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茶の本

The Book of Tea

出版年
1906年
作者
岡倉覚三
翻訳
開原かいばら 藍誠あいせい
概要
茶の湯を「ティーイズム」という美学的宗教として捉え、その哲学と歴史を説いた一冊である。禅や道教の影響を受けた日本の美意識や茶室の構造を詳述し、日常の些細な事象の中に普遍的な美を見出す東洋の精神性を提示している。

岡倉覚三 著


第一章 人間性の一碗

茶は薬として始まり、やがて飲み物となった。中国では八世紀、風雅な遊びの一つとして詩の領域に入った。そして十五世紀の日本は、茶を美の宗教へと高めた――茶道である。茶道とは、日常の生々しい現実のなかに美を見いだし、それを崇めることに根ざした信仰だ。清らかさと調和を説き、互いを慈しむことの神秘を、社会の秩序にひそむ詩情を教える。その本質は、不完全なものへの崇拝にある。人生と呼ぶこの不可能なもののなかで、何か可能なことを成し遂げようとする、優しい試みなのだから。

茶の哲学は、ふつうにいう唯美主義にとどまらない。倫理や宗教とともに、人間と自然に対する私たちの見方の全体を表すものだからだ。清潔を求めるという点では衛生学であり、複雑で金のかかるものよりも簡素なもののなかに安らぎを示すという点では経済学である。また、宇宙に対して私たちがいかなる釣り合いを保つべきかを定めるという点では、道徳の幾何学でもある。茶道は、その道を慕う者すべてを趣味の貴族とすることによって、東洋の民主主義の真の精神を体現している。

日本が長く世界から隔たっていたことは、内省を促し、茶道の発達にきわめて好都合だった。住まいと習慣、衣服と料理、陶磁器、漆芸、絵画――さらには文学までも、すべてがその影響を受けている。日本文化を学ぶ者に、茶道の存在を無視することはできない。その精神は貴婦人の奥の間の優雅さに染みわたり、つつましい人々の住まいにも入り込んだ。農民は花を生けることを学び、最も身分の低い労働者さえ、岩や水に敬意を表すことを覚えた。私たちは日常、人の世の芝居が織りなす悲喜こもごもの趣に心を動かされない人を、「茶気がない」と呼ぶ。反対に、世の悲劇など意に介さず、解き放たれた感情の春に酔いしれて奔放に振る舞う美の愛好家を、「茶気がありすぎる」と評する。

門外漢には、こんな些細なことに大騒ぎするのが不思議に思えるかもしれない。茶碗のなかの嵐ではないか、と言うだろう。だが、人間の楽しみを盛る碗が結局どれほど小さく、どれほどたやすく涙であふれ、無限を求める癒えぬ渇きによって、どれほどあっけなく底まで飲み干されてしまうかを思えば、茶碗をこれほど大切にしても、自らを責めるには当たらない。人類はもっと悪いことをしてきた。酒神バッカスを崇めては惜しげもなく犠牲を捧げ、血にまみれた軍神マルスの姿さえ美化してきた。それなら、椿の一族の女王に身を捧げ、その祭壇から流れ出る温かな共感の流れに浸ってはどうだろう。象牙色の磁器に湛えられた琥珀こはくの液のなかに、道を知る者は、孔子の甘美な寡黙、老子の鋭い妙味、そして釈迦その人の天上的な香りに触れることができる。

自分のなかの大きなものの小ささを感じられない者は、他人のなかの小さなものの大きさを見落としがちだ。世間一般の西洋人は、何の疑いもない自己満足に浸り、茶の湯を、自分の目に東洋を奇妙で子供じみたものと映らせる無数の奇習の一つとしか見ない。日本が平和の穏やかな技芸に親しんでいたころには野蛮国と見なしていたのに、満州の戦場で大規模な殺戮を始めると、文明国と呼ぶようになった。近ごろは武士道――兵士たちを自己犠牲に奮い立たせる死の術――が盛んに論じられている。ところが、生の術のこれほど多くを体現する茶道には、ほとんど目が向けられない。文明国たる資格を戦争の凄惨な栄光に求めなければならないのなら、私たちは喜んで野蛮人のままでいよう。そして、私たちの芸術と理想にふさわしい敬意が払われる時を、喜んで待とう。

西洋はいつになれば東洋を理解するのか。理解しようと努めるのか。私たちアジア人は、自分たちについて織り上げられた、事実と空想の奇妙な網にしばしば驚かされる。鼠や油虫を食べて暮らしているのでなければ、蓮の香りを糧に生きているかのように描かれる。無力な狂信か、さもなければ卑しい官能への耽溺か、どちらかだというわけだ。インドの精神性は無知と嘲られ、中国人の沈着さは愚鈍、日本人の愛国心は宿命論の結果とされてきた。神経の仕組みが鈍いから、私たちは痛みや傷をあまり感じない、とさえ言われてきたのである。

どうぞ、私たちを笑いの種にするがよい。アジアもお返しはしている。私たちが西洋人について想像し、書いてきたことをすべて知れば、笑いの種はさらに増えるだろう。そこには、遠くから眺めるゆえの魅惑も、驚きから生まれる無意識の敬意も、新しく得体の知れないものへの無言の反感も、ことごとくある。西洋人には、あまりに高尚で羨む気にもなれない美徳が山ほど授けられ、あまりに絵空事めいていて非難する気にもなれない罪が着せられてきた。昔の著述家たち――事情に通じた賢者たち――は、西洋人が衣服のどこかにふさふさした尾を隠し、しばしば生まれたばかりの赤子の煮込みを食べると教えてくれた。それどころか、もっと悪いことも考えていた。西洋人は地上で最も実行力に欠ける人々だと思っていたのである。自分では決して実践しないことを説教するという評判だったからだ。

こうした誤解は、私たちのあいだでは急速に消えつつある。交易によって、東洋の多くの港にヨーロッパの言語が否応なく入り込んだ。アジアの青年たちは近代教育を身につけようと、西洋の大学へ群れをなして向かっている。私たちの理解は西洋文化の奥深くにまでは届いていないが、少なくとも学ぶ意志はある。同胞のなかには、糊のきいた襟と背の高い絹の帽子を手に入れれば西洋文明を獲得したことになると思い込み、西洋の風習や礼儀作法を取り入れすぎた者もいる。そんな気取りは痛ましく嘆かわしいが、膝をついてでも西洋に近づこうとする意欲の現れではある。残念ながら、西洋の態度は東洋の理解に好都合とはいえない。キリスト教の宣教師は、与えに来るのであって、受け取りに来るのではない。西洋の人々の知識は、通りすがりの旅行者の頼りない逸話でなければ、私たちの膨大な文学の、ごくわずかな翻訳に基づいている。ラフカディオ・ハーンや『インドの生活の織物』の著者のように、騎士道的な筆をもって、私たち自身の心情を松明とし、東洋の闇を照らしてくれる人はまれだ。

これほど率直に語るのは、茶道に対する私自身の無知をさらけ出すことかもしれない。茶道の礼節の精神は、相手が期待することだけを語り、それ以上は口にしないよう求めるからだ。だが、私は行儀のよい茶人でいるつもりはない。新世界と旧世界の相互の誤解は、すでにあまりにも多くの害を生んできた。理解を深めるためにささやかな力を尽くすことに、詫びはいらない。ロシアが少しでもへりくだって日本を知ろうとしていたなら、二十世紀の幕開けを血なまぐさい戦争で飾らずにすんだだろう。東洋の問題を侮り、無視することが、人類にどれほど恐ろしい結果をもたらすことか。「黄禍」という愚かな叫びを上げることもためらわないヨーロッパの帝国主義は、アジアもまた「白禍」の残酷さに目覚めかねないことに気づいていない。私たちを「茶気がありすぎる」と笑ってもよい。だがこちらも、西洋の人々には生まれつき「茶気がない」のではないかと疑ってよいはずだ。

大陸どうしで皮肉を投げ合うのは、もうやめよう。互いに半球の半分をわがものとして、賢くなれないまでも、せめて悲しみを深くしよう。私たちは異なる道を歩んできたが、互いに補い合えない理由はない。西洋は安らぎを失う代わりに拡大を手に入れ、私たちは侵略に弱い調和を築いてきた。信じてもらえるだろうか――ある点では、東洋は西洋より恵まれているのだ。

不思議なことに、人類はこれまで茶碗のなかで出会ってきた。茶は、世界のどこでも敬意を払われる唯一のアジアの儀式である。白人は私たちの宗教や道徳を嘲ってきたが、褐色の飲み物はためらわず受け入れた。午後の茶は、今や西洋社会の重要な営みとなっている。盆や受け皿の繊細な触れ合い、もてなす女性の衣擦れの柔らかな響き、クリームと砂糖についての決まりきった問答。そこに、茶の崇拝が疑いなく根を下ろしたことを私たちは知る。何やら怪しげな煎じ汁のなかに待ち受ける運命を、客が哲人のように諦めて受け入れる姿は、この一事にかぎって東洋の精神が至高の座を占めていることを告げている。

ヨーロッパの文献における茶の最古の記録は、アラビア人旅行者の報告にあるといわれる。それによれば、879年以降、広東の主な収入源は塩と茶に課せられた税だった。マルコ・ポーロは、1285年、中国の財政をつかさどる大臣が、茶税を勝手に引き上げたため罷免されたと記している。ヨーロッパの人々が極東をより詳しく知るようになったのは、大航海時代のことだった。十六世紀末、オランダ人は、東洋である低木の葉から快い飲み物が作られているという知らせをもたらした。旅行家のジョヴァンニ・バッティスタ・ラムージオ(1559年)、L・アルメイダ(1576年)、マッフェーノ(1588年)、タレイラ(1610年)も茶について述べている。最後に挙げた年、オランダ東インド会社の船が初めて茶をヨーロッパに運んだ。フランスでは1636年に知られ、ロシアには1638年に届いた。イギリスは1650年に茶を迎え、「中国人がチャ、他国の人々がテイ、またはティーと呼ぶ、あらゆる医師が認めた、かの優れた中国の飲み物」と称した。

世のあらゆるよいものと同じく、茶の普及にも反対があった。ヘンリー・サヴィルのような異端者は、1678年、茶を飲むことを不潔な習慣だと非難した。ジョナス・ハンウェイは『茶についての論考』(1756年)で、茶を飲むことによって男は体格と容姿のよさを、女は美しさを失うようだと述べた。当初の値段は一ポンドにつき十五、六シリングほどで、大衆には手が届かず、茶は「高貴なもてなしや宴席のための珍品であり、王侯や貴顕への贈り物」だった。

だが、そうした不利な事情にもかかわらず、茶を飲む習慣は驚くほどの速さで広まった。十八世紀前半のロンドンのコーヒーハウスは、実のところ茶の店となり、アディソンやスティールのような才人たちが集まって、「一碗の茶」を前に楽しく時を過ごした。

この飲み物はまもなく生活の必需品となった――つまり、課税できる品となったのである。ここで、茶が近代史で果たした重要な役割を思い出さずにはいられない。植民地時代のアメリカは、茶に課せられた重税によって人間の忍耐が限界に達するまで、圧政に甘んじていた。アメリカ独立の始まりは、茶箱がボストン港へ投げ込まれた時にある。

茶の味には、抗いがたい魅力と、理想へ高めうる微妙な趣がある。西洋のユーモア作家たちは、いち早くその香りに自らの思索の香りを溶け込ませた。茶には、葡萄酒の傲慢さも、コーヒーの自意識も、ココアの媚びた無邪気さもない。すでに1711年、『スペクテイター』はこう述べている。「それゆえ私は、毎朝一時間を茶とバターつきのパンのために取っておく、きちんとした家庭のすべてに、この私の思索をとりわけお薦めしたい。そして皆さんのためにも、本紙を毎朝忘れず食卓へ運ばせ、茶道具の一つと見なしていただくよう、心からお勧めする。」

サミュエル・ジョンソンは自画像をこう描いている。「筋金入りで恥知らずの茶飲み。二十年にわたり、この魅惑的な植物の煎じ汁だけで食事を流し込み、茶で夕べを楽しみ、茶で真夜中を慰め、茶で朝を迎えてきた男。」

自ら茶の信徒を名乗ったチャールズ・ラムは、人知れず善行をなし、それを偶然見つけられることが、自分の知る最大の喜びだと書いた。その言葉には、茶道の真髄が響いている。茶道とは、美を見いだしてもらうために隠し、あからさまには示せないものをほのめかす術だからだ。それは、自分自身を穏やかに、しかも徹底して笑う高貴な秘訣であり、ゆえにユーモアそのもの――哲学の微笑みなのである。この意味で、真のユーモア作家はすべて茶の哲人と呼べる。たとえばサッカレー、そしてもちろんシェイクスピアも。デカダンスの詩人たちも――世界が退廃していなかった時など、いつあっただろう――物質主義に抗うことで、ある程度まで茶道への道を開いてきた。今日、西洋と東洋が出会い、互いに慰め合えるのは、不完全なものを静かに見つめる、私たちの眼差しのなかかもしれない。

道家は語る。始まりなき始まりの大いなる初めに、精神と物質が死闘を繰り広げた。ついに天の太陽たる黄帝が、闇と大地の魔神、祝融を打ち破った。巨神は断末魔の苦しみに、太陽を支える天穹へ頭を打ちつけ、青い翡翠の丸天井を粉々に砕いた。星々は巣を失い、月は夜の荒れた裂け目をあてもなくさまよった。絶望した黄帝は、天を修復できる者を広く求めた。その探索は無駄ではなかった。東の海から一人の女王、角を冠し龍の尾を持ち、火の鎧をまばゆく輝かせた女神、女媧じょかが現れた。女媧は魔法の釜で五色の虹を溶かし合わせ、中国の空を築き直した。だが、青空にある二つの小さな裂け目を塞ぎ忘れたという。こうして愛の二元性が始まった――二つの魂は空間を転がり続け、結ばれて宇宙を完成させるまでは安らぐことがない。誰もが、自分自身の希望と平和の空を、あらためて築かなければならない。

現代の人類の天もまた、富と権力をめぐる巨人の争いによって砕かれてしまった。世界は利己心と俗悪さの影のなかを手探りで進んでいる。知識は良心の呵責と引き換えに買われ、慈善は実利のために施される。東洋と西洋は、沸き立つ海に翻弄される二頭の龍のように、生命の宝玉を取り戻そうとむなしくもがいている。この大いなる荒廃を修復するために、もう一度女媧が必要だ。私たちは偉大な神の化身を待っている。だが、それまでは茶を一口いただこう。午後の光が竹を照らし、泉は喜ばしげに湧き、釜には松風の音が聞こえる。はかなさを夢みながら、物事の美しい愚かさに、しばし身を委ねよう。

第二章 茶の諸流派

茶は芸術作品であり、その最も優れた性質を引き出すには、名人の手を必要とする。絵に佳作と駄作があるように、茶にもよい茶と悪い茶がある――たいていは後者だ。ティツィアーノや雪村の作品を生む規則がないように、完璧な茶をいれるための、ただ一つの処方はない。茶葉はその仕立てごとに個性を持ち、水や火との特別な相性があり、それぞれの物語の語り方を持つ。真の美は、つねにそのなかにあるはずだ。芸術と人生におけるこの単純で根本的な法則を、世間がいつまでも認めようとしないために、私たちはどれほど苦しむことか。宋の詩人、李季卿は、世に最も嘆かわしいことが三つあると悲しんだ。誤った教育によって優れた若者を損なうこと、俗悪な称賛によって優れた芸術を貶めること、そして不手際な扱いによって優れた茶をまったく台無しにすることだ。

芸術と同じく、茶にも時代と流派がある。その発展は大きく三段階に分けられる。煮る茶、点てる茶、浸す茶である。現代の私たちは最後の流派に属する。こうした茶の味わい方は、それぞれが盛んだった時代の精神を表している。生きることは表現であり、私たちの無意識の行動は、つねに心の奥の思いを漏らしているからだ。孔子は「人はどうして自分を隠せよう」と言った。

小さなことに自分をさらけ出しすぎるのは、隠すほどの大きなものをほとんど持ち合わせていないからかもしれない。日々のささやかな出来事も、哲学や詩の最も高い飛翔と同じほどに、民族の理想を語っている。好まれる葡萄酒の違いが、ヨーロッパの時代や国民ごとの個性を示すように、茶の理想も東洋文化のさまざまな気風を特徴づける。固めて煮た茶、粉にして点てた茶、葉のまま浸した茶は、中国の唐・宋・明、それぞれの時代の異なる心の動きを示している。濫用されがちな芸術分類の用語を借りるなら、それぞれを茶の古典派、ロマン派、自然主義派と呼んでもよいだろう。

中国南部を原産とする茶の木は、きわめて古い時代から中国の本草学や医学で知られていた。古典には、荼と、檟か、蔎せつ、茗めい、荈せんなど、さまざまな名で登場し、疲れを取り、心を喜ばせ、意志を強め、視力を回復させる効能があるとして珍重された。内服するだけでなく、練り薬にして体に塗り、リウマチの痛みを和らげることもしばしばあった。道家は、不老不死の霊薬の重要な材料だとした。仏教徒は長時間の瞑想中に眠気を防ぐため、広くこれを用いた。

四、五世紀になると、茶は長江流域の住民に好まれる飲み物となった。今日の「茶」という文字が生まれたのもこのころで、古い「荼」の字が変化したものと見られる。南朝の詩人たちは、「流れる翡翠の泡」への熱烈な賛美を、いくつかの詩句に残している。

当時、皇帝は優れた功績への褒美として、特別に仕立てた珍しい茶を重臣たちに与えたものだった。だが、この段階での飲み方は、きわめて原始的だった。葉を蒸し、臼でつき、餅状に固め、それを米、生姜、塩、橙の皮、香辛料、乳、ときには葱まで加えて煮たのである。この習慣は今日もチベット人やモンゴルのさまざまな部族に残り、こうした材料で奇妙な濃い飲み物を作っている。中国の隊商宿から茶を飲むことを学んだロシア人がレモンの薄切りを入れるのも、古い方法の名残を示している。

茶をこの粗野な状態から解き放ち、ついには理想へと高めるには、唐代の天才を待たなければならなかった。八世紀半ば、陸羽りくうという最初の茶の使徒が現れる。陸羽は、仏教・道教・儒教が互いに融合を求めていた時代に生まれた。当時の汎神論的な象徴思想は、個別のものに普遍を映し出そうと人々を促していた。詩人でもあった陸羽は、茶を供する営みのなかに、万物を貫くのと同じ調和と秩序を見た。名著『茶経』――茶の聖典――において、茶の規範をまとめたのである。以来、中国の茶商たちは陸羽を守護神として崇めてきた。

『茶経』は三巻十章からなる。第一章では茶の木の性質を、第二章では採葉の道具を、第三章では茶葉の選び方を論じている。最上の茶葉とは、「タタールの騎手の革靴のように皺が寄り、雄牛の喉の垂れ肉のように縮れ、谷から立ちのぼる霧のように広がり、そよ風に触れた湖のように光り、雨上がりの肥えた土のように湿って柔らかい」ものでなければならないという。

第四章は、三脚の風炉に始まり、すべての道具を収める竹籠に終わる、二十四種の茶道具の列挙と説明に充てられている。ここには、道家の象徴表現に対する陸羽の好みがうかがえる。また、これに関連して、茶が中国の陶磁器に及ぼした影響も興味深い。よく知られるように、中国の磁器は翡翠の絶妙な色合いを再現しようとする試みから生まれ、唐代には南方の青い釉薬と北方の白い釉薬へと結実した。陸羽は茶碗の理想の色を青とした。茶の緑をいっそう引き立てる一方、白は茶を赤みがかって見せ、食欲をそそらない色にするからである。これは陸羽が餅茶を用いたためだ。のちに宋の茶人たちが粉茶を使うようになると、青黒い色や濃い褐色の重厚な碗が好まれた。葉を浸して茶をいれた明の人々は、薄手の白磁を愛した。

第五章では、陸羽は茶のいれ方を述べている。塩以外の混ぜ物はすべて退けた。また、盛んに論じられていた水の選び方と沸かし加減にも詳しく触れている。最上なのは山の湧き水で、川の水、泉の水がこの順に続くという。沸騰には三段階ある。魚の目のような小さな泡が表面に浮かぶのが第一沸、泉に水晶の玉が転がるように泡立つのが第二沸、釜のなかで大波が激しくうねるのが第三沸である。餅茶は火であぶり、赤子の腕のように柔らかくしてから、上質の紙に挟んで砕き、粉にする。第一沸で塩を入れ、第二沸で茶を入れる。第三沸には柄杓一杯の冷水を釜に注ぎ、茶を落ち着かせ、「水の若さ」をよみがえらせる。

こうして茶を碗に注いで飲んだ。ああ、甘露よ。薄い葉のかけらは、澄み切った空のうろこ雲のようにたなびき、翡翠色の流れの睡蓮のように漂った。唐の詩人、盧仝ろどうが歌ったのは、こうした茶だった。「一碗は唇と喉を潤し、二碗は孤独を破る。三碗は荒れた腹の内を探り、そこにある五千巻ほどの奇妙な文字を見いだす。四碗を飲めば薄く汗ばみ、世の不平はことごとく毛穴から去る。五碗でわが身は清められ、六碗で仙人の境へと招かれる。七碗――ああ、もう飲めない。ただ両の袖に涼風の起こるのを覚えるばかり。蓬莱山はどこにある。この清らかな風に乗り、そこへ飛んでゆこう。」

『茶経』の残りの章では、世間一般の茶の飲み方の俗悪さ、著名な茶愛好家の歴史、中国の名高い茶産地、茶を供する際に可能な省略や変法、そして茶道具の図解が扱われる。最後のものは、残念ながら失われてしまった。

『茶経』の出現は、当時かなりの反響を呼んだに違いない。陸羽は代宗皇帝(763――779年)と親しく、その名声を慕って多くの弟子が集まった。洗練された愛好家のなかには、陸羽のいれた茶と弟子のいれた茶を飲み分けられる者もいたという。ある官吏は、この大名人の茶を理解できなかったために、その名を後世に残すこととなった。

宋代には点てる茶が流行し、茶の第二の流派が生まれた。葉を小さな石臼で細かな粉にひき、湯のなかで、竹を細く割って作った繊細な茶筅ちゃせんを使ってかき立てた。この新しい方法に伴い、陸羽の茶道具にも、茶葉の選び方にも変化が生じた。塩は永久に姿を消した。宋の人々の茶への熱狂は、とどまるところを知らなかった。愛好家たちは新しい品種の発見を競い、優劣を決める正式な競技会も開かれた。立派な君主でいるには芸術家として優れすぎていた徽宗きそう皇帝(1101――1124年)は、珍しい品種を得るために財宝を惜しげもなく費やした。自ら二十種の茶について論じ、そのなかで「白茶」を最も珍しく優れたものとして称えている。

宋代の茶の理想は、人生観の違いと同じほど唐代のそれと異なっていた。宋人は、先人たちが象徴によって表そうとしたものを、現実に生きようとした。新儒学の考えでは、宇宙の法則が現象世界に映るのではない。現象世界そのものが宇宙の法則なのである。永劫も一瞬にすぎず、涅槃はいつでも手の届くところにある。不死は永遠の変化のなかにあるという道家の思想が、あらゆる思考に染みわたっていた。関心を引くのは、成された行為よりも、その過程だった。真に重要なのは完成ではなく、完成へ向かうことだった。こうして人は、直接、自然と向き合うようになった。生きる術に新しい意味が宿った。茶は詩的な気晴らしではなく、自己を実現する方法の一つとなり始めた。王禹偁おううしょうは茶を称えて、まっすぐに語りかけるかのように魂を満たし、そのほのかな苦みは、よい忠告のあとに残る味わいを思わせると歌った。

蘇東坡そとうばは、真に徳ある人のように腐敗を寄せつけない、茶の無垢な清らかさの力を歌った。仏教では、道家の教えを多く取り入れた南方の禅宗が、精緻な茶の儀礼を定めた。僧たちは達磨の像の前に集まり、聖餐にも似た厳粛さで、一つの碗から茶を飲んだ。この禅の儀礼が、ついには十五世紀の日本で茶の湯へと発展したのである。

不幸にも、十三世紀に突如として起こったモンゴル諸族の進出は、中国を荒廃させ、元朝の野蛮な支配下に置くとともに、宋文化の成果をことごとく破壊した。十五世紀半ばに民族の再興を試みた中国固有の王朝、明も、内憂に悩まされ、十七世紀には中国は再び満州人という異民族の支配下に落ちた。風俗習慣は変わり、昔の面影は残らなくなった。粉茶はすっかり忘れ去られた。宋の古典に記された茶筅がどのような形だったか思い浮かべられず、途方に暮れる明代の注釈家さえいる。いまや茶は、碗や杯に入れた葉を熱湯に浸して飲まれる。西洋が古い茶の飲み方を知らないのは、ヨーロッパに茶が伝わったのが、明朝末期にすぎなかったためだ。

近ごろの中国人にとって、茶は美味な飲み物ではあっても、理想ではない。国の長い苦難が、人生の意味を味わう喜びを奪ってしまった。近代的になったのである。つまり、老い、幻滅したのだ。詩人や古人の永遠の若さと活力を支える、夢への崇高な信頼を失ってしまった。折衷主義者となり、世の伝統を行儀よく受け入れている。自然と戯れはするが、それを征服しようとも崇拝しようともしない。その葉茶はしばしば花のような香りを放ち、見事なものだが、唐や宋の儀礼の詩情を、その碗のなかに見つけることはできない。

中国文明の歩みを間近に追ってきた日本は、茶の三つの段階をすべて知っている。早くも729年、聖武天皇が奈良の宮廷で百人の僧に茶を賜ったという記録がある。茶葉はおそらく遣唐使が持ち帰ったもので、当時流行していた方法で調えられたのだろう。801年には僧の最澄が種を持ち帰り、比叡山に植えた。その後の数世紀には、多くの茶園のことや、貴族と僧侶が茶を楽しんだことが伝えられている。宋の茶が日本へ届いたのは1191年、南方の禅を学ぶために渡宋した栄西えいさい禅師の帰国に伴ってである。持ち帰った新しい種は三か所で順調に育ち、その一つ、京都近郊の宇治は、今なお世界最良の茶の産地として名を保っている。南方の禅は驚くほどの速さで広まり、それとともに宋の茶の儀礼と理想も広まった。十五世紀には、将軍足利義政の庇護のもと、茶の湯は完全な形を整え、独立した世俗の営みとなった。以来、茶道は日本に確固たる地位を築いている。後世の中国で行われた、茶葉を浸していれる方法が日本に入ったのは比較的新しく、十七世紀半ば以降のことである。日常の飲用ではそれが粉茶に取って代わったが、粉茶はいまなお茶のなかの茶としての地位を保っている。

茶の理想が頂点に達した姿を、私たちは日本の茶の湯に見る。1281年のモンゴル襲来を退けたことで、中国本土では遊牧民の侵入によって無惨に断ち切られた宋の精神の流れを、日本は受け継ぐことができた。日本で茶は、飲む形式を理想化したもの以上になった。それは生きる術の宗教である。茶という飲み物は清らかさと洗練を崇めるための契機となり、亭主と客が一つになって、そのひとときに、この世にありうる最高の幸福を生み出す聖なる営みとなった。茶室は人生の荒涼たる砂漠のなかのオアシスであり、疲れた旅人たちはそこに集い、芸術を味わう共通の泉から水を飲むことができた。茶の湯は、茶と花と絵をめぐって筋書きが織られる即興劇だった。部屋の調子を乱す色はなく、物事の律動を損なう音もなく、調和を妨げる身振りも、周囲の統一を破る言葉もない。すべての動作を簡素に、自然に行う――それが茶の湯の目指すところだった。そして不思議にも、その試みはしばしば成功した。そのすべての背後には、精妙な哲学があった。茶道とは、姿を変えた道家思想だったのである。

第三章 道家思想と禅

禅と茶の結びつきは、誰もが知るところだ。茶の湯が禅の儀礼から発展したことは、すでに述べた。道家思想の祖、老子の名もまた、茶の歴史と深く結びついている。中国の風俗習慣の起源を説く教科書には、客に茶を供する儀礼は、老子の高名な弟子、関尹に始まると記されている。関尹は函谷関の門で初めて、この「老いた哲人」に黄金色の霊薬を一碗差し出したという。こうした物語の真偽を、ここで論じるつもりはない。ただ、道家が早くから茶を飲んでいたことを裏づける点では価値がある。ここで私たちが道家思想と禅に関心を寄せるのは、主として、いわゆる茶道に体現された、人生と芸術についての考え方のためである。

立派な試みはいくつかあったものの、道家や禅の教えを十分に伝える紹介が、いまだ外国語では見当たらないようなのは残念だ。

翻訳はつねに裏切りである。明のある著述家の言葉を借りれば、どれほどよくできても錦の裏面にすぎない。糸はすべてそこにあるが、色と模様の妙は失われている。だが、そもそも偉大な教えで、容易に説き明かせるものがあるだろうか。古代の賢者たちは、教えを体系立てて示すことをしなかった。半面の真理を語るのを恐れて、逆説で語った。愚者のように語り始め、聞く者を賢くして語り終えた。老子自身、独特のユーモアをもってこう言っている。「知恵の劣る者は道を聞いて大いに笑う。笑われなければ、道とはいえない。」

「道」は、文字どおりには通り道を意味する。これまで、道、絶対、法則、自然、至高の理性、様式など、さまざまに訳されてきた。いずれも誤りではない。道家によるこの語の用い方は、論じる対象に応じて異なるからだ。老子自身はこう語った。「あらゆるものを包み、天地の存在に先立って生まれたものがある。なんと静かで、なんと孤独なことか。ひとり立ち、変わることがない。巡り続けて損なわれず、宇宙の母である。その名を知らぬゆえ、道と呼ぶ。強いて名づければ、無限という。無限とは過ぎゆくもの、過ぎゆくものとは遠ざかるもの、遠ざかるものとは帰ってくるものだ。」

道は、通り道そのものよりも、そこを通りゆくことにある。宇宙の変化の精神であり、自らへ立ち返って新しい形を生み出す、永遠の成長である。道家が好んだ象徴、龍のように、道は身をひるがえして自らに帰る。雲のように身をたたみ、また広げる。道とは、大いなる移り変わりと呼んでもよい。内から見れば、それは宇宙の気分である。その絶対とは、相対なのだ。

まず心に留めるべきは、道家思想が、その正統な後継者である禅と同じく、中国南方の精神の個人主義的傾向を表すということだ。これは、儒教に表れた北方の共同体主義と対照をなす。中国はヨーロッパに匹敵するほど広く、国土を横切る二大河川の水系によって、気質の違いが際立っている。長江と黄河は、それぞれ地中海とバルト海に当たる。何世紀も統一が続いた今日でさえ、南方の中国人の思想と信仰は北方の同胞と異なり、その違いはラテン民族とゲルマン民族の違いにも似ている。交通が今よりさらに難しかった古代、とりわけ封建時代には、この思想の違いが最も顕著だった。一方の芸術や詩に流れる空気は、他方のそれとはまるで異なる。老子とその後継者たち、そして長江の自然詩人の先駆けである屈原には、同時代の北方の著述家たちの散文的な倫理観とは相いれない理想主義が見いだされる。老子が生きたのは、キリスト紀元より五世紀前のことである。

道家の思索の芽は、耳長と呼ばれた老子が現れるはるか以前に見つけられる。中国最古の記録、とりわけ『易経』には、その思想の先触れがある。だが、紀元前十六世紀の周王朝成立をもって頂点に達した、中国文明の古典期の制度や慣習への深い敬意は、長く個人主義の発達を抑えてきた。そのため、周が崩れ、無数の独立国が成立して初めて、自由思想が豊かに花開くことができた。老子と荘子はともに南方の人で、この新しい学派の最も偉大な代弁者だった。これに対し、孔子と多くの弟子たちは、祖先から受け継いだ慣習を守ろうとした。儒教をある程度知らずに道家思想を理解することはできず、その逆もまた同じである。

道家にとっての絶対は相対だと述べた。倫理において、道家は社会の法や道徳律を激しく批判した。彼らにとって善悪は、相対的な呼び名にすぎなかったからだ。定義することは、つねに限界を設けることである。「固定」や「不変」は、成長の停止を表す言葉にすぎない。屈原は言った。「聖人は世とともに移る。」

私たちの道徳の基準は、過去の社会の必要から生まれた。だが、社会は永遠に同じでなければならないのか。共同体の伝統を守ることには、個人を絶えず国家の犠牲にすることが伴う。教育は、この巨大な幻想を維持するために、ある種の無知を育む。人々は真に徳ある者となることではなく、行儀よく振る舞うことを教えられる。私たちが悪いのは、自意識が恐ろしく強いからだ。他人に真実を語るのが怖いので良心を育て、自分に真実を語るのが怖いので誇りへ逃げ込む。世の中そのものがこれほど滑稽なのに、どうして真顔で向き合えるだろう。どこもかしこも物々交換の精神だ。名誉だ、貞節だという。見よ、得意げな商人が善と真を切り売りしている。いわゆる宗教さえ買える。実のところ、ありふれた道徳を花と音楽で神聖らしく飾ったものにすぎないのだが。教会から装飾を取り去ったら、あとに何が残るだろう。それでも、この独占事業は驚くほど繁盛する。値段がばかばかしいほど安いからだ。祈り一つで天国行きの切符、証書一枚で立派な市民の資格。さあ、急いで枡の下へ身を隠そう。世間に本当の役立ち方を知られたら、たちまち公の競売人にかけられ、最高値をつけた者に売り払われてしまうだろう。男も女も、なぜこれほど自分を宣伝したがるのか。それも奴隷時代から受け継いだ本能にすぎないのではないか。

思想の生命力は、後世の動きを支配する力に劣らず、同時代の思考を突き破る力にもある。道家思想は、中国が統一され、その名から英語のチャイナという呼び名が生まれた秦代に、活発な力として働いた。時間が許せば、同時代の思想家、数学者、法律や兵法の著述家、神秘家や錬金術師、さらに後世の長江の自然詩人に及ぼした影響をたどるのも興味深いだろう。白馬の実在は白さにあるのか、それとも実体にあるのかと問いを立てた実在の思索家たちも、禅の哲人と同じく、純粋なものや抽象的なものをめぐる議論に興じた六朝の清談家たちも、見過ごしてはならない。何より私たちは、中国人の気質を形づくるうえで道家が果たした役割に敬意を払うべきだ。道家はそこに、翡翠のような温かみを持つ、奥ゆかしさと洗練の資質を与えたのである。

中国の歴史には、君主から隠者まで、道家の信奉者たちが教えに従って生き、さまざまな興味深い結果をもたらした例が満ちている。その物語には、教訓も楽しみも少なくないだろう。逸話や寓話、警句が豊かにあるはずだ。一度も生きたことがないから決して死ななかったという、あの愉快な皇帝とは、ぜひ知り合いになりたいものだ。列子とともに風に乗り、自分自身が風なのだからまったく静かだと悟ることもできよう。あるいは、天にも地にも支配されないために天地の間に住んだ、黄河の老人とともに空中で暮らすこともできる。今日の中国に見られる、道家思想の奇怪な成れの果てとしかいえないもののなかにさえ、ほかのいかなる信仰にもない豊かな想像の世界を楽しむことができる。

だが、道家思想がアジアの生活に果たした最大の貢献は、美の領域にある。中国の歴史家たちは、道家思想をつねに「世に処する術」と呼んできた。道家が扱うのは現在――私たち自身だからである。私たちのうちで神は自然と出会い、昨日は明日と分かれる。現在は動く無限であり、相対の本来の領域だ。相対性は調和を求め、調和させることが芸術となる。生きる術は、周囲との関係を絶えず整え直すことにある。道家は俗世をあるがままに受け入れ、儒家や仏教徒と違って、この悲しみと煩いの世界のなかに美を見つけようとする。宋代の「三人の酢を味わう者」の寓話は、三つの教えの傾向を見事に説いている。あるとき、釈迦、孔子、老子が、人生を象徴する酢の甕の前に立ち、それぞれ指を浸して味わった。現実的な孔子は酸っぱいと言い、仏陀は苦いと言い、老子は甘いと言った。

道家は、誰もが全体の統一を守れば、人生という喜劇はもっと面白くなるとした。物事の釣り合いを保ち、自分の立場を失わずに他人へ場所を譲ること。それが、俗世の芝居でうまく役を果たす秘訣だった。自分の役を正しく演じるには、芝居全体を知らなければならない。個人を考えるあまり、全体を見失ってはならないのである。老子はこれを、好んで用いた「虚」のたとえで説明する。真に肝要なものは、空であるところにのみあるという。たとえば部屋の実質は、屋根や壁そのものではなく、屋根と壁に囲まれた空間にある。水差しの役立つところは、その形や材料ではなく、水を入れられる空洞にある。虚はあらゆるものを収めるがゆえに、あらゆる力を持つ。虚においてのみ、動きが可能になる。自分を、他人が自由に入れる空虚にできる者は、どのような状況にも自在に対処できるだろう。全体はつねに部分を支配できるのだ。

こうした道家の思想は、剣術や相撲に至るまで、私たちの行動の理論すべてに大きな影響を与えてきた。日本の護身術である柔術も、その名を『道徳経』の一節に負っている。柔術では、抵抗しないこと、すなわち虚によって相手の力を引き出し、消耗させながら、自分の力は最後の勝負に勝つために蓄える。芸術でこの原理の重要さを示すのが、暗示の価値である。言い尽くさないものを残すことによって、見る者は自分で思いを完成させる機会を得る。こうして偉大な傑作は抗いがたく注意を引きつけ、ついには自分がその一部になったように感じさせる。そこには、あなたが入り込み、美的な感情を存分に満たすための空白があるのだ。

生きる術を自在に会得した者こそ、道家のいう真人である。生まれるとき夢の国へ入り、死ぬとき初めて現実に目覚める。自らの光を和らげ、他人の暗さのなかに溶け込む。「冬に川を渡る者のように慎重で、四方の隣人を恐れる者のようにためらい、客のようにうやうやしく、溶けかけの氷のようにおののき、まだ彫られていない木のように飾らず、谷のように虚しく、濁った水のように形を定めない。」

真人にとって、人生の三つの宝は、慈しみ、倹約、謙虚さだった。

ここで禅に目を向けると、道家の教えをいっそう強く打ち出していることがわかる。禅という名は、瞑想を意味するサンスクリット語のディヤーナに由来する。ひたすら瞑想に身を捧げることで、至高の自己実現に達しうると説く。瞑想は仏の境地に至る六つの道の一つであり、禅宗の人々は、釈迦が晩年の教えでとりわけこの方法を重んじ、高弟の迦葉かしょうへその法を伝えたとする。伝承によれば、禅の初祖である迦葉は奥義を阿難あなんへ伝え、さらに代々の祖師へ受け継がれ、第二十八祖の菩提達磨ぼだいだるまに至った。達磨は六世紀前半に中国北部へ渡り、中国禅の初祖となった。これらの祖師たちの歴史と教義には、不確かな点が多い。哲学の面では、初期の禅は、一方でナーガールジュナのインド的否定哲学に、他方でシャンカラーチャーリヤが体系化した知の哲学に親近性を持つように見える。今日私たちの知る禅の教えの始まりは、中国禅の第六祖、慧能えのう(637――713年)に帰せられなければならない。中国南部で優勢だったことから南宗禅と呼ばれる流れの祖である。そのあとに続いた偉大な馬祖ばそ(788年没)は、禅を中国の生活に生きて働く力とした。馬祖の弟子、百丈ひゃくじょう(719――814年)は、初めて禅の僧院制度を整え、その運営のための儀礼と規則を定めた。馬祖以後の禅の論議には、長江の精神の働きが見られ、それまでのインド的観念論に対して、中国固有の思考がいっそう加わっている。宗派の誇りがいかに否定しようとも、南宗禅と老子や道家の清談家の教えとの類似には、強い印象を受けずにいられない。『道徳経』にはすでに、心を集中させることの重要性や、呼吸を正しく整える必要への言及がある。いずれも禅の瞑想に欠かせない要点だ。『老子』の最も優れた注釈のいくつかは、禅の学者によって書かれている。

禅は道家思想と同じく、相対性を尊ぶ。ある禅師は、禅とは南の空に北極星を感じ取る術だと定義した。真理には、対立するものを理解することによってのみ到達できる。また、禅は道家思想と同様、個人主義を強く唱える。自分の心の働きにかかわるもののほかには、実在するものはない。六祖慧能はあるとき、寺塔の旗が風になびくのを見ている二人の僧に出会った。一人は「風が動くのだ」と言い、もう一人は「旗が動くのだ」と言った。だが慧能は、本当に動いているのは風でも旗でもなく、二人の心のなかにあるものだと説いた。百丈が弟子と森を歩いていたとき、二人の近づく気配に兎が逃げた。「なぜ兎はお前から逃げるのか」と百丈が尋ねた。「私を恐れるからです」と弟子は答えた。「違う」と師は言った。「お前に殺意があるからだ。」

この問答は、道家の荘子の話を思い起こさせる。ある日、荘子は友人と川岸を歩いていた。「魚たちは、なんと楽しそうに水のなかを泳いでいることか」と荘子が声を上げた。友人は言った。「あなたは魚ではない。どうして魚が楽しんでいるとわかるのか。」「あなたは私ではない」と荘子は答えた。「どうして私に魚の楽しみがわからないとわかるのか。」

道家思想が儒教に対抗したように、禅もしばしば正統仏教の教えに対抗した。禅の超越的な洞察からすれば、言葉は思考の妨げにすぎず、仏教の経典すべてをもってしても、個人の思索への注釈にすぎなかった。禅を奉ずる者たちは、物事の内なる本性と直接通じ合うことを目指し、外側の付随物は真理を明らかに見る妨げにすぎないと考えた。この抽象的なものへの愛ゆえに、禅は古典的な仏画の精緻な彩色より、墨一色の素描を好んだ。仏を像や象徴を通じてではなく、自分自身のなかに見いだそうと努めた結果、偶像を壊すに至った者さえいる。丹霞和尚たんかおしょうは、ある冬の日、木の仏像を割って火を起こした。「なんという罰当たりだ」と、見ていた者が震え上がった。禅僧は落ち着いて答えた。「灰のなかから舎利しゃり[訳注:仏や高僧の火葬後に残る遺骨]を取り出したいのだ。」「だが、その像から舎利など出るはずがない」と怒った声が返ると、丹霞はこう言った。「出ないのなら、これは仏ではない。ならば罰当たりなことはしておらぬ。」

そして燃え始めた火に向き直り、暖を取った。

禅が東洋思想に独自にもたらしたものは、日常の俗事を精神的な営みと同じほど重要だと認めたことだった。万物の大きなつながりのなかでは大小の区別はなく、一粒の微塵も宇宙と等しい可能性を持つと考えた。完成を求める者は、自分の生活のなかに内なる光の反映を見つけなければならない。禅の僧院の仕組みは、この見方をよく示している。住職を除く全員に、僧院を維持するための特定の仕事が割り当てられた。興味深いことに、新入りには比較的軽い仕事が任され、最も尊敬され、修行を積んだ僧には、より厄介で下働きに類する仕事が与えられた。こうした労働も禅の修行の一部であり、どんな小さな動作も、完全にやり遂げなければならなかった。そこで、庭の草を取り、蕪をむき、茶を供しながら、数々の深遠な問答が交わされた。茶道の理想のすべては、人生の最もささやかな出来事のなかに偉大さを見る、この禅の考え方から生まれた。道家思想は美の理想の基礎を与え、禅はそれを実践のものにしたのである。

第四章 茶室

石と煉瓦の建築の伝統のなかで育ったヨーロッパの建築家には、木と竹を用いる日本の建て方は、建築の名に値するとも思えないらしい。西洋建築の優れた研究者が、日本の大寺院の驚くべき完成度を認め、賛辞を捧げるようになったのは、ごく最近のことだ。古典建築でさえそうなのだから、構造と装飾の原理が西洋とはまったく異なる茶室の、微妙な美しさを外国人が理解してくれるとは、なかなか期待できない。

茶室、すなわち数寄屋は、ただの小屋――私たちのいう草庵――以上のものを装わない。「すきや」の本来の文字は、好みに住まう家という意味を持つ。のちにさまざまな茶人が、茶室についての自分の考えに応じて異なる漢字を当て、「空き家」や「不均斉の家」という意味をも持たせた。詩的な衝動を宿すための、はかない建物であるという点では、好みの家である。そのときの美的な欲求を満たすために置かれるものを除けば、装飾を持たないという点では、空なる家である。そして、不完全なものへの崇拝に捧げられ、想像の働きによって完成されるよう、あえて何かを未完成のまま残すという点では、不均斉の家である。十六世紀以来、茶道の理想は日本の建築に深い影響を与えてきた。そのため、今日の普通の日本家屋の室内は、装飾の構想があまりにも簡素で清らかなので、外国人にはほとんど何もないように見える。

最初の独立した茶室を創ったのは、千宗易せんのそうえき、のちの名で広く知られる利休である。歴代の茶人のなかでも最も偉大なこの人は、十六世紀、太閤秀吉の庇護のもとに、茶の湯の作法を整え、高度な完成へ導いた。茶室の寸法は、それ以前に十五世紀の名高い茶人、紹鴎によって定められていた。初期の茶室は、普通の座敷の一角を、茶会のために屏風で仕切っただけのものだった。その仕切られた場所は「囲い」と呼ばれ、この名は今でも独立した建物ではなく、家のなかに設けられた茶室に用いられる。数寄屋は、五人を超えない客を迎える茶室そのもの――「三美神より多く、九美神より少なく」という言葉を思わせる人数である――と、道具を運び込む前に洗って整える控えの間である水屋、茶室へ入るよう招かれるまで客が待つ待合、そして待合と茶室を結ぶ庭の小道、露地からなる。茶室の外観は目立たない。日本の最も小さな家よりなお小さく、建材も洗練された貧しさを思わせるように選ばれている。だが、そのすべてが深い芸術的な熟慮の結果であり、細部には、豪華きわまる宮殿や寺院の建築以上かもしれないほどの注意が払われていることを忘れてはならない。よい茶室は普通の邸宅より費用がかかる。材料の選定にも施工にも、並外れた慎重さと精密さが必要だからだ。実際、茶人に仕える大工は職人のなかでも特別に尊敬される一群をなし、その仕事の繊細さは、漆の飾り棚を作る職人にも劣らない。

茶室は西洋のどの建築とも違うだけでなく、日本自身の古典建築とも強い対照をなす。古代の壮麗な建物は、世俗のものも宗教のものも、大きさだけをとっても侮れない。何世紀にもわたる大火を免れたわずかな建物は、今もその壮大さと装飾の豊かさで、私たちを畏れさせる力を持つ。直径二、三フィート、高さ三十から四十フィートもの巨大な木の柱が、複雑に組まれた組物を介して、瓦葺きの屋根の重みにきしむ大梁を支えていた。この材料と構法は火には弱かったが、地震には強く、日本の気候にも適していた。法隆寺の金堂と薬師寺の塔は、木造建築の耐久性を示す顕著な例である。これらは十二世紀近く、ほとんど損なわれずに立ち続けてきた。古い寺院や宮殿の内部は、豊かに飾られていた。十世紀にさかのぼる宇治の鳳凰堂には、今も精巧な天蓋や金色の覆いが見られ、多彩な色に鏡や螺鈿がはめ込まれている。かつて壁を覆っていた絵画や彫刻の名残もある。さらに後世の日光や京都の二条城では、構造の美が豊富な装飾の犠牲となっているが、その色彩と精緻な細部は、アラビアやムーアの建築が到達した最高の華麗さにも匹敵する。

茶室の簡素さと清らかさは、禅寺に倣った結果である。禅の僧院は、ただ僧侶の住まいとして設けられる点で、他の仏教宗派の寺院と異なる。その礼拝堂は参拝や巡礼の場ではなく、修行者たちが集まって議論し、瞑想する学びの部屋である。室内は、中央のくぼんだ一画を除いて何もない。そこには祭壇があり、その奥に宗祖達磨の像、あるいは禅の最初の二祖である迦葉と阿難を従えた釈迦の像が置かれる。祭壇には、これらの聖者が禅に果たした偉大な貢献を偲び、花と香が供えられる。達磨像の前で一つの碗から順に茶を飲むという、禅僧たちの定めた儀礼が茶の湯の基礎となったことは、すでに述べた。ここで付け加えるなら、この禅堂の祭壇こそ、客の心を高めるために絵や花を置く、日本の部屋の最も尊い場所、床の間の原型だったのである。

偉大な茶人たちは皆、禅を学び、その精神を生活の現実に取り入れようとした。したがって茶室も、ほかの茶道具と同じく、多くの禅の教えを映している。正統な茶室の広さ、四畳半、すなわち十フィート四方は、『維摩経』の一節によって定められた。この興味深い経典では、維摩ゆいまが、この大きさの部屋に文殊菩薩と八万四千の仏弟子を迎える。真に悟った者に空間の制約はないという考えに基づく寓話である。また、待合から茶室へ導く庭の小道、露地は、瞑想の第一段階、自己の悟りへ入る道を意味した。露地は外界とのつながりを断ち、茶室で美を十分に味わうための、新鮮な感覚を生むことを意図していた。この小道を歩いた者なら、常緑樹の薄闇のなか、枯れた松葉を下に敷く飛び石の、整った不規則さをたどり、苔に覆われた花崗岩の灯籠の傍らを過ぎるうちに、心が日常の思いを超えて高まっていくのを忘れられないだろう。町のただなかにいても、文明の塵や騒音から遠く離れた森にいるように感じられる。この静けさと清らかさを生み出すために、茶人たちは並々ならぬ工夫を凝らした。露地を通るときに呼び起こそうとする感覚は、茶人によって異なった。利休のように徹底した孤独を目指し、露地づくりの秘訣は、次の古歌にあるとする者もいた。

          「見渡せば
          花もなく
          紅葉もない。
          浦辺には
          一軒の苫屋。
          薄れゆく光のなか、
          秋の夕暮れ。」

小堀遠州のように、別の趣を求める者もいた。遠州は、露地の心は次の歌にあると語った。

          「夏木立、
          海を少し、
          夕月夜。」

その意味を読み取るのは難しくない。遠州が生み出そうとしたのは、目覚めたばかりの魂が、なお過去のおぼろな夢のあいだにとどまりながら、柔らかな精神の光に包まれて甘美に我を忘れ、その先に広がる自由に憧れる心のありようだった。

こうして心を整えた客は、静かに聖域へ近づく。武士であれば、刀を軒下の刀掛けに置く。茶室は何よりも平和の家だからだ。そして身を低くかがめ、高さ三フィートにも満たない小さな戸口から、にじり入る。この動作は、身分の高下を問わず、すべての客に求められ、謙虚さを教えるためのものだった。待合で休むあいだに互いに席次を決めておき、客は一人ずつ音もなく入り、まず床の間の絵や生け花に礼をしてから席につく。亭主が入るのは、客が全員座り、鉄釜の湯の音以外、何も静寂を破らなくなってからである。釜はよく歌う。底に鉄片を工夫して配し、独特の旋律を生むようにしてあるからだ。その響きには、雲に包まれてくぐもる滝の音、遠い海が岩に砕ける音、竹林を渡る雨嵐、遥かな丘に吹く松風を聞くことができる。

昼でも室内の光は抑えられている。傾斜した屋根の低い軒が、わずかな日差ししか通さないからだ。天井から床まで、すべての色調は落ち着いている。客もまた、目立たぬ色の衣服を注意深く選んでいる。すべてに年月を経た味わいがあり、手に入れたばかりと感じさせるものは禁じられる。ただし、清らかに白く新しい竹の柄杓と麻の茶巾だけは、対照をなす一点として許される。茶室も道具もどれほど古びて見えようと、すべては徹底して清潔だ。最も暗い隅にさえ、塵一つ見つからない。もし塵があるなら、その亭主は茶人とはいえない。掃き、清め、洗うことを知っているのは、茶人の第一の条件の一つである。掃除や塵払いにも芸術があるからだ。古い金工品に、オランダの主婦の容赦ない熱心さで磨き立ててはいけない。花入れから滴った水は、拭き取る必要がないこともある。露や涼しさを思わせるかもしれないからだ。

このことについて、茶人の清潔観をよく示す利休の逸話がある。利休は、息子の少庵が露地を掃き、水を打つのを見ていた。少庵が終えると、「まだきれいではない」と言い、やり直しを命じた。疲れるほどの一時間が過ぎ、息子は利休に向き直った。「父上、もうすることはありません。石段は三度も洗い、石灯籠にも木々にも十分に水をかけました。苔も地衣も、みずみずしい緑に輝いています。地面には小枝一本、葉一枚も残していません。」「未熟者め」と茶人はたしなめた。「露地は、そのように掃くものではない。」

そう言うと利休は庭へ出て木を揺すり、金色と紅の葉を庭に散らした。秋の錦の切れ端を。利休が求めたのは、清潔さだけではなく、美しさと自然らしさでもあったのだ。

好みの家という名は、個人の芸術的な欲求を満たすために造られた建物を意味する。茶室は茶人のために造られるのであって、茶人が茶室のためにあるのではない。後世のためのものではなく、したがって一時の存在である。誰もが自分の家を持つべきだという考えは、日本民族の古い習慣に根ざしている。神道の迷信では、家の主が死ぬと、その住まいを空けるよう定められていた。この習慣には、人々が意識していない衛生上の理由があったのかもしれない。また、新婚の夫婦には新築の家を用意するという古い習慣もあった。古代の都が頻繁に移されたのは、こうした習慣による。太陽の女神を祀る最高の社、伊勢神宮を二十年ごとに建て替えるのも、今日なお行われている古い儀式の一例である。これらの習慣を守ることができたのは、たやすく解体し、たやすく建てられる、日本の木造建築のような構法があったからにほかならない。煉瓦や石を用いる、もっと永続的な建て方であれば、移転は実行できなかっただろう。実際、奈良時代以降、中国のより堅固で重厚な木造建築を取り入れると、そのようになった。

だが十五世紀、禅の個人主義が力を持つようになると、古い考えは茶室と結びつき、いっそう深い意味を帯びた。禅は、仏教の無常観と、精神が物質を支配すべきだという要請によって、家を肉体の一時の避難所としか見なさなかった。肉体そのものも、荒野の小屋にすぎない。周りに生える草を結んで作った、か弱い庵だ。結びが解ければ、またもとの荒野へと帰る。茶室では、茅葺きの屋根がはかなさを、細い柱が脆さを、竹の支えが軽やかさを、ありふれた材料を使うことが無造作な趣を示している。永遠はただ精神のなかにある。その精神は、こうした簡素な周囲のものに宿り、洗練のかすかな光でそれらを美しくするのである。

茶室は個人の好みに合わせて建てるべきだという考えは、芸術に生命がなければならないという原則の実践である。芸術は、十分に味わわれるためには、同時代の生活に真実でなければならない。後世への責任を無視せよというのではなく、今をもっと楽しもうというのだ。過去の創造を軽んじるのではなく、それを自分たちの意識のなかに取り込もうというのである。伝統や形式に隷従すれば、建築における個性の表現は縛られる。近代日本に見られる、意味もなくヨーロッパの建物を模した姿には、ただ嘆くほかない。西洋の最も進歩的な国々で、なぜ建築だけがこれほど独創性を欠き、古びた様式の繰り返しに満ちているのか、不思議でならない。おそらく私たちは、新しい王朝を築く王者のような巨匠の出現を待ちながら、芸術の民主化の時代を通過しているのだろう。古人をもっと愛し、模倣はもっと控えたいものだ。ギリシア人が偉大だったのは、古代を手本に描かなかったからだと言われている。

空なる家という言葉には、すべてを包み込むという道家の思想とともに、装飾の主題は絶えず変えなければならないという考えが含まれている。茶室は、ある美的な気分を満たすために一時的に置かれるものを除けば、まったく空である。その機会のために特別な美術品が運び込まれ、ほかのものはすべて、中心となる主題の美を引き立てるように選ばれ、配置される。異なる楽曲を同時に聴くことはできない。美を真に理解するには、ある中心的な主題に集中しなければならないのだ。したがって、茶室の装飾の仕方が、家の内部をしばしば美術館に変えてしまう西洋の習慣と相反することがわかるだろう。簡素な飾りと、その飾り方を頻繁に変えることに慣れた日本人には、絵画、彫像、小物の膨大な配列で常時埋め尽くされた西洋の室内は、富の俗悪な誇示としか映らない。たとえ傑作であっても、いつも目にしながら楽しむには、並外れて豊かな鑑賞力が必要だ。欧米の家でよく見られる、あの色と形の混乱のただなかで日々暮らせる人々は、まことに限りない芸術的感受性を持っているに違いない。

「不均斉の家」は、日本の装飾のもう一つの面を示している。日本の美術品に対称性がないことは、西洋の批評家によってしばしば論じられてきた。これもまた、道家の理想が禅を通じて実現された結果である。根強い二元論を持つ儒教も、三尊を崇める北方仏教も、対称的な表現に反対するものではなかった。実際、中国の古代青銅器や、唐代・奈良時代の宗教美術を調べれば、一貫して対称性が追求されていたことがわかる。日本の古典的な室内装飾も、明らかに規則正しく配置されていた。だが、道家と禅が考える完全さは、それとは異なる。動的な哲学であるがゆえに、完成そのものより、完成を求める過程を重んじた。真の美を見いだせるのは、不完全なものを心のなかで完成させる者だけだった。人生と芸術の生命力は、成長の可能性にあった。茶室では、一人ひとりの客が、自分との関係において、全体の趣を想像のうちに完成させることを委ねられる。禅が支配的な思考となって以来、極東の芸術は、対称が完成ばかりでなく反復をも表すとして、意図的にこれを避けてきた。意匠の画一性は、想像力の新鮮さにとって致命的だと考えられた。そのため、人物よりも山水や花鳥が好んで描かれるようになった。人物は、見る者自身として、すでにそこにいるからだ。私たちはただでさえ、とかく自分を目立たせすぎる。いかにうぬぼれていても、自分を眺めることにさえ飽きは来る。

茶室では、反復への警戒がつねにある。部屋を飾るさまざまな品は、色も意匠も重ならないように選ばなければならない。生花があるなら、花の絵は許されない。丸い釜を使うなら、水差しは角のあるものにする。黒釉の茶碗に、黒漆の茶入れを合わせてはいけない。床の間に花入れや香炉を置くときは、空間を等分してしまわぬよう、真ん中を避ける。床柱はほかの柱と異なる材にして、部屋に単調さが生じるのを防ぐのである。

ここでも日本の室内装飾は、暖炉棚などに物を左右対称に並べる西洋のやり方とは異なる。西洋の家では、私たちには無用と思える繰り返しに、しばしば出会う。ある人と話していると、その背後から等身大の肖像画がこちらを見つめているのは、どうにも落ち着かない。絵のなかの人と話している人の、どちらが本物なのかと考え、どちらかは偽物に違いないという妙な確信を抱く。宴席に座り、食堂の壁に描かれた豊穣の図を見つめながら、ひそかに消化を妨げられたことが、何度あっただろう。なぜ狩りや遊猟の犠牲となった動物を描くのか。なぜ魚や果物を精巧に彫り出すのか。なぜ代々の食器を飾り、そこで食事をして、今は死んだ人々を思い出させるのか。

茶室の簡素さと俗気のなさは、外界の煩いを逃れる真の聖域をつくる。そこにおいてのみ、人は何にも妨げられず、美への崇拝に身を捧げることができる。十六世紀の茶室は、日本の統一と再建に奔走する猛々しい武将や政治家たちに、仕事から離れて息をつく、ありがたいひとときを与えた。十七世紀、徳川の治世に厳格な形式主義が確立すると、茶室は芸術を愛する心が自由に交わることのできる、唯一の機会を提供した。偉大な芸術作品の前には、大名も武士も町人も区別はなかった。今日、産業主義は世界の至るところで、真の洗練をますます困難にしている。今こそ、これまで以上に茶室が必要なのではないだろうか。

第五章 芸術鑑賞

琴を手なずけるという、道家の物語を聞いたことがあるだろうか。

遠い昔、龍門の谷に一本の桐が立っていた。まさしく森の王だった。梢を高く掲げて星々と語り合い、根を地中深く張りめぐらせ、その青銅色のうねりを、地下に眠る銀の龍のとぐろと絡ませていた。やがて偉大な魔術師が、この木から不思議な琴を作った。その頑なな魂を手なずけられるのは、最も優れた楽人だけだった。琴は長く中国の皇帝の宝とされたが、次々に弦から調べを引き出そうと試みた者たちの努力は、ことごとく無駄に終わった。どれほど力を尽くしても、琴が返すのは侮蔑に満ちた荒々しい音ばかりで、奏でようとする歌とは調和しなかった。琴は、誰も主と認めようとしなかった。

ついに、琴の名手の王、伯牙はくがが現れた。伯牙は荒馬をなだめるように、優しい手で琴を撫で、そっと弦に触れた。自然と四季、高い山々と流れる水を歌うと、木の記憶がことごとく目覚めた。再び枝のあいだに、春の甘い息吹が戯れた。生まれたばかりの滝は谷を踊り下りながら、ほころぶ花々へ笑いかけた。やがて、無数の虫の声を伴う夢みる夏の響き、雨の柔らかな音、ほととぎすの嘆きが聞こえた。聞け、虎が吼える――谷がこだまを返す。秋が来る。寂しい夜、霜を帯びた草の上に、月は剣のように鋭く光る。今や冬が支配し、雪に満ちた空を白鳥の群れが舞い、雹が激しい喜びに鳴り響きながら枝を打つ。

それから伯牙は調べを変え、愛を歌った。森は、物思いに沈む熱烈な若者のように揺れた。頭上には、誇り高い乙女のように、明るく美しい雲が流れた。だが通り過ぎると、絶望のように黒い長い影を地に引いた。再び調べが変わり、伯牙は戦を、打ち合う鋼を、踏み轟く軍馬を歌った。すると琴のなかに龍門の嵐が起こり、龍は稲妻に乗り、雷鳴のような雪崩が山々を砕いて落ちた。恍惚となった皇帝は、勝利の秘訣は何かと伯牙に尋ねた。「陛下」と伯牙は答えた。「ほかの者が失敗したのは、自分のことしか歌わなかったからです。私は琴に主題を選ばせました。すると、琴が伯牙だったのか、伯牙が琴だったのか、ほんとうにわからなくなったのです。」

この物語は、芸術鑑賞の神秘をよく示している。傑作とは、私たちの最も繊細な感情を楽器として奏でられる交響曲である。真の芸術は伯牙であり、私たちは龍門の琴だ。美の魔法の手が触れると、存在の奥に隠れた弦が目覚め、その呼び声に応えて震え、ときめく。心が心に語りかける。私たちは語られないものを聞き、見えないものを見つめる。巨匠は、私たちの知らなかった音を呼び起こす。長く忘れていた記憶が、新しい意味を帯びて戻ってくる。恐れに押し殺されていた希望、認める勇気のなかった憧れが、新たな輝きのなかに姿を現す。私たちの心は、芸術家が色を置く画布である。顔料は私たちの感情、明暗は喜びの光と悲しみの影だ。傑作は私たちの一部であり、私たちもまた傑作の一部なのである。

芸術鑑賞に必要な、共感による心の交わりは、互いに譲り合うことを基礎としなければならない。芸術家が伝え方を知らなければならないように、鑑賞者も、その呼びかけを受け取るにふさわしい姿勢を養わなければならない。自ら大名でもあった茶人、小堀遠州は、忘れがたい言葉を残している。「名画に向かうには、名君にまみえるようにせよ。」

傑作を理解するには、その前に身を低くし、息をひそめて、かすかな言葉をも待たなければならない。宋のある高名な批評家は、魅力的な告白をしている。「若いころは、自分の好きな絵を描いた名人を褒めた。だが判断力が熟すと、名人が私に好ませようとしたものを好める自分を、褒めるようになった。」

巨匠の心のありようを知ろうと、ほんとうに骨を折る人が、これほど少ないのは嘆かわしい。私たちは頑なな無知のなかで、そのささやかな礼儀さえ払おうとせず、目の前に広げられた美の豊かな饗宴を、しばしば取り逃がしてしまう。巨匠にはつねに与えるものがある。私たちが飢えるのは、ひとえに自分の鑑賞力が足りないからなのだ。

共感する心を持つ者にとって、傑作は生きた現実となり、友情の絆によって私たちを引き寄せる。巨匠たちは不滅である。その愛と恐れが、私たちのなかで幾度も生き返るからだ。訴えかけてくるのは、手よりも魂、技巧よりも人間である。呼び声が人間的であればあるほど、私たちの応答も深くなる。詩や物語の主人公とともに苦しみ、喜ぶのは、巨匠と私たちのあいだに、このひそかな理解があるためだ。日本のシェイクスピアともいうべき近松は、戯曲作法の第一の原則の一つとして、観客を作者の内心に迎え入れることの重要さを説いた。何人かの弟子が脚本を持ち寄って批評を求めたが、心を動かしたのは一作だけだった。双子の兄弟が人違いによって苦しむ、『間違いの喜劇』にいくらか似た芝居である。「これには芝居の正しい心がある」と近松は言った。「観客のことを考えているからだ。観客は登場人物より多くを知ることを許されている。どこに間違いがあるかを知り、何も知らずに運命へ飛び込む舞台の哀れな人々を、気の毒に思うのだ。」

東西の偉大な巨匠たちは、鑑賞者を自分の内心へ迎え入れる手段として、暗示の価値を決して忘れなかった。傑作に向き合い、思索のために開かれた広大な眺望に、畏敬を覚えない者がいるだろうか。そこには何という親しみ、何という共感があることか。それに引き換え、現代の凡作は何と冷たいことか。前者には人の心からの温かな流れを感じ、後者には形式ばかりの挨拶しか感じない。現代の芸術家は技巧に心を奪われ、自分を超えることがほとんどない。龍門の琴にむなしく呼びかけた楽人たちのように、自分のことしか歌わない。その作品は科学には近いかもしれないが、人間性からは遠い。日本には、自惚れきった男を女は愛せないという古い言葉がある。その心には、愛が入り込んで満たす隙間がないからだ。芸術でも、作者であれ鑑賞者であれ、虚栄は共感にとって同じほど致命的である。

芸術のなかで、相通じる魂が結びつくことほど、人を神聖な気持ちにするものはない。出会いの瞬間、芸術を愛する者は自分を超える。そこにいながら、同時にいない。無限を垣間見るが、その喜びを言葉にはできない。目には舌がないからだ。物質の束縛を解かれ、魂は万物の律動に乗って動く。こうして芸術は宗教に近づき、人間を高める。これこそが、傑作を聖なるものにする。昔、日本人が偉大な芸術家の作品に寄せた尊敬は、実に深かった。茶人たちは宝物を宗教的な秘めやかさで守り、聖所そのもの――至聖の品を柔らかなひだのなかに包む絹の布――にたどり着くまでには、入れ子になった幾重もの箱を開けなければならないことがしばしばあった。その品が人目に触れることはめったになく、見せるにしても、道を知る者に限られた。

茶道が隆盛を極めたころ、太閤の武将たちは、戦勝の褒美として広大な領地を与えられるより、珍しい美術品を贈られるほうを喜んだ。名高い傑作の喪失と奪還を題材とする、人気の芝居も多い。たとえば、雪村の名高い達磨の絵を蔵していた細川家の屋敷が、当番の武士の不注意から突然火事になる芝居がある。何があろうと貴重な絵を救おうと決めた武士は、燃える建物に飛び込み、掛物をつかむが、出口はすべて炎に閉ざされている。ただ絵のことだけを思い、刀で自分の腹を切り開き、引き裂いた袖で雪村の絵を包み、大きく開いた傷へ押し込む。ようやく火が消される。くすぶる焼け跡から半ば焼けた遺体が見つかり、その体内には、炎に損なわれることなく宝が収まっている。このような話は恐ろしいが、名品に対する私たちの深い尊重と、信頼された武士の献身を示している。

ただし、芸術が価値を持つのは、私たちに語りかけるかぎりにおいてだということを、忘れてはならない。私たちの共感が普遍的であれば、芸術もまた普遍的な言語となるかもしれない。だが、人間の有限性、伝統や慣習の力、受け継いだ本能が、芸術を楽しむ能力の範囲を限っている。個性そのものが、ある意味では理解の限界を定める。私たちの美的な人格は、過去の創造のなかに、自分と響き合うものを求める。修養によって鑑賞力が広がり、それまで気づかなかった多くの美の表現を楽しめるようになるのは確かだ。だが結局、私たちは宇宙のなかに自分の姿しか見ていない。固有の気質が、ものの捉え方を決めるのである。茶人たちは、自分の鑑賞眼に厳密にかなう品だけを集めた。

このことから、小堀遠州の逸話が思い出される。弟子たちは、蒐集品の選択に表れた遠州の優れた趣味を褒めた。「どの品も、誰もが感心せずにはいられません。利休様のお道具は、千人に一人しかよさをわかりませんでしたから、遠州様のほうが優れたお目利きだとわかります。」

遠州は悲しげに答えた。「それは私がどれほど凡庸かを示すだけだ。偉大な利休は、自分の心に訴えるものだけを愛する勇気を持っていた。私は知らず知らず、多くの人の好みに迎合している。まことに利休は、茶人のなかでも千人に一人の人だった。」

今日、芸術への熱意と見えるものの多くが、真の感情に根ざしていないのは、たいへん残念だ。この民主的な時代、人々は自分の気持ちにかかわりなく、世間で最上とされるものを声高に求める。欲しがるのは洗練されたものではなく高価なもの、美しいものではなく流行のものだ。大衆には、感心したふりをする初期イタリアの画家や足利時代の巨匠の作品よりも、自分たちの産業主義が生んだ相応の産物、挿絵入り雑誌を眺めるほうが、芸術的な楽しみとして消化しやすいだろう。彼らにとっては、作品の質より作者の名のほうが重要なのだ。何世紀も前、中国のある批評家が嘆いたように、「人は耳で絵を批評する」。

今日、どちらを向いても目に入る、古典をまねただけの醜悪な品々。その原因は、この真の鑑賞力の欠如にある。

もう一つのよくある誤りは、芸術と考古学を混同することだ。古さから生まれる敬意は、人間の最もよい性質の一つであり、いっそう育んでほしいと願う。古の巨匠たちは、後世の開明への道を開いたゆえに、当然尊敬されるべきである。何世紀もの批評を無傷でくぐり抜け、なお栄光に包まれて今日に伝わるという事実だけでも、敬意に値する。だが、ただ古いという理由だけでその業績を尊ぶなら、まことに愚かだ。それなのに私たちは、歴史への共感を美的な判断より優先させる。芸術家が無事に墓へ収まってから、称賛の花を供えるのだ。さらに、進化論をはらんだ十九世紀は、種を見るあまり個体を見失う習慣を私たちに植えつけた。蒐集家は、ある時代や流派を例示する標本を手に入れることに熱心で、一つの傑作が、その時代や流派の凡作をいくら集めるより多くを教えてくれることを忘れている。分類しすぎ、楽しむことが少なすぎる。いわゆる科学的な展示方法のために美を犠牲にすることは、多くの美術館を損なってきた。

生命ある生活の構想において、同時代の芸術の権利を無視することはできない。今日の芸術こそ、真に私たちのものだ。それは私たち自身の映し姿である。それを非難するのは、自分を非難することにほかならない。現代には芸術がないと言うが、その責任は誰にあるのか。古人についてあれほど熱弁をふるいながら、自分たちの可能性にはほとんど注意を払わないとは、実に恥ずかしいことだ。苦闘する芸術家たち、冷たい軽蔑の影にとどまる疲れた魂たちよ。この自己中心的な世紀に、私たちは彼らにどんな霊感を与えているのだろう。過去は、私たちの文明の貧しさを憐れんでもよい。未来は、私たちの芸術の不毛を笑うだろう。私たちは生活のなかの美を壊している。願わくは、偉大な魔術師が社会という幹から力強い琴を作り、その弦を天才の指に響かせてくれないものか。

第六章 花

春の夜明け、灰色の光がかすかに震え、木々のあいだで鳥たちが不思議な節回しでささやくとき、あれは仲間に花のことを語っているのだと感じたことはないだろうか。人間にとっても、花を愛でる心は、愛の詩とともに生まれたに違いない。自分を知らぬゆえに愛らしく、黙しているゆえに香る花ほど、無垢な魂のほころびを映すのにふさわしいものが、ほかにあるだろうか。原始の男が初めて花輪を恋人に捧げたとき、その人は獣を超えた。自然のむき出しの必要を超えることによって、人間となった。無用なものの微妙な用い方を知ったとき、芸術の領域へ入ったのである。

喜びのときも悲しみのときも、花は変わらぬ友である。花とともに食べ、飲み、歌い、踊り、恋を語る。花とともに結婚し、洗礼を受ける。花なしに死ぬことさえ、ためらわれる。百合とともに祈り、蓮とともに瞑想し、薔薇と菊を掲げて戦場へ突撃してきた。花の言葉で語ろうとさえした。花なしに、どうして生きられよう。花のない世界を思うだけで恐ろしくなる。病床にどれほどの慰めを運び、疲れた心の闇にどれほどの幸福の光を注ぐことか。その穏やかな優しさは、美しい子供のひたむきな眼差しが失った希望を呼び戻すように、薄れかけた宇宙への信頼をよみがえらせる。私たちが土に倒れ伏したとき、墓の上に悲しみながらとどまってくれるのも、花なのである。

悲しいことだが、花と親しんできたにもかかわらず、私たちが獣からさほど遠くへ進んでいないという事実は、隠せない。羊の皮をひっかけば、内なる狼はすぐに牙をむく。人は十歳で動物、二十歳で狂人、三十歳で失敗者、四十歳で詐欺師、五十歳で犯罪者になると言われる。犯罪者になるのは、一度も動物であることをやめなかったからかもしれない。私たちにとって確かなのは飢えだけで、聖なるものは自分の欲望だけだ。聖堂は次々と目の前で崩れてきた。だが一つの祭壇だけは永遠に守られている。至高の偶像――自分自身――に香を焚く祭壇である。われらの神は偉大なり、金銭はその預言者なり。私たちはこの神に犠牲を捧げるため、自然を荒らす。物質を征服したと誇りながら、物質に奴隷にされていることを忘れている。文化と洗練の名のもとに、私たちはどれほどの残虐を働いていることか。

優しい花たちよ、星の涙よ、教えてほしい。庭に立ち、露や日差しを歌う蜜蜂へ頭を揺らしているお前たちは、自分を待つ恐ろしい運命を知っているのか。夢を見つづけるがよい。できるうちに、夏のそよ風に揺れ、戯れるがよい。明日には無慈悲な手がお前たちの喉をつかむ。引き抜かれ、手足を引き裂かれ、静かな住まいから連れ去られる。その残酷な人は、ことによるとたいそう美しい女かもしれない。指がまだお前たちの血に濡れているうちから、なんてきれいなのと言うかもしれない。教えてほしい。それが優しさなのか。心の冷たい人だとわかっている女の髪に閉じ込められる運命かもしれない。お前たちが人間なら、顔を見る勇気もないような男のボタン穴へ押し込まれるかもしれない。あるいは、狭い器に閉じ込められ、命の衰えを告げる気も狂わんばかりの渇きを、淀んだ水だけで癒やさなければならないのかもしれない。

花たちよ、もし帝の国にいれば、鋏と小さな鋸で武装した恐ろしい人物に出会うことがあるだろう。その人は花の名人と名乗る。医者の権利を主張し、お前たちは本能的にその人を嫌うはずだ。医者はつねに犠牲者の苦しみを長引かせようとするものだと、知っているからである。お前たちを切り、曲げ、ねじり、自分がふさわしいと思う無理な姿勢を取らせる。整体師のように筋をねじ曲げ、骨を外す。出血を止めるために赤く焼けた炭で焼き、巡りをよくするために針金を差し込む。塩や酢、明礬、ときには硫酸まで与える。気を失いかければ、足元に熱湯を注ぐ。そうして、自分が手当てをしなければとっくに終わっていた命を、二週間以上も長らえさせられると自慢するだろう。捕らえられたとき、いっそひと思いに殺してほしかったのではないか。今生でこのような罰を受けるとは、前世にいったいどんな罪を犯したのか。

西洋社会で花がむやみに浪費されるさまは、東洋の花の名人の扱い方より、なお恐ろしい。欧米の舞踏室や宴卓を飾り、翌日には捨てられるために、毎日切られる花の数は、途方もないものに違いない。つなぎ合わせれば、一つの大陸を花輪で囲めるかもしれない。この徹底した生命の軽視に比べれば、花の名人の罪など取るに足りない。少なくとも自然の節度を尊び、十分に考えて犠牲を選び、死後にはその亡骸を大切にする。西洋では花を飾ることは、富を誇示する見世物の一部、その場かぎりの気まぐれらしい。宴が終わると、花たちはいったいどこへ行くのだろう。しおれた花が、ためらいもなく肥やしの山へ投げ捨てられるのを見るほど、哀れなことはない。

花はなぜ、これほど美しく、しかもこれほど不幸に生まれたのか。虫は刺すことができる。最もおとなしい獣でさえ、追い詰められれば戦う。帽子を飾る羽を狙われる鳥は、追う者から飛び去れる。毛皮を欲しがられる動物は、人が近づけば隠れられる。ああ、翼を持つ花として知られるのは蝶だけだ。ほかの花は皆、破壊する者の前に、なすすべもなく立っている。断末魔の叫びを上げても、その声は私たちの頑なな耳には届かない。私たちは、黙って愛し、仕えてくれる者には、いつも残酷だ。だがその残酷さゆえに、最もよい友たちから見捨てられる時が来るかもしれない。野の花が年ごとに少なくなっているのに気づかないだろうか。花の賢者たちが、人間がもっと人間らしくなるまで立ち去れと教えたのかもしれない。もしかすると、天国へ移ってしまったのかもしれない。

植物を育てる人には、弁護すべき点がたくさんある。鉢を持つ人は、鋏を持つ人よりはるかに人道的だ。水や日差しへの気遣い、害虫との戦い、霜への恐れ、蕾の育ちが遅いときの心配、葉につやが出たときの歓喜を、私たちは喜ばしく眺める。東洋で花づくりの術はきわめて古く、詩人と愛する草木の関わりは、しばしば物語や歌に記されてきた。唐宋の時代に陶磁器が発達すると、草木を植える見事な器の話が聞かれる。鉢というより、宝玉の宮殿だった。花ごとに専属の世話役をつけ、兎の毛で作った柔らかな筆で葉を洗わせた。牡丹は盛装した美しい乙女に洗わせ、冬の梅には色白でほっそりした僧に水をやらせるべきだと書かれている[袁中郎『瓶史』]。日本では、足利時代に作られた能の人気曲の一つ『鉢木』が、貧しい武士の物語を題材にしている。凍える夜、火を焚く薪がないために、大切な鉢植えを切って、旅の僧をもてなすのである。僧の正体は、物語のなかのハールーン・アッラシード[訳注:身をやつして民の暮らしを見て回る君主として物語に登場するカリフ]にも似た北条時頼その人で、その犠牲には報いが与えられる。この歌劇は、今日でも東京の観客の涙を誘わずにはおかない。

繊細な花を守るためには、周到な注意が払われた。唐の玄宗皇帝は、鳥を追うために庭の枝に小さな金の鈴を吊るした。春になると宮廷楽師を伴って出かけ、柔らかな音楽で花を喜ばせたのも、この皇帝だった。日本のアーサー王伝説の英雄にもたとえられる義経が作らせたと伝わる、風変わりな札が、今もある寺に残っている[神戸近郊の須磨寺]。見事な梅の木を守るための告示で、戦乱の時代らしい凄みのあるユーモアが、私たちに訴えかける。花の美しさに触れたあと、こう書かれている。「この木の枝を一本切る者は、その代わりに指一本を失うべし。」

今日、花をみだりに壊し、美術品を傷つける者にも、こんな法を適用できたらよいのに。

だが鉢の花についても、人間の身勝手を疑わずにはいられない。なぜ植物を故郷から連れ出し、見知らぬ場所で咲くよう求めるのか。鳥を籠に閉じ込め、歌い、つがいになるよう求めるのと同じではないか。温室の蘭は、人工の熱に息苦しさを覚え、故郷の南の空をひと目見たいと、かなわぬ望みを抱いているのかもしれない。

理想の花の愛好家とは、花が本来いる場所へ訪ねていく人である。壊れた竹垣の前に座り、野菊と語り合った陶淵明[ここに挙げるのは、いずれも中国の著名な詩人・哲学者]のように。あるいは、薄暮の西湖の梅のあいだを歩き、神秘的な香りに我を忘れた林和靖のように。周茂叔は、自分の夢を蓮の夢と交わらせるため、舟で眠ったといわれる。同じ心が、奈良時代の最も名高い皇族の一人、光明皇后を動かした。皇后はこう歌った。「摘み取れば、私の手がお前を汚してしまうだろう、花よ。野に立つそのままの姿で、過去・現在・未来の仏にお前を捧げよう。」

とはいえ、あまり感傷的になるのはやめよう。贅沢は控え、心はもっと大きく持とう。老子は言った。「天地は情けをかけない。」

弘法大師は言った。「流れ、流れ、流れ、流れて、生の流れは進みつづける。死に、死に、死に、死んで、死はすべてに訪れる。」

どちらを向いても、破壊が待っている。下にも上にも、後ろにも前にも、破壊がある。変化だけが永遠なのだ。ならば、生と同じように死を迎えてもよいではないか。両者は互いに裏表であり、ブラフマーの夜と昼である。古いものが崩れることによって、再創造が可能になる。私たちは、容赦ない慈悲の女神である死を、さまざまな名で崇めてきた。ゾロアスター教徒が火のなかに迎えたのは、すべてを呑み込む者の影だった。神道の日本が今なおひれ伏すのは、剣に宿る魂の、氷のように澄み切った清らかさである。神秘の火は私たちの弱さを焼き尽くし、聖なる剣は欲望の束縛を断ち切る。灰のなかから天上的な希望の不死鳥が生まれ、自由のなかから、より高い人間性の実現が生まれる。

花を壊すことで、世界の観念を高める新しい形を生み出せるなら、なぜそうしてはいけないのか。私たちはただ、美に捧げる自分たちの犠牲に、花にも加わってもらおうとするだけだ。清らかさと簡素さに身を捧げることで、その行為を償おう。茶人たちが花の崇拝を打ち立てたとき、こう考えたのである。

茶人や花の名人の作法を知る人なら、彼らが花に寄せる宗教的な敬意に気づいているはずだ。無造作に摘むのではなく、心に描く芸術的な構成を見据えて、枝や茎を一本ずつ慎重に選ぶ。必要以上に切ってしまえば、恥じるだろう。これに関連して、葉がある場合は必ず花とともに用いることにも触れておこう。目的は、植物の生命の美しさをまるごと示すことだからだ。この点でも、ほかの多くの点でも、その方法は西洋のものと異なる。西洋では、胴体のない頭のように、葉を取り去った花の茎だけが、無造作に花瓶へ挿されていることが多い。

茶人が納得のいくように花を生けると、日本の部屋で最も尊い場所、床の間へ置く。その趣を妨げるようなものは、そばに何も置かれない。特別な美的理由で組み合わせるのでなければ、絵さえ置かれない。花は玉座の君主のようにそこにあり、客や弟子は部屋に入ると、亭主へ挨拶する前に、深く頭を下げて花に礼をする。名作は愛好家の学びのために図に描かれ、出版される。この分野の文献は、かなりの量にのぼる。花が衰えると、名人は優しく川へ流すか、丁寧に土へ埋める。供養の碑を建てることもある。

生け花の芸術は、十五世紀、茶道と同時に生まれたらしい。日本の伝説では、初期の仏教の聖者たちが、嵐に散らされた花を拾い集め、あらゆる生き物への限りない慈しみから、水を張った器に入れたのが始まりだという。足利義政に仕えた大画家で鑑識家の相阿弥そうあみは、初期の名手の一人とされる。茶人の珠光はその弟子であり、池坊の祖、専応せんおうもまた弟子だった。池坊は、絵画における狩野家と同じほど、花の歴史で名高い家系である。十六世紀後半、利休によって茶の儀礼が完成すると、生け花も十分な成熟に達した。利休と、その後に続く名高い織田有楽、古田織部、光悦、小堀遠州、片桐石州は、新しい取り合わせを競った。ただし、茶人の花への崇拝は、その美的な儀礼の一部にすぎず、それだけで独立した宗教ではなかったことを忘れてはならない。生け花は茶室のほかの美術品と同様、装飾全体の構想に従属した。そこで石州は、庭に雪があるときは白梅を用いないよう定めた。「騒がしい」花は、容赦なく茶室から退けられた。茶人の生け花は、当初の場所から移されると意味を失う。その線も釣り合いも、周囲を考えて特に工夫されているからだ。

花そのもののために花を崇めることは、十七世紀半ばごろ、「花の名人」が現れたことに始まる。花は茶室から独立し、花器が課す法則以外には従わなくなった。新しい構想と表現法が可能になり、そこから多くの原理と流派が生まれた。前世紀半ばのある著述家は、生け花の流派を百以上数えられると述べている。大きく分けると、形式派と自然風の派の二つになる。池坊を筆頭とする形式派は、狩野派の画家たちに対応する古典的な理想主義を目指した。この派の初期の名人による生け花の記録には、山雪や常信の花の絵を、ほとんどそのまま再現したものがある。一方、自然風の派は自然を手本とし、芸術的な統一を表すために必要なだけ、形に手を加えた。その作品には、浮世絵や四条派を生んだのと同じ衝動が認められる。

時間が許せば、この時代の花の名人たちが定めた構成や細部の法則を、今ここで可能な以上に詳しく検討するのも興味深いだろう。徳川時代の装飾を支えた根本の理論が、そこに示されるからだ。彼らは、主導する原理を天、従う原理を地、両者を調和させる原理を人とし、これらを体現しない生け花は、不毛で死んだものと見なした。また、花を真・行・草の三つの異なる姿で扱うことの重要性も、繰り返し説いた。第一は花に舞踏会の威儀ある正装をさせること、第二は午後のくつろいだ優雅な装いをさせること、第三は私室の魅力的な普段着をまとわせること、といってもよいだろう。

私自身が心を寄せるのは、花の名人の生け花より、茶人の生け花である。後者はふさわしい場所に置かれた芸術であり、生活との真に親密な結びつきによって心に訴える。この流派を、自然風の派や形式派と区別して、自然派と呼びたい。茶人は花を選べば役目を終えたと考え、あとは花に自分の物語を語らせる。冬の終わりに茶室へ入ると、山桜の細い一枝と、蕾を持つ椿が取り合わされているかもしれない。それは、去りゆく冬の余韻と春の予告との出会いである。また、苛立つほど暑い夏の日、昼の茶会へ行くと、薄暗く涼しい床の間の掛け花入れに、一輪の百合を見つけるかもしれない。露を滴らせるその花は、人生の愚かさに微笑んでいるように見える。

花の独奏も興味深いが、絵画や彫刻と協奏するとき、その取り合わせは人を魅了する。石州はあるとき、平たい器に水草を配して湖沼の草木を思わせ、その上の壁には、空を飛ぶ鴨を描いた相阿弥の絵を掛けた。別の茶人、紹巴は、海辺の孤独の美を歌う詩に、漁師の小屋をかたどった青銅の香炉と、浜辺の野の花を取り合わせた。客の一人は、その構成全体に、暮れゆく秋の息吹を感じたと書き残している。

花の物語は尽きない。もう一つだけ語ろう。十六世紀の日本では、朝顔はまだ珍しい植物だった。利休は庭いっぱいに朝顔を植え、丹精を込めて育てていた。その評判が太閤の耳に入り、ぜひ見たいとの意向が伝えられたので、利休は自宅の朝の茶会へ招いた。約束の日、太閤は庭を歩いたが、どこにも朝顔の跡形さえ見えなかった。地面はならされ、細かい小石と砂が敷かれていた。独裁者は不機嫌な怒りを抱えて茶室へ入った。だが、そこで待っていた光景が、その機嫌をすっかり直した。床の間の、宋代の珍しい青銅器に、一輪の朝顔が生けられていたのだ――庭じゅうの花の女王が。

このような例に、花を犠牲にすることの意味が余すところなく示されている。花自身も、その意味を十分にわかっているのかもしれない。花は人間のような臆病者ではない。死を誇りとする花もある。進んで風に身を委ねる日本の桜は、確かにそうだ。吉野や嵐山で、香りを帯びた花の雪崩の前に立ったことのある人なら、きっとそれを感じたはずだ。ひととき、花は宝石をちりばめた雲のように漂い、水晶の流れの上で踊る。そして笑う水面を流れ去りながら、こう言っているように見える。「さらば、春よ。私たちは永遠へ向かう。」

第七章 茶人

宗教において、未来は私たちの背後にある。芸術においては、現在が永遠である。茶人たちは、芸術を生活に生きて働く力とする者だけが、真に芸術を理解できると考えた。そこで、茶室を支配する高い洗練の基準によって、日常生活を律しようとした。どのような状況でも心の静けさを保ち、周囲の調和を決して損なわぬように話す。衣服の形と色、姿勢、歩き方までも、すべて芸術的な個性の表現となりえた。これらは軽んじてよいことではなかった。自分自身を美しくしないうちは、美に近づく権利がないからだ。こうして茶人は、芸術家以上のもの――芸術そのもの――になろうと努めた。それは美の禅だった。認めようとさえすれば、完全さはどこにでもある。利休は、ある古歌を好んで引いた。「花ばかりを待つ人に、雪に覆われた山里の、懸命に芽吹く草に宿る春の盛りを見せたいものだ。」

茶人たちが芸術に果たした貢献は、実に多岐にわたる。古典的な建築と室内装飾を一新し、茶室の章で述べた新しい様式を確立した。その影響は、十六世紀以降に建てられた宮殿や寺院にまで及んでいる。多才な小堀遠州は、桂離宮、名古屋城、二条城、孤篷庵に、その天才の顕著な例を残した。日本の名高い庭園は、すべて茶人たちによって造られた。茶人が霊感を与えなかったなら、日本の陶芸はおそらく、あれほど高い完成度には達しなかっただろう。茶の湯の道具を作ることは、陶工たちに最大限の創意を求めたからだ。遠州七窯は、日本の陶器を学ぶ者なら誰でも知っている。織物にも、色や意匠を考案した茶人の名を冠するものが多い。実際、茶人の天才の跡が残されていない芸術分野を見つけることは、不可能である。絵画と漆芸に果たした莫大な貢献は、ほとんど言うまでもない。絵画の最も偉大な流派の一つは、漆芸家、陶芸家としても名高い茶人、本阿弥光悦に始まる。その作品に比べれば、孫の光甫や、甥の子に当たる光琳・乾山の華麗な創作でさえ、ほとんど影が薄くなる。一般に光琳派と呼ばれる一派の全体が、茶道の表現なのである。その雄大な線のなかに、私たちは自然そのものの生命力を見るように思う。

芸術の分野における茶人の影響は大きかったが、生活のあり方に及ぼした影響に比べれば、ものの数ではない。上流社会の礼儀作法だけでなく、家庭のあらゆる細部の整え方にも、茶人たちの存在を感じる。繊細な料理の多くも、食事の供し方も、茶人たちの発案である。落ち着いた色の衣服だけを着るよう教えたのも、花に向き合う正しい心を教えたのも彼らだった。もともと私たちにあった簡素さへの愛を強め、謙虚さの美を示してくれた。実に、その教えを通じて、茶は人々の生活へ入り込んだのである。

人生と呼ばれる、愚かな煩いの荒海のなかで、自分の生を正しく整える秘訣を知らない私たちは、幸せで満ち足りているように見せかけようとむなしく努めながら、絶えず苦しんでいる。道徳的な釣り合いを保とうとしてよろめき、水平線に浮かぶ雲という雲に嵐の前触れを見る。だが、永遠へ向かって押し寄せる波のうねりには、喜びも美しさもある。その心に身を投じてはどうだろう。あるいは列子のように、嵐そのものに乗ってはどうだろう。

美とともに生きた者だけが、美しく死ぬことができる。偉大な茶人たちの最期は、その生涯と同じく、極上の洗練に満ちていた。宇宙の大いなる律動とつねに調和しようと求め、いつでも未知へ入る心構えをしていた。「利休最後の茶」は、悲劇の崇高さの極みとして、永遠に際立つだろう。

利休と太閤秀吉の親交は長く、この偉大な武将が茶人に寄せる評価も高かった。だが、独裁者との友情は、つねに危険な名誉である。裏切りの満ちた時代で、人は最も近い身内さえ信じなかった。利休は卑屈な廷臣ではなく、猛々しい庇護者に対しても、しばしば臆せず異論を唱えた。しばらく前から太閤と利休のあいだに生じていた冷え込みにつけ込み、利休の敵たちは、独裁者を毒殺する陰謀に加わっていると訴えた。茶人の点てる緑の飲み物の一碗に、致死の毒が盛られることになっている、と秀吉にささやいたのである。秀吉にとっては、疑いだけで即座の処刑に十分だった。怒った支配者の意志に抗うすべはなかった。死を命じられた者に許された特権は、ただ一つ。自らの手で命を絶つ名誉だけだった。

自ら命を絶つと定められた日、利休は高弟たちを最後の茶会に招いた。約束の時刻、客たちは悲しみのうちに待合へ集まった。露地を見やると、木々は身を震わせ、葉擦れには、さまよう亡霊のささやきが聞こえるようだった。灰色の石灯籠は、冥府の門前の厳かな番兵のように立っていた。茶室から、珍しい香のひと筋が流れてくる。それは客を招き入れる合図だった。一人ずつ進み、席につく。床の間には、世のすべてのはかなさを説く、古い僧の見事な墨跡が掛けられている。風炉の上で沸く釜の歌は、去りゆく夏へ悲しみを注ぐ蝉の声のように響いた。やがて亭主が入る。客は順に茶を供され、順に黙って飲み干す。亭主が最後に飲んだ。定められた作法に従い、正客が道具の拝見を願い出る。利休は掛物とともに、さまざまな品を皆の前に置いた。一同がその美を称え終えると、利休は集まった人々に、形見として一つずつ贈った。茶碗だけは手元に残した。「不幸の唇に汚されたこの碗を、再び人に使わせることはできぬ。」

そう言って、茶碗を粉々に砕いた。

茶会は終わった。客たちは涙をこらえきれぬ思いで最後の別れを告げ、部屋を去った。ただ一人、最も親しく愛された弟子だけが、残って最期を見届けるよう求められた。利休は茶会の衣を脱ぎ、畳の上に丁寧にたたんだ。その下から、汚れのない白い死装束が現れた。命を絶つ短刀の輝く刃を優しく見つめ、美しい詩句でこう語りかけた。

          「よくぞ来た、
          永遠の剣よ。
          仏をも、
          そして
          達磨をも、
          お前は断ち切ってきた。」

顔に微笑みを浮かべ、利休は未知の世界へと旅立った。