1984年

1984

作者: ジョージ・オーウェル

出版年: 1949年

訳者: gpt-4.1

概要: ロンドンのヴィクトリー・マンションに暮らす党員のウィンストン・スミスは、全体主義国家オセアニアで抑圧された日々を送っている。至る所に「ビッグ・ブラザー」の顔が監視し、思考警察が人々の心を支配する世界で、彼は過去への疑問と自由への渇望を抱いていた。ある日、彼は偶然手に入れた古い日記に、禁じられた思考を……

公開日: 2025-05-06

パート1

第1章

明るくも冷たい四月のある日、時計は十三時を打っていた。ウィンストン・スミスは、いやな風を避けて顎を胸にうずめ、勝利マンションのガラス扉をすばやくすり抜けたが、細かいちり混じりの埃が渦を巻いて一緒に入ってしまうのを防ぐことはできなかった。

廊下には、茹でキャベツと古いぼろマットのにおいが立ち込めていた。その一端には、屋内に飾るには大きすぎる色付きのポスターが壁に貼りつけられていた。そこには単純に、メートルを超す大きさの顔、四十五歳くらいの男の顔が描かれていた。濃い黒い口ひげと、がっしりした男前の顔立ち。ウィンストンは階段を目指した。エレベーターを使うのは無駄だとわかっていた。どんな時でもめったに動かず、今や省エネ運動の一環で昼間は電気が止められている。憎悪週間に備えての措置だった。その部屋は七階上にあり、三十九歳で右足首に静脈瘤を抱えたウィンストンは、何度も途中で休みながらゆっくり登った。各階の踊り場には、エレベーターシャフトの向かい、例の巨大な顔のポスターが貼られていた。その目は、どこから見ても自分を追ってくるように作られている。キャプションにはこうあった――「ビッグ・ブラザーがあなたを見ている」。

部屋の中では、果実のようにまろやかな声が銑鉄生産高の数字を読み上げていた。その声は、右手の壁面の一部を成す、くすんだ鏡のような長方形の金属製プレートから発せられていた。ウィンストンはスイッチをひねり、声は多少小さくなったが、言葉は判別できた。その機器――テレスクリーンと呼ばれている――は音量を下げることはできても、完全に電源を切るすべはなかった。彼は窓辺に移動した。小柄でひ弱な身体が、党の制服である青いオーバーオールにより一層目立って見えた。ごく薄い髪に、生まれつき赤みがかった顔色、粗悪な石鹸や切れ味の鈍いカミソリ、そしてようやく終わったばかりの冬の寒さで肌は荒れていた。

外に目をやれば、窓ガラス越しでも世界は寒々しく見えた。道端では風が小さな渦巻きを作り、埃や紙くずを踊らせていた。太陽は照って空は突き刺すような青だったが、あらゆるものからは色彩が失われていた。至るところに貼られたポスターだけが例外だった。黒い口ひげの男の顔が、支配的な角のいたるところから見下ろしていた。正面の建物にも貼られていた。キャプションは「ビッグ・ブラザーがあなたを見ている」とあり、その暗い目はウィンストンの目をじっと覗き込んでいた。街の地上では、片隅が破れたポスターが風にはためき、時折隠したり現したりしていたのは「イングソック」という一語だけ。はるか彼方には、ヘリコプターが屋根の間を音もなく降下し、一瞬青バエのように停止してから、曲線を描きながらどこかへ飛び去った。警察部隊が市民の窓を覗き込んでいたのだ。しかし、パトロール自体は問題ではなかった。本当に問題なのは思想警察だけだった。

ウィンストンの背後では、テレスクリーンの声がまだ銑鉄や第九次三カ年計画の達成率をがなり立てていた。テレスクリーンは同時に受信も送信もする。ウィンストンがわずかに大きい声を出せば、その音は拾われた。そして、金属プレートの支配範囲内にいれば、音だけでなく姿も監視されていた。実際、いつ監視されているのか誰にも分からなかった。思想警察が各配線にどれだけ頻繁に、どんな基準で接続しているかは推測するしかなかった。一人一人を常時監視しているのかもしれない。しかし、少なくとも望みさえすれば、彼らはいかなる時でもあなたの線を監視できたのだ。人は――というより人間は本能のごとく――自分の発する音が全て盗聴され、暗闇以外のあらゆる動きが監視されていると仮定して生きることを余儀なくされる。

ウィンストンはテレスクリーンに背を向け続けた。そのほうが安心だった。だが、彼自身よく知っているように、背中すら情報を漏らしてしまう可能性はあった。1キロ先には、彼の勤務先である真理省[ミニトゥルー]が、薄汚れた街並みを見下ろすように白くそびえていた。心のどこかで嫌悪感を覚えながら――ここがロンドン、エアストリップ・ワンの首都、ひいてはオセアニア第三の人口を誇る州だった。子ども時代に見た風景が今もそうだったのか、確かめようとしたが、記憶からはぼんやりした光景しか浮かばなかった。腐りかけた十九世紀の家々――側面は丸太で支えられ、窓は段ボール、屋根は波板鉄板で補修され、庭の塀はどこも今にも崩れ 落ちそう。爆撃跡の場所には石膏のちりが舞い、瓦礫にはヤナギランの雑草がのび、もっと広範囲に破壊された一角には、鶏小屋のような木造バラックが寄り集まっていた。だが無意味だった。彼の子ども時代から残されたものは、背景なく断片的に浮かぶ明るい場面の連なりだけだった。

真理省――新語法でミニトゥルーは、周囲の建物とは驚くほど異なっていた。何段ものテラスが積み重なった白く輝くピラミッドが、空高く300メートルにも及ぶ高さでそびえていた。ウィンストンの視点から、白い壁面にはっきりと読み取れた三つの党のスローガンが、上品な文字で刻まれていた。

  戦争は平和である
  自由は隷属である
  無知は力である

真理省には地上だけで三千の部屋と同じ規模の地下組織があるといわれていた。ロンドン各所にはこれと似た姿と規模のビルが三つあるだけだった。周囲の建物との規模の差は圧倒的で、勝利マンションの屋上からならその四棟全てを同時に目にすることができた。政府組織はこれら四つの省に完全に分割されていた。ニュース、娯楽、教育、美術を司る真理省。戦争を司る平和省。法律と秩序を維持する愛情省。経済を管轄する豊富省。それぞれ新語法では、ミニトゥルー、ミニパックス、ミニラヴ、ミニプレンティと呼ばれていた。

本当に恐ろしいのは愛情省だった。そこには窓が一つもなかった。ウィンストンは愛情省の中どころか外柵の500メートル以内に近づいたこともなかった。公式用務でなければ入ることはできず、しかも鉄条網、鋼鉄の扉、秘密の機関銃巣窟を潜り抜ける必要があった。外側へ続く道ですら、関節警棒を持った黒い制服のごろつき顔の衛兵が歩き回っていた。

ウィンストンは突然振り向いた。彼はテレスクリーンに対峙する時に推奨されている、穏やかな楽観主義の表情を顔に貼りつけていた。部屋を横切り、狭いキッチンへ向かった。この時間に省を出たせいで食堂での昼食を犠牲にしたこと、明日の朝食用の黒パンを残しておく以外に食料がないことは分かっていた。棚から「勝利ジン」と書かれた白いラベル付き無色液体の瓶を取り出した。中華の白酒のような、つんとした油っぽい臭いが漂った。ウィンストンはほぼティーカップ一杯分をそそぎ、衝撃に備えて気を強く持ち、薬のように一気に飲み干した。

たちまち顔が真っ赤になり、涙が目から溢れた。その酒は硝酸のように焼けるようで、ごくんと飲み下す時にはゴムの棍棒で後頭部を殴られるような感覚があった。しかしその直後、腹の中の焼けるような痛みが収まり、世界が少し明るく見えてきた。彼は「勝利タバコ」と印字されたくしゃくしゃの箱から煙草を取り出したが、うっかり立てた状態で持ったため中のタバコが床に落ちてしまった。次の一本はうまくいった。リビングに戻り、テレスクリーンの左側にある小さなテーブルに腰掛けた。引き出しからペン軸、インク壜、赤い背表紙とマーブル模様の厚手のクォート判ノートを取り出した。

なぜかリビングルームのテレスクリーンは通常とは違う位置にあった。普通は部屋の端の壁側にあり全体を見渡せるはずだが、それは窓の向かいの長辺にあった。その脇には浅いくぼみがあり、恐らく建設当初は本棚用だったのだろう。ウィンストンは今そこに腰かけ、奥のほうへ身を引くことで視認範囲から外れることができた。もちろん音は聞こえるが、現在の位置さえ守れば姿は捉えられない。こうした部屋の独特の作りもあって、今まさにやろうとすることを思いついたのだった。

だが、今手にしているこの本もまた、彼にその行動を促した。とても美しい本だった。なめらかでクリーム色の紙はほんのり黄ばんでいたが、こんな上質紙は四十年以上前から製造されていないだろう。だが本はもっと古いことは見当がついた。町の場末の薄汚れたがらくた屋でウィンドウ越しに見かけ、すぐさま無性に欲しくなった。党員は普通の商店に立ち寄ることは建前上禁止(「自由市場での取引」と呼ばれていた)が、靴ひもやカミソリの刃など、他では手に入らない品があるので規則は厳密ではなかった。彼は通りを素早く見回し、さっと店に入り、2ドル50セントでその本を買った。その時は目的もなく、持ち帰る途中も後ろめたさがあった。まだ何も書いていないのに、それ自体が危険な所有物だった。

いましようとしているのは日記を開くことだ。これは違法ではなかった(もはや法律は存在しないので、違法も何もない)が、見つかれば死刑か、少なくとも25年の強制労働収容所送りになるのは確実だった。ウィンストンはペン軸にペン先を挿し、脂を吸い取ろうと口に含んだ。このペンは時代遅れの道具で、署名にもめったに使われず、彼はこっそりと苦労して手に入れた。美しい紙にはインクペンではなく本物のペン先で書きたかったからだ。しかし実際には手書きになれていなかった。ごく短いメモを除けば全てスピークライトで口述するのが通例だったが、それでは今なすべきことができない。ウィンストンはインクにペンを浸し、一瞬手が止まった。腸に震えが走った。紙に書き込むことが決定的な行為だった。小さく下手な字でこう記した。

1984年4月4日

身を引いた。完全な無力感が心にのしかかった。そもそも本当に1984年かどうかも確信が持てなかった。年齢が三十九歳ぐらい、1944年か45年生まれと思うので、たぶんそのあたりだろうとは思えたが、年を一、二年単位で特定することも今ではできなかった。

誰のために、ふいに彼は日記を書くのかと思った。未来のため、まだ生まれていない者たちのため。ページの日付をぼんやり見つめ、やがて新語法の「二重思考」という言葉にぶつかった。はじめて自分が始めた行為の大きさが実感として迫ってきた。未来と意思疎通する方法があるのか? 本質的に不可能である。未来が現状と同じであれば彼の声には耳を貸さないだろうし、もし違っていれば、今の自分の苦悩など意味をなさない。

しばらくの間、紙をぼんやり見つめていた。テレスクリーンは軍歌に切り替わっていた。自分をうまく説明する力を喪失しただけでなく、元々何を書こうとしていたのかすら忘れてしまったかのようだった。何週間もこの瞬間のために準備し、勇気さえあれば十分だと思っていた。しかし書くこと自体は容易なはずだ。何年も頭の中をぐるぐる巡っていた終わりない独白を紙に移せばよいだけなのだ。それなのに、その独白すら途切れていた。しかも静脈瘤のかゆみが我慢できないほどひどくなっていた。かけば必ず悪化するので手が出せなかった。秒針の音だけが響く。目の前の真っ白なページとかゆい足、音楽の喧騒、そしてジンのせいか微かな酩酊感以外、意識はなかった。

突然、彼はほとんど自動的に、恐怖と混乱の中でペンを走らせ始めた。幼い子供のように拙い字で、ページを上下に乱れながら、ついには大文字も句点も失っていった。

1984年4月4日 昨夜映画見に行く。全部戦争もの。地中海あたりで難民船が爆撃されるやつが良かった。
観客はでかくて太った男がヘリコプターに追われて泳いで逃げる映像に大笑い。最初はアザラシみたいに水をかいていたが、次はヘリの照準越し、穴だらけになり、周りの海がピンクに染まってあっという間に沈む――水が穴から流れ込んだみたいに。観客は男が沈むたびどっと笑った。つづいて救命ボートに子どもばかり乗ってるのをヘリが見下ろしてる。弓なりの中年女(ユダヤ人かも)が船首に座って、三歳くらいの男の子を腕に抱いてる。その子は怖がって叫び、女の胸に顔をうずめてまるで中にもぐろうとでもしてるみたい。女は自分も青ざめながらずっと彼を腕で包み込んで守ろうとしてる――銃弾から守れるとでも思ったのか。ヘリが20キロ爆弾を船に落とし、すごい閃光、ボートは木片まみれに。子供の腕が高く高く、空中に舞い上がる最高の映像――ヘリに積まれたカメラが後を追ったのだろう。党員席からは拍手喝采。でも労働者席の女が突然大声で、子供の前で見せるもんじゃない、と騒ぎだし、警官に追い出された。どうせ何も起こらなかったろう。労働者が何言おうが誰も気にしない。典型的な労働者の反応、やつらはいつも――

ウィンストンは書くのをやめた。手がつったせいもあった。なぜこんなくだらないことを書き殴ったのか自分でも分からなかった。しかし不思議なことに、これを書いている最中、全く別の記憶がはっきりと頭に浮かび、今ならそれも書けそうな気がした。思えば、そのことがきっかけで今日は急に帰宅し、日記を始めたのだった。

それは朝、省で――もし“起きた”と言ってよければ――起きた。

十一時近く、ウィンストンの職場である記録局では、二分間憎悪に備えて椅子を仕切りから引き出し、大テレスクリーンの前に集めていた。ウィンストンはちょうど中央付近の列に座るところだった。そこへ、見知ったが言葉を交わしたことはない二人が予想外に現れた。片方は、廊下ですれ違うあの女子だった。名は知らなかったが、フィクション課の所属だというのは知っていた。時折、油で汚れた手やスパナを持っていることから、小説機械の修理の仕事らしい。彼女は27歳くらい、健康的でしみのある顔、すばやく運動的な仕草。腰にはジュニア・アンチ・セックス同盟の真紅の帯が何重にもきつめに巻かれ、ヒップラインをくっきり見せていた。ウィンストンは最初に見た瞬間から彼女を嫌っていた。理由は明白だった。ホッケー場や冷水浴、集団ハイク、清潔志向――彼女のまとっている空気が原因だった。彼はほとんど全ての女、とりわけ若く美しい女を嫌った。女、特に若い女こそ党の最も狂信的な追従者、スローガンの奴隷、素人スパイ、不穏分子のあら探し役なのだ。しかしこの女は、とりわけ危険な感じがあった。廊下ですれ違った時、一度だけ横目でじろりと見られ、心の底から恐怖が走ったことさえあった。思想警察の手先では、とさえ一瞬思ったほどだ。しかしそれは多分あり得ない。それでも、彼女の近くにいると不安と敵意が入り混じった落ち着かない気持ちが消えなかった。

もう一人はオブライエンという男で、インナー・パーティの構成員、ウィンストンがその職務内容をほとんど想像できないほど重要かつ遠い地位の保持者だった。インナー・パーティの黒いオーバーオールが近づくと、周囲の空気がわずかに引き締まった。オブライエンは大柄で首の太い、荒っぽいがユーモラスな顔をしていた。その風貌に反し、どこか魅力を感じさせるものがあった。彼はメガネを掛け直す仕草がどこか油断ならず――なんともいえず上品だった。十八世紀の貴族が嗅ぎタバコ入れを差し出すような仕草を思い起こさせるものだった。ウィンストンはオブライエンを十数回しか見かけたことがなかった。それでも彼には強い親近感があった。彼の上品さと格闘家のような体格の対比に惹かれたが、それ以上に、「オブライエンの政治的正統性は完璧ではない」という密かな確信、もしくは単なる願望――それがあった。彼の顔には何か抗えないものがあった。そして実際は正統性の欠如というより単なる知性が感じ取れただけかもしれないが、ともかく彼は「もしテレスクリーンごしでなければ話ができそうな人」に見えた。ウィンストンはこの予感を検証しようと試みたことはない。実際、その手段がなかった。この時オブライエンは腕時計を見て、十一時近いので記録局に留まることに決めたらしい。同じ列にいくつか離れて座った。ウィンストンの隣には、小柄な金髪女性(隣接する小部屋の同僚)、その後ろには黒髪の例の女。

その瞬間、大テレスクリーンから潤滑油のない巨大な機械の唸りのような、耐え難いガリガリという金切り声が響いた。背筋が寒くなった。憎悪(ヘイト)が始まったのだ。

例によって、民衆の敵エマニュエル・ゴールドスタインの顔が画面いっぱいに映し出された。観客席のあちこちから口笛や罵声。金髪の女性は恐怖と嫌悪から悲鳴を上げた。ゴールドスタインは裏切り者で党の純粋性を汚した最初の人物、昔ビッグ・ブラザーと肩を並べたリーダーだったが、反革命活動に手を染め、死刑宣告を受け不思議なことに逃亡し消息を絶った。二分間憎悪の内容は日によって違ったが、ゴールドスタインが主役でないことは一度もなかった。彼こそ党への全ての背信・破壊・異端・逸脱の源であり、今もどこかで陰謀を巡らしているとされた――外国の手先に守られて海外にいるとも、あるいは時折噂される通りオセアニア国内に潜伏しているとも。

ウィンストンは横隔膜をきゅっと締め付けられた。ゴールドスタインの顔を見るたび、痛ましいほど複雑な感情にとらわれた。それはやせてユダヤ人風の顔、ふわふわした白髪、やぎひげ――利発そうでいてなぜか本性的に軽蔑すべき、長く細い鼻先にずり落ちそうなメガネ。羊の顔のようで、声もどこか羊じみていた。ゴールドスタインは党の教義を毒づき、誇張された歪んだ非難を浴びせていて、子供でも見破れそうなものなのに、どこか他人が騙されそうで不安になるだけの説得力も持っていた。彼はビッグ・ブラザーを罵り、党の独裁を詰り、ユーラシアとの即時和平を要求し、言論の自由、報道の自由、集会の自由、思想の自由を主張し、革命は裏切られたとヒステリックに訴えていた――全て早口で音数の多い語り口で、党の演説家の口調を風刺するように、しかも新語法も頻繁に混ぜていた。しかもその後ろではユーラシア軍の無数の兵士が入れ替わり立ち替わり画面を行進し、背景で鈍い軍靴のリズムがゴールドスタインのめえめえ声に重なる。

始まって30秒もたたないうちに、部屋の半分の人々から耐えきれない怒りの叫びが上がり始めた。画面の羊面と、ユーラシア軍の脅威、そしてゴールドスタインの姿やその思想を思い出すだけで、誰もが本能的に恐怖と怒りに駆られる。彼はユーラシアやイースタシアよりも憎悪の恒常的対象だった。だが奇妙なのは、ゴールドスタインは日々羨望と嘲笑、否定、粉砕と中傷に晒されながらも、影響力が減少しないことだった。いつも新たな信奉者が現れ、思想警察によってスパイや破壊分子が摘発され続けていた。彼は国家転覆を目指す影の大軍団「兄弟団」の指揮者とされ、どこかに禁断の「書」が地下で出回っているという噂もあった。その本は書名すらなく、単に「書」と呼ばれていた。だがそんな話題はごくあいまいな噂だけ、党員が話すべきことではなかった。

憎悪が二分目に入ると、狂乱状態に達した。観客は立ち上がり、声を限りにわめき、画面から発される羊の声をかき消そうとした。金髪の女性は顔を真っ赤にして、魚のように口をぱくぱくさせていた。オブライエンまでも顔を紅潮させ、胸を強く張りつつ波のような感情に耐えるような姿勢になっていた。黒髪の女は「ぶた! ぶた! ぶた!」と叫び、分厚い新語法辞典をスクリーンへ投げつけた。本はゴールドスタインの鼻を直撃し、跳ね返った。だが声は容赦なく続いた。ふと我に返り、ウィンストン自身も他の人々とともに叫び、椅子の横木を激しく蹴っていた。二分間憎悪の恐ろしさは、芝居を強制されることではなく、逆に全員が巻き込まれずにいられない点にあった。30秒もたてば芝居の必要などなくなる。恐怖と復讐心、殺したい、拷問したい、顔面をハンマーで砕きたい願望が電流のように一同を貫き、気づけば誰もが鬼面の狂人と化していた。しかもその怒りの矛先は抽象的で、対象は簡単に移し替えられた。ふとした瞬間、ウィンストンはゴールドスタインではなく、ビッグ・ブラザーや党、思想警察への憎悪すら感じた。そしてその時、彼の心は真理と正気の守護者として画面の異端者へと向いていた。だが直後には周囲と同調し、ゴールドスタインへの批判は全て正しいと感じた。その時はビッグ・ブラザーへの秘密の嫌悪すら畏敬と崇拝に変わり、大きく堂々たる守護者としてアジアの大軍に立ち向かう存在として映った。ゴールドスタインは、その孤独・無力さ・存在自体の不確かさを超えて、声だけで文明を崩壊させる魔術師のようにさえ思われた。

さらに、意識的な努力で怒りの対象を切り替えることもできた。まるで悪夢の中で頭を無理やり引きはがすような激しい意思で、ウィンストンは怒りを画面から自分の後ろの黒髪の女へと移した。鮮烈な妄想が閃いた。彼女をゴム製警棒で打ち殺してやりたい。全裸で杭に縛り矢で射抜きたい。聖セバスチャンのように。そして絶頂の瞬間に首を切り裂きたい、と。だがそれよりも、なぜ彼女を憎むのかが自分で分かった――若く美しく性欲を感じさせないからだ。彼女を抱きたいができない。そのしなやかな腰を腕で回せそうなのに、覆っているのは憎むべき貞潔の真紅の帯だけ――それが理由だった。

憎悪は最高潮に達した。ゴールドスタインの声は本物の羊の鳴き声に変わり、その顔も一瞬羊のものとなった。次いで画面には巨きく恐ろしいユーラシア兵士が現れ、サブマシンガンを乱射しながら突撃してくるようだったので、最前列の何人かは本当に後退ったほどだ。しかしすぐに、皆が安堵の溜息をつく中、敵の姿はビッグ・ブラザーの顔へと変わった。黒髪に黒い口ひげ、力強く神秘的な静けさ、画面をほとんど埋め尽くす大きさ。誰もビッグ・ブラザーが何を言っているのか聞こえなかった。戦場のざわめきの中で発せられる、個々には識別不能だが心に力を与える、一言ふた言だった。そしてビッグ・ブラザーの顔が消え、代わりに党の三つのスローガンが大文字で鮮烈に浮かび上がった。

  戦争は平和である
  自由は隷属である
  無知は力である

だがビッグ・ブラザーの顔は、画面から消えてもしばし余韻が残った。小柄な金髪女性は前の椅子の背に身を投げ出し、「私の救い主!」とでも叫ぶように震える声で両手をスクリーンに伸ばし、やがて顔を手で覆った。彼女は祈りの言葉を発していたのは明らかだった。

群衆全体が、同時に深く遅いリズムで「ビービー! ……ビービー!」と唱和し始めた。非常にゆっくりと、最初の「ビ」と次の「ビ」の間を長く伸ばしながら――重々しく小さく唸るような声で。そこには裸足の足音や太鼓の鼓動さえ聞こえる気がした。三十秒ほどその声は続いた。これは激しい感情の時よく起こるが、ビッグ・ブラザーへの賛歌というよりもむしろ自己催眠、意識をリズム音で沈める行為だった。ウィンストンの体の芯は冷たくなった。二分間憎悪ではどうしてもみんなと同調してしまうが、この「ビービー」合唱だけは恐怖でしかなかった。当然ウィンストンも一緒に唱和した――さもないとできなかった。感情を隠し、顔を制御し、皆と同じ行動をとるのは本能だった。しかしわずかな間、ほんの二秒、彼の目の表情が本心を露わにしたかもしれない。そしてまさにその瞬間、重大な出来事が起きた――もし本当に起きたならば。

一瞬、彼はオブライエンと目が合った。オブライエンは立ち上がり、眼鏡を外しながら、特有の仕草でかけ直していた。そのわずかな間、二人の視線が交わり、その短い間にウィンストンは――確信した――彼も自分と同じことを考えていると。間違いなく意志の疎通があった。まるで心が開かれ、思考が目を通して流れ込んだようだった。「君の味方だ」とオブライエンの目が語っているように思えた。「君の蔑みも、憎しみも、嫌悪も全部分かっている。心配するな、私は君の側だ!」――そしてその一瞬後、その知性は消え去り、彼の顔は他の者と同じく不可解になった。

それでおしまいだった。実際に起きたかどうかさえもう分からなかった。この種の出来事に続きはない。ただ彼の中に「他にも党の敵がいるのかもしれない」という希望を生かすだけだった。地下巨大組織の噂が本当かもしれない――もしかすると本当に兄弟団は存在するのかも。逮捕、自白、処刑が後を絶たなくても、それがただの神話ではないと確信する術はなかった。信じる日もあるし、信じられない日もあった。証拠はなく、ごくまれな断片――漏れ聞いた会話や壁の落書き、時には見知らぬ二人がすれ違う際の手のサインらしきものすら、ただ想像かもしれない。彼はオブライエンを振り向きもせず部屋に戻った。接触を図るなど思いも寄らなかった。それは途方もなく危険だし、やり方も分からない。ほんの一・二秒、あいまいな視線を交わしただけで終わった。しかし、この孤独の中では、それさえ記憶に残る出来事だった。

ウィンストンは自分を奮い立たせて姿勢を正した。げっぷが出た。ジンが胃からこみあげていた。

目をページに戻すと、ぼんやりしている間にも自動的に何かを書いていたことに気付いた。しかもそれは先ほどまでの小さくぎこちない文字ではなく、大きく整った大文字で、滑らかな紙の上を滑るように

ビッグ・ブラザー打倒
ビッグ・ブラザー打倒
ビッグ・ブラザー打倒
ビッグ・ブラザー打倒
ビッグ・ブラザー打倒

と、半ページ埋めるまで繰り返されていた。

彼はとっさにパニックに襲われた。滑稽なことだ――それを書いたこと自体は日記を開くこと以上に危険ではないのに、一瞬、台無しになったページを破り捨て日記そのものをやめてしまいたい衝動に駆られた。

しかしそうはしなかった。なぜならそれが無駄だと分かっていたからだ。ビッグ・ブラザー打倒と書こうが、書くまいが、日記を続けようがやめようが、何も変わらない。思想警察はいずれかならず彼を捕える。書く前から、あるいは一度もペンを走らせなくとも、根本犯罪――他の全ての犯罪の核心――思想犯罪。それは永遠に隠し通せるものではない。しばらくは逃げ切れたとしても必ず捕まる。

逮捕はいつも夜だった――決まって夜のうちに。寝ている最中に突然引き起こされ、乱暴な手で肩を揺さぶられ、まぶしい光が目に差し込み、固い顔に囲まれたベッド。ほとんどの場合、裁判も報道もなかった。人々は夜のうちに消えていった。名簿から名は消され、記録は抹消され、かつての存在自体が否定され、忘れられる。ただ一言、「蒸発」と呼ばれていた。

しばし彼はヒステリーに陥った。一気に乱れた文字で走り書きした。

どうせ撃たれる気にしない どうせ首の後ろを撃たれる気にしない ビッグ・ブラザー打倒
どうせ首の後ろから撃たれる気にしない ビッグ・ブラザー打倒――

彼は椅子にもたれ、わずかに恥ずかしくなり、ペンを置いた。次の瞬間、激しいショックを受けた。ドアをノックする音がしたのだ。

もう来たのか! 彼はネズミのように身を固くし、誰かが一度で諦めてくれることを無駄に期待した。だが、ノックは再びされた。最もまずいのは躊躇して遅れることだった。鼓動が太鼓のように鳴り響いていたが、長年のクセで顔はたぶん無表情だった。ウィンストンは重い足取りでドアへ向かった。


第2章

ドアノブに手をかけた時、ウィンストンは日記を開きっぱなしにしていたことに気付いた。そこには「ビッグ・ブラザー打倒」と何度も何度も書かれており、部屋の端からでも読めそうな大きさだった。信じがたいほど愚かなミスだった。しかし彼は、あのパニックの中でも、インクが乾く前に本を閉じてクリーム色の紙を汚したくなかったのだと悟った。

彼は息をのみ、ドアを開けた。するとたちまち温かな安堵が全身を流れた。無色で打ちひしがれた様子の女、細い毛髪と皺の刻まれた顔立ちの女が、外に立っていた。

「ああ、同志」と、その女はうんざりした泣き言交じりの口調で言い出した。「あなたが帰宅した音がしたものだから……うちの台所の流し、そちらで見ていただけません? 詰まっちゃって……」

それは同じ階に住む隣人、パーソンズ夫人だった(「夫人」は党によりあまり好まれない語で、原則皆「同志」だが、特定の女性には反射的に使ってしまう)。三十歳くらいだが、はるかに老けて見える女性。顔の皺に埃が溜まっていそうな印象だった。ウィンストンは彼女について廊下を進んだ。こうした素人修理への駆り出しはほぼ日課の苛立ちだった。勝利マンションは1930年頃建てられた古アパートで、崩壊寸前だった。天井や壁の石膏は剥がれ、冬の寒さで配管が破裂し、雪が降ると屋根が漏れ、暖房もほとんど動かず、節約のためには完全停止。自力修理以外の工事は遠方の委員会の許可が必要で、窓ガラス一枚直すのに二年かかることも珍しくなかった。

「もちろんトムさえ家にいればすぐ直すんですけど」とパーソンズ夫人はぼんやり続けた。

パーソンズ家の部屋はウィンストンの部屋より広いが別種の薄汚れ方をしていた。家具も全てはげ、何か巨大で乱暴な動物が暴れた跡のようだった。ホッケースティックやボクシンググローブ、破れたサッカーボール、汗だくで裏返しの短パン等、運動道具が床に散らばり、机には汚れた食器と使い古しのノートが山積み。壁には青年同盟とスパイ団の真紅のバナー、ビッグ・ブラザーの等身大ポスターが掲げられていた。アパート全体共通の茹でキャベツ臭もしていたが、どことなく強烈な汗臭も混ざっており、それが今は家にいない“誰か”の汗臭と直感できた。隣の部屋からは櫛とトイレットペーパーを使い軍歌に合わせて音を出している気配。

「子供たちのせいで……」パーソンズ夫人はちらりとドアを不安げに見やった。「今日は外に出してやれなくて、それに……」

彼女はいつも途中で言葉を切る癖があった。台所の流しには汚れた緑色の水がなみなみと溜まり、キャベツ臭さが一層ひどかった。ウィンストンはひざまずいて、パイプの継ぎ目を調べた。彼は手を使うのも、かがむのも嫌いだった。折れるとすぐ咳き込むのだ。パーソンズ夫人は頼りなく見守るだけ。

「トムさえいればすぐ直すんですが。ああいうの大好きで、トムは本当に器用なんですよ」

パーソンズは真理省の同僚。小太りながら活動的で、救いがたい愚鈍さと馬鹿げた熱中ぶりで党の安定を支えている連中の典型だった。三十五歳でようやく青年同盟を卒業し、その前は規定年齢を一年越してまでスパイ団に在籍した。職場では知能の要らない下っ端だが、コミュニティ集会や自発行進、貯蓄運動など各種委員会の中心人物だった。彼は煙草をくゆらせつつ、この四年間一日も欠かさずコミュニティ・センターに通ったことを自慢した。彼の残した汗臭は、その生き方の過酷さの無意識の証しのように、どこまで行っても残る。

「スパナ、ありますか?」ウィンストンは継手のナットをいじりながら尋ねた。

「スパナ……」パーソンズ夫人はとたんに無力になった。「分かりません、子供たちがもしかして……」

子供たちがリビングに駆け込む音と、櫛の軍歌が響いた。パーソンズ夫人はスパナを持ってきた。ウィンストンは水を抜き、人の髪の毛で詰まった塊をおっかなびっくり取り去り、冷たい水で指を洗って部屋に戻った。

「手を挙げろ!」凶暴な声が叫ぶ。

机の陰からゴツゴツした九歳くらいの少年が飛び出し、玩具の自動拳銃でウィンストンを威嚇していた。妹らしき二歳下の少女も木片を同じように構える。二人ともスパイ団の制服である青い短パン、グレーのシャツ、赤いネッカチーフ姿。ウィンストンはおそるおそる手を挙げた。少年の態度があまりにも攻撃的で、本当に遊びなのか不安だった。

「裏切り者め!」少年は叫んだ。「思想犯! ユーラシアのスパイ! 撃つぞ、蒸発させるぞ、塩鉱送りだ!」

二人は「裏切り者!」「思想犯!」と叫びながらウィンストンの周りを跳ねまわった。虎の子どもが将来人食いになるような、ぞっとする遊びだった。少年の目には計算された凶暴さがあり、殴るか蹴るかしたい欲求が隠せていなかった。ウィンストンは、持っているのが本物でなくて良かったと思った。

パーソンズ夫人は落ち着きなくウィンストンと子供たちを見比べていた。部屋の明かりの下、彼女の顔の皺に本当に埃が詰まっていることに気付いた。

「ほんとうにうるさくて……」彼女は言った。「処刑を見に行けなかったからガッカリしてるんです。私が忙しくて連れて行けなくて、トムも仕事からは間に合わなくて」

「なぜ処刑を見に行けないんだ!」少年が大声で怒鳴る。

「処刑見たい! 処刑見たい!」と少女もじゃれつつ繰り返した。

その晩、公園でユーラシアの戦犯囚人が絞首刑にされることになっていたのを、ウィンストン・スミスは思い出した。これは月に一度ほど行われる人気の見世物だった。子どもたちは、必ずと言っていいほど連れて行ってくれとせがんだ。ウィンストン・スミスはパーソンズ夫人に別れを告げ、ドアへ向かった。しかし、廊下を六歩も進まないうちに、何かが首の後ろを激痛とともに打ちつけた。まるで真っ赤に焼けた針金を突き刺されたような感じだった。ウィンストンは振り向くと、ちょうどパーソンズ夫人が息子を戸口に引き戻しているのが見えた。少年はパチンコをポケットにしまっていた。

「ゴールドスタイン!」と少年はドアが閉まる間際に叫んだ。だがウィンストンの心に最も残ったのは、パーソンズ夫人の灰色がかった顔に浮かぶ無力な恐怖の表情だった。

自分の部屋に戻ると、ウィンストンは迅速にテレスクリーンの前を通り過ぎ、再びテーブルに腰かけ、まだ首をさすっていた。テレスクリーンの音楽は止んでいた。今度は、軍服を着たようなぶっきらぼうな声が、アイスランドとフェロー諸島の間に投錨されたばかりの新しい浮遊要塞の軍備について、どこか残酷さを感じさせる調子で読み上げていた。

あの子どもたちと一緒では、あのみじめな女は恐怖の日々を送っているはずだ、とウィンストンは思った。あと一年、二年もすれば、子どもたちは母親の非正統的な兆候を昼夜問わず見張るようになるだろう。今ではほとんどすべての子どもがひどい連中だった。最も厄介なのは、「スパイ」などの組織によって、子どもたちが意図的に制御不能な小さな野蛮人に仕立て上げられる一方で、それが党の規律への反抗心を生まないという点だった。逆に、彼らは党とそのすべてを心から崇拝していた。歌、行進、旗、ハイキング、おもちゃの銃での訓練、スローガンの叫び、ビッグ・ブラザーの崇拝――すべてが彼らにとっては壮大な遊びだった。彼らの全ての攻撃性は、国家の敵、外国人、裏切り者、破壊活動者、思想犯罪者に向けられた。三十歳を超えた人々が自分の子どもを怖れるのは、ほとんど当たり前になっていた。そしてそれには理由があった。なぜなら、『タイムズ』に「小さな盗み聞きの英雄児」[child hero]が、親の不用意な発言を聞き、思想警察に通報したという記事が載らない週はほとんどなかったからだ。

パチンコの弾の痛みも消えていた。ウィンストンは気のない様子でペンを手に取り、日記に何か書けないか考えた。と、そのときふいにオブライエンのことを考え始めた。

何年も前――どのくらい前だろうか。たしか七年前になるはずだ――ウィンストンは真っ暗な部屋を歩いている夢を見た。そして脇に座る誰かが、通り過ぎる彼にこう言ったのだった。「我々は暗闇のない場所で会うだろう」。それはとても静かに、ほとんど何気ない調子で――命令ではなく、ただの宣言として言われた。ウィンストンは立ち止まらずに歩き続けた。興味深いのは、その夢の中で当時はその言葉にほとんど印象を受けなかったことだ。あとから徐々に、意味がある言葉に思えてきた。彼は、その夢の前か後か、オブライエンに初めて会ったのがいつだったか今では思い出せなかったし、声の主がオブライエンだと認識したのがいつだったのかも覚えていない。しかし、とにかくその認識はあった。闇の中から話しかけてきたのはオブライエンだった。

ウィンストンは今になっても確信が持てなかった――今朝の視線の閃きがあってさえ、オブライエンが味方か敵かはまったくわからなかった。それはそれほど重要なことでもないように感じられた。二人の間には、親しみや党派心よりも大事な、理解の絆があった。「我々は暗闇のない場所で会うだろう」とオブライエンは言った。ウィンストンはそれが何を意味するのかわからなかったが、ともかくいつか実現するだろうという確信だけはあった。

テレスクリーンの声が一拍置いた。美しく澄んだトランペットの響きがよどんだ空気に広がった。声はまたがらがらした調子で続けた。

「ご注意を! ただいまマラバール戦線からニュース速報が入りました。我が軍は南インドで輝かしい勝利を収めました。現在報告中の作戦は、戦争終結を目前にするものだとお伝えできる権限があります。ではニュース速報――」

悪いニュースが来るな、とウィンストンは思った。そして予想通り、ユーラシア軍壊滅の血まみれな叙述と、死傷者・捕虜の途方もない数字のあとに、来週からチョコレートの配給量が三十グラムから二十グラムに減らされるという発表が続いた。

ウィンストンはまたゲップした。ジンの酔いがさめてきて、しぼんだような感覚に襲われた。テレスクリーンは――勝利を祝うためか、失われたチョコレートの記憶をかき消すためか――『オセアニアよ、汝のために』を轟かせた。本来なら直立不動で敬礼しなければならなかったが、今の姿勢なら姿は見られていない。

『オセアニアよ、汝のために』は軽快な音楽に切り替わった。ウィンストンはテレスクリーンに背を向けて窓際へ歩いた。まだ寒くて空気は澄んでいた。遠くのどこかでロケット爆弾が鈍い轟音とともに炸裂した。今現在、ロンドンには週に二十発から三十発ほど落ちている。

通りでは風が破れたポスターをはためかせ、INGSOCという文字がちらりちらりと現れては消えていた。イングソック。イングソックの神聖な原則。ニュースピーク、二重思考、過去の可変性。ウィンストンは自分がまるで海底の森をさまよい、化け物じみた世界の中で自分自身が化け物になっているかのように感じた。彼は孤独だった。過去は死に、未来は想像もできない。今生きている人間の中で、自分の味方が一人でもいるという確信はあるだろうか? そして、党の支配が永遠に続かないという保証はどこにある? それへの答えのように、真理省の白い壁面に書かれた三つのスローガンが頭に浮かんだ。

  戦争は平和である
  自由は隷属である
  無知は力である

ポケットから二十五セント硬貨を取り出した。そこにも小さくはっきりと、同じスローガンが刻まれていた。そして裏にはビッグ・ブラザーの顔があった。そのコインからさえ、目が追いかけてくる。コイン、切手、本の表紙、横断幕、ポスター、タバコの包装――どこにでもある。いつも目が見つめており、声が包み込んでくる。寝ていても、起きていても、働いていても、食べていても、屋内でも屋外でも、風呂でもベッドでも――逃げ場はない。自分のものなのは、頭蓋骨の中のわずかな立方センチメートルだけだ。

太陽はまわり、真理省の無数の窓は光を受けなくなって要塞の銃眼のような陰鬱さを見せていた。ウィンストンの心は巨大なピラミッド型の建物の前でひるんだ。強大すぎる、攻略不能だ。千発のロケット爆弾が落とされても倒れはしないだろう。彼は改めて、自分はいったい誰のために日記を書いているのかと考えた。未来のためか、過去のためか、それとも想像上の時代のためか。そして彼の前にあるのは死ではなく、消滅だった。日記は灰となり、自分は蒸発するだけだ。読むのは思想警察だけで、彼らは内容をこの世からも記憶からも消し去るだろう。何ひとつ自分の痕跡が――紙切れに書かれた無名の言葉すら――物理的に生き残れないのに、未来に訴えることがどうしてできるだろうか。

テレスクリーンが十四時を告げた。十分で出発しなければならない。十四時三十分には職場に戻っていなければならなかった。

この時報が奇妙にも彼に新たな元気をもたらしたようだった。自分は誰にも聞かれぬまま真実を吐き続ける孤独な幽霊なのだ。しかし、語り続ける限り、何らかのかたちで連続性は保たれている。大切なのは、自分の声が届くことではなく、正気を保つことで人類の遺産を継承することだ。ウィンストンはテーブルに戻り、ペンをインクに浸し、こう書いた。

未来へ、あるいは過去へ。思考が自由で、人間が皆それぞれ違い、孤独に生きていない時代へ。
真実が存在し、なされたことが取り消せない時代へ。
――均一性の時代、孤独の時代、ビッグ・ブラザーの時代、二重思考の時代から、挨拶を送る。

自分はすでに死んでいる。ウィンストンはそう思った。自分の思考を言葉にできるようになった今こそ、決定的な一歩を踏み出したように感じていた。すべての行為の結果は、それ自体の中に含まれている。ウィンストンはさらに書いた。

思想犯罪は死を伴わない。思想犯罪それ自体が死である。

自分がすでに死者だと認識した今、生きていられる限り生き続けることが重要になった。右手の二本の指はインクで汚れていた。それこそが身を滅ぼす原因になりかねない細かな事実だ。真理省には首を突っ込む熱心な誰か(恐らく女性だろう。例えば、隣の小柄な砂色の髪の女か、小説部門の黒髪の女)が、なぜ昼休みに執筆していたのか、なぜ時代遅れのペンを使ったのか、何を書いていたのか……と詮索し、それとなく密告するかもしれない。ウィンストンは洗面所に行き、ざらざらした褐色の石鹸でインクを念入りに洗った――まるでサンドペーパーのように皮膚を荒らすが、それがこの用途には最適だった。

日記は引き出しにしまった。隠すことなど無意味だが、せめて発見されたかどうかは確認できる。ページの端に髪の毛を挟むのは目立ちすぎる。ウィンストンは指先で判別できる白っぽい埃の粒を取り、そのカバーの隅に置いた。本が動かされれば必ず落ちる場所だった。

第3章

ウィンストン・スミスは母親の夢を見ていた。

母親がいなくなったのは、自分が十歳か十一歳の頃だった、とウィンストンは思った。母親は背が高く、彫像のようで、動きはゆったりしており、見事な金髪をたたえた無口な女性だった。父親はもっとぼんやりとした記憶しかない。色黒で痩せ、いつもきちんとした暗い服装(特に、彼の靴底がとても薄かったことをウィンストンはよく覚えていた)、そして眼鏡をかけていた。二人は五十年代初期の大粛清で消されたのだろう。

今この瞬間、母親は幼い妹を抱いて、深く地中のどこかに座っている。妹についてはほとんど覚えていない。かすかな弱々しい赤ん坊、いつも無言で大きな注意深い目をしていたことだけが記憶に残っていた。母と妹はウィンストンを見上げていた。彼女たちは井戸の底のような――あるいはとても深い墓穴のような――地下の場所にいて、しかもその場所自体がさらに下へ沈んでいく。彼女たちは沈みゆく船のサロンにいて、暗くなる水ごしに彼を見上げていた。まだサロンには空気があり、お互いの姿が見えていたが、どんどん沈んでいき、次の瞬間には緑の水が彼女たちを完全に覆い隠してしまうはずだった。ウィンストンは光と空気の中にいて、母と妹は死へと吸い下ろされていく――それは彼がここにいるから彼女たちがそこにいるのだと分かっていた。彼も彼女たちもそれを知っており、その理解が二人の顔に見て取れた。顔にも心にも非難の色はなかった。ただ、自分が生き延びるためには彼女たちが死ななければならず、それは不可避な秩序の一部なのだという知識があった。

何があったのかは思い出せなかったが、母と妹の命が自分のために犠牲になったのだと夢の中で知っていた。それは、夢の特有の舞台装置を保ちつつも、知的生活の延長線上であり、目覚めてからも新鮮で価値あるように思える事実や考えに気付く夢だった。ここでウィンストンが急に気付いたのは、母の死が約三十年前に起こったにもかかわらず、もはや今の時代にはありえないほど、悲劇的で、悲痛なものだった、ということだった。悲劇は古い時代の産物だった。プライバシーがあり、愛があり、友情があり、家族が理由もなく互いを支え合う時代のものだった。ウィンストンの心を裂いたのは、彼女が愛しながら死に、彼は幼すぎて自己中心的で愛を返すことができなかったこと、そしてどういう経緯かは思い出せないが、彼女が個人的で絶対に変わらぬ忠誠心のために自分を犠牲にしたことだった。そうしたことは、今の時代には決して起こらない。今あるのは恐怖と憎悪と苦痛だけ――感情の気高さや、深い複雑な悲しみはもう存在しない。母と妹の大きな目が、何百尋も下の緑色の水の中から自分を見上げているそのまなざしに、ウィンストンはそれらすべてを見ているように感じた。

突然、柔らかく弾力のある草原に立っていた。夏の夕暮れ、西日が地面を金色に照らしていた。この風景はウィンストンの夢に何度も現れるので、現実で見たことがあるのかどうか自信が持てなかった。彼はそれを「黄金の国」と呼んでいた。それはウサギがかじった古い牧草地で、そこを小道が通り、ところどころモグラ塚があった。向かいのぼろぼろの生垣には、ケヤキの木の枝がかすかな風に揺れ、葉が密集して女性の髪のようにゆっくり動いていた。近くには柳の木の下の流れでダイス[コイ科の小魚]が泳いでいる、澄んだゆっくりした小川がある。

黒髪の少女が、野原を横切ってこちらへやって来た。彼女は一動作で服を脱ぎ捨て、それを軽蔑するように投げ捨てた。彼女の身体は白く滑らかだったが、ウィンストンには欲望は湧かず、むしろほとんど目もくれなかった。彼を圧倒したのは、服を投げ捨てたその仕草だった。その優雅さと無頓着さが、一つの文化や思想体系全体――ビッグ・ブラザーも、党も、思想警察も――をただ腕ひと振りで無にしてしまうようだった。それもまた古い時代の身振りだった。ウィンストンは「シェイクスピア」という言葉を口にしながら目覚めた。

テレスクリーンがけたたましい高音の笛を三十秒間吹き続けていた。七時十五分、事務職員の起床時間だ。ウィンストンはベッドから体をねじり出した――裸だった。アウター・パーティーの一員には年間三千枚しか衣類配給クーポンが与えられず、パジャマは六百枚もするのだ。それで椅子にかかっていたヨレヨレのシングレットと短パンをつかんだ。あと三分でフィジカル・ジャークスが始まる。その直後、例によって彼を襲う激しい咳に体を二つ折りにされた。咳は肺を空っぽにしてしまい、彼は背中を床につけて何度も大きく息をしなければ呼吸できなかった。咳のせいで血管が膨らみ、静脈瘤がかゆくなった。

「三十代から四十代のグループ!」鋭い女の声が叫ぶ。「三十代から四十代のグループ、所定の位置について。三十代、四十代!」

ウィンストンはテレスクリーンの前に直立した。スクリーンには、筋肉質のやせた若い女が、チュニックと運動靴姿で映し出されていた。

「腕を曲げて伸ばして!」彼女はしゃきっと号令をかける。「私のリズムに合わせて。イチ、ニ、サン、シ! イチ、ニ、サン、シ! さあ、同志諸君、もっと元気を出して! イチ、ニ、サン、シ! イチ、ニ、サン、シ! ……」

咳の痛みもウィンストンの頭から夢の印象を完全に追いやれなかった。運動のリズムがむしろそれを呼び戻した。腕を機械的に前後に振り、「フィジカル・ジャークス」中にふさわしい沈痛な喜びの表情を浮かべながら、ウィンストンはぼんやりと幼少期のかすかな時代へ記憶をたどろうとしていた。驚くほど難しかった。五十年代末を過ぎるとすべてが薄れていた。参照できる外部記録がなければ、自分自身の人生の輪郭さえおぼろげになる。おそらく起きていなかった巨大な出来事を覚えていたり、細部だけは思い出せてもその雰囲気は再現できなかったり、何も当てはめられない長い空白期間があったりした。全てが今とは違っていた。国の名前も、地図の上での形も、今とは異なっていた。たとえば「エアストリップ・ワン」という呼び方は、当時はされていなかった――あれは「イングランド」か「ブリテン」と呼ばれていたのだ、とウィンストンはほぼ確信していた。ただロンドンは、昔も今もロンドンだったという気がした。

ウィンストンは、自分の国が戦争をしていなかった時期をはっきり覚えてはいなかったが、自分の幼少期にはかなり長い平和な時期があったことは明らかだった。なぜなら、ごく幼い記憶の中に、空襲があって皆が驚いていた出来事があるからだ。おそらくコルチェスターに原爆が落とされたときのことだったのだろう。ウィンストンは空襲そのものは覚えていないが、父の手にしっかり握られて、地底のどこまでもどこまでも下っていった記憶があった。らせん階段をぐるぐると降り、そのうち足がくたびれて泣き出し、休憩を取らざるを得なかった。母は、そののんびりした夢見るような歩調で、ずっと後ろからついてきていた。彼女は妹を――あるいは毛布の包みだったのかは定かでない――抱いていた。妹がその時すでに生まれていたかは覚えていなかった。最終的に、彼らは騒がしく混み合った場所――地下鉄の駅だと気付いた――に出た。

石畳の床には人がびっしりと座り、他の人々は金属製の二段ベッドにはまり込んでいた。ウィンストン一家は床に陣取り、近くのベッドには老人の夫婦が並んで座っていた。老人はきちんとした黒いスーツを着ており、黒の布帽子を真っ白な髪に乗せ、顔は赤く、目は青く涙でいっぱいだった。ジンの臭いが汗の代わりに皮膚から立ちのぼるほどだった。涙もまるで純粋なジンが溢れてくるようだった。しかし、少し酔ってはいたが、それ以上にどうにもならない深い悲しみに苦しんでいた。ウィンストンは幼心に、許せない、取り返しのつかない恐ろしい出来事が起きたのだと悟った。そして何があったのかも分かっている気がした。「誰か」、たぶんその老人が愛していた孫娘が殺されたのだろう。数分ごとに老人は繰り返し言った。

「やつらを信じるべきじゃなかった。俺は言ったろ、ママ? ずっと言ってきた。やつらを信じちゃいけなかったんだ。」

だが、やつらとは誰だったのか、ウィンストンには今となっては思い出せなかった。

その頃から戦争は文字通り続いていたが、厳密に言えば、いつも同じ戦争というわけではなかった。ウィンストンの幼少期には、ロンドン市内で混乱した市街戦が展開されていた時期があり、その一部は鮮烈に記憶に残っていた。しかし、その全期間の歴史を追うこと――誰と誰がどの瞬間に戦っていたのかを説明すること――は絶対に不可能だった。なぜならどの記録も、発言も、常に「現在の同盟関係」しか語らないからだ。たとえば今、この一九八四年(もし本当に一九八四年なのだとすれば)、オセアニアはユーラシアと戦争中で、イースタシアとは同盟を組んでいる。三国が違う組み合わせになっていたことがある、とは公的にも私的にも一切認められていない。だが実際には、オセアニアはわずか四年前までイースタシアと戦争し、ユーラシアと同盟していたということを、ウィンストンはよく知っていた。しかし、それは記憶の統制が不十分な彼だけの密やかな知識に過ぎない。公式には、同盟の変更など一度も起こらなかった。オセアニアはユーラシアと戦争中――だからオセアニアはいつもユーラシアと戦争してきたのだ。目下の敵は絶対悪を象徴し、これまでやこれからの同盟関係は存在しなかったことになる。

背筋を痛めつける運動をしながら、ウィンストンは一万回目のように思い直した――本当に恐ろしいのは、こうしたことが全部本当であるかもしれない、ということだ。党が過去に手を突っ込んで「それは起こらなかった」と言えるなら――それは拷問や死よりも恐ろしいではないか? 

党は、オセアニアはユーラシアと同盟したことがないと言っている。だが自分、ウィンストン・スミスは、オセアニアはつい四年前までユーラシアと同盟していたことを知っている。その知識はどこに存在しているのか? 自分の意識の中だけだ。そしてそれもやがて消されるだろう。だが他のみんなが党の嘘を受け入れ、すべての記録が同じことを語るなら、その嘘は歴史となって真実になる。「過去を支配する者は未来を支配する。現在を支配する者が過去を支配する」――党のスローガンだ。だが過去は本質的に変えられるものだが、けしてこれまで変わったことはない。今現在の真実が、永遠にわたって真実なのだ。実に単純な話だ。必要なのは、自己の記憶との終わり無き戦いだけである。これを「現実制御」、つまりニュースピークで「二重思考」と呼ぶのだ。

「休め!」と指導員の女が、先ほどよりやや柔らかい声で言った。

ウィンストンは腕を下ろし、ゆっくりと肺に空気を満たした。彼の心は二重思考の迷宮世界へと滑り込んだ。知っていて知らぬふりをし、完全に正直でありながら巧妙に嘘をつき、互いに打ち消し合う二つの意見を同時に抱き、それが矛盾であると知った上で両方を信じ、論理で論理に対抗し、道徳を否定しながら道徳を主張し、民主主義は不可能と思いながら党が民主主義の守護者だと信じ、生じれば忘れ、必要なときにまた思い出し、そしてまたすぐに忘れる――何よりも、そのプロセス自体をさらにプロセスに適用することが求められる。それが究極の奥義だ。意図的に無意識を誘導し、そして自分が今催眠術をかけたことすら忘れる。二重思考という言葉を理解するためにも二重思考が必要だ。

指導員は再び直立させた。「今度はつま先をタッチできる人、見せてちょうだい!」と、彼女は意気揚々と言う。「腰から曲げて、同志たち! イチ、ニ! イチ、ニ! ……」

ウィンストンはこの運動が大嫌いだった。かかとから尻まで痛みが走り、しばしば咳の発作さえ呼び起こす。せっかくの思索も台無しにされた。過去は修正されたのではなく、実際に破壊されてしまったのだ、とウィンストンは思った。外部に記録がなければ、最も明白な事実すら証明できない。ウィンストンは、ビッグ・ブラザーの名を最初に聞いた年を思い出そうとした。たぶん六十年代、しかし確信は持てなかった。党の歴史書では、ビッグ・ブラザーは革命初日から指導者・守護者として登場する。彼の偉業は徐々に時間をさかのぼって描かれ、すでに四十年代や三十年代、資本家たちがシルクハットをかぶり、眩しい自動車やガラス張りの馬車でロンドンを横切っていたという伝説の時代にまで押し広げられている。その伝説のどこまでが事実なのか、どこからが創作なのか知るよしもない。党自体ができた年も記憶にない。1960年以前に「イングソック」という言葉を聞いたことはないが、古語で「イングランド社会主義」として使われていた可能性はある。すべては霧の中だ。だが、たまには嘘をぴたりと指摘できることもある。たとえば、「党が飛行機を発明した」という党史は事実ではない。ウィンストンは幼少期から飛行機を見ていた。だが、証明のしようもなかった。明白な証拠資料を手にしたことは、生涯一度しかなかった。その時――

「スミス!」とテレスクリーンの金切り声が響く。「6079ウィンストン・スミス! そう、あなたよ! もっと腰を曲げて! もっとできるはずだ。本気でやっていない。もっと下げて! それでよろしい、同志。では全員休め。私の動きを見て。」

ウィンストンの全身から急に熱い汗が噴き出した。顔には一切の表情を浮かべなかった。動揺も、反感も、けっして見せてはならない! 目つき一つで自分を危うくする。彼はじっと指導員の方を凝視した。指導員は両腕を頭の上に上げて――優雅とは言えないが、驚くほど正確かつ無駄のない動きで――前屈し、指の第一関節をつま先の下に入れた。

「これですよ、同志たち! こうやって欲しいんです。もう一度見て。私は三十九歳、子どもが四人もいます。それでも――どうです、私の膝は曲がっていません。皆さんもやる気があればできるはず。四十五歳未満なら誰でもつま先に手が届きます。前線で戦う特権がなくても、せめてここで体を鍛えましょう。マラバール戦線の我が仲間、浮遊要塞の水兵たちのことを考えて! 彼らがどういう思いをしているか! さあもう一度頑張りましょう。そう、それでこそ同志、その方がずっと良いです」そう励ましながら、ウィンストンは何年ぶりかで膝を曲げずにつま先に手が届くことに成功した。

第4章

一日の仕事が始まるとき、テレスクリーンが近くにあっても思わず漏れる深いため息とともに、ウィンストンはスピークライト[口述入力機]を手繰り寄せ、受話口の埃を吹き飛ばし、眼鏡をかけた。次に、机の右側の気送管からすでに転がり出ていた紙の小筒を四本取り出して広げ、まとめてクリップで留めた。

小部屋の壁には三つの穴があった。スピークライトの右には小さな送信管があり、これは書類用だった。左には新聞用の大きな送信管。そして側壁には大きな長方形の投入口(針金格子で覆われている)があった。これは廃棄用の穴だった。同様の投入口はこの建物のあらゆる部屋、廊下の至る所に何万、いや何十万と設置されていた。なぜか「記憶の穴」と呼ばれていた。破棄すべき書類があれば、あるいはただゴミの紙切れを見かけたときにも、手近な記憶の穴の蓋を開けて投げ入れるのが習慣化していた。するとそれは温かい空気の流れでどこか建物の奥深くに隠された巨大な焼却炉へと運ばれていく。

ウィンストンは、開いた四通の紙片を調べた。それぞれ一、二行の短い伝言で、ニュースピーク語が多用された内部用略語――厳密にはニュースピークではないが――で書かれていた。内容は以下の通りだった。

times 17.3.84 bb speech malreported africa rectify

times 19.12.83 forecasts 3 yp 4th quarter 83 misprints verify current issue

times 14.2.84 miniplenty malquoted chocolate rectify

times 3.12.83 reporting bb dayorder doubleplusungood refs unpersons rewrite
fullwise upsub antefiling

ウィンストンは四通目を分けて置き、わずかな満足感を覚えた。それは込み入った大事な仕事なので最後に回すべきだった。他の三つは日常的な案件だったが、二番目は数字リストをくって調べる退屈な作業になるだろう。

ウィンストンはテレスクリーンでバックナンバーを呼び出し、指示された『タイムズ』紙を気送管で取り寄せた。伝言はどれも、何らかの理由で修正――公式には「是正」と呼ばれていた――が必要とされた記事やニュース項目を指していた。たとえば、三月十七日付の『タイムズ』を見ると、ビッグ・ブラザーが前日の演説で「南インド戦線は静穏が続くだろうが、ユーラシア軍の北アフリカ侵攻が間近だ」と予言していた。しかし、実際にユーラシア高司令部が攻勢をかけたのは南インドで、北アフリカは放置された。よって演説の該当段落を書き換え、実際起こったことを予言していたようにすればよい。あるいは、十二月十九日付の『タイムズ』には消費財各種の一九八三年第4四半期(九次三年計画の第六四半期)生産見通しが掲載されていたが、当日の紙面で公表された実績値によると、すべての予測が大幅に誤っていた。ウィンストンの仕事は、元の数字を最新の実績値に合わせて修正することだった。三本目の伝言は、まったく簡単な間違いで、ものの数分で済むものだった。今年二月というごく最近、豊富省は「一九八四年中にチョコレートの配給量を減らすことはない」と約束していた(公式には「断固たる約束」という表現だった)。実際は、週末から配給量を三十グラムから二十グラムに減らすことになっていた。ただ元の約束文を、「四月中に削減する可能性あり」という警告文に差し替えればよかった。

ウィンストンはそれぞれの伝言について処理を終えると、スピークライトからプリントアウトした修正稿を該当の『タイムズ』紙の部数にクリップで留め、気送管に投函した。そして、ほとんど無意識の動作で、元の伝言と自分がメモした走り書きなどを、くしゃくしゃに丸めて記憶の穴に投げ入れ、火にくべさせた。

気送管の先、見えない迷宮の奥で何が起こるのか、ウィンストンは詳細は知らなかったが、大まかな流れは分かっていた。必要な修正内容がすべて集められ整理されると、その号の『タイムズ』は再印刷され、元の版は破棄され、修正版が代わりに保管される。この絶え間ない修正作業は新聞だけでなく、本、雑誌、小冊子、ポスター、ビラ、映画、音声、漫画、写真といったあらゆる政治・思想上意味がある文書に適用された。日々、いやほとんど分刻みで過去が更新される。こうして、党の予言のすべては公文書の証拠によって正しかったことになり、その時々の要請と合致しないニュースや意見が記録に残ることもなかった。歴史全体がパリンプセスト(何度も書き直される羊皮紙)のように、必要なだけ削られ、書き換えられる。いったん作業が終われば、改竄の痕跡を示せるものは残らない。記録部にはウィンストンの部署より遥かに大規模な部門があり、そこでは古い本や新聞、その他の文書を回収・廃棄することを専門にしている。政治的流動やビッグ・ブラザーの誤った予言のせいで、十数回書き換えられた『タイムズ』の号でも、元の日付のまま「唯一の現存資料」として保存され、他に矛盾する版は存在しない。書籍も回収され、繰り返し書き直され、変更があったとは決して公にはされない。ウィンストンが受け取る指示書も、読了次第廃棄しているが、そこには偽造を命じたり暗示したりする表現は一切ない。常に「誤記」「脱字」「誤引用」など、正確を期すための修正であるとだけされていた。

だが実際には――豊富省の数字を調整しながらウィンストンは思った――これはもはや偽造ですらない。ただのナンセンスの差し替えでしかない。実世界と関係あるデータすら最初から存在せず、ただ嘘ですらないでたらめの交換なのだ。多くの場合、数字も自分で適当に作り上げるしかなかった。たとえば豊富省の予測では、今期は一億四千五百万足の靴が生産されることになっていた。実績値は六千二百万足。しかしウィンストンは修正の際、割当量が達成超過だとするため五千七百万足と書いた。いずれにせよ、六千二百万も五千七百万も一億四千五百万も、どれも真実には近くなかった。実際は一足も生産されていない可能性すらある。あるいは、誰にも実数はわからず、誰も気にしていないかもしれない。分かっているのは、四半期ごとに膨大な数の靴が紙の上で生産されている一方、実際にはオセアニア国民の半分が裸足で暮らしている、ということだけ。それはどんな種類の公的「事実」も同じだった。すべては影の世界へ消え、最後には暦上の年さえ不確かになった。

ウィンストンはホールを見渡した。向かいの小部屋では、黒い顎ひげで小柄できちんとした男・ティロットソンが黙々と仕事していた。新聞を膝に置き、口をスピークライトにぴったりと寄せて、秘密の会話をしている雰囲気だった。目が合うと、眼鏡の反射が敵意のきらめきを返した。

ウィンストンはティロットソンをほとんど知らず、彼の担当業務もわからなかった。記録部では自分の仕事について口外することはほとんどない。窓のない長いホール、二列に並ぶ小部屋、絶えず紙と声がざわめく中、ウィンストンは名前を知らない者が十人以上いた。毎日廊下を急いで行き来し、「憎悪週間」で身振りをしているのを見かけるだけだ。ウィンストンの隣では小柄な砂色の髪の女が、日々、蒸発処分された人間の名前を報道から削除する作業に従事していた。それも当然といえば当然だった。というのも彼女の夫も二年前に蒸発処分になったからだ。数区画離れた所では、毛深い耳と韻律操作の特技を持つ穏やかな非力な男、アンプルフォースが、イデオロギー的に好ましくないが何らかの理由で詩集に残されることになった詩の「決定稿」を作っていた。このホールの五十人ほどは、記録部全体のごく一部――巨大な組織の一つの細胞に過ぎなかった。外にも中にも下にも、想像もつかない多種多様な仕事をする無数の人々がいた。大型印刷工場には副編集長、組版技師、写真偽造用のスタジオがあり、番組部門には技師、プロデューサー、声帯模写に優れた俳優陣がいた。書籍や雑誌のリストを整えるだけが仕事の事務員の軍団があり、修正版保管庫や元の文書を焼却する隠し焼却炉があった。そしてどこかで、指示を出して方針を定める匿名の「頭脳」が存在し、何を残し、何を消すかを決めていた。

何より、記録部は真理省の一部門に過ぎなかった。その主業務は過去を作り替えることではなく、オセアニア国民に新聞、映画、教科書、番組、戯曲、小説――彫像からスローガン、叙情詩から生物学書、初等綴り帳からニュースピーク辞典まで、ありとあらゆる情報・教育・娯楽を提供することだった。そして党員向けだけでなく、プロレタリアート向け低水準媒体も大量に生産された。プロレタリア文学、音楽、芝居、娯楽部門という別チームが存在し、スポーツ、犯罪、占いばかりの新聞、五ペンス小説、エロとセンチメンタルを機械的に生産するヴェルシフィケーターもあった。ニュースピークでポルノセックと呼ばれる下品なポルノ専門の下部門も存在し、そこで働く党員以外は誰も中身を見られなかった。

ウィンストンが作業中、気送管からさらに三通の伝言が届いたが、いずれも簡単な案件で、「二分間憎悪」の中断前に処理してしまった。「憎悪」が終わると自分の小部屋に戻り、棚からニュースピーク辞典を取ってスピークライトを脇にどけ、眼鏡を拭き、午前中のメインの仕事に取り組んだ。

ウィンストンの人生最大の喜びは仕事だった。ほとんどは退屈なルーチンだが、なかには数式の難問のように没頭できるほど困難で込み入った仕事――イングソックの原則や党の意図しか拠りどころのない精密な偽造作業――もあった。ウィンストンはそうした仕事が得意だった。時には、全部ニュースピークで書かれた『タイムズ』の論説の修正を任されることさえあった。ウィンストンはさっき脇に置いていた伝言を広げた。それはこう書かれていた。

times 3.12.83 reporting bb dayorder doubleplusungood refs unpersons
rewrite fullwise upsub antefiling

通常の英語で訳すと、こうなる。

1983年12月3日付「タイムズ」におけるビッグ・ブラザーの本日命令の報道は極めて不満足、かつ実在しない人物への言及がある。全文書き直し、上級部門の承認を得てから記録せよ。

ウィンストンは問題の記事に目を通した。その「本日命令」は、主に浮遊要塞の船員にタバコなどを支給するFFCCという組織の業績を称賛する内容で、とくにウィザーズ同志、インナー・パーティーの重鎮が特別表彰されたとされていた。

だが三か月後、FFCCは理由も示されぬまま突然解散となった。おそらくウィザーズ同志とその関係者は失脚したのだろうが、報道やテレスクリーンでは一切言及がなかった。これは珍しくないことで、政治犯が公然と裁かれたり弾劾されることはめったにない。数千人規模での大粛清――裏切り者や思想犯罪者の公開裁判、自白、処刑――は数年に一度の見世物に過ぎない。大半は、党の怒りに触れた人物は単に「消えて」二度と姿を見せなかった。どうなったのか誰にも分からなかった。なかには生きている場合もある。ウィンストン自身が個人的に知っていた人物だけでも、三十人近くが消えている(両親を除く)。

ウィンストンはクリップで鼻を軽くつまんだ。向かいのティロットソン同志は、まだ秘密めかしくスピークライトに向かっていた。ふと顔を上げて、また敵意のきらめきを送った。もしかしたらティロットソンも同じ案件を担当しているのではないか。そうしたやっかいな仕事は一人の担当者に任されることがないから、それも十分あり得る。委員会にすると、逆に製作中のねつ造を公にすることになるので、この手の案件には何人もの職員がそれぞれ別案を作成することが多かった。そしてやがてインナー・パーティーのある頭脳が最終稿を選び、再編集し、必要なクロスリファレンスを起動させて、選ばれた嘘が公式記録に組み込まれ、真実となる。

なぜウィザーズが失脚したのか、ウィンストンには分からなかった。汚職か無能かもしれないし、ビッグ・ブラザーがお気に入りの腹心を排除しただけかもしれない。あるいはウィザーズや近しい者が異端思想の疑いを持たれたのか――もしくは、粛清と蒸発が統治機械の一部でしかないから、ただ手続きとして起きたことかもしれない。唯一の手がかりは「refs unpersons」――すなわちウィザーズはすでに「アンパーソン」、この世に存在しない者だという点だ。逮捕されてもそれだけで即死刑というわけではない。時には一年、二年自由の身でいてから処刑されることもある。まれに、もう何年も死んだと思っていた人物が公開裁判に現れ、数百人の名を証言で巻き添えにしてから再び姿を消すこともある(そのときはもう永遠に)。だがウィザーズ同志はすでにアンパーソン、存在しない人間、かつて何者でもなかった人間とされた。単にビッグ・ブラザーの演説内容を逆転させるだけでは不十分だ。むしろ、まったく関係ない話題に差し替えた方が良い。

裏切り者や思想犯罪者の糾弾にする手もあったが少し露骨すぎるし、前線勝利や生産超過の大々的なアピールにすると記録整合が面倒になる。ここはいっそ、純粋なフィクションにしたほうがいい。突然、ウィンストンの頭に、最近戦死した英雄・オギルビー同志のイメージが湧き上がった。ビッグ・ブラザーが本日命令を一介の名もなき党員を称賛する内容にすることは珍しくなかった。今日はオギルビー同志を称賛することにしよう。実際には、そんな人間は存在しないが、数行の活字と偽造写真があればすぐに存在したことになる。

ウィンストンはしばらく考えたあと、スピークライトを自分の方に引き寄せ、ビッグ・ブラザーの馴染み深い文体で口述し始めた。その文体は軍隊的でありながら衒学的で、さらに、問いかけをしてすぐに自分で答えるという癖がある(「この事実から我々はどんな教訓を学ぶのか、同志諸君? 教訓は――これはイングソックの根本原則のひとつでもあるが――」など)。ゆえに模写しやすかった。

オギルビー同志は三歳のとき、太鼓とサブマシンガンと模型ヘリコプター以外の玩具をすべて拒否した。六歳で――規則を特別に緩和して一年早く――スパイ同盟に参加し、九歳でその隊長になった。十一歳で、不穏な傾向のある会話を偶然聞いたことで叔父を思想警察に密告した。十七歳でジュニア禁性愛同盟の地区組織者となり、十九歳で手榴弾を設計した。それは平和省で採用され、初めての実地試験で一度にユーラシア兵士の捕虜三十一人を吹き飛ばした。二十三歳で彼は戦死した。重要な伝令を持ってインド洋上をヘリコプターで飛んでいるとき、敵のジェット機に追われ、機関銃で自分の体に重しをして伝令もろともヘリコプターから深い海に飛び込んだ――ビッグ・ブラザー曰く、その最期を思わず羨望の念なしに想像することはできないとのことだ。ビッグ・ブラザーはまた、オギルビー同志の生涯の純粋性と一途さについてもいくつかコメントを添えた。彼は完全な禁酒家であり、タバコも吸わなかった。日課としてジムで一時間過ごす以外に一切の娯楽はなく、結婚や家庭というものは昼夜問わずの職務への献身とは両立しないと信じて禁欲の誓いを立てていた。イングソックの原則以外には話題もなく、人生の唯一の目的はユーラシアの敵の撃破とスパイ・破壊行為者・思想犯・裏切り者全般の追跡であった。

ウィンストンはオギルビー同志に顕著功労勲章を与えるべきか自問したが、余計な照合作業が必要になるので結局やめておいた。

また、向かいの仕切りの中のライバルを見やった。何の疑いもなくティロットソンも自分と同じ仕事をしているような気がした。最終的にどちらの仕事が採用されるか知る術はなかったが、ウィンストンは自分のものが選ばれるという強い確信があった。たった一時間前には存在しなかったオギルビー同志が、今や事実となった。死者を創造することはできても生者を創造することはできない、というのが妙に面白かった。今まで一度も存在しなかったオギルビー同志が、今や過去の中に存在し、改竄が忘れ去られた暁には、彼はシャルルマーニュやジュリアス・シーザーと同じように、同じ証拠のもとで、本物として存在し続けるのだ。

第5章

低い天井、地下深くの食堂で、昼食の行列はゆっくりと前へ進んでいた。部屋はすでにかなり混み合い、騒音で耳をつんざくようだった。カウンターのグリルからはシチューの蒸気が溢れ出ており、酸味を帯びた金属臭がビクトリー・ジンの臭いをほとんどかき消せないほどだった。部屋の奥にはバーと呼ぶにも及ばぬ壁の穴のような場所があって、そこでは大盛り一杯十セントでジンが売られていた。

「探してたのは君だったんだ」と背後から声がした。

ウィンストンが振り向くと、それは友人のサイムだった。調査局に勤める人物だ。もっとも「友人」というのは正確な表現ではない。今では友人というものは存在せず、同志たちしかいない。ただし中には、他の同志よりも一緒にいて楽しい者もいる。サイムは言語学者で、ニュースピーク専門家だった。実際、ニュースピーク辞典第十一版作成に従事する膨大な専門家チームの一員だ。小柄でウィンストンより背が低く、黒髪、大きく突出した瞳は一度に悲しげで皮肉っぽく、話しかけている間じっと相手の顔を観察しているかのようだった。

「カミソリの刃、持ってないか聞きたかったんだ」と彼は言った。

「一本もない!」とウィンストンはやや後ろめたげに急いで答えた。「どこを探しても無いんだよ。もう存在していない」

みんながカミソリの刃を欲しがっていた。実際ウィンストンは未使用のものを二本隠していたのだが、もう何ヶ月も飢饉状態であった。常に必要な品のどれか一つは党の店で手に入らないのだった。あるときはボタン、あるときはダーニングウール、あるときは靴紐、そして今はカミソリの刃。入手できるとしたら、「自由市場」で多少なりともこっそりかき集めるしかない。

「もう六週間も同じ刃を使っているよ」と彼は嘘をついて付け加えた。

行列がまた前進した。立ち止まったウィンストンは再びサイムの方を向いた。二人ともカウンターの端の山から脂ぎった金属製トレイを一枚ずつ取った。

「昨日、囚人の絞首刑を見に行ったか?」とサイムが言った。

「仕事をしていた」とウィンストンは事も無げに言った。「映写で見ることになるだろうな」

「あれは代わりにならん」とサイムは言った。

彼の嘲るような目がウィンストンの顔をさまよった。「君のことは分かっているぞ、君を見透かしている。なぜ君が絞首刑を見に行かなかったか、よく分かっている」とでも言いたげな目だった。知的な意味では、サイムは非常に正統的すぎた。敵村へのヘリ攻撃や思想犯の裁判・自白、愛情省地下室での処刑について、自慢げに不快な満足感を持って語るのだった。彼と話すにはそういう話題からうまく逸らし、できればニュースピークの技術的な話に絡めるのが常道で、そこでは彼は権威もあり興味深い。ウィンストンは少し顔を背け、あの大きな黒目の詮索から逃れた。

「あれはいい絞首刑だった」とサイムは懐かしそうに言った。「足を縛ると面白みがなくなる。蹴ってるのを見るのが好きだ。とくに最後、舌がぴんと突き出して、青く――とても鮮やかな青だ。あの細部こそがたまらない」

「次っ!」と白衣の労働者が杓文字を振り上げて怒鳴った。

ウィンストンとサイムはグリルの下にトレイを押し出した。すばやく二人のトレイに規定の昼食――ピンクがかった灰色のシチュー入りの金属カップ、一切れのパン、一片のチーズ、ミルクなしのビクトリー・コーヒー入りのマグカップ、それに一つのサッカリン錠剤が無造作に盛られた。

「あそこ、テレスクリーンの下のテーブル空いてる」とサイムが言った。「途中でジンも取っていこう」

ジンは持ち手のない陶器のマグに注がれた。人混みを縫って席まで行き、金属製のテーブルにトレイをほどいたが、その一角には誰かがシチューをこぼしており、吐瀉物にも見える汚い溜まりがあった。ウィンストンはジンのマグを手に取り、しばし覚悟を決めてから油っぽい酒を一気に飲んだ。涙をふきながら、急に空腹を感じた。スプーンでシチューをすくって飲み込み始めたが、中にはおそらく肉の加工品であろうスポンジ状のピンク色の立方体があった。二人はカップを空にするまで二度と口をきかなかった。ウィンストンの左手のテーブルでは、彼の背中越しに、誰かがアヒルの鳴き声のような騒がしいおしゃべりを途切れなくわめき続けていた。

「辞典の進み具合はどうだい?」とウィンストンは騒音に負けじと声を張った。

「遅々としている」とサイムは言った。「今、形容詞のあたりだ。おもしろいよ」

ニュースピークの話題で一気に彼の顔が明るくなった。パンを一方の手に、チーズをもう一方の手に取り、テーブルに身を乗り出して小声で語りかける。

「第十一版こそが決定版だ」と彼は言った。「言語が最終形態になる――他に何の言語も話されなくなったときの形だ。終わったら、君みたいな連中はまた一から全部勉強し直さなきゃならなくなる。われわれの主な仕事は新語づくりだと思ってるだろうが、実は全然違う! 単語を壊していくこと――それも毎日何十、何百と。言語を骨だけにしていくんだ。第十一版には、2050年より古びる単語は一つも載せないよ」

彼はパンを大きくかじり、いく口か飲み込むと、やや学者肌の情熱をもって話し続けた。細い暗い顔が生き生きとし、皮肉な色が消えて、ほとんど夢見るような表情になった。

「単語を壊していくのは見事な仕事だ。特に動詞と形容詞が多いけど、名詞も何百も消せる。単なる同義語だけじゃない。反意語もだ。そもそも他の単語とただ反対なだけの単語を置いておく理由があるのか? 単語には反対の意味も内包されている。たとえば『良い』。“good”があれば“bad”なんて必要か? “ungood”と言えば十分――むしろ厳密な反対だからより優れている。もっと強い意味が欲しければ『excellent』や『splendid』みたいな曖昧な言葉の列は無用。“plusgood”と言えばいいし、もっと強調したければ“doubleplusgood”だ。もちろんもう使い始めているけど、最終版のニュースピークにはそれ以外は何も残らない。最終的には、善悪の概念全体が六語――現実には実質一語だけでおさまる。これの美しさ、分かるか、ウィンストン? 元はビッグ・ブラザーの着想だよ」と付け加えた。

ビッグ・ブラザーの名が出ると、ウィンストンの顔に薄っぺらな熱意が浮かんだ。それでも、サイムは即座に何か熱意の欠如を見抜いた。

「君はニュースピークの真価を分かってないな、ウィンストン」とやや悲しげに言った。「書くときでさえ、頭の中はオールドスピークなんだ。『タイムズ』でたまに君が書いた記事を読んだが、あれは悪くないけど翻訳でしかない。内心ではオールドスピーク――曖昧で意味の揺れ幅が多いもの――から離れたくないのだろう。単語の壊滅がなぜ美しいか、理解できてない。ニュースピークは、世界で唯一年々語彙が減っていく言語だと知ってるか?」

ウィンストンはもちろんそれを知っていた。彼は微笑んだ(同情的なつもりで)、言葉を発する自信はなかった。サイムはパンをまた千切り、噛みながら続けた。

「ニュースピークの目的は、思考の幅を狭めることそのものなのさ。最終的には、思想犯罪が文字通り不可能になる――だって、それを表現する言葉が無くなるから。将来的に必要になる概念はすべて、ただ一つの単語で、しかも意味が厳密に定義され、派生的意味は跡形もなく消し去られる。もう第十一版でもかなりそこに近づいている。でもこの過程は、君や僕が死んだ後も続いていく。年々、語彙は減り、意識の幅も縮まる。もちろん今だって思想犯罪に理由も言い訳も無い。自律の問題、現実統制の問題だ。でも最後にはそれすら不要になる。言語が完璧になれば革命も完了だ。ニュースピークこそイングソック、イングソックこそニュースピーク」と神秘的な満足げな調子で付け足す。「ウィンストン、ふと考えたことはないか? 遅くとも2050年には、今僕らがこうやって話している内容を理解できる人類は一人もいなくなる、と」

「ただし――」とウィンストンは躊躇いながら言いかけて、やめた。

「ただしプロールだけは」と口に出しそうになったが、どことなく非正統的な発言に思えて、途中で控えた。しかしサイムは何を言おうとしたか見抜いていた。

「プロールは人類じゃない」とサイムは無造作に言った。「2050年までには――たぶんもっと早く――オールドスピークの本当の知識は消え去ってる。過去の全文学も消滅している。チョーサーもシェイクスピアもミルトンもバイロンも、ニュースピーク版でしか存在せず、単に違う内容になってるばかりか、まったく反対のものに作り替えられている。党の文学も変わる。スローガンでさえ変わる。『自由は隷属』みたいな標語が、自由という観念が消えたら有り得ないだろ? 思考の気候そのものが一変する――実際、今われわれがいう意味での思考は存在しなくなる。正統性とは考えないこと――考える必要が無いこと――正統性とは無意識だ」

ウィンストンは突然強く確信した:サイムはそのうち蒸発されるだろう。頭が良すぎる。物事をはっきり見すぎ、露骨に言いすぎる。党はそういう人間を嫌う。いずれ彼は消える。それは顔に書いてあった。

ウィンストンはパンとチーズを食べ終えた。椅子に少し体を傾けてコーヒーを飲んだ。隣のテーブルでは、男が相変わらずひたすら話し続けている。若い女性――おそらく秘書で、ウィンストンのほうに背を向けている――が彼の話を聞き、熱心に賛同しているようだった。ウィンストンは「あなたの言う通りだと思う」「全く同感です」などの言葉を耳にしたが、一方の男の声は一瞬たりとも途切れなかった。ウィンストンはその男の顔は見知っていたが、特に情報はなく、フィクション課の要職にいるらしいくらいしか知らない。三十前後、筋肉質の喉、よく動く大きな口。やや頭を後ろに反らし、座る角度のせいで眼鏡が光を反射し、ウィンストンからは目の代わりに白い円板が二つ見えた。恐ろしかったのは、口から放たれる音の洪水から、ほとんど単語が聞き取れないことだった。一度だけ、ウィンストンは「ゴールドスタイン主義の完全かつ最終的な根絶」というフレーズを、一つの固まりとして――まるで一行の金属活字のごとく――聞き取った。他はただ騒音、ガーガーとしたアヒル声だった。だが何を言っているかまでは分からずとも、その内容の大筋は疑いなかった。おそらくゴールドスタインを糾弾し、思想犯や破壊活動者への苛烈な措置を要求しているか、ユーラシア軍の残虐行為に激昂しているか、ビッグ・ブラザーやマラバル戦線の英雄たちを称えているか、違いはなかった。それが何であれ、全て正統、純粋なイングソックであることだけは確かだった。ウィンストンはその眼のない顔と素早く動く顎を眺めながら、これは人間ではなく人形の一種ではないかと感じた。話しているのは男の脳ではなく咽頭なのだ。そこから出てくるものは単語だが、本当の意味での発話ではなく、無意識のアヒルの鳴き声に等しい。

サイムは一瞬黙り、スプーンの柄でシチューの水たまりに模様を描いていた。隣のテーブルの声は、周囲の騒音にも負けずなおも早口で鳴き続けている。

「ニュースピークに言葉があるんだが、君は知ってるかな。“DUCKSPEAK(アヒル語り)”――アヒルのように鳴くことだ。興味深い言葉で、矛盾する二つの意味がある。相手に使えば侮蔑だが、賛同する相手なら褒め言葉になる」

間違いない――サイムは蒸発させられる、とウィンストンはまた思った。彼は軽い悲しみとともにそれを考えた。なぜならサイムはウィンストンを軽蔑し、やや嫌っており、思想犯だと判断すれば即座に密告する人間だということを承知しているからだ。それは誰でも同じだが、サイムはことさらそうであった。熱意だけでは不十分だ。正統性とは無意識なのだ。

サイムが顔をあげた。「パーソンズが来るぞ」と言った。

その声の調子には「この馬鹿め」という意味が込められているようだった。パーソンズ、ヴィクトリー・マンションの同居人である彼は、まさに人混みをかき分けてこちらに来ていた。小太りで中背、金髪、カエルに似た顔。三十五歳にして首と腰にはもう脂肪がたまり始めていたが、動きはきびきびして少年そのものだった。全体的に大きくなった少年の風情で――規定の作業着を着ていても、青い半ズボン、グレーのシャツ、赤いスカーフ姿が脳裏に浮かんでしまうほど。彼の膝のくぼみや、ぽっちゃりした腕からまくった袖がいつも思い出される。実際、パーソンズは地域のハイキングなど体を使うイベントがあれば必ず半ズボンに戻っていた。二人に「やあ、やあ!」と明るく挨拶し、汗のにおいを撒き散らしつつ椅子に座った。顔はピンク色で汗がびっしり。彼の発汗能力は驚異的だった。コミュニティ・センターでは彼が卓球をやった後はラケットがぐっしょりだった。サイムは長いリストの単語が書かれた紙片を取り出し、指にインクペンシルを挟みつつ見入っていた。

「昼休みにまで仕事熱心だな」とパーソンズはウィンストンを肘でつついた。「やる気満々ってやつだ。で、君は何してるんだい、こりゃ俺には難しすぎるな。ところでスミス、君に用があって来たんだ。あの積立金――忘れて渡してくれなかったろ」

「積立金て何だったっけ?」とウィンストンは無意識に金を探しながら言った。給料の四分の一ほどは義務のないはずの寄付金で消え、数が多すぎて把握が難しかった。

「憎悪週間の分さ。各部屋回りで集めるやつ。俺がうちの棟の会計係だ。万全の準備でいくつもりなんだ――でっかい旗が並ぶ最高の飾り付けにしてやるつもりだ。君、二ドル約束してくれたよな?」

ウィンストンは、しわくちゃで汚れた紙幣を二枚探し出して手渡し、パーソンズはそれを小さなノートに、文盲とは思えぬほどきれいな字で記入した。

「ところで」と彼は言った。「昨日うちの坊主が君にパチンコ弾当てたって聞いた。ちゃんと叱ってやったさ。今度やったらパチンコ取り上げるってな」

「処刑を見に行けなくて悔しかったんじゃないかな」とウィンストンが言った。

「あー、でもな、正しい精神だろ? 二人ともいたずら好きだけど、やる気は抜群! スパイ活動と戦争のことしか考えてない。ところでうちの小娘、土曜にね、スパイ同盟の遠足でバークハムステッドまで行ったんだが、他の二人の少女と一緒に遠足から抜け出して、知らない男を尾行したそうだ。二時間も森の中をつけ回して、最終的にアマシャムに着いたところで巡回隊に突き出した」

「何のために?」とウィンストンはやや驚いて聞いた。パーソンズは誇らしげに続けた。

「うちの子が敵スパイだって確信したんだよ――たとえば、パラシュート降下のやつとか。でも重要なのはここ。最初に気づいたのは何だったと思う? 彼が変わった靴を履いてたって点さ――見たことない靴って。それで外国人っぽいと。七歳の娘にしては賢いと思わないか?」

「その男はどうなった?」とウィンストンは聞いた。

「そこは分からないな。でもな、きっと……」パーソンズはライフルを構える仕草をし、舌で発砲音をたてた。

「いいね」とサイムは興味無さげに、紙片から目を離さずに言った。

「もちろん油断できんよ」とウィンストンもそつなく相槌を打った。

「戦時中だしな」とパーソンズ。

それを裏付けるように、頭上のテレスクリーンからトランペットのファンファーレが鳴った。ただし今回は軍の勝利報告ではなく、豊穣省からの単なる報告だった。

「同志諸君! 注意してくれたまえ! 栄光あるニュースがある。我々は生産戦争に勝利した! すべての消費物資生産高がこの一年間で実に20%向上したとの最終結果が出た! オセアニア中で、本朝は工場や事務所の労働者が一斉に職場を抜け出し、通りをパレードして、偉大な指導者ビッグ・ブラザーによる新しく幸福な生活への感謝を声高らかに示した。以下に幾つかの数値を報告する。食料品は――」

「新しく幸福な生活」というフレーズが何度も繰り返された。最近、豊穣省の好きな言い回しだった。パーソンズはトランペットの音で注意を引かれ、口を開けて畏まった様子で聞き入り、同時に退屈そうだった。数値の意味は分からなかったが、どこか満足すべき内容であることは理解しているようだった。既に半分は燻った大きくて汚れたパイプを取り出していた――タバコの配給が週100グラムでは、パイプいっぱいに詰めることはほぼ不可能だった。ウィンストンはビクトリー・シガレットを口にしていたが、水平方向に慎重に持っていた。新しい配給は明日からで、残りは四本しかなかった。今は遠くの騒音には耳を塞ぎ、テレスクリーンから流れる数字に意識を集中させていた。なんと昨日の発表と正反対に、チョコレートの配給が週20グラムに「増えた」ことを喜ぶデモまで行われたという。まさに昨日、配給は20グラム「減らされた」ばかりだったのに。こんなことを皆が信じ込むものだろうか? 彼らは信じ込む。パーソンズは動物的な愚かしさで信じ込み、隣の眼の無い生き物は狂信的・情熱的に信じ込み、先週は30グラムだったと口にした者を追い詰め、告発し、蒸発させたくてたまらないのだ。サイムもまた――より複雑なやり方、ダブルシンクを含むやり方で――信じ込む。では自分だけが記憶を持っているのか? 

テレスクリーンからは素晴らしい統計値が続々流れる。昨年比で食料も服も家も家具も鍋も燃料も船もヘリも本も乳児も増えた――病気、犯罪、狂気を除いては。年ごと、分ごとに、すべてがめまぐるしく向上している。ウィンストンも先ほどサイムがしたように、スプーンでグレービーをいじり、長い筋模様を描いた。生活の物理的実感を苦々しく思い返した。昔からこんなものだったか? 食べ物は昔もこんな味だったか? 食堂を見回す。低い天井に押し込まれた群衆、壁は体が触れて黒ずみ、テーブルや椅子は金属製で打ち傷やへこみだらけ、肘同士がぶつかるほどの狭さ。曲がったスプーン、へこんだトレイ、粗末な白マグ、すべてが脂ぎって溝には汚れが詰まっている。悪いジンと悪いコーヒー、金属臭のシチュー、汚い服の混ざった酸っぱい匂い。いつも腹と肌の奥には、何かを失われたと感じる抗議のような感覚があった。違う時代の記憶は無いが、自分が正確に覚えている時間軸の中で、食べ物はいつも十分ではなく、靴下や下着に穴が空いていないことはなかった。家具はいつも使い古されていてぐらつき、部屋は寒く、地下鉄は満員、家は崩れかけ、パンは黒く、紅茶は稀少、コーヒーは不快な味、たばこも不足――安く豊富なのは合成ジンだけ。しかも年を取るごとに事態は悪化するが、そうした不満や不快、貧困、尽きない冬、靴下のべたつき、動かないリフト、冷水、ザラザラした石鹸、潰れるタバコ、変な味の食べ物――それらが耐え難いと感じるのは、かつて違った時代があったという何らかの祖先的記憶によるのだろうか? 

再び食堂を見回す。ほとんど全員が不細工で、規定の作業着でなければ、なおさら不細工さが際立つであろう。向かいの壁際に、一人ぽつんと座る小柄で甲虫のような男がコーヒーを飲み、眼を絶えず左右に泳がせていた。周囲を見なければ、党の目指す理想体型――背の高い筋肉質の青年とグラマラスな乙女、金髪で生命力にあふれ、健康的で快活――が実在し主流をなすと信じてしまいがちだが、実際には大半が小柄で黒っぽく、不細工な者ばかり。甲虫型は官庁内でやたら繁殖しやすいらしかった。ずんぐりとして早々に肥りだし、足は短く動きは素早く走り回り、目は小さくて太った謎めいた顔――党政下ではこの型が一番適応力があった。

豊穣省の発表が再びトランペットの合図で締めくくられ、安っぽい音楽に切り替わった。パーソンズは数字攻めでちょっと興奮し、パイプを口から外して「豊穣省も今年はやってくれるな」と、知ったかぶりに首を振って言った。「そういえばスミス、カミソリの刃、余ってない?」

「一本もない。僕も同じ刃を六週間使ってる」

「ああ、ただ聞いてみただけさ」

「悪い」とウィンストン。

隣のテーブルのガーガー声は発表中は途絶えていたが、またいつもの音量で再開した。なぜかウィンストンはパーソンズ夫人のことを思い出した。薄い髪、皺の中の埃。あと二年もすれば、あの子供たちは母親を思想警察に密告するだろう。パーソンズ夫人は蒸発する。サイムも蒸発する。ウィンストンも蒸発する。オブライエンも蒸発する。だがパーソンズは決して蒸発しない。あの眼のないアヒル声の者も蒸発しない。甲虫型の小男たちもまた、官庁の迷路の廊下をせっせと這い回り、決して蒸発しない。そしてあの黒髪の女――フィクション課の女――も、けっして蒸発しない。生き延びる者と消える者とを本能で見分けることができる気がした。それでも何が生存を決するのかは、はっきりと言い表せなかった。

そのとき、彼は激しく現実に引き戻された。隣のテーブルの女が半分振り向き、彼を見ていた。黒髪の女だった。彼女は横目で、だが異様な執着をもって見ていた。彼女と目が合うや、彼女はすぐ視線を外した。

ウィンストンの背筋に汗が噴き出した。恐怖が全身を駆け抜けた。その感覚は間もなく消えたが、しつこい不安感を残した。なぜ彼女は自分を見張るのか? なぜ行く先々で付け回すのか? 到着時には既に席にいたのか、それとも後から来たのか思い出せない。だが、昨日の二分間憎悪では、必要もないのに自分の真正面の席に座っていた。彼女の本当の目的は、自分の叫び方が充分熱心か観察することだったのかもしれない。

以前の考えが戻った――彼女は思想警察の正規スパイではないだろうが、だからこそ素人スパイこそ最も危険なのだ。彼女がどれだけ長く自分を見ていたか分からないが、五分ほども見ていたかもしれないし、その間、自分の顔が完全に油断なく保たれていた自信はない。公共の場やテレスクリーンの範囲内で気を緩めると危険すぎる。ほんの些細な癖でも命取りになる。神経質な癖、無意識の不安顔、ぶつぶつ独り言――それらはすべて異常、何かを隠している兆候となる。どんな勝利発表の際でも信じがたい表情をすれば、即犯罪となる。それにも専用語がある。ニュースピークで「フェイスクライム」と呼ばれていた。

女は再び背を向けた。もしかしたら、単なる偶然かもしれず、二日続けて近くに座ったのもたまたまだったのかもしれない。ウィンストンのたばこは消えてしまい、丁寧にテーブルの端に置いた。仕事の後で残りを吸うつもりだった――煙草が無事ならば。隣の席の人物が思想警察のスパイかもしれず、三日後には愛情省の地下室にいるかもしれないが、タバコの吸い殻は無駄にできない。サイムは紙片をたたんでポケットに入れていた。パーソンズはまた話し始めた。

「ところで話してなかったな、スミス。うちのガキ二人、B・Bのポスターでソーセージ包んでた市場の婆さんのスカート燃やした時の話。こっそり後ろに回ってマッチで火をつけたんだってさ。結構ひどいやけどになったらしいが。いたずらっ子だろ? でも熱心さは本物! 今のスパイ同盟の訓練は、俺の頃よりずっと上だろうな。最近、あの子らがもらった最新兵器、知ってるか? 鍵穴越しに聞き耳を立てるラッパ! この前うちの小娘が持ち帰って、リビングの扉で試してた。穴に耳を当てる時の二倍は聞こえるってさ。まあ、ただのおもちゃだけど、いい訓練になってるよな?」

テレスクリーンが鋭い警笛を鳴らした。勤務再開の合図だった。三人は一斉に立ち上がり、エレベーター前の混雑の奮闘に身を投じたので、ウィンストンの煙草のタバコが床に落ちてしまった。

第6章

ウィンストンは日記にこう書いていた。

 三年前のことだ。大きな駅の近くの狭くて暗い裏通りの夕方だった。彼女は壁の出入り口のそば、ほとんど灯りもない街灯の下に立っていた。顔はまだ若かったが、厚化粧をしていた。その白さ――仮面のようで、鮮やかな赤い唇――化粧こそが魅力だった。党の女は決して顔を塗らない。通りにはほかに誰もいなかったし、テレスクリーンもなかった。彼女は『二ドル』と言った。私――

しばらくはそれ以上書くのが辛すぎた。彼は目を閉じ、何度も繰り返し現れる幻を押しやろうと指でまぶたを押さえた。胸の奥にはどなり声で下品な言葉を並べ立てたいという激しい衝動や、壁に頭をぶつけたり、机を蹴とばしたり、インク壺を窓から投げつけたり――その記憶をかき消すためならどんな荒っぽくて苦痛な行為でもしたいという衝動があった。

最大の敵は自分の神経そのものだと、彼は考えた。内なる緊張がすぐにも何か表に現れてしまうかもしれない。何週間か前通りで擦れ違った男のことを思い出した――ごく普通に見える党員、三十五かそこら、背はやや高く痩せぎすで、書類鞄を持っていた。数メートル離れたとき、突然その男の顔の左半分が痙攣を起こした。すれ違いざまにも、またそのチックが走った――カメラのシャッターのように素早い痙攣だったが、癖になっているのが明らかだった。あの時思った。「あの不幸な男も終わったな」と。そして恐ろしいのは、そうした行動が無意識のうちかもしれないという点だった。最も恐ろしいのは寝言をしゃべることだった。それだけは対策の立てようがない。

彼は深呼吸し、また書き始めた。

 私は彼女と共に戸口を抜けて中庭、それから地下の台所へ向かった。壁際にはベッドがあり、テーブルの上には小さなランプがごく低めに灯されていた。彼女は――

彼は奥歯がきしむのを感じた。唾を吐きたかった。同時に地下の台所の女と、彼の妻であるキャサリンの姿が脳裏をよぎった。ウィンストンは既婚者だった――正確には既に別居しているが、生死を確認できない以上、今も結婚中ということになっている。彼の鼻には再び地下の台所の蒸し暑いにおい――南京虫・汚い服・悪臭を放つ安物の香水が入り交じったにおいが漂った。しかし党の女は誰も香水など使わず、香水と快楽はプロールだけのものだった。このにおいは姦通の記憶と切り離せない。

その女と寝たのは二年ぶりくらいだった。売春婦と関わるのは禁じられていたが、時に勇気を出せば破れる規則だった。危険ではあるが命取りというほどでもない。行為の現場で掴まらなければ、強制労働収容所で五年程度の刑で済む。貧民街には自ら体を売る女がたくさんいた。ジン一瓶でも可能な者もいた――プロールは本当はジンを飲んではいけないので。党は実のところ、その種の売春を半ば容認(本能の発散口として)していた。ただし密かで、喜びのない、被支配階級の女だけならよかった。唯一許されぬのは、党員同士の乱交だ。しかしこれこそ粛清の際によく自白される罪だが、実際には想像するのが困難なことでもあった。

党の意図は、単に制御できない忠誠を男女間に作らせないだけではない。本当の隠された狙いは、性行為の一切の喜びを奪うことだった。愛情と言うよりエロティシズムこそが敵であり、結婚内外を問わず排除される。党員同士の結婚は専任委員会の許可が必要で――これは明言されない原則だが――互いに肉体的に惹かれている印象が強いと許可は下りない。結婚の唯一の目的は党の役に立つ子供を産むこと。性行為はやや不快な医療処置、浣腸のようなものとみなされていた。これもはっきり言葉にはされないが、遠回しに子供の頃から何度となく刷り込まれる。ジュニア禁性愛同盟のような「完全禁欲」を推進する団体も両性に向けて作られていた。すべての子供は人工授精(ニュースピークで「ARTSEM[アートセム]」)で生ませ、公共施設で育てるべきだと唱える者すらいた。それ自体を本気で唱えているわけではなかったが、党の総体としての思想にはぴたりと合致している。党は性欲そのものを撲滅、もしくは歪み、堕落させたいのだ。理由は分からなかったが、そうであることは当然に感じられたし、少なくとも女性については党の試みは大きく成功していた。

キャサリンのことをまた思い出した。別れてから九年、十年、ほぼ十一年になるはずだった。驚くほど彼女のことは思い出すことが稀だった。何日も結婚していたことすら忘れることがあった。結婚生活は十五ヶ月ほどで、党は離婚を認めなかったが、子供のいない夫婦の別居は奨励していた。

キャサリンは背が高く金髪、動きもきびきびして堂々とした女だった。その顔は勇ましく鷲鼻で、一見高貴に見えるものの、実際には内面の空虚さが際立っていた。彼女と暮らしてみて分かったのは、彼女こそ史上まれなる愚鈍で卑俗で空っぽな頭脳の持ち主だということだった。彼女の頭の中には党のスローガン以外の考えはなく、党が提示するどんな馬鹿馬鹿しいことでも疑念なく丸呑みにした。「人間サウンドトラック」とウィンストンは心の中であだ名を付けていた。それでも一つだけの問題――性の問題――さえなければ、一緒に暮らすことはできたであろう。

少し触れるだけでキャサリンは身を硬くしていた。抱くのは木製の人形を抱きしめているようだった。奇妙なことに、彼女は抱き寄せている間も、全力でウィンストンを突き放そうとしている感覚があった。筋肉の硬直はそんな印象を与えた。彼女は目を閉じ、抵抗も協力もせず、ただ服従していた。それは異様で、次第に恐ろしい体験となった。それでももし、二人で禁欲を続けるという合意ができたなら、まだ耐えられたかもしれない。しかし奇妙なことに、それを拒んだのはキャサリンの方だった。「できる限り子供を持たなければならない」と言い、定期的に性行為を促した。彼女はそれに二つ名をつけていた。「赤ちゃんを作ること」と、「党への義務」(実際この言い方を使った!)だ。定期日に近づくと恐怖すら覚えるようになった。幸い子供はできず、やがて試みは放棄され、すぐ後に別居した。

ウィンストンは音もなくため息をつき、再びペンを取り上げて書いた。

 彼女はベッドに倒れこみ、いかなる前戯もなく一瞬で――想像できる限り下品でおぞましいやり方で――スカートを捲り上げた。私――

薄明かりの中に立つ自分――南京虫と安物の香水の臭い、その心には敗北感と屈辱――その背後には、党の催眠力に永遠に凍り付けられたキャサリンの白い体の影があった。なぜいつもこうなるのか? なぜ自分だけの女をもてず、年に一度の汚れた情事に甘んじなければならないのか? 本当の恋愛関係などほぼ考えられない。党の女は皆同じだった。貞潔さは党への忠誠心同様、骨の髄まで染み込んでいる。早期の洗脳、冷水、学校とスパイ同盟・青年同盟で刷り込まれるナンセンス、講演・パレード・歌・スローガン・軍歌――自然な感情は追い払われていた。理性では例外もあるはずと考えたが、心は信じなかった。彼女たちは皆鉄壁だった。それこそ党の狙いだった。ウィンストンが欲しいのは――愛されること以上に――たった一度でも徳の壁を打ち崩すことだった。性交の達成は反逆だった。欲望は思想犯罪。たとえキャサリンを目覚めさせることができたとしても、彼女は妻なのに誘惑と等しい出来事だっただろう。

だがこの先も書き留めておかねばならない。ウィンストンは続けて書いた。

 私はランプを明るくした。明るい所で彼女を見ると――

闇の後のかすかな灯りはとてもまぶしく感じられた。初めて彼女の姿をはっきり見たのだ。一歩近づき、欲望と恐怖で立ち止まった。ここに来たことで自分が取ったリスクを痛感した。パトロールが帰り道で待ち伏せしている可能性も高く、この瞬間既に戸口で待ち構えているかもしれない。目的すら果たせずに引き返すことになったとしたら――

書き記さねばならなかった。告白もしなければならなかった。ランプの光で彼が突然目にしたのは、その女が年老いているということだった。化粧が顔に厚く塗りたくられていて、まるでダンボールの仮面のようにひび割れそうだった。髪の毛には白髪が混じっていた。しかし最も恐ろしいのは、口が少し開いており、そこにはただ暗い大きな空洞しか見えなかったことだった。彼女には歯が一本もなかった。

彼は慌ただしく、かきむしるような字で書いた。

 明かりの下で彼女を見たとき、彼女は間違いなく年老いた女だった。少なくとも五十歳だった。しかし、それでも私はやってしまった。

彼は再びまぶたに指を押し当てた。ついに書き記したのだが、何の変化もなかった。癒しの効果はなかった。声の限りに下品な言葉を叫びたい衝動は、相変わらず強かった。

第7章

『もし希望があるとすれば、それはプロール[下層民]の中にある』とウィンストンは書いた。

もし希望があるとすれば、それは絶対にプロールの中にあるはずだ。なぜなら、オセアニアの人口の85パーセントを占める、あの見捨てられた群衆の中にしか、党を打ち倒す力を生み出す可能性はないからだ。党は内部から転覆することはできない。もし党に敵がいるとすれば、その敵が互いに連絡を取ったり、誰が敵なのか特定したりする方法すらない。たとえ伝説の兄弟団が存在したとしても、多くて二人か三人でしか集まれないだろう。反逆とは、目つきや声の調子、ときおり小声でささやくことを意味するにすぎなかった。しかしプロールがもし自分たちの持つ力に気づき、意識を持つようになれば、共謀する必要などない。馬がハエを払い落とすように、一斉に立ち上がって身震いするだけでいいのだ。彼らがその気になれば、明日の朝にも党を粉々にできるはずだ。彼らもきっと、いつかはこのことに気づくだろう――はずなのに、何故……! 

彼は、かつて混雑した通りを歩いていて、すぐ前の横道から何百人もの女の声が一斉に叫ぶのを耳にしたときのことを思い出した。それは怒りと絶望を含んだ威圧的な叫び声で、鐘の余韻のように深く大きな「オォォォォー」という響きを轟かせていた。彼の心臓は高鳴った。始まった! 暴動だ! ついにプロールが蜂起した! そう思った。だが、現場に着いて見ると、数百人の女たちが街市の屋台の周りに集まり、沈む船の乗客のような悲劇的な顔をしていた。しかし、そのとき、全体の絶望感は個々の小競り合いに崩れ落ちた。どうやらひとつの屋台がブリキの鍋を売っていたらしい。みすぼらしく脆い品だったが、調理器具はどんなものでも手に入りにくかった。そこへ突然、品切れになった。手に入れた女たちは他の激突する人々から押されながら鍋を持ち去ろうとし、他の何十人もの女たちが店主に不公平だと罵声を浴びせ、隠し持っている鍋があるに違いないと騒いだ。再び怒号が起きる。髪の乱れた肥満の女二人が同じ鍋をつかみ合い、互いの手から奪おうとした。一瞬、二人で引っ張り合い、その取っ手が取れてしまった。ウィンストンは彼女たちをうんざりして見ていた。しかし、ほんのひととき、わずか数百人の叫び声に、何とも言えないほど強力な力が込められていたではないか。なぜ彼女たちは、もっと重要なことでああした叫びをあげられないのか? 

彼は書いた。

 彼らが意識を持たない限り、決して反乱は起きない。そして反乱した後でないと、彼らは意識を持てない。

これはまるで、党の教科書からそのまま書き写したようなものだ、と彼は考えた。もちろん党は、プロールを束縛から解放したと主張している。革命以前、彼らは資本家に残酷に搾取され、飢えさせられ、鞭打たれ、女たちは炭鉱で働かされていた(実際、今でも女たちは炭鉱で働いていた)、子どもたちは六歳で工場に売られていた。だが同時に、二重思考の原則に従って、党はプロールを『生まれつき劣等な存在』と見なし、動物のように数カ条の単純な規則で支配しなければならないと教えていた。実際、プロールについて知られていることはほとんどない。知る必要もなかった。彼らが働いて子を産んでいれば、それ以外の行為は問題でなかった。放ったらかしにされれば、アルゼンチンの平原に放たれた牛と同じで、彼らは本来的な生活様式へと戻っていた――それは一種の祖先から受け継いだパターンだった。彼らは生まれ、路地で育ち、十二歳で働き始め、わずかな美しさと性的欲求の開花期を過ごし、二十で結婚し、三十で中年となり、多くが六十で死ぬ。重労働、家や子どもの世話、近所との些細なもめごと、映画、サッカー、ビール、そして何より賭博が、彼らの世界の全てだった。彼らを支配下に置くのは難しくなかった。思想警察の工作員が少数、常に紛れ込み、デマを流し、危険になりそうな個人を記録して排除するだけだった。党の思想を彼らに叩き込もうとはしなかった。プロールが強い政治的感情を持つのは望ましくなかった。彼らに求められるのは、局所的な愛国心だけであり、それを煽れば労働時間延長や配給削減も受け入れる。たとえ不満が高じても、彼らには抽象的な概念がないので、具体的な不満しか抱けず、より大きな悪には気づかない。プロールのほとんどは家にテレスクリーンすらなかった。治安警察すら滅多に介入しない。ロンドンには泥棒、強盗、売春婦、麻薬密売人など、犯罪者の巣窟が存在したが、それがプロールの間で起きている限り重要ではなかった。道徳的なことなら、彼らには祖先からの習慣に従わせて生きさせていた。党の性的禁欲主義も彼らには適用されない。乱交も処罰されず、離婚も可能だった。信仰すら望めば許されたかもしれない。彼らは一切疑われることがなかった。党の標語が言う通り、「プロールと動物は自由だ」。

ウィンストンは身をかがめて、慎重に静脈瘤の潰瘍をかいた。再びかゆくなっていた。結局いつも突き当たるのは、革命以前の人生が本当はどんなものだったのか、知ることは不可能だという現実だった。彼はパーソンズ夫人から借りていた児童向け歴史教科書を引き出しから取り出し、日記に一節を書き写し始めた。

 昔――輝かしき革命の前――ロンドンは今のように美しい都市ではありませんでした。暗く、汚く、みじめな場所で、誰一人十分に食べられず、何万人もの貧しい人々が靴もはかず、雨露をしのぐ屋根もありませんでした。あなた方と同じくらいの子どもたちが、残酷な主人に一日十二時間も働かされ、仕事が遅ければ鞭で打たれ、固いパンのかけらと水だけで生きていました。その中で、ほんの一握りの金持ちは、素晴らしい大きな家に住み、世話係を三十人も雇っていました。これらを資本家と呼びました。彼らは太っていて、顔つきも醜く、隣のページの絵のようです。彼は長い黒の上着――フロックコートと呼びました――を着て、ストーブの煙突のような不思議な光沢のある帽子――シルクハットと呼びました――をかぶっています。これが資本家の制服で、他の誰も身につけることは許されませんでした。資本家は世界の全てを所有し、他の人々は皆彼らの奴隷でした。彼らは土地も家も工場もお金もすべて持っていて、逆らう人間は牢屋に入れたり、仕事を奪って餓死させたりできました。普通の人が資本家に話すときは、帽子を取ってへりくだり、「サー」と呼ばなければなりませんでした。資本家の王様は「王」と呼ばれました。そして……

だが、その後の記述は分かっている。司教はレースの袖、裁判官は毛皮のローブ、さらし台、首枷、回転車、九尾の鞭、市長の晩餐会、そして教皇の足に口づけする慣習などが並ぶだろう。そして「初夜権」なるものもあったが、それは子ども向け教科書には書かれまい。それは資本家が自分の工場で働くどんな女でも好きなように寝ることができるという法律だった。

どこまでが嘘なのか、どうやったら分かるだろう? 革命前より今の方が庶民の暮らしが良くなったのかもしれない。その逆を示す証拠は、自分の骨身に刻まれた無言の抗議、自分の住環境が耐え難く感じられ、かつては違ったに違いないという本能的な感覚だけだった。彼の印象では、現代生活の本質は、その残酷さや不安定さではなく、ただひたすら空虚さ、色あせ、無気力さだった。周囲を見回してみても、テレスクリーンから流れてくる嘘とは似ても似つかず、党の掲げる理想像にも程遠い。党員ですら、多くの人生領域は中立的で非政治的で、うんざりする仕事に打ち込むだけの生活、地下鉄での席取り、擦り切れた靴下の繕い、サッカリンのせびり、タバコの吸い殻の節約……党の理想は巨大で恐ろしい、鋼鉄とコンクリートの世界、怪物のような機械と兵器の世界、完璧に統一された戦士と狂信者の国家――全員が同じことを考え、同じスローガンを叫び、絶えず働き、戦い、勝ち誇り、迫害し続ける――三億人が全員同じ顔……しかし、現実は廃れた薄汚れた都市、栄養失調で破れかけの靴をはく人々、19世紀の家がパッチだらけで、キャベツと悪臭が染みついていた。ウィンストンはロンドンの光景――広大で廃れた、ごみ箱だらけの都市――を幻視した。その中に、塞がった排水管に悪戦苦闘する皺だらけで髪の薄いパーソンズ夫人の姿が重なった。

ウィンストンは足首を再びかいた。昼も夜も、テレスクリーンは“今のほうが食事も衣服も住むところもレクリエーションも豊かだ、より長寿で、短い時間しか働かず、より大きく健康で強く幸福で、賢く良く教育されている”とする統計を一方的に浴びせてきた。そのどれひとつとして、証明も否定もできはしない。たとえば党は、大人のプロールの識字率がいまは40パーセントだと言い、革命前は15パーセントだったと言う。乳児死亡率も今は千人あたり160で、革命前は300だった――等々。しかし、これは未知数が二つある方程式のようなものだった。歴史書の全てが、疑いようもないことまで含めて全くの虚構である可能性だってあった。初夜権という法律などなかったかもしれないし、資本家という生き物もシルクハットという衣装すらなかったかもしれない。

全てが霧の中に消えた。過去は消され、消されたことも忘れられ、嘘が真実になっていた。人生で一度だけ――事後的に。そこが肝要なのだ――改ざんの決定的な物証を自分が手にしたことがある。それを指の間に三十秒ほど保持した。1973年のことだったはず――とにかく、キャサリンと別れてまもなくの時期だった。しかし本質的には、もっと七、八年前の出来事が関係している。

この話は、実は六〇年代半ば、革命の最初の指導者たちが一掃されたあの大粛清の時期から始まる。1970年にはビッグ・ブラザー以外は皆除かれていた。それ以外の者たちは密告や消滅、派手な公開裁判で自白し、死刑になったのだった。その生き残りのひとりに、ジョーンズ、アーロンソン、ラザフォードの三人がいた。彼らが逮捕されたのは1965年のはずだ。よくあることだが、彼らは一年かそれ以上も姿を消し、その生死もつかめなくなり、突然自白させられるべく表に引き出されるのだった。彼らは(その頃、敵国はユーラシアであった)敵との通謀、公金横領、様々な重要党員の殺害、革命前から続く党指導部に対する陰謀、十万単位の人間を死なせる破壊工作などを自白した。こうして彼らは恩赦され、党籍を回復されたが、実際は閑職に追いやられていた。三人は長くみじめな懺悔文を『タイムズ』紙に書き、自分たちの背信の理由を分析し、償いを誓った。

釈放された後、ウィンストンは三人をチェスナット・ツリー・カフェで実際に目撃していた。ウィンストンは、恐怖と興味をないまぜにして彼らを端から見ていた。彼らはウィンストンよりずっと年上で、古き時代の遺物、党の英雄的時代の最後の大人物たちだった。地下活動や市民戦争の雰囲気が、わずかに彼らの身にまとわりついていた。もう事実や年代は判然とせずなりつつあったが、ウィンストンはビッグ・ブラザーの名を知る以前から彼らの名前を知っていたと思う。しかし同時に彼らは無法者、敵、触れてはならぬ人間、確実に滅ぼされる運命だった。思想警察の手に一度でも落ちた者に、最終的に逃れた者はいない。彼らは墓に送り返されるのを待つ屍だった。

三人の座る近くのテーブルには誰もいなかった。そんな人たちの近くにいるだけで危険だった。彼らは静かにクローブ風味のジン(このカフェの名物)のグラスを前にして黙って座っていた。このうちで最も印象的だったのはラザフォードだった。彼はかつて人気風刺画家で、革命前後の世論を熱狂させた。現在でも、そのカリカチュアは『タイムズ』に掲載されているが、もはや古い作風の模倣に過ぎず、どこか死んでいて説得力がない。いつも古臭いテーマ――スラム、飢えた子ども、路上戦、シルクハット姿の資本家――の繰り返しで、バリケードの上ですら資本家はシルクハットをかぶり続けている、過去へ戻ろうとする絶望的な努力のようだ。彼は巨大な男で、油ぎった灰色の髪をたてがみのようにたなびかせ、顔はしわと膨れ、厚くごつい唇をしていた。かつては途轍もなく丈夫だったのだろうが、今やその巨体は崩れかけ、たるみ、横に広がり、全方向に崩壊し始めていた。その様子は、山が崩れてゆくようだった。

それは午後三時の孤独な時間帯だった。なぜその時間にカフェにいたかは思い出せなかった。ほとんど無人で、テレスクリーンからは安物の音楽が流れていた。三人は隅っこでじっと動かず座っていた。注文なしで、給仕係が新しいジンを運んでくる。隣の卓上にはチェス盤が並んでいたが、ゲームは始まっていない。そして、全体でおそらく三十秒ほど、テレスクリーンに異変が起きた。流れていた曲が変わり、音色も変化する。どこか形容しがたい、ひび割れた嘲笑のような音――ウィンストンは心の中で「黄色い音」と呼んだ――が混ざり、テレスクリーンの声が歌い始めた。

 広がる栗の木の下で
 私は君を売り、君は私を売った
 そこに彼らが、ここに私たちが
 広がる栗の木の下で

三人は微動だにしなかった。しかしウィンストンがラザフォードの崩れかけた顔を見ると、その目が涙でいっぱいになっていた。そして、初めて彼は、アーロンソンとラザフォードの両者が鼻を骨折していることに、なぜか身震いしつつ気付いた。その理由は分からなかった。

その後まもなく、三人は再逮捕された。釈放されてすぐ再び謀議に及んだとされた。二度目の裁判では以前と同じ犯罪に加え、新たな犯罪を自白――そして処刑されて、その顛末は党の歴史書に「後世への警告」として記録された。その五年後、1973年、ウィンストンは、気送管からデスクに送り出された書類の束を広げていたとき、一枚だけ紛れ込んだ古い新聞の切れ端を見つけた。それを広げた瞬間、何であるか理解した。それは約十年前の『タイムズ』の上半分のページで、日付もあり、ニューヨークの党集会での代表団の写真が掲載されていた。その中央にジョーンズ、アーロンソン、ラザフォードがはっきり写っていた。キャプションにも名前が明記されていた。

焦点は、三人ともその日にはユーラシア領土にいたと、両裁判で自白していたことだった。彼らはカナダの秘密飛行場から出発し、シベリアかどこかでユーラシア軍参謀と会い、国家機密を渡したことになっていた。その日は丁度夏至で印象深い日だったが、同じ記録は他にも何百もの場所に残っているはずだ。結論は一つしかない。自白は嘘だった。

もちろん、これは「発見」ではなかった。そのときすでに、粛清で消された人々が本当に罪を犯したなどと誰も思っていなかった。しかしこれは物証だった。消された過去から出現した化石の骨であり、地質学の理論を打ち壊すものだった。もし公開され意味が周知されれば、それだけで党を粉砕しうる証拠だった。

彼はそのまま作業を続けた。写真の意味を理解した瞬間、ウィンストンは他の書類で表面を覆い隠した。幸い、広げたときはテレスクリーンから上下逆だった。

彼は膝の上にメモパッドを置き、椅子をぐっと引いてテレスクリーンからできるだけ離れた。無表情でいるのはたやすかったし、努力すれば呼吸も制御できた。しかし心臓の鼓動はどうにもならず、テレスクリーンは鼓動まで拾えるほど精巧だった。ウィンストンは約十分をじっと待ち、突風が書類をめくって露見するなどの偶発的な発見を恐れながら耐えた。そして、もう一度も広げずに、その写真を他のくず紙と一緒に記憶穴へ投じた。おそらくそれから一分もせずに灰と化しただろう。

あれは十年前、十一年前のことだ。今なら、彼はその写真を保管したかもしれない。指先で持ったというだけで、今でも違いがあると彼には思えた。証拠としてはもう存在しない写真が一度存在したという事実は、党が過去を支配する力を弱めるのだろうか? 

だが今、その写真が灰から蘇ったとしても、証拠になるかどうか疑わしい。発見した時点ですでに、オセアニアはユーラシアとは戦争しておらず、三人が裏切ったのは現在の敵イースタシアの工作員であることになっていた。その後も何度も――二度か三度か、何回だったか覚えていない――敵が入れ替わり、自白も事実や日付の意味が完全に消えるまで何度も書き換えられたことだろう。過去は変わるだけでなく、絶えず変化しつづける。彼を悪夢にさいなませたのは、なぜそんな巨大な詐欺が必要なのか、彼がはっきりと理解できなかったことだ。過去を偽造する即効的な利点は明白だったが、最終目的は謎だった。彼は再びペンをとって書いた。

 やり方は理解できる。だが、なぜかは理解できない。

彼はたびたび抱いた疑問をまた思った――自分は狂人なのだろうか? おそらく狂人とは、少数派を意味するのだろう。かつては「地球は太陽の周りを回っている」と信じることが狂気の証だった。今では「過去は変えられない」と信じることが狂気の印かもしれない。もし自分が独りだけならば、やはり狂人なのだ。しかし、その事実自体はウィンストンをひどく悩ませなかった。恐ろしいのは、自分が間違っているかもしれないということだった。

彼は子ども向けの歴史書を手にとり、その最初に載っているビッグ・ブラザーの肖像を見つめた。催眠術のようなまなざしが彼自身を見つめ返してくる。巨大な力が頭蓋骨の内側まで押しつぶし、脳に圧力をかけ、信念を奪い、感覚の証拠まで否定せよと迫ってくるようだった。結局、党は「2+2=5」を主張するだろうし、それを信じるよう求められるだろう。その主張をするのは不可避であり、論理的結論だった。彼らの哲学は、経験の有効性だけでなく、外的現実そのものの存在までも暗黙裏に否定している。異端中の異端は「常識」だった。そして恐ろしいのは、彼らが異を唱える者を殺して終わるだけでなく、「実は彼らが正しいかもしれない」ということだった。結局「2+2=4」や重力の法則、過去が不変であるということなど、どうして確かめられるのか? もし過去も外的世界も心の中にしかなく、その心自体が操作可能なら、どうなるのか? 

――いや、違う! 彼の勇気は、突然自ずと固くなった。何の脈絡もなくオブライエンの顔が心に浮かんだ。ウィンストンは、以前よりはっきりと、オブライエンが自分の仲間だと感じていた。この日記はオブライエンのために、オブライエンに向けて書いているようなものだった――誰も読むことのない、無限に続く手紙が、たったひとりの人物に宛てられている感覚。その事実がこの記録に色を与えていた。

党は「見るもの聞くものを信じるな」と命じる。それが究極的かつ最も本質的な命令だった。彼は、巨大な力を持つ敵の前に自分がいかに孤立し、どんな党の知識人にも議論で一瞬で打ち負かされ、巧妙な詭弁には到底歯が立たないであろうことを思い、心が沈んだ。それでもなお彼が正しかった。彼らが間違い、自分が正しいのだ。明白でくだらなくても真実は守らなければならない。「常識は真実だ。しっかり持っておけ!」世界は現実であり、法則は変わらない。石は硬く、水は濡れていて、支えずに物を離せば地球の中心に落ちる。彼はオブライエンに語りかけている気持ちであり、同時に重要な公理を記す気持ちで、こう書いた。

 自由とは、「2+2=4」と言える自由だ。それが認められれば、他の全てもついてくる。

第8章

通路の奥の方から本物のコーヒー――ビクトリー・コーヒーではない――の焙煎する香りが通りへ漂ってきた。ウィンストンは咄嗟に足を止めてしまう。ほんの二秒ほど、彼は幼少期の半ば忘れかけた世界に戻った。だがドアがバタン! と閉まり、音が途切れるかのように香りも消えた。

彼は何キロも歩道を歩いており、静脈瘤の潰瘍は脈打っていた。この三週間でコミュニティ・センターの夜を欠席したのは二度目だった。無謀なことだ――センターの出席回数は厳重にチェックされているのが分かっている。原則、党員には自由時間などなく、寝床以外では決して一人にならないとされている。仕事、食事、睡眠以外は必ず何らかの集団的レクリエーションに参加するのが当然だった。孤独を愛する行動――たとえば独り散歩するだけでも――は、ほんの少しだが危険を伴う。それをニュースピークでは「OWNLIFE(個人主義・変わり者)」と呼んでいた。しかし今晩、官庁を出たとき、四月の心地よい夜気につい誘われてしまった。この年で一番温かい空色の空で、突然センターでの長く騒がしい一夜――単調で疲れるゲームや講義、ジンで油をさしたぎこちない友情――が耐えられないものに思えた。突発的な衝動でバス停から離れ、ロンドンの迷路へと南へ、東へ、北へと当てもなく歩き、道順など気にもせず、自分を見失った。

『もし希望があるなら、それはプロールの中にある。』日記に書いたその言葉が、神秘的な真実でもあり明白なナンセンスでもあるかのように、何度も頭に浮かんだ。彼は、かつてセント・パンクラス駅だった北東側の曖昧に茶色いスラム地帯にいた。石畳の細い道沿いに、二階建てボロ家が並び、入口はすぐ歩道に開き、どこかネズミ穴を思わせるしつらえだった。ここかしこ石畳の間に汚水の水たまりがあった。暗い入口や、両脇から分かれる細い路地を、驚くほど多くの人々が行き交っていた――口紅の濃い若い娘たちと、その娘たちを追う若者、肥満してよちよち歩きの女たちは、10年後の娘たちの未来像でもある。つま先が外を向いた老婆たち、裸足で水たまりで遊ぶボロをまとった子どもたち、そして彼らの母親の怒声ですぐに散り散りになっていく。通りの窓の四分の一は割れて板が打たれていた。通行人のほとんどはウィンストンに気にも留めず、ごく一部が警戒のまなざしを向けた。二人の屈強な女が、腕組みして家の前で話している。ウィンストンが近づくなか、彼はその会話の断片が聞こえた。

「そうよ、って私は言ったのよ、あんたと同じ立場なら私だって同じことしたわよ、って。批判は簡単よ、でもあんたには私と同じ悩みはないでしょ」

「ああ、そう、それが本当のとこよ」

キンキンした声が急にやみ、女たちはウィンストンを無言で睨んだ。だが、それは敵意というよりは、一時的な警戒、未知の動物が通りかかったときのような固まりだった。党の青い作業服はこの通りでは珍しい。こんな場所で目撃されるのは危険だ。巡回パトロールに会えば「書類を見せろ、何の用だ、何時に仕事を出た、いつもこの道を通るのか?」と問い詰められるだろう。別ルートで帰宅してはいけない規則はないが、思想警察に知られれば目立つ。

突然、通りが騒然とした。四方八方から警告の叫びが響く。人々がウサギのように家々へ駆け込んだ。やや先から若い母親が飛び出し、水たまりで遊んでいた幼児をひっぱりあげ、エプロンで巻き取り、また家へ飛び込んだ。その瞬間、黒いアコーディオン服の男が脇道から走り出し、興奮して空を指さした。

「スティーマーだ! 気をつけろ旦那! 真上だ! 伏せろ!」

「スティーマー(蒸気船)」とは、なぜかプロールがロケット弾につけた呼び名だった。ウィンストンは即座にうつ伏せになった。プロールの警告はたいてい正しかった。彼らにはロケット到来数秒前を予知する何らかの本能があるようだった。ウィンストンは両腕で頭をかばう。轟音が舗道ごと揺らし、軽い破片が背中にバラバラと降り注いだ。立ち上がると体中に近くの窓ガラスの破片が付着していた。

歩き続けると、200メートル先の家並みが爆弾で破壊されていた。黒い煙が空に漂い、下には石膏の粉塵が舞い、すでに人々が瓦礫に集まっていた。歩道に積もった石膏の山の中に鮮やかな赤い筋があった。近づくとそれは手首からちぎれた人間の手だった。血のにじむ切り口以外は真っ白で、まるで石膏像の手だった。

彼はそれを溝に蹴り込み、人混みを避けるため右の小道へ曲がった。三四分も歩けば爆撃跡を離れ、通りはまた何事もなかったように猥雑に人々がうごめいていた。間もなく二十時、プロール向けの飲み屋(彼らは「パブ」と呼ぶ)は客で溢れ返っていた。汚れたスイングドアが何度も開け閉めされ、中から尿と木屑と酸っぱいビールの臭いが流れてきた。出っ張った家の角で三人の男が新聞を一人の肩越しに覗き込んで読んでいた。近づかなくても身体のラインから本気で没頭しているのが分かった。彼らが読んでいるのは、何か重大なニュースらしかった。ウィンストンが数歩近づいたとき、三人組は突然激しい口論になった。一人は殴りかかりそうな勢いだ。

「よく聞けってんだよ! 七で終わる番号は十四ヶ月以上も当たってねえ!」

「いや、当たったんだって!」

「いや当たってねえ! うちにゃ二年以上、全部メモしてある。時計みたいにきっちり書いてるんだ。だから言う、七で終わる番号は――」

「いや、七もあった! 番号まで覚えてる。四〇七ってやつだ。二月――二月の第二週。」

「二月だって? バカ言え! 全部書いてあるっての。」

「もうやめろよ」と三人目が言った。

彼らは宝くじの話をしていた。三十メートルほど離れてウィンストンが振り返ると、いまだに白熱した顔つきで議論していた。宝くじは莫大な賞金が当たる唯一の公開イベントで、プロールたちは真剣そのものだった。おそらく彼らの何百万人かは、宝くじこそ生きる唯一の楽しみだった。人生の歓び、愚かさ、麻酔剤、知的刺激だった。宝くじに関してなら、まともに読み書きできない者さえ複雑な計算をこなし記憶力を発揮する。宝くじの「必勝法」やお守りを売って暮らす人種もいた。ウィンストン自身は宝くじ運営(豊かさ省の管轄)に関わっていなかったが、大半が空想だと知っていた。大当たりの当選者は架空の人物ばかりで、実際に渡る賞金はわずか。オセアニア内では地区ごとに隔離され、真実を知る術はなかった。

しかし、それでも希望はプロールの中にある。そう信じざるをえなかった。理屈として書けば納得できるのに、歩道の人波を眺めると、それは信仰の領域に近かった。通りは坂を下っていた。どこか以前に来たことがあり、幹線道路が近くにある気がした。前方から叫ぶ声が聞こえ、道は急な角を曲がり、階段を降りると沈み込んだ小路で、青息吐息の野菜を売る屋台が並んでいた。そのときウィンストンは自分がどこにいるか思い出した。この小道を抜ければ幹線道路、その先に五分も歩けば、例の日記用の白紙本を買った古道具屋がある。そして近くの文具店でペン軸とインク瓶も買ったのだ。

階段の上でしばし立ち止まる。向かいの薄汚れたパブの窓は本来曇りガラスでなく、ただ埃で覆われているだけだ。八十歳にはなろうという小柄ながら活発な老人が、エビのような前に突き出た白い口髭をなびかせ、ドアを押して入った。ウィンストンはその姿を見ながら考えた。あの老人は革命以前ですでに中年だったはずだ。彼や彼のような人々が、今やほとんど消えた資本主義世界との最後のつながりなのだ。党内でも、革命前に形成された価値観を持つ者はもう少ない。五〇・六〇年代の大粛清で大半は消えたり、現存する者も知的抵抗はずっと前に根絶されている。もし今なお、二十世紀初頭の真実を語れる人物がいれば、それはプロールしかいない。突然、日記に書き写した歴史書の一節が脳裏に浮かび、ウィンストンは狂った衝動を覚えた。パブに入って彼と知り合い、話を聞こう。『あなたが少年だったときの人生について話してくれませんか? 当時の暮らしは今より良かったのでしょうか? 悪かったのでしょうか?』と。

怖じける間を与えぬよう、急いで階段を下り、路地を横切る。もちろん無謀な行為だった。プロールと話したり彼らのパブに入ったりする明確な禁止規則はないが、あまりにも異常なことなので必ず目を引く。哨戒が来れば、貧血で寄ったと誤魔化せるかもしれないが、信じてもらえないだろう。彼はドアを押し開け、悪臭漂うビールの臭いに迎えられる。店内の話し声は半分ほどに落ち、背中では皆が青い作業服に注目しているのを感じた。店の奥で進行していたダーツも三十秒ほど中断された。老人はカウンターでバーテンダーと何か言い争っていた。バーテンは太って鉤鼻で巨大な前腕を持つ若者だ。何人かがグラス片手に集まってそれを見ている。

「ちゃんと頼んだろが!」と老人は戦闘的に肩を張って言う。「この店にパイントジョッキくらい一つも無いってのか?」

「パイントって何ですかね?」とバーテンは指先をカウンターにつけて前のめり。

「聞いたかい、この人! バーテンのくせにパイントを知らねえだと? パイントはクォートの半分で、クォートは四つでガロンだ。A・B・Cから教えなきゃダメかい」

「そんなもん聞いたことねえな。リットルとハーフリットルだけだ。この棚のグラス見てくんな」

「わしゃパイントが好きでな。簡単に注げるはずだ。リットルなんて若いころは無かったぞ、このクソッタレ」

「昔はみんな木の上に住んでたんだろ」とバーテンは他の客を見て言った。

どっと笑いが起き、ウィンストンの入店で生じた緊張も消えた。老人の白髭面は真っ赤になってそっぽを向き、ウィンストンにぶつかった。ウィンストンはやさしく腕をとった。

「一杯おごりましょうか?」

「おう、お方だな」と再び肩を張った老人。ウィンストンの作業服には気づいていないようだ。「パイントな!」と攻撃的にバーテンに言う。「パイントをくれ」

バーテンはバケツで流した太いグラスに、ハーフリットルの濃い褐色ビールを二杯注いだ。プロールのパブで飲めるのはビールだけだった。プロールはジンは禁止とされていたが、本当は簡単に手に入った。ダーツも再開し、カウンターの連中は宝くじの雑談を始め、ウィンストンの存在は一瞬忘れられた。窓際のテーブルに座れば、人目を気にせず老人と話せる。危険極まりないが、ここにはテレスクリーンが無いことは、入店時に真っ先に確認していた。

「あいつはパイント出せたはずだ」と老人はグラスの前で唸った。「ハーフリットルじゃ足りねえ。満たされない。かといってリットルじゃ多すぎて小便ばかり出る。値段も高げだしな」

「あなたは私よりずっと年長です。当時を覚えておられるはずです」ウィンストンは探りを入れた。

老人はダーツ盤からカウンター、トイレと視線を移した。どうやら喫煙所やバーでしか変化は期待していないようだ。

「ビールはうまかったね。しかも安かった。若い頃、マイルドビール――ウォロップって呼んだが――が1パイント4ペンスだった。戦争の前の話さ」

「どの戦争ですか?」とウィンストン。

「戦争は全部だよ」と老人は曖昧に言った。彼はグラスを持ち上げ、また肩を張る。「君の健康を祈って!」

細い喉で鋭い喉仏が上下し、ビールは一気に消えた。ウィンストンはもう一度ビールを二杯頼んできた。老人はもうリットル一杯を気にする様子はなかった。

「あなたは私よりずっと年上ですよね。革命前のことを覚えているはずです。私たちの世代には、本では読むけれど本当は何も知りません。本に書かれたことも本当か分かりません。あなたのご意見をうかがいたいのです。歴史の本には、革命前の暮らしは今とはまるで違って、これ以上ないほどの抑圧と不正、不幸、想像もできないほどの貧困だったとあります。ここロンドンでは、生まれてから死ぬまで誰も満足に食べられず、半分の人は靴すらなかった。1日12時間働き、9歳で学校を出て、10人で一部屋に寝ていた。同時に、ほんの一握り、数千人だけが――資本家と呼ばれた人々ですが――金持ちで強い権力を持ち、すべてを所有していた。豪華な館に30人もの使用人を抱え、車や馬車に乗り、シャンパンを飲み、シルクハットを――」

老人は急に元気になった。

「シルクハットか! 奇遇だね。ちょうど昨日、なぜかそれを思い出してた。もう何年もシルクハットなんか見てねえ。すっかりなくなっちまった。最後にかぶったのは義姉さんの葬式さ。いつだかは分からんが、もう50年も前だろう。もちろんそのときだけ借りたもんだがね」

「シルクハット自体は重要じゃありません」とウィンストンは忍耐強く言った。「要するに、資本家と、彼らに付随する法律家、聖職者などがこの世の支配者だった、ということです。全ては彼らの利益のために存在した。あなた方、つまり普通の労働者は彼らの奴隷だった。彼らはあなたがたを意のままにできた。カナダに牛のように送ることも、娘を寝取ることも、鞭で打たせることも、できなかったと言えるでしょうか? 彼らの前を通るとき帽子を脱がなければならなかった。資本家は必ず召使いを引き連れて――」

老人はまた元気を取り戻した。

「召使いか! そんな単語、何十年ぶりかね。召使い! 懐かしい響きだ。思い出すよ、何十年も昔の日曜日、よくハイドパークまで演説を聴きに行ったもんだ。救世軍も、カトリックも、ユダヤ人も、インド人も、いろんな奴がいた。中に一人、名前は知らんが、実にうまい演説家だった。すごかったよ。“召使いたちよ! ”って。 “支配階級の手先ども! ”“寄生虫ども! ”ってな。“ハイエナども”とも呼んだっけな。もちろん労働党を指していたんだがね」

ウィンストンは、話がかみ合っていないように感じた。

「本当に知りたかったのは、こういうことなんだ」と彼は言った。「今のほうが昔より自由だと感じるかい? 今のほうが人間らしく扱われていると思うか? 昔は、金持ちや上の連中が――」

「『アウス・オブ・ローズ』さ」と年寄りが懐かしそうに口を挟んだ。

「『上院』――それでもいいよ」とウィンストン。「僕が聞きたいのは、そういう連中が、金持ちだというだけで、君たち貧乏人を劣った者扱いできたのかどうかだ。例えば、彼らには必ず『サー』と呼ばなければならなくて、通り過ぎるときは帽子を取らなきゃならなかったのか?」

老人はじっと深く考えている様子だった。答える前にビールを1/4ほど飲み干した。

「ああ、そうだったよ。奴らは、帽子に手をやるのを好んだもんだ。敬意を表すってやつさ。俺自身は納得してなかったけど、しょっちゅうやったもんさ。まあ、仕方なしに、というところだな。」

「それで、これは歴史の本で読んだことなんだが――連中やその召使いが、君たちを歩道から追い出して溝に突き落としたりするのはよくあったことなのか?」

「一度、やられたことあるな」と老人は言った。「まるで昨日のことみたいに覚えてる。ボートレースの夜だった――あの夜はひどく騒いだもんだ――それでシャフツベリー・アベニューで若い紳士とぶつかった。彼は本物の紳士で――ドレスシャツ、シルクハット、黒いオーバーコート。歩道をジグザグに歩いていて、俺がうっかりぶつかったんだ。すると『前見て歩けないのか?』って言われて、俺は『歩道全部あんたのものだとでも思ってるのか?』って返したら、『これ以上ふざけたこと言ったら、首を捻り折ってやるぞ』って言われた。俺は『酔ってるな。すぐ警察に突き出してやるぞ』って言った。で、信じてもらえるかわからんが、そいつは胸をグイっと押してきて、バスの車輪にもう少しで巻き込まれそうになった。まあ、あの頃は若かったし、ぶん殴ってやろうかと思ったさ、ただ――」

無力感がウィンストンを包み込んだ。老人の記憶は、取るに足らない細部のガラクタ置き場でしかなかった。丸一日質問し続けても、何の実質的な情報も得られそうになかった。党の歴史書の記述が一応は事実なのかもしれない――ひょっとすると、すべて本当かもしれない。ウィンストンは最後の試みをした。

「僕の言いたいことがうまく伝わっていないかもしれない」と彼は言った。「僕が聞きたいのは、こういうことなんだ。あなたは随分長く生きている。革命の前に人生の半分を生きた。例えば、1925年にはもう大人だったろう。あなたの記憶に照らして、その頃と比べて今の生活の方が良いと思うか、それとも悪いと思うか? もし選べるなら、今と昔、どちらの時代に生きたい?」

老人は物思いにふけりながらダーツボードを見つめた。先ほどよりもゆっくりとビールを飲み干した。話し始めたときの彼は、どこか寛容で哲学的な雰囲気をまとっていた――まるでビールで気分が和らいだかのように。

「君が何て言ってほしいかわかってるさ」と彼は言った。「俺が『若い頃に戻りたい』って言うのを期待してるんだろ? だれに聞いたって、たいていは『若い頃に戻れたらいい』って言うさ。健康も体力もあるしな。この歳になると、ろくに調子がいいことなんてない。俺の足はもうひどいもんだし、膀胱もまったくひどいもんだ。夜中に6回も7回もトイレに起きなきゃならん。だが年寄りになれば、それはそれなりに良い点もある。若いときほど気苦労はないしな。女に構わんで済むってのが大きいよ。もう30年近く女を抱いてないし、望みもしないね、信じるか?」

ウィンストンは窓枠にもたれかかった。もうこれ以上続けるのは無駄だった。彼はビールをもう少し注文しようかと思ったが、老人は急に立ち上がり、部屋の片隅の悪臭漂う便所に早足で向かった。追加で飲んだ半リットルがすでに効いているようだった。ウィンストンはしばらくの間、空になったグラスを見つめ、自分の足がいつの間にかまた通りに運び出していたことにも気付かなかった。あと20年もすれば、「革命前のほうが今より暮らしは良かったのか?」という巨大かつ単純な問いには、永遠に答えようがなくなる――ウィンストンはそう思った。だが実際、今ですら答えなど出せはしない。なぜなら、過去の時代から生き残っているわずかな生存者は、時代同士の比較能力などまったく持ち合わせていなかったからだ。彼らが覚えているのは、仕事仲間とのいざこざ、自転車の空気入れを探し回ったこと、死んだ妹の顔つき、70年前の風の強い朝の巻き上がる埃――そんな役にも立たないことばかりだった。必要な事実はすべて、彼らの視界の外だった。彼らは、小さなものは見えても大きなものは見えない蟻のようだった。そして記憶があいまいになり、書かれた記録がねつ造されたとき――党が人々の生活水準を向上させたという主張は受け入れざるを得なくなる。比較しうる基準がもはや存在せず、もう二度と存在し得ないからだ。

このとき、彼の思考は唐突に途切れた。ウィンストンは立ち止まり、顔を上げた。彼は幅の狭い通りにいて、暗い小さな店々が民家の間に点在していた。ちょうど頭上には、色あせた金属球が三つ吊るされており、かつては金箔が施されていたようだった。その場所を彼は知っている気がした。そうだ! ウィンストンは自分が日記を買った古道具屋の前に立っていることに気付いたのだ。

恐怖がズキンと走った。あの本を買った時点でも十分無謀だったし、もう二度と近づくものかと誓った場所だった。しかも少しでも気を緩めて考え事をした途端、足が勝手に彼をここまで運んできてしまった。この種の自殺行為的な衝動に歯止めをかけるため、彼は日記を書くことを始めたはずなのに。同時に気付いたのは、もう21時近くなのに店がまだ開いていることだった。通りに突っ立っているより中にいたほうが目立たないだろうという気分で、彼は入口をくぐった。もし問い詰められたら、カミソリの刃を探していたのだと言い張るつもりだった。

主人はちょうど吊り下げた油ランプに火を灯したところだった。やや薄汚れてはいるものの、どこか親しみやすさのある匂いがした。彼は60歳ほど、ひょろりとした小柄な体つきで、長い人好きのする鼻、厚い眼鏡で少し歪んで見える温和な目をしていた。髪はほとんど白くなっていたが、眉毛だけはまだ黒くふさふさしていた。その眼鏡や落ち着いたそわそわとした動作、そして年季の入った黒いビロードの上着が、彼にどこか知的な雰囲気を加えていた。まるでどこかの文筆家か、あるいは音楽家のようだった。声は柔らかく、どこか色あせており、訛りもプロール[無産階級]の大多数よりは上品だった。

「歩道であなたを見かけましたよ」と主人がすぐに言った。「お嬢さんの思い出帳を買っていかれた紳士さんですね。あれはいい紙でしたよ。『クリーム・レイド』と呼ばれてね。ああいう紙は――いや、50年はもう見ていないでしょうな」彼はメガネ越しにウィンストンをじっと見つめた。「何か特別お探しのものは? それとも、ただ見て回られたいだけですか?」

「通りかかったので」とウィンストンは曖昧に言った。「ちょっと覗いてみただけで、特に欲しい物があるわけじゃないんだ。」

「それならちょうどよかった」と主人は言った。「というのも、あなたのお気に召すものがあるとも思わなかったもんでね」彼は申し訳なさそうに柔らかな手で身振りをした。「ご覧の通り、空っぽの店みたいなもんですよ。アンティーク商売はほとんど終わったようなもんです。もう需要もなければ、品もない。家具や陶器やガラスはみんな徐々に壊されてしまいましたし、金属のものなんかはほとんど溶かされてしまって、真鍮の燭台なんて何年も見てませんよ」

実際、店の小さな内部は不快なほど物が詰め込まれていたが、価値のある物はほとんどなかった。床のスペースは極めて限られていて、壁際には数え切れないほどの埃をかぶった額縁が積み上げられていた。ウィンドウにはナットやボルトのトレイ、使い古しのノミ、刃の欠けたペンナイフ、動くことすら期待できない錆びた時計、それから他にも雑多なガラクタが並んでいた。部屋の隅の小さなテーブルの上だけは、漆塗りのスナッフボックスやメノウのブローチなど、ちょっと興味を引く物たちがごちゃごちゃ置かれていた。ウィンストンがそのテーブルに近づくと、ランプの光を柔らかく受けて輝いている丸く滑らかな物体に目を惹かれ、手に取った。

それは片側がゆるやかに湾曲し、もう一方が平らな、ほとんど半球形のガラスの塊だった。色も質感も、まるで雨水のような独特の柔らかさがあった。中心部には、湾曲したガラス越しに拡大されて見える、奇妙なピンク色の,渦巻いた物体が閉じ込められていて、それはバラやイソギンチャクを思わせた。

「これはなんだい?」ウィンストンは夢中で尋ねた。

「それは珊瑚ですよ」と老人が言った。「インド洋から来たもんでしょうな。昔はこんな風にガラスに埋め込んだものです。少なくとも100年以上前の品でしょう、見たところもっと古いかな」

「美しいね」とウィンストンは言った。

「ええ、美しいですよ」と老人も心から賛同して言った。「でも今どき、そう言ってくれる人も少ないですな」彼は咳払いをし、「もしも――もしも買われるつもりがあれば、4ドルですな。昔ならこういうものなら8ポンド取れたもんですし、8ポンドなんて――まあ計算できませんが、大金でした。でも今じゃ本物のアンティークなんて気にする人もいませんよ、残り少ないですし」

ウィンストンはすぐに4ドルを払い、念願の品物をポケットに滑り込ませた。彼を惹きつけたのは、その美しさというだけでなく、この品が明らかに今とは全く違う時代のものだという空気だった。柔らかく雨水のようなガラスは、彼が今まで見たどんなガラスとも異なっていた。しかも用途のなさがなおさら魅力的だった。おそらくは昔ペーパーウェイトだったのだろう。ポケットの中でかなり重かったが、幸いにも膨らみはほとんど目立たなかった。党の一員としてこれはかなり変わった、いや、状況によっては危険な持ち物だった。古いもの、そして美しいもの自体、漠然と疑わしいものとされていたのだ。老人は4ドル受け取ると明らかに機嫌がよくなった。ウィンストンは、3ドル、いや2ドルでも買えたと気付いた。

「上の階にも一部屋だけ見てみたいものがあるかもしれません」と主人は言った。「たいしたものはないですが、いくつかだけ。上に行きますので、灯りを持っていきましょう」

彼はもう一つランプに火を灯し、腰をかがめて、急で磨り減った階段と狭い通路をゆっくり導いていった。その部屋は通りには面しておらず、石畳の中庭と煙突の森が見えるだけだった。家具はまだ人が住むつもりで置かれているようだった。床にはじゅうたんの切れ端が敷かれ、壁にはいくつか絵が飾られ、暖炉の前にはみすぼらしいが深く沈み込むアームチェアがあった。マントルピースの上には、12時間表示の古風なガラスの時計がカチカチと時を刻んでいた。窓の下には、部屋の4分の1を占めるほどの大きなベッドが、まだマットレスごと置かれていた。

「妻が亡くなるまでここに住んでいたんです」と老人はどこか申し訳なさげに言った。「少しずつ家具を処分しているんですよ。あれは立派なマホガニーのベッドです――少なくとも虫がいなければですが。でもまあ、ちょっと大きすぎるでしょうね。」

彼はランプを掲げて部屋全体を明るく照らした。暖かく薄暗い光に包まれた部屋は、妙に魅力的に見えた。ウィンストンの心には、数ドル週払いでこの部屋を借りることもきっと簡単だろう、もしも危険を冒す気があるなら、という考えが一瞬よぎった。それは常軌を逸した、実現不可能な空想で、考えるや否や打ち消されるべきことだったのだが、この部屋は彼にどこか郷愁、祖先の記憶のようなものを呼び起こした。まるで自分が暖炉のそばのアームチェアに座り、足を火にかざし、ガス台ではやかんが湯気を上げている、ひたすら孤独で安全な部屋にいる気がした。誰にも見張られず、声に追いかけられることもなく、聞こえるのはやかんの歌と親し気な時計の音だけ。

「テレスクリーンがない!」思わず口をついて出た。

「ええ」と老人は答えた。「あんな物は一度も置かなかったよ。高価すぎたし、どういうわけか必要性を感じなかったものです。あそこにあるのは良いゲートレグテーブルですよ。使うなら蝶番を新たに付けないといけませんが。」

部屋の別の隅には小さな書棚があり、ウィンストンはすでに引き寄せられていた。中身は無価値なものばかりだった。プロールの区画でも書物の探索と破壊は徹底的に行われており、1960年以前の本がオセアニアのどこかに残っている可能性はほぼなかった。老人はランプを持ったまま、暖炉の反対側のバラ色の木枠に入った絵の前に立っていた。

「もし古い版画にご興味があれば――」と彼は控えめに話し始めた。

ウィンストンはその絵を近くで見た。長方形の窓のついた楕円形の建物のスチール版画で、正面には小さな塔があった。建物の周囲には柵が設けられ、裏手にはどうやら像らしきものもあった。ウィンストンはしばらくそれを見つめた。どこかで見覚えがあったが、像については記憶になかった。

「額縁は壁に固定されてますが、外そうと思えば外せますよ」と老人は言った。

「この建物、知ってる」とウィンストンはやがて言った。「今じゃ廃墟だ。司法宮殿の外の通りの真ん中だ」

「そう、法廷の外ですね。ずっと昔に爆撃されましてな。昔は教会だった――『セント・クレメント・デーンズ』という名でして」老人はどこか自嘲気味に笑い、こう付け加えた。「『オレンジとレモンで鳴る、セント・クレメントの鐘!』ってやつです」

「それは何だ?」とウィンストン。

「ええ――『オレンジとレモンで鳴る、セント・クレメントの鐘』っていうわらべ歌があったんです。続きはよく覚えてませんが、最後は確か『ここにろうそく、ベッドに灯そう、ここに斧、首を落とそう』で終わるんでした。子どもの踊りで、腕を伸ばしてその下をくぐらせ、最後に『首を落とそう』で腕を下ろして捕まえるって遊びでした。ロンドン中の教会の名前が歌詞に入ってるんですよ――有名どころだけですが」

ウィンストンは、この教会が何世紀のものなのかぼんやりと考えた。ロンドンの建物の年代を判別するのはいつも難しかった。大きく立派な建造物で新しければ、決まって革命以後のものとされ、明らかに古ければすべて中世という曖昧な時代に分類された。資本主義の世紀は何一つ価値あるものを生み出さなかった、とされる。人は建築から歴史を学ぶこともできなければ、本からも学べなかった。像や碑文、記念碑、通りの名前――過去を示唆しうるものはすべて計画的に改変されていた。

「教会だったなんて知らなかったよ」とウィンストンは言った。

「本当はまだたくさん残ってますよ」と老人は言った。「ただし他の用途に転用されてるだけで。さて、この歌どう続いたかな。あ、思い出した!」

  『オレンジとレモンで鳴る、セント・クレメントの鐘、
  3ファージング借りてるよ、セント・マーチンの鐘がそう言う――』

「ほら、ここまでしか出ませんね。ファージングというのは小さな銅貨で、1セント玉に似てました」

「セント・マーチンはどこだ?」とウィンストン。

「セント・マーチン? 今も建ってますよ。勝利広場にあって、美術館の隣です。三角のポーチに柱、大階段のある建物です」

ウィンストンはよく知っている場所だった。そこは様々な種類のプロパガンダ展示――ロケット爆弾や浮遊要塞の模型、敵国の残虐行為を示す蝋人形など――のための博物館として使われていた。

「昔は『フィールドのセント・マーチン』って呼ばれていたんですよ」と老人は補足した。「あの辺に畑があったとは思いませんけどね」

ウィンストンはその絵を買わなかった。それはガラスのペーパーウェイト以上に不釣り合いな持ち物だったし、額から外さないと家まで運べない。しかし彼はもう少しの間老人と会話を続けた。老人の名がウィークスではなく、チャリントンであることも分かった。チャリントン氏は63歳のやもめで、この店に30年住んでいるという。窓の上の看板を直そう直そうと思い続けていたが、結局実行せぬままだったらしい。その間も、うろ覚えの歌がウィンストンの頭の中で繰り返し鳴っていた。「オレンジとレモンで鳴る、セント・クレメントの鐘、3ファージング借りてるよ、セント・マーチンの鐘……」不思議なことに、自分で口ずさむと本当に鐘の音が聞こえてくるような錯覚を覚えた。忘れられたままどこかにまだ存在している過去のロンドンの鐘――いくつもの幻の鐘楼から、聴いたこともない鐘の音が鳴り渡るようだった。しかし実際、人生で教会の鐘が本当に鳴っているのを聞いた覚えはなかった。

ウィンストンはチャリントン氏に見つからないよう、一人で階段を降りた。外に出る前に通りの様子を偵察するためだった。すでに彼の腹の中では、間を置いて――例えば1か月後――再びあの店に立ち寄るリスクを冒す決心が固まっていた。センターの夜をサボるより危険ってほどでもない。そもそも本当に危険なのは、日記を買った後で信頼できるかも分からない店にまた戻ってきたこと自体だった。しかし――! 

そう、また来よう――ウィンストンは思った。さらに美しいガラクタを買い足そう。セント・クレメント・デーンズの版画も買い、額から外して作業着の下に隠して持ち帰ろう。チャリントン氏の記憶からあの詩の続きを引き出そう。上の部屋を借りるという狂気じみた計画さえ、一瞬再び頭をよぎった。5秒ほど高揚感に気を許し、窓越しに周囲を確認もせず通りに出てしまった。即興のメロディに乗せて口ずさえさえしたのだ。

  『オレンジとレモンで鳴る、セント・クレメントの鐘、
  3ファージング借りてるよ、セント――』

突然、心臓が氷のように冷え、腹わたが水になったようだった。青い作業服の人物が歩道を歩いてきており、10メートルと離れていなかった。フィクション課のあの黒髪の少女だった。日は傾きかけていたが、見間違うはずもなかった。彼女はまっすぐにウィンストンの顔を見て、それからさっと視線をそらし、知らぬふりで素早く立ち去った。

ウィンストンは数秒間あまりの恐怖で動けなかった。それから身体を右に向け、重い足取りで歩き出した。しばらくの間、道を間違えて進んでいることにも気付かなかった。ともあれ、一つの疑問は片付いた。もう迷う余地はない。彼女が自分を見張っているのは間違いない。偶然同じ夜に、同じ裏通りに、党員が滅多に来ない場所を歩いていたなど、考えられなかった。彼女が本当に思考警察のエージェントか、単なる世話焼きで素人スパイなのかはもはや問題ではない。とにかく自分を見ている。おそらくパブに入ったところも見られていた。

歩くのがつらかった。ポケットの中のガラスの塊が一歩ごとに太ももにぶつかり、取り出して捨ててしまおうかと思った。より最悪だったのは、腹の痛みだった。数分間、もしすぐトイレにありつけなければ死んでしまうような苦しみに襲われた。しかし、こんな地区には公衆便所などない。しばらく苦しんだ後、痛みは鈍い鈍痛に変わった。

道は行き止まりだった。ウィンストンは立ち止まり、何をすべきかぼんやりと考えてから、来た道を引き返し始めた。その途中で思ったのは、さっき少女が通り過ぎてからまだ3分しか経っていないので、走れば追いつけるかもしれない、ということだった。静かな場所までつけていき、石畳を手にしてその頭を叩き割ることもできる。ポケットの中のガラスの塊でも十分だろう。しかしその考えはすぐにやめた。身体を使って何かするという考え自体、耐えられないほど苦痛だった。走ることも殴ることもできない。それに、彼女は若くて体力もあるから抵抗するだろう。コミュニティセンターに急いで行き、閉館までそこで過ごして今夜の部分的なアリバイを作ろうかとも考えたが、それもできそうになかった。絶望的な脱力感が身体を包み、ただ早く家に帰って静かに座っていたい、それだけだった。

家に戻ったのは22時を過ぎていた。メインの照明は23時半に切られる。ウィンストンは台所に行き、ビクトリー・ジンをコップ一杯近く流し込んだ。それから書き物机のところのテーブルに座って、引き出しから日記を取り出した。しかしすぐには開かなかった。テレスクリーンからはしわがれた女の愛国歌が響いていた。ウィンストンは、本の大理石模様のカバーをじっと見つめながら、その声を頭から追い出そうとしたが、うまくいかなかった。

彼らがやって来るのは、いつも夜だった。だから捕まる前に自殺するのが本来正しいこととされていた。実際、そうした者もいた。多くの「消えた者」は自殺だったのだ。しかし、自殺するには絶望的な勇気が要った。なぜなら世界では銃器も、手っ取り早く確実な毒薬も、まったく手に入らないのだから。ウィンストンは痛みや恐怖という生物学的に何の役にも立たないもの、特に死の危機時に限って身体が動かなくなる人間の身体の裏切りについて驚きをもって考えた。もしもっと素早く反応できたなら、あの黒髪の少女の口を封じられたかもしれなかった。だが、危険が極まりきった瞬間に限って、身体は動かなくなるのだ。思ったのは、危機の時には、決して外部の敵と戦っているのではなく、常に自分の身体そのものとの戦いなのだということだった。ジンを飲んだ今でさえ、鈍い腹痛に悩まされ、とても連続した思考などできなかった。そしてそれは、いわゆる英雄的・悲劇的な状況下でも同じだ。戦場でも、拷問室でも、沈没船でも、何のために戦っているのかはすぐ忘れてしまう。なぜなら身体が世界を覆い尽くし、恐怖で麻痺しなくても、痛みで叫んでいなくても、空腹や寒さ、不眠や胃酸、歯痛など、一瞬一瞬の小さな苦痛との戦いに生きることになるのだから。

ウィンストンは日記を開いた。何か書くことが重要だった。テレスクリーンの女は新しい歌を始めていた。その声は、彼の脳にガラスの破片が突き刺さるように感じた。ウィンストンは、日記がオブライエンのために、あるいはオブライエンに宛てて書かれていることを思い出そうとしたが、代わりに、思考警察に捕らえられたら自分に待っていることばかりを考えていた。すぐに殺されるならまだよかった。殺されるのが当然の運命だった。だが死の前に(誰も口にはしなかったが、誰もが知っていたこと)、自白という決まり切った儀式が待っている。床に這いつくばって哀願し、骨が砕け、歯が砕け、髪が血塊と化す――。

なぜ、それを耐えねばならない? 結局、終わりはいつも同じなのに。なぜ人生の数日、数週間だけでも短縮できないのか? 誰も捜査からは逃れられず、誰も自白を免れることはなかった。一度思罪に屈したなら、決められた日に必ず死ぬ。そののちの虚無な恐怖が、なぜ未来の中に横たわっていなければいけなかったのか? 

ウィンストンは、前より少しだけ鮮明にオブライエンのイメージを思い浮かべようとした。「私たちは暗闇のない場所で会うだろう」とオブライエンは言っていた。それが何を意味するか、彼は分かったつもりだった。暗闇のない場所とは、実際に見ることはないだろう理想の未来で、その未来を予知することで神秘的に共有できる場所だった。だが、テレスクリーンの声が耳をかすめる中では、思考を深めることができなかった。彼は煙草をくわえた。半分のタバコがすぐに舌の上にこぼれ、苦い粉塵となって口から吐き出しづらかった。ビッグ・ブラザーの顔が脳裏に浮かび、オブライエンのイメージを押しのけた。数日前と同じように、ウィンストンはポケットからコインを取り出して見つめた。見上げる顔は重々しく、静かに守るように見えたが、あの黒い口髭の奥にはどんな微笑みが隠れているのだろう? 鉛のような響きで、あの言葉が脳内に響き渡った。

  戦争は平和である
  自由は隷従である
  無知は力である

第二部

第一章

午前中の真ん中頃、ウィンストンは自分の小部屋を出てトイレに向かった。

長く明るい廊下の端から、ひとりの人影が歩み寄ってきた。黒髪の少女だった。あのジャンクショップで偶然出会ってから4日が経っていた。近づくと、少女の右腕が三角巾で吊されているのが見えた。作業服と同じ色だったから、遠目には気づかなかったのだろう。たぶん小説の構想を練る大きなカレイドスコープを回していて手を挟んだのだろう。フィクション課ではよくある事故だった。

お互い、4メートルほどの距離に近づいたとき、少女はよろめき、ほぼうつ伏せに倒れた。激しい痛みの叫び声がもれた。ちょうどケガした腕で倒れたに違いない。ウィンストンは思わず立ち止まった。少女は膝をついて起き上がった。顔色はミルクのように黄白く、その中で口の赤さがいっそう際立っていた。目は彼の方を恐怖とも痛みともつかぬ懇願の表情で見つめていた。

ウィンストンの胸に奇妙な感情が芽生えた。目の前には自分を殺そうとする敵がいる。それと同時に、痛みにあえぐ――おそらく腕の骨を折ったであろう――人間がいた。既に彼は本能的に助けに近づいていた。包帯の腕で倒れるのを見たその瞬間、まるで自分が同じ痛みを感じているかのようだった。

「ケガしたのか?」と彼は言った。

「たいしたことないの。腕だけ。すぐ大丈夫」

心臓が高鳴るような口調だった。確かに真っ青になっていた。

「骨は折れてないか?」

「大丈夫。今は痛いけど、すぐ治まるから」

少女は自由な左手を彼に差し出し、ウィンストンが立たせてやった。少し色が戻り、だいぶ元気になったように見えた。

「何でもないんだから」と少女は短く繰り返した。「ちょっと手首をぶつけただけ。ありがとう、同志!」

それだけ言うと、少女はまるで本当に何でもなかったかのように足早に去っていった。すべては30秒もかからない出来事だった。表情に感情を出さないことは習慣を超えて本能になっていたし、何よりこの出来事はテレスクリーンの真下で起きたのだった。それでも一瞬の驚きを隠すのはかなり難しかった。なぜなら、少女がウィンストンの手に何かを滑り込ませたのが明らかだったからだ。それは確かに意図的だった。小さく平たい物体だった。トイレの入口で、それをポケットに移し、指先で触れた。それは四角く折りたたまれた紙切れだった。

小便器の前に立ちながら、ウィンストンは少しためらった後、うまく指を滑らせて紙を広げた。明らかに何かのメッセージが書いてあるはずだった。一瞬、個室トイレに持ち込んですぐ読もうかと思ったが、それは大馬鹿なことだ、と自覚していた。あんな場所、テレスクリーンで常時監視されているのは間違いないのだから。

自分の小部屋に戻り、椅子に座ると、紙切れをほかの書類と一緒に書類の山に紛れ込ませ、眼鏡をかけ、スピークライターを引き寄せた。「あと5分……少なくとも5分」と自分に言い聞かせた。心臓は恐ろしいほど大きな音で鳴っていた。幸いにも、今取り組んでいるのは長い数字の修正という単純作業だったので、集中力を要しない。

紙に書いてあることは、何であれ政治的な意味を持つに違いなかった。現時点で考えられるのは二通り。ひとつは、おそらくもっともありえるパターン、少女が思考警察のエージェントだというもの。なぜ思考警察がそんな方法で連絡してくるのかは分からなかったが、理由があるのだろう。メモの内容が脅しや、出頭命令や、自殺の指令、もしくは罠なのかもしれない。だがもうひとつの、もっと突飛な可能性が頭をもたげた。つまり、そのメッセージは思考警察のものではなく、地下組織、たとえば兄弟団からのものなのではないか……! 少女もその一味なのではないか? どう見ても馬鹿げた話だったが、紙切れを受け取ったまさにその瞬間、そう考えてしまったのだ。それから2分ほどして現実的な説明にやっと思い至ったものの、それでもメモが死への招待状であると分かっていても、そう信じることができず、理不尽な希望が膨らみ、心臓は鳴り続け、スピークライターに声を震わせずに喋るのがやっとだった。

作業をまとめて管に差し込んだ。8分が過ぎていた。彼は眼鏡をかけ直し、ため息をついてから、次の仕事の束を手元に寄せた。その上に紙切れが乗っている。それを広げた。大きな崩れた字で、こう書かれていた。

I LOVE YOU.[あなたを愛しています]

数秒間、あまりの衝撃で、証拠隠滅のために記憶穴へ放り込むことすらできなかった。実際にそうしたあとも、興味を示しすぎるのは危険と知りつつ、もう一度だけ本当にその言葉があったか確かめたくて読み返してしまった。

その後の午前は仕事が大変だった。厄介な仕事に気持ちを集中させるよりも、テレスクリーンを警戒しながら動揺を隠すことのほうが苦痛だった。腹の底に火が灯ったような感覚だった。昼、暑くて混み合った騒がしい食堂での食事は拷問のように感じた。せめて昼休みに少しでもひとりになりたかったが、運の悪いことに、パーソンズが隣にどかりと座り、彼の汗の匂いがシチューの缶臭さを打ち消してしまいそうだった。パーソンズはヘイト・ウィークの準備話ばかり続け、特に娘たちのスパイ団が作っている二メートルもあるビッグ・ブラザーの張り子の話には熱が入っていた。騒々しい声のなかでパーソンズの話が聞き取りにくく、何度も同じ質問をしなければならなかった。ウィンストンは一度だけ、食堂の端のテーブルで女の子が他の2人の女生徒と座っているのを横目に見た。彼女はこちらに全く気づかなかったかのようで、ウィンストンもそれ以上見るのをやめた。

午後はやや楽だった。昼食後すぐ、数時間を要する繊細で難しい仕事が舞い込んだ。他のすべてを脇に置く必要があり、2年前の生産報告をねつ造して、今では不人気となったインナー・パーティーの有力者の評判を落とす内容に改ざんするものだった。こうした作業はウィンストンの得意分野であり、2時間以上の間は少女のことをすっかり忘れることができた。しかしやがて彼女の顔を思い出し、激しく許しがたいほど強く「ひとりになりたい」という渇望が沸き上がった。孤独にならなければ、この新たな展開について考え抜くことなどできなかった。今夜はコミュニティセンターに出ねばならない夜だった。彼は tasteless な食堂の食事をかき込み、急いでセンターに向かい、無意味な『討論会』に参加し、卓球を2ゲーム、ジンを何杯か飲み、『イングソックとチェスの関係』という講演を30分聞いた。心は退屈のあまり身をよじった。しかし今夜ばかりはセンターをサボろうという気が起きなかった。『I LOVE YOU[あなたを愛しています]』という文字を見て、何としても生き延びたいという気持ちが高まり、些細なリスクを冒すのが馬鹿げたものに見えた。家で安全な暗闇の中にベッドに入り、ようやくひとりきりで思考を続けることができたのは、23時になってからだった。

物理的な難題がひとつ、解決しなければならなかった――どうやって少女に接触し、会う約束を取り付けるかだ。罠かもしれないなどとは、もはや考えもしなかった。少女が紙片を渡す時の抑えがたい動揺からも、彼女は本気で怯えていたし、その危険さをよく分かっていたとしか思えなかった。少女の申し出を拒むという考えすら浮かばなかった。わずか5日前には石畳で頭を潰してやろうと考えた相手だが、今となっては何の意味もない。ウィンストンは、夢の中で見た若々しい裸の身体を考えた。他の女たち同様、頭は嘘と憎しみで一杯で、心の底は氷のようだと思っていた。その若く白い裸体が手の届かないところに消えてしまうのではないかと思うと、熱病のような焦りにとらわれた。何より怖かったのは、連絡をとるのが遅れたことで、少女が気を変えてしまうことだった。だが会うための物理的な障害は途方もなく大きかった。それは、すでに詰ませたチェスで一手打とうとするようなものだった。どちらを向いても、テレスクリーンが向き合っている。実際、少女に接触するすべての可能な方法は、メモを読んだ直後にはすべて考えついていたのだが、今改めて順々に点検せざるを得なかった。

もちろん、今朝のような遭遇を再現することはできない。もし少女が記録局の所属なら簡単だが、フィクション課がどこにあるかもほとんど見当がつかず、そこに行く口実もない。もし居住場所や退勤時刻が分かれば、帰り道に待ち伏せできるが、ビルの外でうろついていれば目をつけられてしまうから危険だ。郵便で手紙を出すという手も論外だった。すべての手紙は開封されるのが慣習化しており、そもそも誰も手紙など書かない。用事がある場合は定型文が印刷されたハガキに不要な項目を二重線で消す形式だった。そもそも少女の名前も住所も知らない。結局、一番安全な場所は食堂だと決めた。彼女が独りでテーブルにいる時で、部屋の中央付近、テレスクリーンから遠め、周りが十分ザワついているとき――もしそれが30秒も続けば、数語の会話はできるかもしれない。

それから1週間、生活は落ち着きなくうつろいの中で過ぎた。翌日は少女の姿は食堂になく、ウィンストンが出ていくときに入ってきた。たぶん勤務シフトが遅くなったのだろう。すれ違っても、お互い全く目を合わせなかった。その翌日は通常の時刻にいたが、他の女の子3人とテレスクリーンの真下。さらに3日間、まるで消えてしまったかのように姿を見せなかった。全身が耐え難い鋭敏さ、透明感のようなものでひどく苦しめられ、どんな動きも物音も会話も、すべてが耐え難い苦痛だった。眠っている時でさえ少女の影は消えなかった。その3日間、日記を開きもしなかった。唯一の救いは仕事の中に没頭し、10分間自分を忘れることができた時くらいだった。少女に何が起きたか全く手がかりがなかった。調査もできなかった。蒸発されたのか、自殺したのか、オセアニアの反対側に移されたか――最もありそうで嫌なのは、ただ彼女が気が変わって避けるようになったということだった。

ついに翌日、彼女が再び姿を現した。腕から三角巾は外れ、手首にはばんそうこうが巻かれていた。ほっとしたあまり、数秒間じっと見つめてしまった。翌日は、もう少しで話しかけられそうだった。ウィンストンが食堂に入ると女の子は壁から離れたテーブルにひとりで座っていた。時間も早く、食堂はあまり混んでいなかった。彼は列に並び、自分の順番が来るまで待ったが、前の人物がサッカリンの錠剤を受け取っていないと文句をつけたため2分近くストップ。その間も彼女はひとりきりだった。ウィンストンがトレイを持ってテーブルに向かう。さりげなく彼女のところへ行き……彼女まであと3メートル、あと2秒あれば、という時、背後から「スミス!」と声がかかる。無視して歩き続けようとしたが、声はさらに大きく「スミス!」仕方なく振り返ると、ウィンストンがほとんど知らないウィルシャーという金髪の間抜け顔の青年が、自分のテーブルに誘っていた。断るわけにはいかなかった。一度声をかけられている以上、ひとりの女の席に行くのは目立ちすぎた。にこやかに座るしかなかった。間抜け顔を見て、ウィンストンは頭のど真ん中にツルハシを突き刺す幻覚を抱いた。数分後、少女のテーブルは埋まってしまった。

だが彼女も自分の動きを見ていたかもしれないし、ヒントとして受け取ってくれるかもしれない。翌日は早めに着くよう注意した。すると少女はやはり同じ辺りのテーブルにいて、またもひとりだった。前を歩いていたのは、素早く動くカブトムシのような男で、平らな顔に小さな疑い深い目を光らせていた。ウィンストンがトレイを持って曲がったとき、その男がまっすぐ少女のテーブルに向かっているのが見えた。ウィンストンの期待は再びしぼんだ。テーブルの空きを気にするタイプに見えたので離れたテーブルに行くかと思ったが、そのとき突然大きな音がした。虫男がトレイごと床に転んで、スープとコーヒーが床に広がっていた。虫男は敵意ある視線でウィンストンを睨みつけたが、5秒後にはウィンストンは少女のテーブルに座っていた。

彼は彼女を見なかった。トレイを広げてすぐ食べ始めた。誰か来る前に話しかけることが何より大事だったが、今や恐ろしい不安が支配していた。あれから1週間が経つ。彼女の気が変わっていたかもしれない。絶対にこの話がうまくいくはずがない。現実にこんなことが起きるはずがない。今ここで声をかけなければ、きっと怖気づいてしまっただろう――そのとき、アンプルフォースがトレイを持ってウロウロし出した。彼はウィンストンになついていたので、気付いたら絶対こっちのテーブルに来る。行動するなら今しかない。ウィンストンと少女は淡々と食べていた。二人とも食事の間、無表情な声で、必要最小限の言葉だけ交わした。

「何時に仕事終わる?」

「十八時三十分」

「どこで会える?」

「勝利広場、記念碑の近く」

「テレスクリーンだらけだぞ」

「混み合ってれば構わないわ」

「合図は?」

「いらない。人ごみにいる私を見るまで近づかないで。私を見ないで。ただそばにいて」

「何時?」

「十九時」

「分かった」

アンプルフォースはウィンストンに気付かず別のテーブルに座った。二人はそれ以後二度と話さず、テーブル越しに目を合わせることもほとんどなかった。少女は昼食を早々に終えると出ていき、ウィンストンはタバコを吸うために残った。

ウィンストン・スミスは、約束の時間よりも早くビクトリー・スクエアに到着していた。彼は巨大なフルート状の円柱の土台のまわりをぶらぶら歩いた。その頂上ではビッグ・ブラザーの像が南の空を見上げている。あの空の彼方で、彼はユーラシア(数年前まではイースタシアだった)空軍をエアストリップ・ワンの戦いで打ち破ったのだ。像の前の通りには、乗馬した男の像があり、それがオリバー・クロムウェルを表しているらしかった。時間を五分過ぎても、少女――ジュリアはまだ現れていなかった。

またしても恐ろしい不安がウィンストンを襲う。彼女は来ない、やはり気が変わったのだ! 彼は広場の北側までゆっくり歩いていき、セント・マーチンズ教会を見分けることで淡い喜びを感じていた。その教会の鐘があったころには「お前は俺にスリーファージング借りている」と時を告げていたのだった。そして彼は、少女が記念碑の土台に立ち、柱を螺旋状に登るポスターを読んでいるかのように見せているのに気がついた。もっと人が集まるまで近づくのは危険だった。ペディメントのまわりにはテレスクリーンが設置されていた。しかしその時、左手から怒号と重車両のうなり音が轟いた。突然、皆が広場を走り抜け始めた。ジュリアは記念碑の土台のライオン像のまわりを機敏に回り込み、人波に紛れて走った。ウィンストンも後を追う。走りながら、ユーラシアの捕虜の護送車が通っているのだと人々の叫び声から察した。

すでに南側は人混みがびっしり詰めかけていた。通常ならウィンストンはこういう混乱の外側に居がちな人間だったが、今日は押しのけ、頭を突き出し、もがきながら人混みの中心に進んだ。やがて彼はジュリアのすぐ近くにいたが、道は巨大なプロールと、その妻らしきほぼ同じくらい大きな女性によって遮られていた。二人はまるで突破不可能な肉の壁を作っていた。ウィンストンは体を横にねじり、激しく体当たりして二人の間に肩を押し込むことに成功した。一瞬、自分の内臓が筋肉質の腰骨にすり潰されそうな感覚を味わったが、汗をかきながらもなんとか突破した。ジュリアの隣に並び、肩を並べ、二人とも前方をじっと見つめていた。

トラックの長い隊列が、各隅にサブマシンガンを構え直立不動の警備兵を乗せ、ゆっくりと通りを進む。トラックの荷台には、ぼろぼろの緑がかった制服を着た黄色い顔の小柄な男たちがすし詰めで座り込んでいる。その悲しげなモンゴル的な顔は、全く無関心に荷台から広場を見渡している。トラックが揺れるたびに金属音が響く。捕虜全員が足かせをされていた。悲しげな顔のトラックが何台も続き、ウィンストンはその存在を知覚しつつも断片的にしか視界にとらえられなかった。ジュリアの肩や肘までが自分の体に密着している。彼女の頬も、温もりを感じられるほど近い。彼女は食堂でのとき同様、状況をすぐに支配下においていた。極めて小さな声で、唇をほとんど動かさず、トラックの轟音や人の声にかきけされるほどのそよぎ声で話しかけてきた。

「聞こえる?」

「ああ。」

「日曜の午後、都合がつく?」

「ああ。」

「よく聞いて、覚えておいて。パディントン駅に行って――」

軍人のような正確さで目的地までのルートを説明した。駅からの30分の鉄道旅、駅を出て左折、道なりに2キロ、上の桟のない門、野原を横切る小道、草に覆われた細道、茂みを抜ける道、苔むした枯れ木。まるで頭の中に地図が入っているようだった。「全部覚えていられる?」と最後につぶやいた。

「ああ。」

「左へ行って、右、それからまた左。そして門の上の桟はないのよ。」

「ああ。時間は?」

「だいたい15時。待たせるかもしれない。私は別の道から行く。全部覚えてる?」

「ああ。」

「じゃあ、できるだけ早く私から離れて。」

そんなこと、言われなくても分かっていた。しかし今は人混みからすぐに離れることはできなかった。トラックはまだ通過し続け、人々は飽くことなく見入っている。最初は党員たちからいくつかのブーイングや罵声も上がったが、すぐに止んだ。支配的な感情はただの好奇心だった。ユーラシアでもイースタシアでも、異国の人間は奇妙な動物のようなものだった。実際、捕虜としてしか彼らを見ることはなく、しかもその目撃も一瞬にすぎない。彼らに何が起きるのかも知らない。戦犯として絞首刑になるわずかな者を除いて、他は強制労働収容所に消えてしまうのだろう。丸いモンゴル顔の行列の後にはヨーロッパ系の薄汚れた、髭面で疲れきった顔が続く。やせた頬骨の上からウィンストンの目をじっと見つめ、すぐに逸らす者もいた。護送隊列は終わりに近づいていた。最後のトラックには、白髪まじりの髭面で年老いた男が、手首を前で交差させて立っていた。まるでいつも縛られているかのように……。そろそろジュリアと別れる時だった。しかし最後の瞬間――まだ群衆に囲まれたままのなかで、ジュリアの手がウィンストンの手を探し、さっと握りしめた。

十秒に満たないほどだったが、その手が結ばれ続けていた時間は長く感じられた。ウィンストンは彼女の手のすべてを知ることができた。長い指、形の整った爪、作業で硬くなった手のひらに並んだタコ、手首の下のなめらかな肌。触れてみれば、もう視覚でも分かったはずだ。そのとき、不意にジュリアの目の色をまだ知らないことに気づいた。おそらく茶色だろうが、濃い髪の人は青い目だったりする。顔を向けて見るなんて、今はとてもできない。群衆の中で手を取り合いながら、二人はじっと前を見つめていた。少女の代わりに、年老いた囚人の目が毛むくじゃらの中からウィンストンを悲しげに見つめ返していた。

第2章

ウィンストンは斑入りの日差しの中で小道を進み、枝の合間から黄金色の光の塊が地面に落ちているところへと足を運んでいた。左側の木下の地面にはブルーベルの花が霞のように咲き、空気は肌を撫でるようだった。5月2日だった。森の奥からはキジバトの低いうなり声が響いていた。

彼は少し早く着いていた。道中も困難はなかったし、少女の経験豊富そうな様子に安心もできた。安全な場所はきっと見つかるだろう。一般的に、ロンドンより田舎の方が特段安全とは限らない。テレスクリーンはもちろんないが、隠されたマイクで声を拾われ識別される危険も常にあるし、一人旅は注意を引く危険もある。100キロ未満ならパスポートの認可は不要だったが、時折駅では取締隊が党員の書類を調べては面倒な質問をしていた。しかし今のところ巡回は出没せず、駅から歩く間も何度か後方に目を光らせて追跡者がいないことを確認していた。列車は上機嫌のプロールたちでいっぱいだった。五月晴れに浮かれ、木の椅子の車両は歯のない曾祖母から生後1ヶ月の赤ん坊までそろった巨大な家族に占領されていた。彼らは「親戚」と田舎で午後を過ごし、さらに闇バターを手に入れるつもりだとウィンストンにも隠さず語った。

道が広くなり、まもなく彼女が言った足跡用の小道が現れた。低木の間へ突き進む獣道だった。時計は持っていなかったが、まだ十五時にはなっていないはずだ。ブルーベルが密集して咲いていて、踏まずには歩けない。時間潰しのつもりと、何となく花束を作って彼女に手渡したい思いつきから摘みはじめた。大きな花束になり、ほのかで甘ったるい香りをかいでいたとき、背後の枝が明らかに踏みしめられる音で彼は硬直した。だがそのままブルーベルを摘み続けた。それが一番よい対応だ。少女かもしれないし、本当に尾行されていたのかもしれない。振り返るのは疑念を招く。さらに一つ、また一つ摘む。軽い手が肩に置かれた。

振り向くとジュリアだった。彼女は無言の警告のように首を振り、それから藪を分けて素早く細道へ導く。明らかにこの道を通ったことがあるようで、ぬかるみを難なくかわしていた。ウィンストンは花束を持ったまま彼女の後を追った。まずは安堵したが、やがてスラリとした強い肉体が目の前で動くのを見ているうち、自分の劣等感に襲われた。今も彼女が振り返った瞬間、彼女は気を変えて引き返すのではないかという不安が重い。空気の甘さや新緑にも気後れする。駅からの道で既に五月の陽に当たり、ロンドンの煤煙と埃が毛穴に詰まった室内人間――自分が汚く色あせた存在のようにも思えた。彼女はこんなに明るい野外で彼を見たことはなかったかもしれない。

倒木のところまで来て、ジュリアは跳び越え、ほとんど隙間と思えぬ藪を分ける。ウィンストンが続くと、そこは自然の小さな空き地で、若木に囲まれて草が生い茂っていた。ジュリアは立ち止まり、振り返った。

「ここよ」と彼女は言った。

二人は数歩離れて向き合った。まだ近づく勇気がなかった。

「さっきの小道では話したくなかった」と彼女は続けた。「マイクが隠れているかもしれないから。たぶんないとは思うけど、念のため。ああいう連中は声で識別したがるから。ここなら大丈夫」

まだ彼女に近づく勇気がなかった。「……ここなら、大丈夫?」と間抜けに繰り返す。

「ええ。木を見て」それらはどれも手首より太いものがない、切り株から再生した小さなトネリコの林だった。「マイクを隠せるものは何一つないし、私も何度も来てるの」

それはただの会話だった。今では彼も少しは近寄れた。ジュリアは背筋を伸ばし、どこか皮肉な笑みを浮かべ、なぜウィンストンが行動を起こさないのか不思議そうだった。ブルーベルは地面に堆積して落ちていた。まるで自然とこぼれ落ちたように。彼は彼女の手を取った。

「信じられるか、君の目の色が今まで分からなかったんだ」。それはやや明るめの茶色で、黒いまつ毛があった。「本当の俺を見て、まだ直視していられる?」

「ええ、全然平気」。

「俺は三十九だ。捨てられない妻がいる。静脈瘤持ちだ。入れ歯も五本ある」

「知ったこっちゃないわ」とジュリアは言った。

次の瞬間、どちらの動きが早かったとも言い難かったが、彼女は彼の腕にいた。最初、ウィンストンはただ茫然としていた。若く柔らかい肉体が自分の身体と触れ合い、黒い髪が顔に感じられ、彼女は本当に顔を上げて自分からキスをしてきた。腕を首に回して愛しい、愛する人よ、とささやいた。地面に押し倒しても、全く抵抗しなかった。だが、実際の感覚は単なる接触に過ぎなかった。感じるのは不信と誇りだけ。こんなことが起きているのがうれしいが、欲望は湧かない。早すぎたのだ。若さと美しさが怖かったし、長年女なしの生活に慣れすぎている――理由は分からない。ジュリアは身を起こし、髪に付いたブルーベルを取った。彼女はウィンストンの腕に寄りかかる。

「気にしないで。まだ午後はたっぷりあるわ。ここ、いい隠れ家でしょ? 一度地域ハイキングで迷ったとき見つけたの。誰かが来たら百メートル前から分かるよ」

「君の名前は?」とウィンストン。

「ジュリア。あなたのは分かってる。ウィンストン――ウィンストン・スミス」

「どうやって調べた?」

「探し物は私の方が上手みたいね。あの日メモを渡す前、私のことどう思ってた?」

彼女になら嘘をつこうとは思わなかった。最悪から始めてみせるのも一種の贈り物だと感じられた。

「君の顔を見るのが嫌だった。レイプして殺してやりたいと思ったこともある。二週間前には頭を石でかち割ることも真剣に考えた。もし本当のことを知りたければ、思考警察と関係があるんじゃないかとまで想像したんだ」

ジュリアはそれを最高の変装への賛辞とでも受け止めたらしく、うれしそうに笑い出した。

「思考警察だなんて! 本気でそう思った?」

「いや、厳密には違うけど。若くて健康そうだから、きっと……」

「正真正銘の党員だと思ったんでしょう。行動も言葉も潔白。旗や行進やスローガンや集団ハイキング……その手の女だと。機会があれば私が君を思想犯罪者として告発して殺してやると?」

「まあ、そんな感じだ。若い女の多くはそうだから」

「このクソサッシュのせいよ」とジュリアはジュニア反セックス同盟の緋色の帯をはがし、枝に投げた。それからふと腰に手をやり、ツナギのポケットから小さなチョコレートを取り出した。半分に割り、片方をウィンストンに渡す。香りだけで、珍しいチョコレートだと分かった。暗く、艶があり、銀紙に包まれている。いつものチョコといえば、どんよりとした茶色で、味はゴミを燃やした煙そのものだった。だがウィンストンはどこかでこの味を知っている。香りで記憶が呼び戻されそうだが、はっきりと思い出せず、強く心を揺さぶった。

「これ、どこで手に入れた?」

「闇市場よ。実際、私は見た目通りの女よ。スポーツは得意だし、スパイ団の隊長だった。反セックス同盟でも週3回はビラ配りに行く。ロンドン中にヤツらの戯言を貼りまくっているの。旗行列でも端っこを持って元気そうにして、何事もサボらない。群衆と一緒に声を上げる――それが安全の秘訣よ」

チョコレートの最初のかけらが舌で溶けた。実に美味だった。しかし、意識の隅には、突き動かされるような未解決の記憶――何か消したい出来事の記憶がうごめいていた。

「君はとても若い。俺より十か十五は下だ。なぜ俺なんかが?」

「顔つきかな。賭けてみようと思ったの。規格外の人ってすぐ分かる。初めて見た瞬間、あの人たちの敵だって分かった」

「あの人たち」とは党のことで、特に内党の連中を指していた。ジュリアは彼らについて公然と嘲るような憎しみを隠さず語り、ウィンストンは落ち着かない気持ちになるものの、二人が安全な場所にいると感じていた。彼女について驚くのはその下品な言葉使いだった。党員は基本的に下品な言葉を使ってはいけないことになっており、ウィンストン自身も滅多に口にしない。だがジュリアにとって、党や特に内党について触れるとき、裏路地の壁にチョークで書かれたような単語が自然と口をついて出る。ウィンストンはそれを不快に感じはしなかった。それは反党心の一症状で、むしろ馬が悪い干し草の匂いでくしゃみをするような自然で健康的なものに思えた。二人は空き地を抜けて再び光と影のまだらな林間を歩き、道が広い所では互いの腰に腕を回した。サッシュをはずしたあとの彼女の腰が、より柔らかく感じられるのに気づいた。広場以外では声はひそめた方が安全だ、とジュリア。やがて林の端に着き、ジュリアは立ち止まった。

「開けた場所には出ない方がいい。誰かに見られたら困るから。枝のかげにいれば大丈夫」

二人はハシバミの茂みの日陰にいた。日差しは無数の葉を通して頬を熱くした。ウィンストンは遠くの野原を見ると、ゆっくりと衝撃的な既視感に襲われた。その景色を彼は見覚えがあった。足跡が伸びる古びた牧草地、所どころにモグラ塚、向こうの乱れた生垣の向こうではニレの枝がそよぎ、葉っぱは密集して女の髪のように揺れている。きっと見えないどこか近くに、緑色の水溜まりでウグイが泳いでいる小川が流れているに違いないと思えた。

「すぐ近くに川があるよね?」と彼はささやいた。

「そう。ちょうど隣の野原の端。大きな魚がいて、柳の木の下の淀みで尾をゆらしてるのが見えるんだよ」とジュリア。

「黄金郷だ――ほとんど」とウィンストンはつぶやいた。

「黄金郷?」

「いや、たいしたことじゃない。夢で何度か見た風景だよ」

「見て!」とジュリアがささやいた。

ツグミが五メートルも離れぬ枝にとまり、顔の高さほどにいた。おそらく二人に気づいていない。鳥は日なたに、二人は日陰。羽を伸ばし整え、しばらく首をかしげて太陽に礼でもしているかのようだった。それから滔々と歌い始める。午後の静けさのなか、驚くほどの音量だった。ウィンストンとジュリアは寄り添って、それに釘付けになった。ツグミの歌は何分も絶えることなく続く。バリエーションも豊かで、同じフレーズを繰り返さない。時折、数秒間休み、また羽ばたきを整えてさえずり始める。ウィンストンは言い表し難い敬意を込めてそれを見つめた。なぜ鳥は歌うのか――恋人もライバルも見ていないのに。ポツンとした林の端で、何に向けてこの音楽を放つのだろう。もしかしたらマイクがどこかに隠されているのではないか、とも思う。二人は小声だったから録音されないが、ツグミの声は拾われるだろう。その先では、虫のような小男が真剣にこのさえずりに耳を傾けているのかもしれない。だが次第にその音楽がすべての思惑を消し去った。それは液体のように自分全体に注ぎ、木漏れ日と混ざり合う。何も考えず、ただ感じる。腕の中の少女の腰は柔らかく暖かい。彼は体を引き寄せ、胸を重ね合った。彼女の身体はとろけるように自分に溶け込んだ。手がどこを触れても水のようにしなやかだ。唇はしがみついたまま離れず、先ほどの硬いキスとは全く違っていた。顔を離すと、二人とも深々と息をついた。ツグミはびっくりして羽ばたいて逃げた。

ウィンストンは唇をジュリアの耳に寄せ「今だ」とささやいた。

「ここじゃだめ。隠れ家に戻ろう、その方が安全よ」と彼女。

ふたりは小枝を踏みしめつつ素早く茂みへ戻った。若木の輪の中に再び入ると、ジュリアは振り返る。ふたりとも息を弾ませていたが、彼女の口元にはまた微笑みが浮かんだ。彼女は一瞬見つめてからツナギのジッパーに手をやる。そして……そう、ほとんど夢と同じだった。想像したとおりの速さで、彼女は衣服を引き裂き、放り投げるときには、まるでひとつの文明が粉砕されたような壮大な身振りだった。陽の下で身体は白く輝いていた。だがウィンストンはしばし身体には目もくれず、そばかすの浮かぶ顔に釘付けになった。その笑みは少しだけ大胆で、はにかんでいる。

彼は彼女の前に跪いて手を取った。「こういうこと、前にも?」

「もちろん、何百――まあ何十回もね」

「党員と?」

「ええ、いつも党員と」

「内党員とも?」

「そんなクズじゃない。でも機会があれば、ヤツらだってやるさ。あいつらも聖人ぶってるだけ」

ウィンストンの心は躍った。何十人としてきたらしい――百人、千人にしてほしかった。それだけ堕落の匂いがあれば希望が湧いた。党はどれだけ腐っているのか。ハンセン病でも梅毒でも広まるものなら、喜んで撒きたいくらい。とにかく腐敗し、弱体化し、蝕まれればいい。彼はジュリアを引き倒し、顔を見合わせた。

「聞いてくれ。抱かれた男が多いほど、君を愛する気持ちが強くなるんだ。わかるか?」

「ええ、ちゃんと分かってる」

「純潔なんて嫌いだ。善良さも嫌いだ。美徳なんてどこにも要らない。全員腐れ切っている方がいい」

「なら私、うってつけね。骨の髄まで腐ってるから」

「こういうことがしたいのか? 僕だけじゃない、行為そのものが?」

「大好きよ」

それが何より聞きたかった。誰か個人への愛でなく、動物的本能――未分化の単純な欲望。それが党を粉砕する力になるのだから。彼は彼女を押し倒し、落ちたブルーベルの中で結ばれた。今度は何の困難もなかった。やがて荒い呼吸が静まり、心地よい無力感の中で体を離した。日はより熱を増していた。二人は眠気に襲われ、放り出したツナギをジュリアに掛けてやった。すぐに二人とも眠り、30分ほどうたた寝した。

ウィンストンが先に目覚めた。手のひらを枕に無心で眠るそばかすだらけの顔を見守る。口元以外は、彼女は美人というほどでもない。目のまわりにはよく見れば小じわもある。短く濃い髪はやけに柔らかく厚かった。彼はまだ彼女の姓も住まいも知らないことに思い当たる。

今は無力に眠る若く力強い身体に、守りたいような哀れみが湧いた。しかし、さっきツグミの声を聞いたとき感じた盲目的な愛情は戻ってこない。彼はツナギをはがし、なめらかな肌を観察した。昔の男は、女の体を見て欲するだけだった、と彼は思う。だが今は純粋な愛も純粋な欲もない。すべては恐れや憎しみと混じる。彼らの抱擁さえも戦いであり、絶頂は勝利。党への一撃だった。政治的行為だったのだ。

第3章

「もう一度ここへは来れるわ」とジュリア。「隠れ家は普通、二度までなら安全。でも一月か二月は間をあけてね」

目覚めてすぐ、ジュリアの態度は現実的でビジネスライクになった。服を着て緋色のサッシュを腰に締め、帰路の細やかな打ち合わせを始めた。そうしたことは彼女に任せるのが自然だった。現実的な抜け目なさはウィンストンにはないもので、郊外の地理もとても詳しかった。今度の帰り道は行きと全く違い、到着する駅も別だ。「行きと帰りは決して同じ道を使わないこと。それが大原則」とジュリアは重要な知恵として諭した。彼女が先に立ち去り、ウィンストンは30分待ってから後に続く。

四日後の夕方、仕事の後に会える場所も指定された。そこは貧民街の市場で、普段から混雑し騒がしい。ジュリアは靴ひもか針糸でも物色するふりでウロウロしている。もし安全だと判断すれば彼女は鼻をかむ。でなければ知らん顔ですれ違うだけ。運がよければ群衆の中で15分ほど会話し、次の約束もできる。

「じゃあ、行かなきゃ」とウィンストンが指示を覚えたのを見てジュリア。「19時半までに戻って、反セックス同盟で二時間ビラ配りよ。ホント、つまらないわ。服の埃取ってくれる? 髪に枝がついてない? 大丈夫? じゃあ、愛してる、さよなら!」

彼女はウィンストンの腕に飛び込み、激しくキスし、次の瞬間若木の林の中に音もほとんど立てずに姿を消した。結局まだ名前も住所も聞けなかったが、それでも問題なかった。屋内で会うことも、手紙を交わすことも考えられなかったからだ。

結局、森の空き地には二度と戻らなかった。五月中にふたりが実際に愛し合えたのは、ジュリアが知っていた別の隠れ家――原爆で廃墟となった教会の鐘楼だけだった。到着すれば安全だったが、そこまで行くのが危険だった。残りはストリートでの出会いで、毎晩場所も違い、30分も一緒にいられなかった。街では、寄り添って歩くのではなく、並んで歩かず互いを見つめず、不意に警戒服の党員やテレスクリーンに気付き中断し、また突然途切れるという奇妙な断続会話――ジュリアはこれを「分割会話」と呼んで、器用に唇をほとんど動かさず喋れた。ひと月で一度だけ短いキスができた。裏通りを無言ですれ違っていた時、爆音とともに地面が揺れ、ウィンストンは倒れていた。近くにロケット爆弾が落ちたのだ。ジュリアの顔が数センチ先にあり、死人のように真っ白。だが抱き寄せると生きていて、キスした唇に石膏粉がついていた。ふたりの顔は白く覆われていた。

約束の場所ですれ違うだけで終わる夜も多く、パトロールやヘリのせいで会話も一切できない時もあった。そもそも時間のやりくりも至難だった。ウィンストンの週労働は60時間、ジュリアはそれ以上、休日も合わない。さらにジュリアはほとんど夜の自由がなかった。講義やデモ、反セックス同盟のビラ配りや憎悪週間用の旗作り、貯蓄運動の募金――それが「保身」のためになった。小さな規則を守れば大きな規則を破れるから。ウィンストンにも週1回、熱心な党員のための武器部品組み立てボランティアに参加させるほどだった。四時間、ねじ締めだけの退屈な作業場で、金槌とテレスクリーンの音だけが響く。

鐘楼で会えた時には、ようやく途切れた会話も埋まった。その日は真夏の炎天下で、小部屋は鳩の糞の臭いがこもり、暑くて空気も動かない。埃と小枝散らばる床に何時間も座り、時おり誰か来ていないか矢狭間から見張る。

ジュリアは二十六歳。三十人の女子とホステル共同生活(「女臭い所は大嫌い!」と彼女)で、予想通りフィクション部門で小説製作機の担当だった。仕事の主は強力で扱いの難しい電動モーターの管理。自分は「頭は良くない」と言いつつ、機械仕事が好きで湿気た手作業が得意だった。小説が企画委の指示からリライト班までどう仕上がるかは説明できるが、完成品には興味はなかった。「本を読むのが好きってほどじゃないし。ジャムや靴ひも作りと同じ、量産品よ」と言い切る。

革命前の記憶はなく、祖父がよく昔話をしてくれたが八歳で消えた。学生時代はホッケー主将、体操のトロフィーも二連覇。スパイ団隊長、青年同盟支部書記、ジュニア反セックス同盟の流れ。素行も優等生で、特別優秀な証しに一度ポルノセック配属もされたことがあった。ここはプロール向けの低俗ポルノ書籍を量産するフィクション部門の下部組織で、別名「クズ小屋」だったという。ここで封筒入の「体罰ストーリー」「ある夜の女子校」などを作り、未成年の労働者が違法と思い込んでこっそり買っていった。

「どんな内容?」とウィンストン。

「あんなの最低。退屈よ。たった六つの筋書きのローテーション。私は映像係だけ、リライト班には行かなかった。文才は無理、ね」

驚いたのは、ポルノセックは部長以外全員女子だったこと。男性の方が性欲制御が難しく、扱うと堕落しやすいという理屈だった。

「既婚女性も嫌がられるわ。女ってだけで潔白扱い。でも私はそうじゃないの」

十六歳初の相手は六十男の党員で、その後逮捕を避け自殺。「その方がましよ。もし自白されたら私もバレていた」。以降も相手はいた。人生は簡単、「愉しみたくて、ヤツら(党)がそれを邪魔するから、うまく抜け道を探すだけ」。党は口汚く罵るが、党理は興味はない。ニュースピーク語も日常会話以外は使わず、地下組織(兄弟団)は信じていない。計画的反乱も無意味、頭のいいやり方はルール違反しつつ生き残ること。彼女のような若者がほかにどれくらいいるのか、ウィンストンはぼんやり考えた。革命後の世界しか知らず、党を空のような絶対として受け入れ、反抗より回避に走る世代だ。

結婚の話はなかった。現実味がない。どんな委員会も許可しないし、実際キャサリンをどうにかできても希望はない。

「あなたの奥さん、どんなだった?」とジュリア。

「……ニュースピークでGOODTHINKFULって知ってる? 自然に正統、悪いことが考えられないって意味だ」

「言葉は知らないけど、タイプなら分かる」

彼は淡々と結婚生活を語ったが、ジュリアはほとんど既に知っているかのように、キャサリンがどんなに身体をこわばらせていたか、抱き締めても抵抗する感じがあったことまで言い当てる。ジュリアにはこういう話も自然にできた。キャサリンはもはや傷でなく、ただ不快な記憶だった。

「ひとつだけ耐えられなかったことがある。同じ週の夜に必ず行わされた儀式だ。キャサリンは嫌がってたのに絶対やめなかった。あいつの言葉、当ててみて――」

「『党への義務』でしょ?」とジュリアは即答。

「なぜ分かる?」

「学校でもやるもん、月一回の性教育。青年運動でも。何年も刷り込まれる。でも効果があるのも少数よ。人は偽善者だから」

ジュリアはそこから話を広げた。彼女は自分のセクシュアリティに関しては鋭かった。党の性的禁欲主義の真の狙いも、ウィンストンより理解していた。セックスは党の制御外の世界を生むから、それを壊そうとする。そして何より性的抑圧はヒステリーを生み、戦争熱や指導者崇拝に振り向けやすい。

「セックスすればエネルギーを使うでしょ? そのあと幸せになって何もかもどうでも良くなるんだよ。ヤツらはそれが許せないの。常時エネルギー満タンでいてほしいわけ。マーチ行進も旗振りも、みんな抑圧された性欲のはけ口よ。心から満たされてたら、ビッグ・ブラザーとか三カ年計画とか、二分間憎悪なんかに力を入れる? あんなの全部くだらない」

それは的を射ている、とウィンストンは思う。純潔と政治的正統とは直結している。党員が欲する憎しみや恐怖、盲目的信仰を維持するには、強い本能を抑圧しその力を転用するしかない。家族本能も同じ形で利用された。家族制度は廃止されず、子供好きどころか、昔風に親愛を勧められる。だが子は親を密告者として育てられ、家族自体が思考警察の手足となった。身近な監視者に囲まれる仕組みとなったのだ。

ふいに彼の思考はキャサリンに戻る。彼女がもう少し賢ければ、間違いなく思考警察にウィンストンを通報していただろう。だが今急に思い出したのは、夏のうだるような暑さ――額に汗がにじむあの日のことだった。彼は十一年前の、別の夏の日の事件を語り始めた。

結婚して三、四ヶ月後、二人は集団ハイキングでケントの道に迷う。ほんの数分集団から遅れただけで道を誤り、やがて古い白亜の採石場の崖に出る。そこは10メートルか20メートルの断崖で、下にはごつごつの岩。人影もない。キャサリンは群から離れること自体に不安を覚え、急いで戻ろうと焦る。その時、ウィンストンは崖下の割れ目に咲く色違いのルーストライフ(花)に気付き、「キャサリン、下の色違いの花、見てごらん」と呼びかける。

彼女は嫌々戻り、身を乗り出して花を見ようとした。ウィンストンが後ろから腰に手を当て支えた瞬間、突然、全く二人きりだと気づく。マイクの心配もいらず、周りは静寂、うだる午後、太陽、汗。そうしてふと思った……

「突き落とせばよかったのに」とジュリア。

「そうだね。今の自分ならやっていたかも。本当にそうだったかはわからないけど」

「やらなかったこと、後悔してる?」

「後悔している」

二人は床に並んで座っていた。ウィンストンは彼女を引き寄せ、ジュリアは髪の匂いを漂わせて肩を預ける。彼女はとても若く、まだ人生に期待している。だが、嫌な人間を谷から突き落としても何も変わらないことは知らない。

「実際、何も変わらなかっただろう」

「それならなぜ後悔するの?」

「消極的より積極的の方がいい。このゲームじゃ勝ち目は最初からない。いろいろな失敗の中でも、ましなものがあるってだけだ」

彼女の肩が同意せずくねる。悲観論を語ると、いつもジュリアは反論した。個人は必ず負けるという現実を法則として認めたがらないのだ。自分が遅かれ早かれ思考警察に殺される運命だと、理屈では分かっていても、別の意識では、運と機転と大胆さ次第で好きなように生きていけると信じていた。真の勝利は遥か未来、自分が死んだ後にある。党に戦いを挑んだ瞬間から自分は死体だと考えた方がいい、と彼は思う。

「俺たちは死人だ」とウィンストン。

「まだ生きてるよ」とジュリアはあっけらかんと。

「肉体的には、な。半年、一年――うまくいけば五年。俺は死ぬのが怖い。君はもっと若いから、俺以上に怖いだろう。だから生き延びようとする。でも人間が人間である限り、生と死は同じことだ」

「馬鹿ね! どっちがいい? 私と寝るのと骸骨と? 生きてる実感こそ大事じゃないの? これが自分、これが手、これが脚、私は実在し生きてる! これ、好きじゃないの?」

彼女は身をひねり、胸をウィンストンに押し付けた。ツナギ越しにも、熟しつつも張りのある胸の感触が伝わる。その身体は若さと力を分け与えてくれるようだった。

「もちろん、好きだ」とウィンストンは言った。

「だったら死ぬ話はやめて。それでね、次に会う時のことについて決めておかないといけないわ。あの森の場所に戻りましょう。しばらく間を空けたし。でも今度は別の道を通って来ないといけないの。ちゃんと考えてあるのよ。電車で行くの――ほら、説明するからちょっと描くわ。」

ジュリアは実践的なやり方で、ほこりを小さな四角に集め、鳩の巣から拾った小枝で床に地図を描き始めた。

第四章

ウィンストンはチャリントン氏の店の上にあるみすぼらしい小部屋を見回した。窓際には巨大なベッドが粗末な毛布とカバーのない枕で整えられていた。十二時間式の文字盤を持つ古風な時計が、マントルピースの上で時を刻んでいる。隅の折り畳みテーブルの上には、前回の訪問で買ったガラスの文鎮が、薄暗がりの中でやわらかく輝いていた。

暖炉の前には、ぼこぼこになったブリキの灯油ストーブ、鍋、そしてチャリントン氏が用意したカップが二つあった。ウィンストンはバーナーに火をつけ、水を満たした鍋を沸かし始めた。彼はビクトリー・コーヒーとサッカリン錠の入った封筒を持参していた。時計の針は十七時二十分を指しているが、本当は十九時二十分だ。彼女が来るのは十九時三十分。

愚かだ、愚かだ、と彼の心は何度も訴えていた。意図的で、無意味で、自殺的な愚行だ。党員が犯しうる犯罪の中で、これは最も隠し通すことが不可能なものであった。実のところ、この考えが彼の心に浮かんできたのは、ガラスの文鎮が折り畳みテーブルに映る幻のようなイメージとしてだった。予想通り、チャリントン氏は部屋を貸すことに何の抵抗も示さなかった。彼はそれで得られるわずかなドルを嬉しそうにしているようだった。しかも、ウィンストンがこの部屋を情事のために使いたいということが明らかになっても、特に驚く様子もなく、いやらしげに知ったかぶりすることもなかった。むしろ、宙を見ながら、一般論を口にし、まるで自身が半ば透明人間になったかのような控えめな態度を見せていた。プライバシーはとても大切なものだ、誰しも時には一人になれる場所が欲しいものだ、知ってしまったら他言しないのが礼儀だと彼は語った。彼は姿を消しかけながら、家には出入り口が二つあり、その一つは裏庭を抜けて路地に出る方があるとも付け加えた。

窓の下では誰かが歌っていた。ウィンストンは、モスリンのカーテンに守られてそっと外を覗いた。六月の太陽はまだ高く、陽の光に満ちた中庭には、ノルマンの柱のようにがっしりとした体格の巨大な女が、真っ赤な腕を剥き出し、胴回りに麻袋のエプロンを締めて、洗濯桶と物干し綱の間を行き来し、四角い白い布――ウィンストンが赤ん坊のおむつだと見抜いたもの――を干していた。口に洗濯ばさみがない時は、力強いコントラルトで歌っていた。

  それはただの絶望的な夢。
  四月の染料のように過ぎ去ったけれど、
  視線と一言、そして蘇る夢! 
  私の心を盗まれてしまった! 

この曲はここ数週間ロンドンの街を悩ませていた。プロールのために音楽部の下部組織が出版した無数のこういった歌の一つだった。歌詞は一切人の手によらず、ヴァーシフィケーター[自動詩生成装置]と呼ばれる装置によって作られている。しかし彼女はあまりにも調子よく歌うので、このどうしようもないゴミのような歌も、ほとんど心地よい音楽に思えるほどだった。外からは、彼女の歌声や床石をこする靴音、通りの子供たちの叫び声、そして遠く微かに交通の轟音まで聞こえてきたのに、部屋にはテレビ画面のないおかげで、不思議なほど静けさが漂っていた。

愚かだ、愚かだ、愚かだ! と彼は再び思った。こんな場所に数週間以上も通い続けて捕まらないなど考えられない。しかし本当に自分たちだけの隠れ家、それも屋内で、しかもすぐ近くにある誘惑は、二人にとって大きすぎたのだ。教会の鐘楼を訪れて以来しばらくは、会うことも完全に不可能になっていた。ヘイト・ウィークに備えて労働時間が大幅に延ばされていたからだ。それはまだ一ヶ月以上も先のことだが、そのための計り知れないほど大規模で複雑な準備作業が、皆に余計な仕事を負わせていた。ようやく二人は同じ日に午後の休みを確保できた。森の中の空地に戻ることで合意していた。前夜、街中で短く会ったが、いつものようにウィンストンは群衆の中でジュリアにほとんど目もくれなかった。ただひと目見た時、彼女はいつもより青ざめているように思えた。

「だめになったわ」と、話せると判断した瞬間、彼女は低くささやいた。「明日、つまり。」

「え?」

「明日の午後。行けそうにないの。」

「なぜ?」

「いつもの理由よ。今回は少し早かったの。」

一瞬、彼は激しく怒りを覚えた。彼女と知り合ってからの一ヶ月で、彼女への欲望の性質は変わっていた。最初は本当の官能などほとんどなかった。初めての情事は意志の力によるものだった。しかし二度目からは違っていた。彼女の髪の匂い、口の味、皮膚の感触が彼の中、あるいは彼の周りの空気までも満たしていた。彼女は物理的に必要な存在となり、欲しいだけでなく、むしろ得て当然の権利であるかのように感じられた。彼女が来られないというと、まるで彼女に騙された気がした。しかしちょうどその時、群衆が二人を押し合わせ、手が偶然触れ合った。彼女は指先を軽く握り返し、それは欲望よりも愛情を伝えるものだった。女と共に暮らせば、この種の失望がごく普通に何度も訪れるものなのだろう、と思いがけず深い優しさが彼を包んだ。彼は、十年以上連れ添った夫婦になれたらいいのにと思った。今のように恐れることなく堂々と街を歩き、些細なことを話しながら家庭のための細々したものを買えたら、と強く願った。何よりも、二人きりで自由に過ごせる場所で、毎回愛し合わなければという義務を感じずにいられたら、と願った。実際、その時ではなく翌日になってから、チャリントン氏の部屋を借りるという考えが浮かんだ。彼がジュリアにそれを提案した時、彼女は意外なほどあっさりと同意した。二人とも、それが狂気の沙汰だと分かっていた。まるで自分たちから進んで墓穴に近づいていくようなものだった。ベッドの端で待ちながら、彼は再び「愛情省」の地下牢を思い浮かべた。あの運命づけられた恐怖が、意識に出たり引っ込んだりする不思議な感覚だった。未来のどこかに、死の前に必ず待ち受けるものとして潜んでいる。避けることはできないが、少しでも先延ばしにすることはできるかもしれない。それなのに時々、自分で意図的に、その瞬間を早める選択をしてしまうのだ。

その時、階段で急ぎ足の音がした。ジュリアが部屋に飛び込んできた。彼女は時々愛情省で見かけるような、粗末な茶色のキャンバス地の道具袋を持っていた。ウィンストンは彼女を抱きしめようとしたが、彼女は道具袋を持ったまま、どこか慌ただしく身をかわした。

「ちょっと待って。持ってきたものを見せてあげる。あのひどいビクトリー・コーヒーを持ってきた? やっぱりね。捨てちゃっていいわ。使わないから。ほら、これ見て!」

彼女はひざまずき、袋を開けて、上部に詰まっていたスパナやドライバーを放り出した。その下からは、きちんと包まれた紙袋がいくつも出てきた。最初に彼女がウィンストンに渡した包みは、奇妙でどこか懐かしい手触りだった。中身は、指で押すと沈む重い砂状のものだった。

「砂糖じゃないのか?」

「本物の砂糖よ。サッカリンじゃなくて。ほら、白パンも――ちゃんとした白パンよ、あんなまずいのとは違う――それとジャムも少し。ミルクの缶も――でもね、これが自慢なの。麻袋で包まなきゃならなかったんだけど――」

だが、なぜ包んだか説明する必要はなかった。その香りがすでに部屋に広がっている。ウィンストンの幼少期から漂ってきたような、濃くて熱い匂いだったが、たまに今でも、通路でドアが閉まる前に漂ったり、混雑した通りで一瞬だけかぎ取れることもあった。

「コーヒーだ……本物のコーヒーだ。」

「インナー・パーティー用のコーヒーよ。一キロもあるのよ。」

「こんなもの、どうやって手に入れたんだ?」

「全部インナー・パーティーの品よ。あいつらは何だって持ってるの。給仕や使用人たちがくすねたりするのよ――ほら、お茶も少し手に入れたの。」

ウィンストンも彼女の隣にかがみこんだ。包みの角を破った。

「本物のお茶だ。ブラックベリーの葉じゃない。」

「最近お茶が多く出回ってるの。インドかどこかを占領したとか、そんな話だったわ。」彼女は曖昧に言った。「でも聞いて、あなた。三分間だけ私に背を向けて。ベッドの反対側に座って。窓の近くに寄りすぎないで。私がいいって言うまで、絶対に振り向かないでね。」

ウィンストンはぼんやりとモスリンのカーテン越しに外を見ていた。中庭では赤い腕の女が、まだ洗濯桶と物干しの間を行ったり来たりしていた。彼女は口から洗濯バサミを二つ出し、感情を込めて歌った。

  時が全てを癒すと言われるけど、
  忘れられると言われるけど;
  年々の微笑みや涙は
  まだ私の心を締め付ける! 

その女は、意味のないその歌を丸ごと暗記しているらしかった。声は甘い夏の空気に乗って上がってきて、独特の幸福な哀愁に満ちていた。六月の夕暮れが果てしなく続き、洗濯物が尽きることがなければ、彼女は千年でもあそこにいて、おむつを干し、歌い続けることに満足しているだろうと思えた。彼にとって奇妙なのは、党員が一人きりで自発的に歌うのを聞いた事がなかったことだった。それはまるで一人ごとを言うような、少し異端で危険な変人じみて思われただろう。人は飢えに近づいたときに初めて歌いたくなるのかもしれない。

「もう振り向いていいわよ」とジュリアが言った。

彼は振り向き、一瞬、彼女だと気づかないほどだった。実は彼が期待していたのは裸の彼女だった。しかし彼女は裸ではなかった。それよりずっと驚くべき変身を遂げていた。ジュリアは化粧をしていた。

おそらくプロール地区のどこかの店にこっそり入り、化粧道具一式を手に入れたのだろう。唇は濃く赤く染められ、頬には紅が差され、鼻にはおしろいが塗られ、目の下にも何かつけて輝きを増していた。化粧の腕前は大したものではなかったが、ウィンストンの基準は高くない。党員の女が化粧しているのを見たことも、想像したこともなかった。その印象の変化は衝撃的だった。色彩をいくつか正しい位置に置くだけで、彼女は見違えるほど美しく、何よりも女らしくなっていた。短い髪と少年のような作業服が、かえってその効果を強調していた。彼が彼女を腕に抱いた時、合成スミレの香りが鼻を満たした。彼は地下室の台所と、大きく開けた女の口を思い出した。それは以前に使われていたのと同じ香料だったが、その時はもうどうでもよかった。

「香水まで!」とウィンストンが言った。

「そうよ、香水も。それでね、今度は何をするか分かる? どこかで本物の女物のドレスを手に入れて、この嫌なズボンの代わりに着るつもりよ。シルクのストッキングも履いて、ハイヒールも! この部屋では私は女、党の同志じゃないの。」

二人は服を脱ぎ捨て、大きなマホガニーのベッドにもぐり込んだ。ウィンストンが彼女の前で全裸になったのは初めてだった。これまでは、自分の青白く貧相な体、ふくらはぎに浮き出た静脈や足首の変色した部分を恥ずかしく思いすぎていた。シーツはなかったが、寝ている毛布は薄く滑らかで、ベッドの大きさとばねの効き具合に二人とも驚いた。「どうせ虫だらけでしょうけど、どうでもいいわ」とジュリアは言った。このごろはダブルベッドを見ることもほとんどなく、それもプロールの家だけだった。ウィンストンは子供時代に何度か寝たことがあったが、ジュリアは覚えている限り初めてだった。

やがて二人はしばらく眠り込んだ。ウィンストンが目を覚ますと、時計の針は九時近くまで進んでいた。彼は動かなかった。ジュリアは彼の腕の内側で頭を乗せて眠っていた。メイクの大半は彼の顔か枕に移っていたが、頬骨を際立たせる紅のあとがまだわずかに残っていた。沈みゆく太陽の黄色い光がベッドの端へ射し、暖炉を照らしていた。鍋の中の水は激しく沸騰していた。中庭の女性は歌うのをやめていたが、通りからは子供のかすかな叫びが聞こえてきた。廃止された過去の時代には、こうして冷ややかな夏の夕暮れ、裸の男女が好みの時に愛し合い、好きなことを話し、起き上がる義務も感じずに、ただこうして穏やかな外の音を聞きながらベッドに横たわる、そんな経験が普通だったのだろうか、と彼はぼんやり考えた。そんな時代が本当にありふれていただろうか。ジュリアは目を覚まし、目をこすりながら、ひじをついて石油ストーブの方を見た。

「水が半分以上蒸発しちゃった。そろそろコーヒーいれよっかな。あと一時間あるわ。あなたのアパートは何時に消灯?」

「二十三時三十分だ。」

「ホステルは二十三時。でももっと早く戻らないと、だって――ちょっと! 出て行け、この汚い奴め!」

突然ベッドの上で身を翻し、床から靴をつかんで思い切り隅に投げつけた。それは、あの朝ゴールドスタインに辞書を投げつけた時のような、少年っぽい腕の振りだった。

「何?」と彼は驚いて尋ねた。

「ネズミよ。腰板から鼻面を突き出してたわ。あそこに穴があったの。まあ、いいお仕置きになったはずよ。」

「ネズミか……この部屋に!」

「どこにでもいるのよ」とジュリアは無関心に言い、また寝転んだ。「ホステルの台所にも出るくらいよ。ロンドンの一部はネズミだらけ。ね、子供に襲いかかるって知ってた? 本当にあるのよ。赤ちゃんを二分間でも一人にできない通りもあるくらい。特に大きな茶色いやつがやるんだから。嫌なのはね、奴らって必ず――」

「やめてくれ!」とウィンストンは目を固く閉じながら叫んだ。

「あなた、大丈夫? 顔が真っ青よ。ネズミが嫌いなの?」

「この世の恐怖のうち……ネズミったら!」

彼女は体を密着させ、四肢で彼を包んだ。温もりで彼を安心させるようだった。ウィンストンはすぐに目を開けなかった。何度となく繰り返し見た悪夢の中に戻ったような気がした。それはいつも同じような夢だった。彼は暗闇の壁の前に立っていて、その向こう側には耐えがたいもの、直視できない何かがあった。夢の中で彼が感じるのは、己を欺いているという感覚だった。というのも、本当はその暗闇の向こうに何があるのか知っていたからだ。死ぬ思いで頭の一部を引き裂くように努力すれば、その正体を引きずりだすことはできたろう。しかし夢から目覚めるたび、正体は分からずじまいだった。ただ、ジュリアがさっき話しかけようとした内容と関係があった。

「ごめん、たいしたことない。ただネズミが嫌いなだけさ。」

「大丈夫よ、ここにはあんな汚い奴いれさせない。出かけるときにも、あの穴を麻布で塞いでおくわ。次に来た時は石膏を持ってきて、ちゃんと埋めるから。」

あの瞬間の黒い恐怖は、すでに半分忘れかけていた。少し恥ずかしく思いながら、彼はベッドの頭側に座りなおした。ジュリアはベッドから起き上がり、作業服に着替えてコーヒーを入れ始めた。鍋から立ち上る香りはとても強烈で興奮するものだったので、外に匂いが漏れて人に気づかれては困ると、窓を閉めた。コーヒーの味そのものよりも、砂糖が加わったことで生まれるあのなめらかな舌触りがなお良かった。ウィンストンは長年サッカリンで過ごし、それをすっかり忘れていた。ジュリアは片手をポケットに、もう片方でパンとジャムをかじりながら、部屋の中をうろうろし、本棚を無頓着に眺めたり、折畳みテーブルの修理法を教えたり、ぼろっちい肘掛け椅子にどっかと座って座り心地を確かめたり、奇妙な十二時間時計を苦笑いしながら眺めたりしていた。ガラスの文鎮をベッドに持ち込んで、光の下でじっと眺めたりもした。彼はそれを手に取り、溜め息混じりに水のようなガラスの質感に見入った。

「これ、何だと思う?」とジュリアが言った。

「特に何って訳じゃない、つまり使い道もなかったと思う。だからこそ気に入ってる。過去の一切を書き換え損ねた小さな歴史のかけらだ。もし読み解けさえすれば百年前からの伝言だよ。」

「あそこの絵」――彼女は壁の反対側にある版画を顎で示した――「あれも百年前のもの?」

「もっと古いかも。二百年、かもしれない。誰にも分からない。今では物の年代は全く分からないから。」

彼女は近寄ってそれを眺めた。「さっきのネズミはここから顔を出したのね」と、版画のすぐ下の腰板を蹴ってみせた。「この建物って何? どこかで見た覚えがある。」

「教会だったさ。昔は。セント・クレメント・ダンズって言うんだ」。チャリントン氏から教わった詩のかけらが頭に浮かび、彼は懐かしげに続けた。「“オレンジとレモン、セント・クレメントの鐘が鳴る! ”」

驚いたことに、ジュリアも受けて即座に応じた。

“スリー・ファージング支払えとマーティンズの鐘
いつ払うの? とオールド・ベイリーの鐘――”

「後は思い出せないけど、一番最後は“ベッドに灯を、頭に斧”って終わりよね。」

まるで合言葉の片割れのようだった。しかし「オールド・ベイリーの鐘」の後にもう一行あったはずだ。チャリントン氏にうまく聞き出せば、きっと思い出してくれるかもしれない。

「誰から教わったんだ?」

「祖父よ。私が小さい時に言ってくれた。彼は私が八歳のとき蒸発されたわ――少なくとも行方不明になってしまった。レモンって何かしら? オレンジは見たことある。分厚い皮の黄色い丸い果物よね。」

「レモンは覚えてる」とウィンストン。「五十年代はよくあった。あまりに酸っぱくて、匂いをかぐだけで歯が痛くなったものさ。」

「あの絵の裏にもきっと虫がいるだろうな」とジュリア。「今度きれいに掃除してあげる。そろそろ出ないと。化粧を落とさなきゃ。面倒だな。あとであなたの顔からも口紅拭き取るわ。」

ウィンストンはしばらくその場に横になっていた。部屋はだんだん暗くなってきた。彼は光の方に体を向け、ガラスの文鎮を見つめた。尽きることなく興味深いのは、サンゴ片ではなく、ガラスの内部だった。それほどの奥行きがあるのに、ほとんど空気のように透明だった。表面のガラスが天空のアーチになり、独自の大気圏を持つ小さな世界を包み込んでいるようだった。彼は自分がその中に入っていける、いや、実際に入っているように感じていた。マホガニーのベッドや折畳みテーブル、時計やスチール版画、文鎮そのものと一緒に。その文鎮が、今まさに自分がいるこの部屋であり、サンゴがジュリアと自分の人生で、水晶の中心で永遠に凍結されているような気がした。

第五章

サイムが消えた。ある朝、彼は職場からいなくなっていた。うかつな人間が何人か、その不在について口にした。翌日には誰も話題にせず、三日目、ウィンストンは記録局のロビーにある掲示板を見に行った。ある告知にはチェス委員会のメンバー一覧が印刷されていた。サイムもその一人だった。それは以前と全く同じに見えた――消したあともなく――ただ一人分だけ短くなっていた。それで十分だった。サイムは存在をやめた。かつて存在したことすらないことになった。

天気は焼けつくように暑かった。入り組んだ省のなかで、窓のない空調室は平常通りの温度だったが、外の舗道は足の裏を焼き、ラッシュ時の地下鉄の臭気は恐ろしいものだった。ヘイト・ウィークの準備は最高潮に達しており、全省庁で残業が続いていた。行進、集会、軍事パレード、講演、蝋人形展示、展示、映画上映、テレビ画面番組――全てが組織されなければならず、掲揚台を立て、人形を作り、スローガンを考案し、歌を書き、噂を流し、写真を偽造した。ジュリアの所属するフィクション部門は小説の制作を中止し、一連の残虐行為パンフレットを突貫で仕上げていた。ウィンストンは通常業務に加え、『タイムズ』の過去のファイルを一日中何時間もあさり返し、演説で引用されるニュースの修正や脚色に追われていた。夜遅く、騒々しいプロールの群れが街をうろつくころ、街には奇妙な熱病のような空気があった。ロケット爆弾は今までになく頻発し、時に遠くで原因不明の大爆発があって、野次馬の間で噂が飛び交った。

ヘイト・ウィークのテーマ曲となる新しい旋律(ヘイト・ソング)はすでに作曲され、テレビ画面で繰り返し流されていた。荒々しい、吠えるようなリズムで、正確には音楽とは言えず、太鼓の連打のようだった。数百の声で怒号とともに行進の足音にのせて叫ばれると恐ろしい響きとなった。プロールはこれを気に入り、真夜中の通りでは今だに人気の「ただの絶望的な夢」と競い合っていた。パーソンズ家の子供たちは、夜昼構わずくしとトイレットペーパー片でこれを演奏し、耐えがたいほどだった。ウィンストンの夜はこれまで以上に忙しかった。パーソンズが組織したボランティア班は、ヘイト・ウィークのための通りの飾り付けに従事し、旗を縫い、ポスターを描き、屋上に旗竿を立て、きわどい体勢で通りにワイヤーを渡し、横断幕を飾る準備をした。パーソンズはヴィクトリー・マンションだけで四百メートルの旗飾りが飾られると自慢していた。まさに水を得た魚のようで、ごきげんだった。暑さと肉体労働のせいで、夕方になると短パンと開襟シャツの軽装に戻る口実まで得ていた。彼はどこにでも同時に存在し、持ち運び、引っぱり、のこぎりを引き、金槌を打ち、即席で手当たりしだい指示を飛ばし、全身からとめどなくしみ出るむせるような汗とともに、同志的な激励の声を惜しみなく発していた。

新しいポスターがロンドン中に出回った。字句はなく、三、四メートルの巨大なユーラシア兵士が無表情のモンゴロイドの顔と巨大なブーツ、腰からサブマシンガンを突き出して前進するという単純な図柄だった。どの角度から見ても、短縮遠近法で肥大した銃口がまっすぐこちらを狙っているように見えた。そのポスターは、壁の空白という空白に貼り付けられ、ビッグ・ブラザーの肖像すらしのぐ勢いだった。プロールはふだん戦争に無関心だが、今回は定期的な愛国熱の嵐に駆り立てられていた。街の空気に呼応するように、ロケット爆弾による死者はいつにも増していた。スタプニーの満員映画館に一発が落ち、数百名が瓦礫の下敷きとなった。近隣住民全員が何時間にもわたる長い葬列――実質上、憤激をぶつける集会――に加わった。別の爆弾は空き地の遊び場で炸裂し、数十人の子供が木っ端みじんになった。抗議活動はさらに続き、ゴールドスタインは人形を燃やされ、その炎にユーラシア兵のポスターも数百枚投げ込まれ、店の略奪も起きた。やがて、ロケット爆弾をスパイが無線誘導しているという噂が流れ、外国人と疑われた老夫婦の家に火がつけられ、窒息死した。

チャリントン氏の店の上の部屋では、二人が行ける時に、ジュリアとウィンストンは裸で、涼を求めて窓を開け放ったベッドに横になっていた。あのネズミはその後一度も現れなかったが、暑さのせいで虫が増殖していた。しかしどうでもよかった。汚くてもきれいでも、この部屋は楽園だった。着くとすぐ、闇市で手に入れた胡椒を撒き、服を脱ぎ捨て、汗だくになって愛し合い、そのまま眠り、目覚めれば虫たちの逆襲が始まっている、という繰り返しだった。

六月の間に四度、五度、六度――七度と会えた。ウィンストンは昼夜を問わずジンを飲む習慣をやめていた。必要性がなくなったのだ。彼は太り、静脈瘤はしぼみ、足首に茶色いシミが残るだけとなり、早朝の咳き込みも止まった。生きることが耐え難いものではなくなり、もはやテレビ画面に向かって顔をしかめたり、罵声をあげたい衝動に駆られることもなかった。今となっては、二人がそう頻繁に、しかも短時間しか会えないことすら辛く感じなかった。大事なのは、あのジャンク屋の上の部屋が存在すること。その部屋がそこにあり、だれにも侵されていないことを知っているだけで、実際にいるのとほとんど同じ気がした。その部屋は世界であり、絶滅した動物たちが歩き回れる過去のポケットだった。チャリントン氏も絶滅種のひとつだ、とウィンストンは思った。彼はたいてい、階段を上がる途中にチャリントン氏と少し話した。老人はほとんど外に出ることがなく、そのくせ客もめったに来ないゴーストのような生活をしていた。薄暗い小さな店と、食事を作るためのさらに小さな裏の台所――そこには信じられないほど古いラッパ型蓄音機もあった――の間で、漂うように暮らしていた。彼は話し相手ができてうれしいようだった。無価値ながら、コレクターめいた雰囲気で古道具をいじる姿や、長い鼻と分厚い眼鏡、ビロードの上着で猫背になった背中には、どこか商人というより収集家のたたずまいがあった。くたびれた音楽箱のように、昔の歌の断片を忘れかけの記憶から引っぱり出してきては、「もしかしてご興味あるかと思って」と遠慮がちに微笑んで歌い出すのだった。ただし丸ごと憶えている詩はひとつもなく、せいぜい二、三行で止まってしまった。

二人とも――ある意味、それは常に頭から離れなかった――今の状況が長く続かないことを分かっていた。死が刻々と迫っている事実が、ベッドの感触ほどにはっきりと現実味を持つこともあった。そんな時は、時を告げる鐘が五分前を指しているのに、最後の快楽にしがみつく罪人のように、絶望的な官能で互いにしがみついた。しかし、実際にこの部屋にいる間だけは、安全どころか恒久の安心感に満たされる錯覚に陥ることもあった。行くまでは困難で危険でも、たどり着くだけで部屋自体が聖域のようだった。まるでウィンストンがガラスの文鎮の中心をのぞき込み、自分もそのガラス世界の中に入ってしまえば時が止まる、と感じた時のように。二人はしばしば、逃亡の日々を夢想した。運がこのままずっと続いて、一生このまま関係を続けられるのではないか。あるいはキャサリンが死に、巧みな工作でうまく結婚できるのか。二人で心中するのか。どこかで姿を消し、誰にも気づかれないようプロールなまりを身につけ、工場に就職して裏通りで暮らし続けるのか。どれも現実的にはナンセンスで、二人ともそれを分かっていた。実際に実行できるのは自殺くらいだが、そのつもりもなかった。日々を、週々を、未来なき現在を引き延ばしていくこと、それが本能だった。鳥の体を通り抜けるトウモロコシの粒のように、彼らはただこの現在を生き延びていた。

時には、実際に党に反抗することを話し合うこともあったが、一歩目をどう踏み出せばいいかは見当もつかなかった。もし伝説の兄弟団が本当に存在するのだとしても、そこにどうやって入るかが問題だった。ウィンストンは、オブライエンとの間にある奇妙な親密さ、また、オブライエンの前に歩み出て「私は党の敵です、助けてください」と言いたい衝動があることを語った。これはジュリアにとっても、無謀なことではないように感じられた。彼女は人相で人を判断するのが癖で、ウィンストンが目つき一つでオブライエンを信頼するのも普通に思えた。さらに彼女は、誰も――少なくともほとんどの人が――党を心の底では憎み、チャンスさえあれば規則を破るに決まっていると考えていた。しかし広範で組織的な反対勢力が存在するとか、できるとは思っていなかった。ゴールドスタインやその地下軍団についての話は、党が都合のため創作したくだらない話で、信じているふりだけしておけばいいと片づけていた。これまで何度も、彼女はパーティーの集会や自発的なデモで、名前も知らず罪状も信じもしない人間の死刑を叫び、公開裁判では青年同盟の一団として朝から晩まで裁判所の前で「裏切り者に死を!」と絶叫していた。二分間憎悪でも誰より激しくゴールドスタインをののしったが、彼が何者で、どんな理論を持つ人間だったかについてはほとんど知らなかった。彼女が成長したのは革命後であり、五十年代や六十年代の思想闘争の記憶もない。独立した政治運動など想像もつかないし、そもそも党は無敵で絶対に滅びることなど考えられないものだった。反逆できるのは隠れた違反や、ごくまれな暴力行為(誰かを殺したり爆弾を仕掛けたり)だけだった。

ある意味で彼女はウィンストンよりずっと敏感で、政党プロパガンダに影響されにくかった。ウィンストンがユーラシアとの戦争について何か口にすると、「私、戦争なんて起きてないと思うわよ」と彼女がさりげなく言って彼を驚かせたこともあった。ロンドンに降るロケット爆弾は、おそらくオセアニア政府自らが「人々を脅すためだけに」撃っているんだ、と。ウィンストンにはそんな発想はなかった。彼女はまた、二分間憎悪で爆笑しそうになって困る、と話してウィンストンを羨ましがらせた。ただ党の教義に疑問をもつのは、自分自身の生活に関わる時だけだった。公式の神話を、その違いに関心もなく受け入れることもあり、たとえば飛行機は党が発明したと学校で教わり、そのまま信じていた。(ウィンストンの世代――五十年代――ではヘリコプターが党の発明だと言われていたが、ジュリアの時代になると飛行機まで党の発明にされていた。一世代のうちに、蒸気機関すらそう名乗る時代が来るだろう。)彼が、飛行機は自分の生まれる前から、革命のずっと前から存在していたと伝えると、彼女は「そんなどうでもいい」と言わんばかりだった。もっと驚いたのは、ある時「四年前まではオセアニアはイースタシアと戦争して、それまではユーラシアとは平和だった」ということを彼女が覚えていなかったことだった。彼女は戦争全体が茶番だと思っていたので、敵の名が変わった事実すら意識しなかった。「ずっとユーラシアと戦争してたんじゃなかった?」と曖昧に言った。それは彼を少し怖がらせた。飛行機の発明は彼女の生まれる前だが、戦争の切り替えは彼女が大人になった後なのだ。15分ほど説得してようやく、「一時期はイースタシアと敵だった」記憶がかすかによみがえったが、それでも答えは「どうでもいいわ。次々戦争があるだけだし、ニュースが全部嘘って分かってるじゃない。」

ウィンストンが記録局のことや、日常的に行う無遠慮な偽造について告白しても、彼女は特に恐怖も感じなかったし、嘘が真実になることへの底なしの恐ろしさも分からなかった。ウィンストンがジョーンズ、アーロンソン、ラザフォードの話や、かつて手にした決定的な一枚の証拠紙のエピソードを語っても、最初は話のポイントさえ理解できなかった。

「その人たち、お友達だったの?」と彼女。

「いや、知らない人さ。インナー・パーティーの連中だったし、僕よりだいぶ年上だ。革命以前の人間さ。見かけたことがあるくらい。」

「じゃあ何が問題なの? 人ってしょっちゅう殺されてるでしょう?」

必死に彼は彼女に理解させようとした。「これは特別な事件なんだ。単なる殺人と違う。理解してるかい? 昨日から過去というものが実際に抹消されちまったんだ。もしどこかに残っているとしたら、言葉も記録もないこのガラスみたいな物体だけだ。すでに俺たちは革命やその前の時代をほとんど何も知らない。本は全部書き換えられ、絵は全部塗り直され、彫像も街も建物も全て改名された。一日、一分ごとに、その改ざん作業は進んでいる。歴史は止まった。党が常に正しいという無限の現在しか存在しない。当然、過去が偽造されていると俺も知っている。でも、その事実を証明する方法はない。自分で偽造作業をしていたとしてもだ。終わった後、証拠は一切残らない。唯一の証拠は自分自身の心の中にある。でも誰か他の人間が同じ記憶を持っているかどうか、俺には全く分からない。俺の生涯でただ一度だけ、明白な物理的証拠を、出来事の後で持っていた――それも何年もあとのことだった。」

「で、それが役に立った?」

「役に立たなかった。数分後に捨ててしまったから。でも今同じことが起きたら、俺は証拠を取っておくだろう。」

「私だったら絶対やらないわ」とジュリア。「危ない思いは好きだけど、古新聞きれっぱしのためなんかにはごめんだわ。それに証拠を持ってても、何ができたって言うの?」

「おそらく大したことはできなかった。でも証拠は証拠だった。誰かに見せる勇気があれば、せめて疑念をいくつか植えつけるくらいはできたかもしれない。自分たちの生涯で何も変えられるとは思っていない。でもどこかで抵抗の小さな輪が芽生え、少しずつ成長して記録を残し、次の世代がそれを引き継ぐ、そういう想像はできる。」

「私、次世代なんてどうでもいい。大事なのは私たちよ。」

「君は腰から下だけの反逆者だな。」

彼女はそれを最高の冗談と大喜びで、ウィンストンに抱きついた。

党の教義については、彼女は全く興味がなかった。ウィンストンがイングソックの原則やダブルシンク、過去の可変性、客観的現実の否定、ニュースピークの単語――そういったものについて話し始めると、彼女はすぐ飽きて混乱し始め、「そんなこと気にしたこともないわ」と言った。どうせ全てナンセンスだし、悩んだところで得はない。いつ声援し、いつ怒鳴ればいいかさえ分かっていればいいのだ。その話を続けると、彼女は容赦なくどこででも眠ってしまう癖があった。彼女はどんな時でも、どんな姿勢でも眠れる人だ。彼女と話していると、「正統」の意味をまるで理解しなくても正統派のふりをするのはこんなに簡単なのか、と彼は気づいた。ある意味、党の世界観は、それを理解できない人々にこそ最もうまく浸透した。彼らは求められる現実のあからさまな改ざんも素直に受け入れたが、その酷さを完全に認識する能力もなく、世の中の動きにさほど関心を払っていなかった。理解しないことで彼らは正気を保っていた。全てを飲み込むが、それは鳥の体を通り抜けるトウモロコシのように、何の痕跡も残さなかった。

第六章

ついにその時が来た。長年待ち望み、ずっと夢見ていたその瞬間だった。

ウィンストンは省の長い廊下を歩いていた。ちょうどジュリアがあのメモを手渡した辺りまで来たとき、自分より大きな誰かがすぐ背後に並んで歩いていることに気づいた。誰であれ、その人物は何か話そうと、前触れのように小さく咳払いした。ウィンストンは立ち止まり、振り返った。それはオブライエンだった。

初めて顔を合わせ、彼の唯一の感情は逃げたいというものだった。心臓が激しく高鳴った。声も出せそうになかった。それでもオブライエンは平静そのもので、ウィンストンの腕を優しく軽く押さえて、二人は並んで歩き始めた。オブライエンは、インナー・パーティーの大半とは違う、独特の重々しく丁寧な口調で話し始めた。

「お話しする機会をずっと待っていました」と彼は言った。「先日、『タイムズ』であなたのニュースピーク記事を拝見しました。あなたはニュースピークに学術的な興味をお持ちだとか?」

ウィンストンは少し平常心を取り戻した。「学術的なんてとんでもない。私は素人です。言語の実際の構成には一切関わっていません。」

「でもあなたの文体は非常に優雅です」とオブライエン。「それは私だけの感想ではなく、この分野に詳しいあなたの友人と最近話したこともあります。名前がちょっと思い出せませんが……」

またもウィンストンの心臓が痛んだ。これは明らかにサイムへの言及で、サイムはもう死んだ、いや、「存在していない」人物だ。サイムの存在を匂わせるのは死ぬほど危険だった。つまりオブライエンの言葉は明白な合図、暗号だった。小さな思想犯罪を共有することで、二人は共犯となった。ゆっくりと廊下を歩き続けていたが、ここでオブライエンは立ち止まった。独特の親しみやすさで、眼鏡を正すジェスチャーを加え、続けた。

「本当にお伝えしたかったのは、あなたの記事でごく最近、廃語となった単語を二つ使っていた点なんです。ただしごく最近のことですが。ニュースピーク辞典の第十版をご覧になりましたか?」

「いえ、第十版はまだ出ていないと思いました。記録局では今でも第九版を使用しています。」

「第十版は数か月後の刊行予定ですが、試作本が少部数出回っています。私も一冊持っています。もしご興味があればご覧になりますか?」

「ぜひ拝見したいです」ウィンストンは、この先の展開を悟って即答した。

「新しい展開は非常に巧妙です。動詞の削減――それがたぶん、あなたの興味を引くでしょう。そうですね、メッセンジャーに持たせましょうか? でも私はそういう事をいつも忘れるんです。ご都合の良いときに私の自宅に受け取りに来ていただけませんか? ――お待ちください、住所をお教えします。」

彼らはテレビ画面の前で立ち止まった。オブライエンはやや無意識にポケットを探り、小さな革張りのノートと金のインクペンを取り出した。テレビ画面のすぐ下、反対側の監視者にも内容が見て取れる位置で、オブライエンは住所を書きつけ、ページを破ってウィンストンに手渡した。

「私はたいてい夕方は家にいます。不在の時は召使いが辞典を渡します。」

オブライエンは立ち去り、ウィンストンは紙切れを持っていた。それは今回に限って隠す必要もなかった。それでも彼は念入りに住所を記憶し、数時間後にはほかの紙と一緒にそれを記憶穴に落とした。

彼らはせいぜい数分間しか会話を交わしていなかった。その出来事が持つ意味はただ一つしかあり得なかった。それは、ウィンストン・スミスにオブライエンの住所を知らせるために仕組まれたものだった。それは必要なことだった。なぜなら、直接尋ねる以外に誰がどこに住んでいるかを知る方法はなかった。住所録のたぐいは何もなかった。『もし私に会いたくなったら、ここにいれば見つかる』――それがオブライエンの言いたかったことだった。おそらく辞書のどこかに隠された伝言があるかもしれなかった。だがいずれにせよ、一つだけはっきりしたことがあった。彼が夢見ていた陰謀は実在しており、彼はその外縁に辿り着いたのだった。

遅かれ早かれ彼はオブライエンの呼び出しに応じることになるだろうと分かっていた。それは明日かもしれないし、長い間をおいてからかもしれない――確信はなかった。起きていることは、何年も前に始まった過程の進展に過ぎなかった。最初の一歩は、秘密裡に心をよぎった無意識の考えだった。二歩目は日記の開封だった。思考は言葉へ、そして今は言葉から行動へと移った。最後の一歩は、愛情省[ミニラヴ]で起こることになる。自分はそれを受け入れていた。始まりに終わりが含まれている。しかしそれは恐ろしかった。いや、むしろ死の予感に似ていた。少しずつ生きている感覚が薄れていくようだった。オブライエンと話している最中でさえ、その言葉の意味がしみ込むと、体中が冷たく震えた。墓穴の湿った底に足を踏み入れるような感覚だった。それは、常にその墓穴がそこにあり彼を待っていると知っていたことを思えば、大して慰めにもならなかった。

第七章

ウィンストンは涙で目を腫らして目覚めた。ジュリアが眠たそうに彼に体を寄せ、何か「どうしたの?」とでも言いたげにつぶやいた。

『夢を見たんだ――』と彼は話しかけかけて口をつぐんだ。それを言葉にするにはあまりに複雑だった。夢そのものがあり、そして目覚めて数秒のうちに頭に浮かんできた夢に繋がる記憶があった。

彼は目を閉じたまま横たわり、なお夢の雰囲気にどっぷり浸っていた。それは広大で光に満ちた夢で、彼の一生が、雨上がりの夏の夕方の風景のように目の前に広がっているようだった。そのすべてがガラス製のペーパーウェイトの中で起こっていたが、ガラスの表面は空のドームであり、その下はすべてが澄んだ柔らかな光に満ちて、限りない遠さまで見渡せた。その夢はまた――いや、ある意味ではまさにそのものだったのだが――彼の母親がした腕のしぐさで完結しており、その三十年後、彼がニュース映像で見たユダヤ人女性も同じしぐさをしていた。彼女は小さな男の子を銃弾からかばおうとし、ヘリコプターに二人まとめて吹き飛ばされる寸前だった。

『知ってるかい』と彼は言った。『今の今まで、ぼくは母さんを殺したと思っていたんだ』

『なんで殺したの?』とジュリアはほとんど眠ったまま言った。

『実際に殺したわけじゃないんだ。肉体的にはね』

夢の中で彼は母親を最後に見たときの光景を思い出し、目覚めてからわずかのうちにそれを取り巻く小さな出来事のかたまりが全部よみがえってきた。それは長年意図的に意識から追い出していた記憶だった。正確な年月ははっきりしないが、十歳より下ということはなく、おそらく十二歳だっただろうと思った。

父親が失踪したのはもっと前だが、どれくらい前だったかは覚えていなかった。その頃の騒がしく不安定な状況はよく覚えていた。空襲のたびに地下鉄の駅へ避難する騒動、そこかしこに積み上げられた瓦礫、街角にはった意味不明な告示、同じ色のシャツを着た若者のグループ、パン屋の前の長蛇の列、遠くで断続的に鳴り響く機関銃掃射――なによりも、常に食べ物が足りなかったこと。彼は他の少年たちと一緒にゴミ箱やゴミ溜めを漁り、キャベツの葉の芯やジャガイモの皮を拾い、時には古いパンの切れ端に付いた燃えかすを丁寧にこすって食べたこと、また決まったルートを走る家畜飼料を積んだトラックを待ち、悪路で振動したときに落ちる油粕のかけらを拾おうとしたことなどを思い出した。

父親がいなくなったとき、母親は驚きもせず激しく嘆くこともなかったが、急に変わってしまった。まるで魂を抜かれたようになった。そのとき彼女が何かが起こると確信して待っているのはウィンストンにも分かった。彼女は必要なこと――料理、洗濯、繕い物、ベッドメイキング、床掃き、暖炉の上の埃取り――をすべてこなしたが、いつもとてもゆっくりと、余計な動きがまるでない奇妙な感じで、まるで芸術家のデッサン用人形が自然に動いているようだった。大きく見事な体躯は自然と静止に戻っていくようだった。何時間もベッドの上でほとんど動かず、幼い妹を抱え、その子は二、三歳の小さな病弱な、ほとんど話さない子で、痩せすぎた顔は猿のようだった。たまにウィンストンを長く腕に抱いて何も言わずに胸に押し付けた。少年らしい自己中心的なウィンストンにも、それがこれから起こるだろう、決して口にしない何かと繋がっていることは分かった。

彼らが暮らしていた部屋のことを覚えていた。白いカウンターパンがかかったベッドが部屋の半分を占めているような、暗く息苦しい空間だった。暖炉の中にはガスのリングがあり、食べ物を置いてある棚があり、廊下には他の部屋と共同の茶色い土器の流しがあった。母親がガスリングの上で鍋の中身を混ぜている姿を思い出す。なによりも絶え間ない空腹と、食事時の激しくみじめな争いの日々が心に残っていた。彼は母親にしつこく何度もなぜ食べ物がもっとないのかと問い詰め、叫んで彼女を責めた(その時の自分の声色まで思い出せた。早くも声変わりしかけていて、時々妙にこもった響きだった)。それか、哀れっぽく鼻をすすりながら自分の取り分を増やそうとした。母親は進んで彼に分け前を多く与えた。彼が『男の子』なのだから一番多く食べるのは当然と思っていた。だがいくら与えられても彼はもっと欲しがった。毎回の食事で彼女は、自分勝手はやめて妹が病気で栄養が要ることを思い出してほしいと懇願したが、無駄だった。母親がよそうのを止めると彼は怒り狂い、鍋やスプーンを奪おうとし、妹の皿からもとった。二人分の食べ物を奪っているのは分かっていたが、どうしてもやめられなかった、それどころか自分にはその権利があるとさえ思えた。鳴りやまない腹の空腹が彼を正当化した。食事の間でさえ、母親が見張りに立たなければ棚のわずかな食料を盗み食いしていた。

ある日、チョコレートの配給があった。何週間、何ヶ月ぶりのことだった。彼はその小さなチョコレートのかけらをはっきり覚えていた。それは2オンス(当時はまだオンスで話していた)で、三人で分けなければならなかった。当然、三等分すべきだった。すると突然、まるで他人の声を聞くように、ウィンストンは大声でチョコレート全体を自分にくれと要求していた。母親は強欲はだめだとたしなめた。長く、しつこい、堂々めぐりの口論となった。泣き声や抗議、取引。小猿のように母親の両手にしがみついた小さな妹が、哀しそうな大きな瞳でウィンストンを見つめていた。最後に母親はチョコレートの四分の三を折ってウィンストンに渡し、残り四分の一を妹に渡した。妹はそれを受け取ってぼんやりと見つめていた。何か分からなかったのかもしれない。ウィンストンは一瞬彼女を見ていたが、突然素早くチョコレートを妹の手から奪い取り、ドアに向かって逃げ出した。

『ウィンストン、ウィンストン!』と母親が彼を呼んだ。『戻って! 妹にチョコレートを返してあげて!』

彼は立ち止まったが戻らなかった。母親の不安そうな視線が彼の顔に釘付けになっていた。その時も、もうすぐ何かが起こることを、しかしそれが何かは分からなかった。妹は何かを奪われたのを感じて、かぼそく泣いていた。母親は子を腕に抱き寄せてその顔を胸に押し付けた。そのしぐさに、妹が死にかけていることが伝わった。彼はチョコレートのねっとりとした感触を握りしめながら階段を駆け下りた。

彼は二度と母親に会わなかった。チョコレートを食べ終わると多少の罪悪感が沸き、何時間も通りでうろついた。だが空腹が彼を家に向かわせた。戻ると母親はいなくなっていた。当時はそういうことが珍しくなかった。部屋から消えていたのは母親と妹だけ。衣類も、母親のコートすら持ち去られていなかった。今も確実に母親が死んだとは分からない。ただ強制労働収容所に送られた可能性もあった。妹についても、ウィンストン自身同様、内戦の結果できた孤児収容所(リクレイメーション・センター)に送られたか、母親と共に労働所へ行ったか、あるいはどこかで死ぬのに任されたかも知れなかった。

夢の記憶はまだ鮮明だった。特にあの包むような守る腕のしぐさに、すべての意味が込められている気がした。彼の心は二ヶ月前に見た別の夢に戻った。母が、色あせ白いカバーのベッドに子供をしがみつかせて座っていたように、沈みゆく船の中でも、深く深く沈んでいく間もじっと彼を見上げていた。

彼は母の失踪についてジュリアに話して聞かせた。彼女は目を閉じたまま、ごろりとうつ伏せで寝返りを打った。

『その頃はいやなガキだったんじゃない?』と彼女はぼんやりと言った。『子供なんてみんなそんなもんよ』

『そうだ。でも本当に言いたかったのは――』

彼女の呼吸で、また眠りに落ちかけているのが分かった。彼は母親の話を続けたかった。自分の記憶にある限り、特別な人でも賢い人でもなかったと思う。それでも彼女には一種の気高さや純粋さがあった。それは彼女が従っていた基準が私的なものだったからだ。彼女の感情は彼女自身のもので、外部から変えられるものではなかった。効果がない行動は無意味だと思うこともなかった。誰かを愛していれば愛する。それ以外与えられるものがなくても愛を与える。最後のチョコレートがなくなった時も、母は子を抱いた。無駄ではあったし何も変わらなかった。チョコレートは増えず、子の死も自分の死も避けられなかった。それでも彼女にとっては自然な行動だった。難民船の女も、紙一枚にもならない腕で幼子をかばおうとした。党がした一番恐ろしいことは、ただの衝動や感情には価値がないと信じ込ませる一方で、現実世界に対するいかなる力もすべて奪ったことだ。一度党の支配下に置かれると、感じたこと・感じないこと、したこと・しなかったこと、そのどれもが本当に何の違いも生まない。何が起きても自分は消え去り、自分も自分の行為も二度と歴史の流れに現れない。しかし二世代前の人々にとって、それは絶対的なことには思えなかった。彼らは歴史を変えようとはしなかった。問うことのない私的な忠誠心に従っていた。大事なのは個人どうしの関係であり、無力な身振りや抱擁、涙、死者への一言はそれ自体に価値があった。ふと、プロールたちは今もそうなのだと思い至った。彼らは党や国家、イデオロギーに忠実なのではなく、互いに忠実なのだ。生まれて初めて、ウィンストンはプロールたちを卑下したり、世界をよみがえらせるための惰性的な力としか思わないのをやめた。プロールたちは人間であり続けた。内面まで硬化していなかった。彼らはウィンストン自身が意識的な努力で再学習しなければならなかった、原始的な感情を守り続けていた。そしてそう考えているうちに、数週間前に舗道に転がっていた切断された手を見つけ、キャベツの芯を蹴飛ばすように側溝に蹴り込んだことを思い出した。

『プロールたちは人間だ。僕らは人間じゃない』と彼は声に出した。

『なぜ?』とジュリアが、再び目覚めて問いかけた。

彼はしばらく考えた。『今ここを去って、二度と会わない方がいい、というのが僕らにとっては一番いいことだって考えたことないか?』

『ええ、何度も考えたわ。でも私はそうしない』

『僕たちは運が良かった。でももう長くは続かない。君は若いし、普通に無害そうに見られる。僕みたいな人間と関わらなければ、50年は生き延びるかもしれない』

『だめ。全部考えて決めてる。あなたがすること、私もするわ。落ち込まないで。私は生き延びるの、結構上手なのよ』

『これから半年、一年一緒にいられるだろうか……分からない。でも最後は必ず離れ離れになる。どれほど完全に孤独になるか、わかっているのか? 一度捕まれば、私たちには互いに何もできなくなる。本当に何も。僕が自白すれば君は撃たれる。自白を拒んでも君は撃たれる。僕が何を話そうと話すまいと、君の死期を五分だって延ばせやしない。互いが生きているか死んでいるかも分からなくなる。完全に無力になる。唯一大事なのは裏切らないこと――だがそれすらほとんど意味がない』

『告白のことを言うなら、私たちはきっとやるわ。誰でもみんなするもの。仕方ないわ。拷問されるもの』

『僕が言いたいのは告白じゃない。告白は裏切りじゃない。何を言おうがやろうが重要じゃない、気持ちだけが大事だ。もし僕が君を愛せなくなるように仕向けられたら――それこそが本当の裏切りだ』

彼女はしばらく考えた。『それは絶対できないわ』とやがて言った。『そこだけはどうしたって無理よ。言わせることはできるけれど、信じさせることはできない。心の中までは入り込めないわ』

『そうだ』と彼は少し楽観的に言った。『そうだ。それは本当だ。心の中までは入り込めない。もし、結果なんて生まれなくても人間らしさを守る価値があるって感じ続けられたら、僕らが勝ったことになる』

彼は不眠の監視装置――テレスクリーン――のことを考えた。彼らは昼も夜もスパイできるが、頭を働かせていれば彼らを出し抜くことはできる。いくら賢くても、他人の心の中を暴く秘密はまだ知られていない。実際に捕らえられたら、それも違ってくるのかもしれないが。愛情省で何が起こるかは分からなかったが、拷問や薬物、神経反応を測定する精巧な機器、不眠や孤独、執拗な尋問によるじわじわした消耗、などだろうと推測された。少なくとも事実は隠しきれない。尋問や拷問でいずれ明るみに出る。だが大事なのは生き延びることではなく人間としての感覚を守ることなのだから、最終的に何の違いもないことになる。彼らは感情を変えられない――それどころか、自分ですら変えられないのだ。本心は自分自身にとってすら神秘的で、その内奥には誰も立ち入れないのだから。

第八章

やった、ついにやり遂げた――! 

彼らが立っている部屋は細長く柔らかい光に包まれていた。テレスクリーンは微かに唸るだけ、濃い青のカーペットの豊かさは、まるでビロードの上を歩いているような感覚を与えた。部屋の奥ではオブライエンが緑色のランプの下で、両側に山積みになった書類に囲まれてテーブルに座っていた。召使いがジュリアとウィンストンを案内しても、オブライエンは目を上げようとしなかった。

ウィンストンの胸は激しく高鳴り、まともに口をきけるか不安だった。やった、やり遂げた――それだけしか考えられなかった。ここに来たこと自体が無謀だったし、二人一緒に来たことなど全くの軽率だった。だが実際には別々の経路でオブライエンの玄関前でだけ合流したのだから、そう悪くはなかった。それでもこんな場所に足を踏み入れるには大きな勇気が要った。インナー・パーティーの住居に入ったり、その居住区に踏み込むなど滅多にあることではなかったからだ。巨大なアパート全体の雰囲気、何もかもが豊かで広々としていること、食べ物やたばこの良い匂い、静かで驚くほど速いエレベーター、白いジャケットの召使い――どれも圧倒的だった。用事があってここに来てるとはいえ、黒い制服の警備員が突然現れて書類を要求し、放り出すのではないかと不安はやまなかった。だがオブライエンの召使いは二人を何のためらいもなく通した。彼は黒髪・小柄で、白い上着を着て、ダイヤモンド型の表情の全くない顔をしていた。中国人かとさえ思える顔だ。その案内する廊下は柔らかに敷き詰められ、クリーム色の壁紙・白い腰板、隅々までぴかぴかに清潔だった。これもまた威圧的だった。ウィンストンは、壁が人の体の接触で汚れていない廊下など見た覚えがなかった。

オブライエンは指先に紙片を挟み、それを熱心に見ているようだった。俯いた大きな顔は、鼻筋が見えて、威圧的で知的にも見えた。二十秒ほど微動だにしなかった。そのあとスピークライトを手元に引き寄せ、党の混じり合った用語でメッセージを打った。

『第1・5・7項全て承認、ストップ、第6項の提案信じ難くクライムソートぎりぎりで中止、ストップ、進行不可、建設観点から最大限の設備費見積もり、ストップ、メッセージ終了』

彼はゆっくり椅子から立ち上がり、音のしないカーペットの上を歩いて二人のほうへ来た。その動きとともに、公式の雰囲気が少し抜け落ちた気がしたが、表情は普段より厳しそうで、邪魔が入ったのを不快に思っているようでもあった。ウィンストンの恐怖心に普通の気まずさが混じった。自分が愚かな間違いを犯しただけではないか――そんな気分になった。オブライエンがどんな政治的陰謀家かといった証拠は、結局まるでなかった。目のひらめきと、あいまいな一言だけ、そのほかは自分の夢想によるものでしかなかった。辞書を借りに来たふりもジュリアがいれば通用しない。オブライエンがテレスクリーンの横を通ったとき、何か考えついたようだった。彼は立ち止まり、脇にそれ、壁のスイッチを押した。カチッという音とともに、声が止まった。

ジュリアが驚いて小さく鳴き声を上げた。恐怖の最中、ウィンストンも驚きすぎて、口をつぐむことなどできなかった。

『消せるのか!』と言った。

『ああ』とオブライエンは言った。『消せる。われわれにはその特権がある』

彼はいま二人の前に立っていた。たくましい体が二人を見下ろし、その顔はまだ何を考えているのか読めなかった。ウィンストンが何について話すことを求められているのか分からぬまま、オブライエンはやや厳しい表情で待ち構えていた。今この時も単に多忙な人間が苛立って邪魔された理由をいぶかっているというだけのことも考えられた。誰も何も言わない。テレスクリーンが止まった部屋は恐ろしいほど静かだった。秒針が巨大に進んでいく。ウィンストンはなんとか必死に、目線をオブライエンからそらさずにいようとした。突然、険しい顔が何か微笑みの兆しさえ見せて崩れた。オブライエンは例のしぐさで眼鏡を掛け直した。

『僕が言おうか、それとも君が言うか?』と彼は言った。

『僕が言います』とウィンストンはきっぱりと答えた。『本当に消えたんですね?』

『ああ、何もかも消した。今は我々だけだ』

『僕たちはここに来たのは――』

彼は躊躇した。今になって初めて自分の目的の曖昧さに気づいた。実際オブライエンに何を期待しているのか分からないので、自分がなぜここに来たのか簡単に説明できなかった。それでも話し始めた。それが力なく大げさに響くことに自覚的だった。

『我々は陰謀――党に対抗する秘密結社のようなものがあると信じています。そしてあなたがそれに加わっていると。私たちはそこに加わり、働きたい。党の敵です。イングソックの原理を信じていません。思考犯罪者です。それに姦通者でもあります。全てを明かすのは、あなたの慈悲に身を預けるためです。もし他の方法でも自己告発せよというなら喜んで従います』

彼は背後でドアが開いた気がして、振り返った。案の定、黄色い顔の小柄な召使いがそのまま入ってきた。ウィンストンは彼がデカンタとグラスを盆に載せているのを見た。

『マーティンは我々の一員だ』とオブライエンは何の感情もなく言った。『こっちに飲み物を持ってきてくれ、マーティン。丸いテーブルに置きなさい。椅子は足りてるか? なら、くつろいで座って話そう。君も椅子を持ってきて座っていい、マーティン。いまからは10分間、召使いでなくていい』

小男は気楽そうに腰掛けたが、やはり召使いの雰囲気をまとったままだった。それは、特権を楽しむ従僕の空気にも思えた。ウィンストンは横目で彼を観察した。彼の人生そのものが演技であり、一瞬たりともその仮面を脱ぐのは危険だと思い込んでいるのだろうと感じた。オブライエンはデカンタの首を掴み、グラスに赤い液体を注いだ。それはウィンストンにぼんやりと、壁か広告で昔見たことのある電飾のビンの巨大な図――上下に揺れてグラスに中身を注ぐ――を思い出させた。上から見るとほとんど黒だったが、デカンタの中ではルビーのように輝いた。酸っぱく甘い匂いがした。ジュリアがグラスを手に取り、好奇心丸出しで匂いを嗅いでいるのが見えた。

『ワインというものだ』とオブライエンは微笑を浮かべて言った。『本で読んだことぐらいはあるだろう。アウター・パーティーにはなかなか出回らないんだ』彼はまた厳粛な顔に戻り、グラスを高く掲げた。『では乾杯しよう。われらの指導者に。エマニュエル・ゴールドスタインに』

ウィンストンは嬉々としてグラスを取った。ワインは彼が本や夢でしか知らないものだった。ガラスのペーパーウェイトやチャリントン氏の半分思い出しかけた詩句のように、それは消え去ったロマンチックな過去=いわば「昔の時代」の遺物だった。なぜだかワインは非常に甘く、ブラックベリーのジャムのような味と即座に酔わせる力を持っているものと思っていた。実際に飲むと、ほとんど期待外れだった。ジンを飲み続けたせいで、ほとんど味が分からなくなっていた。空のグラスを置いた。

『じゃあゴールドスタインという人は実在するんですね?』

『実在する。今も生きている。だがどこにいるかは知らない』

『そしてその陰謀――組織? 本物なんですね? 思想警察の作り話じゃない?』

『本物だ。兄弟団と呼んでいる。君が知るのは、その存在と自分が所属しているということだけだ。詳しくは追って話す』彼は腕時計を見た。『インナー・パーティーのメンバーですらテレスクリーンを30分以上消しておくのは危険だ。一緒に来たのは拙かったし、帰りも別々にしないといけない。君――』とジュリアの方に頭を下げた――『が先に帰る。他に20分ほど使える。まずいくつか質問させてもらう。一般的にどこまで覚悟があるか』

『われわれにできることなら何でも』とウィンストンが答えた。

オブライエンは椅子をわずかに回し、ウィンストンに向き直った。ジュリアはほとんど無視され、ウィンストンが彼女の代弁者だと当然のごとく扱われていた。しばらくまぶたを伏せ、低い・無感情な声で、まるで手順通りの問い、答はすでに分かっているという調子で質問を始めた。

『命を捨てる覚悟は?』

『ある』

『殺人もするか?』

『する』

『何百人もの無実の人の命を奪いかねない破壊活動も?』

『する』

『自国を外国の手に売るか?』

『売る』

『詐欺、偽造、強請、子供の精神を堕落させる、麻薬をばらまく、売春を助長する、性病をばらまく――党を弱め士気を崩すありとあらゆることも?』

『する』

『たとえば硫酸を子供の顔に浴びせることがわれわれの利益になる場合――やるか?』

『やる』

『自分の身分を失って、残りの人生をウェイターや荷役労働者として過ごすか?』

『過ごす』

『命令されたら自殺できるか?』

『できる』

『二人が二度と会えないよう別々になれるか?』

『だめ!』とジュリアが割り込んだ。

ウィンストンは答えるまで長い時間が流れた気がした。一瞬、声すら失ったようだった。口の中で「ノー」と「イエス」の最初の音を何度も形にし、やっと『だめだ』と答えた。

『正直に答えてくれてよかった』とオブライエンが言った。『すべてを知っておく必要がある』

彼はジュリアに向き直り、やや感情のこもった声で付け加えた。

『たとえ彼が生き残ったとしても、まったく別人にしなければならないかもしれないことが分かるか? 新しい身分を与え、顔も動作も手の形も髪の色も、声すらも変えるかもしれない。君自身も別人になっているかもしれない。手術で人間の容貌など元が分からなくできる。時には手足を切断することさえある』

ウィンストンは思わずマーティンのモンゴロイド顔をちらっと見た。傷跡は見あたらない。ジュリアは血の気が引き、そばかすがいっそう目立ったが、オブライエンをきっぱり見あげていた。小さくうなずいたようだった。

『よろしい、話は決まった』

テーブルに銀色のたばこ箱があった。オブライエンは少しぼんやりした様子でそれを押しやり、自分も一本取ってから立ち上がり、ゆっくり歩き始めた。立ったほうがよく考えがまとまるようだった。たばこは非常に質が良く太く詰まっており、紙はなめらかだった。オブライエンは再び時計を見た。

『マーティン、パントリーに戻れ。15分後にスイッチを入れる。二人の顔をよく覚えておけ。また会うこともあるだろうし、ないかもしれない』

ちょうど玄関でそうしたように、小男の黒い目が二人の顔をちらちら走った。そこには友好の気配もなかった。ただ記憶に焼きつけていたが、興味はなさそうだった。あるいは人工的な顔には表情を変える能力がないのかもしれなかった。挨拶も言葉もなく、マーティンは静かに出て行き、音もなくドアを閉めた。オブライエンは黒い作業服のポケットに片手、たばこをもう一方に持ちながら、ゆっくり歩き続けた。

『君たちは暗闇の中で戦う。常に暗闇だ。命令を受けたら理由を知らず従うことになる。やがて本を送る――いま我々が住む社会の本質、いかにしてそれを打ち壊すか、その戦略が分かるだろう。本を読めば君たちは正式な兄弟団の一員になる。ただし、われわれが戦う大きな目的と、目先の任務の間について君の知るところは何もない。兄弟団は存在するが、それが百人なのか一千万人なのかは私にも分からないし、君自身の個人的経験としては十数人という証言すらできないはずだ。君の接触は三、四名にすぎず、消えれば入れ替わる。今回が初接触なので今後も維持される。命令は私から出す。連絡が必要な時はマーティンを通して伝える。最後には必ず捕らえられる。それはどうにもならない。だが自白するとしても、語ることは自分の行動ぐらいしかない。たとえ私のことは裏切れないだろう。その頃には私は死んでいるか、顔も性格も変わった別人でいるからだ』

彼はカーペットの上をゆっくり歩き続けた。大きな体にもかかわらず、その動きには奇妙な優美さがあった。ポケットに手を入れる動作や、たばこの持ち方ですら、それがよく分かった。力強さ以上に、自信や、皮肉の混じった理解力が感じられた。いくら本気でも、狂信者特有の一本調子さはなかった。殺人や自殺、性病や切断、整形の話題も、かすかな戯れの気配をまとっていた。「これは避けがたいのだ、われわれはこれを冷徹にやるしかない。だが、また人生が生きるに値するようになったら、これこそが我々の本分というわけではないのだ」と言っているかのようだった。ウィンストンの胸には憧れにも近い尊敬の念が溢れた。今だけはゴールドスタインの影も忘れていた。オブライエンのがっしりした肩や醜いが知的な顔を見れば、彼が敗れるなどとても信じられなかった。どんな策略でも彼には敵わないし、どんな危険も予見できるように思えた。ジュリアも感銘を受けているようだった。彼女はたばこを火もつけずに持ったまま、夢中で聞き入っていた。オブライエンは続けた。

『兄弟団なるものの存在を噂に聞いたことはあるだろう。その姿を想像してきたに違いない。無数の陰謀者が地下室に集まり、壁にメッセージを書き、合い言葉や腕のしぐさで認識し合う……そんなものは存在しない。会員は互いに正体を知らず、五人以上を知っている者はいない。ゴールドスタイン自身ですら、思想警察に捕まれば全会員リストは出せないし、出す情報もない。そもそもリスト自体が存在しない。兄弟団は普通の意味で組織などではない。共通なのは、破壊しがたい一つの思想だけだ。それ以外、助けも連帯もない。捕まれば助けはこない。われわれができるのは、必要最小限、口を封じるべき人物に監房へかみそりの刃を密かに届けるぐらいだ。結果や希望もないまま生きることに慣れねばならない。しばらく働き、捕まり、自白し、やがて死ぬ――それが見える範囲の成果のすべてだ。生きているうちに何らかの目に見える変化が起きる望みはまるでない。我々は死者なのだ。唯一の命は未来にある。未来では塵や骨の破片としてしか関われない。だがその未来が何千年先かも分からない。今できることは、ごくわずかずつ正気の領域を拡げることだけ。集合的な行動はできない。ただ個々人から個々人へ、世代ごとに知識を広めていくしか道はない。思想警察の前では、それ以外方法はない』

彼は立ち止まり、三度目の時計を見やった。

『君はそろそろ出たほうがいい』とジュリアに言った。『まだデカンタが半分残っている』

彼はグラスを満たし、茎をつまんで掲げた。

『今度は何に乾杯しようか? 思想警察の混乱? ビッグ・ブラザーの死? 人類? 未来?』

『過去に』とウィンストンが言った。

『過去は大事だ』とオブライエンも厳かに同意した。

彼らはグラスを空け、すぐにジュリアが立ち上がった。オブライエンはキャビネットの上から小さな箱を取り出し、平たい白い錠剤を渡した。舌に乗せなさい、と言った。ワインの匂いが残らないようにする必要があった。リフトの係員は注意深いからだ。ドアが閉まると、オブライエンはすぐに彼女の存在を忘れてしまったようだった。数歩歩き、立ち止まった。

『細かいことを決める。何か隠れ家はあるか?』

ウィンストンはチャリントン氏の店の上の部屋について説明した。

『しばらくはそれでよい。ゆくゆくもっと安全な場所を考えよう。隠れ家も頻繁に変えるのが肝心だ。その間、あの本を――』オブライエンもあたかもイタリック体のように言葉に力を込めたことをウィンストンは気づいた――『ゴールドスタインの本を、できるだけ早く送る。手に入るまで数日かかるだろう。ご存じのとおり現存数が少ない。思想警察が製本するそばから奪っていくからだ。だがほとんど問題はない。本は不滅だ。最後の一冊がなくなっても我々はほぼ一語一句まで再現できる。仕事にブリーフケースを持っていくか?』

『たいてい持っています』

『どんな鞄だ?』

『黒くてとてもみすぼらしい。ベルトが二本ついている』

『黒、二本ベルト、みすぼらしい――よし。そう遠くない日に、君の朝の仕事の中に誤植がある文が混じるはずだ。リピートを要求してくれ。翌日、出勤時に鞄を持ってこないこと。その日のうちに通りですれ違った男が君の腕を掴んで「鞄を落としましたよ」と言う。その鞄にゴールドスタインの本が入っている。14日以内に返却を』

しばらく沈黙があった。

『あと二、三分ある』とオブライエンが言った。『また会うとすれば――また会えるとすれば――』

ウィンストンは見上げた。『暗闇のない場所で?』とためらいつつ言った。

オブライエンは驚く素振りもなくうなずいた。『暗闇のない場所で』と、ほのめかしを理解したかのように言った。そして続けて尋ねた。『出る前に何か伝えたいことは? 質問でも?』

ウィンストンは考えた。特に質問したいことは思い浮かばなかった。理屈っぽい一般論を叫ぶ気も全く起きなかった。代わりにふと頭に浮かんだのは、母が最後の日々を過ごした暗い寝室や、チャリントン氏の店の上の小部屋、ガラスのペーパーウェイト、ローズウッドの額縁の鉄板画の断片的なイメージだった。ほとんど無意識に言った。

『「オレンジとレモン、聖クレメンツの鐘が言う」という古い韻――詩を聞いたことありませんか?』

またオブライエンはうなずいた。厳かな所作でそのスタンザを最後まで暗唱した。

 オレンジとレモン、聖クレメンツの鐘が言う
 3ファージングの借りがある、聖マーティンの鐘が言う
 いつ払うの? 法廷[オールド・ベイリー]の鐘が言う
 金持ちになったらね、ショーディッチの鐘が言う

『最後の一行まで知ってるんですね!』とウィンストンが言った。

『ああ、知っていた。さて、もう出たほうがいい。だが待て。錠剤を一つ渡しておこう』

ウィンストンが立ち上がると、オブライエンは手を差し出した。その強い握手はウィンストンの手の骨を砕くほどだった。ドアのところで振り返ると、オブライエンはもうすでにウィンストンのことを意識から消し去ろうとしている様子だった。彼はテレスクリーンのスイッチに手をかけていた。その向こうには緑のランプが輝く書き物机、スピークライト、山積みの書類が置かれていた。すべてが終わった。三十秒もすれば、彼はまた党のための忙しい仕事に戻っているに違いないとウィンストンは思った。

第九章

ウィンストンの体は疲労でゼリーのようだった。この「ゼリー状」という言葉が、思わず頭に浮かんだ。体は単なるだるさにとどまらず、透き通ってさえ感じられた。手をかざせば向こうの光が透けて見える気さえした。莫大な仕事の浪費ですべての血液とリンパ液が流れ切り、ただ神経と骨と皮だけがかろうじて残っている。すべての感覚が増幅されていた。作業着は肩に擦れ、舗道は足裏をくすぐり、手を開閉するだけで関節がきしめいた。

彼はこの五日間で九十時間以上も働いた。他のみんなも同様だった。今はすべて終わり、翌朝まで党の仕事は全くなかった。隠れ家で六時間、さらに自分のベッドで九時間も過ごせる。薄日が差す午後、彼はチャリントン氏の店へ向かうくすんだ通りを歩いていた。パトロールに目を光らせながらも、今日だけは何も危険がないという妙な自信があった。膝にぶつかる重いブリーフケースの中には、六日間持ち続けてまだ開きもしていない「本」が入っていた。

ヘイト週間六日目――行進、演説、叫びと歌、旗、ポスター、映画、蝋人形、ドラムの音、ラッパの音、隊列の足音、戦車のキャタピラのきしみ、戦闘機の轟音、大砲の響き――この六日間にわたる狂乱が頂点に達し、ユーラシアへの総憎悪が頂点に達し、最後の日に公開絞首刑になる2,000人のユーラシア戦犯を群衆が手にかければ確実にズタズタに引き裂かれるだろうと思われた正にその時――突如、オセアニアはユーラシアと戦争していないと発表された。オセアニアはイースタシアと戦争していた。ユーラシアは同盟国となっていた。

もちろん、いかなる変化があったという認める発表はなかった。ただ、突然かつ一斉に、ユーラシアではなくイースタシアが敵であることが広まっただけだ。その時、ウィンストン・スミスはロンドン中心部の広場で行われていたデモに参加していた。夜であり、白い顔と深紅のバナーは鮮やかに照らし出されていた。広場には数千人がひしめき合っており、その中には「スパイ」の制服を着た学校児童が千人ほど並んでいた。深紅の幕で飾られた壇上にはインナー・パーティの雄弁家が立っていた。彼は小柄で痩せ、異様に長い腕と、乱れた髪の下に大きく禿げ上がった頭蓋骨を持っていた。ランプルスティルツキンを思わせる憎悪に歪んだその人物は、一方の手でマイクの首を握り締め、もう一方の骨ばった腕の先で空中を威嚇するようにかきむしった。アンプによって金属的に歪んだその声は、残虐行為、大虐殺、強制移送、略奪、強姦、捕虜への拷問、市民への空爆、虚偽の宣伝、不当な侵略、破られた条約――果てしない悪行の目録をとどろかせていた。話を聞いていると、まずは説得され、次に狂ってしまうほどだった。数分ごとに群衆の怒りが噴き上がり、何千もの喉から野獣のような咆哮が湧き起こり、雄弁家の声は掻き消された。中でも学校児童の叫び声が最も野蛮だった。

演説が始まっておよそ二十分ほど経った時、使者が急いで壇上に上がり、紙片を演説者の手にそっと渡した。彼は演説を止めずにそれを広げて読んだ。声や態度、話している内容は何一つ変わらず、それでも突然、名前だけが入れ替わった。言葉なくして、群衆全体に理解の波が走った。オセアニアはイースタシアと戦争中! 次の瞬間、広場は大騒ぎになった。広場を飾っていたバナーやポスターはすべて間違っていた! 半分は間違った顔が描かれていた。それは破壊工作だ! ゴールドスタインの手先が暗躍していたのだ! ちょっとした暴動の間、ポスターは壁から引き裂かれ、バナーはズタズタに裂かれ足下で踏みにじられた。「スパイ」達は屋根に登り煙突からなびく垂れ幕を切り落とすという離れ業を見せた。しかし二、三分で全てが収束した。雄弁家はなおもマイクの首を握り、身を乗り出して空中で手をかきむしりながら演説を続けていた。さらに一分もしないうちに、野獣のような怒号がまた群衆から吹き上がった。「憎しみ」は相手が変わっただけで、それまでと全く同じように続いた。

ウィンストン・スミスが後になって特に印象に残ったのは、その演説者が一文の途中で途切れることなく、しかも言葉の構造さえ崩さず、自然に敵の名前を切り替えたことだった。しかしその時、別のことで彼の頭はいっぱいだった。ポスターが引き裂かれて混乱が生じていたその時、顔の見えない誰かがウィンストンの肩を叩き、「すみません、ブリーフケースを落としましたよ」と声をかけた。彼は無言でぼんやりとブリーフケースを受け取った。その中を見る機会は数日間訪れないだろうと分かっていた。デモが終わるや否や、彼は「真理省」に真っ直ぐ向かった。既に二十三時近かったが、職員全員が同じように職場に戻っていた。テレスクリーンから出される帰省命令はもはや必要ないくらいだ。

オセアニアはイースタシアと戦争中――オセアニアは常にイースタシアと戦争していた。この五年間の政治文献の大半が一瞬ですべて時代遅れとなった。あらゆる報告書や記録、新聞、本、冊子、映画、録音テープ、写真――すべてが電光石火の速度で訂正されなければならなかった。指示が下されたわけでもないのに、誰もが一週間以内に「ユーラシアとの戦争」や「イースタシアとの同盟」の痕跡が一切残らないようにすることが部長たちの意図であると知っていた。作業は膨大で、それ以上に、その過程を本当の名前で呼べないことが負担を倍増させていた。「記録局」では誰もが一日二回、三時間の仮眠を挟み、十八時間働いた。地下室からマットレスが運ばれ、廊下一面に敷き詰められた。食事はサンドイッチと「勝利コーヒー」であり、食堂の係が手押し車で運んでくる。ウィンストンは仮眠に入るたびに机上の仕事を一掃しようとしたが、毎回、寝ぼけまなこで戻ると新たな紙筒の雪崩が机を覆い、スピークライト(口述記録器)を半分埋もれさせて床にあふれていたため、まず作業スペースを確保するために山積みの紙筒を片付けることから始まった。最も辛かったのは、作業が単なる機械的作業ではなかったことだ。名前を入れ替えるだけで済むことも多いが、詳細な事件報告の訂正には細心の注意と想像力が求められた。戦争が世界のどの地域で起きているかを切り替えるため、地理知識もかなり必要だった。

三日目になるとウィンストンの目は我慢できないほど痛み、めがねも数分ごとに拭かなければならなかった。それは拒否する権利があるにも関わらず、神経質なまでに成し遂げようとする重労働との格闘のようだった。思い出す暇があれば、口述記録器にささやく一言一言、ペンを走らせるその一画一画がすべて意図的な嘘であることに悩まされることもなかった。彼は他の誰にも劣らず贋造が完璧であることを望んでいた。六日目の朝、紙筒のなだれが次第に収まってきた。三十分近く何も出てこず、その後もう一つだけ、それきりだった。ほぼ同時にどこでも作業が収束し始めた。部局全体に深くひそやかな安堵の吐息が広がった。語られることもない偉業が成し遂げられたのだ。もはやユーラシアとの戦争が存在したという証拠を文書で立証できる人間は誰もいなかった。十二時に、全ての職員に明朝まで休日が与えられるという突然の通知がなされた。ウィンストンはブリーフケース――例の本が入ったものをまだ持ったまま――を手に帰宅し、ひげを剃り、ぬるい湯だったが風呂でほとんど眠り込みそうになった。

関節をしならせるような快いきしみとともに、彼はチャリントン氏の店の上階へと続く階段を登っていった。彼は疲れてはいたが、もはや眠気はなかった。窓を開け、汚れた小さなオイルストーブに火をつけ、コーヒー用に鍋に水をかけた。ジュリアはやがてやってくるはずだった。その間に例の本がある。ウィンストンはだらしないアームチェアに座り、ブリーフケースのベルトを外した。

重く黒い無名の大冊は素人っぽい装丁で、表紙にも名前や題名はない。活字もいくぶん不揃いのように見えた。ページの端はすり減り、いともたやすく開く――まるで何人もの手を経てきた本のようだ。扉ページにはこう記されていた。

  寡頭的集産主義の
  理論と実践
  エマニュエル・ゴールドスタイン著

ウィンストン・スミスは読み始めた。

第一章

無知は力である

記録されている限りの時代、そしておそらく新石器時代の終わりからずっと、世界には三種の人間、すなわち上層、中層、下層が存在してきた。それらは様々な方法で細分化され、実に数多くの別々の呼び名を与えられ、人数比もまた互いの態度のあり方も時代によって変化してきた。しかし、社会の根本的な構造そのものは決して変わらなかった。どんなに巨大な激変や、取り返しがつかないと思える変革があったとしても、ジャイロスコープがどちらに押されても均衡に戻るように、同じパターンが常に再び現れるのだ。

これらのグループの目的は完全に両立しない……。

ウィンストン・スミスはそこで読むのをやめた。主に「読んでいる」という事実自体を味わうためだった。彼は一人きりだった――テレスクリーンも、鍵穴に耳を当てる者もいない。後ろを振り返ったり、ページを手で隠したりする衝動にも駆られない。甘い夏の空気が頬をなでていく。どこか遠くから子どものかすかな叫び声がかすめ、部屋の中では時計の虫の声しか聞こえなかった。彼は椅子にさらに深く身を沈め、暖炉の前に足を投げ出した。それは至福であり、永遠そのものだった。ふいに、人は「どうせ一語一句、繰り返し読むことになる本」の時など、途中で違う箇所を開いてしまうことがあるが、彼もそのようにして第三章を開いていた。そして読み続けた。

第三章

戦争は平和である

世界が三つの巨大な超大国に分割されたのは、二十世紀半ば以前から予見されていたし、実際そうなった出来事であった。ロシアによるヨーロッパの吸収と、アメリカ合衆国による大英帝国の吸収によって、ユーラシアとオセアニアという二つの超大国が実質的に成立したのだ。三つ目のイースタシアが明確な勢力として現れるのは、さらに十年ほどの混乱の戦いの後である。三超大国の国境線は一部が恣意的で、一部は戦争の趨勢によって流動的だが、概ね地理的境界に従っている。ユーラシアはポルトガルからベーリング海峡まで、欧亜の陸地北部全域を含む。オセアニアはアメリカ大陸、大西洋諸島(ブリテン諸島含む)、オーストララジア、アフリカ南部を含む。イースタシアは他二つより小さく西端も定かではないが、中国およびその南諸国、日本列島、そして満州・モンゴル・チベットの大部分(ただし変動的)を含む。

この三つの超大国は、何かしらの組み合わせで常に戦争状態にあり、この二十五年間ずっとそうなのだ。しかし戦争はもはや二十世紀初頭に見られたような壊滅的で絶望的な闘争ではない。いずれの陣営も相手を全滅させられず、物理的な戦う理由もなく、イデオロギー的な違いも存在しない有限な目的の戦いなのだ。だからといって、戦争の運営やそれに対する一般意識が残忍さを失ったわけではない。むしろ全ての国で戦争ヒステリーは絶え間なく全般的に続き、強姦、略奪、児童殺戮、全住民の奴隷化、捕虜への苛烈な報復(煮殺しや生き埋めまで)が自軍によるものであれば美徳とされ敵によるものなら非難される。しかし物理的には戦争に携わる者はわずか、しかも高度に訓練された専門職で、犠牲者は比較的少ない。戦闘がある場合でも、それは一般人が位置すら想像できない曖昧な国境地方か、海上要衝を守る浮遊要塞周辺だ。文明圏の中心では戦争とは消費財の恒常的不足と時おり数十人の死者を出すロケット弾の墜落程度のものなのだ。戦争は本質的に性格が変わった。より正確に言えば、戦争が遂行される理由の重要度が変わったのだ。二十世紀初頭の大戦でわずかに顔を見せていた動機が、今や支配的となり――自覚的に認識され、実践されているのである。

現代の戦争の本質を理解するには(再編が数年ごとに起こるとはいえ、実際には常に同じ戦争なのだが)、まずこの戦争には決着がつくことが不可能であることを知る必要がある。三つの超大国いずれも、例え他の二大国が組んだところで決して征服されない。力は均衡しており、自然の防御も強力だ。ユーラシアは広大な内陸に守られ、オセアニアは大西洋と太平洋に守られ、イースタシアは住民の多産と勤勉さに守られている。第二に、物理的に戦うべき対象がもはや存在しない。自給自足の経済が成立し、生産と消費が連動しているため、旧来の主因であった市場争奪も終わり、原材料の獲得も生死に関わるほど切実ではない。いずれの超大国もほとんどすべての資源を自国内で調達可能なのだ。経済的意味での唯一の対立項は労働力である。超大国の国境地帯、いずれの大国にも永続的に属さないおよそタンジール、ブラザヴィル、ダーウィン、香港を頂点とする四角形の内側には、地球人口の五分の一が暮らす。これら高度に人口密集した地域と北極圏の支配を巡って三国は絶えず争っている。実際にはいずれかの勢力がこの紛争地帯全域を支配することは決してなく、領土の細片を奇襲で奪い合うことで勢力圏が入れ替わる。

紛争地帯には重要な鉱物資源や、寒冷地では高コストで合成せざるを得ないゴムのような植物資源も存在するが、それ以上に底なしの安価な労働力がある。赤道アフリカ、中東、南インド、インドネシア諸島を支配する勢力は、何億という低賃金で酷使できるクーリーたちの肉体をも支配する。ここの住民たちは公然または密かに奴隷身分に落とされ、支配者の交代とともに使い捨てられ、さらなる兵器製造、領土拡大、労働力確保のために次々に消耗されていく。なお戦闘はいつもこの紛争地帯の周縁にとどまり、中心領土には決して及ばない。ユーラシアの国境はコンゴ盆地と地中海北岸の間を前後し、インド洋・太平洋の島はオセアニアとイースタシアの間を奪い合い、モンゴルではユーラシアとイースタシアの境界が常に流動している。極地周辺では三国が広大な、しかしほぼ未踏・無人の地を取り合っている。だが勢力均衡はほぼ保たれ、各大国の心臓部は常に不可侵のままだ。加えて、赤道地帯の搾取された住民の労働は世界経済には本質的に不要である。彼らが生み出すものは全て戦争目的に使われるだけで、戦争の目的はさらなる戦争状態の維持に他ならない。奴隷人口の労働によって絶え間ない戦争のテンポが上がるが、彼らがいなかったとしても世界社会の構造と自己維持のプロセスは本質的には変わらない。

現代戦争の主目的は(ダブルシンクに則り、インナー・パーティの指導層自身も同時に認めつつ否認するが)、「機械による生産物を一般生活水準を上げずに消費し尽くすこと」にある。十九世紀末以降、消費財の余剰処理の問題は工業社会に潜在していた。今日では多くの人が食べるに事欠くとはいえ、もし意図的な破壊行動がなければ、状況はもっと深刻化していたかもしれない。今の世界は1914年以前と比べても、彼らが想像した未来世界と比べても、貧しく荒廃している。二十世紀初頭には、想像を絶するほど豊かで、余暇に満ち、秩序正しく、効率的な社会――ガラスと鋼、雪のように白いコンクリートの世界――がいずれ到来するとほとんどの知識人が夢見ていた。科学と技術は驚異的な速度で進歩しており、それが続くのは当然と思われていた。それが実現しなかったのは、幾度もの戦争と革命による困窮と、経験主義的思考が厳格な統制社会では生き残れなかったからである。全体として、今の世界は五十年前よりもむしろ原始的だ。遅れていた地域は進歩し、警察的技術と戦争に関するものだけは開発が進んだが、実験と発明はほぼ止まり、1950年代の原爆戦争の爪痕も完全には修復されていない。それでも機械にひそむ危険性は依然として残る。機械が姿を現した最初の瞬間から、人間の苦役と、それによる大規模な不平等が不要になったことは思慮ある全ての者に明らかだった。もし機械がその目的に使われれば、飢餓・過労・不潔・無学・病気は数世代でなくせる。実際には意図せず、単なる自動過程で――分配せずにはいられないほどの富を生み出すことで――十九世紀末から二十世紀初めにかけて、平均的な生活水準は飛躍的に向上した。

しかし、富の全面的な増加はヒエラルキー社会の破壊、いやある意味、それ自体がヒエラルキー社会の破壊であることも明らかだった。誰もが短時間労働で腹一杯食べ、浴室つきの家に住み、冷蔵庫や自動車たりとも飛行機を持つような世界では、目に見える最大かつ最も重要な不平等は既に消えてしまうだろう。富が広く行き渡れば、富は差別化の手段にはならなくなる。理論的には、個人財や贅沢品においては平等でも権力のみが特権階級に集中する社会もありえたが、実際にはそのような社会は長続きしない。余暇と安定を万人が享受すれば、普段貧困に麻痺している大多数もやがて読み書きを覚え、自ら考えはじめる。その時、特権階級の存在意義が消滅したと悟り、やがて打倒に動くだろう。長い目で見れば、ヒエラルキー社会は貧困と無知がなければ成り立たない。二十世紀初頭に回帰する農耕社会への回帰も現実的な解決策ではなかった。それは機械化の傾向と本能的に食い違い、また製造業において後進的な国は軍事的にも無力で、より進んだライバルの支配下に置かれる運命にあるからだ。

生産抑制による貧困の維持も満足できる解ではなかった。これは資本主義末期、1920~1940年ごろ、実際に多くの国で経済停滞、耕作放棄、設備投資停止、大量失業、国家の救済で半ば生かすといった形で現れた。しかしこれもまた軍事的脆弱性をもたらすため、明らかに不要な困苦を強いれば必然的に反発を招いた。問題は、世界全体の生産装置を活かしつつ、現実の富を増やさない方法にあったのだ。物資は生産されなければならず、だが配分されてはならない。そして、それを唯一可能にしたのが絶え間ない戦争だった。

戦争の本質は破壊にある。人命の破壊に限らず、人類の労働の成果の破壊である。戦争とは、本来なら一般大衆を快適にするであろう物資を、粉々にし、成層圏に廃棄し、深海に沈め、結果として長期的に知能を鋭くしないための手段なのだ。たとえ実際に兵器が破壊されなくても、その生産自体が消費財を生まない労働力の消費手段となる。例えば浮遊要塞一隻には、貨物船数百隻に相当する労働が投入されるが、結局時代遅れとして廃棄され、新たな浮遊要塞が壮大な労働によって建造されるだけだ。本質的に、戦争経済は必要最低限を満たした残りの全ての余剰を消費し尽くすように設計されている。実際には国民の必要分は常に過小評価されており、その結果、常に必要不可欠な物資の半分が慢性的に不足しているが、これはむしろ有利なこととされている。特権層ですら困難の瀬戸際に置くことで、小さな特権を重要なものとし、階層間の差を拡大できるからだ。二十世紀初頭基準では、インナー・パーティの一員ですら、質素で勤勉な生活を送っている。しかし、わずかな贅沢――広々として完備した部屋、上質な衣服や食料、煙草、数人の使用人、専用車やヘリコプター――はアウター・パーティの一員とは隔絶した世界に属することを示す。そしてアウター・パーティもまた、‘プロール’[下層民]よりは優越感を持つ。社会的雰囲気は包囲された都市に似ており、一切れの馬肉が富と貧困の分かれ目である。同時に、戦争状態下、ゆえに危険状態という意識が、全権を小集団に委ねることを生存の自然かつ不可避な条件としている。

戦争は、必要な破壊を、心理的に受け入れやすい形で実現する。一見、ピラミッドや寺院を作る、穴を掘ってまた埋める、あるいは大量生産後に焼却するような方法でも余剰労働力を消費できそうだが、それでは経済的基盤しか満たさず、階層社会に不可欠な情緒的基盤にはならない。重要なのは大衆の士気ではなく(彼らは絶えず働かせていれば態度は問題にならない)、パーティ自身の士気なのだ。パーティの最も卑しい一員ですら、有能で勤勉かつ限定範囲で知的であることが求められるが、同時に、恐怖・憎悪・傾倒・熱狂的勝利感に支配され、無知で偏執的な狂信者でなければならない。要するに、戦争状態にふさわしい精神構造を持つ必要がある。戦争が本当に起きているかどうかはどうでもよく、決定的勝利が得られない以上、進展具合も問題ではない。必要なのは、戦争状態が存在していることなのだ。パーティが構成員に要求する知性の分裂は、戦争的雰囲気の中でより容易に実現され、今やほぼ普遍的となっているが、階級が上がるほど顕著になる。戦争ヒステリーや敵への憎悪が最も強いのは、まさにインナー・パーティの内部である。管理職として、インナー・パーティの一員はしばしば戦時ニュースが虚偽であることや、そもそも全体の戦争自体が虚構であることも知っているが、ダブルシンクのテクニックによって、そうした認識は容易に中和される。一方で、インナー・パーティの誰一人として、戦争が現実であり、最終的には必ず勝利しオセアニアが世界を支配するとの神秘的信念が揺らぐことはない。

インナー・パーティのすべての構成員はこの未来の征服に信仰告白のごとく信じている。それは、徐々に勢力範囲を拡大し圧倒的優位性を築いていくか、あるいは誰にも対抗できない新兵器を発見するか、いずれかによって達成されるとされている。新兵器の開発競争は絶え間なく続き、それは数少ない発明や思索型の精神が発揮されうる残された領域の一つだ。現在のオセアニアでは「科学」は旧来の意味ではほぼ存在せず、ニュースピークでは「科学」に該当する語自体がない。体験観察的思考法――かつて全ての科学成果の基盤であったもの――はイングソックの根本原則に反する。そして技術進歩すら、人間の自由を抑圧する目的に適う範囲でしか起こらない。有用技術の分野では世界はむしろ停滞か後退しており、畑は馬耕で耕される一方、書物は機械で執筆される。それでも本質的に重要な――すなわち戦争と警察諜報――分野に限っては、経験主義的な研究が今も奨励もしくは容認されている。パーティの目標は、地球全土の征服と自主的思考の永久的根絶である。したがって彼らが解決しようとしている二大問題がある。一つは、相手が望まぬままにその考えを見抜く方法、もう一つは何億人もの人間を警告なしで一瞬で殺す方法だ。もし科学研究が続いているとすれば、それはこのテーマに尽きる。現代の科学者は、心理学者と尋問者の混合体――表情や動作、声色の微細な意味を観察し、薬物やショック療法、催眠、肉体的拷問の効果をテストする者――であり、また化学者・物理学者・生物学者として、生命奪取に有効な分野だけに焦点を当てる者である。「平和省」の巨大研究室や、ブラジル森林やオーストラリア砂漠、南極の孤島に隠された実験基地で、専門家チームが絶え間なく働いている。ある者は将来戦争の兵站計画を練り、ある者は大型ロケット弾や強力新爆薬、より貫通性の高い装甲を開発し、またある者は新型毒ガスや大陸全体の植生を破壊するほどの毒素、全抗体耐性病原体の開発を狙う。ある者は地中を潜航する車両や帆船のような空中機の開発に取り組み、さらには宇宙に浮かせたレンズによる太陽光集中、地球中心熱利用の人工地震や津波といった遥かな可能性まで追求している。

だがこうした計画はいずれも実現には程遠く、また三超大国のいずれかが他より顕著なリードを得ることもない。より顕著なのは、三国いずれも既に原子爆弾という最強兵器を持ち、現在の研究以上のものは取得できそうもないことだ。パーティは例によって自分たちの発明と主張するが、原爆は1940年代に初登場し、十年ほど後に大規模に使用された。当時数百発の爆弾が欧州ロシア、西ヨーロッパ、北アメリカの工業中心地に投下された結果、すべての支配集団は、あと数発で組織社会も自分たちの権力も終焉すると知った。それ以降、明文化や示唆すらなかったが、爆弾使用は停止された。三国はただひたすら原爆を増産・備蓄し、「いつか来る決定的好機」での投入に備えていると信じている。その間、戦争技術の進歩は三、四十年もほぼ止まったままだ。ヘリコプターの利用は増え、爆撃機は自走ミサイルに、脆弱な戦艦は浮遊要塞に代わったが、他はほとんど変わらない。戦車、潜水艦、魚雷、機関銃、ライフル、手榴弾まで現役だ。報道やテレスクリーンで絶え間なく流れる大量殺戮報告に反し、かつて数十万・数百万人が数週間で戦死したような、絶望的な総力戦はもはや繰り返されていない。

いずれの超大国も重大敗北のリスクを伴う作戦は行わない。大規模作戦があれば通常は同盟国への奇襲攻撃だ。三国が(あるいは自覚的にはそう思い込んでいる)採る戦略は同一である。戦闘と駆け引き、時宜を得た裏切りを組み合わせて、相手陣営をぐるりと基地で包囲し、その後その相手と友好協定を結び、長年平和関係を装って油断させる。この間に全戦略拠点へ原爆搭載ロケットを配備し、しかる後これを一斉発射し、反撃不能なほど壊滅的打撃を加える。次は残る超大国と協定を結び、次の一撃に備える――という筋書きだが、こんなのは現実的には夢物語に過ぎない。そもそも紛争は赤道と極地周縁地帯に限られ、敵本土への侵攻は決して行われない。そのため、場所によっては三超大国の国境線が恣意的だったりする。例えばユーラシアは地理的にヨーロッパに含まれるイギリス諸島を容易に征服できるし、オセアニアがライン河やヴィスワ河まで勢力拡大もできる。しかし、これでは「文化的一体性」という暗黙の原則に反する。オセアニアがかつてのフランスやドイツ地域を支配すれば、住民全滅か、一億人の技術的にはオセアニア水準の人々を取り込むしかない。これはどの超大国にとっても共通下の課題だ。構造上、外国人との接触は禁止され、(捕虜や有色奴隷以外では)最小限に絞られている。今の同盟国すら最も疑い深く扱われている。一般のオセアニア市民は、戦争捕虜を除けば他の超大国の市民を見ることはなく、外国語知識も禁止されている。万一接触すれば、彼らも自分たちと同じ人間であり、教え込まれた大部分は嘘だと知ることになる。彼自身の閉ざされた世界は崩れ、士気の源泉である憎しみや恐怖、正義感も消えかねない。だから、ペルシャやエジプト、ジャワやセイロンがいくら支配の手を替えようと、主要な国境は爆弾以外越えてはならないと、誰もが暗黙の合意で動いている。

その根底には、決して口にされないが暗黙に理解されている現実がある。それは、三国いずれの生活条件も極めて類似しているということである。オセアニアの支配思想はイングソック、ユーラシアでは新ボルシェヴィズム、イースタシアでは中国語名であり、通常「死の崇拝」と訳されるが実は「自己抹消」と呼ぶほうが近い。オセアニア市民は他二国の学説を一切知らされず、悪逆非道だとだけ教え込まれる。だが実際には三つの思想も社会体制もほぼ区別がつかない。ピラミッド型構造、半神的リーダー崇拝、戦争のために存在し戦争に養われる経済構造――すべてが同一なのだ。ゆえに三国は互いの制圧が不可能なだけでなく、制圧しても利益がない。それどころか敵対し続けることで互いの支配体制を支え合う――三束の麦のようだ。しかも、全ての支配集団は自分たちのしていることを同時に自覚しつつ・していないのだ。彼らの生活は世界征服に捧げられているが、同時に戦争を永遠に勝者なきまま継続する必要も知っている。その一方で、征服の危機がもはや現実味を持たないからこそ、イングソックとその亜流思想の特徴である現実否認が可能になる。繰り返すが、戦争が恒常化することで、その本質は根本から変わったのである。

かつては戦争は、勝利か敗北のいずれかで終わるものだった。さらに、戦争は人類社会と物理的現実を接続する主な手段でもあった。全時代の支配者は被支配層に偽りの世界観を押し付けようとしてきたが、軍事力を損なう幻想だけは許容できなかった。敗北が独立喪失や他の不利益を意味した限り、現実的な対策が不可欠だった。物理的事実は無視できなかった。哲学や宗教、倫理、政治では「二足す二が五」でも、銃や飛行機を設計するならば「二足す二は四」でなければならなかった。非効率な民族は遅かれ早かれ征服された。ゆえに効率性の追求は幻想を許さなかったし、さらに効率のためには過去から学ぶ必要がある。新聞や歴史書の偏向や粉飾はあったが、現在ほどの改竄は不可能だった。戦争は精神の均衡の保証装置であり、支配階級にとっては最も重要な装置だった。勝敗がある限り、支配層は完全に無責任にはなれなかった。

だが戦争が文字通り絶え間なく続く時、危険性も消える。軍事的必要性というものが消滅し、技術進歩も事実の否定も容認できる。テクノロジーの進歩を戦争目的で行う「科学研究」は依然残っているが、それも空想に近く成果が出なくても問題とされない。効率性――軍事効率すら――もはや不要だ。オセアニアで効率的なのは「思考警察」だけである。三超大国が互いに不可征服である以上、それぞれが独立した宇宙となり、どんな思想の逸脱も安全に実践できる。現実は食事や衣服、毒物を誤飲しないよう、最上階から転落しないといった日常的必要だけが圧力となる。生と死、肉体的快楽と苦痛の間には違いがあるが、それだけだ。外の世界や過去との接点を断たれたオセアニア市民は、さながら宇宙空間の孤独者で、上下すらわからない。こうした国家の支配層は、かつてのファラオやカエサルですら夢にも思わなかったほど絶対的だ。彼らが義務付けられているのは、追従者が不都合な規模で餓死しないようにすること、そして主要ライバルと同じ程度に軍事技術水準を維持することだけ。しかし最低限が達成されたら、現実はどうにでも操作可能だ。

したがって現代の戦争は、旧来の基準で測ればただの詐術にすぎない。たとえば、角の形状のために互いに危害を加えられない反芻動物の闘争のようなものだ。しかし非現実的ではあるが、意味がないわけではない。消費財の過剰分を消費し、ヒエラルキー社会の特有の精神的雰囲気を維持する役目があるのだ。今や戦争とは、徹底的に内部的な事象なのだ。かつては、すべての国の支配者は共通利益を知覚し、戦争の破壊性を抑えることはあっても、本当に互いに争い、勝者は敗者から略奪した。今や本当の敵は外ではなく、各国内部にいる。戦争は領土獲得や阻止のためではなく、社会体制維持のために遂行される。「戦争」という言葉自体もはや誤解を生む用語となっている。言うなれば、戦争が恒久化したことで戦争そのものが消えたともいえる。新石器時代から二十世紀初頭まで人類に与えていた独特の緊張は消え、まったく別のものに置き換わった。もし三超大国が互いに戦わず、それぞれ永遠に不侵領域として「永久平和」状態に生きることを合意したとしても、同じような結果となる。なぜならそれぞれがそれぞれの宇宙となり、外的危険から永遠に解放される。真の「恒久平和」は恒久戦争と同義なのである――このことこそ、圧倒的大多数のパーティ構成員は表層的にしか理解していないが、「戦争は平和である」という党スローガンの内実なのだ。

ウィンストン・スミスは一旦読むのを中断した。遠くでロケット弾が轟いた。禁じられた本とただ二人きり、テレスクリーンもない部屋――その幸福感は消えていなかった。孤独や安全は身体的感覚と混ざり合い、疲労や椅子の柔らかさ、窓からのそよ風の感触と一体となっていた。本は彼を魅了したというより、むしろ安心させた。ある意味で目新しいことは書かれていない。しかしそれが魅力の一因となっている。自分のまとまらない思考を、そのまま秩序立てて言語化できるかのようだ。それは彼自身に似た頭脳、しかし遥かに力強く、組織的で、恐みにとらわれていない知性の産物だった。良書とは、自分が既に分かっていることを語ってくれる本なのだと彼は理解した。彼はちょうど第一章に戻ったとき、ジュリアの足音が階段に響き、椅子から跳ね起き出迎えた。彼女は茶色い工具袋を床に放り出し、ウィンストンの腕に飛び込んできた。もう一週間以上も会っていなかった。

「例の本を手に入れた」と、二人が体をほどくとウィンストンはそう言った。

「手に入れたの? よかった」と、ジュリアは特に興味もなさそうに答え、すぐにオイルストーブの脇に膝をつきコーヒーの準備を始めた。

ふたりがその話題に戻ったのは、ベッドに入ってから三十分後のことだった。夜はちょうどカウンターペインを引き上げるのに十分な涼しさだった。下の階からは、歌声とブーツの地面をこする音がいつものように聞こえた。ウィンストンが初めてこの場所に来た時に見かけた、逞しい腕の赤い女性は、まさしく庭の主のように存在していた。昼という昼、彼女が洗濯桶と物干しを往復し、洗濯ばさみを咥えたり、大声で歌い出す姿が途切れることはなかった。ジュリアは自分の側に落ち着き、すでに半ば眠りかけているようだった。ウィンストンは床に置いてあった本を手に取り、ベッドヘッドにもたれて座った。

「これを読もう。君もだ。同志団の誰もが読むべき本だから」

「あなたが読んで。声に出して。そういうのが一番いい。そしたら途中で説明してくれるでしょ」

時計の針は十八時を示していた。まだ三、四時間は余裕がある。彼は本を膝に立てかけ、音読を始めた。

第一章

無知は力である

記録されている限りの時代、そしておそらく新石器時代の終わりからずっと、世界には三種の人間、すなわち上層、中層、下層が存在してきた。それらは様々な方法で細分化され、実に数多くの別々の呼び名を与えられ、人数比もまた互いの態度のあり方も時代によって変化してきた。しかし、社会の根本的な構造そのものは決して変わらなかった。どんなに巨大な激変や、取り返しがつかないと思える変革があったとしても、ジャイロスコープがどちらに押されても均衡に戻るように、同じパターンが常に再び現れるのだ。

「ジュリア、起きてる?」とウィンストンは声をかける。

「ええ、聞いてるわ。続けて。すごいわね」とジュリアは応えた。

彼は読み続けた。

この三つのグループの目的はまったく両立しない。上層の目的は現状維持である。中層の目的は上層と立場を入れ替えること。下層の目的は――もし彼らに目的があるならばだが――(下層の特徴として、日々の労苦に圧しつぶされ、日常の外にあることに断続的にしか意識が向かない)、あらゆる区別を廃し、すべての人間が平等な社会を作ることだ。こうして、歴史上、全体の骨組みとしては同じ闘争が何度も繰り返されてきた。上層が長期にわたり強固に権力を握っているように見える時期もあるが、遅かれ早かれ、彼らは自信または効率的に統治する能力か、その両方を失う瞬間が必ずやって来る。そのとき彼らは中層によって打倒される。中層は下層を味方に引き込むため、「自由と正義のために戦っている」と装う。だが目的を達成すると、下層を元の隷属位置に押し戻し、自らが上層となる。やがて中層の中から新たな中層集団が分離し、再び闘争が始まる。三つのグループのうち、下層だけが自分の目標を一時的にでも実現したことは一度もない。物質的進歩のすべてが無意味とは言わない。今、衰退期でさえ、平均的人間は数百年前よりは遥かに良い生活を送っている。しかし、どれほど富が増加し、行儀が良くなり、改革や革命が起きても、人間の平等が一ミリでも近づいたことはない。下層の立場から見れば、歴史的変化が意味したのは、主人の名が変わったこと以外、ほとんど何もなかったのだ。

19世紀末になると、この繰り返されるパターンは多くの観察者にとって明らかとなった。そして歴史を循環的過程として解釈し、不平等こそが人間生活の変えようのない法則であると主張する思想家たちの学派が現れた。この教義はもちろん、昔から信奉者がいたのだが、今やその主張のされ方には重要な変化があった。過去においては、階層的社会の必要性はもっぱら“高位[ハイ]”の者たちの教義であった。それは国王や貴族、さらに彼らに寄生する聖職者や弁護士らによって説かれてきたものであり、たいていの場合、死後の空想の世界での補償という約束で和らげられてきたのである。“中位[ミドル]”は、権力を求めて闘争している間こそ、「自由」「正義」「友愛」といった言葉を利用してきた。しかし今や、人間的兄弟愛の観念は、まだ権力を手にしていないが、やがては手にしたいと望むだけの者たちによって攻撃されるようになった。過去においては、中位層が革命を平等の旗印のもとに行い、古い秩序を覆すや否や、新たな圧制体制を確立した。新しい中位層は、実質的に、事前に自らの圧制を宣言したのである。社会主義は19世紀初頭に現れた理論であり、古代の奴隷反乱までさかのぼる思想の連鎖の最後の環であったが、過去時代のユートピア主義をいまだ深く引きずっていた。しかし、1900年前後から現れた社会主義の各変種では、自由と平等の実現という目的が次第に公然と放棄されるようになっていった。世紀中期に現れた新しい運動、オセアニアにおけるイングソック、ユーラシアの新ボルシェヴィズム、イースタシアで一般に「死の崇拝」と呼ばれる運動は、不自由と不平等の永続を意識的に目指していた。これらの新しい運動は、もちろん古い運動から生まれ、それらの名や理念に表面上は従いつづけた。しかし、その目的はすべて進歩を阻止し、歴史を選ばれた一点に固定することだった。おなじみの振り子の運動は再び起こるが、今度は止まるのである。例によって高位層は中位に追い落とされ、中位層が次は高位層となる。しかし今回は、意図的な戦略によって高位層がその地位を永久に保持できるようになっていた。

こうした新しい教義は、部分的には史的知識の蓄積や史観の発達によるものだった。19世紀以前には史観というもの自体、ほとんど存在しなかったのである。歴史の循環運動はいまや理解可能――あるいはそう見える――となった。そしてそれが理解可能であるならば、変えられるということになる。しかし根本的な原因は、20世紀初頭までには人間の平等が技術的に実現可能になったということである。人は依然として生まれつきの才能に差があり、役割分担のためにある者が他よりも有利になる特化は必要とされたが、もはや階級差や大きな財産格差は必要なくなった。かつては階級差は避けがたく、むしろ望ましいものですらあった。不平等は文明の代償だった。しかし機械生産の発達とともに事情は変わった。人間が異なる仕事を割り当てられる必要があったとしても、もはや社会的・経済的水準が異なる必要性はなくなった。したがって権力奪取を目前にした新しい層からすれば、人間の平等はもはや追求すべき理想ではなく、回避すべき危険となった。より原始的な時代、実際に公正で平和な社会が不可能だった時代には、それを信じることは比較的容易だった。人間が兄弟愛のもと、法も、粗野な労働もなく共に生きる地上の楽園という観念は、何千年にもわたって人類の想像力を捉えてきた。そしてこのヴィジョンは、歴史の変化のたびに恩恵を受ける側の集団にすら一部影響を及ぼしてきた。フランス、イギリス、アメリカ革命の後継者たちは、「人権」「言論の自由」「法の下での平等」といった自らの標語を半ば信じており、その行動すらある程度それに影響されてきた。しかし20世紀の第四十年(1940年代)には、主要な政治思想の潮流はすべて権威主義的なものとなった。地上の楽園は、ちょうど実現可能となった時に否定されたのである。いかなる新しい政治理論も、その名が何であれ、最終的には階層秩序と画一化へと回帰した。そして1930年ごろからの全体的な見解の硬直化の中で、かつては何百年も前に放棄された慣習――裁判なしの投獄、戦争捕虜の奴隷化、公開処刑、自白させるための拷問、人質の利用、そして住民全体の強制移送――が、再び日常的に行われるだけでなく、自らを啓蒙的・進歩的だと考える者たちによっても容認され、擁護されたのだった。

十数年にわたる国家間および内戦、革命と反革命の時代の後、イングソックとそのライバルたちは、はっきりした政治理論として現れた。しかしこれらは、世紀初頭に現れたいわゆる全体主義体制と呼ばれるさまざまな制度によってすでに予兆されていたものであり、混沌から出現する世界の輪郭は長らく明確だった。どのような人々がこの世界を支配するかも同様であった。新しい貴族階級は、大部分が官僚、科学者、技術者、労働組合指導者、広報の専門家、社会学者、教師、新聞記者、職業政治家などで構成されていた。こうした人々は俸給取りの中産階級や労働階級の上層にその出自を持ち、独占資本と集権政府の不毛な世界によって形成され、結びつけられた者たちであった。過去時代の同種の人々と比べると、彼らはあまり貪欲さや贅沢への誘惑がなく、権力欲はより純粋で、何より自分たちがしていることを強く自覚し、反対勢力を粉砕することへの執念が強かった。この最後の違いこそ決定的である。現代と比較すると、従来の圧政はすべて生ぬるく、非効率だった。支配層はある程度リベラルな思想に毒され、隙だらけであり、表面的な行為だけに目を向け、被支配者の思考には興味を示さなかった。中世におけるカトリック教会ですら、現代の水準から見れば寛容である。その理由の一つは、過去のいかなる政府も、国民を常に監視下に置くことはできなかったからである。しかし印刷技術の発明は世論操作を容易にし、映画とラジオによってその過程はさらに進んだ。テレビジョンの発展、すなわち受信と送信が同一機器で同時に可能になる技術革新とともに、私生活は終焉を迎えた。すべての市民――監視の価値があるほど重要な市民――は、24時間警察の目と公的宣伝の音声のもとに置かれ、他の一切の通信手段は遮断された。国家の意思への完全な服従だけでなく、あらゆる主題に対する完全な意見の画一化も、初めて可能となったのである。

50〜60年代の革命期の後、社会は例によって高位・中位・低位の三層に再編成された。しかし今度の高位層は、これまでとは異なり、習性ではなく、自らの地位を守るために何が必要かを理解して行動した。寡頭政治の唯一の安全な基盤は集産主義であることが、長らく認識されてきた。富と特権は共同保有する場合が最も容易に防衛できる。いわゆる「私有財産の廃止」は、事実上、財産の集中を以前よりはるかに少数の手に集めたということであった。ただし、その新しい所有者が大衆ではなく集団であるという違いがあっただけである。党の構成員個人は、ささやかな私物以外は何も所有していない。だが党の集合体は、オセアニアのすべてを支配し、すべての産物を好きなように処分している。革命後の数年間、この支配的地位はほとんど反対されることもなく確立された。なぜなら、この一連の過程が集産化の行為として描かれていたからだ。資本家階級が追放されれば必ず社会主義になるはずだと思われていたのである。そして実際に資本家は追放された。工場、鉱山、土地、家屋、交通手段――すべてが奪われた。そしてこれらがもはや私有財産でない以上、公共財産であるはずだった。イングソックは初期の社会主義運動から成長し、その用語も受け継いでいるが、実際には社会主義プログラムの主要項目の一つを遂行した。その結果、意図されていたように、経済的不平等は恒久的なものとなった。

だが、階層社会を永続させる問題はもっと根深い。支配集団が権力の座から滑り落ちる道は四つしかない。外部から征服される場合、無能な統治で大衆蜂起を招く場合、有力で不満を抱いた中位集団が現れる場合、そして自信と支配意欲を喪失する場合だ。これらの原因は単独で作用するのではなく、たいていすべてが何らかの形で作用する。すべてに備えうる支配階級が現れたとすれば、永遠に権力を保持できるだろう。最終的には、支配階級自身の精神的態度が決定要因となる。

現世紀の半ば以降、第一の危険は事実上消滅していた。現在、世界を分割する三つの大国はいずれも征服不可能であり、長期的な人口変動を除けば、権限を持つ政権が簡単に防ぐことのできる。「大衆蜂起」という第二の危険もまた理論上のものでしかない。大衆は自発的に反乱を起こすことはなく、単に抑圧されているからといって蜂起することもない。比較基準を持つことが禁止されている限り、自分たちが抑圧されていることにさえ気づかないのだ。かつては周期的に訪れていた経済危機も、現在は全く起こらないようになっているが、それに代わる同等の混乱が起きても、政治的結果を生まない。なぜなら不満が言語化される経路がないからである。機械技術以降、我々の社会に隠れていた過剰生産の問題については、(第III章で述べる)絶えざる戦争という仕組みによって解決されている。これはまた大衆の士気を必要な高揚状態に保つ上でも有用だ。したがって現在の支配者層からみて、唯一現実的な危険は、新たに有能で職に恵まれず権力欲旺盛なグループが分離し始めること、そして自らの内部にリベラル思想や懐疑主義が広まること、すなわち「教育」の問題だけだ。直接的統治集団と、その直下の執行集団、両者の意識を絶えず型にはめ続けることが課題である。大衆の意識については、ひたすら消極的に影響しさえすれば十分なのだ。

このような背景を踏まえれば、オセアニア社会の一般構造は、知らなくても容易に推測できるはずだ。ピラミッドの頂点にいるのはビッグ・ブラザーである。ビッグ・ブラザーは完全無欠で全能とされている。あらゆる成功、業績、勝利、科学的発見、知識、知恵、幸福、美徳は、すべて彼の指導と霊感から直接生み出されているとみなされている。ビッグ・ブラザーを実際に目撃した者はいない。彼は広告看板の顔であり、テレスクリーンの声である。彼が死ぬことは決してないと考えられており、生年すらもう疑問視されているほどだ。ビッグ・ブラザーとは、党が自らを世に示すために選びとった仮面なのだ。彼の役割は、愛・恐怖・崇敬といった感情を集中させる焦点となることであり、そうした感情は組織よりも個人へ向ける方が容易なのだ。ビッグ・ブラザーの次にくるのがインナー・パーティ、人数は600万人未満、すなわちオセアニア全人口の2%に満たない。インナーパーティの下がアウターパーティで、仮にインナーパーティが国家の頭脳であるなら、アウターパーティは手に例えられる。その下にいるのが通常“プロール”(労働者階級)と呼ばれ、人口の85%を占める哀れな大衆である。我々の以前の分類で言えば、プロールは“低位[ロー]”であり、赤道地方で支配者が変わるたびに従属する奴隷民は、恒久的・必然的な構造の一部とはみなされない。

原則として、この三階級のどれも世襲制ではない。インナーパーティの子供が自動的にインナーパーティとなるわけではない。党のいずれかの部門への入党は、十六歳で行われる試験によって決まる。また人種差別も、ある地方が他より優勢ということもない。党の最高幹部にはユダヤ人、黒人、純粋インディアン血統のラテンアメリカ人も見られ、各地の行政官は常にその地域出身者から任命されている。オセアニアのどこにも「遠隔地の首都から統治される植民地的支配層」という感覚はない。オセアニアには首都はなく、名目上の長も誰も居場所を知らない。英語が主要な共通語であり、ニュースピークが公用語であることを除けば、何ら中央集権的ではない。支配者たちを結びつけるのは血のつながりではなく、共通の教義への信仰である。我々の社会が階層的でしかも非常に固定的で、表面的には世襲的であるのは事実だ。資本主義時代や産業化前の時代より、異なる階級間の移動ははるかに少ない。党内二部門間の人事交流も、インナーパーティから無能な者を排除し、アウターパーティから野心的な者を昇格させて無害化する程度の最小限である。プロールが党員になることは実際には認められていない。彼らの中でも本当に有能で危険になりうる者は、思考警察によってマークされ、消される。だがこうした状態は、永続的でも原則的でもない。党はいわゆる旧来の意味での階級ではない。自分たちの子供に権力を伝え残すことを目標としていないし、もし最上層に最有能な人材を保つには新たにプロール出身の世代を大量補充しなければならないとすれば、喜んでそうするだろう。党が世襲組織でなかったことは、決定的な時期に反対勢力を無力化する大きな要素となった。旧来の社会主義者は、「階級特権」というものと闘うよう訓練されてきたため、「非世襲=恒久化しない」と思い込んでいた。しかし寡頭制の連続性は物理的なものではありえないこと、世襲貴族はいつも短命であるが、カトリック教会のような養子的組織は何百年もあるいは何千年も持続することを考えなかった。寡頭的支配の本質は、父から子への継承ではなく、死者から生者への世界観・生き方の継承なのだ。支配集団とは、後継者を指名できる限り支配集団である。党が執着するのは自分たちの血を残すことでなく、自分たち自身を残すことである。誰が権力を行使するかは重要ではなく、階層構造さえ常に同じであればよい。

現在のわが時代を特徴づける信条、習慣、嗜好、感情、精神的態度のすべては、党の神秘性を維持し、現今社会の実態に気づくのを妨げるために設計されている。物理的反乱、あるいは反乱への第一歩も不可能である。プロールについて恐れることは何もない。彼らに任せておけば、彼らは世代から世代、世紀から世紀へと、働き、生み、死ぬのを繰り返し、反乱への衝動どころか、世界が現状と違い得ること自体を理解できないままである。彼らが危険となるのは、工業技術の進歩によってより高い教育が必要となった場合だけだが、軍事的・商業的競争が無意味となった今、民衆の教育水準は実際には低下している。大衆がどんな意見を持とうが持つまいが、気にも留めない。彼らには知性がないため、知的自由を与えても問題はない。一方で党員は、些細な問題についてでも意見のわずかな逸脱も許されない。

党員は、生まれてから死ぬまで思考警察の監視下にある。一人きりの時ですら、本当に一人であるとは限らない。どこにいようとも、眠っていようが起きていようが、働いていようが休んでいようが、風呂やベッドの中でも、予告なしに、しかも本人が気づかないうちに監視されうる。彼のすることに意味のないことは何もない。友人関係、娯楽、妻子への態度、一人でいるときの顔の表情、寝言、さらには体の独特の動きまですべて、嫉妬深くチェックされる。実際の罪だけでなく、どんな些細な癖や習慣の変化、内なる葛藤の兆しとなりうる神経的挙動も必ず発見される。いかなる選択の自由もない。他方で、行動は法や明文化された行動規範では規制されていない。オセアニアには法が存在しない。露見すれば即死刑となる思考や行動でさえ、建前上は禁じられてはいない。果てしない粛清・逮捕・拷問・投獄・蒸発は、実際に犯した犯罪に対する罰としてではなく、将来犯罪の可能性がある者を事前に葬るためだけになされている。党員には正しい意見だけでなく、正しい本能が要求される。要求される信念や態度の多くは明言されることなく、その性質上一度も言語化されずにいる。それを明言すればイングソックの根本的な矛盾が暴露されてしまうからだ。生まれながらの正統派(ニュースピークでいうところの善思考者)であれば、どんな状況でも正しい信念や望ましい感情を直観的に知ることができる。しかしいずれにせよ、子供時代からの高度な精神訓練を受けており、ニュースピークの犯罪遮断・黒白・ダブルシンクといった語彙のまわりに集約されているため、何ごとも深く考えようという意志も能力も失われている。

党員は、私的な感情や熱意から抜け出す隙間を持つことが期待されていない。外国の敵や内部の裏切り者に対する絶え間ない憎悪、勝利への歓喜、党の権力と知恵への自己卑下の混乱の中に生きるよう求められる。貧しく不満足な生活からくる不満は、二分間憎悪のような装置によって意図的に外へ向かわせて発散させ、懐疑的・反抗的姿勢へ導きかねない思索は、子供時代から訓練された内なる規律で事前に殺される。その規律の第一かつ最も単純な段階は、犯罪遮断(CRIMESTOP)というニュースピーク用語で呼ばれている。犯罪遮断は、本能的に危険な思考の手前で立ち止まれる能力を意味する。それはまた、類推を捉え損ね、論理的誤りを見抜けず、イングソックに敵対する主張を単純に誤解し、不正統的方向に導く一連の思考に退屈して嫌悪感を抱ける能力を含んでいる。要するに犯罪遮断とは防衛的な愚鈍さである。しかし愚鈍さだけでは十分でない。むしろ完全な正統思考には、自分自身の精神活動に対して肉体操者が体を制御するのと同じほどの完全な管理能力が要求される。オセアニア社会は究極的には、ビッグ・ブラザーの全能と党の無謬性への信仰の上に立脚している。しかし現実にはビッグ・ブラザーは全能ではなく、党も無謬ではないので、事実の扱いには不断の柔軟性が求められる。この要となるのが黒白である。多くのニュースピーク語と同様、この語も互いに矛盾する二つの意味を持つ。敵対者について言えば、これは事実に反して平然と「黒を白」と主張する習慣を意味する。党員についていえば、党の戒律が求めるときには「黒が白だ」と忠実に口にする意欲を示すが、それだけでなく「黒が白だ」と信じ、さらに「黒が白だ」と知り、かつかつてその逆を信じていたことを忘れる能力を表わす。これは、絶えざる過去改竄によって支えられ、あらゆる思想操作を包含する思考体系――ニュースピークでダブルシンクと呼ぶもの――に支えられている。

過去改竄は二つ理由から必要で、その一つは副次的・予防的なものだ。副次的理由は、党員もプロール同様、比較基準を持たないことで現状を容認しているからである。彼は過去と隔絶され、外国とも隔絶され、自分が祖先より豊かであり、物質的な生活水準が着実に上昇していると信じ込まされている必要がある。しかしより重要な理由は、党の無謬性の維持である。単に演説・統計・あらゆる記録の類いを党の予言が常に的中していたという点で絶えず更新しなければならないことだけではない。教義や政治同盟のいかなる変更も、絶対に認められないからである。心変わりや政策転換は、党にとって弱さの告白でしかない。たとえばユーラシアまたはイースタシアのどちらかが今日の敵なら、過去も常に敵でなければならない。もし事実が逆を示していれば、事実を変更しなければならない。こうして歴史は常に書き換えられる。この日々続く歴史の偽造――真理省が行う――は、愛情省による弾圧と諜報と同程度に体制の安定に必要なのだ。

過去は可変であるというのがイングソックの根本信念である。過去の出来事は客観的には存在せず、記録と人々の記憶にのみ残っている、と論じられる。そして党がすべての記録を管理し、党員の精神も完全に管理している以上、過去とは党が決めるものである。さらに、過去が変えられるとしても、それがいつ変更されても、それは変更されたことがないことになる。なぜなら、その時々の必要に応じて新たに作られた現在のバージョンこそが「過去」であり、それ以外の過去は存在しえないからだ。これは、一つの出来事が年に何度も全く異なるものとして書き換えられる場合でも同じである。常に党は絶対真理の所有者であり、絶対とは今あるそれ以外にありえないということである。過去支配の根本は記憶の訓練にあることが分かる。記録を現在の正統思想に合わせて作り直すのは機械的作業にすぎない。だが、出来事が望むように起きたと記憶することも必要であり、もし記憶を再構成するか記録を操作したなら、それを自分が行ったこと自体まで忘れなければならない。それをやるコツは、他の精神的技能と同じく訓練によって習得できる。多くの党員、特に知的で正統的な者はこのトリックに習熟している。旧来英語で「現実統御」、ニュースピークでダブルシンクと呼ぶものは、他にも多くの意味を含んでいる。

ダブルシンクとは、互いに矛盾する二つの信念を同時に心の中に保ち、どちらも受け入れる能力である。党の知識人は、自分の記憶をどの方向に変更すべきか知っており、したがって現実を操作していることも知っているが、ダブルシンクを作動させることで、現実が侵されていないとも自ら納得する。この過程は意識的でないと正確には実施できないが、意識的すぎると虚偽や罪悪感に悩まされるので、同時に無意識でもなければならない。党の本質は、徹底的な誠実さと意思の強さを保持しつつ、意識的な詐術を使いこなすことである。自覚的に嘘をつきながら、それを本気で信じること。都合の悪い事実は忘れ、必要になった時だけ記憶から呼び戻すこと。客観的現実の存在を否定しながらも、否定した現実を同時に計算に入れること。これが絶対不可欠である。ダブルシンクという言葉そのものを使うときにも、ダブルシンクを発動しなければならない。言葉を用いることで現実操作を自覚し、その自覚をまた消し……と無限に続けていく。常に嘘が真実より一歩先を行っているのである。結局のところ、ダブルシンクによって党は歴史の歩みを止め、あるいは数千年先も止め続けられるのだ。

過去のあらゆる寡頭制政権は、硬化あるいは軟化によって没落してきた。状況変化に適応できず愚鈍で傲慢となり打倒されたか、リベラルで臆病になり、力を用いるべきを譲歩してしまい、やはり打倒されたのだ。つまり意識的であっても、無意識的であっても崩壊した。党が達成したのは、この両極端の条件を同時に存在させうる思考体系を生み出したことである。他にどんな知的基盤を用いても、党の支配を恒久化することはできない。支配しつづけるには、現実感覚を破壊しきれることが必要なのだ。支配の秘訣は、自分の無謬性を確信しながら、過去の誤りからも学べる力をつけることである。

言うまでもなく、ダブルシンクの最も巧妙な使い手は、それを発明し、これは広範な精神的詐術体系だと知っている者たち自身である。我々の社会では、何が起きているか最もよく知っている者が、最も現実を直視できていない。一般に、理解力が高いほど妄想が強く、知的な者ほど正気を失っている。一つの例が、戦争ヒステリーが社会階層の上に行くほど強まる事実である。戦争に最も合理的な態度をとるのは、係争領域の被支配民だ。彼らにとって戦争は、ただ引き波のように自分たちを飲み込む終わりなき災厄であり、どちらが優勢かなどは全く興味がない。支配者が変われば、従来通りの仕事を新しい支配者のもとでするだけなのである。ややましかもしれない“プロール”は、戦争を断続的にしか意識しない。必要なときにだけ教唆されて恐怖と憎悪の発作に陥るが、放っておけば長い間戦争のことなど忘れていられる。真の戦争熱は、党員、特にインナーパーティの間に見出される。世界征服を最も本気で信じているのは、それが不可能と知る者たちである。この知と無知、皮肉と狂信の奇妙な結合こそ、オセアニア社会の主たる特徴のひとつだ。公式イデオロギーには、実利的理由がなくても矛盾が満ちている。党は社会主義運動が立脚したあらゆる原則を否定・中傷し、その名のもとにそれを行う。数世紀ぶりに類を見ない労働者蔑視を説きながら、そのためだけに一時期労働者階級特有だった制服姿に党員を装わせる。家族の連帯を体系的に破壊しながら、リーダーの名称には家庭的忠誠心に訴える名を使う。支配を受ける四つの省の名前さえ、事実の意図的な逆転という図太さを示している。平和省は戦争、真理省は虚偽、愛情省は拷問、豊富省は飢餓――彼らの名前と中身がでたらめなのは偶然でも偽善でもなく、ダブルシンクのための練習である。矛盾の調和こそ、権力の永久維持の唯一の条件なのだ。それ以外に、古代以来のサイクルを断ち切る道はない。もし人間の平等が永遠に遠ざけられなければならず、いわゆる高位層が半永久的に地位を守るなら、支配的な精神状態は統制された狂気でなければならない。

だが、ここまでほとんど無視されてきた問いが一つある。それは「なぜ人間の平等を避けねばならないのか?」ということだ。もし仕組みについての記述が正しいとして、この莫大で精密な努力――歴史を特定の時点に凍結しようとする努力――の動機は何なのか? 

ここにきて、われわれは核心に迫る。ご覧のとおり、党――とくにインナーパーティ――の神秘性はダブルシンクに依存している。しかしその更に下層には、もともとの動機、つまりそもそも権力掌握に駆り立てダブルシンクや思考警察、永久戦争その他すべての必要な装置を生み出した決して疑われない本能がある。この動機は本当のところ……

ウィンストン・スミスは静けさに気づいた。それは新しい音を聞くかのような感覚だった。ジュリアがしばらくのあいだ、まったく動かずにいたことに今気づいた。彼女は上半身裸で横向きに寝そべり、手のひらに頬をのせて、その目元には黒髪の一房が垂れていた。胸がゆっくりと規則正しく上下している。

「ジュリア。」

返事はない。

「ジュリア、起きてるかい?」

返事はない。眠っていたのだ。彼は本を閉じて、慎重に床に置き、横になってふたりの上に掛け布を引き寄せた。

彼はまだ、究極の秘密を知らされていないと自覚した。彼は「どうやって」は理解したが、「なぜ」は理解できていなかった。第一章も第三章も、彼のすでに知っていることを体系立ててくれただけで、目新しいことは書かれていなかった。だが、読み終えてからは、以前よりも自分が狂っていないと確信できた。少数派、それがたとえ一人きりの少数派でも、それだけで狂気にはならない。真実は真実、虚偽は虚偽。そして仮に全世界を敵にしてでも真実にしがみつけば、それで狂ってなどいない。沈みゆく太陽の黄色い光束が窓から差し込み、枕元を斜めに横切る。彼は目を閉じた。顔にあたる太陽のぬくもりと、自分にふれる滑らかな少女の体温とで、強く眠たい、安心しきった気分が溢れてきた。自分は安全で、すべてうまくいっているのだ。そう思いながら眠りに落ち、「正気は統計じゃない」とつぶやきつつ、それこそが深い英知だと感じていた。


彼が目覚めたときは長時間眠ったような気がしたが、昔風の時計を見ると、まだ20時半だった。しばらくぼんやり横になる。やがて、下の中庭からおなじみの深い声の歌声が響き始めた。

  「それはただ、望みのない夢だった
   四月の一日花のように、すぐに消えた
   でもその瞳とことば、そして呼び起こされた夢が
   私の心を奪っていった!」

くだらないこの歌は、いまだ人気が衰えていないらしい。どこに行っても耳にする。憎悪の歌よりも長続きしていた。ジュリアはその声で目覚め、気持ちよさそうに伸びをしてベッドを降りた。

「おなかすいたわ。コーヒー淹れましょ。ちぇっ! ストーブが消えて水も冷たい。」彼女はコンロを持ち上げて振ってみせた。「油が切れてるわ。」

「チャリントン老人にもらってこれるかもな。」

「ちゃんと満タンにしておいたはずなのに。不思議だわ。服着ようかな、なんだか冷えてきた。」

ウィンストン・スミスも起きて服を着た。変わらず女の歌声が響く。

  「時がすべてを癒すというけど
   いつかは忘れられるともいうけど
   微笑みも涙も、さまざまな歳月の彼方
   いまだ私の心の弦を締めつける!」

つなぎのベルトを締めると、彼は窓までぶらぶら歩いていった。太陽は家々の裏に沈んでしまったのか、もう中庭を照らしていなかった。石畳はまるで水洗いされたように濡れており、煙突越しに見る空の青さも洗いたてのように新鮮だった。女はひたすら前後に行き来し、栓を抜き、また歌い、黙り込んではおむつを干し、それが終わることなく続いていた。洗濯で生計を立てているのか、それとも二十人なり三十人なりの孫たちの奴隷なのかと彼は思った。ジュリアがそばに寄り添い、ふたりで下の逞しい姿を魅入られるように見つめた。その女の特徴的な仕草、洗濯索に手を伸ばす太い腕、力強い牝馬のような尻を眺めて、彼は初めて「美しい」と感じた。これまで幼少期の美しさを失い、出産で膨らみ労働で粗くなった五十歳の女性の体が美しいなどと考えたことはなかった。しかし実際そうなのだと気付いた。そして、なぜそれがいけないのだろうか、とも思った。このがっしりとした彫刻のような輪郭なき体と、荒れて赤黒くなった肌は、少女の体に対してバラの実がバラの花に持つ関係に等しい。果実が花より劣るとは誰が決めた? 

「きれいだな」と彼は呟いた。

「腰まわり一メートルは余裕よ」とジュリアは言った。

「それがあの人の美しさなんだ」とウィンストンは言った。

彼はジュリアのしなやかな腰を腕で楽々と抱いた。腰から膝まで、彼女の横は自分の腿に押し当てられている。このふたりから子どもが生まれることは、決してない――それだけはできないことだった。ただ言葉で、心から心へと秘密を伝えるしかない。あの女には理性はなく、あるのは腕力と温かな心臓と豊かな腹だけだった。何人の子どもを産んできたのだろう。きっと十五人だっておかしくない。一年かそこらの短いバラの花の美しさを得るやいなや、一気にはじけて果実となり、固く赤く荒れていった。一生はただ洗濯、こすり洗い、修繕、料理、掃き掃除、磨きに明け暮れ、まずは子ども、ついで孫を三十年も一度の途切れもなく世話し続けた。その終わりになっても、彼女はまだ歌っているのだ。彼女への神秘的な敬意は、煙突越しの蒼白でどこまでも続く空の遠さと、なぜか混じり合っていた。どこでも同じ空で、ユーラシアでもイースタシアでもここでもみな同じだと考えると、不思議な気持ちになった。そして空の下にいる人々もまた同じだった――世界じゅう、互いの存在を知らず、憎しみと虚偽の壁にさえ隔てられながら、しかし実質はまったく同じ人間たちだった。自分で考えるすべを知らなくとも、その心と腹と筋肉に、いずれ世界を覆す力を秘めていたのだ。希望があるとすれば、プロールの中にこそある! 本の最後まで読んでいなくても、ゴールドスタインの最終的なメッセージはそれに違いない。未来はプロールのものだ。そしてその時が来れば、彼らの築く社会がウィンストン・スミス自身にとっても見知らぬ異質なものになるのではないか――そんな不安もあるが――少なくともそこには正気が残るだろう。平等があれば正気がある。やがては、力が意識に変わる日が来るはずだ。プロールは不滅であり、それは下の力強い姿を見るだけで疑えなかった。覚醒の時が来るまで、たとえ千年かかったとしても、鳥のように、体から体へと、党には得られない活力を伝えて生き抜くことだろう。

「あのときのこと、覚えてるかい。最初に森の縁で歌っていたツグミ。」

「あの子はあたしたちに歌ってたんじゃないわ」とジュリア。「自分が気分よくて歌ってただけよ。そんなこともない。ただ歌ってただけ。」

鳥が歌い、プロールが歌い、党は絶対に歌わない。世界じゅう、ロンドンもニューヨークもアフリカもブラジルも、パリ、ベルリンの街路も、ロシア大平原の村々も、中国や日本の市場も――どこにでも、労働と出産で膨れあがり、それでも歌いながら生きる、不屈の女性像が立っている。そのたくましい腰のうちから、いつかは「意識」ある人間が現れるに違いない。今を生きる自分らは死者、未来は彼女らのものだ。だが、もし自分の心を守り続け、二足す二は四だという秘密の教えを伝えられれば、その未来に少しでも加われるだろう。

「ぼくらは死者だ」と彼は言う。

「私たちは死者よ」とジュリアも従順に繰り返す。

「お前たちは死者だ」と鋼鉄のような声が背後で響いた。

ふたりは飛びのいた。ウィンストンの内臓は氷になったようだった。ジュリアの目の虹彩の周りの白眼がはっきり見えた。その顔は乳黄色に変色している。頬骨に残るルージュの跡だけが、下の皮膚とはまるで無関係に浮き上がっていた。

「お前たちは死者だ」と再度、鉄の声が言った。

「絵の後ろだったのよ」とジュリアが息を殺して言った。

「絵の後ろだったのだ」と声が答える。「その場を全く動くな。命令があるまで一切動くな。」

始まった、ついに始まったのだ! ふたりはただ互いの瞳を見つめ合うしかできなかった。命をかけて家を脱出する、そんな考えは一切浮かばなかった。壁に埋め込まれた鉄の声に逆らうなど、思いもしなかった。パチンと音がして錠前が外れ、ガラスが砕ける音がした。絵が床に落ち、背後からテレスクリーンが現れた。

「今、彼らに見られているわ」とジュリア。

「今、こちらからも見えている」と声が返した。「部屋の中央へ出ろ。背中合わせに立て。両手は頭の後ろで組め。互いに触るな。」

もともと触れてはいなかったが、ウィンストンにはジュリアの体の震えが伝わってくる気がした。あるいは自分自身の体のふるえかもしれない。歯が鳴るのだけはどうにか我慢できたが、膝は制御できなかった。下の階や外からはブーツの音が聞こえた。中庭は男たちで満ちているようだった。なにか重いものが石畳を引きずられている。女の歌声は突然止まった。長く抜けるような金属音が響き、まるでたらいが庭に投げ込まれたようだった。怒号が入り乱れて最後は悲鳴に終わった。

「家は包囲されたな」とウィンストン。

「家は包囲された」と声が繰り返した。

ジュリアが奥歯を噛みしめるのが聞こえた。「もうさよならを言っといたほうがよさそうね」と彼女。

「さよならを言っておくといい」と声が返す。そしてまったく違う別の、細く育ちのよさそうな声も加わった。ウィンストンはどこかで一度聞いたことがあるような気がした。「さて、ついでに、こういう言葉も――“蝋燭持った子がベッドまで、斧持った奴がお前の首! ”」

ウィンストンの背後で何かがベッドにぶつかる音がした。はしごの頭が窓から突っ込まれ、枠が壊された。誰かが窓から這い入ってきた。階段をドタドタ駆け上がる音。黒い制服に鉄の靴、棍棒を持ったたくましい男たちで部屋が満たされた。

ウィンストンはもう震えていなかった。目さえ、ほとんど動かなかった。重要なのは一つだけだ――じっとしていること、動かず相手に殴りつける口実を与えないこと! ボクサーのような顎の持ち主がウィンストンの前で棍棒を親指と人差し指の間でくるくるさせて考え込むように立つ。ウィンストンは相手の目を見返した。手を頭の後ろで組み、全身をさらけ出すこの無防備感は耐え難かった。男は白い舌の先を突き出し、消えたはずの唇の位置を舐めてから、立ち去る。再び激しい音。誰かがテーブルの上のガラスのペーパーウェイトを拾い、暖炉の石に叩きつけて粉々に砕いた。

小さな珊瑚片が、ケーキの砂糖細工のバラの蕾そっくりの僅かな縁飾りとなって、敷物の上を転がった。こんなに小さかったのか、ウィンストンは思った。昔からこんなに小さかったのだ。背後で息を呑む音と鈍いドスンという音、ウィンストンは足首を激しく蹴られて、危うくよろけそうになった。男の一人がジュリアの鳩尾に拳を叩き込み、彼女をポケット定規のように折り曲げた。床の上で必死に息を求めてもがいている。ウィンストンはほんのわずか頭を動かすことすらできなかったが、時に彼女の苦しげな顔が視界の片隅に映る。その痛みが自分の体にも伝わってくるようだったが、それより切実なのは呼吸を取り戻すための必死の闘争だ。それがどんなものか彼はよく知っている――絶え間なく続く、耐え難い苦痛だが、まず息ができるようになるまで味わえない痛みだった。二人の男がジュリアの膝と肩を持ち上げ、袋のように担いで部屋から運び出していく。上下逆さまになった黄色く歪んだ顔に、目を閉じ、まだ両頬にはルージュの跡が残っている――それが彼女の最後の姿だった。

ウィンストンは微動だにせず立ち尽くしていた。まだ殴られていない。どうでもよい、無関係な考えが頭をよぎるが、どれも面白くなかった。チャリントン老人は捕まっただろうか、あの中庭の女はどうなったのだろうか。強い尿意を覚え、驚いた。二、三時間前に済ませたばかりなのに。マントルピースの時計は九時、すなわち21時を指している。しかし照明は明るすぎた。八月の夜21時なら、もっと暗いはずではないのか。もしかして、二人とも時間を勘違いしていて、20時半ではなく翌朝8時半だったのでは――だがその思いはそれ以上追うこともなく、興味もわかなかった。

廊下にまたも軽い足音が響いた。チャリントンが部屋に入ってきた。黒服の男たちの態度が突然おとなしくなる。チャリントンの風貌にも何か変化が生じていた。彼の目がガラスのペーパーウェイトの残骸に留まった。

「その破片を拾え」と彼はきつい口調で命じた。

一人の男がかがみ込んで従った。コックニー訛りは消えていた。ウィンストンは、ほんの少し前にテレスクリーンで聞いたあの声が誰のものだったのか、突然悟った。チャリントンはまだ古いビロードの上着を着ていたが、ほとんど白髪だったはずの髪は黒くなっていた。また、眼鏡もかけていなかった。彼はウィンストンにひと睨みをくれ、身元を確認するかのような鋭いまなざしを向けただけで、それきりウィンストンに目もくれなかった。まだ面影は残っていたが、もはや同じ人物ではなかった。体は伸び、以前より大きく見えた。顔つきもほんのわずかな変化でありながら、完全に様変わりしていた。黒い眉毛は以前より薄くなり、しわは消え、顔の全体的な輪郭すら変貌していた。鼻まで短くなったようだった。これは、35歳くらいの警戒心に満ちた冷徹な男の顔だ。ウィンストンは、人生で初めて意識して思想警察の一員を見ているのだと悟った。

第三部

第一章

自分がどこにいるのか彼には分からなかった。おそらく愛情省にいるのだろうが、確信は持てない。彼は天井の高い窓のない独房にいた。壁は白く光る陶磁器でできていた。隠されたランプが冷たい光を投げつけ、何か空調装置と関係がありそうな低く一定の唸り音が漂っていた。壁沿いにはわずかに座れる幅のベンチ、もしくは棚が設けられており、扉とその反対側の端には木製の便座のない便器があった。壁ごとに1台、計4台のテレスクリーンが備えられていた。

腹に鈍い痛みがあった。あの密閉車に押し込まれて連れ去られた時から、ずっとその痛みが続いている。しかし、異様で不健康な空腹も彼を苦しめていた。最後に食事をしてから24時間か36時間か、それすら分からなかった。朝逮捕されたのか、夜だったのか、その時も分からなかったし、これからもたぶん永遠に分からないだろう。逮捕されて以降、食事は与えられていなかった。

ウィンストンは狭いベンチにできるだけじっと座り、手は膝の上で組んでいた。すでに「じっと座る」ことは学んでいた。もし予期せぬ動きをすると、テレスクリーンから怒鳴られるからだ。しかし、食物への渇望は増す一方だった。何よりもパンのかけらが欲しかった。作業着のポケットにパンくずがいくらか残っている気がした。もしかすると――ときどき何かが足をくすぐるような感覚があったので――乾いたパンの塊があるかもしれなかった。結局、確認したい誘惑が恐怖に勝り、彼はそっとポケットに手を入れた。

「スミス!」テレスクリーンから声が響いた。「6079スミスW! 独房内で手をポケットに入れるな!」

彼は再び静かに手を膝の上に組んで座った。この場所に運ばれる前、彼は普通の刑務所かパトロールが使う臨時の留置場らしき場所にいた。そこにどれくらいいたのかは分からないが、少なくとも何時間かはいた。時計もなく、外光もないため、時間の感覚は失われていた。騒がしく悪臭漂う場所だった。今いる独房に似ているが、はるかに不潔で、常時10人か15人ほどの人間でごった返していた。その大半は普通犯罪の囚人で、少しだけ政治犯も混ざっていた。ウィンストンは壁にもたれ、汚れた身体に押し込まれつつ、恐怖と腹の痛みに頭がいっぱいで周囲に関心を持つ余裕もなかったが、それでも党の囚人とそれ以外の囚人の驚くほどの態度の違いには気付いた。党の囚人はいつも沈黙し、怯えていたが、普通の犯罪者たちは誰のことも気にしていない様子だった。看守に罵声を浴びせ、自分の持ち物を押収されると激しく抵抗し、床に卑猥な言葉を書き、服の中に隠して持ち込んだ食べ物を平然と食べ、テレスクリーンが秩序を取り戻そうとすれば大声でやじまで飛ばした。その一方で、看守と親しい者もいて、あだ名で呼んだり、扉の覗き穴からタバコをねだったりしていた。看守も普通の犯罪者には、乱暴に扱うことはあっても、どこか寛容だった。収容所送りの話がよく出た。良いコネがあり要領さえ分かっていればキャンプ生活は「悪くない」と彼は聞きかじった。賄賂とえこひいき、あらゆる種類の裏取引、同性愛や売春、さらにはジャガイモから密造される酒まであった。信頼される立場には普通の犯罪者、特にギャングや殺人犯といった一種の貴族階級に属する者しかつけなかった。党の囚人はすべての下働きをやらされた。

そこはあらゆる種類の囚人が入れ替わり立ち替わりやって来る場所だった。麻薬の売人、泥棒、山賊、闇市商人、酔っ払いや売春婦。中には酔って暴れる者もいて、他の囚人が協力して押さえ込むこともあった。60歳くらい、荒れた胸と分厚い白髪がほどけて垂れた巨体の女が、4人の看守に持ち上げられ、手足をばたつかせながら連れ込まれた。それぞれの四隅を掴んだ看守たちは、女が蹴りつけようとしたブーツを無理やり脱がし、ウィンストンの膝の上に無造作にどさりと落とした。その衝撃で太ももが折れそうになった。女は自力で起き上がり、看守らに「このクソ野郎ども!」と怒鳴りながらにらみつけた。そして座っている場所が不安定なことに気づき、ウィンストンの膝からベンチへずれて座った。

「悪いね、お兄ちゃん」女は言った。「あんたの上に座りたくなかったけど、あいつらがそうしたのさ。女ってもんを全然分かっちゃいないわよね?」そう言って、胸を叩き、大きなげっぷをした。「ごめんよ、ちょっと調子悪くってさ」

女は体を倒して、床に盛大に吐いた。

「こっちの方がいいね」女は、目を閉じて座り直しながら言った。「無理して我慢しちゃだめ。胃に残ってるうちに出しちゃうのが一番だよ」

やや気分を取りもどすと、女は改めてウィンストンを見て、急に彼を気に入ったようだった。巨大な腕で彼の肩を抱き寄せ、ビールと吐瀉物の息を吐きかけた。

「なんて名前だい、お兄ちゃん?」

「スミスです」とウィンストンは答えた。

「スミス?」女は言った。「おやまあ、偶然だね。あたしもスミスなのよ。……もしかしたら、あたしがあんたの母親かもしれないじゃない!」

確かに、とウィンストンは思った。彼女は年齢も体格も、母親であってもおかしくなかった。一方強制労働収容所で20年も過ごせば、外見もいくらか変わるものだろう。

他の誰一人として彼に話しかけてはこなかった。意外なほど、普通の犯罪者たちは党の囚人を無視していた。党の囚人は"ポリッツ"と呼ばれ、どこか無関心な軽蔑の念をもって扱われていた。党の囚人同士は互いに話すことを激しく恐れ、他人と話すことすら避けていた。2人の党員(どちらも女)がベンチで密着して座り、騒がしい中で慌ててささやきあうのを一度だけ聞いた。その中で「101号室」なるものへの言及があったが、ウィンストンには意味が分からなかった。

今ここに連れて来られてから、2、3時間は経ったかもしれなかった。鈍い腹の痛みは去らず、時に悪化し、時に和らぎ、それに従って思考も膨らんだりしぼんだりした。痛みがひどくなると、それしか考えられず、食べ物への渇望も纏わりついた。楽になると、今度は恐怖が襲った。五感が極度に鋭敏になり、「これから自分の身に起こるであろうこと」があまりにも現実的に胸をよぎり、鼓動が急激に速まり、息が止まるようだった。警棒が肘に打ち下ろされ、鉄の打ち具のついたブーツがすねを蹴る情景、自分が床を這いずり回り、砕けた歯で哀れに慈悲を求めて叫ぶ姿が生々しく浮かぶ。ジュリアのことはほとんど考えられなかった。彼女を愛して裏切らないと分かってはいる――それは算数の答えのような絶対の事実だった――が、愛情は感じられず、今どうしているか思いやる余裕もなかった。代わりにオブライエンのことをよく思い出した。ほんのわずかな希望を込めて。オブライエンなら自分が捕まったことを知っているかもしれない。兄弟団は決して仲間を助けないとは言っていたが、カミソリの刃は手配できるなら必ず回してくれるという話もあった。看守が独房に飛び込んでくるまで数秒だろう。その刃は燃えるような冷たさで肉を裂き、握る指まで骨まで断ち切るだろう。だがすべての思考は痛みに震える自分自身の体に帰結した。たとえチャンスがあったとしても、自分が本当にその刃を使えるかどうか分からなかった。生きることをとりあえず受け入れ、痛みの先に拷問が待つと分かっていても、あと10分の命を選びたくなるのが自然だった。

時には独房の壁の陶磁器タイルの枚数を数えようとしたはずなのに、いつもどこかで数が分からなくなった。もっとよく考えていたのは、自分が今どこにいるのか、今が何時なのかということだった。ある瞬間は外は明るい昼だと確信し、次の瞬間には漆黒の夜だと同じくらい強く信じられた。この場所では、直感的に分かることだが、決して明かりは消えない。ここが「闇のない場所」である理由がようやく分かった。だからオブライエンはあの言葉を理解したような反応をしたのだ。愛情省[ミニラブ]には窓がない。独房はビルの中央部かも知れず、外壁に面しているかもしれない。地上10階下か、30階上かも分からなかった。彼は思考の中で自分を空中高くに置いたり、地下深くに埋めたりしながら、自分の肉体の感覚でいま高所にいるのか地底にいるのかを推し量ろうとした。

外で軍靴の行進する音がした。鋼鉄の扉が音を立てて開いた。若い将校が、黒い制服に身を包み、身体中が磨き上げられた革で光っているような姿で、燭台のように無表情な顔で、素早く独房に入ってきた。彼は外の看守に合図して連れてきた囚人を中に入れさせた。詩人アンプルフォースがよろよろと独房へ入ってきた。扉が再び音を立てて閉まった。

アンプルフォースはしばらく落ち着かない動きで左右に身体を動かし、どこかにもうひとつ出口があると思っているかのようだったが、やがて独房の中をうろうろし始めた。まだウィンストンの存在に気付いていなかった。彼のうろたえる目は、ウィンストンの頭の上1メートルほどの壁を見上げていた。やや大きい裸足の足の指が、靴下の穴からはみ出していた。剃っていない日数も数日に及び、無精髭が頬骨まで顔中を覆い、不釣り合いに華奢な体と神経質なしぐさに、悪党めいた雰囲気をさせていた。

ウィンストンは惰性からようやく目を覚ました。アンプルフォースに話しかけねばならなかった。テレスクリーンから怒鳴られるリスクも仕方ない。もしかしたらアンプルフォースがあのカミソリの刃を運んでいるかもしれない、とも思った。

「アンプルフォース」と彼は言った。

テレスクリーンからは怒号はなかった。アンプルフォースは驚いたように動きを止めた。彼の視線がゆっくりウィンストンに焦点を合わせた。

「ああ、スミス君か!」彼は言った。「君もか!」

「なんで捕まった?」

「実を言うと――」 彼はウィンストンの向かいのベンチに不器用に座った。「罪は一つしかないよね?」

「君はそれをやったのか?」

「どうやらそうらしい」

彼はこめかみに手を当て、ほんの少し思い出そうとするようにじっと押さえていた。

「何と言うかね、こういう事は起こるんだ……。具体的な例を一つ思い出せる。間違いなく不用意な行為だった。我々がキップリングの詩の決定版を作っていた時だった。僕は行末に“God(神)”という単語を残してしまったんだ。どうしても仕方なかった!」彼はほとんど憤然と顔を上げてウィンストンを見て付け加えた。「その行だけどうしても変えられなかった。韻が“rod(鞭)”だったんだ。英語全体で“rod”と韻を踏む単語はたった12しかないんだよ。何日も頭をひねったが他に韻がなかった」

彼の表情は変わった。苛立ちは消え、しばし嬉しそうにすら見えた。役に立たない蘊蓄に喜ぶ学者のような知的な温もりが、汚れと髭の隙間から透けて輝いた。

「考えてみたことはあるかい」と言った。「英詩の歴史全体は、英語に韻が少ないという事実によって規定されてきたんだよ」

ウィンストンの頭にはそんな考えは浮かんだこともなかったし、この状況下では重要でも面白くもなかった。

「今が何時かわかるかい?」と彼は言った。

アンプルフォースはまたしても驚いた顔をした。「考えてもみなかった。逮捕されたのは――2日前かもしれないし、3日目かもしれない」彼の目は壁のあちこちを飛び回った、どこかに窓があるのではとでも言いたげだった。「ここでは昼も夜も区別がない。どうやって時間を計るかわからないよ」

彼らは数分、だらだらと雑談したが、理由もなくテレスクリーンから静粛を命じられた。ウィンストンは静かに手を膝に組んで座った。アンプルフォースも狭いベンチに窮屈に座りきれず、左右に身をよじっては、長い手で片膝を抱えたりもう片方を抱え直したりした。テレスクリーンは彼にも動かずにいるよう命じた。しばらくして――20分か1時間か、正確には分からなかった――また外で軍靴の音がした。ウィンストンの内臓は縮み上がった。もうすぐ、下手をすれば5分後か今まさに、自分の番がやってくる。

扉が開いた。冷たい顔の若い将校が入ってきた。軽く手を動かし、アンプルフォースを指した。

「101号室」

アンプルフォースはとぼとぼと看守の間を歩いて出て行った。顔は困惑し、よくわかっていない様子だった。

時間が長く感じられた。ウィンストンの腹の痛みがまたぶり返していた。彼の思考は同じ罠にくるくると絡み取られ続け、玉が何度も同じ穴に落ちるパチンコのようだった。考えていたのは6つだけ。腹の痛み、パンの切れ端、血と叫び声、オブライエン、ジュリア、そしてカミソリの刃。再び内臓がひきつった。軍靴が近づく音。扉が開くと、その空気の流れに冷たい汗の強烈な匂いが入ってきた。パーソンズが独房に入った。カーキ色の半ズボンとスポーツシャツ姿だった。

今度はウィンストンも思わず我を忘れた。

「君まで来たのか!」

パーソンズはウィンストンに目をやったが、そこに興味も驚きもなく、ただ惨めさがあるだけだった。彼はぎこちなく部屋を歩き始め、じっとしていられないようだった。太い膝を伸ばすたびに、彼の足が震えているのがはっきり見て取れた。目は大きく見開かれ、なにか中空を只々じっと見つめているようだった。

「君は何で捕まったんだ?」ウィンストンが聞いた。

「思想犯罪さ!」パーソンズは半ば泣きじゃくるように言った。その声には、自らの有罪を全面的に認めると同時に、こんな単語が自分に当てはまるとは思いもしなかったという、信じ難い恐怖もにじんでいた。彼はウィンストンの前に立ち止まり、必死に訴えた。「まさか撃ち殺されることはないよな? 本当に何もやっていなくても、頭の中のことでしかなければ撃たれないだろ? 俺はちゃんと話を聞いてもらえると信じてる。彼らも俺の記録を知ってるはずだ。君も知ってるだろ、俺がどんな人間か。頭はよくないけど、党のために精一杯やろうとしてきたじゃないか。5年くらいで済むよな? 10年でも……。労働収容所でも俺みたいな奴は役に立つだろう。ただ一度道を踏み外しただけで、撃ち殺されるわけないよな?」

「本当にやったのか?」とウィンストンは聞いた。

「もちろんだ!」パーソンズはテレスクリーンを下目使いに見て従順に答えた。「党が無実の人間を逮捕すると思うかい?」カエルのような顔は次第に落ち着きを取り戻し、やや敬虔とすら言える表情になった。「思想犯罪は恐ろしいものだ」彼は教訓めかして言った。「知らず知らずのうちに乗っ取られるんだ。実際、俺も寝てる間になってしまった。あれは本当だ。俺はずっと、自分にそんな悪いことがあるとは思いもしなかった。ただ働いて、持ち場を守ってきただけなのに。それなのに、寝言を言うようになったんだ。君は俺が何を言ってたか知ってるか?」

彼は声をひそめ、まるで医者の指示でしか口にできない卑猥な言葉を吐くようだった。

「“ビッグ・ブラザー打倒! ” そう叫んでいたんだよ! 何度も何度も、寝てる間に言ってたらしい。君と僕だけの話だけど、本当は早めに捕まってよかったと思ってる。もしもっと進んでいたらどうなったか。今度裁判にかけられた時、俺はこう言うつもりだ。“ありがとう、もう少しで手遅れになるところでした”とさ」

「誰が密告した?」ウィンストンが聞いた。

「うちの小さな娘さ」パーソンズはどこか誇らしげに言った。「鍵穴から盗み聞きして、次の日にはパトロールに伝えたんだ。7歳でなかなか賢いだろう? 恨んじゃいない。むしろ誇りだね。正しい精神で育てた証だよ」

彼はまた何度か断続的に部屋を歩き回り、何度も便器に未練がましい視線を投げかけた。やがて突然パンツを引き下ろした。

「悪いな、兄弟。我慢できないんだ。待たせるこの感じが駄目でさ」

彼は巨大な尻を便器にどすんと落とした。ウィンストンは顔を両手で覆った。

「スミス!」テレスクリーンが怒鳴った。「6079スミスW! 顔を隠すな。独房では顔を隠すな」

ウィンストンは顔を上げた。パーソンズは大きな音で便を済ませた。ところが、栓が壊れていて、部屋は何時間も耐え難い悪臭で満ちた。

パーソンズが連れ出された。さらに何人かの囚人が出たり入ったりした。不思議なことに、女の囚人が「101号室」送りになったのをウィンストンは目撃し、その女がその言葉を聞いた瞬間、しぼんで別人のような顔色になったのに気付いた。もし連れ込まれた時が朝であったなら、晩にはなっていたろうし、晩であったなら真夜中になっている頃だった。独房には6人の囚人が、男女混じって静かに座っていた。ウィンストンの正面には、顎がなく出っ歯の、どこか大きな無害そうな齧歯動物にそっくりな男が座っていた。脂ぎったまだら顔の頬袋は膨らみ、口の中に食料を隠し持っているようにも見えた。灰色の目は怯えたように他の者たちの顔を素早く見渡し、誰かと目が合うとすぐそらした。

扉が開き、新たな囚人が連れてこられた。その姿にウィンストンは一瞬寒気が走った。彼は、ごく普通で卑屈そうな、技師か技術者のような中年男だったが、何より驚きだったのは、彼の顔が深刻に痩せこけ、まるで骸骨のようだったことだ。あまりにも頬がこけているので目や口が異様に大きく、目には誰かや何かへの執拗で容赦ない憎しみが宿っていた。

男はウィンストンからやや離れてベンチに座った。ウィンストンはそれ以上彼を見なかったが、あの痛々しい骸骨の顔は、まるで正面で見続けているかのように頭から離れなかった。突然、何がいけないのか分かった。この男は餓死寸前なのだ。同時に独房内の全員も同じことに気づいたようだった。ベンチの周りでごくわずかなざわめきが起こった。顎のない男の目はその骸骨顔の方へに忍びなく引き寄せられては罪悪感に駆られてそらし、またゆっくりと引き戻されていた。やがて彼は席で身じろぎし始めた。とうとう彼は立ちあがり、鈍重な足取りで独房の中を歩いていき、作業服のポケットをまさぐりながら、汚れたパンの切れ端を恥ずかしそうに差し出した。

突如、テレスクリーンから怒号が響いた。顎のない男は飛び上がった。骸骨顔の男はとっさに手を背中に隠し、みんなに施しを拒否したと見せつけた。

「バムステッド!」テレスクリーンが怒鳴った。「2713バムステッドJ! そのパンを捨てろ!」

顎のない男はパン切れを床に落とした。

「そのまま立て!」声が命じた。「扉の方を向け、動くな」

男は命令に従った。膨れた頬袋がコントロールを失い震えていた。扉が音を立てて開く。若い将校が入り、横に避けた。その後ろから短躯で肩幅も腕も異様に太い看守が出てきた。彼は顎のない男の正面に立ち、将校から合図を受け、全身の体重をかけた恐ろしい一撃を男の口に見舞った。その威力は、今にも男の体を床から吹き飛ばすほどだった。男の体は宙を舞い、便器の台座に激突した。一瞬、放心したように倒れ、口と鼻から濃い血が滲み出た。とてもかすかな、無意識なのか悲鳴とも鳴き声ともつかぬ音が漏れた。やがて彼はごろんと転がり、よろよろと手と膝で身を起こした。血と唾液の流れの中から、歯の入れ歯が2つに割れて転げ落ちた。

囚人たちはじっと座り、手は膝の上で組んだままだった。顎のない男は席に戻った。顔の片側はどす黒く変色し、口元は黒い穴のあるチェリー色の不定形な塊になっていた。

時折、オーバーオールの胸元に血がぽたぽたと落ちていった。灰色の目はこれまで以上に罪悪感に満ち、他の囚人たちが自分の屈辱をどう思っているか必死で探るように顔から顔へと向けては反らしていた。

扉が開いた。将校が骸骨顔の男を指し示した。

「101号室」と言った。

ウィンストンの隣で、息を呑むような気配とうろたえが走った。男は本当に床にひざまずき、両手を合わせた。

「同志! 将校!」男は叫んだ。「あそこにだけは連れていかないでくれ! 俺はもう全部話したはずだ! 他に何を知りたいんだ? 何でも白状する、何でも! 言ってくれればその場で全部白状する。何でもサインする! お願いだ、101号室だけはやめてくれ!」

「101号室」将校は言い放った。

男の顔はすでに青白かったが、ウィンストンにも信じられないほどの色に変わった。明らかに、そして疑いようもなく、緑色だった。

「俺に何をしてもいい! もう何週間も飢えさせただろ。いっそ殺してくれ、撃ってくれ! 絞首刑でも25年の刑でもいい。誰か裏切る相手が欲しいなら名前を言ってくれ、すぐに何でも話す。相手が誰で、どんな目に遭わされるかなんて気にしない。俺には妻と3人の子供がいる。いちばん上だってまだ6歳にならない。まとめて連れていって、目の前で首を切り裂いてもいい。その場で見ていても構わない。だが、101号室だけはやめてくれ!」

「101号室」と再び将校が告げた。

男は他の囚人たちを必死に見回した。自分の身代わりを探せるのでは、とでも思ったのか。視線は顎のない男の潰れた顔で止まった。痩せた腕を差し出した。

「あいつこそ連れていくべきだ、俺じゃない!」とわめいた。「殴られたあと、あいつが何を言ってたか聞かなかっただろう。全部証言してやる。実はあいつが党に反対しているんだ、俺じゃない」看守が進み出ると、男は悲鳴をあげた。「聞かなかっただろう、ほんとだ! テレスクリーンの故障だったんだ! あいつこそ本当に危険だ。お願いだからあいつを連れていってくれ、俺じゃない!」

2人のたくましい看守が男の腕を取ろうとかがんだが、その刹那、男は独房の床を這い、ベンチの鋼鉄製の脚にしがみついた。彼はまるで動物のような言葉にならない咆哮を上げはじめた。看守たちは彼を引き剥がそうとしたが、男は信じられないほどの力でしがみつき、二十秒ほども引きずられていた。囚人たちは静かに手を膝の上で組み、まっすぐ前を見ていた。やがて、叫び声は止まり、男は呼吸もできずただしがみつくだけになった。そこに別種の叫び。看守の一撃で左手の指を折られたのだ。彼らは男を立たせた。

「101号室」と将校が言った。

男は看守に支えられ、ふらふらと、うなだれ、砕けた手をかばいながら連れられていった。すべての抵抗は失われていた。

長い時間が過ぎた。骸骨顔の男が連れて行かれたのが真夜中なら、今は朝だろうし、朝なら昼下がりだった。ウィンストンは独りきりで、それも何時間も続いていた。狭いベンチに座り続ける痛みはあまりに酷く、耐えきれずに立って歩いたこともあったが、そのたびにすぐ目眩がして、また座り直すしかなかった。顎のない男が落としたパン切れは、依然床にあった。最初のうちは見ないようにするのが大変だったが、やがて空腹よりも渇きの方が勝った。口の中はねばつき、苦く不快だった。唸る音と均質な白い光が軽い眩暈を誘い、頭の中が空っぽになるような感覚だった。骨の痛みが我慢できなくなると立ち上がり、すぐにまた座り直していなければならなかった。肉体的な感覚がいくぶん治まると、恐怖が再び戻ってきた。望み薄ながら、オブライエンとカミソリの刃のことを考えた。食事がもし出るとしたら、その中に刃が隠されて届くかもしれない。もっとおぼろげにジュリアのことも思った。どこかで、彼女は自分よりもひどい目に遭っているのかもしれない。今この時、叫んでいるのかも。彼は思った。「もし自分の苦痛が倍になることでジュリアを助けられるなら、そうするだろうか? そうするだろう」。だがそれは道義的な判断でしかなかった。実際には何も感じられなかった。この場所では、感じられるのは苦痛とその予感だけだった。そもそも、自分が苦しみの中にある時、自分の痛みをわざわざ強くしたいなどと思うことができるものだろうか? だがその問いに今は答えようがなかった。

軍靴の足音がまた近づいてくる。扉が開いた。オブライエンが入ってきた。

ウィンストンは思わず立ち上がった。その衝撃で慎重さも吹き飛んだ。何年ぶりかで、テレスクリーンの存在を忘れた。

「君も捕まったのか!」彼は叫んだ。

「私はずっと前から捕まっていたのだ」オブライエンは穏やかでどこか気の毒そうな皮肉めいた口調で言った。彼はわずかに身を避けた。その背後から、黒い警棒を持ったがっしりとした看守が現れた。

「分かるだろう、ウィンストン」オブライエンは言った。「自分を欺くな。君は知っていた。ずっと前から知っていたのだ」

ああ、確かに自分はずっと前から知っていた。しかし、考える暇などなかった。ただ警棒の行方しか見ていなかった。それはどこに振り下ろされるのか、頭か、耳の先か、上腕か、肘か――

肘だ! 彼は膝に崩れ落ち、ほとんど身動きできず、打たれた肘をもう片方の手で必死に抱えた。全身が黄色い光で爆発するような激痛だった。とても信じられない、こんな一撃でかくも強烈な痛みが襲うなんて! 光が晴れ、ウィンストンは自分を見下ろす2人の視線を感じた。看守は彼の苦悶に嘲笑を浮かべていた。少なくとも一つだけ疑問が解けた。いかなる理由があろうと、痛みの増加など望めるものではない。痛みに対しては唯一つ、「それが止まれ」と願うことしかできない。身体的な痛みにまさるものはこの世にない。痛みの前に英雄は存在しない。前も後ろも繰り返し、彼はそう考え続けながら、床でのたうち回り、使い物にならなくなった左腕を無駄に抱えていた。

第二章

彼はキャンプ用のベッドのようなものの上に横たわっていた。ただし、床から高く持ち上がっており、どこかしら体が固定されていて、動くことができなかった。通常よりも強い光が顔に浴びせられていた。オブライエンがそばに立ち、じっと彼を見下ろしていた。その反対側には白衣の男が、注射器を手にして立っていた。

目を開けてからも、彼は周囲の状況をしだいにしか理解できなかった。全く別の世界、何か水底のような世界から、この部屋に浮かび上がってきたような印象があった。そこにどれほどいたのかは分からなかった。逮捕されて以来、彼は暗闇も昼も見ていなかった。それに、記憶が連続していなかった。眠っている時の意識すら途切れて再開し、いったいそれが日単位なのか週単位なのか、あるいはただの数秒なのか判断できなかった。

肘に一撃を受けた、その時から悪夢が始まった。その後で彼は、そこから先の出来事は、単なる予備的な尋問、すべての囚人が必ず通る定型的なものに過ぎなかったのだと悟った。スパイ行為・破壊工作など、口実として誰しも自供させられる長々とした犯罪のリストが存在した。自白は形式的なものであっても、拷問は現実だった。殴打の回数や期間など分かりようがなかったが、常に5、6人の黒服の男たちが彼に向かっていた。時に拳、時に警棒、時に鉄の棒、時にはブーツで攻撃された。時には床をのたうち回り、動物のように恥も外聞もなく、絶望的にあちらこちらへ体をくねらせ、蹴りを避けようとしたが、かえって肋骨、腹、肘、すね、鼠蹊部、睾丸、尾てい骨にさらに多くの蹴りを浴びた。倒れ続けながら、最も残酷で悪辣なことは、看守たちが自分を殴り続けることではなく、自分が意識を失うことで逃げられないことだと思うことだった。神経がすっかり参って、まだ殴られる前から慈悲を叫び出すこともあり、拳が振り上げられただけで、現実と虚構をごちゃまぜにして自白を始めてしまった。他にも一切を自白しないと決意して始め、痛みにあえぎながら一言一言絞り出すこともあったし、「白状するが、まだだ。もっと痛くなったら……あと3発、いや2発殴られたら言おう」というふうに、弱々しく妥協しようともした。殴り倒され、袋のように石の床へ放り出されて数時間回復させられ、また引きずり出されて殴られることもあった。もっと長い回復期もあった。それらの記憶はぼんやりしている。ほとんど眠りか、意識朦朧の中で過ごしたからだった。壁からせり出した簡易ベッドと、金属の洗面器、温かいスープとパンと時おりコーヒーの出る食事、無愛想な理髪師がヒゲを剃り、白衣の冷淡な男たちが脈を測り、反射神経を調べ、瞼を上げ、骨折を探してその指で体を探り、眠り薬を腕に注射したことを、彼はかすかに思い出した。

殴打が減り始め、それが主に脅しとして機能し、少しでも返事が悪ければすぐに戻される恐怖になっていった。尋問者は黒服の悪漢たちでなく、素早い動きで眼鏡をきらめかせる小太りの党の知識人たちに変わった。彼らは交代で10時間から12時間ひたすら尋問を繰り返したように思えた。彼らはいつも軽い痛みを与え続けたが、痛みそのものよりも精神的圧迫を重視した。彼らはウィンストンの顔を叩き、耳をねじり、髪の毛を引っ張り、片足立ちを命じ、小便をさせず、目に強烈な光を当てて涙を出させたが、これらの目的はウィンストンを辱め、論理と判断力を破壊することだった。本当の武器は、逃げ場のない、何時間にもわたる無慈悲な尋問だった。彼らはウィンストンを罠にはめ、あらゆる答えをねじ曲げ、彼が嘘や矛盾を言っていると指摘し、ついには神経の消耗と羞恥心に涙を流させるのだった。一度のセッションで何度も泣くこともあった。彼らは大部分怒鳴り続け、ためらいが生じるたびに拷問をちらつかせて脅したが、時には急に態度を変え、「同志」と呼び、イングソックやビッグ・ブラザーの名に訴え、ウィンストンに「いまも党への忠誠心が残っているなら、その間違いを償いたいのでは?」と悲しげに尋ねた。何時間もの尋問のあと、神経がぼろぼろになった彼には、その呼びかけにも涙してしまうことがあった。ついに責め立てる声が、看守たちの暴力以上に彼を完全に打ち砕いた。彼はただ口だけの存在となり、サインする手だけになった。唯一の関心は、何を告白すればいいのか早く知ること、そしてそれを急いで白状し、新たな苛めに入らないようにすることだった。彼は卓越した党員の暗殺や反政府ビラの配布、公金横領、軍事機密の売却、あらゆる破壊工作を自白した。1968年から東亜国のスパイだったとも言ったし、宗教的信仰があること、資本主義者に憧れていたこと、性的倒錯者であることも白状した。彼は自分の妻を殺害したことも認めたが、それは自分も尋問者もキャサリンが生きていることを知っていたと分かっていた。彼は何年もゴールドスタインと個人的に接触し、ほぼ知っているすべての人間が関わった地下組織のメンバーだったとも供述した。すべて白状し、誰も彼も巻き込む方が楽だった。しかも、ある意味ではすべて真実でもあった。彼は党の敵ではあったし、党の目から見れば思想と行為に差がなかったのだ。

他にも異質なタイプの記憶があった。それらは断片的に、暗闇の中に浮かぶスチール写真のように頭に刻まれていた。

彼は暗いのか明るいのか判然としない独房にいた。見えるのは目だけだった。近くで何らかの装置がカチカチと規則的に音を立てていた。目はしだいに大きく、強く輝いていった。突然、彼は自分の席から浮かび上がり、その目の中に飛び込み、飲み込まれた。

彼はまばゆい光に囲まれ、計器に囲まれた椅子に縛られていた。白衣の男が計器を読んでいた。重いブーツの足音が外から響いた。扉が鳴りを立てて開いた。蝋のような顔の将校が2人の看守を従えて入ってきた。

「101号室」将校は言った。

白衣の男は振り返らなかった。ウィンストンを見ることもなく、ただ計器を見つめていた。

彼は幅1キロの巨大な金色の廊下を転げるように進み、歓声をあげ、大声で自白して笑っていた。拷問下でさえ隠し通したすべてのことまで白状していた。彼は人生の全歴史を、それをすべて知っている観客に語っていた。彼と一緒なのは看守たち、尋問者、白衣の男たち、オブライエン、ジュリア、チャリントン、みな一緒に廊下を転がりながら笑っていた。将来に横たわっていた何か恐ろしいことはなぜか飛び越えられ、すでに終わっていた。すべてうまくいっていた。もはや痛みはなかった。人生の最後の細部まですべて明らかにされ、理解され、許されていた。

彼は板のベッドで身を起こしかけながら、オブライエンの声を確かに聞いた気がしていた。尋問のあいだ、会ったことこそなかったが、いつもオブライエンが傍にいるような気がしていた。すべてオブライエンが仕切っている。看守をけしかけるのもオブライエン、彼らが殺さないのもオブライエンのさじ加減。いつ叫ばせるか、いつ休ませるか、いつ食事を与え、いつ眠らせるか、いつ薬を注射するか、すべて彼が決めていた。彼が質問し、答えも誘導する。彼が拷問者であり、庇護者であり、尋問者であり、友人だった。一度だけ――それが麻薬で朦朧としていた時なのか、普通の睡眠中だったのか、それとも本当に目覚めていたときかさえ分からないが――声が彼の耳にささやいた。「心配するな、ウィンストン。お前は私の手の中にいる。7年間見守ってきた。今こそ転機だ。私はお前を救い、完璧にしてやる」。それがオブライエンの声だったか確信が持てなかった。しかしそれは、7年前「闇のない場所で会おう」と夢の中で語りかけてきた、あの声と同じに違いなかった。

なのに、尋問の終わりについては記憶がなかった。長い闇のあと、この部屋が徐々に周囲に現れていった。ウィンストンはほとんど仰向けで、完全に体を動かせなかった。すべての重要な箇所が固定されていた。後頭部ですらどこかに押さえ付けられていた。オブライエンが重々しく、どこか悲しげに彼を見下ろしていた。下から見る彼の顔は粗く、目の下のたるみや鼻筋から口までの疲れた線が目立った。それはウィンストンが思ったより年老いて見えた。おそらく48か50歳だろう。オブライエンの手元にはダイヤルと、その上のレバー、文字盤を囲む数字があった。

「言っただろう」オブライエンは言った。「次に会うならここだと」

「そうだ」ウィンストンは答えた。

何の前触れもなく、オブライエンの手が動くと、全身に激しい痛みが走った。何が起きているのか分からぬままの痛みは恐ろしいもので、何か致命的な損傷が与えられている気がした。実際に起きているのか、電気的に生じているのかすら不明だが、身体はねじられ、関節がゆっくりと引き裂かれていくようだった。汗が額を流しても、最も恐ろしかったのは背骨が折れるのではという恐怖だった。彼は奥歯を噛み締め、鼻から必死に息をし、できるだけ長く声を出さないように努めた。

「今、君は怯えている」とオブライエンは彼の顔を見つめながら言った。「次の瞬間、何かが壊れるのではないかと恐れているな。君がとりわけ恐れているのは背骨が折れることだ。椎骨が断裂し、脊髄液が流れ出す場面が、鮮明に心に描かれている。そうだろう、ウィンストン?」

ウィンストンは答えなかった。オブライエンがダイヤルのレバーを戻すと、痛みはたちまち引いていった。

「今のは40だ」オブライエンは言った。「このダイヤルの数字は100まである。以後の会話のあいだ、私には君を好きな時に、好きな強さで痛めつける力があるのを覚えておけ。嘘を言えば、話をはぐらかせば、あるいはいつもの知性よりも低い受け答えをすれば、君は即座に激痛に叫ぶことになる。分かったな?」

「分かった」とウィンストンは答えた。

オブライエンの口調はやや柔らかくなった。彼は眼鏡をかけなおし、思案顔で小さくうなずいたり少し歩いたりした。彼の声は優しく忍耐強く、まるで医者か教師、あるいは懸命に説明し説得しようとする神父のようだった。

「私は君のために苦労しているのだ、ウィンストン。君はその価値がある人間だ。自分に何が起きているのか、君はよく分かっている。長年知っていた。その認識から逃げてきただけだ。君は精神に障害がある。記憶力に欠陥がある。現実の出来事を思い出せないばかりか、実際にはなかった出来事を自分が覚えていると信じ込んでいる。だが幸いこれは治せる症状だ。君は自分で治そうとしなかった。ほんの少しの意思の努力をしなかっただけだ。今も、自分の病気を美徳だと思い込んでしがみつこうとしている。では、例を挙げよう。今この瞬間、オセアニアはどこと戦争中か?」

「自分が逮捕された時点では、オセアニアは東亜国と戦争中だった」

「東亜国。よろしい。オセアニアは常に東亜国と戦争していたな?」

ウィンストンは息を吸い、口を開いたが喋れなかった。彼の目はダイヤルから離せなかった。

「真実を言いたまえ、ウィンストン。君自身の、ね。君が覚えていることを話しなさい」

「逮捕される一週間前まで、我々は東亜国とは戦争していなかった。味方だった。戦争の相手はユーラシアだった。それが4年間続いていた。その前は――」

オブライエンは手で制した。

「もう一つ例を挙げよう」彼は言った。「数年前、君は非常に深刻な妄想に取り憑かれていた。3人の男、かつての党員でジョーンズ、アーロンソン、ラザフォードという3人――彼らは全面的な自白の後、反逆罪と破壊活動で処刑されたが、君は彼らがその罪を犯していないと信じていた。君は彼らの自白が偽りだったと証明する間違いようのない証拠写真を見たと思い込んでいた。その写真――こういう写真だった」

オブライエンの指の間に、長方形の新聞の切れ端が現れた。おそらく五秒ほどの間、それはウィンストン・スミスの視界の隅にあった。それは写真であり、その正体に疑いの余地はなかった。あの写真だった――十一年前、ニューヨークでのパーティーの行事に出席していたジョーンズ、アーロンソン、ラザフォードの写真の、また別の一枚だった。彼は偶然それを見つけ、即座に破棄したのだった。その写真はほんの一瞬、彼の目の前にあり、すぐに見えなくなった。しかし彼は見たのだ、間違いなく見たのだ! 彼は必死に苦しみながら、上半身を自由にさせようとした。しかし一センチたりとも身動きはできなかった。そのとき彼はダイヤルの存在すら忘れていた。写真をもう一度指でつかみたい、せめてまた見たい、それだけを切実に願った。

「それは存在するんだ!」彼は叫んだ。

「いや」とオブライエンは言った。

彼は部屋を横切った。反対側の壁には記憶穴があった。オブライエンは格子を持ち上げた。目に見えないまま、か弱い紙片は暖かい空気の流れに乗って渦を巻き、炎の閃光の中で消えていった。オブライエンは壁から離れた。

「灰だ」と彼は言った。「識別すらできない灰。塵だ。存在しない。決して存在しなかった。」

「だが存在した! 今も存在している! 記憶の中に存在する。私は覚えている。君も覚えている。」

「私は覚えていない」とオブライエンは言った。

ウィンストン・スミスの心は沈んだ。それはダブルシンクだった。彼は致命的な無力感に襲われた。もしオブライエンが嘘をついていると確信できたなら、こんなにも重大だとは思わなかっただろう。しかしオブライエンが本当にその写真を忘れてしまった可能性も十分あった。もしそうなら、すでに「覚えていない」という自分の否認すら忘れており、その「忘れる」という行為すら忘れているはずだ。どうすればそれが単なるごまかしでないと断言できるだろう? もしかしたら、心の中のその狂気じみた歪みは本当に起こり得るのかもしれない――それこそが彼を打ち負かす考えだった。

オブライエンは思慮深げに彼を見下ろしていた。それまで以上に、わがままだが将来有望な子供を辛抱強く指導している教師のような雰囲気があった。

「過去の支配に関する党のスローガンがある」と彼は言った。「繰り返してみなさい。」

「『過去を支配する者が未来を支配する。現在を支配する者が過去を支配する』」

「『現在を支配する者が過去を支配する』」とオブライエンはゆっくりと頭を縦に振りながら承認した。「ウィンストン、君は過去に実体があると思うか?」

再び、無力感にウィンストンは覆われた。彼の目はダイヤルに向かった。痛みを逃れるために「はい」と「いいえ」のどちらが正解なのか、彼にはまったく分からなかった。いや、どちらが本当だと自分自身が信じているのかさえ分からなかった。

オブライエンは微かに笑った。「君は形而上学者じゃないな、ウィンストン」と彼は言った。「君は今の今まで、存在とは何かについて考えたこともなかっただろう。もっと正確に問いかけよう。過去は空間の中に具体的に存在しているのか? どこかに、過去がまだ起こり続けている堅固な物体たちの世界があるのか?」

「ない」

「では、過去はどこに存在している? もし存在するとすれば」

「記録の中に。書かれている」

「記録の中に。それから――?」

「心の中に。人間の記憶の中に」

「記憶の中に。よろしい。では我々党は、あらゆる記録を支配し、すべての記憶も支配している。ならば我々が過去を支配していることになるのでは?」

「だがどうやって人々が物事を記憶するのを止めさせるんだ?」ウィンストンはダイヤルのことを一瞬忘れまた叫んだ。「それは自分の意思とは関係ないことだ。どうやって記憶を支配する? 私の記憶は支配できていないじゃないか!」

オブライエンの態度は再び厳しくなった。彼はダイヤルに手を置いた。

「むしろ逆だ」と彼は言った。「君がそれを支配できなかったのだ。それが君をここに連れてきた理由だ。君は謙虚さと自己規律に失敗したからここにいる。まともな人間になるための服従の行いを拒否した。君は気が狂っている方――たった一人の少数派でいることを選んだ。現実を見ることができるのは、規律ある心だけだ、ウィンストン。君は現実が客観的に、外に、それ自体の権利で存在していると信じている。現実の本質は自明だとも信じている。自分が何かを見たと思い込んだとき、他の誰もが自分と同じものを見ていると思い込む。しかし私は言おう、ウィンストン――現実は外部にはない。現実は人間の心の中、そして他にはどこにも存在しない。個人の心ではない――個人は間違いも犯すし、いずれ滅ぶ――党の心の中だけだ。それは集合的で不滅だ。党が真実だとみなすもの、それが真実だ。党の目を通してしか現実を見ることは不可能だ。ウィンストン君、それをもう一度学び直さなければならない。それは自己破壊的な行為、意志の努力を要する。まともになるには、まず自分を低くしなければならない。」

彼はしばし沈黙し、自分の言葉がウィンストンに浸透するのを待つかのようだった。

「君はかつて日記にこう書いたのを覚えているか――『自由とは2足す2が4だと言う自由のことだ』と?」

「覚えている」とウィンストンは言った。

オブライエンは左手をウィンストンに甲を向けて挙げた。親指は隠れ、4本の指が伸びていた。

「ウィンストン、私はいくつ指を立てている?」

「4本だ」

「だが党が4ではなく5本だと言ったら――いくつだ?」

「4本だ」

その言葉は苦しみの喘ぎで終わった。ダイヤルの針が55まで跳ね上がった。ウィンストンの全身から汗が噴き出した。空気が肺に激しく流れ込み、深い唸り声になって溢れ出た。歯を食いしばっても止めることはできなかった。オブライエンはそんな彼を見つめたまま、4本の指を伸ばし続けていた。レバーを引き戻した。今回は痛みはわずかに和らいだ。

「いくつ指がある、ウィンストン?」

「4本だ」

針は60まで上がった。

「いくつ指がある、ウィンストン?」

「4本! ほかに何と言えばいい? 4本だ!」

針はもう一度上がったはずだったが、彼はそれを見なかった。重苦しく厳しい顔と4本の指だけが視界を満たしていた。指は巨大な柱のようにぼやけ、震えているように見えたが、間違いなく4本だった。

「いくつ指がある、ウィンストン?」

「4本だ! やめてくれ、やめてくれ! どうして続けられる? 4本だ、4本だ!」

「いくつ指がある、ウィンストン?」

「5本だ! 5本だ! 5本だ!」

「いや、ウィンストン、それではだめだ。君は嘘をついている。まだ4本だと思っている。いくつ指がある?」

「4本! 5本! 4本! 何本でもいい、お願いだからやめてくれ、痛みを止めてくれ!」

突然、ウィンストンはオブライエンの腕に抱かれて上体を起こしていた。おそらく数秒間、意識が途切れていたのだろう。彼を縛っていた拘束は緩められていた。ひどく寒く、制御できず震え、歯ががちがち鳴り、涙が頬を伝っていた。しばらくの間、まるで赤ん坊のようにオブライエンにしがみついた。彼の肩にまわされた逞しい腕に、奇妙に慰められていた。オブライエンが守ってくれる、痛みは外からやってきているものでそれを救ってくれるのはオブライエンだ、とそんな感覚だった。

「君は覚えの悪い生徒だな、ウィンストン」とオブライエンは優しく言った。

「どうしようもないんだ」とウィンストンは涙声で答えた。「目の前にあるものが見えないわけがない。2足す2は4なんだ」

「ときには、ウィンストン。ときには5だ。ときには3だ。ときには全部同時にだ。もっと頑張らなければならない。まともになるのは簡単じゃない」

オブライエンはウィンストンをベッドに寝かせた。四肢の拘束は再び強くなったが、痛みは引き、震えも止まってただ弱って冷たさだけが残っていた。オブライエンは白衣の男に目配せした。男はじっと動かず立っていたが、ベッドに近づきウィンストンの目を覗きこみ、脈をとり、胸に耳をあて、ときおり叩いてみたりしたあと、オブライエンに頷いた。

「もう一度だ」とオブライエンは言った。

痛みがウィンストンの体中に流れ込んだ。針は70か75のはずだった。今回はウィンストンは目を閉じていた。指はまだそこに4本あるのが分かった。ただ唯一重要なのは、この痙攣が終わるまで生き延びることだった。もう自分が叫んでいるかどうかさえ分からなくなっていた。痛みがまた和らいだ。目を開けるとオブライエンがレバーを引き戻していた。

「いくつ指がある、ウィンストン?」

「4本だ。4本あると思う。もし5本に見えるならそう言う。5本に見えるように努力している」

「どちらを望む? 私に5本見えると信じさせたいのか、実際に5本見えるようになりたいのか?」

「本当に5本見えるようになりたい」

「もう一度だ」とオブライエンは言った。

おそらく針は80――90まで上がっていただろう。ウィンストンはなぜ痛みが与えられているのか断続的にしか思い出せなくなっていた。きつく閉じたまぶたの裏で、指の森が踊るように動き、絡み合い、消えたり現れたりしているのが見えた。数えようとしたが、なぜそうしているか分からなかった。ただ数えることが不可能だということ、そしてそれが5と4の不思議な一致によるものだということだけが分かった。痛みがまた消えていった。目を開けると、まだ同じ光景だった。無数の指が木のようにゆらめき風のように流れており、交差しまた戻っていく。もう一度目を閉じた。

「ウィンストン、いくつ指を立てている?」

「分からない、分からない。またやれば君は僕を殺してしまう。4本、5本、6本……本当に分からない」

「よくなってきたな」とオブライエンは言った。

針がウィンストンの腕に滑り込んだ。ほとんど同時に、至福の、癒やされるぬくもりが全身に広がった。痛みはすでに半分忘れ去っていた。目を開けてウィンストンは感謝を込めてオブライエンを見上げた。その重々しく皺だらけの顔――醜くも知的な顔を見て、心が引きつけられた。もし自由に動けるなら、彼は手を伸ばしてオブライエンの腕に触れたであろう。これまでにないほど、ウィンストンは彼を愛していた。ただ痛みを止めてくれたからだけではない。オブライエンが友か敵かというのはいまや重要ではなかった。オブライエンは語り合える相手だった。人間が求めるのは愛されることではなく、理解されることなのかもしれない。オブライエンは彼を狂気の縁に追いやったが、彼自身、まもなく確実にウィンストンを死に追いやるだろう。それでも違いはなかった。友情よりも深い何かによって彼らは結ばれていた――どこかに、言葉がなくても会話できる場所があるように感じられた。オブライエンもそのことを思っているかのように見えた。彼は普段通りの落ち着いた会話口調で言った。

「ウィンストン、ここがどこか分かるか?」

「分からない。たぶん、想像はつく。愛情省だろう」

「ここにどれくらいいるか分かるか?」

「分からない。何日か、何週間か、何か月か――多分何か月だ」

「なぜ我々が人をこの場所に連れてくると思う?」

「自白させるため」

「違う。そのためだけではない。もう一度考えろ」

「罰するため」

「違う!」とオブライエンは叫んだ。声が変化し、顔は突然、厳格で生き生きとした表情になった。「違う! ただ告白を引き出し、罰するためではない。我々が君をここに連れてきた理由を教えよう。君を治療するためだ! まともにするためだ! いいかウィンストン、この場所に連れてこられた者で、我々の手を離れるときにまともになっていない者はいない。君が犯した愚かな犯罪には興味がない。党が気にするのは単なる行為ではなく、思考だけだ。我々は敵を単に破壊するだけでなく、その敵を変える。私が言っていることが分かるか?」

彼はウィンストンに身を乗り出した。その顔はあまりの近さで巨大に歪んで見え、下から見えているせいか恐ろしく醜悪に映った。さらに、そこにはある種の高揚した狂信的な情熱が宿っていた。ウィンストンは再び心が縮むのを感じた。もしできるものなら、さらにベッドの奥に潜り込みたかった。このときオブライエンはダイヤルをただ残酷な気まぐれで回しそうな気がした。しかしその瞬間、彼は向きを変えた。何歩か歩いてまた戻ってきた。そしてもう少し穏やかに続けた。

「まず理解すべきなのは、ここでは殉教者はいないということだ。過去の宗教弾圧を君は読んだことがあるだろう。中世には異端審問があった。だがそれは失敗だった。異端を根絶しようとして、逆にそれを永久化してしまった。火刑にした異端者一人につき、何千人もの新たな異端者が生まれた。なぜか? 異端審問は敵を公然と殺し、悔い改める前に殺した。つまり、悔い改めていないからこそ火刑にした。人々は本当の信念を捨てなかったからこそ死んだ。当然、その栄誉は被害者にあり、恥は焚刑にした審問官に残った。20世紀に至っては全体主義者と呼ばれる者たち――ドイツのナチス、ロシアの共産主義者――彼らは異端審問よりも残酷に異端を弾圧した。しかも自分が過去の失敗から学んだと自負した。少なくとも、殉教者を作ってはならないとは理解していた。彼らは処刑前に犠牲者の尊厳を徹底的に破壊した。拷問と孤独で彼らをすっかり卑しめ、惨めな懇願者にし、口移しにされたあらゆるものを自白し、互いに非難し、哀願させた――だが数年もたたないうちに同じことが繰り返された。死者はまた殉教者となり、屈辱は忘れ去られた。なぜか? そもそも彼らの自白が明らかに強制され、真実ではなかったからだ。我々はそんな間違いはしない。ここで語られるすべての自白は真実だ。我々がそれを真実にする。死者には決して反旗を翻させない。ウィンストン、未来が君を正当化すると想像してはならない。未来が君を知ることは決してない。君は歴史の流れから完全に消し去られるだろう。我々は君をガスにし、成層圏に放出する。何も残らない。名簿に名前も、生きている誰かの頭の中にも記憶もない。過去も未来にも、君は消し去られる。君は決して存在しなかったのだ。」

それならなぜ俺を拷問するんだ? と短い苦々しさがウィンストンをよぎった。オブライエンは、まるでウィンストンがその思考を口にしたかのように立ち止まった。大きな醜い顔が近づき、目が細められた。

「君は考えているな」彼は言った。「我々が君を完全に消滅させるつもりなら、君が何を話そうと何をしようと最小の影響すらないわけだから、なぜわざわざ尋問するのか、と。それが君の考えだったな?」

「そうだ」とウィンストンは言った。

オブライエンはわずかに微笑んだ。「君は秩序にできた欠陥だ、ウィンストン。君は拭い去らねばならない染みだ。先ほど私は我々が過去の迫害者たちとは違うと説明しただろう。我々は消極的な服従で満足しない。最も卑屈な服従でさえ満足しない。最終的な降伏は、君自身の自由意志からでなければならない。我々は異端者が抵抗するから破壊するのではない――抵抗している限り破壊はしない。我々は彼を変化させ、心の奥底を虜にし、再構築する。あらゆる邪悪と幻想を焼き尽くし、表面的ではなく、心から我々の側に引き込む。殺す前に必ず我々と一体化させる。世界のどこかにでも誤った思考が存在することは我慢ならない。死の瞬間ですら逸脱は許されない。昔は異端者は火刑台に歩きながらも異端を叫び、誇りにした。ロシアの大粛清の犠牲者すら、弾丸を待つ通路を歩きながらその頭蓋骨に反逆を秘められた。だが我々は、脳を完全にした上で吹き飛ばすのだ。古い専制政治の命令は『してはならない』だった。全体主義の命令は『せよ』だった。我々の命令は『汝、これなり』だ。我々がここに連れてきた者で、我々に抗ったままの者はいない。誰もがきれいに洗い清められる。かつて君がその潔白を信じていたあの惨めな裏切り者三人――ジョーンズ、アーロンソン、ラザフォード――最後には我々が屈服させた。私も彼らの尋問に加わっていた。彼らが徐々に消耗し、哀願し、這い蹲り、泣き崩れていく様を見た。だが最終的には、それはもはや痛みでも恐怖でもなく、ただ悔悟だった。我々が終えたとき、彼らは人間の殻だけになっていた。残ったのは自分の行為への悲しみとビッグ・ブラザーへの愛のみ。それがどれだけ彼らもビッグ・ブラザーを愛していたか、感動的ですらあった。彼らは自分たちの心が汚れぬうちに早く撃ち殺してくれと懇願したほどだ」

その声は夢見るようになっていた。高揚し、狂信的な情熱は顔に滲み出ていた。彼は演技していない、とウィンストンは思った。偽善者ではなく、言うこと全てを信じている。それ以上に彼を圧倒したのは自分自身の知的劣等感だった。ウィンストンの思考ですらオブライエンにはすでにとっくに知られ、吟味され、拒絶されていた。彼の中にウィンストンの心が含まれていた。それならなぜオブライエンが狂人だなどと言えるのか? 狂っているのはむしろ自分だ。オブライエンは立ち止まり彼を見下ろした。声は再び厳格だった。

「どれだけ完全に降伏しても、ウィンストン、決して自分を救えると思うな。一度道を踏み外した者は誰も許されない。たとえ我々が君を自然死まで生かすと選んだとしても、決して我々から逃れられない。ここで起きることは永遠だ。あらかじめ理解しておけ。我々は君を、もう戻ってこれない地点まで押し潰す。何千年生きても癒せないことが起こる。もう二度と普通の人間的感情を持つことはない。君の内側はすべて死ぬ。もう二度と愛も友情も、生きることの喜びも、笑いも、好奇心も、勇気も、誠実さも持つことができない。君は空っぽになる。中身を搾り取り、我々自身で満たすのだ。」

彼は言葉を切り、白衣の男に合図した。ウィンストンは頭の後ろに重たい機械が動かされる気配を感じた。オブライエンはベッドのそばに座った。その顔はほとんどウィンストンと同じ高さにあった。

「三千」と彼は白衣の男に向けて言った。

2つの柔らかいパッドが、やや湿った感触でウィンストンのこめかみに押し付けられた。彼はすくんだ。新しいタイプの痛みが来るのだ。オブライエンは彼の手に、ほとんど優しく、慰めるように手を添えた。

「今回は痛くない」と彼は言った。「私の目を見ていなさい」

その瞬間、破壊的な爆発――あるいは爆発のようなものが起こった。音があったかどうかは定かでないが、確かにまぶしい閃光が走った。ウィンストンは傷つけられなかった。ただ打ちのめされた。すでに仰向けに寝ていたのに、その場に叩きつけられたような奇妙な感覚があった。ものすごい、しかし無痛の衝撃が彼を押し潰した。また、頭の中で何かが起こった。目が焦点を取り戻すと、彼は自分が誰で、どこにいるかを思い出し、見下ろす顔も識別できた。しかし、脳の一部が切り取られたような、大きな空白がどこかにあった。

「長くは続かない」とオブライエンは言った。「私の目を見るんだ。オセアニアはどの国と戦争をしている?」

ウィンストンは考えた。「オセアニア」が何か、自分自身がオセアニアの市民であることは分かっている。ユーラシア、イースタシアも思い出した。しかし誰が誰と戦っているのかは分からなかった。実際、戦争が起きていることさえ自覚していなかった。

「思い出せない」

「オセアニアはイースタシアと戦争している。いま思い出したか?」

「はい」

「オセアニアは常にイースタシアと戦争してきた。君の人生の始まりから、党の始まりから、歴史の始まりから、戦争は絶え間なく続いてきた。そう思い出したか?」

「はい」

「十一年前、君は反逆罪で有罪となった三人の男の伝説を作り上げた。証明となる紙切れを見たふりをした。そんな紙切れは決して存在しなかった。君がねつ造し、後でそれを信じるようになったのだ。今、最初にそれを考えた瞬間を思い出せるだろうか?」

「はい」

「さっき私は指を君に見せた。君は5本の指を見た。覚えているか?」

「はい」

オブライエンは左手の指を再び親指を隠して見せた。

「ここに5本指がある。5本見えるか?」

「はい」

そして彼は本当に見たのだ。一瞬の間だけ、心の風景が変わる前――5本の指が何の歪みもなくはっきり見えた。そのあとまた元の状態に戻り、古い恐怖、憎しみ、混乱が押し寄せた。しかし――どれくらいの時間か分からないが、30秒ほどの発光するような確信――オブライエンの新たな命令が空欄を埋めて絶対的な真実となる瞬間があった。2足す2が3でも5でも必要ならそうできる一瞬だった。その感覚はオブライエンが手を下ろす前に消えたが、再現はできなくても、そのときの感覚ははっきり覚えていた――それは人生のある時期、実質的に別の人間だったときの鮮烈な体験のように。

「今わかっただろう」オブライエンは言った。「少なくとも可能なのだと」

「はい」とウィンストンは答えた。

オブライエンは満足そうに立ち上がった。左手側でウィンストンは白衣の男がアンプルを割り注射器のピストンを引くのを見た。オブライエンはまたウィンストンに笑みを向け、以前のように眼鏡を正した。

「君は日記にこう書いていたな――私が友人か敵かは問題ではない、私が少なくとも理解でき語り合える相手である限り。君は正しかった。私は君と話すのを楽しんでいる。君の心は私の心に似ている、ただし君が狂っている点を除けばだ。このセッションを終える前に、質問があればいくつか受けよう」

「どんな質問でもいいのか?」

「何でも」彼はウィンストンの視線がダイヤルを見ているのに気づいた。「電源は切れている。最初の質問は何だ?」

「ジュリアはどうなった?」

オブライエンはまた微笑んだ。「彼女は君を裏切った、ウィンストン。ただちに、ためらわずにだ。これほど素早くこちらの側に来た者を私はほとんど見たことがない。もし彼女を見ても君は彼女だと気づかないだろう。反抗心、欺瞞、愚かさ、わいざつさ――すべて消し去られた。完璧な転向だった。教科書通りの例だ」

「彼女も拷問したのか?」

オブライエンは答えず、「次の質問だ」と言った。

「ビッグ・ブラザーは存在するのか?」

「もちろん存在する。党が存在している。ビッグ・ブラザーは党の具現化だ」

「彼は私が存在するのと同じように存在しているのか?」

「君は存在しない」とオブライエンは言った。

再び、無力感が襲った。自分の「非存在」を証明する論理なら分かるが、それはナンセンス、言葉遊びに過ぎなかった。「君は存在しない」という命題そのものが論理的に矛盾しているのでは? だがそう指摘して何になるのか。これから先、オブライエンが論破するのは分かりきっていた。

「自分は存在していると思う」とウィンストンは疲れ果てて言った。「自分の同一性を意識している。生まれ、いずれ死ぬ。腕と脚がある。特定の空間を占めている。他の固体が同時に同じ場所を占めることはできない。その意味で、ビッグ・ブラザーは存在するか?」

「重要ではない。存在している」

「ビッグ・ブラザーは死ぬことがあり得るか?」

「あり得ない。どうして死ねる? 次の質問だ」

「兄弟団は存在するのか?」

「それは、ウィンストン、決して分からないことだ。我々が君を解放し、九十歳まで生きたとしても、その答えが『はい』か『いいえ』か分からないままだ。生きている限り、その謎は君の頭の中に未解決のままだ」

ウィンストンは沈黙した。呼吸がやや荒くなった。最初に思い浮かんだ、まだ口にしていない質問があった。どうしても尋ねなければならなかったが、舌が言葉にしてくれない。オブライエンの顔にはかすかな愉快さがあった。眼鏡すら皮肉な輝きを帯びていた。分かっている――とウィンストンははっと思った――彼は俺が何を尋ねるか知っているのだ! 思った途端、言葉が口をついて出た。

「101号室には何がある?」

オブライエンの表情は変わらなかった。素っ気なく答えた。

「ウィンストン、君は101号室に何があるか知っている。誰もが101号室に何があるか知っている」

彼は白衣の男に合図した。明らかにこれでセッションは終了だった。注射器がウィンストンの腕に刺さった。彼はほとんど即座に深い眠りに落ちた。

第3章

「君の再統合には3つの段階がある」とオブライエンは言った。「学習、理解、そして受容だ。いよいよ第二段階に入るときだ」

いつものようにウィンストンは仰向けに寝かされていた。だが最近は拘束が緩くなっている。ベッドには縛られているものの、膝を少し動かせるし、頭も左右に向けられる。肘から先は持ち上げられる。ダイヤルも以前ほどの恐怖心はなくなった。頭の回転が速ければ痛みを避けられた。主に愚かな答えをした時にオブライエンがレバーを引いたのだった。セッションがいくつあったかは覚えていない。全体の過程は数週間、もしかするともっと――その間隔も何日も空くこともあれば、数時間しか開かないこともあった。

「君はこの場所でなぜ愛情省が君にこれほど手間をかけるのか、何度も疑問に思っただろう。自由の身の時も、基本的には同じ疑問を持っていた。その社会の仕組みは理解できたが、根本的な動機が分からなかった。日記に『どうやって行われるかは理解できる、なぜなのかが分からない』と書いたのを覚えているか? なぜと考えたとき、自分が狂っているのではと疑ったな。ゴールドスタインの本を読んだろう――少なくとも一部は。そこに君が知らなかったことがあったか?」

「あなたは読んだのか?」とウィンストンは言った。

「私が書いたのだ。いや、正確に言えば共同執筆だ。本は個人では決して作れない――それは知っているだろう」

「そこに書かれていることは本当なのか?」

「記述としては本当だ。しかし計画はナンセンスだ。知識を密かに蓄積し――徐々に啓蒙が広がり――やがてプロレタリアの反乱による党の打倒。君もそうなると予測していたな、読まなくても良かったはずだ。全部ナンセンスだ。プロレタリアは千年経とうが百万年経とうが決して反乱しない。できない理由は分かっているはずだ。もし暴力革命を夢見たことがあれば、それは捨てろ。党が打倒される道はない。党の支配は永遠だ。それが君の思考の出発点だ」

オブライエンはベッドに近づいてきた。「永遠だ」と彼は繰り返した。「では、どうやって」や「なぜ」に戻ろう。党がどのように支配を維持しているかは十分理解している。では、なぜ力に固執するのか。その動機は何か。考えてみろ」とウィンストンが沈黙を続けると促した。

しかしウィンストンはしばらく沈黙し続けた。疲労感に包まれていた。オブライエンの顔には再び微かな熱狂が戻っていた。オブライエンがこれから何を言うかは分かりきっていた。党は自分たちのために権力を求めるのではなく、大多数の幸福のためだけに権力を求める。人間は弱く臆病で、自由にも真実にも耐えられず、より強い者に支配され偽られるべき存在だ。人類は「自由」と「幸福」のいずれかを選ばねばならず、大多数にとっては幸福こそが良い。党こそが弱者の永遠の守護者、悪を行い善をもたらすために自己犠牲するエリートだ――オブライエンがそう語れば間違いなく信じているのだろう。彼はすべて知っている。ウィンストンより千倍賢く世界の実態も人間の堕落も党の残忍冷酷さも見抜いている。しかし最終目的が正しければすべて正当化される、と。自分よりも知性の高い狂人にはどうしようもない――そうウィンストンは思った。

「我々は善意で支配しているんだろう?」と彼は力なく言った。「人間は自らを統治するに値しないと信じて――」

その時彼は突然呻き声をあげそうになった。痛みが体を貫いたのだ。オブライエンがダイヤルの針を35まで上げたのだ。

「それは愚かだった、ウィンストン。そんなことは言うべきじゃない」とオブライエンは言った。

彼はレバーを戻し、続けた――

「では質問の答えを教えてやろう。党は純粋に己のために権力を求めている。他人の善などに興味はない。興味があるのは権力だけだ。富でも贅沢でも長寿でも幸福でもない。権力そのものだ。真の権力が何か、そのうち分かる。かつての寡頭制と我々が違うのは、自分たちが何をしているかわかっていることだ。他は、我々によく似ていても臆病で偽善的だった。ドイツのナチスもロシアの共産党も手法は近かったが、動機を認める勇気はなかった。いやいや権力を奪い、いずれ人類は自由で平等な楽園が来ると信じ込みすらした。我々は違う。権力を奪うのは手放すつもりがあるからではない。権力は手段でなく目的だ。君主制を権力のために維持するのではなく、ディクテーションそのものを目的に革命を起こすのだ。迫害の目的は迫害、苦痛を与える目的は苦痛そのもの。権力の目的は権力そのものだ。これで分かったか?」

ウィンストンは、前にも感じたオブライエンの顔の疲労に気付いた。それは強く、肉付きがよく、残酷で知性を宿し、統制された情熱でウィンストンを打ち負かすものだったが、それは疲れていた。目の下にはたるみ、頬の皮膚は垂れていた。オブライエンは身体を屈め、その擦り減った顔を近づけた。

「君は私の顔が老い疲れていると思っているな。私は権力を語りながら、自己の肉体すら老化を防げない。だが分からないか、ウィンストン、個人は細胞に過ぎない。細胞が疲れても全体はより活動的になる。君は爪を切って死ぬか?」

彼はベッドから離れて歩き始め、一方のポケットに手を突っ込んだ。

「我々は権力の司祭だ。神とは権力そのものだ。しかし、いま君には権力はまだ単なる言葉にすぎない。権力とは何か、これから少し理解してもらう。第一に知っておくべきは、権力は集合的なものだ。個人は個性を捨てて初めて権力を持つ。党のスローガンを思い出せ――『自由は隷属である』。それは逆も成り立つ――隷属は自由である。孤独で自由な存在に、必ず敗北が待っている。なぜなら人間はみな死に運命づけられており、それこそ最大の失敗だからだ。だが完全に己を放棄し、アイデンティティから逃れ、党と同化し党そのものとなれば、全能かつ不滅となる。次に覚えておけ、権力は人間に対するものだ。肉体もだが、何より心に対するものだ。物質――君の言う外的現実――に対する権力は問題でない。すでに我々の物質支配は絶対的だ。」

ウィンストンは一瞬ダイヤルを無視し、激しく起き上がろうとしたが、体を痛めつけただけだった。

「だが物質をどうやって支配する? 気候も重力も支配していない。病気も、痛みも、死だって――」

オブライエンは手を上げて黙らせた。「我々は心を支配するから物質を支配できるのだ。現実は頭蓋骨の中にある。徐々に分かるようになる。できないことは何もない。透明化も浮遊も――何でもできる。私が石けんの泡のようにこの床から浮かび上がれるのも可能だ。ただ私も党もそうしたくないのだ。19世紀的な自然法則の idée fixe は捨てろ。我々が自然法則を作るのだ」

「違う! 君たちはこの惑星だって支配していない。ユーラシアやイースタシアはどうなんだ? まだ征服していないじゃないか」

「無関係だ。我々が望むとき征服する。たとえそうでなくとも問題はない。彼らを存在しないことにもできる。オセアニアがすなわち世界だ」

「だが世界そのものが塵芥で、人間は矮小で無力だ! どれだけ長く存在した? 地球は何百万年も無人だった」

「馬鹿な。地球は我々と同じだけ古い、それ以上ではない。どうしてそれ以上古くありえる? 人間の意識を通じてしか存在しないからだ」

「だが岩石には絶滅動物の骨――マンモスやマストドンや、人類出現以前の巨大な爬虫類の骨が詰まっているぞ」

「君はそれらの骨を見たことがあるのか? あるはずがない。19世紀の生物学者が発明したものだ。人間以前には何もなかった。人間の後に終われば何もない。人間の外側には何もない」

「だが宇宙全体が俺たちの外にある。星を見ろ! 数百万光年も離れたものだってあるんだ。手も届かない存在だ」

「星とは何だ?」とオブライエンは無関心に言った。「数キロしか離れていない炎の塊に過ぎない。我々が必要ならそこに行けるし、消すこともできる。地球こそ宇宙の中心だ。太陽も星もまわっている」

ウィンストンは再び身を強張らせたが、口に出すことはしなかった。オブライエンはあたかも反論を聞いたかのように続けた。

「場合によっては違うことを仮定する必要もある。海を航行するときや日食を予測するとき、この地球が太陽を周り、星が何百万キロも彼方にあると仮定した方が便利な場合もある。しかしそれがどうした? 我々が二重の天文学体系を成立させることができないと思うか? 星は我々の必要に応じて近くも遠くもなる。我々の数学者にそんなことができないと思うか? ダブルシンクを忘れたのか?」

ウィンストンはベッドに身を縮めた。何を言っても即座に返される答えが彼を打ちのめす。そして彼は自分が正しいと分かっていた。自分の外に何も存在しないという信念――それが誤りであることを証明する方法はないのだろうか? 長らく誤謬として暴かれていたはずだ。名前もあったが思い出せない。オブライエンは、口元をかすかに微笑めさせて見下ろした。

「ウィンストン、私は形而上学は君の得意分野ではないと言っただろう。君が探している言葉は独我論だ。しかし君は間違っている。それは独我論ではない。集合的独我論と呼びたければそう呼べばいい。だがそれは実質的に真逆だ。だがこれは余談だ」と別の口調で続けた。「現実の権力――我々が昼も夜も戦って維持しなければならない権力は、人間に対するものだ」彼は一瞬、また有望な生徒を問いただす教師の口調に戻った。「ウィンストン、他人への支配とは何だ?」

ウィンストンは考えた。「苦しめることだ」

「その通り。苦しめることだ。服従だけでは不十分だ。苦しんでいなければ、その意志に従っているのかどうか分からない。権力とは痛みや屈辱を与えることにある。権力とは人間の心をバラバラにし再び自分好みに組み立てなおすことだ。分かり始めているか、我々がどんな世界を築いているのか? それは昔の愚かしい快楽的ユートピア――改革家たちが夢見たものの正反対だ。恐怖、裏切り、責苦の世界――踏みつけ、踏みつけられる世界だ。その世界は洗練されるほどに容赦なくなり、進歩は苦痛への進歩となる。昔の文明は愛や正義に根ざすと主張した。我々は憎悪に根ざす。未来の世界には恐怖、怒り、勝利、自己卑下だけが残る。他の感情はすべて破壊する――すべてだ。我々は革命以前の思考習慣も壊してきた。親と子、男と男、男と女の間も引き裂いた。もはや誰も妻や子や友を信頼しない。いずれ妻も友もいなくなる。子は生まれてすぐ母から引き離され、鶏の卵のように取り上げられるだろう。性欲は根絶される。生殖は配給券の更新のような年次儀式になり、オーガズムは廃絶される。我々の神経学者も今、それに取り組んでいる。党への忠誠以外の忠誠はなくなる。ビッグ・ブラザーへの愛以外の愛も消える。敵に勝った勝利の笑い以外の笑いもなくなる。芸術も文学も科学もなくなる。全能になれば科学も不要となる。美しさや醜さの区別もない。好奇心も人生を楽しむ心もすべて抹殺される。すべての競合する快楽が破壊される。しかし決して忘れてはならない――常にあるのは権力の陶酔だ。それは際限なく増大し、洗練を極めていく。絶えず勝利の興奮があり、無力な敵を踏みつける快感がある。もし未来のイメージが欲しければ、人間の顔を永遠に踏みつけるブーツ――それを想像してみろ」

彼はウィンストンの反応を期待するかのように、語るのを止めた。ウィンストンはまたもやベッドの表面へ身を縮めていた。何も言えなかった。心が氷のように固まっていた。オブライエンは続けた。

「そしてそれが永遠なんだ。踏みつける顔はいつもそこにある。異端者、社会の敵は常に存在し、倒され辱められ続ける。君が我々の手に落ちてから経験したすべて――それも続くし、もっと激しくなる。諜報、裏切り、逮捕、拷問、処刑、失踪は終わらない。恐怖と勝利の世界だ。党が強大になるほど寛大さは減り、敵が弱くなるほど専制は強まる。ゴールドスタインも異端も永遠に生き続ける。毎日、あらゆる瞬間に敗北し、失墜し、嘲笑され、唾を吐きかけられても生き続ける。この劇はこの七年間、君と何度も繰り返されたが、今後も時代を超えて繰り返される。常に微妙に形を変えながら。異端者をここに置き、痛みと屈辱の中で、ついには自分で這って我々の足下に来る。これが我々が準備している世界だ。勝利の果てに勝利、勝ち続け、力の神経を無限に押し続ける。この世界を理解するだけでなく、いずれ君もそれを受け入れ、歓迎し、その一部となるのだ」

ウィンストンはようやく言葉を発した。「できない!」と弱々しく言った。

「その言葉はどういう意味だ、ウィンストン?」

「あなたが今言ったような世界は作り得ない。夢想でしかない。不可能だ」

「なぜだ?」

「恐怖と憎悪、残酷さの上に文明を築くことは不可能だ。それは永く続かない」

「なぜだ?」

「活力がない。崩壊し自滅する」

「馬鹿な。愛の方が憎しみより消耗が激しいと思い込んでいる。しかしなぜそうなる? 仮にそうだとしても何が問題だ? 生のリズムを速め、三十で老人にしたとしても、何か違うのか? 個人の死は死ではない。党は不滅なのだから」

いつものように、声はウィンストン・スミスを無力感の中へと打ちのめした。さらに彼は、自分が反論を続ければオブライエンが再びダイヤルをひねるのではと怯えていた。それでも彼は沈黙することができなかった。力なく、論拠もなく、オブライエンが言ったことへの言語化できない恐怖だけを頼りに、再び抗議した。

「わからない――どうでもいい。いずれあなたたちは失敗する。何かがあなたたちを打ち倒す。生命があなたたちを打ち負かす。」

「我々が生命を支配している、ウィンストン、あらゆるレベルでな。我々のしていることに憤慨し反逆するような“人間の本質”などというものを、お前は想像している。しかし我々が人間の本質を創るのだ。人は無限に可塑的だ。もしくはお前は、プロレタリアや奴隷たちが立ち上がり、我々を倒すといういつもの考えにまた戻ったのか。忘れろ。彼らは動物と同じで無力だ。人間性とは党のことだ。他のものは外側にいる――無関係だ。」

「どうでもいい。最終的には、やつらが君たちを倒す。いつかは、やつらも君たちの正体を見抜き、そして君たちをバラバラにするんだ。」

「そんなことが起こっている証拠が見えるか? もしくはそうなる理由が?」

「いや。だが私は信じている。君たちは失敗する、そう確信している。この宇宙のどこかに――わからない、何か精神、何らかの原理――絶対に君たちが克服できないものがある。」

「神を信じているのか、ウィンストン?」

「いや。」

「なら、それはなんだ、我々を打ち倒す原理とは?」

「わからない。“人間の精神”さ。」

「そして自分を人間だと思うのか?」

「ああ。」

「もしお前が人間だとすれば、ウィンストン、お前は最後の人間だ。お前の種族は絶滅した。我々が後継者だ。お前は独りだと理解しているか? 歴史の外にいる、お前は存在していない。」彼の口調が変わり、より厳しい声で言った。「そして、お前は我々より道徳的に優れているつもりでいるのか、我々の嘘や残酷さに対して?」

「ああ、自分は優れていると思っている。」

オブライエンは黙った。二つの別の声が話していた。しばらくしてから、ウィンストンはそのうちの一つが自分の声だとわかった。オブライエンと彼が兄弟団に加入した夜に交わした会話の録音だった。自分が嘘をつき、盗み、偽造し、殺人を犯し、麻薬や売春を助長し、性病を撒き散らし、子どもの顔に硫酸を投げつけるとまで約束したのが聞こえた。オブライエンは、示す価値もないとでも言いたげに苛立った仕草をした。その後、スイッチを回し声は止まった。

「ベッドから立つんだ」と彼は言った。

縄は自然にゆるんでいた。ウィンストンは床に下り、不安定に立った。

「お前が最後の人間だ」とオブライエンは言った。「お前は人間の精神の守護者だ。自分がどんなものか見るのだ。服を脱げ。」

ウィンストンは自分の作業服を留めていた紐をほどいた。ジッパーはずいぶん前に壊れていた。逮捕されて以来、一度に全ての服を脱いだことがあったかどうか思い出せなかった。作業服の下には、汚らしい黄色がかったぼろ布が体にぐるぐると巻かれており、下着の名残とわかるかすかなものだった。それらを地面に落としたとき、部屋の奥に三面鏡があることに気づいた。彼は鏡の方へ歩きかけて立ち止まった。思わず叫び声が上がった。

「続けろ」とオブライエンが言った。「鏡の羽の間に立て。側面も見える。」

彼は恐怖で立ち止まったのだった。曲がった、灰色の、骸骨のようなものが自分に向かって来る。見た目の凄まじさは、ただ自分自身だと理解しているだけでなく実際に恐ろしかった。彼はもっと鏡に近づいた。その生き物の顔は、体が曲がっているせいで前の方に突き出ているように見えた。惨めで、囚人のような顔つき、でこぼこの額、禿げかかった頭、曲がった鼻、傷だらけの頬骨、その上に厳しく見張るような目がある。頬には皺が刻まれ、口はすぼめられたようになっていた。確かにそれは自分の顔だが、内面の自分以上に変化しているように思えた。鏡に映る感情は、自分の感じているものとは違っているのではないか。部分的に禿げていた。最初は白髪にもなったかと思ったが、頭皮だけが灰色だったのだ。手と顔の一部を除き、体全体は古い、染みついた汚れで灰色になっていた。汚れの下には赤い傷跡がちらほらあり、足首の静脈瘤は炎症を起こして皮膚が剥けている。だが本当に恐ろしかったのはそのやせ細り具合だった。肋骨の筒は骸骨並みに狭く、脚は縮んで膝の方が太腿よりも太くなっている。オブライエンが側面を見せたいと言った意味が今わかった。背骨の曲がり方は驚くべきものだった。薄い肩は前にすぼまり、胸には窪みができ、痩せこけた首は頭蓋骨の重みで二重に折れ曲がりそうに見えた。六十歳で重病を患った男の体のようだと推測するしかなかった。

「お前は時々思っていただろう」とオブライエンは言った、「私の顔――インナー・パーティの一員の顔――が年老いて疲れて見えると。自分の顔はどうだ?」

彼はウィンストンの肩をつかんで、向きを変えさせ自分の方に向かせた。

「自分がどんな状態か見ろ!」と彼は言った。「この汚らわしい垢だらけの体を見ろ。足の指の間の汚れを見ろ。足のあの醜い化膿した傷口を見ろ。山羊みたいに臭いのを知ってるか? たぶんもう気づきもしないんだろう。やせ細った体を見ろ。わかるか? 力こぶを親指と人差し指でつなげてしまえる。お前の首なんぞニンジンのようにへし折れてしまうぞ。お前は我々の手にかかってから二十五キロも痩せたんだ。この毛だって、一度に何束も抜ける。見ろ!」彼はウィンストンの頭の毛をつまみ、一房引き抜いてみせた。「口を開けろ。九本、十本、十一本しか歯が残っていない。こっちに来たときはいくつあった? 残りの歯もどんどん抜けていってるぞ。よく見ろ!」

彼はウィンストンの前歯の一本をつかみ、激しい痛みがウィンストンの顎を走った。オブライエンはゆるんだ歯を根元から引き抜いた。そしてその歯を独房の床に投げ捨てた。

「お前は腐り果てている」彼は言った。「バラバラに崩れ落ちていく。お前は何だ? くずかごの中身だ。今、もう一度鏡を見ろ。お前に向き合っているのがわかるか? あれが“最後の人間”だ。お前が人間なら、あれが人類だ。さあ、服を着ろ。」

ウィンストンはゆっくり体を動かしながら服を着始めた。これまで自分がいかにやせ細って弱っているかは、あまり意識していなかった。ただ一つだけ思いが心に浮かんだ――自分は思っていたよりも長くここにいるのだろう、と。みすぼらしいぼろ布を体に巻きつけた瞬間、打ちのめされた肉体に憐れみが湧き上がった。何をしているかもわからず、ベッド脇の小さなスツールに崩れ落ち、泣き出してしまった。自らの醜さ、不格好さ、汚れた下着に骨だけの体で光線の中でしくしく泣く姿――それを知覚しながらも止められなかった。オブライエンはほとんど優しげに肩に手を置いた。

「こんなものは永遠には続かない」彼は言った。「自分でやめようと思えばやめられる。全てはお前自身にかかっている。」

「お前がやったんだ!」ウィンストンはむせび泣いた。「お前が、こんな状態にしたんだ。」

「いや、ウィンストン、お前自身がそうしたのだ。パーティーに逆らったときからこれを受け入れたのだ。最初の行動に全てが含まれていた。想定していなかったことなど何一つ起こっていない。」

彼は間をおき、続けた

「我々は勝った、ウィンストン。我々はお前を打ち砕いた。自分の体がどうなったか見ただろう。心も同じ状態だ。プライドなどもうほとんど残っていないだろう。お前は蹴られ、鞭打たれ、侮辱され、苦痛で叫び、血と吐瀉物の中で転がった。慈悲を乞い、すべてを裏切った。お前に起きなかった堕落が一つでもあるか?」

ウィンストンは泣きやんでいたが、涙はまだ目からにじんでいた。彼はオブライエンを見上げた。

「ジュリアはまだ裏切っていない」彼は言った。

オブライエンは思慮深く彼を見下ろした。「そうだ」彼は言った。「それは本当だ。お前はジュリアを裏切っていない。」

どんなことでも揺るがぬオブライエンへの奇妙な敬愛が、またウィンストンの心に満ちた。なんて賢いのだ、と彼は思う。オブライエンは常に何が言われているのかを理解していた。ほかの誰もが自分がジュリアを裏切ったと即答しただろう。しかし拷問の末に自分は彼女のことを知る限り全て白状したのだ、習慣や性格や過去まで。そして二人の会合での些細な点まで、パーティーに対する漠然とした陰謀まで――すべてを告白した。だが、自分の意図した意味での裏切り、それはしていなかった。彼女への愛を失っていなかった。彼女への気持ちは変わっていなかった。オブライエンは説明せずともその意味を見抜いた。

「聞きたい。どれくらいで撃たれる?」

「長くかかるかもしれない」オブライエンは言った。「お前は手ごわい相手だ。だが希望を捨てるな。誰もが遅かれ早かれ治る。最後には撃つ。」

第四章

彼はかなり回復していた。もし“日”という表現が適切なら、毎日太り、体力も回復していた。

白い光とハミング音は相変わらずだったが、今いる独房はこれまでのものよりいくらか快適だった。板張りのベッドには枕とマットレスがあり、座るためのスツールもあった。彼は風呂に入ることを許され、ブリキの洗面器で比較的頻繁に体を洗うことさえできた。ぬるま湯も与えられた。新しい下着と清潔な作業服も支給され、静脈瘤には軟膏を塗ってもらった。残った歯は抜かれ、新しい義歯が入れられた。

数週間、あるいは数ヶ月が過ぎたはずだ。定期的な食事のため、今では時の流れを気にすれば数えられたかもしれないが、どうでもよかった。24時間ごとに三食出ているようだと彼は判断したが、それが昼か夜かは曖昧だった。食事は意外とよく、三回に一度は肉が出る。煙草が一箱配られたこともあった。マッチはなかったが、食事を持ってくる口数の少ない看守が火をつけてくれた。最初は吸って気分が悪くなったが、我慢して続け、食後に半分ずつ吸い長持ちさせた。

白い石板と、隅にひもでつながった短い鉛筆を支給された。しばらくは使わなかった。覚醒している時もまったく無気力で、食事から次の食事までほとんど動かず、寝たり朦朧としたりして、目を開けることさえ億劫だった。強い光が顔に当たったまま寝ることにもとっくに慣れていた。ただ夢の筋道が少し明瞭になる以外、特に問題はなかった。夢をよく見たが、いつも幸せな夢だった。黄金の国にいたり、巨大な光溢れる廃墟に座って、母やジュリア、オブライエンらと平和な話をしている――ただ一緒に日向ぼっこするだけだ。起きている時に考えるのはもっぱら夢のことだった。痛みの刺激が消えた今、知的努力の力もなくしていた。退屈ではなく、会話や気晴らしも欲しがらなかった。ただ一人でいられること、叩かれたり尋問されず、十分に食べて体が清潔でいること、それだけで完全に満たされた。

徐々にだが眠っている時間が減り、それでもベッドから出たい衝動はなかった。ただ静かに横たわり、体力が戻っていくのを感じていたいだけだった。自分の筋肉が張りを取り戻し、皮膚も張ってきたのではないかとあちこち触っては確かめた。ついに確証できた――太り始めている。太腿は明らかに膝よりも太くなった。それから、最初は嫌々ながらも運動をし始めた。しばらくすると、独房の中を計測しながら三キロ歩けるようになり、曲がっていた方の肩も徐々に伸びてきた。さらに難しい運動を試したが、できないことが多くて驚き、屈辱を覚えた。早歩きはできず、スツールを腕を伸ばして持つこともできず、片足で立つとすぐに倒れてしまう。踵を下ろしてしゃがみこみ、激しい痛みを太腿とふくらはぎに感じながら、ようやく立ち上がるのがやっとだった。うつ伏せに寝て両手だけで体を持ち上げようとしたが、一センチも浮かせられなかった。しかし、数日して何度かの食事の後、ついにそれもできるようになった。今では六回連続でできるまでになった。自分の体への誇りさえ感じ、顔も少しずつ元に戻っているという一時的な信念さえもつようになった。だが頭に手を当てると、鏡で見た傷だらけの壊れた顔を思い出した。

頭の働きも冴えるようになった。彼は板のベッドに背中をつけ、石板を膝にのせ、再教育に取り組み始めた。

彼は屈服した。それはもう同意したことだった。実際には、今となってみれば、決断するずっと前から屈服する用意はできていた。愛情省に入った瞬間――いや、ジュリアと一緒に鉄の声〔訳注:テレスクリーンの声〕の指示に逆らえずに立ちすくんでいたあの時から、党に逆らうという企てがいかに軽薄で浅はかだったか把握していた。今やはっきりわかる、七年もの間、思考警察が彼を虫眼鏡で見る虫のごとく監視していたのだ。物理的な行為も発した言葉も全て見逃されず、思想の筋道まで読み取られていた。日記帳のカバーにあった小さな白い埃ですらきちんと元に戻されていた。録音を聴かされ、写真も見せられた。その中にはジュリアと自分のものもあった。そう、さらに……もう党には逆らえない。さらに、党が正しいのだ。そうに決まっている。集団的不滅の脳が間違うはずがない。外的基準でどうその判断を調べるのか? 正気とは統計的なものだ。ただ彼らのように考えることを学ぶだけだ。ただし――! 

鉛筆が太く不器用に感じた。次から次へ浮かぶ考えをそのまま書き記そうとした。まず大きな不格好なブロック体でこう書いた。

自由は隷属である

間をおかず、その下に書いた。

2足す2は5である

だが何かがつかえている。思考が、何かから逃げるように集中できなかった。次に何が来るかは知っていたが、しばらく思い出せなかった。思い出せたのは、意識的に推論して何だったか割り出したときだけだった。自然と浮かぶのではなかった。彼は書いた。

神は権力である

彼はすべてを受け入れた。過去は変えられる。過去は一度も変えられたことがなかった。オセアニアはイースタシアと戦争中。オセアニアは常にイースタシアと戦争をしていた。ジョーンズ、アーロンソン、ラザフォードは、課された罪に有罪だった。彼らの無罪を証明する写真を見たことはない。そんなものは存在しなかった。自分が作り出した幻影だ。矛盾する記憶があったことも覚えていたが、それは誤った記憶、自己欺瞞の産物だ。なんと簡単なことだろう! ただ降伏すれば、すべてが従う。川の流れに逆らって泳ごうと必死に抵抗した挙句、ふいに逆らうのをやめ流れに従うことにしたようなもの。自分の態度以外は何も変わらない:運命づけられていたことがどうせ起こるのだ。そもそも反抗した理由すらわからなくなった。すべてが簡単だ。ただし――! 

何もかもが真実になりうる。いわゆる自然法則は馬鹿げている。重力の法則も馬鹿げている。「もし私が望めば」とオブライエンは言った、「私はこの床から石鹸玉のように浮かんでみせる」。ウィンストンは理屈を組み立てた。「彼が浮かんだ、と彼が思い、同時に自分も彼が浮かんだと“思えば”、そのことは起こる。」 突然、水底から残骸が浮かび上がるように思考が頭に浮かんだ。「実際は起きていない。我々が想像している。幻覚だ。」すぐにその思考を追い払い打ち消した。誤りは明白だ。どこか外の世界に「現実の」ものが起こる「現実の」世界があると仮定しているだけだ。しかしそんな世界がどうしてあるのか? 全ての知識は自分自身の心を通じてしか得られない。全ての出来事は心の中にある。全ての心に起きることは、本当に起きていることだ。

その誤りを打ち消すのに苦労はなかったし、負ける危険もなかった。にもかかわらず、そんな思考が浮かんだこと自体がダメだと気づいていた。危険な考えが現れたら自動的に盲点を作るべきなのだ。その過程は無意識的、本能的でなければならない。ニュースピークで言う「クリムストップ」だ。

彼はクリムストップの練習に取り掛かった。「党は地球は平らだと言っている」「党は氷は水より重いと言っている」といった命題を自分に出し、それを否定する議論を目にしない、理解しない訓練をした。簡単にはいかなかった。論理力や即興力がかなり要求された。たとえば「2と2は5」という命題が孕む算数的な問題は、彼の知的な手に余った。それにはある種の頭の運動能力、あるときは非常に繊細に論理を使い、次の瞬間には最も粗雑な論理的誤りを意識しないことが必要だった。愚かさは知性と同程度に必要で、同程度に難しいものだった。

その間ずっと、心の一部でいつ撃たれるのかを気にしていた。「すべてはお前次第だ」とオブライエンは言っていた。しかし彼はそれを早める意識的な行為がいかなるものか分からなかった。十数分後かもしれないし十年後かもしれない。何年も独房に閉じ込められるかもしれないし、労働収容所に送られるかもしれない。時にはしばらく釈放されることだってある。その前にまた、逮捕や尋問の芝居が繰り返されるかもしれない。確実なのは、死は決して予期しうる瞬間にはやってこないということだった。伝統的――口には出さないが、誰もが分かっている伝統は、彼らは背後から撃つ、独房から独房へ続く廊下を歩いている最中、後頭部に突然――というものだった。

ある日――いや「ある日」という言い方は正しくない。深夜の場合もある――一度、不思議な至福の夢想に陥った。彼は廊下を歩いていた、弾丸を待ちながら。今にもそれがくることがわかっていた。すべては片付いて調停され、和解していた。もう疑いも、議論も、痛みも、恐れもなかった。体は健康で力強かった。軽やかに歩き、日差しの中を歩く歓びがあった。もう愛情省の狭い白い廊下ではなく、麻薬で幻覚状態になったときに歩いた、幅一キロの巨大な日ざしの中の通路だった。彼は黄金の国にいて、ウサギが食む草原の小道を歩いていた。足元の短く弾力のある芝と、頬をなでるやさしい日差しを感じた。畑の縁には揺れる楡の木があり、その先にはヤナギの下のグリーンの淵にウグイが寝ている小川があった。

突然彼は恐怖で飛び起きた。背骨に汗がにじむのを感じた。自ら叫んだのが聞こえたのだ。

「ジュリア! ジュリア! 愛してる! ジュリア!」

一瞬、彼女の存在を圧倒的に実感する幻覚を見た。彼女は近くにいるだけでなく、自分の中にいるような気がした。それは彼女が自分の肌の感触まで染み込んでしまったかのようだった。その瞬間、彼女と自由に一緒にいた時より強く彼女を愛していた。また、彼女がどこかで生きていて、自分の助けを必要としていることを知っていた。

彼はベッドに横たわり、気持ちを落ち着かせようとした。自分は何をしたのか? この一瞬の弱さで何年の服役が加算されたのだろう? 

すぐにブーツの足音が外から響くに違いなかった。こんな感情の爆発を放っておくはずがない。彼らが今まで知らなかったとしても、今や自分が彼らとの約束を破ったことはばれてしまった。彼は党に従ったが、党を憎み続けていた。昔は服従の態度の下に異端的な心を隠していた。今はさらに後退し、心の内面は降伏しているが、内なる心臓部だけは守ろうとした。自分が間違っていることを知りつつ、それでもその間違いのままでいたいと望んでいた。彼らはそれを理解する――オブライエンはわかるだろう。すべてあの愚かな叫びですでに告白してしまった。

また一からやり直しだ。何年もかかるかもしれない。彼は自分の顔をなぞって新しい形に慣れようとした。頬は深く刻まれ、頬骨は尖り、鼻はぺしゃんこだ。さらに、最後に鏡を見て以来、すっかり新しい義歯が入っている。自分の顔がどうなっているかわからないまま“無表情”を保つのは簡単ではなかった。だが顔つきだけの問題ではない。初めて、“秘密を守りたいなら、自分自身からも隠さねばならない”と気付いた。その存在を心の奥底で知りつつも、必要になるまでは決して意識の表層に名前がつく形で表れてはいけないのだ。これからは正しく考えるだけでなく、正しく感じ、正しい夢も見ねばならない。そしてずっと、党への憎しみは自分の中の物質の球のように他とは切り離して閉じ込めなくてはならない――嚢胞のように。

いつか彼らは撃つ、と決めるに違いない。いつそれが来るかはわからないが、撃たれるほんの数秒前なら予感できるかもしれない。いつも廊下を背後から撃たれるのだ。十秒もあればいい。その間だけ自分の内側の世界を反転できる。そして唐突に、何も言わず、歩調も変えず、表情も変えないまま――その瞬間、偽装がはがれ、ばん! と憎しみのバッテリーが火を噴くだろう。憎悪は巨大な業火のように全身を満たす。そしてほぼ同時に、ばん! と銃弾が貫き――だが遅すぎたか、早すぎたか。彼らが脳を吹き飛ばす前に、自分の“異端の思考”は免罪され、悔い改めもなく、永遠に彼らの手の届かぬものとなる。彼ら自身の完全性に穴を開けることになる。憎しみながら死ぬ――それが自由だった。

目を閉じる。これは知的訓練を受け入れるよりもはるかに困難だった。自らを卑しめ、傷つける問題だ。最も忌まわしく、病的なものに飛び込むしかない。何が最も嫌悪すべきことか? ビッグ・ブラザーのことを思い出す。巨大な顔(ポスターで見続けるので、いつも横幅1メートルくらいに思える)、濃い黒髭、その目はどこまでも見張っている――自然とその顔が心に浮かぶ。本当の気持ちはどうなのか? 

廊下に重いブーツの音が響く。鋼鉄の扉がガチャンと開いた。オブライエンが独房に入って来た。その後ろには蝋細工のような顔の士官と黒服の看守たちがいた。

「立て」とオブライエンが言う。「こっちに来い。」

ウィンストンは彼の正面に立った。オブライエンは強い手で彼の肩をつかみ、じっと顔を覗いた。

「俺を欺こうと思ったな」彼は言う。「それは愚かなことだ。もっと背筋を伸ばせ。俺の顔を見ろ。」

彼は間をおき、より穏やかに続けた。

「お前は改善されている。知的にはほとんど問題ない。あとは感情面だけだ。ウィンストン、嘘はだめだぞ――俺は嘘を見抜く力があるのを知っているな――教えてくれ、お前のビッグ・ブラザーに対する本当の気持ちは?」

「彼を憎んでいる。」

「憎んでいるか。それでいい。では次の段階だ。ビッグ・ブラザーを愛さねばならない。ただ従うだけでは足りぬ――愛さなければならない。」

彼はウィンストンを軽く看守たちの方に押しやった。

「101号室だ」と彼は言った。

第五章

監禁生活の各段階で、彼は自分が窓のない建物内のどこにいるのか何となくわかっていた。もしかすると気圧のわずかな違いからかもしれない。殴られていた独房は地下だった。オブライエンに尋問された部屋はかなり上の方、屋上に近かった。この場所は可能な限り地下深く、何十メートルも下だ。

これまでいたどの独房よりも広かった。だが彼は周囲に注意を払う余裕もなかった。唯一目についたのは、真向いに二つの小さなテーブルが緑のフェルトで覆われて置かれていることだった。一つはわずか1、2メートル先、もう一つは入口の近くに位置していた。彼は椅子にきつく縛りつけられ、身動き一つできない。頭すら動かせぬよう、後ろからパッドで強制的に正面を向かせられていた。

しばし無人のまま、やがて扉が開いてオブライエンが現れた。

「かつて君は私に、101号室には何があるかと尋ねた」オブライエンは言った。「君はすでに答えを知っていると私は話した。誰しも知っている。101号室にあるのは“この世で最も恐ろしいもの”だ。」

扉が再び開き、看守が針金製の何か――箱かかごのようなもの――を運び入れ、奥のテーブルに置いた。オブライエンの立ち位置のため、ウィンストンにはよく見えなかった。

「世界一怖ろしいものは人それぞれ違う」とオブライエンは語った。「生き埋め、火刑、溺死、串刺し、あるいは他の五十通りの死という場合もある。命に関わらないごく些細なものが対象になるケースもある。」

彼はわずかに横にずれ、ウィンストンからもテーブル上の物がよく見えるようにした。横長の針金かごで、持ち運び用の取っ手がついている。前面には面を伏せたフェンシングマスクのような装置がついていた。それは3メートルもない距離だったが、かごが縦に二つの部屋に分かれていて、それぞれに生き物がいるのが見えた――それは鼠だった。

「君の場合、“この世で一番恐ろしいもの”は鼠というわけだ。」

予兆のような戦慄、正体不明の恐怖が、彼がかごを一瞥した瞬間に走った。だが今や面のような装置の意味が理解でき、内臓が水のように崩れる感覚がした。

「できない! そんなことは不可能だ!」ウィンストンは甲高い声で叫んだ。「そんなこと無理だ、無理だ、できるはずがない!」

「覚えているか」オブライエンは言う。「夢で何度もパニックになった瞬間を。目の前に黒い壁があり、耳には轟音。壁の向こうには恐ろしい何者かがいる。君はそれが何か知っていたが、表に引きずり出す勇気はなかった。壁の向こうにいたのは鼠だ。」

「オブライエン!」ウィンストンは声を抑えつつ言った。「こんなことしなくていいはずだ。あなたが望むものは何なんだ?」

オブライエンは直接答えなかった。話すときは教師ぶった口調になった。遠くを見やり、あたかもウィンストンの後ろの観衆に語りかけるように。

「苦痛だけが万能なわけではない」彼は言った。「ある場合、人は苦痛にも最後まで耐える。だが誰であれ絶対に耐えられないものが何かある――考えることもできないものが。勇気や臆病の問題ではない。高所から落ち叫びながらロープにつかまるのは臆病か? 溺れて水面に出たとき思い切り息を吸い込むのは臆病か? 本能で避けられないのだ。鼠も同じ。君にとっては到底耐えがたい。君が望もうと望むまいと、抗いようのない圧力なのだ。君は要求されることを必ずやる。」

「だが、その“それ”が何なのか? 知らなければどうやってやるのか?」

オブライエンはかごを手前のテーブルに移動させた。フェルトのクロスの上に注意深く置く。ウィンストンの耳には自分の血が鳴り響いていた。途方もない孤独感、広大な無人の平原にぽつりといるような、照りつける太陽の下の砂漠にただ一人いるような気がした。だが鼠の入ったかごはすぐ2メートルもない位置だ。鼠は巨大だった。鼻先が丸くなり獰猛な年頃、灰色でなく茶色の毛をしている。

「鼠は、知っているように、齧歯類でありながら肉食だ」オブライエンは見えぬ聴衆へ語り続けた。「この町の貧民街で起こることは聞いたことがあるだろう。女は赤ん坊をほんの五分でさえ家に残して外出できない。必ず鼠に襲われ、あっという間に骨までしゃぶる。病人や瀕死の人も襲う。無力な人間を見分ける知恵を持っている。」

かごからキーキーと騒ぎ声があがる。遠く彼方から聞こえるようだ。鼠たちは仕切り越しに争っていた。絶望の深い呻き声も聞こえた。それさえ自分自身からではないよう感じられた。

オブライエンはかごを持ち上げ、何かを押した。カチッと鋭い音がした。ウィンストンは必死に椅子から逃れようともがいたが無駄だった。身体も頭も全て不動だった。オブライエンはかごをさらに近づけた。ウィンストンの顔まで1メートルもない。

「第一レバーを押した」オブライエンは言った。「このかごの構造はわかるな。面がそのまま頭を覆って抜け道はない。この二つ目のレバーを押すと、かごの扉が開く。飢えたこの獣どもが弾丸のように飛び出してくる。鼠が空中を跳ねるのを見たことがあるか? 君の顔に跳びつき、まっすぐ頭蓋に突入する。時にまず眼球を襲い、時に頬を食いちぎり、舌をむさぼる。」

かごはさらに迫る。覆いの丸枠はもう何も見えなくなるほど近づいた。針金の扉は顔のわずか20センチほど先だ。鼠たちは何が起きるか直感している。片方は跳びはね、もう片方――下水道の老いた祖父鼠――は二本のピンクの手で格子につかまり、空気を鋭く嗅いでいる。ヒゲと黄色い歯が見える。またしても暗黒のパニックに襲われた。見えず、動けず、思考もない。

「清朝時代の中国ではよく使われた」オブライエンは飽きずに講釈を続ける。

面がついに顔にかかる。針金が頬をかすめる。その時――いや、安心ではない、だが一縷の希望のようなもの、破片ほどの希望が。おそらく遅すぎる、だが突然彼は、この世界で自分の罰を転嫁できる相手がたった一人いることに気がついた――自分と鼠の間に差し出せるたった一つの“身体”だ。彼は狂乱しながら叫んだ、何度も何度も。

「ジュリアにやれ! ジュリアにやれ! 俺じゃない! ジュリアに! 彼女に何をしてもいい、顔を裂いても、骨までしゃぶっても――俺じゃない! ジュリア! 俺じゃない!」

彼は椅子に縛られたまま、底知れぬ深淵に後ろ向きに落ちていった。床を突き抜け、壁を突き抜け、地面を突き抜け、海底を、さらに大気を、宇宙空間をくぐり抜け――ひたすら鼠から遠ざかっていった。光年の距離を隔てても、オブライエンは今も脇に立っている。まだ頬には冷たい針金の感触があった。だが包み込む闇のなか、もう一度金属音がして、今度はかごの扉が閉まったのだと知った。

第六章

チェスナット・ツリー・カフェはほとんど空いていた。窓から斜めに差す日の光が、埃まみれのテーブルを照らす。時刻は15時、孤独な午後であった。テレスクリーンからは薄っぺらい音楽が流れていた。

ウィンストンはいつもの隅の席で、空のグラスを見つめていた。時折顔を上げては、正面の壁から自分を見下ろす巨大な顔を見やった。「ビッグ・ブラザーがあなたを見ている」、そうキャプションが書かれていた。注文もしていないのに、ウェイターがやってきてグラスにヴィクトリー・ジンを満たし、もう一つのボトルから羽ペンで何滴かたらした。サッカリンとクローブで風味づけされた、このカフェ特製のジンである。

ウィンストンはテレスクリーンに耳を傾けていた。今は音楽だけだったが、いつ重要なニュース速報が平和省から流れるかわからない。アフリカ戦線の情報は極度に不穏だった。彼は一日中そのことを断続的に思い悩んでいた。ユーラシア軍(オセアニアはユーラシアと戦争中。オセアニアは常にユーラシアと戦争していた)が恐ろしい速さで南下している。正午のニュースでは具体的な場所は言及されていなかったが、コンゴ河口がすでに戦場になっている可能性が高い。ブラザヴィルやレオポルドヴィルも危険だった。地図を見るまでもなく、何を意味するかは明白だった。それは中部アフリカの喪失だけではない――ついにオセアニア本土が脅かされていた。

激しい感情が湧き上がった。それは恐怖と言うより、判然としない興奮だった。そしてすぐにまた消えていった。彼は戦争のことを考えるのをやめた。今の彼は一つのことに数分と集中できなくなっていた。グラスを手に取り一気に飲み干す。ジンはいつものように身震いとわずかな嘔吐感をもたらした。どうしようもなくまずい酒だった。クローブとサッカリンだけでも十分不快だが、この平べったい油臭を打ち消すことはできず、一番嫌なのは、そのジンの臭いが一日中自分にまとわりつき、それが必ずあの――

彼は決して“それら”の名を頭でさえ呼ばないようにしていたし、できる限り視覚化もしなかった。それらは半ば気づかれている、顔の近くにへばりつくような臭いだった。ジンが胃に上がってきた時、彼は紫色の唇でげっぷをした。釈放されてから太り、元の顔色……いや、それ以上の赤みさえ戻っていた。顔付きはずんぐりし、鼻や頬骨の皮膚はどぎつく赤く、禿げ頭まで赤みがさしていた。ウェイターがまた注文もせずチェス盤と「タイムズ」紙最新号を持って来てくれた。将棋の問題の頁が折ってある。そしてウィンストンのグラスが空なのを見て、またジンを満たした。注文の必要はなかった。彼の習慣はよく知られていた。チェス盤は常に用意され、隅のテーブルはいつも予約されていた。カフェが満員の時でさえ、彼の席に近く座る客はいなかった。飲んだ数も気にしなかった。不定期に、ウェイターは汚い紙切れ(勘定書だという)を渡しに来るが、いつも少し安めにされている印象だった。その逆でも変わらなかったろう。今の彼は金に困ることなどなかった。今も仕事はあり、それも前よりずっと楽で高給なものだった。

テレスクリーンの音楽が止まり、声が割り込む。ウィンストンは顔を上げた。前線からの速報ではなかった。単に豊穣省からの短い発表で、直近の四半期で第十次三カ年計画の靴紐ノルマが98%超過で達成された、とのこと。

彼はチェスの問題を見て駒を並べる。技巧的な終盤戦、二つのナイトが絡む。“白番、二手でメイト”。ウィンストンはビッグ・ブラザーの肖像を見上げた。白は必ず勝つ、彼はぼんやりとした神秘主義的気分で思う。常に、例外なく、そう仕組まれている。世界の始まり以来、黒が勝つチェス問題などなかった。それは善が悪に常に勝つという永遠不変の象徴ではないか? 巨大な顔は静かな力のみなぎる顔で彼を見返している。白は必ず勝つ。

声はしばし止み、別のより重々しい声調でこう告げた。「15時30分まで非常に重要なニュースに備えよ。15時30分! 最重要の情報だ。聞き逃すことなきよう。15時30分!」 またチリンチリンと音楽が流れる。

ウィンストンの心がざわめく。これが前線からの速報なのだ、と本能が告げていた。きっと悪い知らせが来る。彼は一日中、アフリカでの壊滅的敗北を断続的に想像してきた。ユーラシア軍が決して破られなかった国境を越え、アフリカの先端へ蟻の大軍のごとく侵入する光景が目に浮かぶ。なぜどこかで包囲できなかったのか? 西アフリカの海岸線の輪郭がはっきり頭に描かれる。彼は白のナイト(桂馬)を手に取り、盤上を動かす。そこが正しい場所だ。黒い大群が南へ向かう傍らで、突然どこからか神秘的に集結した部隊が彼らの背後に送り込まれ、陸と海の連絡線を断ってしまう。自分が願うことでその部隊が現実化するのだと感じていた。だが迅速な行動が必要だった。もしアフリカ全土を失えば、ケープに空軍基地・潜水艦基地を取られれば、オセアニアは二分されてしまう。それは何を意味するかわからない――敗北、崩壊、世界再分割、党の滅亡にもなりうる! 彼は深く息をつく。異様な感情の混在――いや、混在ではない、むしろ層になった感情が、どの層が底かも定かでなく、内側でせめぎ合う。

その発作は過ぎ去った。彼は白のナイトを元の位置に戻したが、しばらくはチェスに没頭できなかった。思考はまたさまよった。無意識のうちに、テーブルに積もった埃に指先でなぞった。

2+2=5

「中には入れないの」彼女は言っていた。だが彼らは君の中にも入ることができる。「ここで君に起こることは永遠だ」とオブライエンは言っていた。その通りだった。人間は、自分自身の手によって、決してもとに戻せないことがあるのだ。心の中の何かが殺され、焼き尽くされ、根絶やしにされる。

彼は彼女に会ったことがあった。声を交わしたことさえ。しかしそれで危険なことは何一つなかった。今や彼らはほとんど彼の所業に注意を払っていないと本能的に知っていた。もしお互いに望めば、二度目の面会も簡単にできたはずだ。実際には偶然の出会いだった。公園でのことだった。三月の凍てつく風の日、地面は鉄のように固く、草はすべて枯れ果て、クロッカスの花だけが芽を出して風に千切られていた。ウィンストンは凍える手と涙目で急ぎ歩いていたが、ふと十メートルも離れず彼女の姿を発見した。すぐに何となく彼女がどこか変わっているのに気づいた。ほとんど見て見ぬふりで通り過ぎそうになったが、彼は何となくあとをつけた。危険はないと知っていた。彼女は何も言わなかった。斜めに草の上を横切り、彼を撒こうとしているようでもあり、そのうち傍にいるのを諦めたようだった。やがて二人は枯れた低木の茂みに入った。それは隠れるにも風除けにもならない代物だった。二人は立ち止まった。ひどく冷えていた。風が枝を鳴らし、時折吹き飛ばす汚れたクロッカスを揺らしていた。ウィンストンは彼女の腰に手を回した。

テレスクリーンはなかったが、隠されたマイクがあるに違いない。それに加え、彼らは見られているかもしれなかった。しかし、それはどうでもよかった。何も問題ではなかった。もし望むなら地面に横たわって、あれをすることだってできた。彼はその考えを抱いて身が凍るような恐怖を感じた。彼女は彼の腕に抱かれても何の反応も見せず、振りほどこうとさえしなかった。今になって、彼女にどんな変化が起きたのかを理解した。彼女の顔色は以前よりも黄色っぽく、額からこめかみにかけて髪に隠れるように長い傷跡があった。しかし、その変化はそれではなかった。彼女の腰が太くなり、驚くほど固くなったのだ。彼はかつてロケット爆弾の爆発後、廃墟から死体を引きずり出すのを手伝い、死体の信じがたい重さだけでなく、石のようで扱いにくいほど硬いことに驚いたことを思い出した。彼女の体も同じように感じられた。おそらく彼女の皮膚の質感も、かつてとはまるで違っているのだろう、と思った。

彼はキスしようともしなかったし、二人の間で会話もなかった。芝生を横切って戻っていくと、彼女は初めて真正面から彼を見つめた。それはほんの一瞬の、軽蔑と嫌悪に満ちた視線だった。それは単なる過去から来る嫌悪なのか、それとも膨れた彼の顔や、風が吹きつけて涙ぐんでいる彼の目のせいなのか、彼にはわからなかった。二人は隣り合い、けれどもあまり近づきすぎないようにして、鉄の椅子に腰掛けた。彼女が何か話すつもりであることに彼は気づいた。彼女は不器用そうな靴を数センチ動かし、わざと小枝を踏みつけた。彼女の足も幅広くなったように見えた。

「私はあなたを裏切った」と、彼女は率直に言った。

「私も君を裏切った」と彼は言った。

彼女はもう一度、速い嫌悪のまなざしを彼に向けた。

「時々、彼らはあまりにも耐えられないもの、考えることさえできないものを使って脅すの。するとあなたは、『私にじゃなく、他の誰かに――あの人にやってくれ』と言ってしまうわ。その後、ただやめさせたくてそう言っただけだとか、実は本気じゃなかったとか、ごまかすこともできるかもしれない。でもそれは本当じゃない。それが本当に起きているときは、本当にそう思っているの。他の方法で自分を守る手段はないと思い込んで、そうやって自分を救う用意ができているの。他の人にそれが起きてほしいと望むし、その人がどんな目に遭おうが気にしない。自分のこと以外はどうでもいいのよ」

「自分のこと以外、どうでもいいんだ」と彼も繰り返した。

「それがあった後は、もう以前のように相手のことは思えなくなる」

「いや、もう同じようには思えない」と彼も言った。

もう、付け加えるべき言葉もなかった。風が二人の薄いオーバーオールを体に押しつけていた。たちまち、沈黙が気まずいものになった。しかも、寒すぎてじっとしていられなかった。彼女は地下鉄に乗らなくては、と何か言い、立ち上がった。

「きっとまた会おう」と彼は言った。

「ええ、また会いましょう」と彼女は言った。

彼は気乗りしないまま、少しだけ彼女の後ろについて歩いた。二人はもう言葉を交わさなかった。彼女は彼を振り払うつもりはないように見えたが、かといって並んで歩けないくらいの速さで進んだ。彼は彼女を地下鉄駅まで送っていこうと決めていたが、急にこの寒さの中で後をついていくことが無意味で耐え難いものに思えた。彼は、ジュリアから逃げたいというよりも、チェスナット・ツリー・カフェに戻りたいという思いに圧倒された。あの角の席、新聞とチェス盤、いつまでも注がれるジン――それが今までになく魅力的に思えた。何より、あそこは暖かいだろう。次の瞬間、まるで偶然のように、小さな人だかりに紛れて彼女と離れてしまった。彼は追いつこうとしたが、途中で歩みを緩め、方向転換して逆に歩き出した。50メートルほど離れてから振り返った。通りは混雑していなかったが、すでに彼女と判別がつかなかった。急ぎ足の中の誰か一人がジュリアかもしれない。もしかしたら、今の彼女の厚くて硬い体は、もう後ろ姿では判別できなくなっているのかもしれなかった。

「それが本当に起きているときは、本当にそう思っている」と彼女は言った。彼もそうだった。ただ言っただけでなく、心から望んだ。彼女がではなく自分が差し出されるべきだ――そうではなく、彼女が差し出されることを望んだのだ――。

その時、テレスクリーンから流れる音楽が変わった。ひび割れた、嘲るような黄色い音が混じった。そして――それは現実に起きているのではなく、記憶が音をともなってよみがえってきただけかもしれない――声が歌いはじめた。

  「栗の木の下で
   君は僕を売り、僕は君を売った――」

涙が彼の目にあふれた。通りかかったウェイターがグラスが空なのに気づき、ジンの瓶を持って戻ってきた。

彼はグラスを手に取り、その中のものの匂いを嗅いだ。飲むたびにますますひどい味になっていた。しかし、それは今や彼が泳ぐべき元素だった。それは彼の命であり、死であり、復活だった。それは毎晩彼を酩酊状態へと沈め、毎朝目覚めさせてくれるのもジンだった。まぶたが糊付けされ、口が焼けつき、背中がひどく痛む、午前十一時前に目覚めることはめったになかったが、ベッドの脇に夜のうちに置かれた瓶とカップがなければ横になったまま起き上がることさえできなかった。昼の間はぼんやりした顔で瓶のそばに座り、テレスクリーンに耳を傾けていた。午後三時から閉店まではチェスナット・ツリー・カフェの常連だった。もはや誰も彼の行動を気にかけなかった。警笛で起こされることもなかったし、テレスクリーンで注意されることもなかった。時折、週に二度くらい、真理省の埃だらけで忘れ去られたようなオフィスに行き、ほんの少し仕事をしたり、「仕事」と呼ばれることをしたりしていた。彼はニュースピーク辞典第十一版の編纂に伴って生じた小さな問題を扱う無数の委員会の一つから派生した下部委員会の下部委員会に任命されていた。彼らは「中間報告書」と呼ばれるものを作成していたが、何について報告しているのか彼は最後まで明確に知ることはなかった。それは、カンマを括弧の内側に置くべきか外側に置くべきか、というような問題だった。委員会には自分によく似た人間が他に四人いた。彼らが集まってすぐに何もすることがないと正直に認めて解散する日もあれば、まるで熱心に取り組むかのように分単位で議事録を作り、最後まで完成しない長々とした覚書を起草し、論点がどんどん複雑になって、定義をめぐる細かい言葉のやりとり、大きな脱線、口論、時には上級当局への提訴さえ持ち出される日もあった。そして突然、活気は失われ、死人のような目で互いを見つめながら円卓の周りに座り込むのだった。まるで夜明けに消えていく幽霊のようだった。

テレスクリーンはしばし静かになった。ウィンストンはもう一度顔を上げた。速報か! いや、ただ音楽が変わっただけだった。彼は瞼の裏にアフリカの地図を思い描いていた。軍の動きは図式化されていた。黒い矢印が垂直に南へ引かれ、白い矢印が水平に東へ、最初の矢印の尾を横切っていた。安心したくて、彼は大きな肖像画の冷静な顔を見上げた。もしかして、二本目の矢印はそもそも存在しないのではないか? 

彼の興味は再び失われた。ジンをもう一口飲み、白のナイトを取って試しに動かした。チェック。しかし、どうやら正しい手ではないようだった――

不意に、記憶が頭に浮かんだ。ろうそくが灯る部屋、大きな白いベッド、その床に座ってサイコロの箱を振りながら興奮して笑っている九歳か十歳の自分。母親が向かいに座り、やはり笑っていた。

それは、母親が姿を消す一ヶ月ほど前のことだろう。仲直りの瞬間だった。腹の持続的な飢えも忘れ、かつて母親に抱いていた愛情がいっとき蘇ったのだった。彼はその日をよく覚えていた。雨が窓ガラスを激しく叩き、部屋の明かりは本を読むには暗すぎた。狭くて暗い寝室の中で、二人の子供の退屈は耐え難いものになった。ウィンストンは泣き言を言い、無駄な食べ物の要求をし、部屋中の物を引っ張り出しては配置を乱し、腰板に蹴りを入れ続けて隣人に壁を叩かれさえした。下の妹は時折泣きじゃくっていた。結局、母親は「いい子にしてたらおもちゃを買ってきてあげる、きっと気に入るわ」と言い、雨の中を抜けて、まだどうにか開いていた近所の小さな商店へ出かけた。そして、スネークス・アンド・ラダーズのセットが入った紙箱を持ち帰った。彼は湿った紙箱の匂いまで覚えていた。安っぽいセットだった。盤は割れ、木の小さなサイコロは切り出しが粗く平らに置くことさえ難しかった。ウィンストンはもの言いたげな表情で、そのゲームを見つめ、興味を示さなかった。だが、母親がろうそくを灯して三人で床に座って遊びはじめると、彼はすぐ夢中になり、コマがはしごを登ってはへびに滑り落ちて出発点近くまで戻るたびに、大声で興奮し爆笑した。八回遊び、四回ずつ勝った。小さな妹はまだゲームの意味もわからず、座布団に寄りかかり、二人が笑うので面白くなって笑っていた。午後の一時、三人は昔のように一緒に幸せだった。

彼はその情景を頭から追い出した。それは虚偽の記憶だった。たまに彼は偽りの記憶に悩まされた。しかし、それが何か知っていれば問題はなかった。起きたこともあれば、起きなかったこともある。彼はチェス盤に戻り、また白のナイトを持ち上げた。ほとんど同時に、ナイトは派手な音を立てて盤上に落ちた。まるで針に刺されたように身をよじったのだ。

鋭いトランペットの音が空気を突き刺した。速報だ! 速報の前には必ずトランペットが鳴る、それは勝利の報せだ。カフェ全体に電気のドリルのような衝撃が走った。ウェイターたちまで耳をそばだてた。

トランペットが解き放った巨大な轟音。すでにテレスクリーンから高揚した声が早口でしゃべっていたが、それが始まるそばから、外からの歓声でほとんどかき消された。ニュースは魔法のように街じゅうに広まっていた。ウィンストンには、テレスクリーンから漏れてくる内容が、すべて自分の予想どおりだったとわかるだけは聞き取れた。巨大な海上艦隊が秘密裏に集合し、敵の後方を急襲した、黒い矢印の尾を通り抜ける白い矢印。歓喜に満ちた断片的な文句が喧騒の中に押し入ってくる。「巨大な戦略的機動――完璧な連携――敵軍の壊滅――50万人の捕虜――完全な士気崩壊――アフリカ全土を制圧――戦争終結も間近――勝利――人類史上最大の勝利――勝利、勝利、勝利!」

ウィンストンの足はテーブルの下で痙攣的に動いた。彼は席を立っていなかったが、心の中では走っていた、外の群衆と一緒に全力で走り、歓声をあげ続けていた。再びビッグ・ブラザーの肖像画を見上げた。世界をまたぐ巨人! アジアの大群が虚しく打ち砕かれる岩壁! 10分前――そう、たった10分前までは、彼の心にもまだ疑念があった。前線のニュースが勝利か敗北か半信半疑だった。ああ、滅んだのはユーラシア兵士だけではなかった! 初めて真の変化が訪れた! 真理省の最初の日から多くが変わったが、最後の、決定的な、癒しとなる変化は今まで訪れなかったのだ。

テレスクリーンからは捕虜や戦利品、戦闘の話が引き続き流れていたが、外の喧噪は少し落ち着いた。ウェイターたちは仕事に戻り始めた。一人が彼のテーブルにジンを注ぎに来た。ウィンストンは恍惚とした夢の中で、グラスが満たされるのに注意を払わなかった。彼はもう走ってもいなければ歓声もあげていなかった。彼は真理省に戻っていた。すべて許され、魂は雪のように白く、公開尋問で自白をし、すべての人を巻き込んだ。タイル張りの白い廊下を、日なたの中を歩くような気持ちで、背後には武装警備兵。長らく待ち望んだ弾丸が彼の脳に入ってくる――。

彼は巨大な顔を見上げた。40年かかって、あの暗い口ひげの下にどんな微笑みが隠れているかをようやく知った。ああ、残酷で無意味な誤解! ああ、愛情深い胸から自ら離れた執念深い流刑! ジンの匂いがする涙が鼻筋を二筋伝った。しかし、すべてうまくいっていた。すべてうまくいっていた。戦いは終わった。彼は自分自身に勝利した。彼はビッグ・ブラザーを愛していた。

〈終わり〉

付録

ニュースピークの原理

ニュースピークはオセアニアの公式言語であり、イングソック(英語社会主義)のイデオロギー的必要性を満たすために考案された。 1984年の時点では、まだニュースピークのみを使い、話したり書いたりする者はいなかった。「ザ・タイムズ」の主要論説記事はニュースピークで記されていたが、それは専門家にしかできない離れ業だった。ニュースピークがオールドスピーク(現代英語、つまり我々が呼ぶ標準英語)を完全に置き換えるのは、2050年ごろになると見込まれていた。その間にも、着実に浸透し、党員たちは日常会話でニュースピーク言葉と構文をますます多用する傾向にあった。1984年時点で使われていたニュースピーク(第九版・第十版のニュースピーク辞典に反映)は暫定的なもので、多くの余分な語や古めかしい語形を含み、今後はそれらも排除される予定だった。ここで扱うのは辞典第十一版に収められた完成形、完全なニュースピークである。

ニュースピークの目的は、イングソック信奉者にふさわしい世界観と精神習慣の表現手段を提供するだけでなく、他のすべての思考様式を不可能にすることだった。ニュースピークが一度採用され、オールドスピークが忘れ去られれば、異端思想――すなわちイングソックの原理から逸脱する思想――は、少なくとも言葉に依存する限り、文字通り「考えることができなくなる」ように意図された。その語彙は、党員が表現すべきあらゆる意味に精確かつ微妙に応じ、他の意味や間接的にそれらに到達する可能性を一切除外するよう構成されていた。これは新語の創出だけでなく、望ましくない語の排除、残された語から異端的な意味やできる限り副次的な意味までも剥ぎ取ることで行われた。たとえば、FREEという語はニュースピークにも存在していたが、「この犬はノミからfree(自由だ)」や「この畑は雑草からfree(免れている)」などの用法のみだった。従来の「政治的自由」や「知的自由」の意味では使えなかった。政治的、知的自由という概念自体がすでに存在しなくなり、そのため必然的に「名前」もなかったからだ。異端的語の明白な抑圧とは別に、語彙縮小はそれ自体が目標とされ、不要な語は一切残されなかった。ニュースピークは思考の幅を「拡張する」のではなく「縮小する」よう設計されており、この目的は語彙選択肢を最小限に切り詰めることで間接的に助長された。

ニュースピークは現在我々の知る英語を基盤としていたが、新しく作られた語を含まないニュースピーク文でも、現代の英語話者にはわずかしか理解できなかっただろう。ニュースピークの語はA・B・Cという三種に分けられ、それぞれA語彙、B語彙(複合語としても知られる)、C語彙と呼ばれた。それぞれの語彙について個別に説明するのが簡単だが、文法上の特徴はA語彙の項目で扱う。なぜなら、その法則が三種すべてに当てはまるからである。

A語彙

A語彙は日常生活に必要な語――食べる、飲む、働く、着る、乗り物に乗る、庭いじり、料理など――から成っていた。HIT、RUN、DOG、TREE、SUGAR、HOUSE、FIELDのような、今我々が持っている語がほとんどだったが、現代英語と比べて語数はきわめて少なく、意味もはるかに厳格に定義されていた。曖昧さも意味のニュアンスも、可能なかぎり排除されていた。ニュースピークA語彙の語は、単一の分かりやすい概念を表現するスタッカート的な音にすぎないものだった。したがって文学、政治、哲学などの議論には、A語彙は使えなかった。単純で、目的志向の思考、たいてい具体的な物体や行動のみを表現するためのものだった。

ニュースピーク文法の最大の特徴は二つある。ひとつは、語の品詞間のほとんど完全な可換性である。どんな語も(原則としてIFやWHENのような抽象語すらも)、動詞・名詞・形容詞・副詞として使えた。動詞型と名詞型が同一語根である場合、形態の変化はなかった。THOUGHT(思考)はニュースピークには存在せず、その代わりTHINKが名詞・動詞両方で使えた。語源原則はなかった。ある場合は名詞が残され、ある場合は動詞が残った。類縁の名詞と動詞ですが語源的関連のない場合でも、どちらかはしばしば廃止された。CUT(切る)はなく、その語感はKNIFEという名詞動詞で十分表された。形容詞は語に-FULを付けて作られ、副詞は-WISEで作られた。たとえばSPEEDFULは「速い」、SPEEDWISEは「素早く」という意味である。現代のGOOD、STRONG、BIG、BLACK、SOFTのような形容詞がいくつか残されたが、その総数はごくわずかだった。というのも、どんな形容詞的意味も通常、名詞動詞+FULで表せたからである。現存の副詞は-WISEで終わるごく少数を除いて、すべて廃止された。WELL(じょうずに、よく)はGOODWISEと置換された。

また、どの語も――原則としてあらゆる語に――接頭辞UN-を付けて否定でき、PLUS-で強調し、さらにDOUBLEPLUS-を付ければ最上級の強調ができた。たとえば、UNCOLD(あたたかい)、PLUSCOLD(とても寒い)、DOUBLEPLUSCOLD(この上なく寒い)。さらに、英語同様、PRE-, POST-, UP-, DOWN-などの接頭辞で意味を修飾できた。こうして語彙を大幅に削減できた。たとえばGOODがあればBADはいらない。UNGOODで十分、むしろ的確である。対義語ペアの場合は、どちらか一方を残すだけでよい。DARK(暗い)をUNLIGHT、あるいはLIGHTをUNDARKとするだけでいい。

もうひとつの文法上の特色は、規則性である。以下のわずかな例外を除き、活用語尾はすべて同じルールに従った。すべての動詞の過去形および過去分詞は-EDで終わった。STEAL(盗む)の過去形はSTEALED、THINK(考える)の過去形はTHINKEDとなり、SWAM、GAVE、BROUGHT、SPOKE、TAKENなどの不規則変化はすべて廃止された。複数形はすべて-Sまたは-ESで作った。MAN, OX, LIFEの複数はMANS, OXES, LIFES。比較は常に-ER, -EST(GOOD, GOODER, GOODEST)とし、irregular setやMORE, MOSTの型は廃止された。

不規則な活用を許された品詞は、代名詞、関係詞、指示形容詞、助動詞だけだった。これらは伝統的な用法に従ったが、WHOMは不要として廃止、SHALL, SHOULDはWILL, WOULDでカバーされた。その他、発音の容易さのためにarchaic(古風な)形を保つ、あるいは補助字母を挿入する不規則もあったが、これは主にB語彙で顕著だった。なぜ発音のしやすさが重視されたかは後述。

B語彙

B語彙は政治目的に合わせて意図的に作られた語、つまりすべてが政治的含意をもち、使用者の精神姿勢まで規定することを狙っていた語で構成される。イングソックの原理を完全に理解していなければ正確には使えなかった。場合によってはオールドスピークやA語彙で言い換えが可能だが、その場合、長い釈義が必要となり、意味合いも失われた。B語は語数を最小限に抑えつつも、意味の幅・正確さ・力強さにおいて、旧来の言葉を凌ぐ「口頭の略記号」でもあった。

B語彙はすべて複合語だった。またA語彙にもSPEAKWRITEのような複合語はあったが、それらは単なる略記であり、イデオロギー色はなかった。B語は二つ以上の語または語の一部を組み合わせ、発音しやすい形に融合して作られた。結果生まれた語は常に名詞動詞であり、普通の規則にしたがって活用した。例としてGOODTHINK(正統、または正統的に考える)があり、過去形・過去分詞はGOODTHINKED、現在分詞はGOODTHINKING、形容詞はGOODTHINKFUL、副詞はGOODTHINKWISE、動名詞的名詞はGOODTHINKERとなった。

B語は語源計画に基づかず、一部は語順が逆だったり、発音しやすさのため語が分断されたりした。CRIMETHINK(思想犯罪)ではTHINKが二番目だが、THINKPOL(思想警察)ではTHINKが先頭になり、POLICEは一部が省略されている。発音上の問題からB語彙はA語彙より不規則形が普通だった。たとえばMINITRUE, MINIPAX, MINILUVの形容詞がそれぞれMINITRUTHFUL, MINIPEACEFUL, MINILOVELYとなったのは、-TRUEFUL, -PAXFUL, -LOVEFULが発音しにくかったためだ。しかし原則として、B語彙もすべて同様に活用できた。

B語には、言語全体を習得していなければ理解困難な深い意味合いを持つものも多かった。たとえば「OLDTHINKERS UNBELLYFEEL INGSOC」(「古い考えの持ち主はイングソックの真意/本質を腹で感じることができない」)のような新聞の論説文をオールドスピークに直訳すると「革命前に形成された考えしか持たぬ者には英語社会主義の原理の感情的把握は不可能である」になるが、これでも不十分である。このニュースピーク文の全意義をつかむためには、まずINGSOCの意味を熟知せねばならず、さらにBELLYFEEL(直感的本能的受容)の含意や、OLDTHINK(悪・堕落と不可分)のニュアンスも完全には訳し切れない。しかし、これらの特殊語彙(例:OLDTHINK)は「意味を表す」以上に「意味そのものを破壊」する機能を持っていた。このような包括語は、ごくわずかだったが、その一語にまとめられる幅広い意味を持つ語群は、B語の誕生とともに廃棄・忘却となった。ニュースピーク辞典編集部の最大の難題は、新たな単語を作ることではなく、その語が「どんな言葉の範囲を無効化またはキャンセルしているか」を確定することだった。

FREEのように、かつて異端的意味を持っていた語も、便利さのため意味を狭めて残されることがあった。しかし無数の語、HONOUR, JUSTICE, MORALITY, INTERNATIONALISM, DEMOCRACY, SCIENCE, RELIGIONなどは単に「消滅」し、それらは一つの包括語で覆われ廃絶された。たとえば「自由」や「平等」に関する語群全体はCRIMETHINK(思想犯罪)に、「客観性」「合理主義」関係はOLDTHINKで網羅・糾弾された。より正確な定義は危険だった。党員に求められたのは、まるで異邦人を「偽りの神」とだけ知る古代ヘブライ人のようなアイロニーな単純さである。彼らはバアルやオシリスやモロクやアシュタロスの名も実像も知らないが、彼我の差異を知るほど正統的である。党員は正しい行為基準を知り、逸脱の種類は漠然とだが理解していた。性的生活もSEXCRIME(性的犯罪)とGOODSEX(純正な性)の二語が統制した。SEXCRIMEは不品行・不倫・同性愛など全てをカバーし、正常な快楽的性交すら含まれ、全て死刑になりうる犯罪だった。C語彙(科学・技術用語)ではより専門的な性倒錯名が必要も、一般市民には不要だった。GOODSEXすなわち、夫婦が女の快楽抜きに子づくり目的だけで性交する場合のみが純正で、それ以外は全てSEXCRIME。ニュースピークでは異端的思想を短いひと言で認識しても、さらに具体化できる必要語が存在しない。

B語彙の語はイデオロギー的中立が皆無だった。多くは婉曲表現でもあった。例:JOYCAMP(強制労働収容所)、MINIPAX(平和省=戦争省)は文字通りとはほとんど逆の意味だった。PROLEFEED(プロール向けの低俗娯楽や嘘ニュース)のように、社会の実体をあけすけに示す語もあった。党に適用すれば肯定的、敵に適用すれば否定的に使われる両義語も多かったが、何より組織、団体、教義、国名、公共施設などの固有名詞は必ずB語彙で縮約された。たとえば真理省の記録課(ウィンストン・スミスの職場)はRECDEP、フィクション課はFICDEP、テレビ番組課はTELEDEP、すべて発音しやすい最短複合語になるよう設計されていた。これは単なる省力化ではない。20世紀初頭より、この種の略語は政治言語の顕著な特徴となり、特に全体主義国家・組織ほど短縮語への傾向が顕著だった。NAZI, GESTAPO, COMINTERN, INPRECORR, AGITPROPなどである。ニュースピークではこれを明確な意図をもって推奨した。名称を縮めることで語に付随する連想がカットされ、意味範囲が狭まり、コントロールしやすくなることがわかったのだ。COMMUNIST INTERNATIONALといえば人類兄弟愛や赤旗、バリケード、パリ・コミューンが思い浮かぶが、COMINTERNといえば指すものは限られた団体・教義となり、ほぼ椅子や机並みに識別しやすくなる。MINITRUEもMINISTRY OF TRUTHより付随する連想の幅や深さが制御可能だ。こうした理由でニュースピークでは、ことさら発音容易性が追求された。

ニュースピークで発音のしやすさは意味の正確さを除いて最優先された。文法の規則性すら犠牲にされた。政治目的とりわけ重要だったのは、短く力強い語であり、自動機関銃のように意識せず高速連発できる語だった。ほとんどのB語彙――GOODTHINK, MINIPAX, PROLEFEED, SEXCRIME, JOYCAMP, INGSOC, BELLYFEEL, THINKPOLなど――は2~3音節で、第一音節と最後の音節にほぼ均等にアクセントが置かれた。このため話し言葉がスタッカートで単調なものになるが、それこそが狙いであった。党員が政治や倫理判断を行う際、熟考せず機械的意見噴射できるよう訓練されていて、ニュースピークはそのため「ほぼ間違いのない道具」だった。その語感もイングソックの精神にふさわしい粗雑さと固有の醜悪さを兼ね備えていた。

語の選択肢が極端に少なかった点も、こうした傾向を強化した。ニュースピーク語彙は我々の基準で非常に小さく、その縮小法は年々改良された。事実、ニュースピークは語彙が年々拡大する他言語と違い、年々縮小した。そのたびに選択の余地が減り、それだけ考える誘惑が減った。最終的には音声発話が咽喉から自動的に流れるだけになり、上位大脳は動かさずに済むのが理想だった。この狙いは、DUCKSPEAK(アヒルのようにガーガー鳴く、政治的には内容空疎な公式語連呼)の語にも表れている。DUCKSPEAKは正統見解の場合には最上の賛辞で、「ザ・タイムズ」が党の雄弁家をDOUBLEPLUSGOOD DUCKSPEAKERと呼べば、それは暖かく高い評価なのだった。

C語彙

C語彙は他に補助手段として用いられた科学・技術専門語で、現代の専門語に似ているものもあったが意味の曖昧さは除去され、定義が厳格だった。他の語群と同一の文法規則に従う。C語彙の語は日常語や政治語ではほとんど流通しなかった。科学者や技術者は自分の専門内の語だけ知っていれば十分であり、他分野の語には疎かった。共通語もわずかだった。「科学」を心の習慣や思考方法として表す語はなく、その役割もINGSOCで十分カバーされていた。

こうした説明から、ニュースピークでは異端的意見を表すこと自体がほぼ不可能だったことがわかる。もちろんごく原始的な異端(冒涜)は可能であった。たとえば「ビッグ・ブラザーはUNGOODだ」という文も可能だった。しかし党員の耳には愚にもつかぬナンセンスと響くだけで、その主張を理由付けして続けることは不可能である。なぜなら、必要な語が存在しないからである。イングソックに敵対的な思想も、ぼんやりとした非言語的形でしか想像できず、ごく大まかな包括語で括られるだけだった。異端的目的でニュースピークを使うには、正規の形を外れてオールドスピークへの逆翻訳を使うしかなかった。例:ALL MANS ARE EQUAL(すべての人間は平等)という文はニュースピークでも述語文として可能だが、それはALL MEN ARE REDHAIRED(すべての人間は赤毛)というのと同じ意味で成り立っているにすぎず、「政治的平等」という意味が完全に消去されている。1984年、オールドスピークが普通のコミュニケーションの手段であった時代は、ニュースピークの語を使いながら元の意味を思い出してしまう危険性が理論上は残っていたが、DOUBLETHINKに習熟していれば大抵回避できた。だが数世代もすれば、そうした危険すら消えるだろう。ニュースピークのみで育つ者は、EQUALがかつて「政治的平等」も意味したとは思いもせず、FREEも「知的自由」を表したとは知らなくなる。たとえばチェスを知らぬ者がクイーンやルークに二義的意味があることを知らぬのと同じだ。名前がなく、思い浮かべることもできない犯罪や誤りが無数に生じることは明白だった。そして時とともにニュースピークの特徴――語数の更なる減少、意味の厳格化、誤用の余地の抑制――はより顕著となっていく。

オールドスピークが完全に葬られれば、過去との最後の絆も断たれる。歴史はすでに書き換えられていたが、過去の文学作品の断片は、部分的な検閲を経てなお散在していた。オールドスピークの知識が残っている限り、それらは読解可能だった。しかし将来、もし断片が生き残っても、解読も翻訳も不可能になるだろう。ニュースピークでは、科学技術やごく単純な日常行為の記述、あるいはすでに正統的(GOODTHINKFULというべきもの)な文意でなければ、オールドスピーク文の翻訳は事実上不可能だった。実務的には1960年以前に書かれた本は全面翻訳の対象になりえなかった。革命前文学作品は「イデオロギー的翻訳」――すなわち意味内容ごと改変――の対象となった。たとえばアメリカ独立宣言の有名な一節:

我々はこれらの真理が自明であると考える。すべての人間は平等に造られており、創造主からある不可侵権を与えられている。その中に生命、自由、幸福の追求がある。これらの権利を守るために、政府は人民の同意からその力を得て設立される。いかなる政府もこの目的を破壊する場合、人民にはそれを変更あるいは廃止し、新政府を置く権利がある……

この内容を原意を損なわずニュースピークに訳すのは全く不可能だった。最も近い訳は、この部分を丸ごとCRIMETHINK一語で呑み込むことくらいである。完全なニュースピーク訳とは、すなわちジェファーソンの言葉を絶対君主制ヨイショ文に組み替えることであった。

過去の多くの文学は実際、すでに変換作業が進められていた。権威維持の観点からいくつかの歴史的人物の記憶は残しても、その業績はイングソックの思想と矛盾しない形で再編する必要があった。シェイクスピア、ミルトン、スウィフト、バイロン、ディケンズらの作品も、翻訳の途上であり、この作業が完了したあかつきには、それらの原書、および現存するその他すべての古典文学は廃棄される運命だった。この変換作業はきわめて緩慢かつ困難で、21世紀初頭までに完了するとは期待されていなかった。その他にも実用的な文献(技術マニュアルなど)も同様の扱いを受ける必要があった。この翻訳作業に時間が必要であったからこそ、ニュースピークの完全実施は2050年とされたのだった。

〈終わり〉
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