのか、ドア閉めえ!』

それでもニコニコしたまま。もう俺はカッカしてきて――

『今に見とれ、言うこと聞かせたる!』

「それで俺は、彼女の横っ面をパチンとひっぱたいた。そしたら、あいつは床にぶっ倒れた。で、俺は別の部屋に行って、十分ほどして戻ってきたんだ。そしたらどうだい、あのドアはまだ開いたままで、その子はほとんど戸口に立ったまま、うつむいて悲しみに暮れてて、涙をポロポロ流してるんだ。いやもう、すごく腹が立った! 俺はその子に向かって行こうとしたんだけど、ちょうどそのとき――そのドアは内開きなんだけど――ちょうどそのとき、風がビューンと吹いてきて、ドアが子どもの後ろでバターン! って閉まったんだ。なのに、まあ、あの子はびくともしない! 俺はもう息が止まるかと思った。で、なんだか――なんとも言えない気持ちになった。俺は這うようにして、震えながら、そーっと回りこんでドアをゆっくり開けて、子どもの後ろから頭をそっと突っ込んで、いきなりバン! って思い切り叫んでみた。それでも動かない!  ああ、ハック、俺は泣き崩れて、その子を抱きしめて、『ああ、かわいそうな子だ! 主よ、どうかかわいそうなジムを許してください――自分では一生許せない!』って叫んだよ。あの子は完全に耳も聞こえず、口もきけなかったんだ、ハック、全く耳も聞こえず、口もきけなかった――それなのに俺は、あんなひどいことをしてしまったんだ!」

第二十四章

翌日、夕方近くなって、俺たちは川の真ん中にある小さなヤナギの茂った中州の下に舟を泊めた。そこは川の両岸に村があって、公爵と王様は、それぞれの村でどうやって一儲けしようかとたくらみ始めた。ジムが公爵に話しかけて、できれば数時間で済ませてほしいと言った。というのも、日がな一日ロープで縛られて小屋に寝ているのは、ひどく重苦しくて耐えがたいと言うんだ。わかるだろ、俺たちがジムを一人にしていくときは縛っておかなきゃならなかった。誰かに見つかったとき、縛られてなきゃ逃亡奴隷だってバレるからな。公爵は「確かに一日縛られているのは大変だ」と言って、何とか抜け道を考えてやると答えた。

公爵は頭が切れるやつで、すぐにいい案を思いついた。ジムを『リア王』の衣装に着替えさせたんだ――それはカーテンみたいなキャラコの長いガウンで、白い馬のたてがみでできたカツラとヒゲもついてた。それから演劇用のペンキで、ジムの顔も手も耳も首も、くすんだ鈍い青一色に塗った。まるで九日間水死体だった人間みたいな色だ。あんなひどい見た目のものは他に見たことがないくらいだ。そんで公爵は木の板にこう書いたんだ。

「病気のアラブ人――ただし錯乱していなければ無害」

この板を細い棒に釘で打ち付けて、小屋の前四、五フィートのところに立てかけた。ジムは満足そうだった。縛られてビクビクしながら寝ているよりずっとマシだと言っていた。公爵は「ゆっくりくつろいでいろ」とジムに言い、もし誰かがちょっかいを出しに来たら、小屋から飛び出して少し騒ぎ、野獣みたいに吠えれば、きっとすぐに逃げていくだろう、と言った。まあ、まともな判断だと思うが、たいていの奴なら吠える前に逃げ出すだろう。なにせ、ジムはただの死人みたいじゃなく、もっとひどいものに見えたからな。

あの詐欺師二人は、また「ナン・サッチ」をやりたがっていた。あれは大もうけできるからな。でも、もう噂が伝わってきてるかもしれないし、今回は危ないだろうと考えていた。なかなかちょうどいい計画が思いつかなかったが、ついに公爵が「ちょっと頭を使ってアーカンソーの村で何かやれるか考えてみる」と言い出した。王様のほうは「俺はもう一つの村をあてなく歩いて、運を天にまかせてみる」と言う――つまり俺には悪魔の導きに任せるって意味だと思う。前に泊まった町で全員が店仕立ての服を買ってあった。今度は王様がそれを着て、俺にも着るように言った。もちろん俺はその通りにした。王様の服は真っ黒で、すごく立派でカチッと決まって見えた。服で人間がこんなに変わるとは知らなかった。前は世界一みすぼらしいじじいだったのに、今は新しい白いビーバー帽を取ってお辞儀して笑顔を作ると、まるでノアの箱舟から出てきたみたいで、もしかしてレビ記の長老本人かと思うくらい立派で敬虔そうに見えるんだ。ジムはカヌーをきれいにして、俺はパドルを用意した。岸の先、三マイルくらい町の上流に大きな蒸気船が停まっていて、何時間か荷物を積み込んでいた。王様が言う。

「この格好なら、セントルイスかシンシナティか、どこか大きな町から来たことにしたほうがいいな。蒸気船に行くぞ、ハックルベリー。あれで村まで下るんだ」

蒸気船に乗れるなら二度言われるまでもなかった。俺は村より半マイル上流の岸につけて、それから崖沿いの穏やかな流れを下っていった。しばらく行くと、素朴で人の良さそうな若い百姓が丸太に座っていて、顔の汗をぬぐっていた。すごく暑い日で、彼のそばには大きなカーペットバッグが二つ転がっていた。

「岸につけろ」と王様。俺はそうした。「どこへ行くんだい、若いの?」

「蒸気船さ。オルリンズ(ニューオーリンズ)まで行くんだ」

「乗りな」と王様。「ちょっと待ちな。俺の召使いが荷物を運ぶから。さあ降りて、紳士のお手伝いをしろ、アドルファス」――つまり俺のことだってわかった。

俺は言われた通りにして、三人でまた出発した。若い男はすごく感謝して、こんな暑い日に荷物を運ぶのは大変だったと言っていた。彼は王様にどこへ行くのか尋ねて、王様は「川を下ってさっきもう一つの村に着いたが、今度は上流の農場にいる古い友人に会いに行く」と答えた。若い男が言う。

「最初にあんたを見たとき、『あれはウィルクスさんだ、もう少しで間に合ったのに』って思った。でもすぐに『いや、違うな。だったら川を上ってるわけないし』とも思った。あんた、違うね?」

「いや、俺の名前はブロジェット――エレクサンダー・ブロジェット――牧師のエレクサンダー・ブロジェットとでも言っておこうか。主のしもべの一人だからな。だが、それでもウィルクスさんが間に合わずに何か損をしていれば、同じように残念に思うさ――まあ、何も損がなければいいんだが」

「財産は損してないよ、ちゃんと手に入る。でも兄のピーターが死ぬのに間に合わなかった。それは気にしないかもしれないけど、兄さんのほうは死ぬ前にどうしても会いたがってたんだ。この三週間、その話ばっかりしてた。子どものころから会ってなくて、それに弟のウィリアムには一度も会ったことがなかった。あの人は耳も聞こえず口もきけないんだ。ウィリアムは三十か三十五くらい。ピーターとジョージだけがこっちに出てきた。ジョージは既婚者だったけど、去年夫婦そろって亡くなった。今生きてるのはハーヴィーとウィリアムだけ。でも、さっき言った通り、二人とも間に合わなかったんだよ」

「誰か知らせたのかい?」

「もちろんさ。ピーターが具合悪くなったとき、もう今回ばかりはダメかもしれないと感じて、ひと月か二月前に手紙を送ったんだ。ピーターは年だし、ジョージの娘たちはまだ幼くて、メアリー・ジェーン――赤毛の子だけど――以外は相手にならなくて、ジョージたちが死んでからは寂しかったらしい。生きる気力も薄れてた。でも、どうしてもハーヴィーと会いたがってた――それにウィリアムにも。遺言を書くのが嫌いな人だった。その代わり、ハーヴィー宛てに手紙を残して、そこに金が隠してある場所と、他の財産の分け方、ジョージの娘たちが困らないようにってことを書いてた。ジョージは何一つ遺さなかったから。その手紙が唯一、書き残したものだったんだ」

「どうしてハーヴィーは来ないんだろう? どこに住んでる?」

「イギリスのシェフィールドさ。そこで説教してる。この国には一度も来たことがないし、忙しかったんだろうし、手紙が届かなかったのかもしれない」

「可哀そうに、兄弟に会えずに死ぬなんて。あんたはオルリンズに行くって?」

「そう、でもそれは一部さ。来週の水曜に船でリオ・ジャネイロに行くんだ。叔父が住んでるんだよ」

「長旅だな。でも素晴らしい旅になるだろう。俺も行ってみたいよ。メアリー・ジェーンは一番上か? 他の子は何歳だ?」

「メアリー・ジェーンは十九歳、スーザンは十五歳、ジョアンナは十四歳くらい。あの子はいつも善い行いに励んでいて、口唇裂があるんだ」

「かわいそうに! こんな世の中に取り残されて」

「でも、もっと悪い境遇もあり得たよ。ピーターには友達がいたし、彼女たちを不幸にはさせない。ホブソンさんってバプテストの牧師や、執事のロット・ホビー、ベン・ラッカー、アブナー・シャックルフォード、弁護士のレヴィ・ベル、ロビンソン博士、彼らの妻たち、バートリー未亡人――まあ、たくさんいるさ。でもこの人たちはピーターが一番親しくて、たまに家族にも手紙で話してた人たちだから、ハーヴィーが来たときに頼れる友人だってすぐわかるはずさ」

王様はそれからまた質問攻めにした。町のこともウィルクス家のことも、何もかも根掘り葉掘り聞き出した。ピーターの商売――タンナーだったこと、ジョージは大工、ハーヴィーは異端派の牧師だとか、その他いろいろ。最後にこう言った。

「なんでわざわざ蒸気船まで歩いてきたんだ?」

「オルリンズ行きの大きな船だから、停まってくれないかもと思って。水かさがあるときは手を振っても停まらない。シンシナティの船なら停まるけど、これはセントルイス行きだし」

「ピーター・ウィルクスは裕福だったのかい?」

「まあまあ裕福さ。家も土地もあったし、三千か四千ドルの現金をどこかに隠してたらしい」

「いつ亡くなったんだっけ?」

「言わなかったけど、昨夜さ」

「葬式は明日かな?」

「ああ、昼ごろだろうね」

「悲しいことだけど、誰でもいつかは死ぬ。大事なのは備えをしておくことだ」

「そうだね、お母さんもよくそう言ってた」

蒸気船についたころには積荷も終わり、すぐに出発した。王様は乗り込むそぶりも見せなかったので、俺は結局乗船できなかった。船が行ってしまうと、王様はさらにもう一マイル上流の人けのない場所まで漕がせて、岸に上がって言う。

「すぐ戻って、公爵をここに連れてこい。新しいカーペットバッグも持ってな。もし向こう岸に行ってたら、そっちにも行け。それから身なりをきちんとしておくように伝えろ。さあ急げ」

王様が何を企んでるのか俺にも分かったが、もちろん口には出さなかった。公爵を連れて戻り、カヌーを隠した。二人は丸太に座って、王様はさっき若い男から聞き出したことを一字一句そっくり公爵に伝えた。その間、英語なまりで喋ろうとしていたが、あのだらしない男にしてはなかなかうまかった。俺には真似できないし、やるつもりもないが、けっこうなものだった。それからこう言った。

「お前、聾唖者の真似はどうだ、ビルジウォーター?」

公爵は「それなら任せとけ」と言って、舞台で聾唖の役をやった経験があると言った。それで二人は蒸気船を待つことにした。

午後も半ばを過ぎて、小舟が二艘通ったが、川上から来ていなかった。ついに大きな蒸気船が来て、二人は声をかけた。船は小舟(ヨール)を下ろしてくれて、俺たちはそれに乗り込んだ。シンシナティから来た船だった。たった四、五マイルしか乗らないと分かると、船員たちはものすごく怒って悪態をついた。「そんな短距離で降ろすなんてごめんだ」と。けれど王様は落ち着いてこう言った。

「紳士が一マイルにつき一ドルずつ払って乗り降りするなら、蒸気船も運んでやれるだろ?」

それで船員たちも態度をやわらげて、結局OKになった。村に着くとヨールで岸まで下ろしてくれた。舟が着くと二十人ほどの男たちが集まってきて、王様が言う。

「どなたかピーター・ウィルクスさんのお宅をご存じありませんか?」と。するとみんな顔を見合わせて「ほら見ろ」と言いたげにうなずきあった。そして一人が、やさしい声で言った。

「お気の毒ですが、昨日までならご案内できたんですが」

王様は突然、泣き崩れてその男に寄りかかり、顎を男の肩にのせて背中に向かって泣き、こう言った。

「なんと、なんと、可哀そうな兄弟よ――逢うこともかなわず逝ってしまったとは、ああ、あまりにも、あまりにも辛い!」

それから彼は振り返って、涙声で、両手で公爵に意味不明な手話をした。公爵もカーペットバッグを落として泣き出した。この二人の詐欺師は、俺がこれまで出会ったなかでも最悪のコンビだった。

男たちは二人を取り囲んで同情し、いろんなやさしい言葉をかけてくれた。カーペットバッグも丘の上まで運んでくれて、肩を貸してやりながら一緒に泣き、兄の最期の様子を王様に話して聞かせた。王様はそれをまた手話で公爵に伝え、二人してあの死んだタンナーのことをまるで十二使徒でも亡くしたかのように嘆き悲しんだ。こんなのに遭遇したのは初めてだ。あんなもの、人間として恥ずかしいと思うくらいだ。

第二十五章

このニュースは二分もたたずに町中に広まって、四方八方から人が走ってくるのが見えた。走りながら上着を着てるやつまでいた。すぐに俺たちは人ごみの真ん中に押し込まれ、足音はまるで軍隊の行進みたいだった。窓や庭もぎっしり人で埋まってる。誰かがフェンス越しに、

あれがそうかい?」

と声を上げ、群れの中から

「間違いないさ」

と返事が返ってくる。

家に着くと、家の前の道は人でぎっしり詰まっていて、三人の娘たちが玄関に立っていた。メアリー・ジェーンは本当に赤毛だったが、それはどうでもよくなるくらい、ものすごくきれいだった。顔も目も輝いていて、伯父さんたちが来たのが嬉しくてたまらないって感じだった。王様が両手を広げると、メアリー・ジェーンが飛び込んできて、ジョアンナは公爵のほうに飛びついた。そこからはもう、大騒ぎさ。ほとんどの人が、少なくとも女の人はみんな、ついに再会できてこんなに喜び合うのを見て、涙を流していた。

それから王様は、こっそりと公爵に身を寄せて――俺にはそれが見えた――それから辺りを見回して、隅の方に椅子を二つ並べて置かれた棺に気づいた。そこで王様と公爵は、お互いの肩に腕をまわし、もう一方の手を目に当てて、ゆっくり、厳かにその棺へ向かって歩いていった。みんなは場所を空けるように後ずさりし、おしゃべりや物音もぴたりと止まって、「シッ!」という声が聞こえ、男たちは帽子を脱いで頭を垂れたから、まるで針が落ちる音まで聞こえそうだった。ふたりが棺のそばに着くと、身をかがめて中を覗き込み、一目見るやいなや、ニューオーリンズまで届きそうなほどの大声で泣き崩れた。それから互いに首に腕をまわし、肩に顎をのせあって、三分か、もしかしたら四分も、俺はあんなに泣きじゃくる二人の男を見たことがない。そして、みんなもそれに負けじと泣いていて、部屋の中があんなに湿っぽくなったのは初めてだった。やがて二人は棺の左右に別れ、ひざまずいて額を棺につけ、ひとりごとのように祈り始めた。そこまでくると、群衆はもう収拾がつかなくなって、みんな声をあげて泣き崩れてしまった――かわいそうな娘たちもだ。女たちは、ほとんどみんな無言で娘たちのもとへ寄り、厳かに額にキスをして、その頭に手を置き、涙を流しながら天を仰ぎ、やがて泣き出してその場を去り、次の女に場所を譲る。俺はあんな気持ち悪い光景、見たことがなかった。

やがて王様が立ち上がり、前へ少し出てきて、感情を盛り上げながら涙まじりによだれを垂らしつつ演説を始めた。内容は、亡くなった人とその可哀想な兄弟にとって、どんなにつらい試練かということや、長い四千マイルの旅路の末、とうとう生きている姿を見ることが叶わなかった悲しみだの、でもこの親切な思いやりと聖なる涙が我々の心を癒し清めてくれるとか、そんなくだらないお涙ちょうだいの与太話ばかりで、聞いてるだけで気分が悪くなりそうだった。それから気取った「アーメン」を泣きながら言い終えると、今度は本気で声をあげて泣き出した。

王様の言葉が終わるやいなや、群衆の誰かが「ドクソロジャー(讃美歌)」を歌い始め、全員が力いっぱいこれに加わった。まるで教会の礼拝が終わるときみたいに、場の空気が温かくなって、いい気分になった。音楽ってのはやっぱりいいもんだ。あれだけ気持ち悪い芝居のあとで、これほど場の雰囲気が一変して、正直で素晴らしく聞こえたことはなかった。

それから王様はまた口を開き、今度は自分と姪たちが、家族の主要な親しい友人たちに今晩一緒に食事をしてもらい、亡くなった人の遺灰とともに夜を過ごしてほしいと願っている、と言った。そして、もしあそこに横たわる可哀想な兄弟が今ここで話せたなら、きっと誰を呼ぶべきか名前を挙げただろう、なにせ彼が手紙で何度も書いていた大事な人たちだから、と言って、同じくその名前を読み上げると言った。すなわち、ホブソン牧師、ロット・ホーヴィ執事、ベン・ラッカー氏、アブナー・シャックルフォード氏、レヴィ・ベル氏、ロビンソン博士とその妻たち、それからバートリー未亡人だ、と。

ホブソン牧師とロビンソン博士は町外れで一緒に出かけていた――つまり、博士の方は病人をあの世へ送り出していて、牧師は正しい道筋を指し示していたわけだ。弁護士のベルはルイビルへ仕事で出かけていた。でも、他の人たちはみんな居合わせていて、王様と握手して感謝を伝え、しばらく話した。それから公爵とも握手したが、特に何も言わず、ただみんな馬鹿みたいにニコニコしながら頭を下げて、公爵は手を振り回して「グーグー、グーグーグー」と赤ん坊みたいな声を出していた。

王様は調子よく話を進めて、町のみんな一人一人や犬の名前まで訊ねて、昔あった出来事やジョージの家族、ピーターについての細々した話を、それとなく口にした。どれもピーターが手紙で書いてきたかのように装っていたが、それは全部、俺たちがカヌーで蒸気船まで連れていったあの若造から聞き出したことだった。

そこへメアリー・ジェーンが父親が残した手紙を持ってきて、王様がそれを読み上げては涙を流した。手紙には、家と三千ドルの金貨は娘たちに与えること、なめし場(これが好調だった)やその他の家と土地(合わせて七千ドルほどの価値)、それから三千ドルの金貨はハーヴィーとウィリアムに与えること、さらに地下室に隠してある六千ドルのありかが書かれていた。そこでこの二人の詐欺師は、それを取りに行って、すべて正直に公開すると言い、俺にもロウソクを持って来いと言った。俺たちは地下室のドアを閉めて、中で袋を見つけると、中身を床にぶちまけた。それは見事な光景で、金貨が山のように輝いていた。王様の目がキラキラ光っていた。王様は公爵の肩を叩いてこう言った。

「おい、これはたいしたもんじゃねえな! おい、ビルジー、ノンサッチ[訳注:以前の詐欺で使った劇の名]よりすごいと思わねえか?」

公爵は同意した。ふたりは金貨を弄び、指の間から床に落として音を楽しんでいた。王様はこう言った。

「話すまでもねえ、金持ちの死人に兄弟として成りすまして、海外の相続人の代理人気取るのが一番だな、ビルジー。これぞ天の恵みってやつだ。何度も試したが、これ以上の方法はねえ。」

大抵はこの山を信じて満足するところだが、こいつらはちゃんと数えないと気が済まない。数えてみると、四百十五ドル足りなかった。王様は言った。

「ちくしょう、あいつはこの四百十五ドルをどうしたんだろうな?」

しばらく悩み、あちこち探してみたが見つからない。すると公爵が言った。

「まあ、あいつもかなりの病人だったし、たぶん数え間違えたんだろう。ほっとくのが一番だ。俺たちは別に困らない。」

「そうだな、惜しくもねえ。俺が気にしてるのは、その“額”の方なんだよ。俺たちはここで、きっちり正直にやらなきゃならねえ。金を全部上に持っていって、みんなの前で数を見せる――そうすりゃ疑われることもねえ。でも、死人が六千ドルあるって言ったのに、俺たちが――」

「待てよ」と公爵。「差額を埋めようぜ」と言って、自分のポケットから金貨を引っ張り出し始めた。

「そいつはすごい考えだ、公爵――お前はほんとに頭が切れるな」と王様は言った。「ノンサッチがまた俺たちを助けてくれるとはな」と言って、王様も金貨を出し始めた。

二人ともほとんど身を削る思いだったが、何とかきっちり六千ドルを揃えた。

「なあ」と公爵が言った。「もう一ついい考えがある。上に持っていって金を数え、それから“娘たちに渡す”んだ。」

「よくやった、公爵、抱きしめたいくらいだ! こんな素晴らしい案は聞いたことがねえ。お前の頭は本当にすごい。これで奴らが疑いを持ったとしても、全部吹っ飛ぶだろうよ。」

上に上がると、みんながテーブルのまわりに集まった。王様が金を数えて、三百ドルずつ小山に積み上げた――きれいな二十の山になった。みんな目を輝かせてそれを見て、舌なめずりしていた。それからまた金を袋に入れて、王様がまた演説を始めようと膨れ上がるのが見えた。王様は言った。

「みんな、あそこに横たわる俺の可哀想な兄弟は、残された者たちにとても寛大だった。この小さな可哀想な子羊たち――父も母も失った彼女たちを、彼は深く愛し、守ってきた。そうだ、俺たちも彼を知っているから、もし彼が俺たち、ウィリアムと俺の気持ちを傷つけるのを恐れなければ、さらにもっと寛大にしていただろうと分かっている。なあ、そうだろう? 俺の中では疑いなんてない。じゃあ、こんな時に彼の意志を妨げるような兄弟がいるだろうか? こんな時に――そう、こんな可哀想な子羊たちから“奪う”なんて叔父がいるだろうか? 俺はウィリアムのことは分かっている――たぶん分かっている――だから、彼に聞いてみるよ。」そう言って、王様は公爵に向かって手話の真似事を始めた。公爵はしばらく何を言ってるかわからない様子だったが、急に意味が分かったようで、王様に飛びついて大喜びで「グーグー」と叫びながら十五回は抱きしめた。それを見て王様は、「な、分かったろう。これで彼の気持ちが誰にでも伝わっただろう。さあ、メアリー・ジェーン、スーザン、ジョアンナ、この金を持っていきなさい――全部だ。あそこに横たわる彼からの贈り物だ。」

メアリー・ジェーンは王様に抱きつき、スーザンとジョアンナは公爵にしがみついた。そして、あんなに抱き合ったりキスしたりする光景は見たことがなかった。みんな涙ぐみながら詐欺師たちと握手し、「あなたたちはなんて素敵なの!」「どうしてそんなに立派になれるの!」と口々に言っていた。

やがて全員がまた亡くなった人の話をし始め、彼がどんなにいい人だったか、どれだけ惜しいかという話になった。すると、外から大きなアゴの男が入ってきて、黙って話を聞きながら立っていた。誰も彼に声をかけず、王様が話していたからみんな聞き入っていた。ちょうどその最中、王様はこう言っていた。

「――彼らが亡くなった方の特に親しい友人だから招待した。しかし、明日はみんなに来てほしい――誰でも。彼はみんなを大切にしていたし、みんなが好きだったから、葬式の儀式も公開にすべきだ。」

そんな調子で延々と自分の話を楽しんでいて、ちょいちょい「葬式のオージーズ」なんて言葉を織り交ぜていた。公爵はたまらず紙切れに「obsequies(葬儀)、このボケ」と書き、みんなの頭越しに差し出した。王様はそれを読んでポケットにしまい、「可哀想なウィリアムは不自由な体でも心はいつだって正しい。みんなを葬式に招待してほしいと頼まれたが、ちょうど俺が言おうと思っていたことだから、心配しなくていい」と言った。

それからまた平然と話を続け、またちょくちょく「葬式のオージーズ」を口にした。三度目にはこうも言った。

「俺が“オージーズ”って言うのは、みんながよく使う言葉だからじゃない――obsequiesが普通の言葉だけど、今のイングランドじゃもう使われてない。“オージーズ”が今は正しい言葉なんだ。オージーズはギリシャ語のorgo(外、開ける、広げる)と、ヘブライ語のjeesum(埋める、覆う)から来ていて、つまりinter(間に入れる、埋葬する)ってわけだ。だから、葬式のオージーズは公開の、オープンな葬式って意味さ。」

こんなひどい話は初めてだった。すると鉄のアゴの男が王様の顔に向かって大声で笑った。みんな仰天した。「おい、博士!」と誰もが声をあげ、アブナー・シャックルフォードが言った。

「なんだい、ロビンソン、知らなかったのか? こっちはハーヴィー・ウィルクスだぞ。」

王様は嬉しそうに手を差し出し、「おお! 亡き兄弟の親愛なる友人で医者のロビンソン博士か、俺は――」

「俺に触るな!」と博士。「お前が英語を話すだと? こんな下手な真似は初めてだ。お前がピーター・ウィルクスの兄弟だって? お前は詐欺師だ!」

みんな大騒ぎになった。博士の周りに集まって、なだめようとし、王様がいかにあらゆることを知っていて、みんなの名前も犬の名前も知っていると説得し、どうかハーヴィーの気持ちや可哀想な娘たちを傷つけないでくれと懇願した。でも無駄だった。博士は怒り心頭で、イギリス人の真似もできない奴が詐欺師で嘘つきだと叫んだ。可哀想な娘たちは王様にすがりついて泣いていた。すると突然、博士が今度は娘たちに向かって言った。

「俺は君たちの父親の友人だったし、今も友人だ。だから友人として、正直な友人として、君たちを守り、危険や不幸から遠ざけるために警告する――あの悪党に背を向けて、関わらないようにしろ。無知な浮浪者で、ギリシャ語やヘブライ語の真似事をしているが、こんなにも薄っぺらな詐欺師は他にいない。でたらめな名前や事実をどこかで聞きかじって、それを証拠だと思い込ませて、君たちの周りにいる愚か者たちがそれにだまされているだけだ。メアリー・ジェーン、君は俺が友人だと知っているはずだし、私利私欲のない友人だとも知っているだろう。さあ、言うことを聞いてくれ――この哀れな詐欺師を追い出してくれ、どうかお願いだ。どうだ?」

メアリー・ジェーンはすっと背筋を伸ばして、本当に美しかった。彼女は言った。

これが私の答えです。」そう言って、六千ドルの入った袋を王様に渡し、「このお金を私と妹たちのために好きなように使ってください。領収書なんていりません」と言った。

それから彼女は王様の腕に抱きつき、スーザンとジョアンナも反対側から同じようにした。みんなは嵐のように手を叩き、床を踏み鳴らして王様を讃え、王様は誇らしげに頭を上げて微笑んでいた。博士は言った。

「分かったよ。俺はもう手を引く。だが警告しておく。この日のことを思い出すたび、胸が悪くなるようなときが必ず来るぞ。」そして出て行った。

「そうだな、博士さん」と王様がやや馬鹿にした口調で言った。「また呼びに来てもらえるよう頼んでみるよ」と、これにはみんな大笑いで、いい冗談だと口々に言った。

第二十六章

みんなが帰ると、王様はメアリー・ジェーンに、空き部屋がどれだけあるか尋ねた。メアリー・ジェーンは、客間が一つあるからウィリアムおじさんに使ってもらい、もう少し広い自分の部屋をハーヴィーおじさんに譲る。自分は妹たちの部屋に移って簡易ベッドで寝るという。屋根裏にも小さな物置部屋があって、そこに寝床があると言った。王様はその物置部屋を自分の従者――つまり俺――の部屋にちょうどいいと言った。

それでメアリー・ジェーンに案内されて、それぞれの部屋を見せてもらった。どれも質素だけどきれいだった。もしハーヴィーおじさんの邪魔になるなら、自分の部屋のドレスや荷物をどかすと言ったけれど、王様はそのままでいいと言った。ドレスは壁に掛けられ、その前には床まで届くキャラコのカーテンがあった。隅には古い毛皮トランクがあり、もう一方の隅にはギターケース、そしていろんな小物や飾りがあって、女の子の部屋らしかった。王様は「こういう飾りこそ親しみがわいていい」と言って、動かさないようにと言った。公爵の部屋はかなり狭かったが、それでも十分だったし、俺の物置部屋も同じく十分だった。

その晩は大きな晩餐があって、男も女もみんな集まってた。俺は王様と公爵の椅子の後ろに立って給仕をしたんだ。他の人たちには黒人たちが給仕していた。メアリー・ジェーンはテーブルの上座に座って、その隣にスーザンがいた。メアリー・ジェーンはビスケットはひどい出来だって言うし、ジャムはまずいって言うし、フライドチキンはがさつで堅いって言うし――まあ、女の人がよくやる、お世辞を引き出すためのくだらない芝居だ。みんなも承知の上で、「どうやったらこんなにきれいにビスケットが焼けるの?」とか「まあ、どこでこんなすごいピクルスを手に入れたの?」なんて、お決まりの調子のいいことを言い合ってる。晩餐の席ではいつもそうだろ。

晩餐が終わったら、俺とジョアンナ(唇が割れてるから、みんなは“ハーリップ”って呼んでる)で台所に行って、残り物で夕食をすませた。他のみんなは黒人たちと一緒に片付けを手伝っていた。ハーリップがイギリスのことをいろいろ聞いてきて、正直、氷の上を歩いてるみたいに危なっかしい場面も何度かあった。ジョアンナが訊く。

「王様って見たことあるの?」

「誰のことだい? ウィリアム四世か? そりゃ見たことあるさ――うちの教会に来るんだ。」ウィリアム四世がもう何年も前に死んでるのは知ってたけど、知らん顔して話を続けた。だから「教会に来る」と言ったら、彼女はこう言った。

「え、いつも来るの?」

「ああ、いつもさ。王様の席は俺たちの向かい、説教壇の反対側だ。」

「ロンドンに住んでるんじゃないの?」

「そりゃそうさ。じゃあ、どこに住むっていうんだ?」

「でも、あなたはシェフィールドに住んでるんでしょ?」

まずい、って思った。ここは鶏の骨が喉につかえたふりをして、どう切り抜けるか頭をひねる時間を稼いだ。それからこう言った。

「いや、王様は夏にシェフィールドに来るときだけ、うちの教会に通うんだ。海水浴するために夏だけな。」

「何言ってるの、シェフィールドは海沿いじゃないわよ。」

「誰が海沿いだなんて言った?」

「あなたが言ったのよ。」

「俺は言ってない。」

「言ったわ。」

「言ってない。」

「言った。」

「そんなことは一言も言ってない。」

「じゃあ何て言ったの?」

「王様は海水浴に来るって言ったんだ――それだけさ。」

「なら、海沿いでもないのにどうやって海水浴するの?」

「なあ、君は“コングレス・ウォーター”を見たことあるか?」

「あるわ。」

「じゃあ、それを手に入れるのにコングレスまで行ったのか?」

「いや、行ってないわ。」

「それと同じで、ウィリアム四世も海に行かなくても海水浴できるのさ。」

「じゃあ、どうやって海水浴するの?」

「こっちの人がコングレス・ウォーターを樽で取り寄せるみたいに、彼も樽で取り寄せるのさ。シェフィールドの宮殿には炉があって、王様はお湯が好きだからそこで沸かすんだ。海で大量に沸かすわけにいかないからな。設備もないし。」

「なるほど、そういうことなのね。最初からそう言ってくれればよかったのに。」

そう言われて、これでまた切り抜けたってほっとした。次に彼女が訊く。

「あなたも教会に行くの?」

「ああ、ちゃんと行くよ。」

「どこに座るの?」

「自分たちの席さ。」

「誰の席?」

「俺たちの――君の叔父さんのハーヴィーの席だ。」

「叔父さんの? 叔父さんが何で席を持ってるの?」

「座るためさ。何のためだと思うんだ?」

「だって、叔父さんは説教壇にいるんじゃないの?」

しまった、あの人が牧師だってこと忘れてた。ここも鶏の骨を使って考える時間を稼ぐ。それからこう言った。

「ばか言うなよ。教会に牧師が一人しかいないと思ってるのか?」

「でも、何でそんなに必要なの?」

「何だって? 王様の前で説教するんだぞ。君みたいな子は見たことないよ。少なくとも十七人はいるさ。」

「十七人だなんて! そんな列には絶対に並ばないわ。天国に行けなくなっても。全部終わるのに一週間はかかるでしょ。」

「いや、みんなが同じ日に説教するんじゃないよ――一人だけさ。」

「じゃあ、残りの人たちは何をするの?」

「別に何もしない。ただぶらぶらして、献金皿を回したり、そんな感じ。ほとんどは何もしない。」

「じゃあ、何のためにいるの?」

「見た目のためさ。知らないのか?」

「そんなばかばかしいこと、知りたくもないわ。イギリスじゃ召使いはどう扱われてるの? こっちの黒人みたいに優しくしてるの?」

「いや! 向こうじゃ召使いなんて人間扱いされない。犬よりひどい扱いだ。」

「じゃあ、こっちみたいにクリスマスやお正月や独立記念日に休みもらえないの?」

「まったく! お前がイギリスに行ったことないのが丸わかりだよ。ハー……いや、ジョアンナ、向こうじゃ一年中休みなんて一日もないし、サーカスも劇場も黒人ショーも、どこへも行けないんだ。」

「教会も?」

「教会もさ。」

「でも、あなたはいつも教会に行ってたじゃない。」

今度はまた窮地に追い込まれた。自分が“おやじ”の召使いってことを忘れてたんだ。でもすぐに、召使いにも“ヴァレー”っていう特別な身分があって、ヴァレーだけは法律で家族と一緒に教会に行かされる、という話でごまかした。だけど、あんまりうまくできなかったから、話し終わっても彼女は納得してなかった。ジョアンナが言う。

「正直に言って、私に嘘ばっかりついてたんじゃないの?」

「神に誓って、嘘じゃない。」

「本当に?」

「本当に。一つも嘘は言ってない。」

「この本の上に手を置いて誓って。」

見たら辞書しかなかったから、その上に手を置いて誓うふりをした。するとジョアンナはちょっと納得した顔になって言った。

「じゃあ、全部とは信じないけど、少しは信じてあげる。でも、残りは絶対信じない。」

「何を信じないの?」とメアリー・ジェーンがスーザンと一緒に入ってきて言った。「そんなふうに言うのはよくないよ。彼は遠いところから来たんだし、初めての場所なんだから。自分がそういう扱いされたらどう思う?」

「いつもそうやって、誰かをかばうのよ、姉さんは。私は彼に何もしてないわ。ただ、話が大げさだから全部は信じないって言っただけ。そんなの、彼だって大したことじゃないでしょ?」

「大きいことでも小さいことでも関係ないよ。彼はうちに来てるんだし、よその人なんだから、そんなふうに言うのはよくないよ。自分が同じ立場だったら恥ずかしい思いをするでしょ? だから、他人に恥をかかせるようなことは言っちゃいけないよ。」

「でも、姉さん、彼が――」

「何を言ったかは関係ないの。大事なのはあなたが優しく接してあげること、そして、ここが自分の国じゃなくて知らない場所だってことを思い出させるようなことを言わないことなの。」

俺は心の中で、「こんなにいい子なのに、あのろくでもないやつに金を盗まれてるのか!」なんて思った。

そしたら今度はスーザンが出てきて、ハーリップにきつく言い聞かせた。あれは本当にすごかった。

また俺は心の中で、「この子までも、あいつに金を盗まれてるんだ!」って思った。

それからメアリー・ジェーンがまた優しい口調で話し、すっかりハーリップはしょげてしまった。とうとう泣き出した。

「わかったよ」と他の子たちが言った。「彼に謝って。」

ちゃんと謝ったし、その謝り方がまたすごくきれいだったから、聞いてて気持ちよかった。俺は千回くらい嘘をついて、またあの謝り方を聞きたくなったくらいだ。

「この子もまた、金を盗まれてるんだ」と俺は心の中で思った。みんなが俺をもてなしてくれて、友達だと思わせてくれたとき、俺は自分がどれだけ卑しくて情けない奴かと、心底感じた。だからこう決心した。「絶対にあの金を取り返す。死んでもやる。」

それで、「寝る」と言って部屋を出た。本当は、ひとりになったら計画を練るつもりだった。さて、どうするか。医者のところに行って、この詐欺師どものことを密告するか? いや、それはダメだ。医者が誰に聞いたかバラしたら、王様と公爵が俺に何するかわからない。じゃあ、こっそりメアリー・ジェーンに教えるか? それもダメだ。あの子は顔に出るから、すぐに奴らに怪しまれる。しかも金はもう奴らの手元にあるから、気づかれたらすぐ逃げられてしまう。警察を呼ぼうとしたら、俺も巻き込まれるかもしれない。やっぱり方法はひとつしかない。何とかして、奴らに怪しまれないように金を盗み出すしかない。奴らはここでうまくやってるし、町や家族からとことんまで搾り取るまで出ていくはずがない。だから隙はあるはずだ。盗み出して隠しておいて、川を下った先からメアリー・ジェーン宛てに手紙で隠し場所を知らせよう。でも、できれば今夜中にやったほうがいい。医者は表向きは大人しいふりをしてても、まだ奴らを驚かせて追い出すかもしれない。

そう思って、奴らの部屋を探ることにした。廊下は暗かったが、公爵の部屋を見つけて手探りで探った。でも、王様が金を自分で管理してるに違いないと思って、王様の部屋に移った。だけど、ロウソクを使わずに探すのは無理だった。火なんかつける勇気もない。仕方ない、奴らが戻ってくるのを待って盗み聞きするしかない。ちょうどそのとき、奴らの足音が聞こえてきて、ベッドの下に隠れようとした。でもベッドが思ってた場所になかった。代わりにメアリー・ジェーンのドレスがかかったカーテンに触れたから、俺はその奥に飛び込んで、ドレスの間に身を潜めてじっとしていた。

奴らは入ってきてドアを閉めた。真っ先に公爵がベッドの下をのぞき込んだ。もし俺がベッドの下に隠れてたら見つかってた。やっぱり何か隠れるときはベッドの下に行きたくなるもんだ。奴らは椅子に座って、王様が言った。

「で、何だ? 手短にな。俺たちは下で泣いてるふりでもしてたほうが、みんなに噂されなくて済むんだ。」

「それがだな、カペット。俺は落ち着かない。あの医者が気になる。お前の考えを聞きたい。ひとつ案があるんだが、悪くないと思う。」

「何だ、公爵?」

「午前三時になる前にここを出て、手に入れた金を持って川を下るべきだと思う。しかも、こんなに簡単に手に入ったんだし――返してもらえたどころか、頭に投げつけられたようなもんだ。本来なら盗み返すはずだったのにな。ここで手を引いて出て行くのが一番だ。」

その話を聞いて俺はガッカリした。さっきまでは違ったかもしれないけど、今は本当に残念だった。王様が怒鳴った。

「何だって? 財産を売りさばきもしないで、バカみたいに八千か九千ドルもの財産をそのまま残していくのか? しかも全部すぐに売れる品物ばかりだぞ。」

公爵はぶつぶつと言った。金袋だけで十分だし、これ以上やりたくない。孤児たちから全てを奪うのは嫌だ、と。

「何言ってるんだ!」と王様。「俺たちは金だけで、他のものは何も奪ってない。財産を買う奴が損するだけさ。俺たちがいなくなれば、すぐに俺たちのものじゃなかったってバレて、売買は無効になる。それで全部遺産に戻る。孤児たちは家を取り戻せるんだ。それで十分。若くて元気なんだから、働けば食っていける。世の中にはもっとひどい境遇の奴がごまんといる。あの子たちに文句なんて言わせないさ。」

王様の調子に、公爵も最後は折れて「わかった」と言った。でも「医者がいるのに、こんなバカな真似はない」と文句は言ってた。王様は、

「医者なんてくそくらえ! 俺たちには町中のバカどもが味方してる。どんな町でも、それが多数派で十分じゃないか。」

そう言って、また階下に戻る準備を始めた。公爵が言った。

「金の隠し場所が悪かったと思うんだ。」

それを聞いて俺は元気が出た。何かヒントがつかめそうだった。王様が訊く。

「なんでだ?」

「だって、メアリー・ジェーンはこれからずっと喪服になるだろ。そしたら、黒人にドレスなんかを箱にしまって片付けるように命令するはずだ。そのとき金袋を見つけたら、黒人が少しぐらいくすねないと思うか?」

「そりゃその通りだ、公爵」と王様。カーテンのすぐそばをゴソゴソ探っている。俺は壁に身を寄せて、じっと震えながら隠れてた。もし見つかったらどうしよう、と考えたけど、王様はあっという間に金袋を見つけて、俺がいるなんてこれっぽっちも疑わなかった。奴らは金袋を羽根布団の下にある藁マットの破れ目に押し込んで、奥まで突っ込んだ。黒人は羽根布団しか整えないし、藁マットをひっくり返すのは年に二回くらいだから、盗まれる心配はないってことだった。

でも俺は違う考えだった。奴らが階段を半分も下りないうちに、もう金はそこから抜き出していた。自分の部屋に戻ってひとまず隠したけど、どうせなら家の外に隠すべきだと思った。もし奴らが金をなくしたと気づけば、家の中を徹底的に探すだろうから。だから服を着たまま横になったけど、とても眠れるもんじゃなかった。早くやり終えたくてたまらなかったんだ。やがて王様と公爵が階上に戻るのが聞こえたから、俺は寝床から転がり落ちて、はしごの上で様子をうかがった。でも何事も起こらなかった。

それで、夜更けの音もやみ、朝の音もまだ始まらないころを見計らって、はしごをそっと下りた。

第二十七章

奴らの部屋の前にこっそり近づいて耳を澄ませたら、しっかりいびきをかいてた。そっと歩いて階下に降りると、家の中はしーんとしていた。ダイニングのドアの隙間から覗くと、死体を見張ってる男たちが椅子に座ったままみんな眠っていた。居間のドアは開いていて、死体が置かれていた。両方の部屋にロウソクが灯っていた。俺は通り過ぎ、居間のドアも開いていたけど、中にいるのはピーターの遺体だけだった。それでそのまま通り抜けようとしたけど、表のドアは鍵がかかっていて、鍵も見当たらなかった。ちょうどその時、後ろの階段から誰か降りてくる音がした。俺はあわてて居間に入り、あたりを見回したが、金袋を隠せそうな場所は棺しかなかった。蓋は一尺ほど開いていて、中には死んだ人の顔が見え、濡れた布がかけられ、死装束を着せられていた。俺は金袋を蓋の下、交差した手の先に押し込んだ。死人の手があまりにも冷たいもんだから、ぞっとしたけど、すぐに部屋を横切ってドアの後ろに身を隠れた。

来たのはメアリー・ジェーンだった。彼女は静かに棺に近づいて、ひざまずいて中をのぞきこんだ。それからハンカチを取り出して顔を覆い、俺には声は聞こえなかったけど、泣き始めたのが分かった。背中を俺の方に向けていた。俺はそっとその場を抜け出して、食堂の前を通りがかったとき、見張りの連中が俺を見ていないか確かめようと思って、隙間からのぞいた。大丈夫だった。誰も動いていなかった。

俺はベッドへ忍び戻ったが、なんだか気が重かった。こんなふうに事が進んじまって、俺はさんざん苦労も危険も冒したってのに、結局こんな結末かよって思った。もしも金がこのままそこに置いておけるなら、それでよかったんだ。川を百マイルか二百マイル下ったあたりで、メアリー・ジェーンに手紙を書いて、掘り出して取ればいい。でも、そんなふうにはいかない。実際に起きるのは、蓋を閉めるときに金が見つかって、王様がまた手に入れて、次に誰かがそれを盗もうなんてチャンスは当分やってこないってことだ。当然、俺だって下に降りて金を取り出したかったさ。でも怖くてできなかった。刻一刻と朝が近づいてきてて、もうすぐ見張りの誰かが動き出すだろうし、そんなときに捕まったら大変だ――しかも、雇われてもないのに六千ドルを手に持ってるんだからな。こんなややこしいことに巻き込まれたくない、俺はそう自分に言い聞かせた。

朝、下に降りてみると、居間は締め切られていて、見張りもいなかった。家族とバートリー未亡人、それから俺たちだけが残ってた。みんなの顔を観察して、何か変わったことが起きていないか見たけど、分からなかった。

昼ごろになって、葬儀屋が手下と一緒にやって来て、棺を部屋の真ん中に椅子を二脚並べて置いた。それから俺たちの椅子を列にして並べて、近所からも椅子を借りてきて、廊下も居間も食堂もいっぱいになった。棺の蓋は前と同じように閉まっていたけど、人がいるから中をのぞく勇気はなかった。

やがて人々が続々と集まり始めた。詐欺師たちと女の子たちは棺の頭のほう、一番前の列に座った。みんなは半時間ほど、順番に一列に並んで、ゆっくりと死んだ男の顔を見下ろして、それぞれが涙を落としたりしていた。静かで厳かな雰囲気だった。ただ、女の子たちと詐欺師たちがハンカチで目を押さえたり、頭を下げて、すすり泣いたりしていた。それ以外の音といえば、床で靴がこすれる音や鼻をかむ音だけだった――葬式ではどこでもそうだけど、教会を除けば、一番鼻をかむ音が多いのは葬式だ。

部屋が人でいっぱいになると、葬儀屋は黒い手袋をはめて、静かで優しい口調で最後の仕上げをして、人々や物をきちんと整えていた。音は猫よりも静かで、一言もしゃべらなかった。人をそっと動かしたり、遅れてきた人を詰め込んだり、通路を作ったりしていたが、それらはみな手振りやうなずきだけだった。それから壁際に立った。あんなに静かで滑るように動いて、気配を消す男は他に見たことがない。笑った顔なんて、ハムにだって負けないくらいなかった。

彼らはメロディオンを借りてきていた――かなり調子が悪かった。用意ができると、若い女が座ってそれを弾き始めたが、ひどくきしむような、腹痛のような音だった。みんなで歌い始めて、俺の考えでは、ペーターだけが「いい思い」をしてるように思えた。次にホブソン牧師が、ゆっくりと厳かに口を開いたが、そのとたん、地下室から今まで聞いたことがないようなとんでもない騒ぎが起きた。犬が一匹いただけだったが、ものすごい音を立てて吠え続け、牧師は棺の前で立ち尽くすしかなくなった――何も考えられないくらいの騒ぎだった。どうしていいか誰にも分からなかった。でもすぐに、足の長い葬儀屋が牧師に合図した。「心配いりません――任せてください」と言うような感じだった。彼はかがんで、壁づたいに滑るように進み始めた。肩だけが人々の頭の上に見えていた。騒ぎはますますひどくなる。やがて部屋の二辺を回ったあと、葬儀屋は地下に消えた。二秒もしないうちに「バシッ」と音がして、犬は驚きの遠吠えを二つ三つして静かになった。それで牧師は先ほどの続きから厳かに話し始めた。しばらくすると、また葬儀屋の背中と肩が壁づたいに滑るように戻ってきて、三辺ほど回ったあと、立ち上がって手で口元を覆い、首を前に伸ばして人々の頭越しに牧師の方へ向かって、やや太い声でささやいた。「ネズミがいたんです!」 そう言うとまた壁づたいに自分の場所に戻っていった。人々はほっとした顔をしていた。みんな知りたかったからだ。ああいうちょっとしたことが人に好かれる理由になる。あの葬儀屋ほど町で人気者はいなかった。

葬式の説教は立派だったけど、長くて退屈だった。そのあと、王様が割り込んできて、お決まりのくだらない話をした。ようやく全部終わると、葬儀屋がドライバーを持って棺桶へ忍び寄った。そのとき俺は冷や汗が出て、じっと様子を見ていた。だが彼は何もしなかった。ただ静かに蓋を閉めて、きっちりとネジで締めた。それで俺はどうしたらいいか分からなくなった。金が中にあるのかどうかも分からない。誰かがこっそり持ち去ったとしたら? ――もしメアリー・ジェーンに手紙を書いて、彼女が掘り出して何も出てこなかったら、俺はどう思われるんだ? 最悪、俺が探し出されて捕まるかもしれない。おとなしく黙ってた方がいい、何も書かない方がいい。事態はめちゃくちゃだ。うまくやろうとしたせいで百倍も悪くしちまった。最初から何もせずにいればよかった、くそったれ! 

葬式がすんでから家へ戻り、また人の顔をうかがってしまった――やめられなかったし、落ち着いていることもできなかった。でも何も分からなかった。誰の顔からも何も読み取れなかった。

その晩、王様は町中を訪ね歩いて、みんなに愛想を振りまいて親しげにしていた。彼はイギリスの自分の教区の人たちが自分のことを心配しているだろうから、すぐにでも財産整理を終えて帰らなくてはならないと言っていた。残念だと彼は言い、みんなも残念がった。もっと滞在してほしいと言ったけど、無理だと分かっていた。それに、当然ウィリアムと一緒に女の子たちをイギリスへ連れて行くつもりだと話し、それはみんなを喜ばせた。女の子たちも自分の親戚の元で幸せになれるからと大喜びで、全ての悩みを忘れてしまったかのようだった。すぐに売り払って構わない、準備はできてると言った。そんなふうにだまされている彼女たちがあまりにも嬉しそうなので、俺の胸は痛んだ。でも俺には、どうやってこの流れを変えればいいのか分からなかった。

結局、王様は家や奴隷や財産すべてを即座に競売にかけた――葬式の二日後に売ることにしたが、希望する者にはそれ以前でも個別に売ってやると言った。

葬式の翌日、昼ごろ、女の子たちの幸せは初めて打ち砕かれた。奴隷商人が二人やって来て、王様は「三日後払い」とやらで奴隷たちを安く売り払った。息子ふたりはメンフィス行き、母親はオルレアン行きで、船に乗せられた。かわいそうに、女の子たちも奴隷たちも悲しみで胸が張り裂けそうだった。みんなで抱き合って泣く姿を見て、俺も本当に気分が悪くなった。女の子たちは、家族が離れ離れにされたり町から売り払われるなんて夢にも思っていなかったと言った。あの哀れな女の子たちと奴隷たちが、首にすがって泣いていた光景は、俺の記憶から消えやしない。もしもあの売買がただの見せかけで、奴隷たちが一、二週間で帰ってくるって知らなければ、俺は我慢できずに全部ぶちまけていただろう。

町でも大騒ぎになった。分別のある人たちの多くは、母親と子供をあんなふうに引き離すなんてひどいと、はっきり批判した。それで詐欺師たちも多少は傷ついたが、あのバカな王様は、公爵が何を言ってもやりたい放題だった。公爵はとても不安そうにしていた。

翌日は競売当日だった。朝も明るくなったころ、王様と公爵が屋根裏に上がってきて俺を起こした。その顔つきを見て、何か問題が起きていると分かった。王様は言った。

「お前、おとといの晩、俺の部屋に入ったか?」

「いいえ、陛下」――俺たちの仲間だけのときは、いつもこう呼んでいた。

「昨日か、昨夜か、入ったか?」

「いいえ、陛下。」

「本当に正直に言えよ――嘘つくなよ。」

「正直に言います、陛下。本当のことです。メアリー・ジェーンが陛下と公爵を部屋に案内してから、俺は一度も近づいてません。」

公爵が言った。

「他の誰かが入るのを見たことは?」

「いえ、閣下、覚えている限りでは、見た記憶はありません。」

「よく考えろ。」

俺は少し考えて、ここがチャンスだと思った。それで言った。

「奴隷たちが何度か入るのは見ました。」

二人とも少し驚いた様子で、それでもやっぱりどこか納得した顔をした。公爵が言った。

「何だ、みんな入ったのか?」

「いえ――みんな一度にってわけじゃありません――というか、みんなが一度に出てきたのを見たのは、一回だけです。」

「ほう! それはいつだ?」

「葬式の日です。朝でした。遅い時間でした。俺は寝坊して、ちょうどハシゴを降りかけたときに見ました。」

「それで、それからどうした? 奴らはどんな様子だった?」

「何もしてませんでした。特に変わった様子もなかったです。そっと抜け出そうとしてたので、きっと陛下の部屋の掃除か何かをしようとしたけど、陛下が起きていないことに気づいて、起こさないようにこっそり出ようとしてたんだと思います。」

「大変だ、これは困った!」と王様が言った。二人とも頭をかきながらしばらく考え込んでいたが、公爵はかすれ声で笑ってこう言った。

「奴隷たちは見事な芝居をしたもんだ。あいつら、この土地を離れるのが悲しいってふりをしてた! 俺も本当に悲しいのかと思ってたし、お前もそうだし、みんなもそう思ってた。もう俺に奴隷に演技力がないなんて言わせないよ。あのやり方じゃ誰でもだまされる。俺の考えじゃ大儲けできるよ。資本と劇場があれば、もっといい役者はいない――なのに、俺たち、あいつらを二束三文で売っちまった。しかも、その金ですらまだ受け取ってない。なあ、あの手形――あの金はどこだ?」

「銀行に入れてあるに決まってるだろう。どこにあるって言うんだ?」

「なら、よかった。」

俺はちょっとおそるおそる尋ねた。

「何か問題でも?」

王様はくるりと振り返って怒鳴った。

「お前には関係ない! 余計な口出しはするな、自分のことだけ考えてろ――何かあればな。この町にいる限り、そのことだけは忘れるな――分かったか?」それから公爵に向かって、「俺たちは飲み込んで、何も言うな。口チャックだ。」

二人がハシゴを降りていくとき、公爵がまたくすくす笑って言った。

「早く売って、少ししか儲からない! いい商売だな。」

王様は怒って振り向き、

「俺は早く売った方がいいと思ったんだ。儲けがなかったのは俺のせいか? お前のせいだって言えるだろう?」

「俺の意見が通ってたら、あいつらはまだこの家にいたし、俺たちは困ってなかった。」

王様も言い返せるだけ言い返して、それからまた俺に当たり散らした。俺が奴隷たちが部屋から出てくるのを見たことを言わなかったからだと責めて、そんなことはバカでも何かあると分かるはずだと言った。そして今度は自分自身を罵って、あの日寝坊せずにもっと寝ていればよかった、もう二度とそんなことはしない、と繰り返した。二人は言い争いながら去っていった。俺は奴隷たちに話を全部なすりつけたことが心底嬉しかったし、しかも奴隷たちに何の害も与えていないのだからなおさらだった。


第二十八章

やがて起きる時間になった。俺はハシゴを降りて下に向かったが、女の子たちの部屋の前を通りかかったとき、ドアが開いてて、中にはメアリー・ジェーンがいた。彼女は古い髪のトランクの前に座っていて、蓋は開いており、中に荷物を詰めている最中だった――イギリスに行く準備をしていたのだ。でも今は作業の手を止めて、たたんだドレスを膝に乗せ、顔を手にうずめて泣いていた。見ていて本当に辛かった。誰だってそうだろう。俺は部屋に入って言った。

「ミス・メアリー・ジェーン、人が悲しんでるのを見るのは辛いだろう? 俺もそうさ、だいたいは。何があったのか話してくれよ。」

それで彼女は話し始めた。やっぱり奴隷たちのことだった。彼女は、イギリスへの素晴らしい旅行もほとんど台無しだ、どうやって幸せになればいいのか分からない、母親と子どもたちがもう一生会えないなんて――と言って、さらに激しく泣き出し、両手を振り上げて叫んだ。

「ああ、もう、一生会えないなんて!」

「でも会えるよ――しかも二週間も経たないうちに――俺は知ってる!」と俺は言った。

しまった、考える間もなく口をついて出ちまった! 次の瞬間には、彼女が俺の首に両腕を回して、もう一度言って、もう一度言って、もう一度言って! と叫んだ。

俺はうっかりしゃべりすぎたと分かって、追い込まれた。ちょっと考えさせてくれと頼むと、彼女はとても待ちきれない様子で、興奮して美しい顔をしていたけど、どこか安心したような――歯を抜いてもらったあとの人みたいな顔をしていた。そこで俺はじっくり考えた。追い詰められたときに正直に話すのはずいぶん危険な気がする、まだ経験はないけど、どうもそう思えた。だけど今回ばかりは、どうも正直のほうがいいし、実際「安全」なんじゃないか、と感じた。この不思議な感じ、今度じっくり考えてみよう。こんなことは初めてだ。よし、今回は賭けてみよう。どうなっても正直に話してみよう。爆薬の上に座って火をつけるようなものだが、どこへ飛んでいくか見てみよう。俺はそう思った。

「ミス・メアリー・ジェーン、町の外で三日か四日、泊まれる場所はあるか?」

「ええ、ロスロップさんの所があるわ。どうして?」

「今はまだ理由は言えない。もし、俺がどうして奴隷たちが二週間も経たないうちにまたここで会えると知っているか、その理由を証明してみせたら――君はロスロップさんの所へ四日間、泊まりに行ってくれるか?」

「四日間! 喜んで、たとえ一年でも行くわ!」

「分かった。君の約束だけで十分さ――聖書に誓うより信じられる。」彼女は甘くほほえんで、頬を赤らめた。俺は言った。「もしよければ、ドアを閉めて、鍵をかけていい?」

それから俺は戻ってまた腰を下ろして、こう切り出した――

「大声を出さないで。おとなしくじっとして、しっかり受け止めてほしい。俺は本当のことを言わなきゃいけないんだ。そしてメアリー、君も気をしっかり持ってくれよ。これはひどい話だし、受け入れるのはつらいだろう。だけどどうしようもない。君の“おじさん”たちは、実はまったくおじさんなんかじゃない。ただの詐欺師、正真正銘のごろつきなんだ。もう、いちばんきついところは言ったから、あとはだいぶ楽だろう。」

もちろん、これには彼女もすっかり驚いた。でも俺はもう浅瀬を越えたから、そのまま話を続けた。彼女の目はどんどん鋭くなっていく。そのまま、俺たちがあの若い馬鹿に出くわして蒸気船へ向かったときから、彼女が玄関で王様に抱きついて、王様が十六回も十七回もキスしたところまで、全部包み隠さず話した。すると彼女は夕焼けみたいに顔を真っ赤にして立ち上がって言った。

「なんて奴! さあ、もう一瞬だって無駄にできない――一秒だって――あいつらをタールと羽でまみれにして、川に放り込んでやるわ!」

俺は言った。

「もちろんさ。でもそれって――君がロスロップさんのところへ行く前にやるって意味か、それとも――」

「ああ、私、何を考えてるのかしら!」と彼女は言って、またそのまま座った。「いまのこと、気にしないで――本当にお願い――あなた、気にしないわよね、ね?」 彼女が柔らかい手を俺の手に重ねてそう言ったから、俺は死んだって気にしないと答えた。「もう、思わず取り乱してただけ。もうこんなこと言わないから、続けてちょうだい。あなたの言う通りにする、何でも言って。」

「そうだな」と俺は言った。「あの詐欺師二人は本当にやばい連中で、俺の都合もあって、もうしばらく一緒に旅しなきゃいけないんだ――理由は言いたくないけどな。それで、もし君がやつらのことをばらしたら、この町の人が俺をやつらから引き離してくれるかもしれない。それは俺にはありがたいけど、君の知らないもう一人がとんでもないことになる。それでも、その人を助けなきゃいけないだろ? もちろんさ。だから、やつらのことは黙っていよう。」

そう言いながら、俺はいい考えを思いついた。もしかしたら、俺とジムがあの詐欺師どもと手を切れるかもしれない。あいつらをここで捕まえて牢屋にぶち込んでから、俺たちはずらかる。でも昼間に、俺一人きりで筏を動かしたくなかったから、計画は今夜遅くに始めることにした。俺はこう言った。

「メアリー・ジェーン、こうしよう。そうすれば君もロスロップさんの家にそんなに長くいなくてすむ。どれくらい遠いんだ?」

「4マイル弱くらい――田舎道をまっすぐよ。」

「それで十分だ。じゃあ、君はそこへ行って、今夜9時か9時半までじっとしてて。そしたらまた送ってもらって帰ってくるんだ。何か思い出したとか言えばいい。もし11時前に戻れそうなら、この窓にろうそくを灯しておいてくれ。俺が現れなかったら11時まで待って、それでも来なければ、俺はもう安全に逃げたってことだ。そしたら町中に知らせて、詐欺師たちを捕まえさせてくれ。」

「わかった、そうするわ。」

「それで、もし俺がうまく逃げられず、詐欺師どもと一緒に捕まったら、君は俺が全部教えたってことをきっぱり言って、できる限り俺の味方になってほしい。」

「もちろん、あなたの味方になるわ。絶対に、あの人たちにあなたの髪一本も傷つけさせない!」と彼女は言い、そのとき本当に鼻が広がって目が光った。

「もし俺が逃げたら、ここにはいない。だから詐欺師どもが君のおじさんじゃないって証明できない。ここにいたとしても俺には無理だ。あいつらがごろつきだって誓って言うことくらいしかできないけど――それだって意味はある。でも、もっと確かな証人がいるし、俺より信用される人たちだ。そいつらの見つけ方を教える。鉛筆と紙をくれ。よし――“ロイヤル・ナンシャック、ブリックスビル”。これを書いて、なくすなよ。裁判所があいつらのことを知りたがったら、ブリックスビルに連絡して『ロイヤル・ナンシャックを演じた男どもがここにいる』って証人を呼べばいい。そしたら、メアリー、一瞬で町中の連中がぞろぞろやって来る。しかも、すごい勢いでな。」

これで全部うまくいきそうだと思ったので、俺はこう続けた。

「とにかく競売はそのままやらせておけばいい。心配ない。買った品物の支払いは、急だったからみんな翌日でいいことになってる。詐欺師どもは金を手にしない限り、この町を出られない。俺たちの策で、そもそも売り上げは無効になるし、詐欺師は一銭も手にできない。奴らが黒人たちを売ったときと同じだ――あれだって、本当は売れてないし、黒人たちもすぐ戻ってくる。黒人たちの代金すらまだ受け取れてない。奴らは最悪の窮地だよ、メアリー。」

「じゃあ、私は今すぐ朝食を食べに行って、そのままロスロップさんの家に向かうわ。」

「いや、それはダメだ、メアリー・ジェーン。絶対、朝食の前に行ったほうがいい。」

「どうして?」

「なんで君に急いで行くよう頼んだと思う?」

「うーん、考えたこともなかった。でも、そう言われると分からない。どうして?」

「だって、君は顔にすぐ出る子だからだ。俺は君の顔を見れば何でも分かる。活字みたいにはっきり読み取れる。君は朝、おじさんたちがキスしに来ても、何事もなかったふり、できる?」

「もう、やめて! わかった、朝食の前に行く。むしろその方がいい。……妹たちはどうするの?」

「ああ、それは心配いらない。妹たちはもう少し我慢しなきゃいけない。みんな一緒に行ったら怪しまれる。君が、妹や町の誰にも会わないのが一番だ。近所の人に“おじさんたち、今朝は元気? ”って聞かれたら、君の顔が何かばらしちゃう。だから、すぐ行ってくれ、メアリー・ジェーン。あとは俺が全部うまくやる。スーザンには、君からおじさんたちによろしく、今日はちょっと休養と気分転換、それか友だちに会いに行ったって伝える。君は今夜か、朝には帰るって。」

「友だちに会いに行った、ってのは構わないけど、私の愛をあの人たちに伝えるのはやめて。」

「わかった、伝えないよ。」彼女にはそう言っておいた。大したことじゃないし、ちょっとしたことが人を安心させるものだ。メアリー・ジェーンが気楽になるなら、それで十分だ。俺はさらに続けた。「もう一つだけ――あの金の袋のことだ。」

「もう、あれは取られちゃったわ。それに、あんなふうに盗られたのかと思うと自分が情けない。」

「いや、違う。まだ取られちゃいない。」

「えっ、じゃあ誰が持ってるの?」

「俺も知りたいくらいさ。でも本当のことを言うと、俺が持ってた。詐欺師どもから盗んだんだ。君に渡すために盗んだんだけど、どこに隠したかは分かってる。でも、もうそこにはないかも。ごめんな、メアリー・ジェーン、本当にすまない。俺なりに精いっぱいやった。もう少しで捕まりそうになって、とっさに目についた場所に突っ込んで逃げたんだ――良い場所じゃなかった。」

「もう、自分を責めないで。それはひどすぎるし、私が許さない。あなたのせいじゃないわ。どこに隠したの?」

また彼女が悲しい気持ちになったら嫌だったし、“棺桶の中に金袋が遺体の上にある”なんて言うことはどうしてもできなかった。だから、しばらく黙ってから言った。

「どこに隠したかは言いたくない。だけど、紙に書いて渡す。ロスロップさんの家に行く途中で読んでくれればいい。それでいいか?」

「ええ、それでいいわ。」

だから俺は書いた。「棺桶の中に隠した。君が夜中に泣いていたとき、金はそこにあった。俺はドアの陰から見ていて、君を本当にかわいそうに思っていた。」

そのことを思い出したら、俺の目にも少し涙がにじんだ。夜中、あの子が一人で泣いていた、その頭の上に詐欺師たちがいる……彼女に紙を渡したとき、彼女の目にも涙が浮かんだ。そして彼女は俺と固く握手して言った。

「さよなら。あなたの言った通り、全部やってみせる。もしもう二度と会えなくても、あなたのことは絶対に忘れないし、何度も何度も思い出す。そして、あなたのためにお祈りするわ!」――そう言って、彼女は行ってしまった。

祈るってさ! もし俺の正体を知ってたら、もっと身の丈に合った願掛けをしたほうがいいって思っただろう。でも、きっと彼女は本当に祈ったと思う――そういう子だ。もし彼女がユダのために祈る気になったら、絶対にやり遂げるだろう。彼女は絶対にあきらめない子だ。誰が何を言おうと、俺の考えじゃ、あの子ほど根性のある女の子は他に見たことがない。俺の思うに、あの子の中身は砂だらけ[訳注:「sand」は勇気や度胸の意]だ。お世辞みたいだが、本当にそう思う。そして美しさも、優しさも、誰より勝ってる。あの子があのドアから出ていくのを見てから、もう二度と会ってない。でも、何百万回も彼女のこと、そして“あなたのために祈る”という言葉を思い出した。もし俺が祈ることで少しでも彼女の役に立てると思ったら、きっと祈っただろうし、それが無理なら死んだっていいと思った。

さて、メアリー・ジェーンは裏口から出て行ったらしい。誰にも見られずに。俺がスーザンと“兎唇”[訳注:ジョアンナのあだ名]に会ったとき、こう言った。

「みんなが時々訪ねる、川の向こう側の家の名前って何だったっけ?」

二人は言った。

「いろいろあるけど、主にプロクター家よ。」

「それだ。危うく忘れるとこだった。メアリー・ジェーンから伝言だ、プロクター家に急いで行ったって――誰かが重病なんだって。」

「誰が?」

「さあ、ちょっと忘れたけど……たしか――」

「まさか、ハナーじゃないでしょうね?」

「残念だけど、ハナーが一番やばい。」

「まあ、なんてこと! ついこの前まで元気だったのに! 症状は?」

「ひどいらしい。一晩中付き添ってたって、メアリー・ジェーンが言ってた。もう何時間も持たないそうだ。」

「本当に? 何の病気?」

すぐにそれらしい病名が思い浮かばなかったから、

「おたふくだ。」

「おたふくなんかで夜通し看病なんてしないわ。」

「いや、するさ。こっちのおたふくは違うんだ。新しい種類だって、メアリー・ジェーンが言ってた。」

「どう新しいの?」

「いろんなものが混じってるんだ。」

「ほかには何?」

「はしか、百日咳、丹毒、結核、黄疸、脳炎、ほかにもいろいろ。」

「なんてこった! それで“おたふく”なの?」

「そうだってさ、メアリー・ジェーンが言ってた。」

「それにしても、なぜ“おたふく”なの?」

「だって、最初はおたふくから始まるんだ。」

「全然理屈が通らないわ。足の指をぶつけて毒にあたって、井戸に落ちて首を折って、脳みそまでぶちまけて、その原因を誰かが“足の指のケガ”だって言うのと同じよ。そんなの変でしょ? これも同じよ。それで、うつるの?」

「うつる? そりゃあ、うつるさ。真っ暗闇で馬鍬につかまるみたいなもんさ。歯にひっかかれば、必ず全部くっついてくるだろ? このおたふくもそんなもんで、しっかりひっかかったら逃げられない。」

「本当に恐ろしいわね」と兎唇が言った。「ハーヴィーおじさんに知らせに――」

「そうそう、それがいい。もちろん行きなよ。」

「どうして?」

「よく考えてみなよ。おじさんたち、できるだけ早くイギリスへ帰らなきゃいけないよな? 君たちを一人で旅させるほど冷たい人じゃないだろ? だからきっと一緒に行くはずだ。叔父さんは牧師だろ? 牧師が蒸気船の受付や船の事務員を騙すか? メアリー・ジェーンを乗せてやるために嘘をつくか? そんなことしない。じゃあ、どうすると思う? “残念だけど、私の姪が新種の恐ろしいおたふくにかかったかもしれないから、三ヶ月は様子を見ないといけない”って言って、ここにとどまるしかないんだ。でもまあ、どうしても知らせたければ――」

「ばかばかしいわ。メアリー・ジェーンのこと待つくらいなら、みんなでさっさとイギリスに行って楽しむ方がいいじゃない! そんなの、ばかみたい。」

「それなら、近所の人に伝えたらどう?」

「何言ってるのよ、あきれるわ。そんなことしたら、近所中に広まっちゃう。誰にも知らせないのが一番よ。」

「そっか、確かにその通りだな。」

「でも、やっぱりハーヴィーおじさんには少し出かけるって伝えておいた方がいいんじゃない?」

「ああ、そうだな。メアリー・ジェーンもそう言ってた。“ハーヴィーおじさんとウィリアムによろしくとキスを伝えて、私は川の向こうの……えっと……あの金持ちの一家の家に行ったって伝えて。”――えーと、何て名前だったかな――」

「それ、アプソープ家じゃない?」

「そう、それだ。ややこしい名前は覚えられない。じゃあ、アプソープ家に行ったって伝えて。叔父ピーターが一番大事にしてた家だから、あの家にこの家を買ってほしいって頼みに行ったんだって。アプソープ家が競売に来て買うって約束するまで帰らないってさ。あんまり疲れてなければ今夜帰るし、疲れてたら朝には戻るって言ってた。プロクター家のことは口にしないで、アプソープ家の話だけして――それなら嘘じゃない。だって、実際にアプソープ家に行くんだから。」

「わかったわ」と二人は言って、叔父さんたちのために準備に出ていった。

これで全部うまくいった。妹たちはイギリス行きたいから余計なことは言わないし、王様と公爵もメアリー・ジェーンが競売のために動いてる方が、ロビンソン博士の近くにいるより都合がいい。俺は大満足だった。うまくやったもんだと思った。トム・ソーヤーだって、これ以上うまくやれなかったはずだ。もちろんトムならもっと派手にやるだろうけど、俺はそんなこと苦手だからな。

さて、競売は午後の終わりごろ、公会堂で開かれた。だらだらと続いて、ずっとグダグダしてたけど、あの年寄りはちゃんとそこにいて、競売人の隣でいかにも誠実そうな顔をして立って、時々聖書の一節やら、善人ぶった言葉やらを差し挟んでいた。公爵はというと、同情を引こうとあっちこっちで愛想をふりまいて、自分をアピールしまくっていた。

だがそのうち、なんとか競売は終わって、全部売りさばかれた――墓地にあるちっぽけな土地以外はな。だから、今度はそれを何とか売りつけようとしはじめた――王様の欲深さには、ほんと呆れるばかりだった。世の中のもの全部飲み込みたいんじゃないかってくらいだ。ちょうどその時、蒸気船が一隻着いて、ものの二分もしないうちに、群衆が大騒ぎしながら押しかけてきた。わめいたり、叫んだり、笑ったり、騒ぎ立てたりしながら、こう叫んでた。

「ほら、対抗馬が来たぞ! ピーター・ウィルクスの相続人が二組も揃った! 金を払って好きな方を選びな!」

第二十九章

彼らが連れてきたのは、とても品の良さそうな年配の紳士と、その右腕を吊った若い紳士だった。みんながどよめいて、笑い声と歓声が止まらなかった。だが俺にはどこが面白いのかさっぱり分からなかったし、公爵や王様も笑える余裕はないだろうと思った。きっと青ざめるだろうと俺は思った。でも、全然そんなことはなかった。公爵は何食わぬ顔で、例によって愛想をふりまき、まるでバターミルクを注ぐ壺みたいにご機嫌な様子だった。王様はというと、新しく来た二人を悲しげに見下ろして、世界にこんな詐欺師や悪党がいることが心底腹立たしい、という顔をしていた。いや、まったく見事な演技だった。町の有力者たちも、王様のそばに集まって、自分たちが味方だとアピールしていた。新しく来たあの年配の紳士は、すっかり困惑した顔をしていた。そしてやがて、話し始めた――俺はすぐに分かった、あの人は本物のイギリス人訛りだった。王様の真似もなかなかだったが、やっぱり本物とは違った。俺にはその人の言葉をそのまま書くことはできないし、真似もできないけど、大体こんな感じだった。

「これは本当に驚きでして、まったく予想していませんでした。正直に申し上げて、今この状況に対応する準備はできていないのです。兄弟と私は不運が重なりまして、彼は腕を折ってしまい、荷物も昨晩、上流の町で間違って降ろされてしまいました。私はピーター・ウィルクスの弟、ハーヴィーです。そしてこちらが弟のウィリアムでして、彼は耳も聞こえず、口もきけません――しかも片腕しか使えないので、手話もほとんどできません。私たちは間違いなく本人です。数日中に荷物が届けば証拠をお見せできます。それまでは、これ以上何も言わず、ホテルでお待ちします。」

そう言って、ふたりの新しい偽物……もとい新しい兄弟がその場を離れようとした。すると王様が笑いながら、こう言った。

「腕を折ったって――そりゃまた都合がいい話じゃないか? 詐欺師にとっちゃ、手話の練習もいらんしちょうどいいもんな。荷物失くしたって? それは面白い! いや~、状況にぴったりだ!」

また王様が笑うと、他のみんなもつられて笑った。だが三、四人、いや、五、六人は笑っていなかった。そのうちの一人はあの医者だった。もう一人はカーペット地でできた昔ながらの鞄を持った、鋭い顔つきの紳士で、さっき蒸気船から降りて医者と言葉を交わしながら、時々王様のほうを見て頷いていた。レヴィ・ベルというルイヴィルまで行ったはずの弁護士だった。そしてもう一人は、ごつくて無骨な大男で、最初からこの騒動をじっと聞いていた。そして、王様が一通りしゃべり終えると、その男が口を開いた。

「なあ、ちょっと聞くが、あんたがハーヴィー・ウィルクスだってんなら、いつこの町に来た?」

「葬式の前日だよ、友よ」と王様。

「で、何時ごろだ?」

「夕方、日が沈む一、二時間前ってとこだな」

「どうやって来た?」

「シンシナティからスーザン・パウエル号に乗って来た」

「じゃあなぜ、朝にピント(川の中洲)にカヌーでいたんだ?」

「俺は朝にピントにはいなかったぞ」

「嘘だな」

何人かが慌てて止めに入り、「年寄りや牧師にそんな口をきくな」と言った。

「牧師だと? ふざけんな、あいつは詐欺師で嘘つきだ。あの朝、ピントにいたのは確かだ。俺はそこに住んでる、だから見たんだ。あいつはティム・コリンズと、あと少年と一緒にカヌーで来た」

すると医者が口を開いた。

「ハインズ、その少年を見たら分かるか?」

「多分な。でも、よく分からん……ああ、あそこにいるじゃないか。間違いなくあの子だ」

ハインズが指さしたのは、俺だった。医者が言った。

「みんな、俺には新しい二人組が詐欺師かどうか分からんが、こっちの二人が詐欺師じゃないって言うなら、俺は馬鹿だ。俺たちの義務として、この二人がここから逃げないようにして、きちんと調べるべきだ。さあ行こう、ハインズ。みんなも来てくれ。この連中を宿屋に連れて行き、もう一組と対面させよう。何か分かるはずだ」

群衆は大喜びで(王様側の連中はそうでもなかったが)、全員で向かった。ちょうど日が暮れる頃だった。医者は俺の手をひいて親切にしてくれたが、絶対に手を離さなかった。

みんなでホテルの大きな部屋に集まり、ろうそくを灯して、新しい二人を呼び入れた。まず医者が言った。

「この二人をあまり責めたくはないが、俺は詐欺師だと思っている。だが、連中に仲間がいるかもしれない。もし仲間がいるなら、ピーター・ウィルクスが残した金貨を持ち逃げされるかもしれん。ありえない話じゃない。もしこの二人が本物なら、証明できるまで金を預けておくことには反対しないはずだ――そうだろう?」

全員がそれに賛成した。つまり、俺たちは最初からかなりまずい状況に追い込まれたわけだ。だが、王様はただ悲しそうな顔をして言った。

「諸君、その金がそこにあれば、俺もちゃんと調べてもらいたいんだが、残念ながらそこにはない。調べに行ってもらってもいい」

「じゃあ、どこにあるんだ?」

「姪が俺に預けてきた時、数日しかいないつもりだったから、ベッドの藁マットの中に隠したんだ。アメリカの黒人をよく知らなかったし、イギリスの召使いのように正直だろうと思ってな。ところが、下に降りた翌朝、黒人たちが盗んでった。奴らを売ってしまった時も、金がなくなってるのに気づかなかったから、きれいに逃げおおせたんだ。この従者が説明できるよ、諸君」

医者や他の何人かが「そんな馬鹿な」と言った。誰も完全には信じていないようだった。一人が俺に、黒人たちが盗むのを見たかと訊いた。俺は、見ていないけど、彼らが部屋からこそこそ出ていくのを見て、何か悪さしたかと心配になったんだろうと思っただけだ、と答えた。それだけで質問は終わった。すると医者が俺に向き直って言った。

「君もイギリス人か?」

「はい」と俺が言うと、みんな笑って「くだらん」と言った。

それから本格的な調査が始まった。上へ下へと質問攻めにされ、何時間も続いた。誰も夕食のことなど口にせず、すっかりそのことを忘れていた。王様には自分の話をさせ、新しい紳士には彼の話をさせた。まともな頭なら、どっちが本当のことを話しているか分かるはずだった。そしてやがて、俺にも知っていることを話せと言われた。王様が横目で俺をにらみ、その合図で俺は「正しい」側の話をした。シェフィールドの話とか、イギリスのウィルクス家の暮らしとか、いろいろ話し始めたが、あまり進まないうちに医者が笑い始め、レヴィ・ベル弁護士がこう言った。

「やめときな、坊や。無理しなくてもいい。どうやら嘘をつくのに慣れてないみたいだな。練習が必要だ。今は下手くそだよ」

その皮肉はどうでもよかったが、とにかく解放されたのは嬉しかった。

医者が何か言いかけて、「最初に町にいたらな、レヴィ・ベル――」と言いかけた時、王様が手を差し出してこう言った。

「おや、これは亡くなった兄の友人、よく手紙で名前を見た方じゃありませんか」

弁護士と王様は握手し、弁護士はにこやかに話し込んだ。やがて二人は小声で話し合い、ついに弁護士がこう言った。

「これで決まりだ。注文書を書いて兄弟の分と一緒に送れば、間違いないと分かる」

それで紙とペンを用意し、王様が頭をひねりながら何かを書いた。次に公爵にペンが渡されたが、その時初めて公爵が青ざめた。でも、ちゃんと書いた。すると弁護士が新しい年配の紳士に言った。

「あなたとご兄弟も一、二行書いて署名してください」

年配の紳士が書いたが、誰にも読めなかった。弁護士はとても驚いて言った。

「これは驚いた」――と言いながら昔の手紙を取り出し、それと見比べてから言った。「これはハーヴィー・ウィルクスからの手紙だ。そして、こっちが今書いた二人の字だが、これを書いたのは明らかに別人だ」(王様と公爵は、弁護士にまんまと騙されて恥ずかしそうにしていた)「そしてこっちの紳士の字も、今のと違う――いや、これは字というよりただの落書きだ。さて、他の手紙も――」

新しい年配の紳士が言った。

「ちょっと説明させてください。私の字は兄しか読めません。だから、兄が代筆するんです。今見ているのは兄の字です」

「なるほど!」と弁護士。「じゃあ、ウィリアムさんにも何か書いてもらえれば――」

「彼は左手では書けません」と紳士。「右手が使えれば、彼が自分と私の手紙も全部書いたと分かるでしょう。見比べてください――全部同じ筆跡です」

弁護士は確認して言った。

「確かにそうだ――いや、そうでなくても、すごく似てる。解決に近づいたと思ったのに、また振り出しだ。でも一つだけ分かった――こっちの二人は絶対にウィルクス兄弟じゃない」――そう言って王様と公爵のほうへ首を振った。

さて、どうだ。あの頑固な年寄りは、それでも認めなかった! 全然降参しなかった。「こんなのは不公平なテストだ」と言い、「弟ウィリアムは世界一の冗談好きで、最初からふざけて書くつもりだった」と言い張った。王様は熱くなってあれこれ喋り続け、しまいには自分でも信じ込んでいるように見えた。だが、新しい紳士が割って入り、こう言った。

「思い出した。ピーター・ウィルクスの埋葬の準備を手伝った人がここにいるだろう?」

「はい」と誰かが答えた。「俺とアブ・ターナーがやりました。二人ともここにいます」

年配の紳士は王様のほうを向いて言った。

「では、この紳士に伺いましょう。ピーターの胸にどんな刺青がありましたか?」

王様は、その瞬間、川に削られた土手みたいに崩れそうになりながら、かろうじて踏ん張った。だって、そんな突然に質問されて、どうやって本物の答えができる? 少し顔色が白くなったのは隠せなかった。部屋はしんと静まり返り、全員が前のめりになって王様を凝視していた。俺は心の中で「さすがにここで音を上げるだろう、もう無理だ」と思った。でも、なんと、音を上げなかった! たぶん、相手が諦めるまでごまかし続けて、最後には公爵と一緒に逃げ出すつもりだったんだろう。とにかく、王様はしばらくしてからニヤリと笑い、

「フン! そりゃ難しい質問だな! ええ、分かりますとも。胸にあるのは、小さくて細い青い矢印です。よく見ないと分からないくらいです。どうです、これで?」

俺はあんな図太い人間を見たことがない。

新しい年配の紳士はすぐさまアブ・ターナーとその仲間の方を向き、目を輝かせ、王様をやっつけたと確信して言った。

「さあ、聞きましたね。本当にそんな刺青がありましたか?」

二人とも即座に答えた。

「そんなもの見ませんでした」

「よし!」と年配の紳士。「じゃあ、俺たちが見たのは、うっすらとしたPとB(これは若い頃に使わなくなったイニシャル)、そしてW、その間にダッシュがあった、こうです:P――B――W」――そう紙に書いて見せた。「これが本当に見たものではないですか?」

二人ともまた答えた。

「いや、見てません。何も印はありませんでした」

もう町中が大混乱になり、みんな叫び始めた。

「全員詐欺師だ! 水に沈めろ! ラチ乗せて運べ!」と大騒ぎになった。だが弁護士がテーブルに飛び乗って叫んだ。

「みなさん、ちょっと――ちょっとだけ聞いてください! まだ方法がひとつ残ってます――遺体を掘り起こして確かめましょう!」

それで決まりだった。

「おお!」とみんなが叫び、そのまま動き出した。弁護士と医者は、

「待て、待て! この四人と少年も全員捕まえて一緒に連れていくんだ!」

「そうだ!」とみんなが叫んだ。「もし刺青がなかったら、この連中全員リンチだ!」

俺は本気でビビったが、もう逃げようがなかった。みんな腕を掴まれて、墓地へと引っ立てられた。川沿いに一マイル半も離れたところで、町中の人間が大騒ぎしながらついてきた。まだ夜の九時だった。

家の前を通った時、メアリー・ジェーンを町の外に行かせなければよかったと後悔した。今なら彼女に合図して、俺を助けてくれと頼めたし、あの詐欺師どもの正体を暴いてもらうこともできたのに。

俺たちは川沿いの道をぞろぞろと下っていった。まるで野生の猫みたいに騒ぎながらな。しかも、空がどんどん暗くなってきて、稲妻がちらちら光り始めて、風が木の葉をざわざわ揺らしてるもんだから、余計に不気味だった。今までで一番ヤバい窮地で、死ぬほど危なかった。頭がぼーっとして、何もかも思ってたのと全く違う展開になってた。好きなだけ時間をかけてのんびりできて、面白いことも全部見て、いざってときにはメアリー・ジェーンが俺を助けてくれて、逃がしてくれるはずだったのに――今や、俺と突然の死の間には、あの刺青の跡しかなかった。もし見つからなかったら――

考えるのも耐えられなかった。でも、どうしてもそればっかり考えてしまうんだ。どんどん暗くなってきて、ちょうど今ならみんなをまくにはもってこいのタイミングだった。でも、あのがたいのデカいやつ――ハインズ――が俺の手首をつかんだままで、まるでゴリアテ[訳注: 旧約聖書に登場する巨人兵士]から逃げようとするみたいなもんだった。ハインズは興奮してて、俺をぐいぐい引っ張るもんだから、俺も走ってついていくしかなかった。

みんな墓場に着くと、まるで洪水みたいに墓地に雪崩れ込んだ。墓に着くと、欲しい数の百倍はシャベルがあったのに、誰もランタンを持ってくるのを忘れてた。でも、みんな気にせず稲妻の光を頼りに掘り始めた。誰かを、半マイル先の家にランタンを借りにやった。

そうして必死に掘りまくった。どんどん暗くなって、雨が降り出して、風がびゅうびゅう音を立てて、稲妻はどんどん激しくなって、雷が轟いた。でも、みんなこの騒ぎに夢中で、全然気にも止めちゃいない。一瞬、稲妻が光ると大勢の顔も、シャベルで投げあげられる土も全部見える。でも次の瞬間、暗闇がすべてを覆って、何も見えなくなるんだ。

やがて棺が掘り出され、蓋のネジを外し始めた。そうしたら、みんな押し合いへし合いして中を見ようと必死で――あんな押し合いは見たことない。真っ暗な中だから、なおさら怖かった。ハインズは俺の手首をひどく引っぱるもんだから、痛くてたまらなかったし、たぶんあいつ、興奮しすぎて俺のことなんか忘れてたんだろう。

突然、稲妻がまぶしいほど白く空を裂いて、誰かが叫んだ。

「こんちくしょう、金貨の袋が胸の上にあるぞ!」

ハインズも他のみんなと同じように大声を上げて、俺の手首を放すと人ごみに突っ込んで中を見ようとした。俺はその瞬間、暗闇の中を必死に道へ逃げだした。どんなふうに逃げたかなんて、誰にも分かるもんか。

道には俺しかいなかった。まるで飛んでるみたいだった――いや、暗闇と、時折の稲妻、雨のざわめき、風のうなり、雷鳴以外はな。間違いなく、俺は命がけで走った! 

町に着いたときは、嵐のせいで誰も外にいなかった。だから裏道なんか気にせず、まっすぐ大通りを突っ切った。家の近くまで来ると、目を凝らして見た。明かりはなし、家は真っ暗。それがなぜだか分からないけど、ひどく寂しくてがっかりした。でも、ちょうどそのとき、メアリー・ジェーンの窓にパッと明かりがともった! その瞬間、胸が張り裂けそうになった。そして次の瞬間、家も何もかも暗闇の後ろに消えて、もう二度とこの世で俺の前に現れることはないだろうな、って思った。あの子は本当にいい子だったし、誰よりも度胸があった。

町のはずれまで来て、やっと小島まで行けそうだと分かったとき、俺はボートを物色し始めた。稲妻が照らしたとき、係留鎖のついてないカヌーを見つけて、すぐにかっぱらって漕ぎ出した。カヌーはロープでつながれてるだけだった。小島は川の真ん中、だいぶ遠く離れた先だったけど、無駄にする時間はなかった。やっといかだにたどり着いたときは、もうへとへとで、そのまま倒れ込んで息を整えたかったくらいだ。でも、やらなかった。飛び乗るなり叫んだ。

「ジム、早く出せ! いかだを離せ! やったぞ、もうあいつらとはおさらばだ!」

ジムも大喜びで両手を広げてこっちに駆け寄ってきた。でも、稲妻がジムの姿を照らした瞬間、俺はびっくりしてひっくり返って川に落ちそうになった。だって、ジムが例の『リア王』であり、おまけに溺れ死んだアラブ人でもあるってことをすっかり忘れてたんだ。肝を冷やしたよ。けど、ジムが俺をすくい上げて、抱きしめようとしたり、感激して喜んでくれたりした。俺は言った。

「今はやめとけ、朝飯のときにしろ! 早く離せ、いかだを流せ!」

それで、ものの二秒でいかだは川を滑り下っていった。もう一度、自由になれて二人きりになれたのが、たまらなく嬉しかった。誰にも邪魔されないで大河を流れていくなんて最高だった。俺は思わず飛び跳ねて、かかとを何度も鳴らしてはしゃいだ。やめられなかった。でも、三回目くらいに妙な音が聞こえてきて、息を呑んで耳を澄ました。そしたら、次の稲妻が川を照らしたとき、見えたんだ――やつらが来る! オールをこいで、ボートをすごい勢いで漕いでくる! キングとデュークだった。

俺はその場にへたり込んで、もうダメだとあきらめた。泣きそうになるのをこらえるのが精一杯だった。

第三十章

やつらがいかだに乗り込むと、キングが俺の襟首をつかんで言った。

「俺たちをまこうとしたな、このクソガキ! 俺たちと一緒にいるのが退屈だってか?」

俺は言った。

「いいえ、陛下、違います――どうかやめてください、陛下!」

「じゃあさっさと本当のことを言え、さもないと内臓が出るまで揺さぶってやる!」

「正直に全部話します、陛下。俺をつかんでた男はすごく親切で、自分にも去年死んだ同じくらいの息子がいたって言って、こんな危ない目にあってる俺が気の毒だって。それで、みんなが金貨を見つけて大騒ぎになったとき、そいつが俺を放して『今のうちに逃げろ、でなきゃ絞首刑だぞ』ってささやいたんです。それで俺は逃げたんです。俺が残っても役に立てないし、捕まって絞首刑になるのはごめんだったから。だからカヌーを見つけるまで休まず走り続けて、ここに来たときジムに急げって言ったんです。でないとまだ捕まって吊るされると思って。それから、陛下もデュークももう死んでるんじゃないかって怖くて、すごく悲しかったし、ジムも同じで、でもお二人の姿を見てどれだけ嬉しかったか――ジムに聞いてくれてもいいです。」

ジムもそうだと証言した。でも、キングはジムに黙れと言って、「ああ、そりゃずいぶん都合がいい話だな!」と俺をまた揺さぶって、「溺れさせてやろうか」と脅した。でもデュークが言った。

「離してやれよ、このバカ野郎! お前だって同じことしただろ? お前は自分が逃げられたとき、あの子のことを探したのか? 俺は覚えちゃいないぞ。」

それでキングは俺を放し、あの町と住人全員を罵り始めた。けどデュークは、

「自分自身をこっぴどく罵るべきだろ、誰よりもお前がな。最初からまともなことなんて一つもしてない。唯一よかったのは、あの架空の青矢印を冷静に言い出したときだけだ。あれは本当にすごかった――見事だった。それが俺たちを救ったんだ。もしそれがなかったら、あのイギリス人の荷物が届くまで牢屋送りだったろうし――そのあとは間違いなく刑務所行きだったはずだ。でもあの機転でみんなを墓場に連れて行くことができて、しかも金貨のおかげでさらに助かった。あいつらが興奮して一斉に駆け寄ったから、俺たちは今夜、首からロープをぶら下げずに済んだんだ――しかもそのロープは長持ち保証つきでな。」

みんなしばらく黙り込んだ。キングがぼんやりと、

「ふん、俺たちは黒人たちが盗んだと思ってたのによ。」

と言った。

その一言に俺はぞっとした。

「ああ」とデュークが皮肉たっぷりにゆっくり言った。「俺たちはな。」

しばらくしてキングがゆっくり言った。

「少なくとも、はそう思ってた。」

デュークも同じ調子で、

「逆に、がそう思ってた。」

キングがいきなりムッとして、

「おいビルジウォーター、お前何のこと言ってるんだ?」

デュークがきびきびと答えた。

「そっちこそ、何のこと言ってるんだよ?」

「バカバカしい!」とキングは皮肉たっぷりに言う。「でもは知らないな――お前、寝ぼけてて自分が何やってるか分からなかったんじゃないのか?」

デュークは今度は怒りだして言う。

「いい加減そのたわごとはやめろよ。俺をバカだと思ってるのか? 誰があの金を棺に隠したか、が知らないとでも?」

ああ、知ってるさ。だってそれをやったのはお前だ!」

「嘘だ!」――そう言ってデュークがキングに飛びかかった。キングは叫んだ。

「やめろ! 喉を離せ! 全部取り消すから!」

デュークが言った。

「じゃあまず白状しろよ。あの金を棺に隠して、いつか俺をまいて自分一人で掘り出そうとしたってな。」

「ちょっと待て、デューク――一つだけ正直に答えてくれ。お前が自分で金を隠してないって言うなら、俺は信じるし、今言ったことも全部取り消す。」

「この悪党め、俺じゃないし、お前も分かってるはずだ。これでいいな?」

「じゃあ信じるさ。でもあと一つだけ――怒るなよ。お前は心の中で金をくすねて隠そうと思ってたろ?」

デュークはしばらく何も言わなかった。それからこう言った。

「まあ、そう思ってたとしても、結局やってない。でもお前は考えただけじゃなくて、本当にやっただろ。」

「デューク、俺がやったら死んでもいいさ、本当だ。やろうと思ってたのは認めるが、でもお前――いや、誰かが――先にやったんだ。」

「嘘つけ! お前がやったんだ。やったって認めないと――」

キングはゴボゴボ言いだして、最後には、

「分かった! 俺がやった!」

俺はそれを聞いて本当にほっとした。今まで気が気じゃなかったからな。デュークはキングの手を離して言った。

「また否定したら、今度こそ溺れさせるぞ。お前みたいなのは、ベソかいて赤ん坊みたいに座ってるのがお似合いだ。今までの行動を思えば当然だ。何でもかんでも飲み込もうとするダチョウ親父は見たことないぜ――しかも俺はお前を本当の親父みたいに信じてたのによ。黒人たちのせいにされたときも黙ってたなんて、恥を知れよ。あんな与太話を信じた俺もバカだった。くそ、今じゃ分かったさ。赤字を補填しようとやっきになってた理由もな。俺がノンサッチで稼いだ分とか、色んな金を全部せしめるためだったんだろ!」

キングはおずおずと鼻をすすりながら言った。

「でもデューク、赤字を補填しろって最初に言い出したのはお前だぞ。俺じゃない。」

「黙れ! もう何も聞きたくない!」とデューク。「これで分かったろ。金は全部戻されたし、俺たちの分も二、三ペニー以外はみんな取られた。さっさと寝ろ。もう俺に赤字補填なんて言うなよ、生きてる間はな!」

それでキングはこっそりテント小屋にもぐり込んで、やけ酒をあおり始めた。やがてデュークも自分の酒瓶に手を出した。だから、三十分もするとまた仲良しに戻って、酔えば酔うほどべたべたして、お互い腕をまわしていびきをかいて寝た。二人とも酔いが回ってたけど、キングは「金袋を隠したのをもう否定してはいけない」ってことだけは忘れなかった。だから俺は安心して満足だった。もちろん、やつらが寝入ったらジムと二人であれこれ話し込んで、全部打ち明けた。

第三十一章

それから何日も何日も、俺たちは町に寄ることができなかった。とにかく川をどんどん下った。今は南の方で、暖かい気候になって、家からもずいぶん遠く離れていた。スペイン苔が木の枝から灰色の長いひげみたいにぶら下がってるのが見えたのは初めてで、森がなんだか陰気で厳かな感じだった。これで詐欺コンビももう危険はないと思ったのか、また村々で悪事を始めた。

まず禁酒講演をやったけど、酔っ払えるほどの金も稼げなかった。それから別の村ではダンス教室を始めたが、二人ともカンガルー並みに踊りを知らなかったから、踊り始めた瞬間にみんなに追い出された。今度は弁論に挑戦したが、ろくに始めないうちに聴衆全員から罵声を浴びて、追い払われた。宣教師ごっこや催眠術、医者のふりや占い、何でもかじったが、まともに稼げなかった。とうとうほとんど無一文になって、いかだにごろごろ寝転がって何時間も黙り込んで、ひたすら落ち込んで絶望していた。

やがて、あいつらはテント小屋でこそこそ相談を始めて、二、三時間も低い声で話し込むようになった。ジムも俺も不安になった。どうもろくでもないことを企んでるようだった。いろいろ考えた末、家や店に押し入るつもりか、偽札作りでも始めるつもりか、とにかく何か良からぬことをやる気なんだろうと決めた。だから、俺たちは絶対にそんな悪事には関わらない、チャンスがあったらすぐあいつらをまいて逃げよう、と約束した。

ある朝早く、俺たちはいかだを小さな村パイクスヴィルの下流二マイルほどの安全な場所に隠した。キングは陸に上がって、「俺が町の様子を探ってくるから、お前らは隠れてろ。もしノンサッチの話が広まってなければ、昼までに戻る。そうしたらデュークとお前らも来い」と言った。(「どうせ家でも盗みに行くつもりだろ」と、俺は心の中で思った。「終わったら俺とジムといかだが見当たらなくて、首をひねるんだろうな――せいぜい首をひねるがいいさ」)昼までに戻らなかったら、何も問題ない合図だと言った。

だから俺たちはそのまま待ってた。デュークはイライラしっぱなしで、何かにつけて俺たちを責め立てた。何をやっても文句をつけてきた。確かに何かきな臭い気配がした。俺は昼になってもキングが戻ってこなかったのを見て、内心ホッとした。状況が動きそうだったし、この機会に本当に逃げられるかもしれない。そこで俺とデュークはキングを探しに村へ行った。しばらくいろいろ探し回った結果、裏通りの安酒場の奥の部屋で奴を見つけた。ベロベロに酔って、たちの悪い連中にからかわれて怒鳴り散らしてたが、酔いすぎて足元もふらついて何もできなかった。デュークはキングを罵り始め、キングも言い返して、二人が本格的にやり合い始めた瞬間、俺はすかさず逃げ出して、足がもつれるほど全力で川沿いへ駆け戻った。これがチャンスだと直感したからだ。もう二度とあいつらに見つかりたくなかった。息が切れるほどだったけど、心は喜びでいっぱいだった。着くなり大声で叫んだ。

「ジムを解放しろ! もう大丈夫だ!」

だけど返事はなかったし、誰もウィグワムから出てこなかった。ジムはいなくなっていた! 俺は大声で叫んだ――それからもう一度、さらにもう一度叫んだ;森の中をあちこち走り回って、わめきちらしたけど、どうにもならなかった――ジムはもういなかった。俺は地面に座り込んで泣いた;どうしても我慢できなかった。でもじっとしているわけにもいかず、ほどなくして道に出て、どうしたらいいか考えながら歩いていると、向こうから歩いてきた少年に出会った。俺はその子に「こんな格好をした見知らぬ黒人を見なかったか?」と聞いた。すると彼はこう言った。

「見たよ」

「どこで?」と俺は聞いた。

「サイラス・フェルプスの家だよ、ここから二マイル下だ。あいつは逃げ出した黒人で、もう捕まってる。君、あいつを探してたの?」

「まさか! さっき一、二時間前に森で出くわしたけど、もし俺が叫んだら肝臓を切り取るって脅されて、そこで寝てろって言われたから、俺はそのままそこにいたんだ。ずっと怖くて出て来られなかった」

「ふーん、でももう怖がらなくていいよ、だってもう捕まったからさ。南の方から逃げて来たんだってさ」

「捕まってよかったな」

「そりゃそうさ! 報奨金二百ドルだもんな。道端で金拾うようなもんだよ」

「確かに――俺だってもっと大きけりゃもらえたのに、だって最初に見つけたの俺だし。誰が捕まえたんだ?」

「年寄りの見知らぬ男だ――その男は四十ドルでそいつを売っちまったよ、川を上る用事があるから待ってられないんだって。考えてみろよ! 俺なら七年でも待つのに」

「俺も絶対そうする」と俺は言った。「でも、そんな安値で売るってことは、その権利はそれ以上の価値がなかったのかもな。何か裏があるんじゃないのか?」

「いや、まっとうな取引だよ――俺はビラも見たし。そいつのことが細かく載っててな――絵みたいに特徴が書いてあるし、ニューオリンズの下にあるプランテーションから来たってな。間違いない、絶対安心な話だよ。なあ、タバコ噛みを分けてくれないか?」

俺は持ってなかったので、彼はそのまま行ってしまった。俺は筏に戻って、ウィグワムの中に座り込み、考え込んだ。でも、どうにもならなかった。頭が痛くなるほど考えたが、どうしてもこの困難から抜け出す道が見えなかった。こんなに長い旅をして、あの悪党どものためにあれこれしたのに、結局全部が無駄になって、みんなめちゃくちゃになり、台無しになった。やつらが心無くジムにこんな仕打ちをして、また一生奴隷にして、それも知らない人たちの元で、たった四十ドルの汚い金のためだ。

一度は、ジムが奴隷として生きるしかないなら、せめて家族のいる家で奴隷をしていた方が千倍もマシだ、だからトム・ソーヤーに手紙を書いてジムの居場所をミス・ワトソンに伝えてもらった方がいい、と思った。でもすぐにその考えは捨てた。理由は二つ。ミス・ワトソンはジムの悪事や恩知らずに腹を立てて、またすぐに川下のさらに遠くに売り飛ばすだろうし、もしそうしなくても、みんなは恩知らずな黒人を当然のごとく軽蔑するから、ジムはきっと肩身が狭くて恥ずかしい思いをずっとすることになる。そして何より俺のことを考えたらどうだ! ハック・フィンが黒人を自由にするのを手伝ったなんて噂が立ったら、どこの町で誰かに会っても恥ずかしくて土下座して足でも舐めなきゃならなくなる。結局そういうもんだ。人は卑劣なことをしておいて、そういう結果は受けたくないと思う。隠し通せれば恥じゃないと思う。それがまさに俺の今の状況だった。このことを考えれば考えるほど、良心が俺を責め続けて、どんどん罪深く、卑劣で情けないやつになった気がした。そしてついには、不意に、これは神様の御手が俺の顔を叩いて、「お前の悪事は天からずっと見られているぞ」と教えられているような気がしてきた。「俺は、俺に何の害も与えなかった年老いた女の黒人を盗もうとしている。神様はこんなひどいことを見逃すはずがない。」そう思ったら、その場で崩れ落ちそうなくらい怖くなった。どうにか自分を慰めようと、「俺は元々悪い育ちだし、そんなに責められることじゃない」と思ったりしたけど、心の中ではずっと「日曜学校だってあったじゃないか。行こうと思えば行けた。もし行ってれば、俺みたいに黒人にこんなことをするやつは永遠の炎に落ちるって教えてもらえたのに」とささやき続けていた。

俺は震えた。祈ろうかと思い、「どうにか今の自分をやめて、もっとましな人間になろう」と決心しかけた。だからひざまずいた。けど、言葉が出なかった。なぜだろう? 俺はよくわかっていた。神様をだますことはできないし、自分自身もだませない。なぜ言葉が出ないか、俺にはちゃんとわかっていた。心が正しくなかったからだ。正直じゃなかったからだ。二心を持ってるからだ。罪をやめようとしてるふりをしてるだけで、心の奥では一番大きな罪にしがみついていた。正しいことをやろう、きれいなことをしよう、「その黒人の持ち主に手紙を書いて居場所を知らせよう」と口では言おうとしても、心の底では全部ウソだって分かってたし、神様も分かってた。ウソの祈りはできない――それがわかった。

だから俺はとても苦しんで、どうしたらいいかわからなかった。とうとう、ひとつアイデアが浮かんだ。手紙を書こう――それから祈ってみよう、と。驚くことに、そう決心した途端、心が羽のように軽くなって、悩みが全部消えた。俺は紙と鉛筆を取り出して、うれしくてわくわくしながら書いた。

「ミス・ワトソン、あなたの逃亡した黒人ジムは、ここパイクスヴィルから二マイル下の場所にいて、サイラス・フェルプスさんが捕まえてます。もし報奨金を送れば、引き渡してくれるでしょう。

ハック・フィン」

俺は生まれて初めて、罪から洗い清められたように感じて、これで祈れるって思った。でも、すぐには祈らなかった。ただ紙を置いて、そこに座って考え込んだ――こうなって本当によかった、もう少しで地獄に落ちるところだった、と思いながら。でも、考えれば考えるほど、俺たちの川下りの旅を思い出してしまう。昼も夜も、月明かりのときも、嵐のときも、俺たちは一緒に浮かびながら、しゃべったり、歌ったり、笑ったりした。だけど、どうしてもジムを憎む理由なんか見つからない。思い出すのは、ジムが自分の番の見張りのとき、俺を起こさずに寝かせてくれたこと。霧の中から俺が戻ったときにうれしそうだった様子。あの抗争のあった沼地で再会したときのこと。いつも俺を「ハニー」と呼んで、可愛がって、できることはなんでもしてくれたこと――いつも本当にいいやつだった。最後に、俺が「船に天然痘患者がいる」と言ってジムを助けたとき、ジムはどれだけ感謝して、俺のことを「今までで一番の友だ、今はお前だけが俺の友だ」と言ってくれたことを思い出した。それから、ふとその手紙に目をやった。

俺は苦しかった。手紙を取り上げ、手の中で握りしめた。体が震えた。これから、二つのどちらかを永遠に選ばなきゃならないのを知っていたからだ。俺は一分ほど黙って考えて、そして心の中でこう言った。

「よし、それなら――俺は地獄に堕ちてやる」――そう言って、手紙を破り捨てた。

恐ろしい考えだったし、恐ろしい言葉だった。でも、もう一度、心の中で言い直しはしなかった;もう改心しようなんて考えるのもやめた。全部頭から追い出して、「俺はまた悪事をやってやる。それが俺の生まれつきなんだし、ほかの生き方なんて俺にはできない」と決めた。まず手始めに、ジムをまた奴隷から盗み出してやる。そして、それより悪いことが思いつけば、それもやってやる。どうせもう引き返せないなら、とことん悪に生きてやる。

それからどうやってやるか考え出して、いろんな方法を思いめぐらせた。やっと納得のいく計画ができた。そこで、川下にある林の島の位置を確かめて、夜暗くなってから筏でそっちに向かって隠した。それから寝た。夜通し眠って、まだ暗いうちに起き、朝食を食べて、町で買った服を着て、他の服やいろいろを包みにまとめ、カヌーで岸へ向かった。パイクスヴィルの下流、サイラス・フェルプスの家だろうと思う場所より下手に上陸して、包みを森に隠し、カヌーに水を満たして、石を積めて沈めた。あとで必要になったときに取り出せるように、川岸の小さな蒸気製材所の四分の一マイル下あたりに沈めておいた。

それから道に出て、製材所を通り過ぎたとき、看板が出ているのを見た。「フェルプス製材所」と書いてあった。さらに二、三百ヤード進むと農家が見えてきたが、辺りには誰もいなかった。もうすっかり明るくなっていたが、俺は気にしなかった。まだ誰にも会いたくなかったからだ。ただ地形を把握しておきたかった。俺の計画では、村から来たふりをして、上流から現れるつもりだった。だから周囲を見渡して、さっさと町へ向かった。町に着いて最初に見かけたのは、あの公爵だった。やつは〈ロイヤル・ナンサッチ〉の三夜公演のビラを貼っていた――前にもやったあの芝居だ。あの詐欺師ども、どこまでも厚かましい! 俺は気づいたときにはすぐ目の前にいた。公爵は驚いた顔で、

「おや、どこから来た?」と言い、それからうれしそうに、「筏はどうした? ちゃんと隠したのか?」

俺は言った。

「それを聞きたくて来たんだ、閣下」

公爵は表情を変え、あまりうれしそうじゃなくなって、

「俺にそれを聞くつもりだったのか?」と聞いた。

「そうだ」と俺は言った。「昨日、王様が酒場にいたのを見て、どうせ酔いが覚めるまで何時間も帰れっこないと思ったから、町をぶらぶらして時間をつぶしてたんだ。そしたら男がやってきて、十セントやるからスキッフを川向うまで引っ張るのを手伝ってくれって言うから、俺もついて行った。羊を運ぶって話だったんだ。だけど、いざ羊を舟まで引っ張るとき、男が後ろから押そうとしたときに、俺はロープを持ってたんだけど、羊が強すぎて暴れだして逃げ出して、俺たちは追いかける羽目になった。犬もいなかったから、そこら中を走り回って、くたくたになるまで追いかけて、やっと暗くなってから捕まえて運んだ。それから筏のところに戻ったらもうなくなってて、俺は『きっと何かあって逃げなきゃならなくなったんだ、しかも俺の黒人まで連れて行かれた、俺にとっては唯一の黒人で、もう財産も何もない、どうやって生きていけばいいんだ』と思って、座り込んで泣いた。そのまま森で寝たよ。でも、筏はどうなったんだ? ジムは……ジムはどうなったんだ!」

「俺にもわからんよ――筏がどうなったかはな。あの馬鹿が四十ドルで取引して、そのあと酒場でごろつきどもが奴と一緒にコイントスをして、酒代以外全部巻き上げやがった。俺がやっと夜遅く奴を連れて帰ったら筏は消えてて、俺たちは『あの小悪党が俺たちの筏を盗んで逃げやがった』って思ったわけさ」

「俺が自分の黒人を捨てるわけないだろ? 俺の唯一の黒人で、唯一の財産なんだぜ」

「そこは考えが及ばなかったな。実はな、俺たちはもうあの黒人を自分たちのものだと思い込んでたんだよ――本当に苦労させられたからな。だから筏がなくなって一文無しになったときには、もう一度〈ロイヤル・ナンサッチ〉をやるしかなかった。俺はその後ずっと苦労してるよ。で、十セントは? それよこせ」

俺は結構お金を持っていたので十セントやったが、「できればそれで何か食べ物を買って、俺にも分けてくれよ。これが俺の全財産で、昨日から何も食べてないんだ」と頼んだ。けど、公爵は何も言わなかった。次の瞬間、急に俺に向き直って言った。

「なあ、あの黒人が俺たちのことをバラすと思うか? バラしたら八つ裂きにしてやるぞ!」

「バラすって? もう逃げたんじゃないのか?」

「いや! あの馬鹿がジムを売ったんだ。俺には一銭も分けてくれなかったし、もう金もない」

「売っただって?」俺は泣き出して言った。「あれは俺の黒人だったのに、それは俺の金だ! どこだ、どこにいるんだ? 俺の黒人を返せ」

「もう黒人は手に入らない。それだけだ――泣くのはやめろ。なあ、お前は俺たちのことをバラす気はないだろうな? 俺はお前のことも信用できなくなってきたぞ。もしお前がバラしたら――」

公爵の目が今まで見たことないほど冷たくなった。でも俺は泣き真似を続けて、

「誰のこともバラしたりなんかしたくない。そんな暇なんかないんだ。俺は自分の黒人を見つけなきゃならないんだ」と言った。

公爵は困ったように、ビラの束を腕に抱えながら立ち止まり、額にしわを寄せて考え込んだ。とうとう言った。

「教えてやるよ。俺たちはここに三日間いなきゃならない。お前がバラさないって約束するなら、それに黒人にもバラさせないって約束するなら、どこにいるか教えてやる」

俺は約束した。すると彼は言った。

「農夫でサイラス・フェ――」と、そこで言葉を止めた。つまり、最初は本当のことを言いかけたけれど、途中でやめて考え直したのだ。やっぱり俺を信用しきれなかったのだ。つまり俺を三日間遠ざけておきたかったのだ。だからしばらくしてこう言った。

「買った男の名はエイブラム・フォスター――エイブラム・G・フォスターって言って、ラファイエットへ続く道沿い、ここから四十マイル奥に住んでる」

「わかった」と俺は言った。「三日で歩いて行けるな。今日の午後から出発するよ」

「いや、今すぐ行け。時間を無駄にするな、道中でペチャクチャしゃべるな。とにかく黙ってまっすぐ行けば、俺たちとは揉めずに済むんだぞ、わかったな?」

それが俺の望んでいた指示で、俺が狙っていた通りの展開だった。俺は自分の計画を実行する自由がほしかったのだ。

「さあ、とっとと行け。そしてフォスターさんには好きなことを言えばいい。お前の黒人だって信じてくれるかもな――バカなやつってのは証明書もいらないって聞くし、南部にはそういうのがいるらしい。ビラも報奨金もデタラメだって言っても、うまく説明すれば信じてくれるかもな。さあ、とっとと行け。道中、俺に迷惑がかかるようなことは絶対に言うなよ」

俺はそのまま森の奥へと向かった。振り返りはしなかったけど、公爵が俺を見張っているような気がした。でも、そんなのは簡単にまける自信があった。田舎道を一マイルも進んだところで立ち止まり、森の中をサイラス・フェルプスの家の方へ引き返した。すぐに計画を始めたほうがいいと思った。ジムの口をふさぐ必要があったし、あいつらにはもう関わりたくなかった。あいつらのことはもう十分だった。とにかく、二度と関わりたくなかった。

第三十二章

そこに着いたときは、辺りはしんと静まり返って、まるで日曜日みたいな雰囲気で、暑くて陽ざしが強かった。手伝いの連中は畑に出てて、空気の中には虫やハエのかすかな羽音が漂ってて、それがすごく寂しい感じを醸し出して、まるでみんな死んでどこかへ行ってしまったかのようだった。それで、もしも風がそよいで葉っぱを揺らしたりすると、なんだか物悲しい気分になる。まるで何年も前に死んだ魂たちが囁いているみたいで――しかも、どうしてもそれが『俺』のことを話してるような気がするんだ。たいていの場合、そんな雰囲気だと人は「自分も死んじまいたい」って思っちまうもんだ。

フェルプス家は、よくある小さな一頭立ての綿農園で、どこも似たようなもんだ。二エーカーほどの庭をぐるっと囲む柵があって、その柵を越えるための丸太で作った踏み段があり、いろんな長さの樽みたいになってて、女の人が馬に乗るときにもその上に立つんだ。大きな庭にはところどころ弱々しい草が生えてるけど、ほとんどは剥げた古い帽子みたいにツルツルで、草なんてほとんど残ってない。白人用の大きな丸太小屋は、削った丸太を組んで泥や漆喰で隙間を埋めてあり、その泥の筋は昔いつか白く塗られてたようだ。丸太の台所があって、それは屋根付きの広い通路で家とつながってる。台所の奥には燻製小屋があって、その向こう側には小さな黒人用の丸太小屋が三つ並んでる。そのまた奥、裏の柵に沿って一つだけぽつんと離れた小屋があり、その向こうにはいくつかの納屋がぽつぽつ並んでる。小さな小屋のそばには灰を溜める桶や石鹸を煮るための大きな釜があり、台所の戸口にはベンチと水桶と瓢箪のひしゃくが置いてある。そこには猟犬が一匹、日なたで寝ていて、他にもそこここに猟犬が寝ている。遠くの隅に日陰を作る木が三本ほどあって、柵沿いの一角にはフサスグリやグーズベリーの低木もある。柵の外には畑とスイカ畑があって、それから綿畑が広がり、その向こうは森になってる。

俺は裏手の灰桶のそばにある踏み段を越えて台所に向かった。少し進んだところで、紡ぎ車のくぐもった唸り声が上ったり下がったりしながら聞こえてきた。それで俺は「今こそ自分が死んじまいたいと思う」ってはっきり分かった。あれは世界で一番寂しい音なんだ。

俺はそのまま進んで、これといった作戦も立てず、成り行き任せにした。いざというときは天の采配が口に適当な言葉を与えてくれるだろうと信じてたんだ。というのも、俺が何もしないで任せておけば、天の采配ってやつはいつもちゃんと俺の口にピッタリの言葉をくれるものだからな。

半分まで来たとき、まず一匹、次にまた一匹と猟犬が起きて俺に向かってきた。当然、俺は立ち止まってやつらと向き合い、じっとしていた。そしたらまあ、やかましいことったらない! あっという間に俺は輪の中心――つまり車輪のハブみたいなもんで、スポークは全部犬――十五匹がびっしり俺の周りに集まって、首と鼻を伸ばして俺に向かって吠えたり遠吠えしたりしてる。そしたらまた別の犬たちも次々に、あっちこっちから柵を飛び越えたり角を曲がったりして駆けつけてきた。

そこへ、台所から黒人の女の人がめちゃくちゃ急いで飛び出してきて、手にはめん棒を持って、叫びながら「行きな、タイガー! スポット! 行きなさい!」って言いながら、まず一匹、次にまた一匹を打ちのめして追い払うと、他の犬たちもそれに続いて逃げていった。でも次の瞬間、半分くらいの犬がまた戻ってきて、尻尾を振りながら俺にまとわりついて、すっかり友達気分になってた。猟犬なんて、まあ害のあるもんじゃない。

女の人の後ろからは、裸でトウリネンのシャツだけ着た小さな黒人の女の子と男の子二人が母親の裾にしがみついて、俺を恥ずかしそうに覗いてる。いつもあの子たちはそうなんだ。そこに今度は家から白人の女の人が走ってきた。四十五か五十くらいで、髪はむき出し、手には紡ぎ棒を持ってる。その後ろには白人の子どもたちがさっきの黒人の子らと同じような恥ずかしがり方でついてきた。その女の人は全身で嬉しさを表してて、立ってるのもやっとってくらいで、俺に言った。

「やっと来たのね! ――そうなんでしょう?」

俺は考えるより先に「はい」と答えた。

彼女は俺をぐっと抱きしめて、そのあと両手で握りしめて何度も何度も振って、目には涙が浮かんで溢れてきた。いくら抱きしめてもしきれないって感じで、ずっと「思ったほどお母さんには似てないけど、まあいいわ、そんなことどうでも! ほんとに会えてうれしい! ああもう、食べちゃいたいぐらい!」って言い続ける。子どもたちにも「ほら、トムお兄ちゃんよ! ごあいさつしなさい」って言った。

でも子どもたちは頭を下げて指を口に入れ、彼女の後ろに隠れてしまった。だから女の人は続けて言った。

「ライズ、早く熱い朝ご飯を用意しておあげ――それとも船で朝ご飯は食べてきたの?」

俺は船で食べたと言った。それで彼女は俺の手を引いて家へ向かい、子どもたちもついてきた。家に入ると、彼女は俺を編み底の椅子に座らせて、みずからはその前の低いスツールに座り、俺の両手を握ったまま言った。

「さあ、これでじっくり顔が見られるわね。もう何度も何度も、こうしてあなたに会いたいと思ってたのよ、長い年月ずうっとね。ついにその日が来たのね! 二、三日前からあなたを待っていたのよ。どうして遅れたの? ――船が座礁したの?」

「はい――それは――」

「はい、なんて言わないで、サリーおばさんって言いなさい。どこで座礁したの?」

俺は何て答えればいいか分からなかった。なぜならその船が上流から来たのか下流から来たのか、それも分からなかったから。でも俺は直感をけっこう頼りにしてて、直感が「オルレアンの方から遡ってくる」って言ってる気がした。でもそれで助かるわけじゃない。だってその辺の砂州の名前なんて知らなかったからだ。どこかの砂州をでっちあげるか、名前を忘れたことにするしかない……と、そこでいい案がひらめいて、こう言った。

「座礁したのは大したことなかったんです。それで遅れたんじゃなくて、シリンダーヘッドが吹っ飛んだんです」

「まあ! 誰か怪我したの?」

「いえ。黒人が一人死にました」

「まったく不幸中の幸いね、たまに人が怪我することもあるから。二年前のクリスマス、あなたのサイラスおじさんがニューオーリンズから古いラリー・ルーク号で帰ってきたとき、やっぱりシリンダーヘッドが吹っ飛んで人が一人不具になったのよ。たしか、その人はあとで亡くなったわ。バプテストだったのよ。サイラスおじさんはバトンルージュでその人の家族を知ってる人を知ってたの。そうそう、今思い出したわ、やっぱり亡くなったのよ。壊疽が進んで切断したんだけど助からなかったの。そう、壊疽――それが原因だったのよ。全身が青くなって、栄光の復活を信じて亡くなったんだって。見るも無残だったって話よ。おじさんは毎日町まであなたを迎えに行ってて、今もたった一時間前にまた出かけたばかり。もうすぐ帰ってくるはず。きっと道すがら会ったんじゃない? ――年配の男の人で――」

「いえ、誰にも会いませんでしたよ、サリーおばさん。船はちょうど夜明けに着いて、俺は荷物を波止場に置いて町をぶらぶらしてから、あんまり早く着きすぎないようにちょっと遠回りして裏道から来たんです」

「荷物は誰に預けたの?」

「誰にも」

「まあ、盗まれちゃうわよ!」

「俺が隠した場所なら、盗まれたりしませんよ」

「船でどうやってそんなに早く朝ご飯を食べたの?」

ちょっと危なっかしいところだったけど、俺はこう言った。

「船長が俺のことを見かけて、上陸する前に何か食べた方がいいって言ってくれて、テキサス(一等船室)で士官たちの朝食を一緒にとらせてくれたんです」

俺はだんだん落ち着かなくなってきて、話もろくに聞いていられなかった。俺の関心は子どもたちにあって、彼らをこっそり呼んで正体を探りたかった。でもチャンスがぜんぜんなくて、ミセス・フェルプスが延々と話し続けるもんだからどうにもできなかった。やがて、彼女がこう言い出して、俺は背筋がゾクゾクするほど焦った。

「でも、こんなふうにしゃべってばかりで、あなた、シスたちのことをちっとも話してくれないじゃない。じゃあ、ちょっと休むから、あなたが話してちょうだい。全部よ――みんなのこと全部、どんなふうで、何してて、何を伝えてって言われてるのか、思い出せる限り全部ね」

こりゃ、どうにもならなくなったな、って思った。今までは天の采配が味方してくれてたけど、もう完全にお手上げだった。これ以上ごまかすのは無理だ、降参するしかない。ここはまたしても本当のことを言って賭けるしかない、と思った。口を開きかけたそのとき、彼女が俺を引っ張ってベッドの陰に隠し、「来たわ! もっと低くして――そう、そのまま――もう見えないわね。ここにいるのは絶対、ばらしちゃダメよ。おじさんにちょっといたずらしてやるから、子どもたちも絶対口にしないのよ」と言った。

もうこれはどうしようもないな、と思ったけど、心配しても仕方ない。じっとして、雷が落ちるときに備えるしかない。

おじさんが入ってきたとき、ほんの一瞬だけちらっと見えただけで、あとはベッドが邪魔して見えなかった。ミセス・フェルプスはおじさんに駆け寄って、

「来たの?」と聞いた。

「いや」とおじさん。

「えぇー! 一体どうしちゃったんだろう?」

「分からん。正直、気が気じゃない」

「心配ってもんじゃないわ! もう混乱しそう! 絶対来てるはずだわ、道中どこかですれ違っただけよ、絶対そうに決まってる」

「サリー、道中で見逃すわけないだろう。君も知ってるだろう」

「でも、ああ、シスが何て言うか! 絶対来てるはずよ、きっと見逃したのよ、あの人……」

「ああ、もう勘弁してくれ、これ以上心配させないでくれ。俺もどうしたらいいか分からん。もう限界だ。正直言って、怖くなってきた。だけど、来てるはずがない。来たなら俺が見逃すはずない。サリー、恐ろしい、ほんとに恐ろしい。きっと船に何かあったんだ!」

「サイラス! 見てよ、あの道の向こう――誰か来てるじゃない!」

おじさんはベッドの頭側にある窓に飛んでいった。それでミセス・フェルプスは待ってましたとばかり、素早くベッドの足元で俺を引っ張り出した。おじさんが窓から戻ると、彼女は満面の笑みで立っていて、俺はおとなしく汗だくで並んでいた。おじさんはびっくりして言った。

「誰だい、これは?」

「さて、誰だと思う?」

「さっぱり分からん。誰だ?」

トム・ソーヤーよ!」

なんてこった、俺は床に抜け落ちそうになった! でも、ここで抜けてる場合じゃない。おじさんは俺の手を握ってがっしり握手して、しかもずっと離さない。その間、ミセスはぐるぐる走り回っては泣いたり笑ったりしてるし、二人ともサイドやメアリーや家族の話を次から次へと浴びせてくる。

でも、もし彼らが喜んでたとしても、それ以上に俺が嬉しかった。だって自分が誰だかはっきり分かって、まるで生まれ変わったみたいな気分だった。それから二人は俺のことをがっちり捕まえて二時間は離さなかった。最後には、あごがもう動かなくなりそうなくらいしゃべりまくって、サワヤー家――というか、六家族分くらいの話を作り上げて話しこんだ。ホワイトリバー河口でシリンダーヘッドが吹っ飛んで、修理に三日かかった話もちゃんと説明した。それで大丈夫だったし、彼らには三日かかっても不思議じゃないと思わせられた。もしボルトヘッドだって言ってたとしても、同じくらい通じただろう。

これで俺は、体の半分はすごく居心地が良かったけど、もう半分は居心地が悪かった。トム・ソーヤーになりきるのは簡単で気楽だったけど、それもそのまま続いた。でもそのうち、川を下ってくる蒸気船の音が聞こえてきた。そこで俺は「もしトム・ソーヤーがこの船でやって来て、ここに飛び込んできて、こっちが合図する前に俺の名前を呼んだりしたらどうしよう」って考えた。絶対そんなことになっちゃ困る。何としても道で待ち伏せしないと。それで「町まで荷物を取りに行く」と言って出かけることにした。おじさんも一緒に行こうとしたが、俺は「馬車は自分で運転できるし、ご迷惑はおかけしたくない」と言って断った。

第三十三章

そうして俺は馬車で町に向かった。途中でちょうど向こうから馬車が来るのが見えて、案の定、それはトム・ソーヤーだった。俺は止まって待ってたんだが、トムがやってきて俺が「待てよ!」と声をかけると、トムの口がまるでトランクみたいにぽかんと開いたままだった。何度か喉をゴクリとやってから、こう言った。

「俺はお前に何の悪さもしたことないだろ? なのになんで俺を化かしに戻ってきたんだ?」

俺は言った。

「戻ってきたんじゃない。もともとどこにも行ってなかったんだ」

俺の声を聞いて、トムは少し落ち着いたみたいだったけど、まだ完全に納得した様子じゃない。それで、

「ふざけるなよ、俺はお前に何にも仕掛けたりしない。ほんとに、幽霊じゃないんだな?」

「ほんとに幽霊じゃないさ」

「そりゃ……そうだよな。でも、どうしても訳が分からない。なあ、お前、本当に殺されたりしてなかったのか?」

「いや、全然。俺は殺されてなんかなかった。みんなをだましただけだよ。信じられなきゃここに来て触ってみろよ」

トムは俺の体を触った。それで納得したらしくて、再会できたのが嬉しくて仕方ないみたいだった。すぐに全部聞きたがったけど、大冒険で謎だらけだから、彼の大好物なんだ。でも、俺は「今はやめとけ、あとで話す」と言って、御者に待たせて二人だけになって、俺の置かれてる状況を話してどうすればいいか相談した。トムは「ちょっと黙っててくれ」と言って考え込んで、しばらくしてこう言った。

「大丈夫、分かった。俺のトランクをお前の馬車に積んで、それがお前の荷物だってことにしろ。それから、お前はゆっくり戻って、家に着くのがちょうどいい時間になるようにすればいい。俺は町の方へちょっと行ってからもう一度出発して、お前の二十分か三十分あとに着く。最初は俺を知らないふりしてていいからな」

俺は言った。

「分かった。でも、もうひとつ重大なことがある。これはしか知らないことだ。実は、ここに黒人が一人いて、俺はそいつを奴隷から逃がそうとしてる。名前はジム――ミス・ワトソンのジムだ」

トムは、

「何だって! ジムは――」

と言いかけて、黙って考え込んだ。俺は言った。

「どうせお前は言うだろ。こんなことは汚い仕事だって。でも、たとえそうでも、俺は汚れた奴だし、ジムを盗み出すつもりだ。だから、頼むから口をつぐんでてくれ。約束できるか?」

トムの目が輝いて、こう言った。

俺も一緒に盗み出す!」

その時は、ほんとに驚いて腰が抜けるかと思った。人生でこんなセリフを聞いたことがなかったし、正直トム・ソーヤーのことをちょっと見直しちまった。信じられなかった。トム・ソーヤーが黒人泥棒になるなんて! 

「冗談だろ」と俺は言った。

「冗談なんかじゃないさ」

「じゃあさ」と俺は言った、「冗談でもなんでも、もし逃げた黒人の噂を聞いても、お前は何も知らない、も知らないって絶対言うなよ」

それから俺たちはトランクを俺の馬車に積んで、トムは自分の道へ、俺も自分の道へ進んだ。でも、嬉しさといろんな考えでいっぱいだったせいで、ゆっくり帰るのをすっかり忘れてしまい、家に着くには早すぎるくらいの時間で戻ってしまった。おじさんは玄関で待っていて、俺に声をかけた。

「なんてこった! こんな芸当があの雌馬にできるなんて、誰が想像しただろう? 時計で計っておけばよかったな。それに、汗ひとつかいてない――一本の毛すら濡れてない。驚きだよ。今じゃこの馬、百ドル出されても売らない――本当に、絶対に売らないね。さっきまでは十五ドルで手放してもいいと思ってたくらいだし、それがこの馬の値打ちだと思ってたんだ。」

それだけしか言わなかった。あんなに純粋で、いいおじいさんは見たことがなかった。でも、別に驚きじゃなかった。だって、ただの農夫ってだけじゃなく、牧師でもあったからだ。プランテーションの裏手に自分の金で建てた小さな一頭立て用の丸太造りの教会を持ってて、それを教会と学校に使っていたし、説教も無償でやって、それだけの価値があった。他にも南部にはそういう農夫牧師がたくさんいて、同じようなことをしていた。

三十分ほどすると、トムの馬車が表の石段まで乗り付けてきて、サリーおばさんは窓からそれを見た。だって、五十ヤードくらいしか離れてなかったからな。おばさんがこう言った。

「まあ、誰か来たみたいだよ! 誰だろうね? 見知らぬ人みたいだよ。ジミー」(それは子供の一人だ)「リズに言って、昼食の皿をもう一つ用意してもらいなさい。」

みんなが一斉に玄関に駆け出した。だって、よそ者なんて年に一度も来るもんじゃないから、来たら黄熱病なんかよりよっぽど話題になるんだ。トムは石段を越えて家に向かって歩き始めた。馬車は村へ向かって道を飛ばして行き、俺たちは皆、玄関に固まってた。トムはよそ行きの服を着ていて、観衆――これがトム・ソーヤーには何よりも嬉しい状況だった。こういう時は、彼にとって何の苦もなく、ふさわしいだけの格好つけができるってもんだ。羊みたいにおとなしく庭を上がってくる子じゃない。いや、堂々と、重要人物みたいに歩いてくる。俺たちの前に来ると、トムは帽子を実に優雅に、そっと持ち上げて――まるで箱の蓋に寝てる蝶を起こさないようにするみたいに――そして言った。

「アーチボルド・ニコルズさんでいらっしゃいますか?」

「いや、坊や」とおじいさんは言った。「残念だが運転手に騙されたようだよ。ニコルズさんの家はここからさらに三マイルほど下るんだ。さあ、中にお入り。」

トムは肩越しに後ろを見て、「もう遅い――馬車は見えなくなった」と言った。

「そうだとも、もう行っちまったよ。だからよかったら、うちで昼飯を食べなさい。食べてから馬を繋いで、ニコルズさんのところまで送ってあげよう。」

「そんな、ご迷惑をおかけするわけにはいきません。歩いていきます――距離なんて気にしませんから。」

「だめだよ、歩かせるわけにはいかない――南部のもてなしってもんがある。さあ、遠慮せずに。」

「そうよ、入ってちょうだい」とサリーおばさん。「迷惑どころか、ぜんぜん手間じゃないの。必ず泊っていって。三マイルは遠いし、ほこりっぽいし、絶対に歩かせるわけにはいかないわ。それに、あなたが来るのが見えた時にもう皿を一つ追加するよう頼んであるのよ。だから断ったら困るわ。さあ、中に入ってくつろいで。」

トムは本当に気持ちよくお礼を言って、説得されて中に入った。中に入ると、オハイオ州ヒックスヴィルから来た見知らぬ者で、名前はウィリアム・トンプソンだと言って、また丁寧にお辞儀をした。

で、トムはヒックスヴィルやそこの人々について、思いつくまま作り話を延々と続けた。俺はちょっと落ち着かなくなってきて、これが俺の窮地をどう助けてくれるんだろうと考えていた。そんな中で、しゃべりながら、いきなりサリーおばさんにキスをしたんだ。しかも口にだぞ。それからまた椅子にゆったりと座り直して、話を続けようとした。おばさんは立ち上がって、手の甲でキスを拭って、こう言った。

「なんて生意気な小僧だい!」

トムはちょっと傷ついた顔をして、こう言った。

「驚きましたよ、おばさん。」

「驚いたって――あたしゃ何だと思ってるんだい? まったく、どういうつもりでキスなんかしたんだい?」

トムは少し恐縮した様子で、

「何も悪気はなかったんです、おばさん。あなたが喜ぶかと思って……」

「この、生まれついての馬鹿者!」おばさんは糸車の棒を手に取って、もう少しで本気で殴りかかりそうな勢いだった。「なんで私がそんなことを喜ぶと思ったのさ?」

「さあ……でも、みんなが……そう言ってました。」

「みんなが? 誰がそんなこと言ったんだい?」

「ええと、みんなです。全員がそう言いました。」

おばさんは必死で怒りを抑えていたけど、目はギラギラして、指はトムをひっかきそうに動いていた。そして言った。

「“みんな”って誰だい? 名前を言わなきゃ、今すぐにでも一人馬鹿が減るよ。」

トムは立ち上がって困った顔をし、帽子をいじりながら言った。

「すみません、本当に予想外でした。みんなが言ったんです。みんなが、キスしろって、喜ぶはずだって。全員がそう言ったんです。でも本当にごめんなさい、もう二度としません。本当です。」

「二度としないんだね? そりゃ結構!」

「本当です、おばさん。もう絶対しません――あなたが頼まない限り。」

「私が頼むまで! こんな馬鹿げた話、生まれてこの方聞いたこともないよ! あんたが頼まれるなんて、よっぽどの間抜けがこの世に現れてからだろうさ。」

「いやあ、本当にびっくりしました。どうしても納得できません。みんながそう言ってたから、てっきりそうだと思ったんですが……」トムはそこで話を切って、ゆっくり周囲を見回し、誰か味方がいないか探すようにして、ついにおじいさんの目に止まって言った。「おじさんも、僕がキスしたらおばさんが喜ぶと思いませんでしたか?」

「いやあ、いや……いや、思わなかったな。」

それからトムは同じように俺の方を見て、

「トム、お前はサリーおばさんが両手を広げて『シッド・ソーヤー――』って言うと思わなかったか?」

「まあ!」とおばさんは叫んでトムに飛びついた。「このずるい子、よくも人をだましたね――」そして抱きしめようとしたけど、トムはおばさんを押しやって言った。

「いや、頼まれるまではだめです。」

おばさんはすぐ頼んだので、抱きしめてキスを何度も何度もした。それから今度はおじいさんにも回して、そっちでも歓迎された。そして少し落ち着いたころ、おばさんは言った。

「まあ、本当に驚いたよ。あんたが来るなんて思ってなかった。トムだけだって、妹からしか聞いてなかったもの。」

「それは、トム以外は誰も来るつもりなかったからです」とトムは言った。「でも、どうしても来たくて頼み込んで、ぎりぎりで許してもらえたんです。だから川を下って来る途中、トムと二人でここに先にトムが来て、あとで俺が見知らぬ顔して来れば、きっと面白いだろうって思ったんです。でも、間違いでしたよ、おばさん。よそ者が来るには健康的じゃありません。」

「そうさ、ふざけたガキはね。あんたの頬をひっぱたいてやればよかったのに。こんなに驚かされたのは久しぶりだよ。でも、もうどうでもいいや、そのくらいの悪ふざけ、千回ぐらいあっても、あんたに会えるなら我慢するさ。ほんとに、あの仕打ちにはびっくりしすぎて、石みたいに固まっちゃったよ。」

昼食は、家と台所の間の広い通り抜けで食べた。テーブルには七家族分はあるんじゃないかってくらい料理が並んでた――しかも全部熱々だ。じめじめした地下室に一晩置いて、朝になると人肉の塊みたいな冷たくて固い肉なんかじゃない。サイラスおじさんはかなり長いお祈りをしたけど、それだけの価値はあったし、よくある「中断」で冷めることもなかった。午後はずっと賑やかにおしゃべりして、俺とトムはずっと耳を澄ませてたけど、誰も逃亡奴隷の話はしなかった。こちらから話題を振るのも怖かった。ところが夜の食事で、子供の一人が言った。

「パパ、トムとシッドと僕でショーに行ってもいい?」

「だめだ」とおじさん。「たぶんもうやってないだろうし、もしやってても、お前たちは行けないぞ。逃げた黒人が、あの悪質なショーのことをバートンと俺に全部話してくれたからな。バートンがみんなに知らせるって言ってたし、もう町からあのふざけた連中を追い出した頃だろう。」

これで全てが分かった! ――でも俺にはどうしようもなかった。トムと俺は同じ部屋、同じベッドで寝ることになってた。だから、疲れてたし、晩飯の後すぐにおやすみを言って、自分たちの部屋に上がり、窓から外に出て避雷針を伝って降り、町に向かって急いだ。王様と公爵に誰も警告しないだろうと思ったから、俺が急いで知らせなきゃ、必ずひどい目に遭うと思ったんだ。

道中、トムは俺が殺されたってことになってた経緯とか、パプがすぐいなくなって二度と戻らなかったこと、ジムが逃げたときの大騒ぎについて教えてくれた。俺は俺で、王様と公爵の悪だくみや、できるだけ筏の旅の話もした。そして町に入って真ん中を抜けていくと――その時すでに八時半は過ぎてた――松明を持った大勢の人が怒号と共に押し寄せてきた。ものすごい叫び声や鍋を叩く音、ラッパの音が響いて、俺たちは道の端に避けてやり過ごした。その時俺は、王様と公爵が一本の棒の上にまたがされて運ばれているのを見た――いや、タールと羽根だらけで、もう人間に見えない化け物みたいだった。でかい軍帽みたいに見えた。見ていて吐き気がしたし、あんな哀れな悪党たちでももう二度と憎む気にはなれなかった。ひどい光景だった。人間って、本当に、互いに残酷になれるもんだ。

完全に間に合わなかった――もうどうにもならない。通りがかりの人に聞いたら、みんな知らん顔でショーを見に行き、王様が舞台でふざけている最中に合図が出て、観客全員で一斉に襲いかかったんだそうだ。

俺たちはそのまま家に戻った。気分はさっきまでとまるで違い、元気もなく、なんだか情けなくなって、まるで自分が悪いことしたような気がした――何一つしてないのに。でも、いつもそうだ。正しいことをしても間違ったことをしても、良心ってやつは全然理屈が通じなくて、どっちみち自分を責めるもんだ。もし俺がこんな良心みたいな頭の悪い犬を飼ってたら、毒でも盛ってやるさ。良心ってのは人間の内臓全部より場所を取るくせに、全く役に立たない。トム・ソーヤーもそう言ってる。

第三十四章

俺たちは話すのをやめて、考え込んだ。しばらくしてトムが言った。

「なあハック、なんで今まで気づかなかったんだろうな。俺、ジムがどこにいるか分かったかもしれない。」

「ほんとか? どこだよ?」

「あの灰小屋のそばの小屋だよ。なあ、昼飯の時、黒人の男があそこに食い物を運んでるの見なかったか?」

「ああ、見た。」

「その食い物、誰のためだと思った?」

「犬のためだと思った。」

「俺もそう思った。でも違ったんだよ。」

「なんで?」

「だって、スイカが入ってたから。」

「そうだったな――確かに見た。犬はスイカ食べないもんな。人間って、見てても気づかないことがあるもんだ。」

「黒人の男は中に入る時、南京錠を開けて、出た時にはまた掛けてた。それから俺たちが席を立つ頃におじさんに鍵を返してた――あれだ、絶対に同じ鍵だ。スイカは人間のため、鍵は囚人の証拠。こんな小さなプランテーションで、親切な人たちしかいないんだ。囚人が二人もいるなんて考えられない。ジムが囚人ってことだ。よし、探偵ごっこで突き止められてよかった。他のやり方なら全然面白くない。さあ、お前も頭使ってジムを奪い出す計画を考えろ。俺も考える。二人で一番いいのを採用しよう。」

こんな頭脳をガキが持ってるなんてすごいもんだ。もし俺がトム・ソーヤーの頭を持ってたら、公爵にも、蒸気船の航海士にも、サーカスの道化にも、何にだって絶対に交換しないさ。俺も一応考えてみることにしたけど、本気じゃなかった。正しい計画がどこから来るか、分かりきってたからだ。しばらくしてトムが言った。

「準備できたか?」

「ああ。」

「よし、言ってみろ。」

「俺の計画はこうだ。まず、あの小屋の中身が本当にジムか確かめる。それから明日の夜、俺のカヌーを用意して、イカダを島から引き寄せる。そして、夜が暗くなったら、おじさんが寝た後にズボンから鍵を盗んで、ジムと一緒にイカダで川を下る。昼間は隠れて、夜だけ進む。前にジムとやったのと同じだ。これでうまくいくだろう?」

「うまくいく? そりゃ、間違いなくうまくいくさ。だけど、あまりにも単純すぎる。面倒がなさすぎてつまらん。こんな計画、石鹸工場に忍び込むより騒ぎにならんぞ。」

俺は何も言わなかった。だって、こうなると分かってたもんだ。トムが自分の計画を出す時には、絶対に俺の案にはない“難しさ”があるんだ。

で、実際そうだった。トムの案を聞いた瞬間、そのスタイルは俺の十五倍はカッコいいし、ジムを自由にする力も同じくらいある上に、下手をすりゃ俺たち全員殺されかねないくらいだった。だから俺は満足して、「それで行こう」と言った。ここで内容を書かないのは、どうせその通りにはならないと分かってたからだ。トムのことだ、やりながら何度もあちこち変えるに決まってるし、カッコいいアイデアを思いつくたびに追加するはずだから。そして、実際そうなった。

ただ一つ確かなのは、トム・ソーヤーが本気で、奴隷のジムを盗み出す手伝いをする気だってことだ。それが俺にはどうにも理解できなかった。ちゃんとした育ちで、名誉もあるし、家族も立派な評判を持ってる。頭も良くて、無知じゃないし、根性も親切心もちゃんとある。そんな奴が、少しのプライドも正義感も持たずに、こんなことに手を染めて、自分も家族も世間の笑いものにしようってんだから。どうしても納得できなかった。とんでもないことだし、友達なら止めるべきだし、今すぐやめさせてやるのが本当なんだろうと思って、実際そう言いかけた。けど、トムは俺の口をふさいで言った。

「俺が自分のやること分かってないと思うか? 普段、分かってないことなんかあるか?」

「ないよ。」

「俺が奴隷を盗む手伝いするって言ったろ?」

「ああ。」

「なら、それでいい。」

それだけ言って、俺もそれしか言わなかった。これ以上言っても無駄だった。トムがやるって言ったら、必ずやる奴だから。でも、俺にはどうしてもなぜトムがこんなことに首を突っ込む気になったのか分からなかった。だからもう黙って、気にしないことにした。トムがどうしてもやると言うなら、俺にはどうしようもない。

家に帰ると、家中真っ暗で静かだった。そこで俺たちは灰小屋のそばの小屋へ行って調べることにした。庭を抜けて、犬がどうするか様子を見たけど、俺たちを知ってるから、夜に何か通る時によくあるくらいの吠え方しかしなかった。小屋に着くと、正面と両側を調べてみた。俺が知らなかった北側を見たら、結構高い位置に四角い窓穴が一つあって、太い板が一本、斜めに釘で打ち付けてあった。俺は言った。

「これが証拠だ。この穴、板をこじ外せばジムが通れるだけの大きさがある。」

トムが言った。

「三目並べより簡単、学校をさぼるより楽だ。ハック・フィン、俺たちはもっとややこしい方法を見つけるべきじゃないか、って思うよ。」

「じゃあさ」と俺は言った。「この前俺が殺されたときみたいに、のこぎりで切り出すってのはどうだ?」

「そっちの方がいい」とトムが言った。「ミステリアスだし、手間もかかるし、面白い」と彼は言った。「でもな、たぶんもっと時間のかかる方法が見つかると思うぜ。急ぐことはない、もう少し探してみよう。」

小屋と柵の間、裏手には、軒先で小屋とつながってる、板で作った物置小屋があった。小屋と同じ長さだけど幅は狭くて、たった六フィートくらいしかなかった。入口は南端にあって、南京錠で閉まっていた。トムは石鹸鍋のあたりを探して、小屋の蓋を持ち上げる鉄の道具を見つけて、それを使って掛け金の一つをこじ開けた。鎖が外れて、俺たちはドアを開けて中に入り、閉めて、マッチを擦った。中は小屋にくっついてるだけで、つながってはいなかった。床もなく、中には古びて錆びたクワやシャベルやツルハシ、それに壊れた犂があるだけだった。マッチが消えたから、俺たちも外に出て、また掛け金をはめて、ドアを元通りしっかり閉めた。トムは大喜びだった。こう言った。

「これでよし。俺たちがジムを掘り出すんだ。だいたい一週間くらいかかるぜ!」

それから俺たちは家の方に向かって歩き出した。俺は裏口から入った――ドアは留めてなくて、鹿皮の紐を引けば開く――でもトム・ソーヤーにはロマンチックさが足りなかった。彼はどうしても避雷針を登らなくちゃ気が済まなかった。でも三回くらい登っては途中で落ちて、最後のときはほとんど頭を割りそうになった。それで諦めるかと思いきや、少し休んだあと「もう一度だけ運に賭けてみる」と言って、今度は登りきった。

朝になると、夜明けと同時に起きて、黒人小屋に行って犬を撫でたり、ジムに餌をやる黒人と仲良くなろうとした――もし本当にジムに餌をやってるのがその黒人なら、だけど。他の黒人たちは朝食を終えて畑に行きかけていた。ジムの世話係はブリキの皿にパンや肉などを盛っていた。みんなが去る頃、家から鍵が渡された。

その黒人は、愛想が良くてちょっとおバカそうな顔つきで、髪の毛は糸で小さな束にまとめてあった。あれは魔女除けだってさ。夜な夜な魔女に悩まされて、変なものが見えたり、変な声や音が聞こえたりして、これまでこんなに魔女にやられたことはないと言っていた。すっかり興奮して自分の悩みを話し始めたら、やることをすっかり忘れてしまった。だからトムが言った。

「その餌は何のためだ? 犬にやるのか?」

黒人は顔じゅうに徐々に笑みを浮かべて、まるで泥水に石を投げ込むようにニヤリとして言った。

「ええ、サー・シド、犬です。変わった犬ですよ。見に来ますか?」

「うん。」

俺はトムの脇をつついて、小声で言った。

「夜明けに行くのか? それは予定になかっただろ。」

「いや、なかったけど、今はそれが予定だ。」

仕方なく一緒に行ったけど、あんまり気が進まなかった。中に入るとほとんど何も見えないくらい暗かったが、確かにジムがいて、俺たちを見つけて、叫んだ。

「おい、ハック! なんてこった、トムじゃねぇか!」

やっぱりこうなると思ってた。俺はどうしたらいいか分からなかったし、何かできたとしても、黒人が割って入ってきて言うもんだからどうしようもなかった。

「なんてこった! この人、あんたたちを知ってるんですか?」

だいぶ目が慣れてきて、トムは黒人をじっと、不思議そうに見つめてから言った。

「誰が俺たちを知ってるんだ?」

「この逃亡奴隷ですよ。」

「そうは思わないけど、なんでそう思ったんだ?」

「なんでって? ちょうど今、あんたたちのことを知ってるみたいに叫んだじゃないですか?」

トムは困った顔をして言った。

「それはおかしいな。誰が叫んだんだ? いつ叫んだ? なんて叫んだ?」そう言って、落ち着き払って俺に聞く。「お前、誰かが叫ぶの聞いたか?」

もちろん言うことは一つしかなかったので、俺は言った。

「いや、俺は誰も何も言うのを聞いてない。」

それからトムはジムの方を向いて、初めて会ったみたいにじろじろ見てから聞いた。

「君が叫んだのか?」

「いいえ、旦那様、何も言ってません。」

「一言も?」

「いいえ、旦那様、一言も。」

「今までに俺たちを見たことがあるか?」

「いいえ、旦那様、俺の知る限りありません。」

それでトムは、怯えて困り果ててる黒人の方を向いて、ちょっと厳しい口調で言った。

「お前、一体どうしたっていうんだ? なんで誰かが叫んだと思ったんだ?」

「ああ、旦那様、それは全部魔女のせいです。本当に死にたいくらいです。いつもこうなんです、旦那様。もう俺を殺すくらい怖がらせるんです。どうか誰にも言わないでください、旦那様。サイラス旦那様に知られたら叱られます。あの人は『魔女なんかいない』って言うんです。今ここにいれば、どう言い訳するか知りたいもんです。たぶん今回はどうやっても誤魔化せませんよ。でも、いつだって同じです。頑固な人は何があっても調べようとしないし、こっちが何か発見しても信じません。」

トムはその黒人にダイム銀貨を渡して「誰にも言わないよ」と言い、髪を縛る糸を買うように言った。それからジムの方を見て、こう言った。

「サイラスおじさんはこの黒人を絞首刑にするつもりかな。俺だったら、恩知らずで逃げ出すような黒人を捕まえたら、渡さずに自分で吊るすよ。」そして、黒人が銀貨をかみ砕いて確かめてる間に、トムはジムに小声でささやいた。

「絶対に俺たちを知ってるそぶりをするなよ。夜中に掘る音が聞こえたら、それは俺たちだ。お前を助け出すんだ。」

ジムは俺たちの手をギュッと握るのが精いっぱいだった。すぐに黒人が戻ってきて、俺たちは「また来るよ」と言い、黒人は「ぜひお願いしたい、特に暗い時なら。魔女はたいてい夜来るから、その時に誰かいてくれると助かる」と言ってた。


第三十五章

朝食までにはまだ一時間ほどあったので、俺たちは森へ向かった。トムが言うには、掘るのに必要な明かりがいるが、ランタンだと明る過ぎて危険だという。必要なのは、腐った木片――フォックスファイアと呼ばれるやつで、暗い所に置くとほんのり光る。俺たちはそれを両手で抱えるだけ集めて、草の中に隠して休憩した。トムはちょっと不満そうに言った。

「まったく、この計画、簡単すぎて間抜けみたいだ。難しい計画を立てる方がよっぽど大変だよ。見張りがいて薬で眠らせるとか、そういうのが本来は必要なのに、ここには見張りもいない。犬に眠り薬を盛る必要もない。ジムは片足を十フィートの鎖でベッドの脚に繋がれてるけど、ベッドを持ち上げて鎖を外せばいいだけ。サイラスおじさんは誰でも信用して、鍵をあのカボチャ頭の黒人に預けて、見張りもつけない。ジムだって、こんな窓穴からとっくに逃げられたのに、足に鎖があるから逃げなかっただけさ。まったく、ハック、こんなくだらない設備は見たことがない。こっちで全部困難をでっちあげなきゃいけないんだ。仕方ないから、ある材料で精いっぱいやるしかない。だけど一つだけ言える――用意された困難や危険でなく、自分たちの頭で全部作り出して脱出させる方がよっぽど名誉がある。ほら、このランタンのこと一つ取ってもそうだ。現実を言えば、ランタンは危険ってことにしとかなきゃいけない。でも本当はたいまつ行列でやってもいいくらいだと俺は思うよ。あ、そうだ、のこぎりにできるものも探さなきゃな。」

「なんでのこぎりがいるんだ?」

「なんでって? ジムのベッドの脚を切って、鎖を外すためだろ?」

「でも、ベッドを持ち上げて鎖を外せるってさっき言ったじゃないか。」

「まったく、お前ってやつは、ハック・フィン。幼稚園みたいな発想でやろうとするなんて。本を読んだことないのか? ――バロン・トレンクやカサノヴァ、ベンヴェヌート・チェリーニやアンリ四世、そういう英雄たちの話さ。捕まった囚人をそんなおばさんみたいなやり方で逃がしたなんて聞いたことあるか? 違う、ちゃんとしたやり方は、ベッドの脚をのこぎりで切って、切り口はそのままにしといて、おがくずは飲み込んじまう。そしたら誰にもバレないし、土や油を擦り付けて、どんな鋭い執事でも見破れないくらいにしとく。それで逃げる夜になったら、ベッドの脚を蹴飛ばして倒し、鎖を外して、あとは綱梯子を城壁にかけて滑り降りて、堀で足を折る――だって綱梯子は十九フィート短いからな――そしたら馬と忠実な家臣たちが拾って鞍に乗せて、故郷ラングドックやナヴァール、どこでも連れて行ってくれるってわけさ。これぞ冒険だ、ハック。ここに堀があればよかったのにな。もし逃げる夜に時間があれば、俺たちで掘っちゃおうぜ。」

俺は言った。

「小屋の下から匍匐で逃がそうとしてるのに、なんで堀がいるんだ?」

でもトムは俺の声なんて聞こえてない。俺のことも他のことも全部忘れて、顎に手を当てて考え込んでた。やがてため息をついて首を振り、またため息をついて、こう言った。

「いや、駄目だ――必要性が足りない。」

「何が?」と俺。

「ジムの足をのこぎりで切ることだよ。」

「なんだと! そんな必要ないだろ。それに、なんでわざわざジムの足を切るんだ?」

「いや、もっとすごい英雄たちはそうしてるんだ。鎖が外れないと、手を切り落として出るやつもいる。足ならなおさらだ。でもそれはやめとこう。今回は必要性が足りないし、それにジムは黒人だから、そういうヨーロッパ式の理由なんて理解できないだろうし。だからやめとく。でも一つだけ――綱梯子は用意してやれる。シーツを裂けば簡単に作れる。それをパイに入れて送ろう。だいたいそうやるもんさ。俺はもっとひどいパイでも食ったことあるぜ。」

「なんだよ、トム・ソーヤー、変なこと言うなよ。ジムには綱梯子なんて必要ないだろ。」

「必要だよ。お前の方こそ分かってない。ジムには絶対に必要なんだ。みんなそうなんだ。」

「一体何に使うんだよ?」

「使うって? ベッドの下に隠しとけばいいんだよ。みんなそうしてる。ジムもそうしなきゃいけないんだ。ハック、お前はいつも規則通りに物事をやろうとしない。やることなすこと、新しいことばっかりだ。仮に使わなくてもどうだ? ベッドの下に証拠品として残るだろう? 逃げた後、証拠があったらみんな大騒ぎするだろう? それを残さないなんて、変な話だろ? そんなの聞いたことない。」

「ま、規則なら仕方ない。綱梯子を持たせよう。でもな、トム・ソーヤー、もしシーツを裂いて綱梯子作ったら、サリーおばさんに絶対バレて怒られるぞ。俺としては、ヒッコリーの樹皮で綱梯子作ればタダだし無駄もないし、パイに詰めてもベッドに隠しても同じだと思うんだけどな。ジムだって経験がないから、どんな――」

「もう、ハック・フィン、お前みたいに無知だったら、黙ってた方がいいよ。ヒッコリー樹皮の綱梯子で脱獄した囚人なんて聞いたことない。そんな馬鹿げた話あるか。」

「わかったよ、トム、お前の好きにしろ。でも俺なら、洗濯物のシーツを一枚借りてくるかな。」

それでトムは「それでいい」と言った。それでまた思いついて、こう言った。

「シャツも借りよう。」

「なんでシャツがいるんだ?」

「ジムに日記をつけさせるんだ。」

「日記って、お前……ジムは字が書けないぞ。」

「書けなくても、印くらいつけられるだろ。俺たちが古いピューターのスプーンとか鉄くずでペンを作ってやれば。」

「ガチョウの羽を抜いてやれば、もっといいのが簡単にできるよ。」

「囚人はダンジョンの中でガチョウなんて飼ってないんだぜ。普通は一番硬くてやっかいな真鍮の燭台とかを手間ひまかけて壁で削ってペンを作るんだ。何週間も何か月もかけてな。それが正式なやり方だ。ガチョウの羽なんか使うもんか。」

「じゃあ、インクはどうするんだ?」

「多くの囚人は鉄さびと涙で作る。でも女や凡人のやり方だ。本物は自分の血を使うんだ。ジムもそれでいい。で、何か世界に向けて謎めいたメッセージを送りたくなったら、缶皿の裏にフォークで書いて窓から捨てればいい。鉄仮面の男もそうしてたし、すごくいい方法だ。」

「ジムには缶皿なんかないぞ。パンで食事してる。」

「そんなの問題じゃない。俺たちが手に入れてやる。」

「誰もその皿を読めないじゃないか。」

「そんなの関係ない、ハック・フィン。ジムは書いて捨てればいいんだ。読める必要なんてない。囚人の書いた皿なんて、半分くらい誰も読めやしない。」

「じゃあ、皿がもったいないじゃないか。」

「そんなこと関係ないさ、それは囚人の皿じゃない。」

「でも、誰かの皿には違いないだろ?」

「だから何だっていうんだ? 囚人が気にするわけ――」

そこで会話は途切れた。朝食の合図のホルンが鳴ったからだ。だから、俺たちは家に向かって急いだ。

朝のうちに俺は物干しからシーツと白いシャツを借りた。それから古い袋を見つけて、それに入れた。そんで、俺たちは下に降りてホタル石を手に入れ、それも袋に詰めた。俺はこれを「借りる」って言ってたけど、それはパプがいつもそう言ってたからだ。だけどトムは、それは借りるんじゃなくて盗むんだって言った。囚人を演じてるんだから、囚人は手に入れさえすれば手段なんて気にしないし、誰も責めやしないんだって。トム曰く、囚人が脱出のために必要なものを盗むのは罪じゃなくて権利だ、と。だから、俺たちは囚人を演じてる間は、この場所で脱出に使えそうなものはなんだって盗んでいいことになるんだってさ。もし囚人じゃなかったら話は別で、そんなときに盗みを働く奴はろくでもないやつしかいないんだと。それで俺たちは、手近にあるもんは全部盗むことに決めた。

けど、そんなくせに、あとで俺が黒人用の畑からスイカを盗んで食ったとき、トムは大騒ぎしたんだ。それで俺に、そのスイカのことを何も言わずに黒人たちにダイム銀貨を渡してこいって命じやがった。トムは「必要なものだけ盗んでよかった」って意味だったと言い訳した。俺は「俺にはそのスイカが必要だった」と言ったけど、トムは「脱出に必要じゃなきゃダメなんだ」と言った。もし俺がそれにナイフを隠してジムにこっそり渡して看守を殺すためだったら問題なかったって。それで俺は、こんな風にスイカ一玉盗むたび、金箔みたいに細かい理屈を噛みしめなきゃならないくらいなら囚人を演じる意味がないなと、思っただけだった。

さて、朝の話に戻るけど、みんなが仕事に取りかかって、庭に誰もいなくなったのを見計らって、トムは袋を納屋の片隅に運び込んだ。俺はちょっと離れたところで見張りをした。やがてトムが出てきて、俺たちは薪の山に座って話し込んだ。トムがこう言った。

「今のところ道具だけが足りない。でもそれはすぐに用意できる」

「道具?」と俺。

「ああ」

「何の道具だ?」

「掘るためのさ。まさか歯でかじって穴あけるつもりじゃないだろ?」

「納屋の中にある古くて壊れかけたツルハシとか、あれで黒人を掘り出すのはダメなのか?」と俺は言った。

トムは呆れた顔で俺を見て、涙が出そうなくらい憐れみ深くこう言った。

「ハック・フィン、囚人がツルハシやシャベルやら、近代的な設備を衣装ダンスに持ってるなんて話、聞いたことあるか? 俺はお前に聞きたいんだ――少しでも道理が分かってるなら――それじゃあ英雄になれる見せ場がどこにある? それじゃあ鍵でも貸してやるのと同じだろ。ツルハシやシャベルなんて王様だって持たせてもらえやしないよ」

「じゃあ、そのツルハシやシャベルじゃなくて、何がいるんだ?」

「ペーパーナイフが二本」

「納屋の基礎をそれで掘るってのか?」

「ああ」

「冗談だろ、トム。馬鹿げてるぞ」

「馬鹿げてようが関係ない。それが『正しい』やり方で、しかもそれが『本筋』なんだ。他にやり方なんて聞いたことないぞ。俺はそういう話が出てくる本は全部読んでるけどな。いつだってペーパーナイフ――しかも土じゃなくて、たいていは岩盤を掘るんだ。それで何週間も何週間も、何年もかかる。マルセイユの港にあるイフ城の地下牢の囚人なんて、そうやって掘り出して、どれくらいかかったと思う?」

「知らない」

「じゃあ当ててみろ」

「一か月半くらい?」

「三十七年――で、出てきたら中国だった。それが正しいやり方ってもんさ。俺はこの牢の底も岩でできてたらよかったのに」

「ジムは中国に知り合いなんていないぞ」

「それが何だって言うんだ? あの囚人だっていなかったさ。でもお前っていつも話が横道にそれるよな。話の本筋に集中してくれよ」

「分かったよ――俺はどこから出てきたって構わないし、ジムだって同じだろうさ。でも一つだけ言っておく――ジムはペーパーナイフで掘り出すには年をとりすぎてる。持たないぞ」

「いや、持つさ。土の基礎を掘るのに三十七年もかかるとでも思ってるのか?」

「じゃあ、どれくらいで掘れるんだ、トム?」

「本当は、もっと時間かけるべきなんだろうけど、南部のニューオーリンズからの連絡が早く来るかもしれないから、サイラスおじさんにジムがそこ出身じゃないってバレるんだ。それで次はジムを広告に出したりするだろう。だから悠長に掘ってる暇はない。本来なら二年くらいかけるべきだが、今回ばかりは無理だ。だから俺の案は、できるだけ早く本気で掘って、終わったあとで自分たちの中だけで『三十七年かかった』ってことにしとけばいい。警告が出たらすぐジムを連れて逃げる。これが一番いいやり方だと思う」

「そりゃ筋が通ってるな」と俺は言った。「見せかけなんてタダだし、何の手間もかからない。必要なら百五十年でも掘ったことにするさ。慣れりゃどうってことない。じゃあ俺、ペーパーナイフ二本盗んでくるよ」

「三本盗んでこい」とトム。「一本はノコギリにする」

「トム、もし変でも罰当たりでもないなら言うけど、あそこの燻製小屋の裏の板壁の下に、古い錆びたノコギリの刃が突っ込んであるぞ」

トムはうんざりしたような顔で言った。

「お前に何かを教えようとしても無駄だな、ハック。いいからペーパーナイフ三本盗んでこい」 だから俺はその通りにした。

第三十六章

みんなが寝静まったと見計らって、その晩俺たちは避雷針を伝って下に降り、納屋の片隅に閉じこもって、集めておいたホタル石を出し、作業に取りかかった。底の丸太の真ん中辺りを四、五フィート分、何もかもどかしてスペースを作った。トムは今ジムのベッドのちょうど真後ろにいるって言って、そこから下に掘り進めば、穴があってもベッドカバーが地面すれすれまで垂れ下がってるから、めくって覗かない限り誰にもバレないと説明した。俺たちはペーパーナイフで夢中になって掘ったけど、真夜中近くになるころにはもうクタクタで、手には豆が出来て真っ赤。それでも、ほとんど何も掘れてなかった。とうとう俺は言った。

「これじゃ三十七年どころか、三十八年かかるぞ、トム・ソーヤー」

トムは何も言わなかった。ただため息をついて、しばらく黙って考えていた。やがて言った。

「ダメだ、ハック。これじゃうまくいかない。囚人なら、何年でもかけてじっくりやれるし、毎日見張り交代の隙にほんの数分だけ掘るから手も豆にならないし、何年でも続けられる。でも俺たちはのんびりやってられない、急がないといけない。もう一晩これやったら、一週間は手を休めないとダメなくらいだ」

「それじゃ、どうするんだ、トム?」

「言うよ。正しくもなければ道徳的でもないし、誰にも知られたくないが、方法は一つしかない。ツルハシで掘って、ペーパーナイフで掘ってるフリをするしかない」

「やっと分かったか!」俺は言った。「トム・ソーヤー、お前の頭はどんどんまともになってくるな。ツルハシこそが正解だ、道徳なんてクソ食らえ。俺は黒人を盗むときも、スイカを盗むときも、日曜学校の本を盗むときも、やり方なんて気にしたことない。ただ欲しいものが手に入ればそれでいい。ツルハシが一番早いなら、ツルハシで黒人でもスイカでも本でも掘り出すさ。世間の意見なんて、知ったこっちゃない」

「まあ、こういう場合だけはツルハシと見せかけも仕方ない。そうじゃなきゃ俺は賛成しないし、規則が破られるのも見過ごさない。正しいことは正しい、間違ってることは間違ってる。分かってて間違いをするのはダメだ。でもお前みたいに何も知らない奴が素でツルハシ使うのは仕方ないが、俺は知ってるからそうはいかない。ペーパーナイフをくれ」

自分のは持ってたけど、俺も自分のを渡した。トムはそれを投げ捨てて言った。

「ペーパーナイフをくれ」

俺はどうしたらいいかわからなかったけど、ひらめいた。道具箱をあさってツルハシを見つけ、トムに渡した。トムはそれを受け取って、黙って作業に取りかかった。

トムはいつだってこういうところが妙にこだわる。やたら信念が強いのだ。

俺はシャベルを手にして、交代でツルハシとシャベルを使いまくった。だいたい三十分くらいで、もう立っていられないほど疲れたけど、ちゃんと穴らしいものができていた。俺が部屋に戻って窓から外を見たら、トムが必死で避雷針を登ろうとしてたけど、手が痛みすぎて無理だった。とうとうトムは言った。

「無理だ、どうしても登れない。どうしたらいい、何か方法ない?」

「あるよ」と俺は言った。「規則通りじゃないかもしれないけど、階段から登って、避雷針ってことにしとけば?」

トムはその通りにした。

翌日、トムは家の中からピューター製のスプーンと真鍮のロウソク立てを盗んで、それをジムのためのペンにしようとした。それからロウソクを六本。それから俺は黒人小屋の周りをうろついて、タイミングを見てブリキの皿を三枚盗んだ。トムは「足りない」と言ったけど、俺は「ジムが窓の穴から投げた皿なんか誰も見つけやしない。どうせ下は雑草がいっぱいで皿は目立たない。俺たちで回収してまた使わせればいい」と説得した。トムも納得した。それからこう言った。

「さて、問題はどうやってジムに物を渡すかだ」

「穴ができたらそこから渡せばいいだろ」と俺は言った。

トムは呆れ顔で「そんな馬鹿げたアイデアを聞いたこともない」と言って、しばらく考え込んだ。やがて何通りか方法を考えたが、今すぐ決めなくてもいい、まずジムに事情を伝えないといけないと言った。

その晩、十時ちょっとすぎに俺たちは避雷針を伝って下に降り、ロウソクを一本持って窓の穴の下で耳を澄ませた。ジムのいびきが聞こえたので、ロウソクを放り込んだが起きなかった。俺たちはツルハシとシャベルで掘りまくり、二時間半かけて作業を終えた。ジムのベッドの下から這い出して納屋に入り、手探りでロウソクを見つけて火をつけ、しばらくジムを眺めて、元気そうなのを見てから、そっと起こした。ジムは俺たちを見て泣きそうなくらい喜んで、「ハニー」とか思いつく限りの愛称で呼んだ。そして今すぐ鉄鎖を切る鉄ノミを探してくれとせがみ、すぐにでもここを出ようとしたけど、トムは「それは規則違反だ」とたしなめて、俺たちの計画を全部説明した。警報が鳴ったらどう切り替えるか、絶対に逃がしてやるから安心しろ、と。ジムは納得して、昔話をしながらしばらく話し込んだ。それからトムがいろいろ質問し、ジムは「サイラスおじさんは一日おきくらいに祈りに来るし、サリーおばさんは快適か食事は足りてるか気遣ってくれる。二人とも優しくしてくれる」と答えた。するとトムは言った。

「これで決まりだ。二人を使って物を届ければいい」

俺は「そんなことするな、それは史上最大のバカげた案だ」と言ったが、トムは全く無視して計画を進めた。トムは一度考えが固まると、絶対に曲げないのだ。

だから、トムはジムにこう説明した。ロープのはしごや大きい物は、ジムに食事を運ぶ黒人のナットを使ってこっそり渡す、気をつけて受け取れ、ナットに開けるところを見られるな。小さい物はサイラスおじさんの上着のポケットに入れておくから、それをこっそり盗み出せ。サリーおばさんのエプロンのひもに縛ったり、ポケットに入れたりすることもあるから、そういう物があったら、何のためかも教える。シャツに血で日記を書く方法も説明した。全部きっちり教え込んだ。ジムは大抵のことに「さっぱり分からん」と言ったが、「白人様の言うことだから俺より分かってるはず」と納得して、トムの言う通りやると約束した。

ジムにはとうもろこしの芯のパイプもタバコもたっぷりあった。だから俺たちはすっかり打ち解けて楽しく過ごした。それから穴をくぐって帰って寝た。手は噛みちぎられたみたいだった。トムは大はしゃぎだった。「こんなに楽しくて頭を使うことは生まれて初めてだ。これができるなら一生やりたい。ジムは慣れれば慣れるほど気に入るようになる。八十年は続けられるぞ」と言っていた。みんな有名になるとさえ言っていた。

朝になって俺たちは薪の山に行き、真鍮のロウソク立てをちょうどいい大きさに切った。トムはそれとピューターのスプーンをポケットに入れた。それから黒人小屋に行き、俺がナットの注意を引き付けている間に、トムはジムの皿のコーンパンの中にロウソク立ての一片を突っ込んだ。そしてナットと一緒に様子を見にいった。ジムがかじると歯が折れそうになった。これ以上うまくいったことはない、とトムも満足げだった。ジムは「パンの中に石か何かが時々入ってるもんだ」と知らん顔をしてたが、それ以降、食べ物を食べる前は必ず三、四か所フォークで突き刺して確かめるようになった。

俺たちが薄暗い中に立っていると、突然ジムのベッドの下から犬が二匹飛び出してきた。どんどん押し寄せて、ついには十一匹にもなった。納屋の中は息もできないくらいだ。畜生、俺たちは納屋のドアを閉めるのを忘れてたんだ! 黒人のナットは「魔女だ!」と叫んで、犬の中に倒れ込んで、死にそうな声でうめき始めた。トムはすかさずドアを開けて、ジムの肉を投げ出した。犬たちはそれに飛びついた。トムはすぐさま外に出て、またすぐ戻ってきてドアを閉めた。もう一つのドアも閉めてあるのが分かった。そしたらトムはナットのところに行って、なだめたり励ましたり、「また何か見た気がしたのか?」と優しく声をかけた。ナットは起き上がって、目をしばたたかせながらこう言った。

「サイド様、俺のことアホやって思うかもしれへんけど、もし俺がさっき、犬か悪魔か、なんかよう分からんけど、百万匹くらい見たんやないかって思わんかったら、この場で死んでもええわ。ほんまや、間違いないで。サイド様、俺、感じたんや――ほんまに感じたんや、旦那。あいつら、全身にまとわりついてきよる。くそったれ、せめて一回でええから、あの魔女どものうちの一匹でも捕まえられたら――たった一回でええ、それだけが俺の願いや。でも一番は、もう放っといてほしい、それが本音や。」

トムが言う。

「じゃあ俺が思うに、何でその魔女どもは、ちょうどこの逃亡奴隷の朝飯どきにやってくると思う? 腹減ってるからや。それが理由や。だから魔女パイを作ってやればええ。それがお前の仕事やで。」

「でも、まあなんや、サイド様、俺、どうやって魔女パイなんて作ったらええんやろ? そんなもん作り方知らんし、聞いたこともないわ。」

「ほんなら、俺が自分で作るしかないな。」

「ほんまかいな、お坊ちゃん? ほんまに作ってくれるんか? そしたら俺、お坊ちゃんの足元にひれ伏して拝むで、ほんまに!」

「分かった、やってやるよ。お前が俺らに親切にしてくれて、逃亡奴隷のこと教えてくれたからな。でもしっかり気ぃつけろよ。俺らが来たときは、必ず背中向けとくんやで。それから、鍋に何か入れても、絶対見て見ぬふりしとけ。そしてジムが鍋を降ろすときも絶対見るな――何が起こるか分からんからな。あと一番大事なんは、魔女の道具には絶対手ぇ出したらあかん。」

「手ぇ出すやなんて、サイド様、何言うてるんや! 俺、指一本でも触らへんわ、たとえ百兆億ドルもろたって絶対いやや。」


第三十七章

これで段取りは全部決まった。そんで、俺たちは裏庭のゴミ置き場に行ったんや。そこには古いブーツやボロ布、割れた瓶のかけらや使い古しのブリキのガラクタなんかが山ほどあって、俺らはその中をひっかき回して、使い古しのブリキの洗面器を見つけて、穴をできるだけふさいで、パイを焼く準備をした。それを持って地下室に行って粉で満たし、朝飯を食いに戻る途中で、トムが囚人が牢屋の壁に名前やら悲しみやらをひっかくのに使えるって言う杉板の釘を二本見つけてきた。一つはサリーおばさんのエプロンのポケット(椅子にかかってたやつ)に、もう一つはサイラスおじさんの帽子のバンド(タンスの上にあった)に忍ばせた。子どもたちが「パパとママが今朝、逃亡奴隷の家に行く」って言うてるのを聞いたからや。それから朝飯を食いに行ったら、トムがピューターのスプーンをサイラスおじさんの上着のポケットに入れた。サリーおばさんはまだ来てなかったから、ちょっと待たなあかんかった。

やっとサリーおばさんがやってきたけど、顔を真っ赤にしてイライラしてて、食前のお祈りもろくに待てず、片手でコーヒーをじゃばじゃば注ぎながら、もう片手では手近な子どもの頭を指ぬきでコツンとやりながら言うた。

「上から下まで探したけど、ほんまに信じられへん、もう一枚のシャツがどこ行ったんやろ。」

俺の心臓は肺やら肝臓やらがあるところまで落ちていって、固いトウモロコシのパンのかけらも一緒に喉に落ちてきた。でも咳き込んでテーブルの向こうまで吹き飛ばしてしもて、それがひとりの子どもの目に当たって、釣りエサのミミズみたいに縮こまって、ものすごい声で泣き出した。トムも顔が青ざめて、何から何までえらい騒ぎになったけど、せいぜい十五秒かそこらのことやった。その時は、もし誰かが値切って買ってくれるなら、その場で半値で身売りしてもええってくらい焦ってた。でもすぐに元に戻った――不意打ちが冷や汗ものやっただけや。サイラスおじさんが言うた。

「こりゃまったく妙なことや、さっぱり分からん。ワシは、絶対脱いだはずなんや、だって――」

「だって、今一枚しか着てへんやろ。聞いたことある? この人も――あんたが脱いだのは私が昨日、物干し竿で見たからや! でももうない、それが話の要点や。新しいの作るまで赤いフランネルのに着替えてもらうしかないわ。これで二年で三枚目やで。あんたのシャツ作るのはほんま大変や。あんたがどうして全部なくしてまうんか、私には分からんわ。いい歳してちょっとは気ぃつけてくれたらええのに。」

「分かってるよ、サリー。でも努力はしてるんや。でも全部ワシばっかり悪いわけやない。だってワシ、着てる時しか見いひんし、使いもせんし、脱いだら何にも分からんのや。自分の体からなくした覚えなんて、一度もないと思うけどな。」

「自分に責任ない言うなら、サイラス、もし出来るならきっとなくしてるやろな。それにな、シャツだけやないで。他にもなくなってる。スプーンが消えたし、それだけやない。十本あったのが、今は九本しかあらへん。シャツは子牛が持ってったんやろけど、スプーンは子牛が取るわけないやろ、絶対に。」

「他に何がなくなったんや、サリー?」

「ろうそくが六本なくなった。それや。ネズミが持ってったかもしれんけど、まあそうやろな。あんたがいつも『穴をふさぐ』言うて結局やらへんから、この家全部持ってかれるな。バカなネズミじゃなかったら、あんたの髪の中で寝ててもあんた気付かんやろ。でもスプーンだけはネズミのせいにはできひん、それは分かってる。」

「サリー、ワシが悪い、認めるよ。怠けてた。でも明日までには絶対にあの穴をふさぐ。」

「あー、急がんでええ。来年で十分や。マチルダ・アンジェリーナ・アラミンタ・フェルプス!」

指ぬきがピシッと飛んで、子どもは砂糖壺から手を引っ込めた。ちょうどその時、黒人の女の人が廊下に出てきて言うた。

「奥様、シーツが消えてます。」

「シーツが消えた? なんとまあ!」

「今日中に穴ふさぐわ、」とサイラスおじさんが悲しそうな顔で言う。

「あー、もう黙ってよ! ネズミがシーツ盗んだって言うんか? どこに行ったんや、ライズ?」

「ほんまに分かりません、サリー奥様。昨日は物干しにあったけど、もうあらへん、今はもうおまへん。」

「世の中ほんまに終わるんやろか。こんなん生まれて初めてやわ。シャツにシーツ、スプーンに、ろうそく六本――」

「奥様、」と若い黄色い女の子が言う。「真鍮の燭台がなくなってます。」

「もう出ていきな、このしりがる娘! 鍋でぶったろか!」

まあ、サリーおばさんは怒り心頭やった。俺はチャンスがあれば、天気が落ち着くまで森に逃げようか思い始めてた。おばさんはひとりで怒鳴り続けてて、みんなは大人しくしてた。とうとうサイラスおじさんが、ばつの悪そうな顔してポケットからスプーンを取り出した。サリーおばさんは口を開けたまま、手もそのまま止まった。俺はエルサレムかどっかに消えてしまいたい思った。でもすぐ終わった、というのもサリーおばさんが言うたからや。

「やっぱり思った通りや。ずっとポケットにあったんやね。きっと他のもそこに入ってるんやろ? なんでそこに?」

「ほんまに分からんのや、サリー。もし分かっとったら教えるよ。朝飯前に使徒行伝十七章を読んでて、多分そのときうっかり入れたんやろな、新約聖書を入れるつもりで。そやけど聖書がないってことは、スプーンだけ持ってて――」

「あー、もうええわ! 少しは静かにして! みんな出ていき! 私が心穏やかになるまで近寄らんといて!」

おばさんが独り言で言ってもきっと聞こえてたし、たとえ死んでても立ち上がって言うこと聞いたやろう。それから俺たちは居間を通っていった。サイラスおじさんが帽子を取ったら、杉板の釘が床に落ちた。でもただ拾って暖炉の上に置いただけで、何も言わずに出ていった。トムはそれを見てて、スプーンのことを思い出して言うた。

「もうサイラスおじさんに物を託すのはやめとこう。頼りにならん。」それから、「でもスプーンの件じゃ知らずに俺たちを助けてくれたから、今度はこっちが恩返ししようや――あのネズミ穴ふさいでやろう。」

地下室にはネズミ穴が山ほどあって、一時間がかりで全部きっちりふさいだ。その後、階段の音がして、俺たちは明かりを消して隠れた。そこへサイラスおじさんが、片手にロウソク、もう一方に何か道具を持ってやってきた。去年のことのようにぼんやりした顔で、穴という穴を順繰りに見て回って、五分くらいロウソクの蝋をつまんでは考え込んでた。それからゆっくり夢うつつで階段の方へ行きながらつぶやく。

「ほんまにいつやったのか思い出せん。今ならサリーに、ネズミのせいやって証明できるのにな。まあええわ――どうせ意味ないし。」

そう言いながら階段を上がっていった。ほんまにええおじさんや。昔からずっとそうや。

トムはスプーンの件でちょっと困ってたけど、どうしても必要やってことで、考え込んだ。いろいろ計算してから俺にやり方を教えてくれて、俺たちはスプーンのカゴの近くでサリーおばさんが来るのを待った。それからトムがスプーンを数えて、端に並べ始めたところで、俺が一つ袖に隠した。トムが言う。

「おばさん、やっぱり九本しかないで。」

サリーおばさんが言う。

「もう、あんたたち遊んでなさい。私が数えたんやから間違いないわ。」

「でも僕は二回数えたけど九本しかないよ、おばさん。」

おばさんはうんざりした顔をしたけど、もちろんもう一度数えに来た。誰でもそうするやろ。

「ほんまや、九本しかないやん! いったいどうなってるんやろ――もう一回数えてみるわ。」

そこで俺は隠してたスプーンを元に戻した。おばさんが数え終わったら、

「もう、厄介なガラクタやな、今度は十本や!」と、ちょっと怒った顔で困った様子。でもトムは言った。

「おばさん、僕十本あるとは思えないけど。」

「何言ってるんや、この鈍くさい子! 私が数えてるの見てたやろ?」

「分かってるけど――」

「ほんなら、もう一回数える!」

そこでまた俺が一つくすねて、今度も九本。おばさんは怒り心頭で、全身震えてた。でも何度も何度も数えたせいで頭が混乱し、時々バスケットを数えてたりしてた。三回は合ってて、三回は間違う。とうとうバスケットを家中投げて、猫もふっとんで、おばさんは「もう出ていき! ちょっとは静かにさせて! また邪魔しに来たら皮剥ぐで!」って怒鳴った。これで俺らは余ったスプーンを手に入れて、サリーおばさんが俺らに出て行け言うてる間に彼女のエプロンポケットに入れておいた。昼前にはジムがそれと杉板の釘を手に入れた。俺たちはすっかり満足で、トムも手間かかった分だけ価値があるって言うてた。というのも、これでサリーおばさんはもう二度とスプーンを同じ数だけ数えられへんやろし、もし出来ても自分を信じられへんやろって。三日間も数え続けたら、きっと諦めて「もう二度と数えたい奴がおったら殺したるわ!」って言い出すやろって。

だから俺たちはその夜、シーツを物干しに戻して、クローゼットからまた一枚盗んで、数日間、戻したり盗んだりを繰り返した。サリーおばさんは結局何枚持ってるか分からんようになって、もうどうでもよくなって、二度と数えたくない、命がけでもいやって状態になった。

こうしてシャツもシーツもスプーンもろうそくも、子牛やネズミや数え間違いのおかげで無事クリアした。燭台の件はたいしたことやない、そのうち忘れるやろ。

でもパイは大仕事やった。森の奥で作って焼いたんやけど、やっと満足できる出来になったのは、一日では済まんかった。三回も洗面器いっぱいに粉使って、体中あちこち火傷して、煙で目もやられた。というのも、皮だけで中身は要らんかったのに、うまく形が保てなかったからや。でも最後には正しい方法を思いついた――梯子をパイに入れて焼くってやつや。だから二日目の夜にジムと相談して、シーツを細く裂いて、それを撚ってロープにした。夜明け前には立派な縄ができて、誰でも縛り首にできるくらいやった。あれこれ言って、作るのに九か月かかったことにした。

午前中にはその縄を森に持っていったけど、パイには入りきらんかった。シーツ一枚分もあるから、もし必要なら四十個分のパイができるし、スープやソーセージにしても余るくらいやった。晩ご飯に出せたくらいや。

でも必要なのはパイに入れる分だけやったから、残りは捨てた。パイは洗面器では焼かんかった――ハンダが溶けるのが怖かったからや。でもサイラスおじさんが大事にしている真鍮のウォーミングパンがあって、それはご先祖がイングランドからメイフラワー[訳注:原文は間違い。メイフラワー号はイングランドからアメリカに1620年に渡ったが、ウィリアム征服王はノルマン朝の英王。史実と合わない]か何かで持ち込んだもので、屋根裏に他のガラクタと一緒にしまってあった。それをこっそり持ち出して使ったら、最初は失敗したものの、最後にはうまくいった。パンに生地を敷いて炭火にかけ、ロープを詰めて生地でフタして蓋をし、熱い灰を上に乗せて、長い柄を持って五歩離れて楽に焼いた。十五分もしたら、見てて気持ちのええパイが出来上がった。でもこれを食うやつは爪楊枝二樽くらい持ってこなあかんな。ロープの梯子が腹の底まで詰まって、次また腹痛に苦しむこと間違いなしや。

ナットは魔女パイをジムの鍋に入れるとき見てなかった。俺たちは底に三枚のブリキ皿を入れて、その上に食いもんを載せた。ジムは無事全部手に入れて、自分だけになったときパイを割って、縄梯子を藁布団の中に隠し、ブリキ皿に何か記しを書いて窓から投げ捨てた。

ペンを作るのも、のこぎりを作るのも、ひどく骨の折れる仕事だったし、ジムは、銘文を刻むのが一番大変だろうと言った。囚人は壁にそれを書きつけなきゃならないんだ。でも、どうしても必要だってトムが言う。絶対に欠かせないんだって。囚人が自分の銘文や紋章を残さない例なんてない、って。

「レディ・ジェーン・グレイを見てみろよ」とトムは言った。「ギルフォード・ダドリーも、老ノーサンバーランドもそうだ。ハック、そりゃ面倒かもしれないけど、だったらどうすりゃいい? 逃げ道なんてないんだ。ジムだって自分の紋章と銘文をやらなきゃいけない。みんなやってるんだ。」

ジムが言った。

「でもなあ、トムさん、わしには紋章なんてないんや。ただこの古いシャツがあるだけで、日記もこれに書かなあかんの知ってるやろ。」

「ジム、わかってないな。紋章ってのはそういうのと全然違うんだ。」

「でも」と俺は言った。「ジムの言うとおりだよ。だってジムには本当に紋章なんてないもんな。」

「それは俺だって知ってる」とトムは言った。「だけどここを出るまでには絶対に作らせるぞ。ちゃんと正しいやり方で出ていくんだから、ジムの履歴にキズは残さない。」

で、俺とジムが、それぞれレンガのかけらを使ってペンを削っている間、ジムは真鍮で、俺はスプーンで作ってたんだけど、トムは紋章を考える仕事に取りかかった。しばらくして、いくつもいい案が浮かんで、どれを選んでいいかわからないくらいだったけど、ついに一つに決めたと言った。トムが言うには、

「紋章の盾には、デクスター・ベースに金の斜線を一本、中央にえんじ色のサルタイル、その上に伏せた犬を共通の意匠として描き、その足元には奴隷制を表す城壁模様の鎖、さらに盾の上方には刻みを入れた緑の山形模様と、青地に三本の曲線、ダンセッテ・インデンテッドの上に跳ね上がるノンブリル・ポイント――クレストには逃亡奴隷(黒)で、荷物を肩にかけてバー・シニスターの上に置く。支えるのは赤で、俺たち二人ってことにする。モットーは“Maggiore fretta, minore atto.” 本から引っぱってきたんだ。意味は『急いては事を仕損じる』ってことさ。」

「へえ……」と俺は言った。「でも他の意味は全然わからないぞ。」

「そっちは気にしてる暇ない」とトムは言った。「とにかく全力で取りかからなきゃ。」

「でもさ」と俺は言った。「一部くらい教えてくれよ。フェスって何さ?」

「フェスか――フェスはな……お前は知る必要ないよ。ジムがその部分をやるとき教えてやる。」

「なんだよ、トム」と俺は言った。「ちょっとは教えてくれてもいいじゃないか。バー・シニスターって何?」

「さあ、俺も知らないよ。でも必要なんだ。貴族ならみんな持ってる。」

それがトムのやり方だ。説明したくないときは絶対に教えない。どれだけしつこく聞き出そうとしても、絶対ダメだ。

これで紋章の件は片付いたので、あとの仕事――つまり悲しげな銘文を考えることになった。トムはジムにも必ず書かせないといけないと言って、いくつか考えを書き出し、紙にメモして読み上げた。

  1. ここに捕らわれの心が砕けたり。
  2. ここに哀れな囚人、世と友に見捨てられ、悲しみのうちに生涯を終える。
  3. ここに孤独な心が壊れ、すり減った魂が三十七年の独房暮らしの末に安らぎへと旅立つ。
  4. ここに家も友もなく、三十七年の苛酷な囚われのすえ、ルイ十四世の庶子にして高貴な異邦人が果てたり。

トムは読み上げながら声を震わせて、ほとんど泣きそうだった。読み終わってもどれも捨てがたくて、どれを書かせるか決めかねていたが、ついに全部書かせることにした。ジムは、こんなにたくさんのものを釘で丸太に刻むとなると一年はかかるし、そもそも文字の書き方も知らないと言った。だがトムは、自分で文字の輪郭を描いてやるから、それをなぞるだけでいいと言った。そしてすぐにこう言った。

「そういえば、丸太じゃ駄目だ。牢屋に丸太壁なんてない。やっぱり石に彫らないと。石を持ってこよう。」

ジムは、石の方が丸太よりもっと大変だと言った。石にあれだけの字を彫るなんて、とてもじゃないが一生出られないぞ、と。でもトムは、俺にも手伝わせると言った。それから俺たち二人がペン作りの進み具合を見た。これがもう、とんでもなく手間も時間もかかって、手の傷も全然治らないし、ほとんど進んだ気がしない。だからトムが言った。

「いい方法がある。紋章も銘文も石にやるって決まったんだから、どうせ石が必要なんだ。同じ石でペンやのこぎりも作れる。一石二鳥さ。製粉所にでっかい砥石があるから、それをくすねてきて、そこに彫ればいい。」

なかなか悪くない――というか、かなり大変なアイデアだったが、俺たちはやってみることにした。まだ真夜中前だったので、ジムを残して製粉所へ向かった。砥石を盗み出して転がして帰ろうとしたが、これがまたえらく大変だった。時々どうやっても倒してしまい、そのたびに潰されそうになった。トムは、この調子なら誰か一人はやられるぞ、と言った。どうにか半分まで運んだが、すっかりくたびれて、汗まみれになった。もう無理だとわかって、ジムを呼びに戻った。ジムはベッドを持ち上げて、足に繋いでいた鎖を外し、首にぐるぐる巻きつけて、俺たちの穴から抜け出してきた。それからジムと俺で砥石を運ぶと、今度は何でもないみたいに進んだ。トムは監督役だ。あいつは監督だけは誰よりうまい。何でもやり方を知ってる。

俺たちの掘った穴はけっこう大きかったけど、砥石を通すには足りなかった。それでジムがツルハシを取って、すぐに広げてくれた。で、トムが釘で文字の下書きをして、ジムにそれを彫らせた。釘をノミ代わりにして、物置小屋のがらくたの中から拾った鉄のボルトを金槌にして、ろうそくが消えるまで作業を続けさせ、終わったら砥石を藁布団の下に隠して寝るように言った。それから鎖をまたベッドの足に繋げるのを手伝い、俺たちも寝る準備をした。でもトムは何か思い出して言った。

「ジム、ここにクモはいるか?」

「いませんよ、トムさん。ありがたいことに。」

「よし、そのうち持ってきてやる。」

「でも、トムさん、わし、そんなん要りません。クモは怖いですわ。ガラガラヘビのほうがマシなくらいです。」

トムはしばらく考えてから言った。

「いいな、それ。ガラガラヘビってのは名案だ。絶対、誰かがやったことあるはずだし、筋が通ってる。そうだ、それでいこう。どこに置いておく?」

「何をです、トムさん?」

「ガラガラヘビだよ。」

「勘弁してくだせえ、トムさん! ガラガラヘビがここに来たら、わし、頭から丸太壁をぶち破って逃げますよ!」

「ジム、少ししたら怖くなくなるさ。すぐに手懐けられるよ。」

「手懐ける?」

「ああ、簡単だよ。動物はみんな、親切にされたら懐くもんだ。ペットにした人を傷つけるなんて思わない。本にそう書いてある。やってみるだけでいいんだ。二、三日すれば、向こうもお前を好きになって、いっしょに寝るし、片時も離れなくなるし、首に巻いてもいいし、頭を口に入れても平気になるぞ。」

「やめてくだせえ、トムさん、そんな話! 頭を口に――ご利益ですか? そんなもん、わしが頼むまで向こうだって絶対やりゃしませんわ。それにな、いっしょに寝るのもごめんです。」

「ジム、バカなこと言うなよ。囚人には必ず何か動物のペットが必要なんだ。もしガラガラヘビが今まで誰もやったことないなら、お前が初めてやれば、もっと名を上げられるぞ。」

「でも、トムさん、そんな名誉いりません。ヘビにアゴ噛みちぎられたら、名誉はどこいったんですか? わしはそんな真似ごめんです。」

「もう、やってみるだけでいいって言ってるだろ! 続けなくてもいいから。」

「でも、その『だけ』で噛まれるかもしれませんやん。トムさん、わしゃ無茶ちゃうもんには挑戦しますけど、もしトムさんとハックがヘビ持ち込んだら、わしは出ていきます、それだけは言います。」

「じゃあもういいさ、そこまで言うなら。じゃあ、アオダイショウを持ってきて、尻尾にボタンでもつけて、ガラガラヘビのふりさせる。それで我慢しなきゃな。」

「それなら大丈夫です、トムさん。でも、正直、いなくても困りませんよ。囚人になるって、こんなに手間がかかるもんやとは思いませんでした。」

「でも、ちゃんとやるとなると、いつもこんなもんだ。ネズミはいるか?」

「いませんよ。」

「じゃあ、ネズミも持ってきてやる。」

「トムさん、そんなもんいりません。ネズミほど厄介なヤツはおらんです。寝てるときに足かんだり、身体の上を走り回ったりして……。ヘビがどうしてもって言うならまだしも、ネズミはいらんです。」

「でもジム、必要なんだって。みんなそうなんだ。もう文句言うなよ。囚人にネズミがいないなんて例はない。みんな手懐けて芸を仕込んだりする。音楽も聞かせてやる必要がある。何か楽器は持ってるか?」

「くしと紙切れと、口琴が一つあるだけですけど、ネズミが口琴なんか好きになるとは思えません。」

「いや、十分だよ。どんな音楽でもかまわない。囚人のネズミには口琴で充分さ。動物はみんな音楽が好きだ。囚人部屋じゃみんな夢中になる、特に悲しげな曲が大好きだ。口琴ならそれしか出ないからな。二分も演奏したら、ネズミもヘビもクモも、みんな心配して様子を見に来るさ。そしてお前の上に群がって、楽しんでくれる。」

「なるほど、やつらは楽しいかもしれませんけど、ジムはどうですか? でもやれって言うならやります。動物たちを満足させておいた方が、家の中が平和ですから。」

トムは他に忘れてることがないか考えて、しばらくして言った。

「あ、もう一つあった。ここで花を育てられると思うか?」

「たぶん育てられますけど、トムさん、ここは暗いし、花なんかいりませんし、すごい手間ですよ。」

「でもやってみてくれ。他の囚人もやってる。」

「あの、あの大きなガマの穂みたいなマレイン草なら育つと思うけど、そんな苦労するほどの価値はないと思います。」

「そう思うな。小さいのを持ってきて、あそこに植えて育てるんだ。それで、マレインなんて呼ばずにピチオラって呼べ。牢屋で育てるときはそう呼ぶもんだ。そして、涙で水やりをするんだ。」

「泉の水ならたっぷりありますけど。」

「泉の水じゃ駄目だ。涙で水やりするんだ。みんなそうする。」

「でもトムさん、わしなら泉の水で二度も育てられますよ。他のやつが涙でやっと芽を出す間に。」

「それじゃ意味がない。涙でやらなきゃ。」

「そしたら枯れちゃいますよ、トムさん。わし、めったに泣きませんから。」

トムは困り果てたが、考え直して、玉ねぎで何とかしようと言った。朝になったら黒人小屋に行って、ジムのコーヒーポットにこっそり玉ねぎを入れてやると約束した。ジムは「コーヒーにタバコ入れる方がマシですわ」と文句を言い、マレインを育てる手間や、口琴でネズミを呼ぶ手間、蛇やクモをかわいがる手間、さらにペンや銘文や日記やら何やらで、囚人になるのはこれまでやったどんなことより面倒で厄介で責任が重いと愚痴をこぼしたものだから、トムもついに呆れ、これほど華やかなチャンスを与えられた囚人なんて世界に一人もいないのに、ジムはその価値が全然わかってない、もったいない、だと言った。ジムはごめんと言って、もう文句は言わないと謝った。それから俺とトムは寝床に入った。

第三十九章

朝になって、俺たちは村へ行ってネズミ捕り用のワイヤー製の罠を買ってきて、一番よく通るネズミ穴の栓を外し、ものの一時間で最高に元気なネズミを十五匹捕まえた。それをサリーおばさんのベッドの下の安全な場所に隠したんだけど、その間に小さなトーマス・フランクリン・ベンジャミン・ジェファーソン・エレクサンダー・フェルプスが罠を見つけて、扉を開けてみたらネズミが全部飛び出した。サリーおばさんが部屋に入ったときには、ベッドの上に飛び乗って大騒ぎ、ネズミたちも退屈しのぎと言わんばかりに走り回っていた。俺たちが戻ってきたら、おばさんにヒッコリーの棒でこっぴどく叩かれた。もう一度十五匹か十六匹捕まえ直すのに二時間もかかったけど、今度のは最初よりイマイチだった。最初に捕まえたネズミたちは今まで見た中で一番立派だったのに。

俺たちは、仕分けしたクモや虫、カエル、イモムシなんかを立派に集めて、いろんなものがそろった。スズメバチの巣も手に入りそうだったけど、それはダメだった。家族が家にいたからな。だけどすぐには諦めず、できるだけ粘ってみた。どっちが先に根負けするかやってみようって思ったんだ。結局、根負けしたのは俺たちのほうだった。アリカンパン[訳注: 薬草の一種]を手に入れて患部に塗ったら、もうほとんど大丈夫になったけど、座るのはちょっと無理だった。

それで今度はヘビを狙ってみた。二ダースぐらいのシマヘビや家ヘビを捕まえて袋に入れて、俺たちの部屋に持ち込んだ。そのころにはちょうど晩飯時で、俺たちとしてはこれが一日分の立派な仕事だった。腹が減ったかって? いや、全然そんなことはなかったと思うぜ! で、晩飯のあと部屋に戻ってみると、袋にヘビは一匹もいなかった――袋をちゃんと縛ってなかったから、どこからか抜け出して逃げたんだ。でも、たいして問題じゃなかった。まだ屋敷のどこかにはいるはずだから、また捕まえればいいさ。しばらくの間、家の中にヘビがいないなんてことはなかった。時々、梁やあちこちからヘビが垂れ下がってくるのが見えたし、たいていは皿の中や首筋の後ろ、あるいは一番いてほしくないところに落ちてくるんだ。見た目はきれいで縞模様もあったし、百万匹いたって害はなかったけど、サリーおばさんにとっちゃそんなこと関係なかった。どんな種類であろうとヘビは大嫌いで、どうやっても絶対に我慢できない。ヘビが一匹でもおばさんの上に落ちてきたら、何をしていても手を止めてすぐに逃げ出す。あんな女、他に見たことがない。おばさんの叫び声はエリコまで届くほどだった。トングでヘビをつかませようとしても絶対に無理だし、もし寝返りを打ってベッドの中にヘビがいたら、飛び起きて家が火事かと思うほど大声をあげる。あまりに騒ぐもんだから、じいさんは「ヘビなんて世の中になけりゃよかったのに」って言い出すくらいだった。全部のヘビが家からいなくなって一週間もたっても、サリーおばさんはまだ平気じゃなかった。考えごとをしている時に首の後ろを羽でちょんと触れただけで、靴下ごと飛び上がる始末だった。不思議なもんだ。けどトムは「女ってのはみんなそうだ」って言ってた。なんでだかは知らないけど、そういう風にできてるらしい。

ヘビがサリーおばさんの前に現れるたびに俺たちはぶたれたし、「もしまた家じゅうにヘビがわくようなことがあったら、こんなもんじゃ済まさないからね!」とおばさんは言ってた。俺はぶたれるのは気にならなかった。大したことじゃなかったし。それより、新しいヘビをまた集める手間のほうが嫌だった。でも、なんとかまたヘビと他のいろんな生き物をそろえた。あんなににぎやかな小屋は見たことがないってくらい、ジムの小屋は生き物であふれてた。みんな一斉に騒ぎ出して、ジムの方へ向かっていくんだ。ジムはクモが嫌いで、クモもジムが嫌いだった。だから、クモはジムに仕返ししようと待ち構えていて、ジムにとってはえらい災難だった。ジムいわく、「ネズミとヘビと砥石で、ベッドに寝る場所なんてほとんどない。もし場所があったとしても、騒がしくて眠れやしない。いつも誰かが起きて騒いでるからだ。ヘビが寝てる時はネズミが暴れて、ネズミが寝たら今度はヘビが起きてくる。だから、いつも誰かが下で邪魔して、もう一方は上でサーカスしてる。もし違う場所に逃げようとすると、クモが待ち受けていてひと噛みしてくる」ってさ。ジムは「もし今度こそ脱出できたら、絶対にもう二度と囚人なんかになるもんか、たとえ給料がもらえたってごめんだ」って言ってた。

さて、三週間もたつころには、だいたい全部うまくいってた。シャツは早めにパイに入れて送り込んだし、ネズミに噛まれるたびにジムはインクの新しいうちに日記を書き足してた。ペンも作ったし、砥石にはいろんな銘文も彫った。ベッドの脚もノコギリで切断して、おがくずまで全部食べた。とんでもなく腹が痛くなった。みんなでこれはもうダメかと思ったけど、死ななかった。あんなに消化できないおがくずは初めてだったし、トムもそう言ってた。

だが、とにかくこれで全部の仕事がようやく終わった。もうみんなクタクタだったけど、特にジムが一番疲れてた。じいさんはニューオーリンズの下流にある農園に手紙を二度出して、逃亡した黒人を迎えに来いと頼んだけど、返事が来ない。というのも、そんな農園は実在しなかったからだ。それで今度は、サッチャー判事はジムのことをセントルイスとニューオーリンズの新聞に広告を出すつもりだと言い出した。セントルイスの話が出たとき、俺はぞっとした。もう時間がないと悟った。そこでトムが言った。「今度は匿名(のんなます)手紙だ」

「なんだそれ?」と俺は聞いた。

「何か起きてるぞって、家の人に警告する手紙さ。やり方はいろいろあるけど、必ず誰かが周囲を探りながら、館の主人に知らせるんだ。ルイ十六世がテュイルリー宮から逃げ出す時も、召使いの女がやった。それもいい方法だし、匿名手紙もいい。どっちも使うぞ。それから囚人の母親が服を取り換えて、中に残って、囚人は母親の服で脱走するのが普通だ。それもやろう」

「でもトム、わざわざ誰かに何か起きてるって警告する必要あるのか? 自分たちで気づかせればいいじゃないか。それがあいつらの仕事だろ」

「分かってるさ。でもあいつらに任せとけないんだ。これまでのあいつらを見てみろよ――全部俺たちがやる羽目になってる。あいつらはまるっきり無頓着で、何も気にしない。だから俺たちが知らせてやらなきゃ、誰も何も邪魔しに来ないし、せっかくの脱出劇が、なんにも起きないまま台無しになる――盛り上がらずに終わっちまう」

「俺は、その方がいいけどな」

「バカ言え!」とトムは呆れた顔をした。だから俺は言った。

「別に文句は言わないよ。お前のやり方でいいさ。で、召使いの女の件はどうする?」

「お前がやるんだ。夜中に忍び込んで、あの黄色い女のドレスを盗め」

「でもトム、それだと翌朝大騒ぎになるぞ。たぶん、あの人ひとつしかドレス持ってないだろうから」

「知ってる。でも十五分だけ借りればいい。匿名手紙を持って行って玄関の下に差し込むだけだから」

「分かったよ。でも、自分の服で持っていけるけどな」

「そしたら召使いの女には見えないだろ?」

「でも誰も俺の格好なんか見やしないぞ」

「そういう問題じゃない。俺たちは自分の“役目”をきっちりやるべきなんだ。誰かに見られてるかどうかなんて気にしてる場合じゃない。信念がないのか?」

「分かった、何も言わないよ。俺が召使いの女だ。じゃあジムの母親は?」

「俺がやるよ。サリーおばさんのガウンを盗む」

「じゃあ俺とジムが出る時はお前は小屋に残るのか?」

「まさか。ジムの服にワラを詰めてベッドに寝かせて母親のフリをさせておいて、ジムが俺から女の服を脱がして着る。これでみんな一緒に脱走だ。こういうのを“エヴェイジョン”って言うんだ。身分のある囚人が逃げるときは、いつもそう呼ぶ。王様が逃げる時も同じさ。王子だって、それが本当の王子でも偽の王子でも同じこと」

こうしてトムは匿名手紙を書いた。俺はその夜、黄色い女中のドレスを盗んで着て、玄関の下に手紙を差し込んだ。トムの言う通りに。手紙にはこう書いてあった。

注意せよ。何かが起きようとしている。厳重に警戒せよ。
名無しの友

翌晩は、トムが血で描いたドクロと骨の絵を玄関に貼り、さらにその次の夜は、棺桶の絵を裏口に貼った。家族があんなに怖がってるのは見たことがなかった。まるで家中に幽霊がうようよいて、あらゆる物陰やベッドの下に潜んでいるみたいに怯えていた。ドアがバタンと鳴るとサリーおばさんは「おお!」と飛び上がるし、何かが落ちても「おお!」と叫ぶし、誰かが不意に触れたら同じように飛び上がった。どこを向いても安心できないようで、いつも何かが背後にいる気がして、しょっちゅうくるりと振り返って「おお!」と叫び、回りきらないうちにまた元に戻って叫ぶ。寝るのも怖いが、起きているのもダメ。トムは「これでうまくいってる」と大満足だった。こんなにうまくいったことはないってさ。ちゃんとやった証拠だって。

次はいよいよ大仕掛けだ! ということで、翌朝夜明け前にまた手紙を用意した。ただ、夕食時に「今夜は黒人を二人、両方のドアに見張りにつける」と家の人たちが話しているのを聞いたので、どうしようか考えていた。トムは稲妻避けの棒を伝って外を偵察に行った。裏口の黒人は眠っていたので、首の後ろに手紙を差し込んで戻ってきた。手紙にはこう書いてあった。

裏切るな、俺はお前の友だ。インディアン領から来た凶悪な盗賊団が今夜、お前たちの逃げ出した黒人をさらいにくる。連中はお前たちを脅して家から出さないようにしようとしとる。俺はその仲間だが、信仰に目覚めて足を洗いたくなった。だからこの地獄みたいな計画を裏切るつもりだ。連中は北側の塀沿いに真夜中きっかりに忍び寄って、偽の鍵で黒人の小屋に入る。俺は少し離れたところで危険があればブリキの角笛を吹く約束だが、その代わりに羊のようにメエと鳴く。角笛は吹かない。その間に連中が鎖を外している間に、お前たちは忍び込んで鍵を掛け、ゆっくり殺せる。俺が言う通りにだけやれ。他のやり方をしたら、連中は気づいて大騒動になる。俺は何も報酬はいらない。ただ正しいことをしたと知りたいだけだ。

名無しの友

第四十章

朝食後は気分が良かったから、カヌーを出して川向こうへ釣りに行った。昼飯も持って楽しい時間を過ごして、イカダも見てきたが、ちゃんと無事だった。家に帰ったのは夕食時で、みんなすっかりパニックになってて、どっちが上かも分からないありさまだった。俺たちにはすぐベッドに行けと言われて、何があったのかは教えてくれなかったし、新しい手紙の話も一切しなかった。でも、それで十分だった。俺たちは誰よりもよく知ってたし、階段を半分上がってサリーおばさんの背中を見送ったとたん、すぐに地下の納戸へ忍び込んで、たっぷり食料を持ち出して自分たちの部屋に運び、ベッドに入った。そして十一時半ごろ起きて、トムは盗んだサリーおばさんのドレスを着て昼飯を持ち出そうとしたが、そこで言った。

「バターは?」

「トウモロコシパンの切れっ端に置いておいたぞ」と俺。

「そいつをそのまま置いてきたな――ここにはない」

「バターなしでも大丈夫だろ」

「バターありでも大丈夫だよ。お前、今すぐ地下に戻って取ってこい。それから稲妻避け棒を下りて来い。俺はジムの服に藁を詰めて母親のダミーを作るから、お前が来たらすぐ羊の鳴き声をしてみんなを出発させるぞ」

トムは出ていった。俺も地下へ降りた。拳ぐらいの大きさのバターがちゃんと前に置いてあったから、パンごと拾い上げて明かりを消し、そっと階段を上がった。無事に一階まで来たところで、サリーおばさんがろうそくを持って現れた。俺はあわててバターを帽子に隠してかぶった。その瞬間、おばさんに見つかった。

「地下に行ってたのかい?」

「はい」

「何してたの?」

「なんでもないです」

「なんでもない?」

「はい」

「じゃあ、こんな夜中に何で地下に行ったの?」

「分かりません」

「分からない? そんな答えは許さないよ。トム、何してたんだ、ちゃんと言いなさい」

「本当に、何もしてません、サリーおばさん、神に誓って」

これで許してもらえると思った。だいたい普段ならそうだった。でも、今日はこれだけ変なことが続いてて、おばさんも神経質になってた。だからきっぱりと言った。

「居間に行きなさい。私が来るまでそこで待ってなさい。どうせ何かやましいことしてたんだろうから、絶対に正体を突き止めてやる!」

おばさんは出て行き、俺はドアを開けて居間へ入った。すると、そこには農夫たちが十五人も銃を持って集まっていた。俺は気分が悪くなって、椅子にしぼんで座った。みんな座って、ぼそぼそしゃべったり、落ち着きなくしてたが、平静を装ってた。でも絶対に緊張してた。帽子をかぶったり脱いだり、頭をかき、席を変わり、ボタンをいじり――とにかく落ち着かない。俺も不安だったけど、帽子は脱がなかった。

ああ、サリーおばさんが早く来て、さっさと俺を叱るなりぶつなりしてくれて、トムに「やりすぎた、今すぐやめて逃げなきゃ」と相談したかった。でないと、こいつらが我慢できなくなって俺たちを捕まえに来られたら大変だ。

やっとサリーおばさんが来て、いろいろ質問してきたが、俺はまともに答えられなかった。もうどっちが上か分からなくて、身体が震えた。というのも、農夫たちがさらにソワソワして、「もうすぐ真夜中だ、今すぐ小屋に行って待ち伏せしよう」と言う者がいれば、「いや、まず羊の合図を待とう」となだめる者もいる。俺はおばさんの質問に答えられず、そのうち居間がどんどん暑くなってきて、帽子の中のバターが溶けて首筋や耳の後ろを伝って流れてきた。ついに一人が「俺は先に小屋に行って待ち構えておきたい」と言った時、俺はぶっ倒れそうになった。すると、バターが額をつーっとたれてきて、それをサリーおばさんが見つけて、真っ青になって言った。

「まあ、この子はどうしたの? 脳炎にかかったに違いない、脳みそが溶け出してる!」

みんな駆け寄ってきて、おばさんは俺の帽子をひったくって脱がせた。するとパンと残りのバターが出てきた。おばさんは俺を抱きしめて言った。

「まあ、なんてびっくりさせるの! 本当に無事でよかった、感謝してもしきれないよ。災難は次々やってくるし、悪いことばっかりで、あんたの頭からあのバターが出てきた時は、本当にもうダメかと思ったよ。色もあんなに白くて、脳みそが溶けたんじゃないかと思ったもん。どうして最初からそうだと言わなかったの? それなら全然気にしなかったのに。さあ、すぐに寝なさい。朝まで顔も見たくないよ!」

俺は一瞬で階段を駆け上がり、次の瞬間には稲妻避け棒を下りて、暗闇の中を物置の方へ急いだ。言葉がなかなか出てこないほど焦っていたけど、トムには必死で伝えた。「今すぐ逃げなきゃだめだ、家の中は銃を持った男だらけだ!」

トムの目はギラギラして、「本当か? すげえじゃないか! ハック、もしもう一度やり直せるなら、今度は二百人は集められるぜ! もし時間があれば――」

「急げよ、急げ!」と俺は叫んだ。「ジムはどこだ?」

「すぐ隣にいる。腕を伸ばせば触れるぞ。もう着替えてるし、全部準備できてる。さあ、静かに抜け出して“羊の合図”を出そう。」

だがそのとき、男たちがドアに近づく足音が聞こえてきて、錠前をいじりはじめる音もした。誰かが言った。

「だから言っただろ、早すぎるって。まだ来てない――鍵がかかってる。よし、何人か小屋に閉じ込めておくから、暗い中で待ち伏せして、入ってきたら殺せ。あとのやつらはあちこちに散らばって、やつらが来る音がしないか耳を澄ましてろ。」

やつらが入ってきたけど、暗くて俺たちの姿は見えなかった。俺たちがベッドの下にもぐり込もうとごそごそやってる間、何人かに踏まれそうになったけど、なんとか無事にもぐり込めた。それから素早く静かに穴から外へ出た。ジムが一番、俺が二番、トムが最後、これはトムの指示どおりだった。今、俺たちは傍の増築小屋にいて、すぐ外で足音が聞こえる。俺たちはドアまで這っていって、トムが俺たちを止め、自分の目を隙間に当てて外を見たけど、あまりに暗くて何も見えなかった。それで、足音が遠ざかるのを聞いてから動くと囁いた。トムに合図されたら、まずジムが出て、最後にトムが出る手はずだ。トムは耳を隙間につけて、何度も何度も外の足音を聞いた。やがてトムが俺たちに合図して、俺たちはそっと外へ滑り出し、息を殺して少しも物音を立てず、インディアン縦列でフェンスの方へ這っていった。そして、無事にフェンスのところに着き、俺とジムはさっと越えた。だけど、トムのズボンがフェンス上のとげに引っかかってしまった。足音が近づいてきたので、トムは無理やり引きはがし、その拍子にとげが折れて音が鳴った。トムが俺たちの後を追って飛び降りたとき、誰かが叫んだ。

「そこは誰だ? 返事しろ、さもないと撃つぞ!」

俺たちは返事しなかった。ただ一目散に逃げ出した。すると、ワッと追いかけてきて、「バン、バン、バン!」と銃声が響き、弾がビュンビュン飛び交った! 向こうが叫ぶのが聞こえた。

「ここだ! やつら、川へ逃げたぞ! 追え、犬も放て!」

そいつらは全力で追いかけてきた。ブーツの足音と叫び声で、追跡者がどこにいるかよくわかった。俺たちはブーツなんて履いてないし、叫び声も上げなかった。俺たちは製粉所への小道にいて、やつらが近づいてきたところで素早く茂みに身を潜めて、やつらを先に行かせ、その後ろにこっそりついていった。犬たちは全部閉じ込めてあったから、泥棒を驚かせないようにしてたんだろう。だけど今は誰かが犬を放したようで、こっちに向かって大騒ぎしながら走ってきた。でも、それは俺たちの犬だったから、その場で立ち止まって犬が追いつくのを待った。犬たちは俺たちだと気づくと、特に興奮する様子もなく「やあ」とでも言うように挨拶して、そのまま叫び声や足音のする方へ走り去っていった。俺たちもまたすぐに動き出し、製粉所の近くまで駆け抜けたところで茂みを抜け、俺のカヌーが繋がれているところへたどり着いた。そして、飛び乗って必死で川の真ん中へ漕ぎ出したが、必要以上の音は立てなかった。それからは楽に、心地よくいかだのある島へ向かって進んだ。岸辺ではまだ誰かが叫んだり犬が吠えたりしているのが聞こえたが、やがてその声も小さくなって、消えていった。いかだに上がったとき、俺は言った。

「さあ、ジム、また自由の身だ。もう二度と奴隷になんてならないって賭けてもいいぞ。」

「ほんまにええ仕事やったな、ハック。計画も見事やったし、実行も見事やった。あんなややこしくて立派な計画、誰にも思いつかれへんで。」

みんなすごく嬉しかったけど、トムが一番うれしそうだった。それも、足に弾が当たっていたせいだ。

俺とジムはそのことを知って、さっきまでの元気がすっかりなくなった。トムはかなり痛がってるし、血も出ていた。だから、トムを小屋に寝かせて、公爵のシャツを裂いて包帯にしようとしたが、トムは言った。

「その布くれ、自分でやるから。今は手を止めるな、ここでぐずぐずしてる場合じゃない。脱出作戦はうまくいってるんだ、早くいかだを漕ぎ出せ、出発だ! 俺たちは本当に見事にやったぞ! ――ほんとだぜ。ルイ十六世の扱いを俺らに任せてくれりゃ、『聖ルイの子よ、天へ昇れ』なんて伝記に書かれることはなかったさ。いや、国境越えまでぶっ飛ばしてやっただろう――それも簡単にな。さあ、いかだを漕げ――いかだを漕げ!」

だが、俺とジムは相談し合って、考え込んでいた。少し考えてから、俺は言った。

「言ってやれよ、ジム。」

ジムはこう言った。

「そうやな、ハック。もし自由になろうとしてるのがトムやったとして、仲間が撃たれたら、トムは『そのまま俺を助け続けて、仲間の治療なんか気にするな』って言うやろか? それがトム・ソーヤーか? そんなこと言うか? 絶対言わへん! せやから、ジムも絶対言わへん! ここから一歩も動かへん、医者がおらんかったらな、たとえ四十年かかってもや!」

俺はジムが本当は白人と同じ心を持ってるって分かってたし、きっとそう言うと思ってた。だから、これでもう大丈夫だ、と思ってトムに医者を呼びに行くと告げた。トムは大騒ぎして嫌がったけど、俺とジムは決して譲らなかった。トムが自分で外へ這い出していかだを流そうとしたけど、それも止めた。トムは文句を言ったが、効果はなかった。

それで、俺がカヌーの準備をしていると、トムは言った。

「じゃあどうしても行くなら、村に着いたらこうしろ。扉を閉めて医者にしっかり目隠しして、墓の中みたいに絶対黙ってるって誓わせて、財布いっぱいの金を渡すんだ。それから、裏通りとかあちこち暗闇の中をぐるぐる引き回して、最後にカヌーで島々の間を迂回して連れて来い。それから医者を調べてチョークを取り上げて、村に戻すまで返すなよ。さもないと、このいかだに目印のチョーク印をつけられるからな。みんな、そうやるんだ。」

俺はそうすると言って出発した。ジムは医者が来るのを見たら森に隠れて、医者が帰るまで出てこないことになった。

第四十一章

医者は年を取った人で、とても優しそうな感じのいいおじいさんやった。俺が医者を起こしたとき、昨日の午後、兄貴とスペイン島へ狩りに行って、見つけた丸太いかだの上でキャンプしたこと、そして夜中、兄貴が夢うつつで銃を蹴飛ばして撃ってしまい、足を撃たれたから、ここで治してほしい、でも誰にもそれを言わないで、内緒にしてほしい、今日の夕方こっそり家に帰ってみんなを驚かせたい、って話した。

「君たちの家族はどなたかな?」と医者が言う。

「そこのペルプス家です。」

「あぁ」と医者は言った。そして少ししてから、

「なんて言った? どうやって撃たれたって?」

「夢を見てて、撃たれたんです」と俺は答えた。

「奇妙な夢だな」と医者は言った。

それで医者はランタンに灯りをつけ、鞍袋を持って出発した。でもカヌーを見ると、あまり気に入らない様子だった。「一人ならいいが、二人乗るには安全そうに見えない」と言う。俺は言った。

「心配しなくていいですよ、先生。三人でも楽に乗れましたから。」

「三人?」

「ええ、俺とシド、えーと、えーと……銃です、銃も一緒に。」

「あぁ」と医者は言った。

だが医者はカヌーの縁に足を乗せて揺らしてみて、首を振り、「もう少し大きいのを探してみよう」と言った。でも他のカヌーは全部鍵と鎖がかかっていた。それで医者は俺のカヌーに乗ることにして、「俺が戻るまで待つか、他を探してもいいし、家に帰ってサプライズの準備をしたければそうしなさい」と言った。俺は「待ちます」と答えて、医者にいかだの場所を詳しく教え、見送った。

しばらくして、俺はふと思いついた。もし医者がすぐにトムの足を治せなかったらどうしよう? 三日も四日もかかったら? そしたらどうする? ここで医者に秘密をばらされるまでじっと待ってるのか? いや、絶対そんなことはしない。俺は待つ。もし医者が「また来なくてはいけない」と言ったら、俺もどんなことをしても島まで戻る。そしたら医者を縛って、川下まで連れていく。トムの治療が終わったら、医者に分け前をやるか、持ってるもの全部やって、それから岸に帰してやろう。

それで材木置き場に忍び込んで寝た。次に目が覚めたときには、太陽は空の高いところにあった。飛び起きて医者の家に行ったが、医者は夜中に出かけたきりまだ戻っていないと言われた。こりゃトムには良くない、と俺は思い、すぐに島へ向かった。角を曲がったところで、サイラスおじさんの腹に危うく頭をぶつけそうになった。おじさんは言った。

「おや、トム! 今までどこにいたんだ、このいたずら小僧め!」

「俺はどこも行ってないよ」と俺は言った。「ただ、逃げた黒人を探してただけさ――シドと一緒に。」

「いったい、どこに行ったんだ?」とおじさん。「おばさんはすごく心配してたぞ。」

「心配いらないよ」と俺。「だって俺たちは大丈夫だったから。みんなと犬のあとを追いかけたけど、追いつかなかったし、見失っちゃった。でも、水の上で声が聞こえた気がしたからカヌーで追いかけて対岸に渡ったけど、何も見つけられなかった。だから岸沿いにしばらく探してたけど疲れちゃって、カヌーを繋いで寝たんだ。目が覚めたのは一時間くらい前、それでニュースを聞こうと思ってここに来た。シドは郵便局に行ったし、俺は何か食べ物を探してから家に帰るつもり。」

それから郵便局に「シド」を迎えに行ったが、予想通り、シドはいなかった。おじさんは郵便局で手紙を受け取って、しばらく待ったが、シドはやっぱり来なかった。それでおじさんは「もう帰ろう。シドは自分で歩いて帰るか、カヌーで帰るだろう」と言い、自分と一緒に帰るよう言った。俺が「シドを待ちたい」と頼んでもダメだった。「待っても無駄だし、サリーおばさんに無事な姿を見せてやりなさい」と言われた。

家に帰ると、サリーおばさんは俺を見て、笑ったり泣いたりして、抱きしめてくれて、例の全然痛くないお仕置きをして、「シドにも同じことをしてやる」と言った。

家の中は、農夫やその奥さんたちでいっぱいで、昼食の大騒ぎになっていた。誰よりもうるさかったのはホッチキスおばさんだった。彼女はずっとしゃべりっぱなしだった。こう言った。

「ねぇペルプスさん、あの小屋を隅から隅まで探したけど、あの黒人はきっと頭がおかしいわよ。ダムレルさんにも言ったでしょ? ――ねぇ、ダムレルさん? ――あの人は気が違ってるって、間違いなく。みんなも聞いたでしょ? 正気じゃないわよ。あの砥石を見てごらんなさいよ、正気の人があんな訳の分からないことを彫りつける? 『こいつが心臓を破裂させた』とか、『こいつは三十七年も生き続けた』とか――ルイ何某の庶子だとか、とにかくくだらないことばっかり。あの黒人は完全に狂ってる、って最初から最後まで私は言い続けてるのよ、ネブカドネザル王みたいにね。」

「それに、あのボロ切れで作ったはしごも見てごらんなさい、ホッチキスさん」とダムレルおばさんが言った。「一体何に使うつもりだったのかしら――」

「まさにそのことを今ユターバックさんにも言ってたところなのよ。本当よ。ねぇ、あのはしご見てよ、って私が言ったのよ――あれは何に使いたかったのかしらって。ねぇ、ホッチキスさん、そうでしょ?」

「でも、なんであんな砥石が中に入ったのか、どうやって誰があんな穴を掘ったのか――」

「まったくその通りよ、ペンロッドさん! 今ちょうどダンラップさんにも同じことを言ったところなのよ。あんな砥石、どうやって入れたのかしら。手伝いなしで――絶対無理よ! 絶対誰かが手伝ったのよ、それもたくさん。あの黒人を手伝ったやつが十人はいるわ! 私ならこの家にいる黒人全部しらみつぶしにしてでも犯人を突き止めるわ。それに――」

「十人だって? ――四十人いたってあれだけのことはできやしない。あの果物ナイフのこぎりやら、よくもまあ根気よく作ったもんだ。ベッドの脚を削るのに六人が一週間かかるぞ。ベッドの上の藁で作った黒人形も見てみろ、それから――」

「本当にそうよ、ハイトワーさん! 私もさっきペルプスさんにも言ったのよ。あれ見てどう思うかって。ベッドの脚をこんなふうに切り落とすなんて自分でできるはずがない、絶対誰かが切ったのよ、って。これが私の意見よ、役に立たなくてもね。もっといい意見があるならどうぞって言ったの。ダンラップさんにもそう言ったのよ――」

「まったく、毎晩毎晩、黒人だらけで小屋がいっぱいだったんじゃないかしら、四週間もかけてあれだけのことをやったんだから。シャツを見てごらんなさい、隅々まで血でアフリカの秘密文字だらけ! きっと一日中、黒人だらけだったのよ。二ドル払ってでも誰かに読んでほしいわ。あの書いた黒人どもには――私なら鞭で――」

「彼を助ける人たちだって? マープルズ兄弟! あんたもこの家にしばらくいたら、きっとそう思うだろうさ。何しろ、あいつらは手に届くものはなんでも盗んでいったんだよ――それも、こっちがずっと見張ってたってのにね。シャツは物干しからそのまま盗まれたし! それから、あのシーツ――あれでボロ切れのはしごを作ったやつさ――あれも、何度盗まれなかったかなんて、もう分かりゃしない。小麦粉やロウソク、燭台、スプーンに古い湯たんぽ、それに思い出せないほどたくさんの物、それから俺の新しいキャリコのドレスまで――おまけに、俺とサイラスとシドとトムで昼も夜も見張り続けてたって、さっき話しただろう? それでも、誰もあいつらの姿も音も見つけられやしなかった。それが、最後の最後になって、ほら見てみろよ、あいつらは俺たちの鼻先をすり抜けてきて、俺たちをまんまとだましたんだ。それも俺たちだけじゃなくて、インディアン領の強盗どもまでだましやがって、あろうことか、あの黒人を無傷で連れ出して逃げおおせたんだ。しかもその時、十六人の男と二十二匹の犬がすぐ後ろにいたってのにだ! まったく、俺が今まで聞いたどんな話よりもぶっ飛んでる。幽霊だってここまでうまくやれやしないさ。いや、きっと幽霊だったんじゃないかと思うくらいだ――だって、あんたたちも知ってるだろ、うちの犬たちを。あれより優秀な犬はいないさ。なのに、その犬たちがあいつらの匂いさえ一度も嗅ぎ当てられなかったんだぜ! これをどう説明するんだ? ――誰か説明してくれよ!」

「いや、こりゃたまげ――」

「なんてこった、あたしは――」

「神に誓って、俺だったら――」

泥棒でもあるとは――」

「おおまあ、こんな家に住むのは怖くて――」

「怖くて住めないさ! あたしゃ怖くて、寝るのも起きるのも横になるのも座るのもろくにできなかったんだよ、リッジウェイ姉さん。だってあいつら、もう――いや、ほんと、どれだけ取り乱してたか、あんたも昨夜の真夜中までに想像できるだろうよ。もう家族の誰かまで盗まれるんじゃないかと本気で思ってたくらいだよ! 頭がもうどうかしてしまったってわけさ。昼間の今となっては馬鹿みたいな話だけど、そのときはこう思ったんだ、あたしのかわいそうな二人の男の子が、あんな寂しい部屋で二階の奥で寝てるって――そしたらもう心配でたまらなくなって、そっと行って鍵をかけちまったんだよ! ほんとさ。誰だってそうするだろう? だってさ、あんなふうに怖がらされて、そのままどんどん悪くなって頭がパニックになって、いろんな馬鹿なことをしでかすもんさ。そしてふと、もしがあの子だったらって考えてみるわけよ、あんな高いところで、ドアに鍵がかかってなかったらって――」彼女はそこでふと止まって、不思議そうな顔をした。そしてゆっくりと俺の方に顔を向けて、俺と目が合った――俺は立ち上がって、散歩に出かけることにした。

俺は心の中で、どうして今朝あの部屋にいなかったかを考えるには、ちょっと外に出て頭を整理した方がよさそうだと思った。だからそうしたんだ。でも遠くには行けなかった。遠くに行けば、彼女が俺を呼び戻しただろうから。日が暮れる頃にはみんなが帰って、それから俺は家の中に入って、騒ぎと銃声で俺と「シド」が目を覚まして、ドアがかかってたもんだから、面白そうだからって稲妻避けの棒を伝って降りたんだ、そのときちょっと怪我もしたし、もう二度とあんなことはごめんだって話をしたんだ。それから、サイラスおじさんにしたのと同じことを全部話した。すると彼女は許してくれると言ってくれて、まあ大丈夫だったんじゃないかしら、結局男の子たちならそんなもんだろうって――彼女が知ってる限りみんなやんちゃだし、だからまあ、何も悪いことが起きなかったんだから、これからは今までのことをくよくよ思い悩むよりも、生きて元気でいてくれることに感謝して過ごす方が良さそうだと思うって。そう言って、俺にキスして、頭をなでて、ぼんやり物思いにふけってた。しばらくして、ふいに飛び上がって叫んだ。

「なんてこと! もうすぐ夜になるってのに、シドがまだ帰ってない! あの子はどうなったのかしら?」

俺はここがチャンスだと思って、さっと声を上げた。

「町まで行ってすぐに連れてくるよ」と俺は言った。

「だめよ」と彼女。「あんたはここにいなさい。一人もいなけりゃもう十分。夕食までに帰ってこなかったら、おじさんが行くから」

まあ、夕食の時間になってもトムは帰ってこなかった。それで、夕食のあとすぐにおじさんが出かけていった。

おじさんは十時ごろちょっと不安げに戻ってきた。トムの足取りはつかめなかったらしい。サリーおばさんもかなり心配していたが、サイラスおじさんは心配いらないと言った。男の子なんてそんなものだ、朝には元気に帰ってくるさ、って。だから、おばさんもそれで納得するしかなかった。でも、彼女はしばらく起きて待っていると言って、灯りをともしておいた。

俺が寝ようとしたとき、彼女も一緒についてきてくれて、ろうそくを持って、俺を布団に入れて、まるで母親みたいに優しく世話をしてくれた。俺は後ろめたくて、彼女の顔をまともに見られなかった。彼女はベッドに座って、長いこと俺と話して、シドがどんなに立派な子だか語り続けて、なかなか話をやめようとしなかった。時々、「あの子、迷子になったり、怪我したり、水に落ちて溺れたりして、今この瞬間どこかで苦しんでたり死んでたりするんじゃないか――あたしが側にいてやれないで……」と何度も俺に聞いた。すると、彼女の頬を涙が静かに伝う。俺は「シドは大丈夫。明日の朝にはきっと帰ってくるよ」と言ってやった。そうすると、彼女は俺の手を握ったりキスしたりして、「もう一度言って、それを何度も言ってちょうだい、そうしてもらうと気が楽になるの」と頼む。彼女は本当に困り果ててたんだ。彼女が部屋を出ていくとき、俺の目をじっと優しく見つめて、言った。

「トム、ドアには鍵をかけないからね。そこに窓があって、棒もある。でも、いい子でいてくれる? 出て行ったりしないでくれる? あたしのために」

神様が知ってる――俺は本当はどうしてもトムのことを見に行きたかったし、そのつもりだった。でも、あんなふうに言われてしまったら、たとえ王国一つくれるって言われても、もう行けやしなかった。

だけど彼女のこともトムのことも頭から離れず、あまりよく眠れなかった。夜中に二度、棒を伝って外に出て、家の前に回って、彼女が窓辺でろうそくを灯しながら道を見つめて涙を浮かべているのを見た。その時ほど、彼女のために何かしてやりたいと思ったことはない。でも俺にできることは、もう二度と彼女を悲しませるようなことはしないと心に誓うことだけだった。三度目に目を覚ましたのは夜明けで、また降りていくと、まだ彼女がそこにいて、ろうそくはもう消えかけて、灰色の髪を手に乗せて寝入っていた。

第四十二章

おじさんはまた朝食前に町へ行ったが、トムの手がかりは見つけられなかった。二人とも黙ってテーブルに座り、悲しそうな顔でコーヒーを冷まし、何も食べなかった。しばらくして、おじさんが言った。

「手紙を渡したっけ?」

「何の手紙?」

「昨日、郵便局でもらったやつだ」

「いいえ、もらってないわ」

「そうか、渡し忘れたらしい」

そう言っておじさんはポケットを探り、それからどこかに置いたのを取りに行って、持ってきて彼女に渡した。彼女は言った。

「まあ、セント・ピーターズバーグからだ――妹からだわ」

俺は、散歩でもした方が気が楽になると思ったが、体が動かなかった。だが彼女が封を切る前に、手紙を落として駆け出した――何かを見たからだ。俺もそれを見た。トム・ソーヤーがマットレスに乗せられてきて、あの老医者がついていた。ジムは彼女のキャリコドレスを着て、後ろ手に縛られていた。それと大勢の人たち。俺は咄嗟に手紙を適当なものの後ろに隠して駆け寄った。サリーおばさんはトムに飛びつき、泣きながら叫んだ。

「死んでる、死んでるわ、絶対に死んでる!」

トムは少しだけ頭を動かして何かうわごとを言った。それで正気じゃないことが分かった。彼女は両手を上げて叫んだ。

「生きてる、神様ありがとう! それで十分よ!」そう言うなりトムにキスして、家へ飛び込んでベッドの準備に走り回り、黒人たちやみんなに右へ左への指示を矢継ぎ早に飛ばした。

俺は男たちについていって、ジムがどうされるか見た。老医者とサイラスおじさんはトムと一緒に家に入っていった。男たちはひどく怒っていて、一部はジムを晒し首にして、近所の黒人たちへの見せしめにした方がいいと言っていた。逃げ出して大騒ぎを起こして、家族全員を何日も何夜も怖がらせたからだ。でも、他の者たちは「やめておけ、そんなことをしても仕方がない。あいつは俺たちの黒人じゃないし、持ち主が現れたら必ず損害賠償を求められるぞ」と言った。それで少し頭も冷えた。というのも、黒人を吊るせと一番騒ぐ連中ほど、いざとなって持ち主に金を支払うのは嫌がるものだからだ。

それでもジムはかなり罵倒され、時々頭をはたかれた。でもジムは黙っていて、俺を知っているそぶりも見せなかった。連中はジムを元の小屋に戻し、自分の服を着せ、また鎖につないだ。今度はベッドの脚じゃなく、小屋の土台の丸太に大きな金具を打ち込んで、そこに鎖で両手両足をつないだ。そして、これからはパンと水だけしか食わせない、持ち主が現れるまでか、ある期間が過ぎたら競売にかける、穴はふさぐ、夜は猟銃を持った農夫二人が見張り、昼は番犬をドアにつないでおくと決めた。そして、一通り仕事が終わって、最後は「じゃあな馬鹿野郎!」みたいに罵声で締めくくった。その時、老医者がやってきて、こう言った。

「必要以上に手荒なことはするなよ。あいつは悪い黒人じゃない。俺があの子を見つけたとき、どうしても弾丸を取り出すには誰かの助けが要った。だけど、あの子はとても一人にして置いておける状態じゃなかった。様子はどんどん悪くなっていって、ついには正気を失った。近づかせもしないし、もし筏に白墨で印をつけたら殺すだの、他にも馬鹿げたことばかり言って、どうしようもなかった。それで俺は、『誰かの助けが要る』と言った。そしたら、この黒人がどこからか這い出してきて助けると言ってくれて、実際ちゃんと助けてくれた。もちろん、逃亡奴隷だろうと思ったが、俺もああなってどうしようもなかったし、結局ずっとその場にいるしかなかった。あれは困ったもんだった! 患者が他にも二人いて、できれば町まで様子を見に行きたかったが、黒人が逃げたら俺の責任になるし、スキッフ(小舟)が一艘も近くを通らなかった。だから、夜明けまでずっとその場にいた。だが、あんなにいい看護師で誠実な黒人は見たことがない。しかも自分の自由を危険にさらしてまで手伝ってくれて、ひどく疲れていたのも見て取れた。最近こき使われたんだろうな。俺はそんな彼が好きになった。正直、ああいう黒人なら千ドルの価値がある――いや、優しくしてやる価値もある。必要なものは全部そろっていたし、あの子も家にいるより、むしろあそこで静かに休めて良かったと思う。だけど俺は二人を抱えて一晩中そこにいるしかなかった。夜明け近くになって、小舟に乗った男たちがやってきた。運良く黒人はパレットのそばで膝を抱えて眠っていた。だから、俺は静かに合図して、男たちは忍び寄って彼を押さえ込み、気づく前に縛り上げた。騒ぎは何もなかった。あの子も浅い夢の中にいたから、俺たちはオールをくるんで音を立てず、筏を引っ張って静かに川を渡った。黒人は最初から最後まで一言も騒がず、何も言わなかった。あいつは悪い黒人じゃない――俺はそう思ってる」

誰かが言った。

「なるほど、先生の話を聞くと確かに感心するよ」

すると他のみんなも少し態度が和らいで、俺は老医者がジムにいいことをしてくれてありがたく思った。そして、最初に見たときから、きっとこの人は心のいい人だと俺が思った通りだと嬉しかった。それからみんなジムの行いは立派だった、何か報いが与えられるべきだと口々に言い出し、全員が「もうこれ以上罵声を浴びせるのはやめよう」とはっきりと約束した。

それからみんな出てきてジムを小屋に閉じ込めた。誰か鎖を一つか二つ外してやるとか、パンと水だけじゃなく肉や野菜もやればいいのにと思ったが、誰もそんなことは言い出さなかった。俺も口を挟むのはよくないと考えた。けど、老医者の話は何とかしてサリーおばさんに伝えようと思った――このあと待っている大変な説明を乗り越えた後で、だが。つまり、あの忌々しい夜に俺とシドが逃亡奴隷探しで川をうろついたとき、どうしてシドが撃たれたことを話し忘れていたのか、説明しなきゃならないってことだ。

でも、時間はたっぷりあった。サリーおばさんは一日中、夜になってもずっと病室に付きっきりだったし、サイラスおじさんがうろうろしているのを見つけるたび、俺は逃げていた。

翌朝、トムはかなり良くなったとの知らせを聞いた。サリーおばさんは仮眠を取っているらしい。だから俺はこっそり病室に入り、もしトムが起きていたら、家族のために都合のいい話を考えようと思った。けど、トムは眠っていて、とても穏やかに寝ていた。来たときのような熱で顔が真っ赤ということもなく、ただ青白かった。俺は腰掛けて、目を覚ますのを待った。だいたい半時間ほどして、サリーおばさんが静かに入ってきた。これにはまた困った。彼女は俺に黙っているよう合図して、そばに座り、ささやき声で話し始めた。もう大丈夫、すべての症状は良い方向に向かっていて、ずっとこんなふうに眠っていて、どんどん顔色も良くなっている、きっと次に目が覚めたときは正気に戻っているだろう、と。

俺たちはそのままじっと見ていた。やがてトムが少し動いて、自然に目を開けて、辺りを見回して言った。

「おや――にいるぞ! どうしたんだ? 筏はどこだ?」

「大丈夫だ」と俺は言った。

「それにジムは?」

「同じだ」と答えたけど、あまりはっきりとは言えなかった。でもトムは気づかずに、

「よし! すごい! これでみんな無事で安全だ! おばさんには話した?」

俺は「うん」と言いかけたが、サリーおばさんが口を挟んだ。「何のこと、シド?」

「ほら、あの一件さ、全部の」

「全部って?」

「いや、その、全部さ。一つしかないだろ、俺とトムで逃亡奴隷を助けてやったってことを――」

「まあ! 逃亡奴隷を助けたですって、なんてこと! この子、またうわごとを……」

「違う、俺は頭がおかしくなったわけじゃない。話してることは全部ちゃんと分かってる。俺たちは本当にジムを自由にしたんだ――俺とトムでな。最初からそう決めて、実際にやったんだ。それも、とびきり見事にやったんだよ。」
トムは勢いづいて、サリーおばさんは制止もせず、ただじっと座って見てるだけで、好きなようにしゃべらせてた。俺はもう口を挟むだけ無駄だって分かった。
「ねえ、おばさん、本当にすごい手間がかかったんだ――何週間も、毎晩何時間も、みんなが寝てるあいだにやってたんだよ。それでロウソクやシーツやシャツ、それからおばさんのドレス、スプーンにブリキのお皿、果物ナイフや湯たんぽ、砥石に小麦粉、他にも数えきれないほど色んなものを盗み出さなきゃいけなかった。鋸やペン、刻印なんかを作るのがどれほど手間だったか、おばさんには想像もつかないよ。その半分も楽しさは分かんないだろうしさ。それで、棺桶とかいろんな絵を作って、盗賊からの匿名の手紙を用意して、避雷針を上り下りしたり、小屋に穴を掘ったり、ロープのはしごを作ってパイに仕込んで届けたり、おばさんのエプロンのポケットに道具を入れて運んだり――」

「まあ、なんてこと!」

「――それから、ジムのために小屋にネズミやヘビをいっぱい放り込んで仲間にしてやったんだ。それでおばさんがトムをバター入りの帽子でつかまえて引き留めてたもんだから、俺たちが小屋を出る前に男たちが来ちゃって、危うく全部台無しになるところだった。俺たちは慌てて逃げ出して、撃たれたりしながらも道を外れてやり過ごして、犬が来た時は俺たちじゃなくて一番騒がしい方に行ったから助かった。それでカヌーを手に入れてイカダまで行って、みんな無事で、ジムは自由の身になった。全部自分たちだけでやり遂げたんだ。すごかっただろ、おばさん!」

「まあ、生まれてこのかた、こんな話は聞いたことないよ! つまり、あんたたちがこんな厄介事を起こして、みんなをひっくり返しそうなほど驚かせて、私たちを死ぬほど心配させたってわけだ。もう、今すぐにでもこらしめてやりたいくらいだよ。ああ、夜な夜な――お前さんが元気になったら、その時こそ、こってりお仕置きしてやるからね!」

でもトムは、あまりにも得意げでうれしそうで、もうどうにも止まらなかった。サリーおばさんも食って掛かって、二人でにゃんにゃん騒ぎ合ってるみたいだった。そしたらおばさんが言った。

「まあ、今のうちにせいぜい楽しんでおくんだね。けど、もしまたあの人のことでちょっかい出してるの見つけたら――」

「ちょっかいって誰に?」とトムが、にやけ顔をやめて驚いた様子で聞いた。

「誰にって? 逃亡した黒人に決まってるだろう。誰だと思ってるのさ?」

トムは真剣な顔で俺の方を見ると、「トム、ついさっきあの人は無事だって言ったよな? もう逃げおおせたんじゃなかったのか?」と言った。

「彼?」とサリーおばさん。「逃げた黒人? とんでもない。もうつかまって、またあの小屋の中さ。パンと水だけで、鎖でがんじがらめ。誰かが引き取りに来るか売られるまで、ずっとそうさ!」

トムはベッドの上で体を起こし、目をぎらぎらさせて、鼻を大きく広げたり縮めたりしながら俺に叫んだ。

「そんなことする権利はない! 早く行け! 一分でも無駄にすんな。今すぐ解放しろ! 奴隷なんかじゃない、あいつはこの地上のどんな生き物と同じだけ自由なんだ!」

「この子は何を言ってるんだい?」

「俺が言ったことは全部そのままの意味だよ、サリーおばさん。誰も行かないなら、俺が行く。俺はジムのことをずっと知ってるし、トムだってそうだ。ミス・ワトソンは二か月前に亡くなって、彼女は自分がジムを川下に売ろうとしたことを恥じてた。それもちゃんとそう言ってたんだ。それで遺言でジムを自由にしたんだよ。」

「じゃあ、なんで君たちは彼を自由にしようとしたのさ? もう自由だったのに?」

「それは――そりゃ俺も聞きたいくらいだよ。ほんと、女の人らしいな! だって、冒険したかったんだよ。血まみれになってもやって――おやまあ、ポリーおばさん!」

もし、あの人がドアの内側に立って、パイを半分食べた天使みたいな顔でそこにいなかったら、俺は一生後悔するところだった。

サリーおばさんはポリーおばさんに飛びついて、頭がもげそうなほど抱きしめて、泣きじゃくってた。俺はベッドの下にうまくもぐり込んだ。だって、俺たちにとっては、もうかなりやばい空気になってたからな。ちょっとのぞいてみたら、しばらくしてトムのポリーおばさんが身を引き離して、メガネ越しにトムをにらみつけて――まるで地面にめり込ませるような感じだった。それからこう言った。

「そうね、トム、顔をそらした方がいいわよ。私があんただったらきっとそうするもの。」

「まあ、なんてこと!」とサリーおばさん。「そんなに変わっちゃったの? あれはトムじゃない、シドだよ。トムは――トムは――どこにいるの? さっきまでここにいたのに。」

「ハック・フィンはどこ、って言いたいんでしょ! 私が何年もトムを育ててきて、いざというときにあの子を見分けられないわけないじゃない。それこそ、おかしな話よ。さあ、ベッドの下から出てきなさい、ハック・フィン。」

だから俺は出た。けど、あんまり気が進まなかった。

サリーおばさんは、俺が今まで見た中で一番混乱した顔をしてた――いや、比べる人がいるとすれば、あと一人だけだ。サイラスおじさんだ。あとで全部聞かされたときのあの人の顔は、まるで酔っ払ってるみたいで、その日の残りはまるで何も分からなかった。夜の集会で説教までして、結局、誰にも意味が分からないような話で評判になってしまったくらいだ。
それからトムのポリーおばさんが、俺が誰なのか、どういう経緯なのかを全部話してくれた。で、俺も、どうしてこんな窮地になったかを白状した。つまり、サリーおばさんが俺をトム・ソーヤーだと思い込んで、――ここでおばさんが「もうハック、サリーおばさんって呼びなさいな、慣れちゃったし、今さら変える必要ないわ」って口を挟んできた――とにかく、サリーおばさんにトムだと思われて、どうしようもなくなって、仕方なく黙ってたってことさ。トムなら気にしないと思った。謎めいてるのは大好きだし、きっと冒険に仕立てて大満足するだろうって。それでその通りになって、トムはシドになりすまして、俺のこともうまく助けてくれてたんだ。

で、ポリーおばさんが言ったんだ。トムの言ってた通り、ミス・ワトソンが遺言でジムを自由にしていたって。本当にそうだった。つまりトム・ソーヤーは、自由な黒人をさらに自由にするためにあれだけ苦労を重ねたってわけさ! 俺にはこれまで、どうしてトムがそんなことをするのか分からなかったけど、その時その話を聞いて、やっと分かったんだ。ああいう育ち方をしたトムでも、助けたくなることがあるんだなって。

それでポリーおばさんが言うには、サリーおばさんが手紙で「トムとシドは無事に着いた」と知らせてきたとき、自分でも「やっぱりね! あの子を見張りもつけずに好きなようにさせるから、またきっと何かしでかすとこだったんだわ」と思ったそうだ。だから千百マイルも川を下って、今度は何をやってるのか確かめに来たんだって。だって、そっちからは何の返事も来なかったから。

「えー、私の方からは何も音沙汰なかったけど」とサリーおばさん。

「まあ、信じられないわ! 二度も手紙を書いたのに、シドがここにいるって、一体どういうことかって。」

「でも私は一通も受け取ってないよ、姉さん。」

ポリーおばさんはゆっくり厳しい顔で振り向いて、トムに言った。

「トム、あんた!」

「な、なんだよ?」とトムは、ちょっとふてくされた様子で答えた。

「なんだよ、じゃないよ、この生意気者――その手紙を出しなさい。」

「どの手紙?」

「あの手紙だよ。私が手を出さなきゃ分からないんだったら――」

「トランクの中だよ。ほら、ちゃんとそのままだ。郵便局でもらったまま、開けてもいないし、触ってもいない。でも、騒ぎになるのは分かってたから、もし急ぎじゃなかったら――」

「こりゃ本当に一度懲らしめないとダメだね。間違いないわ。それと、行くって手紙も書いたのに、多分これも――」

「いや、それは昨日届いた。まだ読んでないけど、大丈夫、ちゃんと持ってるよ。」

俺は二ドル賭けてやろうかと思ったけど、やめておいた。たぶんその方が安全だと思ったから、何も言わなかった。

最終章

トムをこっそり捕まえて、どうするつもりだったのか聞いてみた。ジムを逃がそうとした計画がうまくいったとして、もともと自由だった黒人をどうする気だったのかって。するとトムは、最初から頭の中で決めていたことがあって、もし無事にジムを助け出せたら、イカダで川を下りながら冒険して、河口まで行ったらジムに自由のことを打ち明けて、今度は豪華に蒸気船で家に送り返してやるつもりだったんだって。さらに、先回りしてみんなに知らせて、近くの黒人たちを呼び集めて、たいまつ行列とブラスバンドでジムを町へ迎え入れて、英雄に仕立ててやろう――俺たちも英雄になるって計画だったそうだ。でも、俺は、まあ今のままでよかったと思った。

ジムの鎖はすぐに外してやった。それでポリーおばさんもサイラスおじさんもサリーおばさんも、ジムがトムの看病をどれだけ手伝ったかを知って、ものすごく感謝して、大事に世話して、好きなだけ食べさせて、何もしなくていいようにしてやった。それでジムも病室に呼んで、話に花を咲かせた。トムは、俺たちのためにじっと我慢して捕まってくれて、こんなに頑張ってくれたお礼だって、ジムに四十ドル渡した。ジムはほとんど死ぬほどうれしがって、叫んだ。

「な、言ったやろハック。ジャクソン島でワイが言うたやろ? ワイには胸毛がある、そしたら金持ちになるってサインやって。昔も金持ちやったし、また金持ちになるって言うたやろ? ほんまや! 見てみい! サインはサインや、ホンマやで! ワイが金持ちになるって分かってたんや、こうしてここに立っとる今みたいや!」

それからトムは調子よくしゃべり続けて、「そのうち三人でコソッと抜け出して、道具をそろえてインディアンのいるテリトリーで思いっきり冒険しようぜ、二週間かそこらさ」って言った。俺は「いいね」と答えたけど、道具を買う金がないし、家からもらうのも無理そうだ、たぶんパプがもう帰ってきて、サッチャー判事から全部巻き上げて飲んじまってるだろうしな。

「いや、まだだよ」とトムが言った。「まだ全部残ってる――六千ドル以上ある。お前のパプはそれっきり戻ってない。俺が出てくるときも、まだだったよ」

ジムはちょっと神妙な顔で言った。

「パプはもう戻ってこおへん、ハック。」

俺は言った。

「なんで、ジム?」

「そんなん、ええやんハック――でも、もう戻ってこおへんってことや。」

でも俺がしつこく聞いたら、とうとう教えてくれた。

「川を流れてた家を覚えとるやろ、あの中に男が一人おったやん。ワイが中に入って、布をどけて見たけど、お前には見せへんかったやろ? あれがパプや。だから、金が欲しなったらいつでも取りに行けばええ。」

トムももうすぐ全快で、首に弾丸を時計の鎖みたいにぶら下げて、しょっちゅう時間を確認してる。だからもう書くことは何もないし、正直なところ、ほっとしてる。本を書くのがこんなに大変なら、最初からやらなかったし、もう二度とやるつもりはない。でも、サリーおばさんが俺を養子にして「文明人」にしようとしてるから、みんなより先にテリトリーに向けて逃げ出さなきゃいけない。俺はもう、あんなのはごめんだ。

おしまい。心から、ハック・フィン。

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